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1巻
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しおりを挟む「なぁ、この店見ていいか?」
そう言った彼が指差しているのは、ビジネスカジュアルスタイルを展開しているスーツ専門店だ。
老舗スーツメーカーが若者向けに展開していて、品質が高いと評判の店である。
佐藤のスーツはオーダーメイドのようだが、小物はこういう店で揃えているのかもしれない。
「いいわよ」
二人で中に入ると、「いらっしゃいませ」と若い店員の声で出迎えられる。新装オープンのセール中らしく、人が多い。リクルートスーツコーナーは、特に賑わっていた。
「なにが見たいの? ネクタイ?」
店内を眺めながら聞いてみる。佐藤は「そうだなぁ」と顎に手を当てていた。
「特に困っちゃいないんだよなぁ」
「じゃあ、なにしに来たのよ」
思わず突っ込む。だが彼は、商品を眺めながらしれっと言うのだ。
「欲しいと思えるものを探しに」
「なによそれ……まったく……」
だが、ウインドウショッピングをしているうちに欲しくなるということもある。
ぶらりと店内を回っていると、レディースのカジュアルニットが百合子の目に入った。
(あら、ここはレディースも取り扱っているのね。ふぅん? いいじゃない、これ)
オンでもオフでもマルチに使えて、これからの季節にうってつけだ。
トレンドを押さえたケーブル編みの白いセーターはシンプルだが、一枚持っていると便利だろう。
手に取ってみると、肌触りもいい。軽くて滑らかで、ちくちくしないし、引っ掛かりも感じない。遠目ではわからない程度に、肩の部分にレースのデザインが施されているのもいい。
「それ気に入ったのか?」
急に佐藤に声をかけられ、我に返る。彼のものを見に来たのに、ちゃっかり自分の服を見ていたことにばつが悪くなり、百合子は軽く肩を竦めた。
「ん~まぁ、ちょっといいかなぁと思っただけ」
「ふーん? 着てみればいいのに。似合いそうだぞ」
まさか佐藤にそんなことを言われるとは思っていなくて、キョトンと目を瞬かせる。すると今度は、彼のほうが首を傾げた。
「なんか変なこと言ったか?」
「い、いや、そうじゃないけど……」
「ん?」
佐藤は百合子が見ていた白いセーターをハンガーラックから取って、百合子の肩に押し付けてきた。
「ほら、そこに鏡あるから見てみろよ。絶対似合うから」
言われるがまま、鏡の前でセーターを胸に当てる。サイズもぴったりだ。
「ほらな。やっぱり似合う」
「そ、そう?」
改めて鏡を覗くと、自分でもなんだか似合っている気がする。
(どうしよう。買っちゃおうかなぁ……)
鏡の前で何度も胸にセーターを当てては外しを繰り返し、眉を寄せて悩む。
衝動的すぎるような気もするが、今買っておかないと売り切れてしまうような不安も感じる。
悩みに悩んでいると、鏡越しに佐藤の顔が見えた。
彼は、鏡を覗く百合子の後ろ姿を目を細めて眺めている。まるで、ほほえましいと言わんばかりのそれは、百合子が知っている彼の表情のどれとも違う。
もっと柔らかくて優しいもの。しかしその裏に強くて熱いなにかを感じる。
そんな視線が自分に向けられていることに気付いた途端、百合子はセーターをもとのハンガーラックに戻していた。
「やっぱりやめとく」
「そうか? 結構似合ってたんだけどな。気に入らなかったのか?」
そうじゃない。セーターは気に入った。むしろ原因は佐藤だ。
(……な、なんであんな目で私を見るのよ……)
落ち着かない。なんだか身体の内側を羽毛で触れられたかのようにこそばゆい。あの熱っぽさはなんだ?
不快ではなく、ただただくすぐったくて落ち着かない。自分でもわからないままに、なんだかこの場から逃げ出したくなっていた。
あんな目で見つめないでほしい……あの視線はまるで、そう――
「じゃあ、違う色とか試してみるか? この色も似合いそうだぞ」
佐藤はそんなことを言いながら、さっきのとは色違いのセーターを手に取って勧めてくる。それを受け取らずに、百合子はフイッとそっぽを向いた。
佐藤の目を正面から見られない。
「わ、私のはいいわよ。佐藤は自分のを見なさいよ。あんたが見たいって言ったんだから」
ぶっきらぼうにそう言ってやると、佐藤はぐるりと店内を見渡して百合子に向き直った。
「よし。じゃあ、次の店に行こう」
「え?」
一瞬反応が遅れた。そんな百合子の手を佐藤がぎゅっと掴んでくる。
「ほら、行くぞ!」
「え? えぇ? さ、佐藤! 佐藤ちょっと!」
手を引かれるままに、彼のあとを追う。そのときに、繋がれた手が目に入って、百合子の顔にぶわっと熱が上がった。
(~~~~っ!)
どうして自分が佐藤と手を繋がなくてはいけないのか。そんな理由なんてないはずなのに、彼はこの手を離してくれない。離してくれないから、指先からどんどん熱くなってしまう。
「ちょ、ちょっと佐藤!」
耐えられなくなった百合子の声が大きくなる。
しかし彼は、平然と百合子の手を掴んだまま――
「ここ、前からちょっと気になってたんだよなー。付き合えよ」
そう言って彼が入ったのは、時計専門店だ。腕時計が並ぶショーケースの前に来たところで、佐藤はようやく百合子の手を離した。
「そろそろ腕時計変えたいなって思ってるんだけど、どんなのがいいと思う?」
佐藤は、ショーケースをひと通り眺めながらそんなことを言う。
「し、知らないわよ! そんなの!」
(なんなのよ、もう……)
苦々しい思いで佐藤の横顔を見やる。彼は百合子の動揺など気付いてもいないのだろう。顔を上げるなり、心底同情的な眼差しを向けてきた。
「おまえ、今まで男の時計すら選ぶ機会なかったのかよ。ホント残念な奴だなぁ……」
「なんですって?」
カチンときた。
これはなにか? 暗に、百合子がモテないと言いたいのか?
確かにモテないのは事実だし、男性経験だって七年前に別れた元彼一人だけだ。この年になるまで仕事しかしてこなかったことは認めるが、残念な奴呼ばわりされては黙っていられない。自分のセンスにケチをつけられた気分だ。
百合子は鼻息荒くショーケースに齧り付いた。
「時計くらい選べるわよ!」
(馬鹿にするんじゃないわよ!)
男物の腕時計なんて選んだことはないが、ようはスーツに合う無難なものを選べばいいのだろう。奇抜なデザインのものは避け、アナログ時計の中から選べばそう外れはしないはず……
まるで宝石のように綺麗に並べられた時計を見ながら、佐藤が普段着ているスーツとのバランスを考える。
(佐藤は結構いいもの着てるから、時計だけチープだとすごく変よね。年齢と立場からしても、ワンランク上を持っても全然おかしくないけど、かといって、あまりにゴテゴテしたものは一歩間違えるとおじさんっぽいし……えー、佐藤は普段どんな時計してたっけ? 文字盤は白だった? どうだったかしら?)
念入りに吟味した末に百合子が選んだのは、アナログの自動巻きタイプ。ステンレススチールのバンドで、黒の文字盤がシックでスーツに合うはずだ。
「これはどう?」
ショーケース越しに指差すと、横から佐藤が覗き込んできた。そのときに、トンと肩が触れあって、なんだか胸の内がざわざわしてくる。整髪料か香水か、男らしくてどこかセクシャルな匂いが鼻孔をくすぐった。
こんなに至近距離に彼が来るのは初めてで――
「へぇ、ハミルトンか。いいところ選んできたな」
息がかかるほど近い距離で聞こえた声に、ビクッと肩が揺れる。途端に速くなった心音を誤魔化すように、百合子はツンとそっぽを向いた。
「ロレックスのほうがよかった?」
男物の時計に興味のない百合子が知っているメーカーなんて、ロレックスとオメガくらいだ。とりあえず知った名前を出してみると、佐藤がショーケースから顔を上げた。
「いや? ロレックスはもう持ってるからいい。ってか、今つけてるじゃん? だから違うメーカーから選んだんじゃないのか?」
佐藤がジャケットの袖を少し上げて、腕時計を見せてくる。美しいブルーの文字盤に書かれたROLEXの文字に、百合子はますますそっぽを向いた。
(知らないわよ! 見えないわよ、そんなちっちゃな文字!)
時計オタクじゃあるまいし、パッと見ただけでそんなところまで気付くはずがない。
否定も肯定もしない百合子の態度を佐藤がどう思ったのかは知らないが、彼はショーケース内のハミルトンを見ながらふんふんと頷いている。
「いい時計だ。普段使いにちょうどよさそうだ」
「気に入ったの?」
ならもうそれを買ってやるから、さっさと解放してほしい。百合子はそんな気持ちで、自分の選んだ時計の前に置かれている値札に目をやった。
(じゅうさんまんななせんひゃくろくじゅうえんんん!?)
ギョッとして目玉が飛び出そうになる。
とにかく佐藤に似合うものをと思って選んでいたから、値段なんか見ていなかった。いや、いい年のメンズの腕時計としては無難な値段なのかもしれないが……同僚へのプレゼントとしては、値が張りすぎではないだろうか。
(ぐっ……!)
しかし、これを選んだのは百合子だ。十勝祝いだというのもわかっていた。プライドのお陰で、今更引くに引けない。諭吉の束にバイバイする決心をつけて血の涙を飲もうとしたとき、佐藤がくるっと踵を返した。
「まぁ、こういうのがあるというのはわかった。候補に入れておこう」
彼はそれだけを言うと、飄々と店を出る。
「ちょっと、買わなくてよかったの?」
「ああ。今はいい」
もしかして、そこまで気に入ったわけではないのだろうか。それとも、値段を気にしたのか。理由はわからなかったが、彼のあとを追いかける。
「あー。なんか疲れたな。どこか入って休憩しよう」
(まったく……この男は……)
佐藤が気まぐれな性格なのは知っていたが、ずいぶんと好き勝手なことを言ってくれる。彼に振り回されているのを感じていると、突然、彼が立ち止まった。
「なぁ、あの俳優と俺、なんとなく似てないか?」
彼が指差しているのは、映画館前に貼ってあった映画のポスターだ。公開前だというのに早くも話題になっている映画で、百合子も観たいと思っていた。
超人気俳優と自分が似ているなんて、なんて高慢な男なんだろう。確かにちょっと鼻が高くて、目が二重なところなんか似ていないことはないが、それを認めるのは癪に障る。彼のことだ、絶対調子に乗るに違いないのだから。
「そうね。目とか、鼻とか、口とか、顔の全体的なパーツの数がまったく同じで、超そっくりだわ。カッコいいわよ」
フンと鼻で笑って言ってやる。すると佐藤は噴き出すように笑いながら、百合子の顔を指差した。
「おまえもヒロインの女優と顔のパーツの数が同じで超美人だぜ」
「ありがとう。自分で言うのもなんだけど、ちょっと似てると思っていたのよ」
お互いに茶化しあって、少し肩の力が抜ける。
柄にもないことだが、佐藤相手に緊張していたようだ。
(実は社長の息子ですって聞いたら、そりゃあ、ね?)
でもホテルでそれを聞いたとき、本当に自分は緊張してただろうか? 驚きはしたが、それだけだったような……?
(まぁいいわ。そんなこと)
気を取り直した百合子は、佐藤がおすすめだという喫茶店に入って、本日二度目のホットミルクティーを注文した。
◆ ◇ ◆
「ここがうちよ」
もうすっかり日が暮れてから、百合子は佐藤に送られて自宅マンションに帰ってきた。
「この辺暗いな。部屋まで送る」
百合子としては別にマンション前でよかったのだが。佐藤はタクシーの運転手に戻ってくるまで待つように言って、わざわざ車から降りてきた。
「今日は付き合ってくれてありがとな」
エレベーターの中で佐藤が、ふとそんなことを言ってきた。
あのあと喫茶店を出てから、気まぐれな彼にまた連れ回され、鞄専門店やら、靴屋やらに、目に付くままにぶらりと入った。だが結局なにも買っていない。見て回っただけだ。
「あれだけ回って欲しいもののひとつも見つからなかったの?」
彼が興味らしい興味を示したのは、ハミルトンの腕時計だけだ。だがそれも購入には至らなかった。
(きっと、いろいろいいものを持ってるから目が肥えてるのね)
部屋のある五階に着いて、エレベーターを降りる。
一番奥の角部屋が百合子の部屋だ。そちらに向かって歩いていると、後ろから着いてきていた佐藤が、なんてことのないように言った。
「いや? さすがに欲しいものは見つかったよ。今日一日見ていて思ったんだが、やっぱいいなーって、確信持った」
「ふーん、そうなの? で、なにが欲しかったの?」
今日一緒に見て回った中に彼が気に入ったものがあったのなら、聞くだけ聞いておいて、今度一人で買いに行けばいい。まぁサプライズというやつだ。十勝祝いにそれぐらいしてやってもいいかもしれない。そんなことを考えながら、部屋の前で鍵を出そうと鞄を探る。そのとき――
「浅木が欲しい」
「っ!?」
甘みを帯びた囁きに驚いて振り返ると、思わせぶりに笑う佐藤と目が合った。
彼の笑顔は読めない。なにを考えているのかさっぱりわからないのだ。
「ば、馬鹿馬鹿しい」
突然なにを言いだすのか、この男は。
これはジョークか? ジョークなのか!? ほんのちょっとドキドキしちゃったじゃないか!!
そんな百合子の頭のすぐ横に、ドンという重たい音と共に佐藤の左腕が置かれた。これはいわゆる、壁ドンというやつ?
「馬鹿馬鹿しくはないだろ。俺たちは今日、見合いしてたんだけど? その意味、わかってるのか?」
ふっと笑みを消した佐藤は、百合子に真剣な眼差しを向けてくる。さっきまでの飄々とした雰囲気が消え去った彼に、百合子の目が徐々に見開いていった。
(え? お、お見合い!?)
いや、わかっている。お見合いだ。
今日、シュトランホテルに行ったのはお見合いのためだ。しかし、お見合い相手が見知った佐藤だったことで、百合子の中ではもう、このお見合いは名目だけのものになっていた。
現に、お見合いにありがちな「ご趣味は?」なんて会話はひとつもしていない。お互いにもう、仕事を通してよく知っている相手だから。
なのに――
「この見合い、俺は結婚前提で進めるからそのつもりでいろよ」
(……けっ、こん……?)
それは自分と最も縁遠かった言葉。
完全に硬直している百合子の顎を、佐藤は右手でそっと持ち上げた。そしてなにも言わずに唇を重ねる。
あまりにも自然で、あまりにも当たり前に合わさったそれに、百合子は自分がキスされているとしばらく気付けなかった。
そんな百合子の唇の合わせ目を、佐藤の尖った舌先がつーっとなぞる。まるで誘うようなその動きに、身体の内側にカッと熱が昇ったのは一瞬。その熱を理性で無理やり押さえ込んで佐藤の胸をドンッと押すと、百合子は正面から彼を睨み付けた。
困惑も動揺も、表には出さない。キスくらいで狼狽えるなんて、百合子のプライドが許さない。この男を前にすれば尚更だ。
「なにするのよ」
警戒と怒りの滲んだ低い百合子の声にも、佐藤は平然としている。百合子の反応なんか想定の範囲内だと言わんばかりに、彼は自分が舐めて濡らした百合子の唇を、親指で拭った。
「別に? 婚約者におやすみのキスをしただけだよ」
婚約者!?
百合子はお見合いの席には行ったが、婚約の了承なんてしていない。なのに佐藤は、一人で勝手に決めてかかっている。
百合子は自分のものだと――
「馬ッ鹿じゃないの?」
思いっきり吐き捨てると、百合子は素早く玄関を開けて中に入った。
ガチャン! と、遠慮なく音を立てて、鍵とチェーンをかける。
「浅木、また明日な」
玄関ドアの向こうから佐藤の声がして、その直後、去っていく彼の足音がした。
トクン、トクン、トクン、トク、トク、トクトク、トトトトトト――
まるで列車が加速していくように心臓がけたたましく音を立てて、身体のど真ん中で暴れている。
玄関ドアに凭れながら、百合子は鞄を持ったままの両手で、ガバッと頭を抱えた。
(え? ええッ?? い、今のなに? キス……?)
そう、あれは確かにキスだった。
佐藤が、あの佐藤が自分にキスをしてきた。
もう意味がわからない。
彼が社長の息子で、勝手に決められたお見合いの相手だと知ったのも今日なのに、今度はキス? 今までただの同僚だったのに?
クールぶっていた百合子の表情が一気に崩れ、パニックに陥る。
耳どころか、もう首筋まで真っ赤だ。頭の中までカッカとしていて、なにも考えられない。それなのに、鏡ごしに自分を熱っぽく見つめていた佐藤のあの目が、勝手に脳裏をよぎるのだ。
あれは男の目だ。女を見る男の目――服の上からでも素肌に直接注がれるような熱い眼差し。男の欲望を孕んだそれに、服を脱がされていくようにさえ錯覚した。だから自分は逃げたくて逃げたくてしょうがなかったのだ。
佐藤は自分を同僚としてではなく、女として見ている――
そのことに気付いた百合子の頭は、ものの見事にショートしていた。
3
翌朝。目覚ましのアラームが鳴って、百合子はむくりと身体を起こした。
「あー、うー……」
身体を起こしたはいいものの、ベッドの上から微動だにせず低い声で唸る。なんだか寝た気がしない。胃の辺りもどっしりと重い感じがする。
昨日は帰宅してからずっと呆けていて、はっきり言ってなにもしていない。いつの間にか朝が来ていたというのが正しかった。
「ううう……会社行きたくない……」
入社以来七年。こんなことを思うのは初めてだ。
会社こそ、自分が輝ける唯一の場所だと思ってきたのに。
でも会社には、佐藤がいるのだ。
――佐藤。
自分を見つめていた彼の熱い眼差しを思い出して、カアッと顔に熱が上がる。百合子は無意識に、火照った頬を布団に押し付けた。
彼に口付けられた唇を噛み締めて、あのときの感触を打ち消そうとする。だが、しっかりと身体が覚えているのか、余計に濃くなる一方だ。
(なんなのよ……もう……)
困る。昨日、自分のお見合い相手が彼だと知ったときも相当驚いたのに、しかも会社の後継者だなんて。いや、この際だから彼が社長の息子だという情報は脇に置いておこう。それはあまり関係ない。誰にも言わないと約束もしたし、今までと同じ態度を取るまでだ。
しかし――
「ああ~っ……キスした相手とどんな顔して会えばいいのよ……」
百合子としてはむしろ、こっちのほうが重大な問題だ。
彼とは同じ部署にいるから、会わないなんてことはあり得ない。絶対にまともに顔が見られないこと請け合いだ。
(なんで私がこんなに悩まないといけないのよ)
やっぱり、お見合いなんか行くんじゃなかった。百合子がそう後悔していると、その後悔の元を持ってきた母親から電話がかかってきた。
(もーっ、月曜の朝っぱらから……!)
まだベッドの中にいる自分が言えたことではないが、朝の忙しい時間に電話をしてくるなんて、我が母親ながらなんてことだ。
ひと言言ってやろうと息巻いて、バイブレーションのやまないスマートフォンを手に取る。すると、スピーカーからはみ出た大声が、いきなり鼓膜を貫いた。
「ゆ~り~こ~ッ!」
スマートフォンを耳から遠ざけて、顔を顰める。「おはよう」もない。
お気に入りの演歌歌手から直接サインをもらったときのように興奮しまくった母親の声に、百合子は早くもげんなりした。
「おかーさん……」
「あんたねぇ。昨日何回電話したと思ってるのよ。ちっとも出やしないんだから! お見合いどうだったか聞きたかったのに! ったく、気が利かない子ねぇ!」
あ、そうだった……
これは悪いことをした。百合子は基本、スマートフォンをマナーモードにしっぱなしだ。
昨日は別れ際の佐藤の行動のせいで頭が完璧に固まっていたから、母親の電話に気付いていなかった。
「ごめん……その、昨日はちょっと疲れてて……」
お見合い相手がよくよく見知った同僚で、おまけにいきなりキスされて、動揺してなにもできなかった――なんて言えるわけもない。
ひと言言ってやるつもりが逆に説教を食らってしまい、解せぬ――という思いがありながらも、百合子は素直に謝った。
「おかーさん。昨日のことを話したいのは山々なんだけど、私、もう会社に行く用意をしなきゃならないのよ。電話は帰ってからでいいでしょう?」
布団をめくりながら壁時計に目をやると、目覚ましが鳴ってからもう十五分も経過している。とんだタイムロスだ。
(あーもう、急がなきゃ。それもこれも全部佐藤のせいよ)
今度は佐藤に責任転嫁をして、慌ててベッドから降りようとする。
「昨日ね、夜に佐藤さんからうちに電話があったのよ~」
「ヒッ!」
喉の奥で軽く悲鳴が上がった。
電話だって? いくら気まぐれな佐藤でも、お見合いしたその日に、相手の親に電話する意味がわからない。目的はなんだ?
早いところ出勤の支度をしなくてはいけないのに、こんな話をされたら、気になって電話を切れないじゃないか。
応援ありがとうございます!
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