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1巻
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そして日曜日――
百合子はいやいやながらも、待ち合わせのシュトランホテルに来ていた。
気乗りのしないお見合いであっても、相手は自社の社長の息子だ。第一印象くらいはよくしておこうと、百合子は普段のビジネススーツよりも華やかなセレモニースーツを着ていた。
オフホワイトの襟なしジャケットに、黒いウエストリボンがアクセントになっている。真珠のネックレスを合わせれば、綺麗目かつ、清楚な感じに纏まるのだ。
(ホテル内の展望レストランで待ち合わせよね)
このホテルは、海岸沿いに建っている。観光客に人気の高級リゾートホテルで、別館には結婚式場もある。百合子の自宅マンションから電車で二駅ほどと近いので、もちろん泊まったことはない。
地上三十五階の展望レストランは、見事なオーシャンビューで人気だ。デートスポットとしても有名なところである。
一度くらいこのホテルから見える夜景を楽しんでみたいと思っていたが、まさかお見合いで訪れるとは思わなかった。しかも今は約束の時間である十一時の十分前。夜景なんか見えるわけもない。
ドアマンが開けてくれた扉を潜ってホテルに入る。
エントランスの天井には巨大なシャンデリアが煌めき、カラフルなモザイクタイルの壁を水が流れ落ちているのが目を引く。色とりどりの花が活けてあり、計算され尽くした優雅な空間といった具合だ。
コートを脱いだ百合子がエレベーターに向かうと、そこには見覚えのある男の背中があった。
「え? 佐藤?」
驚いたついでに声をかける。振り返ったのは案の定、同僚の佐藤真だ。どうやら、エレベーターを待っているらしい。
お見合い相手と同姓同名の彼がこの場にいることになんとなく嫌な予感がしながらも、百合子は彼の隣に立った。
「こんなところで会うなんて偶然ね」
「よう、浅木」
ストライプ柄のイタリア製スーツをスマートに着こなした彼は、どこにいても人目を引く。背が高いというのもあるのだが、無駄に顔がいいのが主な原因だ。
彫りの深い二重の眼差しに、スッと通った鼻梁。落ち着いた茶色の髪を柔らかく後ろに撫で付けるその様は、生粋の日本人のくせにハーフに見える。爽やかな水色のシャツと濃いネイビーのネクタイ、そしてジャケットに添えたポケットチーフも無造作なのにオシャレだ。手にしたコートも、フォーマルなチェスターフィールドコートというそつのなさ。
このホテルは結婚式場もあるから、友達の結婚式にでも出席するのだろうか。もしかしたら、いつもと違う装いの自分も、式の参列者に見えているかもしれない。
こんなところで彼と会ったのは想定外だが、わざわざお見合いに来たことを言う必要はない。
そんなことを言ったら、「三十路を前にして、結婚に必死になってるのかよ」と、からかわれそうだ。そんなの真っ平ゴメンである。
「今日はどうしたの? 誰かの結婚式?」
どうせエレベーターを降りればそこで別れることになる。佐藤と一緒なのは短い時間のはずだ。いろいろと聞かれるよりも、先に聞いてしまったほうがいい。
無視するのも大人気なく思えて話をふると、佐藤はスラックスのポケットに片手を入れて、いつもと同じく軽い調子で答えてきた。
「いや? 今から見合いする」
「お、お見合い!?」
まるで自分の予定を言い当てられたような気がして、ドキッと心臓が跳ねる。裏返った声で動揺する百合子に、佐藤はちょうど開いたエレベーターを視線で指した。
「乗らないのか?」
「の、乗るわよ」
動揺を抑えるように、ツンと顎を上げてエレベーターに乗り込む。
大丈夫、大丈夫。佐藤が自分の予定を言っただけで、百合子が今からお見合いすることがばれたわけではない。これだけ大きなホテルだ。実は人知れず、そこかしこでお見合いが行われているのかもしれない。
百合子がそんな可能性を考えていると、佐藤がエレベーターのボタンを押した。
(ゲッ、佐藤も展望レストランに行くの!?)
これでは百合子がお見合いすることがばれてしまう。
佐藤もお見合いらしいが、いくら同い年でも男と女では三十路の意味合いがだいぶ違う。しかし同時に、あるひとつの可能性が頭をよぎった。
(……いや、まさか……。まさか、ね……)
二人っきりのこの空間を息苦しく感じていると、彼はニヤリと口角を上げた。
「おまえも見合いだろ?」
ズバリ言い当てられて、百合子の眉が見る見るうちに寄っていく。
「な、なんでわかったのよ?」
会社でも誰にも話していないのに……
警戒を含んだ百合子の低い声に、佐藤は不機嫌な様子も見せず、むしろドヤ顔で自分の胸元を指差した。
「それは浅木の見合い相手が、なにを隠そうこの俺だから」
「…………」
今、この男はなんと言ったのか。
耳から聞こえた情報を脳が処理することを拒否しているかのように、理解に時間がかかる。まるでひと昔前のパソコンのようだ。
(私のお見合い相手が佐藤?)
「……え?」
たっぷりと時間を置いた百合子は、佐藤の長身をなぞるように、上から下まで視線を動かした。どこからどう見ても、毎日会社で会っている同僚の佐藤真だ。間違いようがない。
「佐藤、真……?」
「そう。俺」
「……」
意地の悪い笑みを浮かべた顔で頷かれて、百合子は一瞬、無言になった。
最悪だ。まさかの予想が当たってしまった。同姓同名だとばかり思っていたが、まさか本当に同僚の佐藤がお見合い相手だったなんて!
「ちょっとあんたねぇ……。なにが社長の息子よ。釣書にウソ書いてんじゃないわよ! オシャレして損したわ!」
他人を騙るなんて非常識にもほどがある。
母親は遠い親戚からの話だから大丈夫だと言っていたが、しっかり騙されているじゃないか。
気乗りしていなかったとはいえ、いつもよりもメイクに時間をかけたし、髪も綺麗に巻いただけあって、腸が煮えくり返る思いだ。
佐藤が、まさかこんなことをする奴だとは思わなかった。
もし相手が百合子ではなくて、なにも知らない他所のお嬢さんだったらどうするつもりだったのか。少々自信過剰で鼻に付く同僚だが、悪い奴だとは思っていなかったのに――
「サイテー」
百合子がボソッと呟くと、佐藤が小さく肩を竦めた。
「なんだかえらい言われようだが、俺は嘘なんかひとつも書いてないぞ」
「ハァ?」
百合子が訝しげに佐藤を見ると、彼はエレベーターの電光掲示板を見ながら、澄ました顔で言ってのけた。
「俺、ライズイノベーションプラスの社長の息子だからなぁ。妹が一人いるけど、今のところ俺が親父の跡を継ぐことになってるし」
「え?」
百合子の瞼がくわっと持ち上がり、口もぽかんと開く。
信じられなかった。
ずっと、ただの同僚だと思っていたのに。
「……うそ……」
「だから嘘じゃないって」
チン――と鐘の音が鳴って、エレベーターが止まる。機械音声と共に開いた鉄の扉から、やたらと眩い光が射し込んで佐藤を照らした。
彼は半身だけ振り返って、珍しく人好きのする笑みを向けてくる。
百合子の前ではいつも高慢で、得意げで、不敵に笑うくせに。
今日、彼の笑みがいつもと違って見えたのは、ここが職場ではないから? それとも逆光のせい?
「立ち話もなんだ。来いよ。飯食おうぜ」
佐藤はそれだけを言って、悠然とした足取りでレストランの中に入っていく。
どこか釈然としない思いを抱えながらも、百合子は彼のあとを追った。
案内された展望レストランは、お昼にはまだ少し早い時間だというのに、もうほとんどの席が埋まっている。カップルと女性グループの宝庫だ。噂には聞いていたが、やはり相当な人気店らしい。
既に佐藤の名前で予約されており、店内で一番眺めのいい席に案内される。
佐藤の向かいに座った百合子は、彼に胡乱な眼差しを向けた。
百合子の知っている佐藤は、自信家ではあるものの、嘘つきで信用のおけない人間ではない。彼に仕事で嘘をつかれたことは一度もない。
だから、まだ信じがたいことだけれど、彼が社長の息子というのは本当なのだろう。
今まで黙っていたのは、なにか理由があるのか。
「ねぇ、なんで一般社員なんかやってるのよ」
佐藤はボーイの持ってきてくれたメニューを開きながら、百合子の質問になんてことのないように答えた。
「経験を積むためだ。下積みってやつだな。いやだろう? 現場を知らない奴が上に立つの」
「そうね」
これには同意しかない。
企画を何案も出すのは頭の痛い作業だし、クライアントがいる以上、やはり時間的にも不規則で、納期のために残業することもある。
現場を知らない上の人間の気分ひとつで企画を白紙にされたら、やる気云々以前に仕事が回らない。
「うちだけじゃなくて、他でもよくやってることだ。後継を取引先に預けたり、海外で肩慣らしさせたり。うちは、自分とこの支店で勉強ってだけだ」
「ふぅん。大変なのね~」
社長の息子だからといって、ぬくぬくできるわけではないのか。代替わりした途端に経営悪化や、業績不振なんかになろうものなら、顧客も株主も役員も、そして社員だって黙ってはいない。そうなるかならないかは、跡継ぎの手腕ひとつだ。プレッシャーも半端ないだろう。
そう考えると、なかなか大変そうな立場だな、と同情すら覚えた百合子に、彼は話を続けた。
「俺の素性を知ってる奴、大阪支店には一人もいないからバラすなよ」
この口止めは同時に、今までの佐藤の企画が採用された経緯に、コネやごり押しがなかったことを意味している。
佐藤が社長の息子と知っていれば、支店のお偉いさん方も彼の案ばかりを採用するだろう。だが現実は、百合子の案も、他の社員の案も、いいものは分け隔てなく採用されているのだ。
佐藤の案の採用回数が多いのは、ただ彼が優れた企画を出しているだけ。
それは、幾度となく競ってきた百合子が一番よくわかっている。
「ふぅん、そう。私の口の堅さは信用してくれていいわよ」
そう言った百合子を、メニューから顔を上げた佐藤がじっと見つめてきた。
「おまえ、態度変わらないんだな」
「ん?」
意味を図りかねて首を傾げる。
すると佐藤は小さく肩を竦めてみせた。
「いや。俺が社長の息子だって知っても、おまえは態度がちっとも変わらないなと思ってな」
「そう? 驚いたわよ?」
驚いたに決まっている。
佐藤と一緒に仕事をしてきたこの七年間、本当にただの同僚だと思っていたのだ。
彼が同期や後輩と一緒にいて、アドバイスや指導をしているところは見たことがあっても、支店のお偉いさん方とつるんでいるところなんか見たこともない。
そんな彼の普段の勤務態度から、この人が社長の息子であると誰が考えるだろうか?
百合子の反応を前にして、佐藤は笑いながらメニューのページを捲った。
「あー、まぁ、おまえはそういう奴だよなぁ」
「……? なにそれ」
聞いてみたが、佐藤はこれ以上教えてくれない。
諦めた百合子は、自分の目の前に置かれていたメニューを開いた。
この店はイタリアン風の創作料理を出すらしいが、載っている料理の名前はどれも独特だ。
コースを選んで更にそこから前菜、主菜に選択肢があるのだが、「ナポリ湾からの贈り物出石風」だの「メレンゲの気持ちを添えて」だの、なにが出てくるのかよくわからない。しかも、写真もないのだ。
「ねぇ、ここ初めて来たんだけど、なにがおいしいの?」
百合子が尋ねると、佐藤はメニューから顔も上げずに「あー」と、言った。
「そうだなぁ。おまえが好きそうなものを俺が適当に注文しようか?」
「ああ、それいいわね。そうしてちょうだい」
佐藤の案に頷くと、彼は近くにいたボーイを呼び止めてメニューを細々と注文してくれた。
「食後のお飲み物はいかがなさいますか」
(あ。私、ホットミルクティーがいいな)
軽く手を上げて、飲み物の希望を出そうとしたとき、百合子よりも先に佐藤が口を開いた。
「コーヒーと、ミルクティーを。両方ともホットで」
迷わず注文した彼に驚いて、目を瞬く。
全部を注文してボーイが復唱してから、彼は百合子に「これでよかったか?」と聞いた。
「ええ」
「じゃあ、それで」
「かしこまりました。それではお食事の用意をさせていただきます」
ボーイが一旦下がってから、百合子はわずかに身を乗り出した。
「ホットミルクティーは私に?」
「そうだよ。おまえ、食後はいつもそれじゃないか」
当たり前のように言われて、なんだか言葉に詰まる。
(確かにそうなんだけど……)
百合子は社員食堂でも外に食べに行っても、食後にはミルクティーを飲む。よほど暑い日はアイスにしたりもするが、基本的にホットだ。それを佐藤が知っているとは思わなかった。
「よく知ってたわね。私がミルクティー派だって」
「知ってるさ、それぐらい――――何年見てたと思ってるんだよ……」
「え? なに?」
後半がごにょごにょとした小声でよく聞こえなかった。
百合子は聞き返したのだが、ボーイが戻ってきて、カトラリーセットをテーブルに並べはじめたために結局聞きそびれてしまった。
(なんて言ったのかしら?)
もう一度聞こうとも思ったのだが、なんとなくタイミングを失ってしまったのを感じる。
(まぁ、いっか)
飲み物の好みなんてそんなに大事なことでもないかと思い直して、百合子はおしぼりで手を拭きながら話を振った。
「佐藤もお見合いなんかするのね。意外だわ」
「まぁな」
佐藤の返事は素っ気ない。
彼のプライベートや女性関係など今まで小耳にすら挟んだことはないが、案外彼も、断れずにここに来た口か。
「誰の紹介なの?」
「大学時代の友達の親父さん」
「ふぅん」
つまりは、百合子の大伯母の旦那の兄の娘の旦那の息子、が佐藤の大学時代の友人なわけか。
世の中、全ての人は六人以内の仲介人数で繋がることができるという、六次の隔たりなる説があるが、それが自分たちの間にも起こったことになる。
「不思議なご縁ねぇ……」
百合子がしみじみとそう呟いたところで、ボーイが二人がかりで前菜を運んできた。
チコリをボートに見立てているのか、中に海老、アボカドが乗っている。横にはひと口サイズのパイが添えてあった。
「おいしそうね」
「たぶん、浅木はこのソース好きだと思う」
佐藤の言葉に期待が膨らむ。
クリーミーなソースが川の流れのように美しく描かれていて、そのソースにパイを付けて食べるようだ。口に含むと優しい甘みで、思わず声がもれた。
「おいしーっ」
「だろ?」
心なしか佐藤の表情が綻んでいるように見える。彼はフォークとナイフを使って綺麗に食べながら、「そういえば」と話しだした。
「金曜にさ、クライアントから電話があったんだ。ほら、あのレストランのとこな」
「アドネ・オルランドシェフの?」
百合子が佐藤に負けた企画だ。
佐藤は頷きつつ、話を続ける。
「そう。俺の企画は全体的に気に入ってくれたらしいんだが、向こうの社内会議で立地のことが議題に上がったっぽくてなぁ……もしかすると月曜の朝イチで、またなにか言ってくるかもしれん」
企画が通って正式受注しても、その後変更や修正がかかるのはよくあることだ。それが微調整の範囲ならまだいいが、やっかいなのは予算が変動するほど大規模な変更。
ひどいときなど、まるっきり別物になる場合もある。そして予算は当初のままと。
こちらとしても当初の予定通りに万事が進むとは思っていないし、変更ありきだと覚悟はしている。しかし、大規模な変更は企画泣かせだといえるだろう。
「あら、お気の毒様」
しれっとそう言った百合子に、佐藤は苦笑いを浮かべて眉を上げた。
「今、絶対自分の企画が通らなくてよかったと思っただろ」
「ふふ。そんなことないわよ。でもまぁ、佐藤のことだからうまくやるんでしょ?」
佐藤が現場で慌てているところなんて見たことない。どんなにやっかいなことが起こっても、彼はなんでもないように対応するのだろう。そして彼には、その自信があるのだ。
「まぁな」
案の定、ニヤリとした佐藤を、百合子は「フン」と鼻で笑った。
「ピンチになってどうしようもなくなったら、助けてあげないこともないわよ?」
立地の選定に関しては、百合子の案のほうがよかった自負がある。クライアントもそれはわかっているはずだ。
社内コンペでは佐藤が勝ったが、もしかするとそれを覆す結果が待っているかもしれない。
挑発気味に目を細めると、佐藤は顎に手を当てて眉を上げた。
「へぇ? 助けてくれるんだ?」
「いいわよぉ? その代わり、他の案件でまた有名人が出てきたら、私にあんたのツテを使わせなさいよ。どうせなんか繋がりがあるんでしょ?」
社長の知り合いは社長。社長の息子の知り合いもまた、推して知るべし。
イタリア人シェフ、アドネ・オルランドに直接連絡を取ったようなツテが他にもあるかもしれない。佐藤にあって百合子にないもの――それは著名人とのコネクションだ。
佐藤が紹介してくれれば、自分と彼との差を埋めることができるはず。
(まぁ、そう簡単に佐藤が自分のツテを使わせるとは思えないけどね)
人脈は一種の財産だ。信用している相手でないと、紹介なんかできない。「どうしてこんな奴を紹介したんだ」と相手側に思われては、自分との繋がりも切られてしまう可能性だってある。
ましてや佐藤は社長の息子だ。百合子とは立場が違う。だからこれは、とりあえずふっかけてみただけというのが正しい。
しかし――
「いいぞ」
あっさりと頷いた彼に、百合子は驚いた。てっきり、「そんなことはできない」と、断られると思っていたのに。
「え、いいの?」
「浅木だからな。俺の顔に泥を塗るとも思えないし。いい仕事するだろう。むしろ俺の株が上がる」
「……」
そんなふうに思うのか、彼は。
彼の自分に対する評価を垣間見て、なんだかこそばゆい気持ちだ。
「あ、ありがと」
ぼそぼそっとお礼を言う百合子を、軽く頬杖を突いた佐藤が見る。
「いやいや。俺が世話になるほうが先かもしれんぞ?」
「そのときはちゃんと手を貸すわよ」
当然だ。こういうものは、お互いウィンウィンな関係にしてこそだろう。そして恨みっこナシで、自分が勝てばなお気分がいい。
言い切った百合子を前に、彼は小気味よく笑った。
「あぁ、期待してるよ」
それからも仕事の話を続け、食事は気楽な調子で進んだ。デザートが出てきたところで、百合子は食後のミルクティーを飲みながら佐藤に尋ねた。
「これからどうするの?」
いやいや来たお見合いだったが、相手は見知った佐藤だ。これはもうお見合いというより、ただ同僚と鉢合わせしてついでに食事をしたようなものではないか。お見合いの体をなしていない。
佐藤のほうは百合子が来ることを知っていたようだが、どうせ彼のことだ、驚かせようと黙っていたんだろう。実際、百合子は二重の意味で驚いた。
(まさか佐藤が社長の息子とはね……世の中わからないものだわ)
百合子がそんなことを考えていると、コーヒーを飲んでいた佐藤がカップを置きつつ「そうだなぁ」と独りごちた。
「そういや、俺の十勝祝いは?」
まだそれを引っ張るのか。
「じゃあ、ここは私が奢るわ」
結構いい食事だったから、お祝いにはちょうどいいだろう。そう思って提案したのだが、彼は首を横に振った。
「いや、他のがいいかな」
なんですと。
しかし、当の本人がそう言うのなら、ごり押しする百合子ではない。
「あら、そう。ならここは割り勘ね」
「いい。もう払ったから」
「ええ? いつの間に……」
驚いた百合子に彼は「おまえがデザートに夢中になっている間に」と、なんでもないように言う。
(なによそれ。スマートすぎるじゃないのよ、佐藤の奴)
奢ろうと思っていた相手に、知らぬ間に奢られていたなんて。ちょっとどころかだいぶ困惑してしまう。しかもこの佐藤の手際のよさと言ったら……
(だいぶ女慣れしてるわね)
佐藤だって今年で三十になる大人の男だ。それなりに経験があることだろう。
百合子はデザートのラストひと口を頬ばった。
「じゃあ、十勝祝いは奮発してあげる」
それでチャラだ。借りを作るのは好きじゃない。
すると、わずかに身を乗り出した佐藤がニヤリと意味深に笑った。その笑みはなにかを企んでいるようにも見えるし、希望が叶って喜んでいるようにも見える。
(佐藤め。よっぽど高いものが欲しいのかしら)
それなら自分で買えばいいようなものをと思いながらも、決して安くはないここの食事代をぽんと払うくらいの佐藤だ。きっと、百合子に買わせることが目的なんだろう。
別に、それならそれでかまわない。今度有名人が絡む案件が来たときは、彼のツテを使わせてもらえるのだから。
「そうと決まれば、このあと付き合ってくれよ。いろいろ見て選びたいしな」
「いいわよ」
元から百合子には予定なんてない。早めに帰ったところで、せいぜい部屋の掃除をするくらいなものだ。暇つぶしにはちょうどいい。
ホテルのレストランを出て、二人で駅近くにある繁華街へ向かった。
もう十一月。おろしたての冬物コートが絶賛活躍中だ。
ただ、こうして佐藤と並んで歩いていると、どうにもまわりの視線が気になる。
「ねぇねぇ、見てあの人。超カッコいい」
「ほんとだ。イケメン~。背、高い~。隣の人、彼女かな?」
「じゃない? いいなー。私もイケメンの彼氏欲しー」
軽く聞こえてくる会話もこんな調子だ。チラチラと向けられる視線も好奇心まじりのもので、どれもこれも百合子と佐藤をカップルだと誤解している。
(私はこの人の彼女とかじゃないんですけど……)
胸中で否定しても、誰にも聞こえやしない。
今まで仕事中に彼と二人で出歩いても、こんなにまわりの視線が気になったことはない。
今日が休日だから? それとも、お互いにコートの下が、いつものビジネススーツではないから?
百合子がまわりの視線ばかりを気にしていたとき、佐藤が足をとめた。
応援ありがとうございます!
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