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(……悔しい……)
力のこもった右手が、愛用のタブレットをミシッと軋ませる。しかしそれは一瞬のこと。平静を装うべく、浅木百合子は自分の表情筋に笑顔を作るように命じた。そして、隣にいる男に顔を向ける。
「さすがだわ、佐藤チーフ。今回は完敗。本当にいい案ね」
今回は、のところだけ力いっぱい強調してやる。すると、佐藤は余裕綽々の笑みを返してきた。
「ハハハ。まー、浅木チーフの案もよかったよ。俺のがもっとよかっただけで」
「……」
目鼻立ちの整ったイイ男が、自信に満ちあふれた爽やかな笑顔を見せれば、普通の女なら惹かれるだろう。だが百合子は違う。正確には、この佐藤真に対しての百合子の反応は、おおよそ他の女とは違うものだった。
(なぁに自画自賛してんのよ! このタコ!)
笑みを浮かべつつも、こめかみにピシッと青筋が立つ。なにせ百合子は、この男にたった今プレゼンで負け、仕事を奪われたばかりなのだから。
百合子が勤めているのは全国に支店がある広告代理店、ライズイノベーションプラスの大阪支店だ。そのイベント企画部門に籍を置いている。イベントのスポンサー企業の獲得や、集客プロモーション、PR、企画運営などが主な仕事だ。
今回の案件は、大手外食企業が手がける高級イタリアンレストランの店舗プロデュースと、新規オープンキャンペーンのイベント企画だった。しかも、このレストランは海外でも名高いイタリア人シェフ、アドネ・オルランド監修ということで、クライアントも気合いの入り方が違う。
そこで、企画部の中でもトップクラスの成績を誇る百合子と佐藤がそれぞれ企画を出し合い、プレゼンをし、どちらがよいかクライアントに選んでもらうというコンペが開催されたのだ。
このプレゼンに、百合子はかなり自信があった。
まずは、入念なリサーチの上に店舗候補地を選定。オープン前には、招待客のみに事前試食会を企画して特別感を演出。店の内装にも趣向を凝らした。もちろん、メディアへの露出枠も確保済みである。
その、勝ちを取りに行ったプレゼンで負けたとあっては悔しさも一入。
(この会社は伸び率高いし、優良企業だから絶対顧客に欲しかったのに! ライブクッキングってなによ! ええ、そんな発想もツテも私にはありませんよ! 悔しい、悔しい、悔しい~っ!)
しかも負けた相手が佐藤。
佐藤と百合子は同期で、もう七年の付き合いになる。
チーフに昇進したのも同じ日とあって、今まで何度比べられて、競い合ってきたかわからない。いわゆる、ライバルという存在だ。
企画部のトップである佐藤と肩を並べていられる女性は百合子くらいなものだが、二人の間に色っぽい話は皆無。
彼は身長が高く、顔もいい。それに面倒見のいいタチだから、かなり女にモテる。
それだけではない。彼は俗に言う人誑しというやつで、普段は軽薄なノリでいつも笑いの中心にいるくせに、決めるところはバシッと決めるものだから、頼りがいがあり、老若男女問わず人気なのだ。
だが百合子に言わせれば、自信家なところが鼻に付く。
(あんにゃろ~いったいツテってなんなのよ! 相手はイタリア人よ!? そんなの反則よ!)
実は佐藤が出した案は、百合子のものとそう大差はなかった。ただ決定的に違ったのが、アドネ・オルランドが調理しているシーンそのものを公開するという点だ。
アドネシェフは調理場にメディアを入れることを極端に嫌う。レシピを盗まれることを危惧しているためと噂されているが、その彼によるライブクッキングを試食会で実施するというのだ。しかもそれをメディアに取材させるなんて、インパクトが違う。
問題はアドネシェフがOKしてくれるかなのだが、佐藤は己のツテを使ってシェフに既に確約をもらっているというのだから、はじめから百合子に勝ち目はなかったわけだ。
佐藤は直感とセンスだけで仕事をしている節がある。「自由な発想と行動力」は、百合子に言わせれば、ただの「気まぐれ」だ。
今回だって、アドネ・オルランドにライブクッキングをさせたらウケるだろうという彼の直感のもと、シェフにごり押ししたに違いない。そうに決まっている。
その証拠に、店舗の選定地なんかは、百合子が挙げた場所のほうがずっといい。それなのに!
(なにが『浅木チーフの案もよかったよ』よ! そんなこと、微塵も思っていないくせに! 私にもアドネ・オルランドにツテがあったら……)
地団駄を踏みたい気持ちを抱えていても、ここは会社だ。まわりの目もあって笑顔は崩せない。
プレゼンのために来社していたクライアントと一緒にオフィスビルの入り口へ行き、完璧なビジネススマイルで見送る。そして、さてオフィスに戻ろうかというとき、隣にいた佐藤がニヤリと不敵な笑みを浮かべて言った。
「これで俺の十勝だな」
「は?」
突然そんなことを言われて、思わず素で返してしまう。意味がわからない。
眉を顰める百合子を、佐藤は鼻で笑った。
十センチのハイヒールを履いた百合子よりも、佐藤のほうがまだ背が高い。それが見下されているようで、またもや百合子のカンに障った。
「俺とおまえがチーフになってから二年になるが、これで俺の十勝六敗だ」
佐藤の言う通り、確かにチーフになって今年で二年だ。彼は二年もの間、どちらの企画が多く採用されたか、ずっと記録を取っていたのか。負けず嫌いにもほどがある。だが、負けず嫌いなら百合子だって相当だ。
(私のほうが四回も多く負けてるっていうの? 悔しいっ! 本当かどうかあとで確認しなきゃ)
そんな腹の内を隠して、百合子は佐藤に負けじとツンと顎を上げた。ハイブランドのタイトスカートから覗く脚を肩幅まで開き、鮮やかに口紅を塗った唇に指先を当てる。そうして挑発的な視線で「クスッ」と笑ってやった。
「あらぁ、私、エースと名高い佐藤チーフ相手に六勝もしていたの? 知らなかったぁ~うふふ」
自分の勝ち星を強調してやると、勝利の余韻に水をさされた佐藤の笑みがやや険悪になった。
「は……。先に十勝したのは俺だ。おまえは十敗な。十敗」
(言ったわねぇ~?)
底冷えするような木枯らしが吹く中、会社の玄関先で企画部のトップチーフが二人、笑顔で睨み合っている様は、なかなかの迫力だ。さしずめ、ハブとマングース。黒豹と女豹の一触即発状態に、外回りから戻ってきた営業がギョッとした面持ちでそそくさと横を通り過ぎていく。
火花を散らす二人を止める者が誰もいないのは、触らぬ神に祟りなしというのを、皆が既に実感しているからだろう。
睨み合いの末に、先に踵を返したのは百合子のほうだった。
十敗だろうが、六勝だろうが、たかだか星四つの違いだ。たいしたことはない。あと四つ、自分が白星を挙げてやればいいだけの話。それでイーブンになる。
(次こそは私が勝つ。そんで四連勝するんだから)
「フン。勝ち負けなんてどうでもいいわ」
思っていることと真逆のことを口にして、ヒールをカツカツと鳴らしながらエレベーターに向かう。同時に乗り込んできた佐藤が、イベント企画部のある五階のボタンを押した。
「なんか祝ってくれたっていいだろ。十勝なんだからさー」
ヘラヘラとした調子で言われて癪に障る。
百合子は面倒臭いのを隠しもせずに、適当に返した。
「あー、おめでとう、おめでとう。なにか欲しいものがあるなら言いなさいよ」
高いものは却下よと付け加える。でも、アドネ・オルランドとアポを取ったツテとやらを聞き出すために、昼食くらいは奢ってもいいかと考えていると、佐藤が隣で目を細めて笑っていた。
それがなんとも言えず楽しそうで――
「まぁ、そのうちになんか頼むわ」
(そのうち?)
今すぐなにか欲しいものがあるからこその発言だと思ったのだが、そうではないのか。なにかよからぬことを企んでいるのではないかと邪推したくなる。
そんなとき、エレベーターが五階に止まった。
「よし! 約束取り付けたし、仕事の続きするかな!」
気合いを入れた佐藤が、オーダーメイドスーツのジャケットを羽織り直し、やや茶色味がかった短髪を掻き上げる。それに張り合うように、百合子もバレッタでハーフアップにした自分の長い黒髪をふわりと梳いた。
(見てなさいよ、佐藤ぉ……次は私が勝つんだから!)
自分が十勝した暁には、佐藤に豪華なランチを奢らせてやる。
◆ ◇ ◆
ブーブーブーブー。
仕事を終えた百合子が一人暮らしをしている自宅マンションの鍵を開けていると、スマートフォンがバイブレーションで着信を告げた。画面を見れば母親からだ。
今日は週の半ば。週末でもないのに電話してくるなんて、なにか急用かもしれない。
「はい? もしもし?」
「ああ、もしもし、百合子? 今、家?」
「今帰ってきたところよ」
電話の向こうで母親の声が呆れたものに変わる。
「いまぁ!? あんた今十時よ、じゅーじ! こんな時間まで働かなきゃなんないもんなのかねぇ」
(はぁ……)
目の前にいなくても、苦虫を噛み潰したような母親の顔がありありと浮かぶ。
男が外で稼ぎ、女が家を守る。そんな昭和の価値観で生まれ育ち、それを実践してきた専業主婦の彼女には、平成の世の男女平等がいまいちピンときていない。
百合子が大手企業に就職を決めてきたときなんかは、大喜びで「これがこれからの女よね」と言っていたのだが……。同じ関西に住んでいながらも、百合子が正月以外に帰ってこないものだから、今の仕事をあまりよく思っていないのだ。
「今日遅くなったのはたまたまよ、たまたま……」
「そんなこと言って! この間も遅かったじゃない。あんたもう二十九よ、二十九! ってか次三十よ! いい年なんだから、仕事ばっかりしてないで、もっとちゃんとこれからのこと考えて、いい加減結婚しなさい」
これである。
「もうそろそろ」が、「いい加減」に変わったのはいつからだろう?
母親の望みは、娘が仕事でキャリアを積むことではなく、仕事を通していい婿殿を捕まえてくることだったようだ。そのために娘はいい会社に入ったのだと思っていた節さえある。
(そんなこと言われたって……仕事が楽しいんだからしょうがないじゃないの)
これをそのまま言うと、母親のお小言がパワーアップしてしまうことは経験上わかっている。だから、話を適当に聞き流しながら、百合子は部屋に入ってバッグを置いた。そしてコートをベッドの端に投げ、腰掛ける。
仕事が楽しすぎて、入社当時軽く付き合った男とは数ヶ月で破局した。以来、百合子は一人だ。
仕事にのめり込む百合子を理解してくれる男性なんていない。チーフの肩書きがついてからは、同性からも微妙に距離を置かれているくらいだ。当然、合コンの誘いも皆無。
「うーん、まぁ、相手がいないからね~。で、なぁに? なにか用事があったんでしょう?」
「そうなのよ!」
突然張り切った声を上げた母親に、なんだかいやな予感がする。しかし、一応「なに?」と聞いてみた。
「あんた、今週末は休み?」
百合子の休みはかなり不規則だ。イベントは大抵週末に集中するし、その準備もあるから土曜が休みになることはまずない。日曜は大抵の取引先が休みになるためイベント当日以外は休むが、繁忙期になると連勤もザラだ。
一応、二週間に一度は平日に休みを取れることになっているが、チーフという立場上なかなか難しい。その代わり、給料はすこぶるいいのだ。
「うん。今週の日曜は休み」
百合子が素直に答えると、母親の声が更に明るくなった。
「よかった! ならあんた、お見合いしなさい」
「へ?」
呆けた声が出て、ジャケットを脱ごうとしていた手が止まる。二、三度パチパチと瞬きをした。言葉が続かない百合子に、母親は親切丁寧に復唱する。
「お見合いよ。おーみーあーい。ったく、聞こえなかったの?」
(聞こえてるわよ……)
聞こえちゃいるが、それを自分に勧められたことが理解できなかっただけだ。
「なんで急にお見合いなのよ……」
「急じゃないわよ。前から何度も言ってたじゃないの。『いつまでもいい人が見つからなかったら、お見合いでもしなさい』って」
(そういえば、そうだったような……)
記憶にはあるが、まさか本気だとは思っていなかった。
百合子は頭を押さえつつ、抗議の声を上げる。
「だからってお見合いって――」
「実はもう、お相手は決まってるのよ」
「はぁ!? なに、勝手に決めてるの!?」
驚いて、ベッドから立ち上がらんとする勢いで叫んだ。が、母親はまったく意に介さず、むしろ嬉々とした調子で続ける。
「それがお相手がいい人なのよぉ~。ナントカっていう大手グループ会社の社長の息子さんでね、なんと次期社長なのよぉ~」
「次期社長?」
お見合いには乗り気でない百合子だが、さすがに次期社長と聞けばピクリと眉が動いた。
会社名がわからないのが決め手に欠けるが、大手と言うからにはそれなりのところなのだろう。
しかしまたどうして、自分なんかのところにそんな人との見合い話が舞い込んできたのか。大手グループ会社の次期社長が見合いをするのはまぁ普通かもしれないが、百合子の家はごくごく普通の一般家庭だ。そんな女と見合いをして得るものがあるとは思えない。相手を間違えているのではないか。
「その話大丈夫なの?」
百合子が問いただしても、「大丈夫、大丈夫」と母親の返事は軽い。余計に不安が募る。
「あんた、覚えてるかしら。お父さんの伯母さんの、千春さん。あの人の旦那さんのお兄さんの娘さんが、かな~りいいところに嫁いでね。旦那さんがナントカって会社の社長さんなんだって。その繋がりで紹介してもらったのよぉ」
「いやいや、千春伯母さんはわかるけど、千春伯母さんの旦那さんのお兄さんの娘さんの旦那さんって、その人完璧に他人だよね?」
しかもまたナントカという会社……
(ソコが肝心なんじゃないの? ったく……おかーさんったら……)
今度は別の意味で百合子が頭を抱えていると、母親は念を押すように言ってきた。
「あんたねぇ、いつまでも若くないのよ? 仕事が楽しいって、そんなこと言ってもいざってときに仕事はあんたを助けちゃくれないのよ? 風邪ひいて寝込んだときに仕事がお粥作って看病してくれるっていうの? 違うでしょう。お母さんもお父さんも、ずっと一人でいるあんたが心配なのよ。私たちだっていつかは思うように動けなくなるんだから。お父さんなんか、最近膝が痛い、腰が痛いって言ってんのよ? 娘の幸せを見届けたいと思うのは当たり前でしょう?」
「……おかーさん……」
親心なんだろう。そこまで自分の生き方が親に心配を掛けていたかと思うと、申し訳ない気持ちになって、少ししんみりしてしまう。
親孝行のためにも、このお見合いを受けたほうがいいのかもしれない……。そんなふうに百合子が思いかけたそのとき――
「あんたの小学生のときの同級生だった井上歩美ちゃん。お腹大きくなって実家に帰ってきたのよ。お母さんと一緒のところに会ってね。ちょっと立ち話したんだけど、もうじき生まれるんですって。一人目かと思ったら、もう二人目なんですってよ! あんたもいい加減――」
「ちょっと、おかーさん!?」
本気でしんみりしていたのに、突然の孫の催促に思わず大きな声が出る。
「そんなこと、人と比べることじゃないでしょう!?」
「あんたはそう言うけど、『百合子ちゃんは結婚したの?』って聞かれたときの私の身にもなりなさいよ! 『今は仕事が楽しいみたいで』って答えたら、『いつかいい人が見つかるわよ』って言われたのよ!? 悔しいじゃないのよ! 私だって孫抱きたいわよ! あんた、早くしないと女として枯れるわよ!?」
その「いい人」は、未だに百合子のもとにあらわれていない。なら私が見つけてやろうじゃないか――。そう母親が息巻いた結果、親戚と呼ぶには遠すぎる親戚から、このお見合い話をゲットしてきたわけか。
自分の負けず嫌いは母親からの遺伝だ。絶対そうに違いない――とぐったりとうな垂れる百合子に、母親は鋭く言い放った。
「とにかく! もうお相手とは話がついてるんだから。あんまり堅苦しいのはよくないだろうってことで、間に人を入れずにやることにしたのよ。まずは二人で会って食事でもしてみなさい。今週の日曜、十一時から! 場所はシュトランホテルの展望レストランよ。他の予定なんか全部キャンセルしなさい! これ以上の予定なんかないんだからね! お相手の釣書、メールで送るから!」
「あ、ちょ、おか――」
百合子が抗議の声を上げる前に、ブチッと通話が切られてしまった。
「あー、もうっ!」
スマートフォンを持ったままどっとベッドに倒れ込み、百合子は「はぁ」と大きなため息をついた。
仕事で疲れて帰ってきたのに、今ので更に疲れてしまった。
「週末の予定なんか初めっからないわよ……」
キャンセルする予定があったほうが、まだよかったかもしれない。不貞腐れたように呟いて、目を瞑る。
女が子供を生めるタイムリミットなんて、頭では充分わかっている。テレビでも雑誌でも、いつからか盛んに取り上げられるようになったその話題が、無理やり視界に入って自己主張してくるたびに、漠然とした焦りのようなものが湧き起こる。そんな体験を、もう何度したことだろう。でも、それを誰かに言ったことはない。なぜなら百合子の同級生の半数以上は既に結婚していて、子供がいる人も多いからだ。そんな彼女たちとは、まるで道が違えたように話が合わない。
学生時代に、勉強や好きなアイドルのことを熱心に話した彼女たちの今の話題は、旦那や子供のこと。働いている人もいるが、パートだったり、フレックスだったりで、フルタイムの正社員は少ない。それにそもそも、フルタイムの正社員をしている友人となると、今度は会って話すような時間がない。
人生人それぞれで、勝ち負けなどありはしない。
今の仕事はとても楽しくて、やりがいもある。日々充実していて満足なはずなのに、なぜだかふとした瞬間に焦るのだ。この漠然とした焦りは、百合子と同じ立場に置かれている全国の女性たちが感じるものではないだろうか。
百合子に兄弟はいない。だから、孫を抱きたいという両親の希望を叶えることができるのは、百合子だけだ。
子供は嫌いじゃない。いつかは欲しい。しかし、結婚したい相手がいない。
仕事が楽しいからと「今」ばかりを見て、「今」をこなしてきた結果がこの「今」だ。
これはどんな未来に続いているというのだろう? 孤独な老後が透けて見えるようじゃないか。
職場で自分が、密かにお局様呼ばわりされていることも知っている。
両親からの期待という名のプレッシャーと、世間の目と、女としての自分。
このまま一人で歳を取ることを怖いと思うならば、なにかを選択しなくてはいけない。しかも、早急に。きっと「今」自分は分岐点にいるのだ。
恋愛なんて慣れてないのだから、そう考えるとお見合いのほうが効率がいい可能性はある。
(お見合いして、結婚したら、一人じゃなくなる……けど……)
「はぁ……」
百合子が再び大きなため息をついたとき、手の中でスマートフォンが震えた。渋面を作って画面を見ると、母親からのメールである。言っていたお相手の釣書だろう。
「必ず行きなさいよ!」と書かれたそのメールの添付画像を開くと、透かしの入った和紙に印刷された文字が並んでいる。
お見合いなのだから、本人のプロフィールや家族構成を書いた釣書と共に、普通は顔写真がありそうなものだ。だが、メールにはそれがない。
母親が送り忘れたのかもしれないとも考えたが、たぶんそれはないだろう。あれだけ張り切っていた母親が相手の顔を知っていたら、イケメンだの、男らしいだの、なんらかのコメントを残すはずである。最初から写真はないと考えるのが妥当だ。
(お見合いに写真がないなんて……。これは相手の見た目は期待できないかもしれないわね)
次期社長という肩書きを覆すほどのなにか重大なマイナスポイントが彼にはあって、百合子のような一般家庭の三十路手前の女に見合いの話が回ってきたのかもしれない。そう思うと、憂鬱に憂鬱が重なって、またもやため息が出た。
「はぁ……知らない人と一対一でなにを話せばいいのよ」
気乗りするどころか、行きたくない気持ちが加速しただけなのだが、とりあえず相手のプロフィールを確認しようと釣書を拡大してみた。
目に入ってきた見合い相手の名前に、思わず「ん?」と声が漏れる。
「佐藤……真……」
今日百合子から仕事を奪っていった同僚の佐藤真の、やたらと自信満々な顔が脳裏を掠める。しかし、百合子は小さく息を吐いて画面をスクロールさせた。
(佐藤真なんて、よくある名前よね)
よくある苗字ランキングトップの苗字に、男性にありがちな名前の組み合わせだ。こう言ってはなんだが、全国に一万人はいそうである。
そしてなにより、同僚の彼が社長の息子であるはずがない。プラス、彼がお見合いなんかするとはとても思えなかった。
あの男は、顔もいいし業績もいいから、社内外問わずかなり女性に人気があるのだ。お見合いをする必要性はどこにもない。
単なる同姓同名の別人だろう。そう結論付けて釣書を読んでいくと、佐藤真なる人物の父親が社長を務めている会社は、ライズイノベーションプラス。なんと百合子が働いている広告代理店だった。確かに、社長の苗字は佐藤である。
(おかーさんったら……)
お相手の父親が経営する会社名をナントカだなんて言ったのは、母親があえて誤魔化したからだろう。自分が勤める会社の社長の息子と見合いだなんて、百合子がいやがると思ったのだ。
だまし討ちされた気分だが、文句を言えば「だったら自分で相手を見つけてさっさと結婚しろ」と、お説教されるのが目に見えている。そうなれば不利になるのは百合子のほうだ。ここは諦めるしかないのか……
会社の業績は悪くない。
百合子が働いているのは大阪支店で、社長とは直接会って話したこともなければ、近くで見たこともない。それでも、聞こえてくる社長の人柄は立派なもので、昔から同族経営の会社だが、ワンマン経営でもないし、風通しもいい。
どんなに忙しくても、百合子が楽しく仕事をできているのは、正しい評価と、正しい報酬が約束されているからだ。その方針を打ち出しているのが、この佐藤社長である。
しかし、息子の話はまったく聞いたことがない。というか、息子がいることすら知らなかった。
(私の釣書も向こうに行ってるだろうし、社員だってことはもう知られてるわよね……)
これでは間違ってもドタキャンなんかできない。そんなことをすれば、社長からの心証が最悪になるじゃないか。
縁談がうまくまとまらなかったとしても、せめて心証くらいはよくしておかないと。
なぁに、向こうだって、自分のところのイチ社員と結婚なんて、真っ平ゴメンのはず。このお見合いは形だけで終わる可能性が高い。とはいえ、気が重いことには違いないが。
「はぁ……」
もう何度目かもわからないため息をついて、百合子はシャワーを浴びるべく立ち上がった。
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