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番外編
彼女の、となり。
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「あ……、もうそんな時期なんだ……」
一階の集合ポストから郵便物を取っていた初音《はつね》が、一枚のはがきを見て動きを止める。省吾《しょうご》は隣にある自分のポストに入っていたチラシを備え付けのゴミ箱に捨てながら、彼女の持つはがきを横目で見た。
「なんだそれ?」
「これ? アパートの更新のお知らせ。二年ごとの更新だから」
彼女はひらひらと目の前ではがきを振ってみせ、ばたんとポストの蓋を閉めた。
日野《ひの》省吾と彼女、日向《ひなた》初音は、高校時代からの同級生だ。 社会人になってから、「アパートのお隣さん同士」になるという偶然の再会を果たし、素直になれないやら、もどかしいやら、勘違いやら、ストーカー被害やら、本編二百三十六頁に渡る紆余曲折の末に、彼氏彼女として付き合うことになった。それから早一年と半年が過ぎようとしている。
省吾は、「ふーん?」と気のない返事をしながら、初音のはがきをひったくった。
「どうしたの?」
「なぁ」
初音の問いかけには答えずに、何でもないふうを装って軽く切り出す。 これは提案だ。 この一年半、アパートの隣同士の部屋に住みながらも、二人はほとんどの時間を彼女の部屋で一緒に過ごしている。 築二十六年の木造アパートの二階建て。西日のきつい六畳のワンルームで、恋人と身を寄せ合ってシングルベッドで愛を語るのも、そろそろどうにかしたい男心――
「うん?」
艶やかな長い黒髪を揺らしながらこくりと首を傾げる初音に、本当《・・》に何でもないふうを装って切り出した。
「一緒に住むか」
「……」
まるっきり反応のない初音に内心、「こいつはまだ自分と一緒に住む気はなかったのか」と落胆しながらぎゅっと眉間に皺を寄せると、彼女は二、三回ぱちぱちっと瞬きしてぽかんと口を開けた。
「――……へ?」
初音の素っ頓狂な声に、ますます省吾の眉間の皺が深くなる。 ――『へ?』じゃねぇーよ、『へ?』じゃ!
「それって……私と?」
「俺が! おまえ以外の! だーれーと一緒に住むってンだよ!」
言葉を切りながら人差し指で初音の眉間を突くと、カァ~ッと彼女の頬が染まっていく。
「えっ!? えっ……だって、そんな、急に……」
「別に急じゃねぇーよ。前から考えてたっつーの」
「そ、そうなの?」
動揺しているのか、照れているのかわからないが、耳まで真っ赤にして初音は俯く。
長い髪がすだれのように彼女の横顔を隠すから、そっと顔を近づけて囁いてやった。
「……おまえさ、アレの時の声がうるせーんだよ。俺は人に聞かせながらする趣味はねーの」
アレの時――がナニの時なのか、初音が気が付くまであと十秒……
真っ赤になっている初音を置いて、省吾は一人で先にアパートの階段に足を掛けた。
「初音。いつまでそこに突っ立ってるつもりだ。行くぞ」
「う、うん……――って、あっ!」
アレがナニか察したらしい初音が、喉の奥で悲鳴を上げた時の顔が面白くて、振り返った省吾は思わず笑ってしまった。
◆ ◇ ◆
次の土曜日。
省吾は不貞腐れた状態で不動産屋のカウンター席に腰を下ろしていた。
腕を組み、椅子の背もたれに身体をどっしりと預けて天井を見上げる。
初音はというと、超が付くほどご機嫌だ。
(ったく……よりによって……なんでこの不動産屋なんだよッ! )
省吾が苛立っている理由は簡単だ。 目の前の男――荒川良信《あらかわよしのぶ》。
この男は二人の高校時代の同級生で、一見大人しそうな優男なのだが、同窓会で再会して以降、初音のストーカーをやらかしていた危ない男なのだ。
お人好しというか、馬鹿が付くほど正直な初音は、『私ね、前に今度引っ越しする時には、荒川くんの不動産屋に物件を探しに行くねって約束してたんだ~』なんてのたまって、省吾が止めるのも聞かずに、こうして荒川が勤めるみどり中央不動産を訪れている。
「初音ちゃん、この物件とかどうかな?」
(だーかーらー「初音ちゃん」ってなんだよ? 「初音ちゃん」って! 馴れ馴れしい! )
「2LDK。築六年のマンションの三階。沿線は海岸線なんだけど、ファミリー向けの物件が多い地区だから落ち着いてるよ」
(顔が近いんだよッ! 俺の初音から離れろ!)
長めの前髪を掻き上げる荒川の一挙一投足が癪に障る。
これ以上見ていると頭の血管が切れそうで、省吾は眉間に皺を寄せて目をつぶった。
初音は荒川が持ってきた資料を食い入るように見つめて、「わぁ~」と歓声を上げている。
「ここ広い~。ねぇ、どうかなぁ? 省吾くん」
チラッと片目を開けると、掠れたインクで間取りを描いたA4の紙が目の前に掲げられていた。
「……高い」
ボソッと一言呟けば初音は残念そうに眉を下げて、物件紹介の紙を荒川に返す。
「荒川くん、お家賃が七万円までのところでないかな?」
「管理費、共益費込み?」
チラッと振り向いてきた初音に視線で頷けば、きちんと伝わる。
「込み込みで」
(ちょっと前までは細かいことであーだこーだ言ってたけど、今じゃ嫁レベル…… )
この一年半の間に、初音とはかなりツーカーの仲になったと言っていい。いや、高校時代からもともと仲が良かっただけに、その結びつきは余計に強くなっている。
ここまで自分をわかってくれる女となると、手放したくなくない。
だからこそ、荒川なんぞにニコニコと愛嬌を振りまいている彼女が小憎らしい。
「うーん。初音ちゃんの条件だとねー……」
パラパラとバインダーをめくる荒川に、「ごめんねー」なんて言っている彼女は、かつて彼が起こした愚行を完璧に許しているのだろう。
そういうお人好しなところに惚れたと言えばそれまでなのだが、やはり腹の奥底にはヘドロのようなものが沈殿している。
しばらくしたところで、省吾はおもむろに立ち上がった。
「初音、帰るぞ」
「えっ、なんで? 今、荒川くんが探してくれてるのに」
少しだけ不満そうに唇を尖らせる初音を見下ろして、足元の籠に入れてあった彼女のハンドバッグを取り上げる。
「別に急いでないんだから、来週また来よう。それまでに荒川に物件の目星を付けてもらえばいいだろ?」
「あ、そっか。そうだね。慌てるよりそのほうがじっくりいい物件見つけられそうだね」
省吾の提案に納得したようで、彼女は荒川に向き直って拝むように手を合わせた。
「ごめんね、荒川くん。そういうことで、条件に合う物件を見繕って欲しいんだけど……」
「うん。いいよ。他の誰でもない初音ちゃんの頼みだもの。任せてよ」
「また来るね!」
「初音ちゃん、またね!」
初音に向かって一生懸命に手を振る荒川に、「本当はおまえにだけは任せたくないんだがな」と言いたいのを胸にしまい込んで、店のドアを開けて先に外に出る。
そんな省吾の後を、初音が長い髪をなびかせて追いかけてきた。
「省吾くん、待って!」
初音が腕を絡ませようとしてくるのを咄嗟に払い除けると、苛立った胸の内を抱えてさっさと駅に向かった。
◆ ◇ ◆
アパートに戻ってから、初音が作った手料理を一緒に食べて、風呂に入り、彼女の部屋でくつろぐ。初音はテレビを付けたままで、荒川からもらってきた物件案内をパラパラと眺めながら、ちゃぶ台に頬杖を付いている。
省吾はごろんと横になると、そんな彼女の太腿の上に頭を置いた。
「んー? なぁに?」
ツンツンとした省吾の髪を初音が右手で撫でてくる。その心地よさに目を細めて、彼女の腹に顔を押し付けた。ピンク色の部屋着からは、もうすっかり嗅ぎ慣れた湯上がりの彼女の匂いがする。
「……怒ったか?」
「何が?」
案内をめくる手を止めた初音が省吾の顔を覗きこんできたのだろう。頬と耳元を、彼女の長い髪がくすぐる。
「……あの時……手、払い除けた、から……」
荒川の店を出てすぐに初音の手を払い除けたことを言うと、彼女は「なんだ、そんなことか」と言いながらまた髪を撫でてきた。
「荒川くんが見てたから手を繋ぎたくなかったんでしょ?」
「……ん」
「ちゃんとわかってるよ。だから気にしてないし、怒ってもない」
ほっぺたをグニグニと押されて顔を上げると、血色の良い唇を持ち上げて笑っている初音と目が合った。
以前、手を繋ぐ繋がないで揉めたこともあったりしたのだが、(この件については、エタニティ公式サイトのアンケートに回答すると無料で読むことができる番外編を参照されたし)今の彼女はなかなか素直になれない自分のことをわかってくれている。そう思うと胸がぐっと詰まって愛しさが増した。
ぎゅっと初音の腰に縋りつくように抱きつくと、彼女が身体を屈めて耳に唇を当ててくる。
「今度はなぁに?」
「……好きだ」
耳を澄まさなくては聞こえないほどの小さな声で思いを零すと、初音がまた笑った気がした。
「私も好きだよ……――あっ!」
ぐいっとそのまま力を込めれば、初音の身体が床に転がる。その華奢な身体の上に伸し掛かると、省吾は貪るように彼女に唇を重ねた。柔らかな初音の唇は、吸い付くように絡みついてくる。零れてくる彼女の甘い吐息さえも呑み込むように、ますますキスを深くする。
「んっ……あ、はぁ……しょう、ご……んぅ、あ……」
「……初音、声」
「んんん……」
懸命に声を抑えようとする彼女の熱い性感帯に触れながら、省吾は耳元でそっと囁いた。
「壁が厚いってのも物件の条件に入れれば良かったな。なぁ、初音……?」
存分に啼かせてやりたいと思いながら、長い髪を掻き乱して彼女を腕に閉じ込める。知り尽くした滑らかな肌を吸いながら、ため息混じりの吐息を吐いた。
「初音……おまえさ……これからもずっと……俺の隣にいろよ……なぁ? わかったか?」
「――うん……、いる。いるよ、ぉ……しょうごく……ん、……あ、あぁ、っ……」
前後不覚になるほど身悶え、息も絶え絶えに喘ぐ彼女の声を聞きながら、気が付けば夜が終わりかけていた。
◆ ◇ ◆
「わぁ~素敵! 私ここがいい!!」
初音は荒川に案内された部屋のキッチンを満足そうに眺めながら、感嘆の声を上げていた。
荒川からお薦めの物件を押さえたと連絡を受けた翌土曜日、省吾と初音は彼が勤める不動産屋を訪れて、物件の内覧へと繰り出していた。
荒川が見つけてきた物件は、築五年。十二階建てオートロックマンションの二階。南向き。駅まで徒歩二十分の2LDKで、管理費、共益費込み込みの七万円ポッキリという驚くべきものだった。
省吾はベランダを開けて、そこから眺める海岸線を見ながら荒川を振り返った。
「なー、なんでこんなに安いわけ? いわくつき?」
「君は本当に失礼だな、日野くん……。僕が大家さんと直接交渉してここまで下げてもらったんだよ!」
荒川いわく、本当はもっといいお値段の物件らしい。
「ありがとう~荒川くん! 私ここに決める!」
初音が気に入ったならそれでいいかと思いながら、省吾はまたベランダに出た。 物件は条件が合った中から初音が気に入ったものを選べばいいと、初めから彼女には伝えていた。
初音と省吾の職場は別々だが、その距離はとても近い。だからどちらかが無理に譲っているわけでもないのだ。 省吾の譲れない条件なんてものは、自分の側に初音がいる――ただそれだけなのだから。
(あー磯の匂いがする…… )
周りの住宅はファミリー向け物件が多いのか、見下ろせる公園には子どもと母親の姿がちらほらと見えて微笑ましい。のどかな風景に和んでいると、後ろから荒川のヒソヒソ声が聞こえてきた。
「……ねぇ、初音ちゃん、本当に日野くんと一緒に住むの?」
「そうだけど? どうして?」
いきなり何を言い出すのかと思えば、そんなこと。 チクチクと荒川の視線が背中に突き刺さる。それを不快に感じないと言えば嘘になるが、省吾は聞こえないふりをして、そのまま二人の話に聞き耳を立てていた。
初音がこの同棲をどう思っているのかを知る、いい機会だと思ったのだ。
荒川はなおも声を潜めながら初音に話しかける。
「……日野くんとうまくいってるの? 彼、なんか初音ちゃんに冷たくない? 大丈夫なの?」
「ええ? 全然冷たくないよ? 省吾くん優しいよ」
(俺が優しいのはおまえにだけだっつーの…… )
喉まで出かかったがぐっと押し黙る。
「え、だってこの間、初音ちゃんの手を振り払ってたじゃないか」
(やっぱり見てたのかよ。このストーカー野郎が…… )
荒川は初音を見守る――なんてことを口実にして、じっと物陰から彼女を見つめる迷惑行為を繰り返していたのだが、ここに来てそれが再熱しているのかと思うとげんなりしてくる。
どんなに好条件の物件でも、元ストーカーが見つけてきたマンションに住むのはマズイだろうかと思っていると、初音がケラケラと笑い出した。 省吾の耳が彼女の声を拾う。
「あはは! あれはね、荒川くんに会ったから手を繋ぐのが恥ずかしかっただけなんだって~。あの後、家に帰っていつもにも増して甘えん坊だったんだから。省吾くんはね、ツンデレなの。二人の時なんか信じられないくらいデレデレだよ? でも外だとクールぶってんの! おかしいでしょ」
(……! )
顔から火が出るかと思った。 とても後ろを振り向けない。
荒川が絶句しているのが見なくてもわかる。
初音に惚気ている自分を想像されているかと思うと、今すぐ荒川の頭をぶん殴って記憶を飛ばしてやりたくなるくらいだ。
(何聞かせてンだよ、馬鹿初音…… )
小さくため息をついて、やっと振り返ると決まりが悪そうな顔をした荒川と目が合った。
ぴゅーっと逸らされていく彼の視線に苦笑いして初音を呼ぶ。
「初音。ここに決めるか?」
「うん! 省吾くんもいい?」
「俺は初音がいいならそれでいい」
「ね? 優しいんだから」
最後の初音の一言は荒川に向けてのもの。
「……そうみたいだね」と苦笑いする荒川も、本心から初音を心配してくれているのだ。
元ストーカーだが、根は良い奴なのだということを頭において、さっきのヒソヒソ話には目をつぶることにした。
「じゃあ、手続きは店に戻ってからということで」
「はーい!」
三人がマンションの外に出ると、荒川が車の鍵を見せてきた。
「ここで待ってて。車取ってくるから」
「うん!」
荒川が車を取りに行っている間、初音はとても上機嫌に笑っていた。よっぽどあの物件が気に入ったらしい。彼女がこんなに気に入ったのなら、間に荒川が入っているとしても、ここに決めるのもやぶさかでない。壁も厚そうだったし。
「いい部屋だったね! 荒川くんに頼んで正解だったね!」
「そうだな」
話しているとカーブミラーに荒川が運転する社用車が映る。 省吾は、ハンドバッグをぷらぷらと揺らしている初音の肩を抱き寄せると、運転中の荒川に見えるように彼女の唇にキスをした。
唇が触れ合った時間はほんの一瞬。けれどもしっかりと舌を絡めてちゅっと吸い上げる。
「しょ、省吾、くん……! な……なに!?」
驚いた初音の顔が真っ赤になっていくのを見ながら、省吾はニヤリと口角を上げてみせた。
「したかったから。いいだろ別に。おまえは俺のなんだから」
(悪ぃな、荒川。こいつはこの先もずっと俺の女なんだよ。おまえがいくら思おうと、初音の隣は俺のものだ。)
カーブミラー越しに、荒川があんぐりと大口を開けているのが面白くて、省吾は彼女の濡れた唇をこれ見よがしに拭ってやった。
<了>
一階の集合ポストから郵便物を取っていた初音《はつね》が、一枚のはがきを見て動きを止める。省吾《しょうご》は隣にある自分のポストに入っていたチラシを備え付けのゴミ箱に捨てながら、彼女の持つはがきを横目で見た。
「なんだそれ?」
「これ? アパートの更新のお知らせ。二年ごとの更新だから」
彼女はひらひらと目の前ではがきを振ってみせ、ばたんとポストの蓋を閉めた。
日野《ひの》省吾と彼女、日向《ひなた》初音は、高校時代からの同級生だ。 社会人になってから、「アパートのお隣さん同士」になるという偶然の再会を果たし、素直になれないやら、もどかしいやら、勘違いやら、ストーカー被害やら、本編二百三十六頁に渡る紆余曲折の末に、彼氏彼女として付き合うことになった。それから早一年と半年が過ぎようとしている。
省吾は、「ふーん?」と気のない返事をしながら、初音のはがきをひったくった。
「どうしたの?」
「なぁ」
初音の問いかけには答えずに、何でもないふうを装って軽く切り出す。 これは提案だ。 この一年半、アパートの隣同士の部屋に住みながらも、二人はほとんどの時間を彼女の部屋で一緒に過ごしている。 築二十六年の木造アパートの二階建て。西日のきつい六畳のワンルームで、恋人と身を寄せ合ってシングルベッドで愛を語るのも、そろそろどうにかしたい男心――
「うん?」
艶やかな長い黒髪を揺らしながらこくりと首を傾げる初音に、本当《・・》に何でもないふうを装って切り出した。
「一緒に住むか」
「……」
まるっきり反応のない初音に内心、「こいつはまだ自分と一緒に住む気はなかったのか」と落胆しながらぎゅっと眉間に皺を寄せると、彼女は二、三回ぱちぱちっと瞬きしてぽかんと口を開けた。
「――……へ?」
初音の素っ頓狂な声に、ますます省吾の眉間の皺が深くなる。 ――『へ?』じゃねぇーよ、『へ?』じゃ!
「それって……私と?」
「俺が! おまえ以外の! だーれーと一緒に住むってンだよ!」
言葉を切りながら人差し指で初音の眉間を突くと、カァ~ッと彼女の頬が染まっていく。
「えっ!? えっ……だって、そんな、急に……」
「別に急じゃねぇーよ。前から考えてたっつーの」
「そ、そうなの?」
動揺しているのか、照れているのかわからないが、耳まで真っ赤にして初音は俯く。
長い髪がすだれのように彼女の横顔を隠すから、そっと顔を近づけて囁いてやった。
「……おまえさ、アレの時の声がうるせーんだよ。俺は人に聞かせながらする趣味はねーの」
アレの時――がナニの時なのか、初音が気が付くまであと十秒……
真っ赤になっている初音を置いて、省吾は一人で先にアパートの階段に足を掛けた。
「初音。いつまでそこに突っ立ってるつもりだ。行くぞ」
「う、うん……――って、あっ!」
アレがナニか察したらしい初音が、喉の奥で悲鳴を上げた時の顔が面白くて、振り返った省吾は思わず笑ってしまった。
◆ ◇ ◆
次の土曜日。
省吾は不貞腐れた状態で不動産屋のカウンター席に腰を下ろしていた。
腕を組み、椅子の背もたれに身体をどっしりと預けて天井を見上げる。
初音はというと、超が付くほどご機嫌だ。
(ったく……よりによって……なんでこの不動産屋なんだよッ! )
省吾が苛立っている理由は簡単だ。 目の前の男――荒川良信《あらかわよしのぶ》。
この男は二人の高校時代の同級生で、一見大人しそうな優男なのだが、同窓会で再会して以降、初音のストーカーをやらかしていた危ない男なのだ。
お人好しというか、馬鹿が付くほど正直な初音は、『私ね、前に今度引っ越しする時には、荒川くんの不動産屋に物件を探しに行くねって約束してたんだ~』なんてのたまって、省吾が止めるのも聞かずに、こうして荒川が勤めるみどり中央不動産を訪れている。
「初音ちゃん、この物件とかどうかな?」
(だーかーらー「初音ちゃん」ってなんだよ? 「初音ちゃん」って! 馴れ馴れしい! )
「2LDK。築六年のマンションの三階。沿線は海岸線なんだけど、ファミリー向けの物件が多い地区だから落ち着いてるよ」
(顔が近いんだよッ! 俺の初音から離れろ!)
長めの前髪を掻き上げる荒川の一挙一投足が癪に障る。
これ以上見ていると頭の血管が切れそうで、省吾は眉間に皺を寄せて目をつぶった。
初音は荒川が持ってきた資料を食い入るように見つめて、「わぁ~」と歓声を上げている。
「ここ広い~。ねぇ、どうかなぁ? 省吾くん」
チラッと片目を開けると、掠れたインクで間取りを描いたA4の紙が目の前に掲げられていた。
「……高い」
ボソッと一言呟けば初音は残念そうに眉を下げて、物件紹介の紙を荒川に返す。
「荒川くん、お家賃が七万円までのところでないかな?」
「管理費、共益費込み?」
チラッと振り向いてきた初音に視線で頷けば、きちんと伝わる。
「込み込みで」
(ちょっと前までは細かいことであーだこーだ言ってたけど、今じゃ嫁レベル…… )
この一年半の間に、初音とはかなりツーカーの仲になったと言っていい。いや、高校時代からもともと仲が良かっただけに、その結びつきは余計に強くなっている。
ここまで自分をわかってくれる女となると、手放したくなくない。
だからこそ、荒川なんぞにニコニコと愛嬌を振りまいている彼女が小憎らしい。
「うーん。初音ちゃんの条件だとねー……」
パラパラとバインダーをめくる荒川に、「ごめんねー」なんて言っている彼女は、かつて彼が起こした愚行を完璧に許しているのだろう。
そういうお人好しなところに惚れたと言えばそれまでなのだが、やはり腹の奥底にはヘドロのようなものが沈殿している。
しばらくしたところで、省吾はおもむろに立ち上がった。
「初音、帰るぞ」
「えっ、なんで? 今、荒川くんが探してくれてるのに」
少しだけ不満そうに唇を尖らせる初音を見下ろして、足元の籠に入れてあった彼女のハンドバッグを取り上げる。
「別に急いでないんだから、来週また来よう。それまでに荒川に物件の目星を付けてもらえばいいだろ?」
「あ、そっか。そうだね。慌てるよりそのほうがじっくりいい物件見つけられそうだね」
省吾の提案に納得したようで、彼女は荒川に向き直って拝むように手を合わせた。
「ごめんね、荒川くん。そういうことで、条件に合う物件を見繕って欲しいんだけど……」
「うん。いいよ。他の誰でもない初音ちゃんの頼みだもの。任せてよ」
「また来るね!」
「初音ちゃん、またね!」
初音に向かって一生懸命に手を振る荒川に、「本当はおまえにだけは任せたくないんだがな」と言いたいのを胸にしまい込んで、店のドアを開けて先に外に出る。
そんな省吾の後を、初音が長い髪をなびかせて追いかけてきた。
「省吾くん、待って!」
初音が腕を絡ませようとしてくるのを咄嗟に払い除けると、苛立った胸の内を抱えてさっさと駅に向かった。
◆ ◇ ◆
アパートに戻ってから、初音が作った手料理を一緒に食べて、風呂に入り、彼女の部屋でくつろぐ。初音はテレビを付けたままで、荒川からもらってきた物件案内をパラパラと眺めながら、ちゃぶ台に頬杖を付いている。
省吾はごろんと横になると、そんな彼女の太腿の上に頭を置いた。
「んー? なぁに?」
ツンツンとした省吾の髪を初音が右手で撫でてくる。その心地よさに目を細めて、彼女の腹に顔を押し付けた。ピンク色の部屋着からは、もうすっかり嗅ぎ慣れた湯上がりの彼女の匂いがする。
「……怒ったか?」
「何が?」
案内をめくる手を止めた初音が省吾の顔を覗きこんできたのだろう。頬と耳元を、彼女の長い髪がくすぐる。
「……あの時……手、払い除けた、から……」
荒川の店を出てすぐに初音の手を払い除けたことを言うと、彼女は「なんだ、そんなことか」と言いながらまた髪を撫でてきた。
「荒川くんが見てたから手を繋ぎたくなかったんでしょ?」
「……ん」
「ちゃんとわかってるよ。だから気にしてないし、怒ってもない」
ほっぺたをグニグニと押されて顔を上げると、血色の良い唇を持ち上げて笑っている初音と目が合った。
以前、手を繋ぐ繋がないで揉めたこともあったりしたのだが、(この件については、エタニティ公式サイトのアンケートに回答すると無料で読むことができる番外編を参照されたし)今の彼女はなかなか素直になれない自分のことをわかってくれている。そう思うと胸がぐっと詰まって愛しさが増した。
ぎゅっと初音の腰に縋りつくように抱きつくと、彼女が身体を屈めて耳に唇を当ててくる。
「今度はなぁに?」
「……好きだ」
耳を澄まさなくては聞こえないほどの小さな声で思いを零すと、初音がまた笑った気がした。
「私も好きだよ……――あっ!」
ぐいっとそのまま力を込めれば、初音の身体が床に転がる。その華奢な身体の上に伸し掛かると、省吾は貪るように彼女に唇を重ねた。柔らかな初音の唇は、吸い付くように絡みついてくる。零れてくる彼女の甘い吐息さえも呑み込むように、ますますキスを深くする。
「んっ……あ、はぁ……しょう、ご……んぅ、あ……」
「……初音、声」
「んんん……」
懸命に声を抑えようとする彼女の熱い性感帯に触れながら、省吾は耳元でそっと囁いた。
「壁が厚いってのも物件の条件に入れれば良かったな。なぁ、初音……?」
存分に啼かせてやりたいと思いながら、長い髪を掻き乱して彼女を腕に閉じ込める。知り尽くした滑らかな肌を吸いながら、ため息混じりの吐息を吐いた。
「初音……おまえさ……これからもずっと……俺の隣にいろよ……なぁ? わかったか?」
「――うん……、いる。いるよ、ぉ……しょうごく……ん、……あ、あぁ、っ……」
前後不覚になるほど身悶え、息も絶え絶えに喘ぐ彼女の声を聞きながら、気が付けば夜が終わりかけていた。
◆ ◇ ◆
「わぁ~素敵! 私ここがいい!!」
初音は荒川に案内された部屋のキッチンを満足そうに眺めながら、感嘆の声を上げていた。
荒川からお薦めの物件を押さえたと連絡を受けた翌土曜日、省吾と初音は彼が勤める不動産屋を訪れて、物件の内覧へと繰り出していた。
荒川が見つけてきた物件は、築五年。十二階建てオートロックマンションの二階。南向き。駅まで徒歩二十分の2LDKで、管理費、共益費込み込みの七万円ポッキリという驚くべきものだった。
省吾はベランダを開けて、そこから眺める海岸線を見ながら荒川を振り返った。
「なー、なんでこんなに安いわけ? いわくつき?」
「君は本当に失礼だな、日野くん……。僕が大家さんと直接交渉してここまで下げてもらったんだよ!」
荒川いわく、本当はもっといいお値段の物件らしい。
「ありがとう~荒川くん! 私ここに決める!」
初音が気に入ったならそれでいいかと思いながら、省吾はまたベランダに出た。 物件は条件が合った中から初音が気に入ったものを選べばいいと、初めから彼女には伝えていた。
初音と省吾の職場は別々だが、その距離はとても近い。だからどちらかが無理に譲っているわけでもないのだ。 省吾の譲れない条件なんてものは、自分の側に初音がいる――ただそれだけなのだから。
(あー磯の匂いがする…… )
周りの住宅はファミリー向け物件が多いのか、見下ろせる公園には子どもと母親の姿がちらほらと見えて微笑ましい。のどかな風景に和んでいると、後ろから荒川のヒソヒソ声が聞こえてきた。
「……ねぇ、初音ちゃん、本当に日野くんと一緒に住むの?」
「そうだけど? どうして?」
いきなり何を言い出すのかと思えば、そんなこと。 チクチクと荒川の視線が背中に突き刺さる。それを不快に感じないと言えば嘘になるが、省吾は聞こえないふりをして、そのまま二人の話に聞き耳を立てていた。
初音がこの同棲をどう思っているのかを知る、いい機会だと思ったのだ。
荒川はなおも声を潜めながら初音に話しかける。
「……日野くんとうまくいってるの? 彼、なんか初音ちゃんに冷たくない? 大丈夫なの?」
「ええ? 全然冷たくないよ? 省吾くん優しいよ」
(俺が優しいのはおまえにだけだっつーの…… )
喉まで出かかったがぐっと押し黙る。
「え、だってこの間、初音ちゃんの手を振り払ってたじゃないか」
(やっぱり見てたのかよ。このストーカー野郎が…… )
荒川は初音を見守る――なんてことを口実にして、じっと物陰から彼女を見つめる迷惑行為を繰り返していたのだが、ここに来てそれが再熱しているのかと思うとげんなりしてくる。
どんなに好条件の物件でも、元ストーカーが見つけてきたマンションに住むのはマズイだろうかと思っていると、初音がケラケラと笑い出した。 省吾の耳が彼女の声を拾う。
「あはは! あれはね、荒川くんに会ったから手を繋ぐのが恥ずかしかっただけなんだって~。あの後、家に帰っていつもにも増して甘えん坊だったんだから。省吾くんはね、ツンデレなの。二人の時なんか信じられないくらいデレデレだよ? でも外だとクールぶってんの! おかしいでしょ」
(……! )
顔から火が出るかと思った。 とても後ろを振り向けない。
荒川が絶句しているのが見なくてもわかる。
初音に惚気ている自分を想像されているかと思うと、今すぐ荒川の頭をぶん殴って記憶を飛ばしてやりたくなるくらいだ。
(何聞かせてンだよ、馬鹿初音…… )
小さくため息をついて、やっと振り返ると決まりが悪そうな顔をした荒川と目が合った。
ぴゅーっと逸らされていく彼の視線に苦笑いして初音を呼ぶ。
「初音。ここに決めるか?」
「うん! 省吾くんもいい?」
「俺は初音がいいならそれでいい」
「ね? 優しいんだから」
最後の初音の一言は荒川に向けてのもの。
「……そうみたいだね」と苦笑いする荒川も、本心から初音を心配してくれているのだ。
元ストーカーだが、根は良い奴なのだということを頭において、さっきのヒソヒソ話には目をつぶることにした。
「じゃあ、手続きは店に戻ってからということで」
「はーい!」
三人がマンションの外に出ると、荒川が車の鍵を見せてきた。
「ここで待ってて。車取ってくるから」
「うん!」
荒川が車を取りに行っている間、初音はとても上機嫌に笑っていた。よっぽどあの物件が気に入ったらしい。彼女がこんなに気に入ったのなら、間に荒川が入っているとしても、ここに決めるのもやぶさかでない。壁も厚そうだったし。
「いい部屋だったね! 荒川くんに頼んで正解だったね!」
「そうだな」
話しているとカーブミラーに荒川が運転する社用車が映る。 省吾は、ハンドバッグをぷらぷらと揺らしている初音の肩を抱き寄せると、運転中の荒川に見えるように彼女の唇にキスをした。
唇が触れ合った時間はほんの一瞬。けれどもしっかりと舌を絡めてちゅっと吸い上げる。
「しょ、省吾、くん……! な……なに!?」
驚いた初音の顔が真っ赤になっていくのを見ながら、省吾はニヤリと口角を上げてみせた。
「したかったから。いいだろ別に。おまえは俺のなんだから」
(悪ぃな、荒川。こいつはこの先もずっと俺の女なんだよ。おまえがいくら思おうと、初音の隣は俺のものだ。)
カーブミラー越しに、荒川があんぐりと大口を開けているのが面白くて、省吾は彼女の濡れた唇をこれ見よがしに拭ってやった。
<了>
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