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1巻
1-2
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「……まぁ、いいや。見なかったことにしよう」
日野は適当に頷いて携帯を見る。二十時。そろそろアパートの住人たちも帰ってきているかもしれない。
日野は洗剤が入った袋を引っ掴むと、まずは隣に向かった。
ブ――――ッという間抜けなドアベルの音に、彼は少し笑った。まるで屁だ。
隣にどんな住人が住んでいるかなんて、不動産屋は教えてくれなかったから緊張していたのだが、このドアベルの音のおかげで少しほぐれた気がする。
「は~い? どちら様ですか?」
少し高めのよく通る女の声がした。
「すんません。今日、隣に引越してきた者です。ご挨拶させてくださーい」
「あ、はーい!」
ガゴンとチェーンが外れる音がして、ドアが開いた。
中から出てきたのは、Tシャツ姿の小柄な女。背中の中ほどまで垂らした黒髪を掻き上げ、あらわれた顔に、日野は呆気にとられた。
「へっ? 日向?」
「えっ!! なんで日野君がここに!?」
しばらく二人で見つめ合う。最初に口を開いたのは日野の方だった。
「何、お前、ここに住んでんの?」
五年ぶりに再会したその日にお隣さん同士になってしまうとは、なんという巡り合わせ。会社が近いのだから住む場所が近くても不思議はないのだが、とはいえ偶然にも程がある。
「うん。大学の頃からここに住んでるよ。ほら、あの高台の女子大ね。あそこに通ってて。父が単身赴任してたんだけど、高校卒業と同時に母がそっちに行っちゃってね~。私はここに残って一人暮らし。日野君は何で引越し?」
初音の説明に、なるほどと納得しながら、日野は自分の事情を説明した。
「親父が再婚すんだと! 新しい嫁さんが若いんだコレが。俺らよりちょっと上なくらい。冗談じゃねぇよ。しかも一週間前に突然言い出しやがってさ。だから下見もろくにせずに急遽引越し。お陰で今日は半休だ」
急な引越しだったため、引越し業者の都合がつかず、平日の今日の引越しとなってしまったのだ。
実家暮らしは何かと楽だ。どんなに遅くに帰ってきても、飯の支度をしないですむ。
日野は母親を数年前に亡くしたが、妹が三人もいる。
それぞれ炊事洗濯に万能な妹たちが家事をしてくれるから、ちょっと通勤に時間がかかっても実家暮らしをやめなかった。だが、家の中に見知らぬ若い女がいるとなれば話は別だ。
二十三歳独身。自分といくつかしか変わらない「母親」にパンツを洗ってもらうほど、日野は心臓に毛が生えちゃいないのだ。
「そっか~、大変だね~」
「なー、この辺、飯食うとこあんの?」
日野は共同廊下から、下を走る道路を見下ろして尋ねた。
まばらに並んだ街灯の一つが消えかかっている。辺りには何も見えない。
「この辺? この辺はご飯食べるところないよ? 北山手の駅前にファミレスのトポスがあるのが唯一かな。あそこなら朝の五時までやってるよ。駅前のスーパーは二十一時閉店。駅前にコンビニがあったでしょ? あそこね、十九時過ぎるとお弁当とか一気になくなっちゃうからね~。二十時過ぎてからだと、行くだけムダムダ!」
初音が言っている駅前のコンビニというのは、先ほど日野がカップ蕎麦と弁当を買ったコンビニのことだろう。
今日は仕方ないとしても毎日コンビニ弁当だけは避けたかったのに、そのコンビニ弁当も争奪戦。かといって毎晩ファミレスで晩飯など食べていたら、デブ一直線ではないか。
半分呆れながら、日野は大げさに眉を寄せた。
「マジかよ~。お前よくこんなところ住んでんなぁ~」
「住めば都だよ」
日野は持ってきた洗剤の存在を思い出し、彼女の前に突き出した。
「これ、洗剤。一応、よろしくってことで」
「ありがと~。助かる。ちょうど切らしてたからラッキー」
渡してから気が付いたが、食器洗い用の洗剤など、自炊をしない人間には不必要かもしれない。
どうやら初音は自炊をするらしいが、日野が自炊をするつもりがないように、今から挨拶に行こうと思っている一階の住人が自炊するとは限らない。
「なー。下の人ってどんな人?」
「日野君の部屋の下は空き部屋だよ」
「げっ、マジで?」
「マジマジ」
一気に不要になってしまったもう一つの洗剤を、なぁに腐るものでもあるまいし、いつか使うさと、日野は持って帰ることにした。
「あはは~。でも日野君がお隣か~。世間は狭いね~」
入浴後だろうか、少し眉の薄いスッピンで、屈託ない笑顔を見せる初音の頬に、小さなえくぼができる。彼女の顔を眺めながら、日野は鼻で笑った。
「お前マジで変わんねぇな。高校の時のまんま」
「私だって少しは変わったって~。あ、高校で思い出した。日野君は来週の同窓会、行く?」
聞かれて日野はちょっと考えた。
もともと行くつもりのなかった同窓会だが、初音に再会したせいか、急に懐かしさが込み上げてきた。行ってみるのもいいかもしれない。
「未定。お前は?」
「行くよー。美幸も行くって言ってたしね。あ、美幸って、清水美幸のことだよ。覚えてる?」
清水美幸という名前には覚えがある。確か初音の親友で、何かとリーダーシップを取っていた女子だ。
まだ続いている初音の話に、ふーんと適当に相槌を打ちながら、日野はあとで幹事に参加の連絡をしようと決めた。
■ 大口の偶然
ガチャッと開いた隣の玄関ドアに、初音は笑顔を向けた。
「おはよーっ、日野君」
「……うっす」
小さく左手を上げながら、鍵をかける日野はまだ眠そうだ。
今日は青空。梅雨の合間の気まぐれな日差しに目を細め、初音は自分の部屋に鍵をかけると、確認のためにガチャンとドアノブを引いた。
「白東さんも九時出勤?」
「ああ」
「なら同じ電車だね」
川沿いの直線道路に咲いたあじさいの青が、蒸し暑さの中に微かな涼を感じさせる。
並んで歩きながら、初音はチラリと隣を見上げた。
そこには眠たそうにあくびをかみ殺す日野がいる。そう言えば、高校時代から彼は朝が苦手だったっけ。
「電車、乗り換えするの?」
「ああ。県庁前で乗り換えて、港中央まで一駅。別に乗り換えなくても行けるけどな」
「近いもんね」
「お前は? 会社、県庁前だっけ?」
「そうだよー」
初音が勤める銘良堂は県庁前駅に、一方の日野が勤める白東エージェンシーは港中央駅にある。
県庁前と中央区の間は一駅で、徒歩で十分もかからないくらいに近い。
初音は憧れの青葉に会えるから、白東エージェンシーとの仕事が好きだった。彼の爽やかな佇まいを見るだけで、何か得した気分になる。言うなれば、憧れの芸能人を見たような、そんな気分だろうか。
昨日、青葉にランチを誘われたときは、もう今年の運を全部使い果たしてしまったんじゃないかと思うほどに感激した。
「そういえば、お前、昨日青葉さんとマジで飯食ったわけ? 二人で?」
初音は「青葉」の名前にドキッとした。
「中華の店に連れていってもらったよ~。お勧めなんだって。他の人も来たけど……」
思い出すだけで脱力してしまう。憧れの青葉から食事に誘われて舞い上がっていたのに、応接室に戻ってきた彼は、同僚だという初音の知らない男を連れてきたのだ。
青葉と話すキッカケになればと思って、カメラも持ち歩いていたというのに、カメラの話題などひとつも出てこなかった。もっとも、詳しい話をされたところでついていけないのだけれど。
「あーやっぱり。青葉さんがお前なんかと二人で飯食うわけねーもんな」
「なんで!?」
クワッと目を見開いて、初音は日野を見上げた。
「なんでって……青葉さん、最初に俺にも『来る?』って誘ってくれたじゃん? はじめっからお前と二人で行くつもりはなかったってことだろ」
言われてみればそうだったと、初音はガッカリして俯いた。日野が来なくても、別の人間が来れば結果は同じだ。そんな単純なことに気が付かないほど、昨日の初音は舞い上がっていた。
「何、お前青葉さんが好きなわけ?」
直球で聞かれて、初音は苦笑いした。
「……好きっていうか、憧れてるだけだよ。カッコイイもん、青葉さん。足長いし、仕事もキビキビしてるし。クールだし、しかも年上だし! 私、年上大好き! 完璧だよ~。理想だもん、青葉さんは! もうファンだね。青葉ファンだよ、私」
「青葉さんは奥さんも子供もいるけどな」
「知ってる……。でもファンだから」
憧れの芸能人がたとえ妻子持ちでもかまわないのと同じだ、と初音は思う。
「ふーん。で、飯に誰が来たって?」
「高木さんって人」
高木さんね、と頷く日野は、どうやら高木のことを知っているらしい。まぁ、同じ会社で同じ制作部らしいから当然といえば当然か。
「高木さんは良い人だぜ。ディレクターでさ。青葉さんもディレクターだけど、俺の教育係は高木さんだった」
日野は大学で情報デザインを学んで、入社二年目。先輩ディレクターである高木が、彼の入社直後の教育係だったらしい。
初音は、ふーんと相槌を打ちながら、青葉が日野の教育係だったら、彼のエピソードを聞かせてもらえたのにと、残念に思った。
「じゃあ、日野君はディレクターになるの?」
「目指してはいるけど、なれるかはわかんねー。四月頭からウチの看板デザイナーが代わってさ。谷村さんっていう人になったんだけど、俺はその人の下に配属されたんだ。『鍛えてもらえ』って。高木さん、スパルタだから」
「ああ……なんかわかるかも~。体育会系だよね、高木さんって」
初音は昨日会った高木を思い浮かべた。いかにも体育会系という雰囲気が日野と似ているのだ。
「入社した時は営業志望だったんだよなー俺。思い通りにはいかねーもんだな……」
「よくわからないけど、偉いデザイナーさんの下に配属されたってことは、将来を期待されてるってことじゃないの?」
「さぁ? 知らねーよ。上が考えてることなんざ」
そんな風に日野と話をしているうちに、駅に着いた。
日野が先に改札をくぐり、そのあとに初音が続く。
通勤ラッシュの人波に流されながら、電車へと押し込められる。港中央駅へ向かうこの時間の電車は、いつも満員だ。
初音は突然、クイッと腕を引っ張られた。日野だ。
彼は初音を扉付近に立たせて、人波から庇ってくれた。
「ありがと」
「別に」
視線を逸らし、ぶっきらぼうに言う日野に初音はクスリと笑った。
彼は青葉のように言葉で示す気遣いはないが、ふるまいに優しさが滲み出ている。目付きが悪いので、少し顔は怖いが、それは出会ったときから変わらないから慣れている。
電車の中では二人共無言だった。いつもは電車が揺れるたびに、初音は人に押しつぶされそうになるのだが、今日は日野が盾になってくれているお陰で、そんなことにもならない。
三十分ほど揺られて県庁前駅に着くと、初音はホームで日野と別れた。彼はここで電車を乗り換えて、港中央駅まで行く。
「じゃあなー。頑張れよー」
「うん。日野君もね! いってらっしゃい!」
改札に降りる階段に向かいながら初音が手を振ると、日野が一瞬目を見開いて、小さく「……いってきます」と言った。
「おはようございまーす!」
会社に出勤した初音は、元気よく社員たちに挨拶した。「おはよー」と最初に返してくれたのは経理のおばちゃんだ。
社長は珍しく朝から電話中。地肌が剥き出しの頭頂部には皮脂がにじみ、蛍光灯の明かりを照り返していて眩しい。
そして給湯室から今にも死にそうな顔で出てきたのは、初音の教育係で営業の河野だ。
「おはよう……初音ちゃん……」
「お、おはようございます、河野さん。大丈夫ですか? また胃痛ですか?」
初音は心配しながら河野に尋ね、自分のデスクにバッグを置いた。
「いつものことだから。それより昨日は悪かったね、白東さんに一人で納品に行かせちゃって」
河野は三十代で、この銘良堂唯一の営業マンだ。何やら胃が弱いらしく、よく会社で吐いている。銘良堂の未来は彼の手腕にかかっているのだから、そのプレッシャーたるや半端無いのだろう。
正直な話、銘良堂は潰れかけだ。既存の顧客だけでは限界がある。
河野が新規の顧客を獲得してこなければ、銘良堂の未来は暗い。社長以下、経理のおばちゃんに、印刷の機械を回している職人たち、そして初音も路頭に迷ってしまう。
「頑張れ河野、銘良堂の未来は君の双肩にかかっている!」と言わんばかりに、みんなが彼に期待を寄せるのは、社長が能天気で頼りないからだ。それがまた、河野の胃痛を悪化させるという悪循環……
「いえいえ。ノープロブレムです。私、白東さん大好きなんで」
初音は努めて明るく返した。河野は本気で初音を一人で行かせたことを気に病んでいる。こんな事で彼の胃痛を悪化させるわけにはいかない。
「そ、そうかい?」
「ええ! 白東さんの青葉さんがランチ奢ってくれましたし、高校の頃の同級生が白東さんに勤めてて、昨日再会しました。いい事ずくめでしたよ!」
初音がそこまで言って、ようやく彼の表情が明るくなった。
「そっか~。良かった~」
河野は人の良さそうな笑みを浮かべながら、自分のデスクに戻っていく。そんな彼を笑顔で見送って、初音は自分の椅子に座った。
人が元気がないときは励ましたくなる。
だが、もっと彼を楽にしてやる為には、もう一人営業がいたほうがいいのは明らかだ。
初音はいつか、新規の顧客を獲得する立派な営業になってやろうと心に決めていた。
「おはよう、諸君! そして初音ちゃん!」
電話を終えたらしい社長が、とても興奮した面持ちで初音の肩を叩いてきた。先ほどの電話は、よほど彼をゴキゲンにする内容だったらしい。
初音はキョトンとしながら社長を見つめた。
「社長、どうかしたんですか?」
「初音ちゃん、昨日、転んだおばあちゃんを病院に連れていったんだって?」
突然社長に指摘されて、初音は困惑した。
「は、はぁ……確かに……。あのぉ、それがどうかしましたか?」
「そのおばあちゃん! ファミレスのトポスの創業者なんだってさ! あの大手外食企業のラウンマークベンライン社の社長のおばあちゃん! その人がさ、『ありがとう』って、トポスのキャンペーンで、お子様ランチのおまけにつけるキャラクター付きボールペンの名入れを、ウチに注文してくれるんだって!」
大口獲得だよ! と言われて、初音は信じられない思いで悲鳴を上げた。
「え――――ッ!?」
何がなんだかよくわからないことが時々起きる――どうやらそれが「人生」というものらしい。
初音が病院に連れていったおばあさんは、橘静江という人で、彼女の孫は全国千六百七店舗もある大手ファミリーレストラン「トポス」を経営する、ラウンマークベンライン社の代表取締役社長だという。
橘静江は先日まで病院に入院していたのだが、孫の一人が結婚するのが決まったとかで、居ても立っても居られず、家族に内緒で一時退院してきたところだったらしい。
結婚祝いの品を買おうと街をウロウロしていたところ、水溜りで滑って転んでしまった。そこに初音が通りかかった――というわけだ。
有無を言わせず、社長と河野と一緒にラウンマークベンライン本社に連れていかれた初音は、期間限定お子様ランチのおまけに付けるキャラクター付きボールペンの名入れを大量に受注することになった。
全国千六百七店舗のファミレスに、各店舗一日十食のお子様ランチが出たと仮定して、キャンペーン期間が二ヶ月の計算だと……う~ん……目が回る。
しかも、今回のキャンペーンが終わってもコンスタントに発注してくれるらしい。細々とやってきた零細企業である銘良堂にとって、まさに青天の霹靂。
社長はニコニコ、河野はあまりの大口顧客に新たな胃痛を抱え、工場は総員でフル稼働という事態に初音は目が点になった。
「納品の紙袋にプリントしてあった社名を、橘さんは見ていたそうだよ。それでウチに電話してきてくれたんだ」
ラウンマークベンライン社からの帰り道、車の中で社長がそう言う。
自分のお人好しがこんなふうに良い方向に巡り巡ってきたのは初めてで、初音は嬉しかった。
自分がこれまでやってきたことが正しかったのだと、認められたような気がしたのだ。
「いやぁ~これで倒産は免れたな! ありがとう初音ちゃん。実は来月あたりからヤバかったんだよな、ウチ。ハハハッ」
社長の問題発言に、河野がうめき声を上げながら胃を押さえた。
「おはよーっ、日野君」
「……うっす」
翌朝、駅に向かう途中、初音は昨日の出来事を日野に話した。
「――と言うわけで、いつの間にか大口のお客さんの担当になってね。自分の実力以上の取引相手に尻込みしてるわけなの」
ラウンマークベンライン社を訪れた時、河野も同席していたから、てっきり彼が担当するものと思っていた初音だが、そうはならなかった。
彼は、ラウンマークベンライン社は初音の人柄を気に入って仕事をくれたのだから、初音が担当するのが筋だと言ってきかない。
いきなり大口の担当になってしまい、初音は河野の胃痛を少し理解できる気がした。
ものすごくプレッシャーを感じる。
大げさかもしれないが、この案件を今後につなげることができなかったら、もしかすると銘良堂は本当に倒産してしまうかもしれない。
黙って初音の話を聞いていた日野は、うーん……と少し唸ってから口を開いた。
「俺が思うに、まぁ色々偶然が重なっても、それが日向の実力なんじゃねーの?」
心なしか日野の視線が自分に注がれているのを感じて、初音の心臓はドキンと音をたてた。すっきりとした一重の凛々しい目が、慎重に言葉を探している。
「なんつーか……たぶん、婆さんが転んだとか、爺さんが転んだとか、子どもが迷子になったとか、毎日困ってる人ってのはたくさんいるさ。でも俺は気付かない。きっと気が付かねぇ人間の方が多いんじゃね? 仮に気が付いても、助けてやろうっていう人間はもっと少ないだろ。でもお前は気が付いて、更に行動も起こす。それがお前なんだろ。なんつーか、うまく言えんが、運も実力のうちだって」
今まで自分が、日野からそんなふうに見られていたなんて思いもしなかった。まるで、ずっと見てくれていたみたいに聞こえてしまう。初音は気恥ずかしくなりながらも、呟いた。
「ありがとね。日野君……」
* * *
「いってらっしゃい」
「いってきます」
それだけのやりとりを交わして、日野は乗り換えの電車に身体を滑り込ませた。
電車が走り出すと、風に髪をなびかせながらホームの階段を降りて行く初音の横顔が、一瞬だけ見える。人混みに紛れていても彼女だけは見分けがつく。
初音は特別綺麗な容姿をしているわけではないが、仕事に対するやる気に満ちた表情はイキイキしていて、すごく感じが良い。
――頑張ってんだなぁ、アイツ。
自分の周りにいる困っている人を、放ってはおけないところが彼女の美点だ。
ところが、それが原因で、彼女が「困っている人」になっていることが多かったから、他人が彼女の美点に気が付くことがあまりなかったように思う。だがようやく、初音の美点がスポットライトを浴びる日が来たのだ。
自分しか知らなかった彼女の美点が、他人の目にも触れて誇らしい気持ちが半分。やっぱり誰にも知られたくなかった気持ちが半分。
日野は二つの感情がないまぜになり、おかしな気分を味わっていた。
それでもやっぱり、高校の頃から変わらない初音がまぶしい。
人は見返りを欲しがるものだ。初音にはそれがない。人を助けても、何の良いこともなかったとやさぐれることなく、自分のできる範囲で手を差し伸べようとする……。だからそんな彼女が困っているときには、自分が助けてやれたらいいと、日野は思ったのだった。
出社した日野は、制作部のガラス扉を開けた。時刻は八時四十分。
「おはようございます」
「おはよう、日野」
次々と社員が出勤してくる中、青葉はすでに仕事を開始していた。彼の隣では高木がコーヒーを啜っている。
この二人は白東エージェンシー制作部のツートップで、彼らを中心に仕事が回っているのだが、一体何時に出社しているのか謎である。
朝一番に出社して、一日の仕事の段取りを決めているらしい。日野が自分のデスクにカバンを置いていると、先輩ディレクターの高木がコーヒーを片手に振り返った。
「どうよ、日野。一人暮らしは?」
「まだ慣れないッス。飯はコンビニでなんとか。風呂入って寝るだけになりそうッス」
日野は自分の現状を話しながら苦笑いした。
「そういうもんなんかねぇ~。俺、実家暮らしから結婚したから、飯とか作ったこともねーんだわ。青葉は一人暮らし長かったから料理うまいんだぜ。な? 青葉」
「え、青葉先輩、自炊してたんッスか?」
書類の端をホッチキスで留めていた青葉が、手を休めることなく返事をする。
「俺? まぁな。晩飯くらいなら作ってたぞ。今もたまに作る。日野も一人暮らしが長くなると分かるよ。出来合いの弁当とかインスタント類に飽きるから」
「そういうもんッスか」
青葉が料理をすると聞いて、日野は意外に思った。彼なら食事を作ってくれる女性が、結婚前からいくらでもいたのではないかと思ったのだ。
一人暮らしを始めてまだ二日の日野だが、既に晩飯を作る気もないし、余裕もない。
だが、初音が憧れているという青葉に対して、日野の中でムクムクと対抗心が湧き起こってきた。一流のディレクターを目指す以上、青葉もまた越えなくてはならない。
その時、「おはよー」っと出勤してきた人に日野はペコリと頭を下げた。今年から彼の直属の上司となった谷村だ。
「おはようございます。そういえば谷村先輩も一人暮らしッスよね?」
「俺? 一人だよ。寂しい侘しい一人暮らしだよ」
百七十センチもないであろう小柄な谷村は、童顔なのも相まって年上という気がしない。彼はカバンを机に置いて、何で? と首を傾げた。
「先輩は自炊してるんッスか?」
「自炊? してないな。だって買ったほうが安くね?」
もっともな谷村の理由に日野は唸った。確かに一人分の食事だと買ったほうが安いかもしれないが、自炊もできないようでは、青葉に負けたような気がして悔しいではないか。
――青葉先輩を越えたいよなぁ~。
「あ! お前今、俺と青葉先輩を比較しただろ!? そーゆーのわかるんだからな!」
そんなことありません、と懸命に弁解したが、谷村は信じてくれなかった。
日野は適当に頷いて携帯を見る。二十時。そろそろアパートの住人たちも帰ってきているかもしれない。
日野は洗剤が入った袋を引っ掴むと、まずは隣に向かった。
ブ――――ッという間抜けなドアベルの音に、彼は少し笑った。まるで屁だ。
隣にどんな住人が住んでいるかなんて、不動産屋は教えてくれなかったから緊張していたのだが、このドアベルの音のおかげで少しほぐれた気がする。
「は~い? どちら様ですか?」
少し高めのよく通る女の声がした。
「すんません。今日、隣に引越してきた者です。ご挨拶させてくださーい」
「あ、はーい!」
ガゴンとチェーンが外れる音がして、ドアが開いた。
中から出てきたのは、Tシャツ姿の小柄な女。背中の中ほどまで垂らした黒髪を掻き上げ、あらわれた顔に、日野は呆気にとられた。
「へっ? 日向?」
「えっ!! なんで日野君がここに!?」
しばらく二人で見つめ合う。最初に口を開いたのは日野の方だった。
「何、お前、ここに住んでんの?」
五年ぶりに再会したその日にお隣さん同士になってしまうとは、なんという巡り合わせ。会社が近いのだから住む場所が近くても不思議はないのだが、とはいえ偶然にも程がある。
「うん。大学の頃からここに住んでるよ。ほら、あの高台の女子大ね。あそこに通ってて。父が単身赴任してたんだけど、高校卒業と同時に母がそっちに行っちゃってね~。私はここに残って一人暮らし。日野君は何で引越し?」
初音の説明に、なるほどと納得しながら、日野は自分の事情を説明した。
「親父が再婚すんだと! 新しい嫁さんが若いんだコレが。俺らよりちょっと上なくらい。冗談じゃねぇよ。しかも一週間前に突然言い出しやがってさ。だから下見もろくにせずに急遽引越し。お陰で今日は半休だ」
急な引越しだったため、引越し業者の都合がつかず、平日の今日の引越しとなってしまったのだ。
実家暮らしは何かと楽だ。どんなに遅くに帰ってきても、飯の支度をしないですむ。
日野は母親を数年前に亡くしたが、妹が三人もいる。
それぞれ炊事洗濯に万能な妹たちが家事をしてくれるから、ちょっと通勤に時間がかかっても実家暮らしをやめなかった。だが、家の中に見知らぬ若い女がいるとなれば話は別だ。
二十三歳独身。自分といくつかしか変わらない「母親」にパンツを洗ってもらうほど、日野は心臓に毛が生えちゃいないのだ。
「そっか~、大変だね~」
「なー、この辺、飯食うとこあんの?」
日野は共同廊下から、下を走る道路を見下ろして尋ねた。
まばらに並んだ街灯の一つが消えかかっている。辺りには何も見えない。
「この辺? この辺はご飯食べるところないよ? 北山手の駅前にファミレスのトポスがあるのが唯一かな。あそこなら朝の五時までやってるよ。駅前のスーパーは二十一時閉店。駅前にコンビニがあったでしょ? あそこね、十九時過ぎるとお弁当とか一気になくなっちゃうからね~。二十時過ぎてからだと、行くだけムダムダ!」
初音が言っている駅前のコンビニというのは、先ほど日野がカップ蕎麦と弁当を買ったコンビニのことだろう。
今日は仕方ないとしても毎日コンビニ弁当だけは避けたかったのに、そのコンビニ弁当も争奪戦。かといって毎晩ファミレスで晩飯など食べていたら、デブ一直線ではないか。
半分呆れながら、日野は大げさに眉を寄せた。
「マジかよ~。お前よくこんなところ住んでんなぁ~」
「住めば都だよ」
日野は持ってきた洗剤の存在を思い出し、彼女の前に突き出した。
「これ、洗剤。一応、よろしくってことで」
「ありがと~。助かる。ちょうど切らしてたからラッキー」
渡してから気が付いたが、食器洗い用の洗剤など、自炊をしない人間には不必要かもしれない。
どうやら初音は自炊をするらしいが、日野が自炊をするつもりがないように、今から挨拶に行こうと思っている一階の住人が自炊するとは限らない。
「なー。下の人ってどんな人?」
「日野君の部屋の下は空き部屋だよ」
「げっ、マジで?」
「マジマジ」
一気に不要になってしまったもう一つの洗剤を、なぁに腐るものでもあるまいし、いつか使うさと、日野は持って帰ることにした。
「あはは~。でも日野君がお隣か~。世間は狭いね~」
入浴後だろうか、少し眉の薄いスッピンで、屈託ない笑顔を見せる初音の頬に、小さなえくぼができる。彼女の顔を眺めながら、日野は鼻で笑った。
「お前マジで変わんねぇな。高校の時のまんま」
「私だって少しは変わったって~。あ、高校で思い出した。日野君は来週の同窓会、行く?」
聞かれて日野はちょっと考えた。
もともと行くつもりのなかった同窓会だが、初音に再会したせいか、急に懐かしさが込み上げてきた。行ってみるのもいいかもしれない。
「未定。お前は?」
「行くよー。美幸も行くって言ってたしね。あ、美幸って、清水美幸のことだよ。覚えてる?」
清水美幸という名前には覚えがある。確か初音の親友で、何かとリーダーシップを取っていた女子だ。
まだ続いている初音の話に、ふーんと適当に相槌を打ちながら、日野はあとで幹事に参加の連絡をしようと決めた。
■ 大口の偶然
ガチャッと開いた隣の玄関ドアに、初音は笑顔を向けた。
「おはよーっ、日野君」
「……うっす」
小さく左手を上げながら、鍵をかける日野はまだ眠そうだ。
今日は青空。梅雨の合間の気まぐれな日差しに目を細め、初音は自分の部屋に鍵をかけると、確認のためにガチャンとドアノブを引いた。
「白東さんも九時出勤?」
「ああ」
「なら同じ電車だね」
川沿いの直線道路に咲いたあじさいの青が、蒸し暑さの中に微かな涼を感じさせる。
並んで歩きながら、初音はチラリと隣を見上げた。
そこには眠たそうにあくびをかみ殺す日野がいる。そう言えば、高校時代から彼は朝が苦手だったっけ。
「電車、乗り換えするの?」
「ああ。県庁前で乗り換えて、港中央まで一駅。別に乗り換えなくても行けるけどな」
「近いもんね」
「お前は? 会社、県庁前だっけ?」
「そうだよー」
初音が勤める銘良堂は県庁前駅に、一方の日野が勤める白東エージェンシーは港中央駅にある。
県庁前と中央区の間は一駅で、徒歩で十分もかからないくらいに近い。
初音は憧れの青葉に会えるから、白東エージェンシーとの仕事が好きだった。彼の爽やかな佇まいを見るだけで、何か得した気分になる。言うなれば、憧れの芸能人を見たような、そんな気分だろうか。
昨日、青葉にランチを誘われたときは、もう今年の運を全部使い果たしてしまったんじゃないかと思うほどに感激した。
「そういえば、お前、昨日青葉さんとマジで飯食ったわけ? 二人で?」
初音は「青葉」の名前にドキッとした。
「中華の店に連れていってもらったよ~。お勧めなんだって。他の人も来たけど……」
思い出すだけで脱力してしまう。憧れの青葉から食事に誘われて舞い上がっていたのに、応接室に戻ってきた彼は、同僚だという初音の知らない男を連れてきたのだ。
青葉と話すキッカケになればと思って、カメラも持ち歩いていたというのに、カメラの話題などひとつも出てこなかった。もっとも、詳しい話をされたところでついていけないのだけれど。
「あーやっぱり。青葉さんがお前なんかと二人で飯食うわけねーもんな」
「なんで!?」
クワッと目を見開いて、初音は日野を見上げた。
「なんでって……青葉さん、最初に俺にも『来る?』って誘ってくれたじゃん? はじめっからお前と二人で行くつもりはなかったってことだろ」
言われてみればそうだったと、初音はガッカリして俯いた。日野が来なくても、別の人間が来れば結果は同じだ。そんな単純なことに気が付かないほど、昨日の初音は舞い上がっていた。
「何、お前青葉さんが好きなわけ?」
直球で聞かれて、初音は苦笑いした。
「……好きっていうか、憧れてるだけだよ。カッコイイもん、青葉さん。足長いし、仕事もキビキビしてるし。クールだし、しかも年上だし! 私、年上大好き! 完璧だよ~。理想だもん、青葉さんは! もうファンだね。青葉ファンだよ、私」
「青葉さんは奥さんも子供もいるけどな」
「知ってる……。でもファンだから」
憧れの芸能人がたとえ妻子持ちでもかまわないのと同じだ、と初音は思う。
「ふーん。で、飯に誰が来たって?」
「高木さんって人」
高木さんね、と頷く日野は、どうやら高木のことを知っているらしい。まぁ、同じ会社で同じ制作部らしいから当然といえば当然か。
「高木さんは良い人だぜ。ディレクターでさ。青葉さんもディレクターだけど、俺の教育係は高木さんだった」
日野は大学で情報デザインを学んで、入社二年目。先輩ディレクターである高木が、彼の入社直後の教育係だったらしい。
初音は、ふーんと相槌を打ちながら、青葉が日野の教育係だったら、彼のエピソードを聞かせてもらえたのにと、残念に思った。
「じゃあ、日野君はディレクターになるの?」
「目指してはいるけど、なれるかはわかんねー。四月頭からウチの看板デザイナーが代わってさ。谷村さんっていう人になったんだけど、俺はその人の下に配属されたんだ。『鍛えてもらえ』って。高木さん、スパルタだから」
「ああ……なんかわかるかも~。体育会系だよね、高木さんって」
初音は昨日会った高木を思い浮かべた。いかにも体育会系という雰囲気が日野と似ているのだ。
「入社した時は営業志望だったんだよなー俺。思い通りにはいかねーもんだな……」
「よくわからないけど、偉いデザイナーさんの下に配属されたってことは、将来を期待されてるってことじゃないの?」
「さぁ? 知らねーよ。上が考えてることなんざ」
そんな風に日野と話をしているうちに、駅に着いた。
日野が先に改札をくぐり、そのあとに初音が続く。
通勤ラッシュの人波に流されながら、電車へと押し込められる。港中央駅へ向かうこの時間の電車は、いつも満員だ。
初音は突然、クイッと腕を引っ張られた。日野だ。
彼は初音を扉付近に立たせて、人波から庇ってくれた。
「ありがと」
「別に」
視線を逸らし、ぶっきらぼうに言う日野に初音はクスリと笑った。
彼は青葉のように言葉で示す気遣いはないが、ふるまいに優しさが滲み出ている。目付きが悪いので、少し顔は怖いが、それは出会ったときから変わらないから慣れている。
電車の中では二人共無言だった。いつもは電車が揺れるたびに、初音は人に押しつぶされそうになるのだが、今日は日野が盾になってくれているお陰で、そんなことにもならない。
三十分ほど揺られて県庁前駅に着くと、初音はホームで日野と別れた。彼はここで電車を乗り換えて、港中央駅まで行く。
「じゃあなー。頑張れよー」
「うん。日野君もね! いってらっしゃい!」
改札に降りる階段に向かいながら初音が手を振ると、日野が一瞬目を見開いて、小さく「……いってきます」と言った。
「おはようございまーす!」
会社に出勤した初音は、元気よく社員たちに挨拶した。「おはよー」と最初に返してくれたのは経理のおばちゃんだ。
社長は珍しく朝から電話中。地肌が剥き出しの頭頂部には皮脂がにじみ、蛍光灯の明かりを照り返していて眩しい。
そして給湯室から今にも死にそうな顔で出てきたのは、初音の教育係で営業の河野だ。
「おはよう……初音ちゃん……」
「お、おはようございます、河野さん。大丈夫ですか? また胃痛ですか?」
初音は心配しながら河野に尋ね、自分のデスクにバッグを置いた。
「いつものことだから。それより昨日は悪かったね、白東さんに一人で納品に行かせちゃって」
河野は三十代で、この銘良堂唯一の営業マンだ。何やら胃が弱いらしく、よく会社で吐いている。銘良堂の未来は彼の手腕にかかっているのだから、そのプレッシャーたるや半端無いのだろう。
正直な話、銘良堂は潰れかけだ。既存の顧客だけでは限界がある。
河野が新規の顧客を獲得してこなければ、銘良堂の未来は暗い。社長以下、経理のおばちゃんに、印刷の機械を回している職人たち、そして初音も路頭に迷ってしまう。
「頑張れ河野、銘良堂の未来は君の双肩にかかっている!」と言わんばかりに、みんなが彼に期待を寄せるのは、社長が能天気で頼りないからだ。それがまた、河野の胃痛を悪化させるという悪循環……
「いえいえ。ノープロブレムです。私、白東さん大好きなんで」
初音は努めて明るく返した。河野は本気で初音を一人で行かせたことを気に病んでいる。こんな事で彼の胃痛を悪化させるわけにはいかない。
「そ、そうかい?」
「ええ! 白東さんの青葉さんがランチ奢ってくれましたし、高校の頃の同級生が白東さんに勤めてて、昨日再会しました。いい事ずくめでしたよ!」
初音がそこまで言って、ようやく彼の表情が明るくなった。
「そっか~。良かった~」
河野は人の良さそうな笑みを浮かべながら、自分のデスクに戻っていく。そんな彼を笑顔で見送って、初音は自分の椅子に座った。
人が元気がないときは励ましたくなる。
だが、もっと彼を楽にしてやる為には、もう一人営業がいたほうがいいのは明らかだ。
初音はいつか、新規の顧客を獲得する立派な営業になってやろうと心に決めていた。
「おはよう、諸君! そして初音ちゃん!」
電話を終えたらしい社長が、とても興奮した面持ちで初音の肩を叩いてきた。先ほどの電話は、よほど彼をゴキゲンにする内容だったらしい。
初音はキョトンとしながら社長を見つめた。
「社長、どうかしたんですか?」
「初音ちゃん、昨日、転んだおばあちゃんを病院に連れていったんだって?」
突然社長に指摘されて、初音は困惑した。
「は、はぁ……確かに……。あのぉ、それがどうかしましたか?」
「そのおばあちゃん! ファミレスのトポスの創業者なんだってさ! あの大手外食企業のラウンマークベンライン社の社長のおばあちゃん! その人がさ、『ありがとう』って、トポスのキャンペーンで、お子様ランチのおまけにつけるキャラクター付きボールペンの名入れを、ウチに注文してくれるんだって!」
大口獲得だよ! と言われて、初音は信じられない思いで悲鳴を上げた。
「え――――ッ!?」
何がなんだかよくわからないことが時々起きる――どうやらそれが「人生」というものらしい。
初音が病院に連れていったおばあさんは、橘静江という人で、彼女の孫は全国千六百七店舗もある大手ファミリーレストラン「トポス」を経営する、ラウンマークベンライン社の代表取締役社長だという。
橘静江は先日まで病院に入院していたのだが、孫の一人が結婚するのが決まったとかで、居ても立っても居られず、家族に内緒で一時退院してきたところだったらしい。
結婚祝いの品を買おうと街をウロウロしていたところ、水溜りで滑って転んでしまった。そこに初音が通りかかった――というわけだ。
有無を言わせず、社長と河野と一緒にラウンマークベンライン本社に連れていかれた初音は、期間限定お子様ランチのおまけに付けるキャラクター付きボールペンの名入れを大量に受注することになった。
全国千六百七店舗のファミレスに、各店舗一日十食のお子様ランチが出たと仮定して、キャンペーン期間が二ヶ月の計算だと……う~ん……目が回る。
しかも、今回のキャンペーンが終わってもコンスタントに発注してくれるらしい。細々とやってきた零細企業である銘良堂にとって、まさに青天の霹靂。
社長はニコニコ、河野はあまりの大口顧客に新たな胃痛を抱え、工場は総員でフル稼働という事態に初音は目が点になった。
「納品の紙袋にプリントしてあった社名を、橘さんは見ていたそうだよ。それでウチに電話してきてくれたんだ」
ラウンマークベンライン社からの帰り道、車の中で社長がそう言う。
自分のお人好しがこんなふうに良い方向に巡り巡ってきたのは初めてで、初音は嬉しかった。
自分がこれまでやってきたことが正しかったのだと、認められたような気がしたのだ。
「いやぁ~これで倒産は免れたな! ありがとう初音ちゃん。実は来月あたりからヤバかったんだよな、ウチ。ハハハッ」
社長の問題発言に、河野がうめき声を上げながら胃を押さえた。
「おはよーっ、日野君」
「……うっす」
翌朝、駅に向かう途中、初音は昨日の出来事を日野に話した。
「――と言うわけで、いつの間にか大口のお客さんの担当になってね。自分の実力以上の取引相手に尻込みしてるわけなの」
ラウンマークベンライン社を訪れた時、河野も同席していたから、てっきり彼が担当するものと思っていた初音だが、そうはならなかった。
彼は、ラウンマークベンライン社は初音の人柄を気に入って仕事をくれたのだから、初音が担当するのが筋だと言ってきかない。
いきなり大口の担当になってしまい、初音は河野の胃痛を少し理解できる気がした。
ものすごくプレッシャーを感じる。
大げさかもしれないが、この案件を今後につなげることができなかったら、もしかすると銘良堂は本当に倒産してしまうかもしれない。
黙って初音の話を聞いていた日野は、うーん……と少し唸ってから口を開いた。
「俺が思うに、まぁ色々偶然が重なっても、それが日向の実力なんじゃねーの?」
心なしか日野の視線が自分に注がれているのを感じて、初音の心臓はドキンと音をたてた。すっきりとした一重の凛々しい目が、慎重に言葉を探している。
「なんつーか……たぶん、婆さんが転んだとか、爺さんが転んだとか、子どもが迷子になったとか、毎日困ってる人ってのはたくさんいるさ。でも俺は気付かない。きっと気が付かねぇ人間の方が多いんじゃね? 仮に気が付いても、助けてやろうっていう人間はもっと少ないだろ。でもお前は気が付いて、更に行動も起こす。それがお前なんだろ。なんつーか、うまく言えんが、運も実力のうちだって」
今まで自分が、日野からそんなふうに見られていたなんて思いもしなかった。まるで、ずっと見てくれていたみたいに聞こえてしまう。初音は気恥ずかしくなりながらも、呟いた。
「ありがとね。日野君……」
* * *
「いってらっしゃい」
「いってきます」
それだけのやりとりを交わして、日野は乗り換えの電車に身体を滑り込ませた。
電車が走り出すと、風に髪をなびかせながらホームの階段を降りて行く初音の横顔が、一瞬だけ見える。人混みに紛れていても彼女だけは見分けがつく。
初音は特別綺麗な容姿をしているわけではないが、仕事に対するやる気に満ちた表情はイキイキしていて、すごく感じが良い。
――頑張ってんだなぁ、アイツ。
自分の周りにいる困っている人を、放ってはおけないところが彼女の美点だ。
ところが、それが原因で、彼女が「困っている人」になっていることが多かったから、他人が彼女の美点に気が付くことがあまりなかったように思う。だがようやく、初音の美点がスポットライトを浴びる日が来たのだ。
自分しか知らなかった彼女の美点が、他人の目にも触れて誇らしい気持ちが半分。やっぱり誰にも知られたくなかった気持ちが半分。
日野は二つの感情がないまぜになり、おかしな気分を味わっていた。
それでもやっぱり、高校の頃から変わらない初音がまぶしい。
人は見返りを欲しがるものだ。初音にはそれがない。人を助けても、何の良いこともなかったとやさぐれることなく、自分のできる範囲で手を差し伸べようとする……。だからそんな彼女が困っているときには、自分が助けてやれたらいいと、日野は思ったのだった。
出社した日野は、制作部のガラス扉を開けた。時刻は八時四十分。
「おはようございます」
「おはよう、日野」
次々と社員が出勤してくる中、青葉はすでに仕事を開始していた。彼の隣では高木がコーヒーを啜っている。
この二人は白東エージェンシー制作部のツートップで、彼らを中心に仕事が回っているのだが、一体何時に出社しているのか謎である。
朝一番に出社して、一日の仕事の段取りを決めているらしい。日野が自分のデスクにカバンを置いていると、先輩ディレクターの高木がコーヒーを片手に振り返った。
「どうよ、日野。一人暮らしは?」
「まだ慣れないッス。飯はコンビニでなんとか。風呂入って寝るだけになりそうッス」
日野は自分の現状を話しながら苦笑いした。
「そういうもんなんかねぇ~。俺、実家暮らしから結婚したから、飯とか作ったこともねーんだわ。青葉は一人暮らし長かったから料理うまいんだぜ。な? 青葉」
「え、青葉先輩、自炊してたんッスか?」
書類の端をホッチキスで留めていた青葉が、手を休めることなく返事をする。
「俺? まぁな。晩飯くらいなら作ってたぞ。今もたまに作る。日野も一人暮らしが長くなると分かるよ。出来合いの弁当とかインスタント類に飽きるから」
「そういうもんッスか」
青葉が料理をすると聞いて、日野は意外に思った。彼なら食事を作ってくれる女性が、結婚前からいくらでもいたのではないかと思ったのだ。
一人暮らしを始めてまだ二日の日野だが、既に晩飯を作る気もないし、余裕もない。
だが、初音が憧れているという青葉に対して、日野の中でムクムクと対抗心が湧き起こってきた。一流のディレクターを目指す以上、青葉もまた越えなくてはならない。
その時、「おはよー」っと出勤してきた人に日野はペコリと頭を下げた。今年から彼の直属の上司となった谷村だ。
「おはようございます。そういえば谷村先輩も一人暮らしッスよね?」
「俺? 一人だよ。寂しい侘しい一人暮らしだよ」
百七十センチもないであろう小柄な谷村は、童顔なのも相まって年上という気がしない。彼はカバンを机に置いて、何で? と首を傾げた。
「先輩は自炊してるんッスか?」
「自炊? してないな。だって買ったほうが安くね?」
もっともな谷村の理由に日野は唸った。確かに一人分の食事だと買ったほうが安いかもしれないが、自炊もできないようでは、青葉に負けたような気がして悔しいではないか。
――青葉先輩を越えたいよなぁ~。
「あ! お前今、俺と青葉先輩を比較しただろ!? そーゆーのわかるんだからな!」
そんなことありません、と懸命に弁解したが、谷村は信じてくれなかった。
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