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6.サミュエル、エマ、それぞれ(自覚)
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「あの……、あのね、アーレ。私、なるべく早く、トレモイユ伯爵様にお会いすることは出来る?」
突然の、言葉だった。
何を言われたのか、一瞬把握が遅れる。
エマとは毎日会っている。だが彼女が求めているのが家令の自分ではなく、まだ会ったことのない奥の部屋の伯爵だと気づくと、さすがのサミュエルも慌てた。
急になぜ?
確かに不自然ではあったろうが、この2か月、特に希望してきたことはなかったのに。
もしや、何か勘づかれた──?
「いきなりどうされたのですか、エマ様。ご希望やお言伝があれば、私からお伝えいたしますが……」
「このまま……このまま旦那様に会わないと、良くないことになりそうなの。無理かな?」
ぱっと顔をあげたエマの表情に、思わず息をのむ。
追い詰められ切羽詰まったような、そんな必死なまなざし。
(────!)
わからないが、あいまいに無視出来る空気ではない。彼女は真剣そのものだ。
「承知しました。色良いお返事となるかどうかわかりませんが、お伝えしてみます」
かろうじてそう答えると、エマは更にショックを受けたような表情を見せた。
(??)
「ありがとう、お願いね、アーレ。今日用事があったの思い出したから、もう部屋に帰るね」
「え?」
弱々しい声でそう言うなり、空になったバスケットを手に持つと、エマは立ち上がって駆けだした。
「あ、エマ様、お部屋までお送りします!」
チラッと、バラけている子どもらに目を遣る。
「バジル! 野外学習は終わりだ! 子ども達を教室に連れ帰れ! 後で他の大人を回す!」
年長の少年にそう声掛け、サミュエルはエマを追った。
自問自答する。つい先ほどまで、おかしな点はなかったはずで、エマも楽しそうにしていたのに。
急にどうしたんだ?
「エマ様!」
すぐに追いついた。けれど。
「来ないで!!」
振り向いて叫んだエマからの強い拒絶と、彼女の目に光った涙を見て、金縛りにあったようにサミュエルはビクリと立ち尽くした。
逃げるように走り行くエマの背中を、ただ見送って、いま見た彼女を何度も脳裏で再生する。
(あの目には、覚えがある──)
あれは。いまの、エマの目は。
かつての自分が、ミレイユを諦めきれなくて苦しんでいた時、何度も鏡で見た。
切ない恋に溺れて、行き場のない心にもがいた。その時の目に、そっくりだった。
エマが恋をしている。
誰に?
ふいに、ゾフの言葉が蘇った。
"トレモイユ夫人を、家令のアーレとして誑し込むな"
(まさか──)
エマが想う相手は──、アーレ!?
そう考えれば、エマの行動も腑に落ちる。彼女は伯爵夫人という立場でありながら、その家の家令に想いを寄せてしまい、罪悪感を覚えた。
思いを断ち切り、自分の立ち位置を自覚するために、夫である伯爵に会わせろと要求した。
……すべては推測の域だが……。
「なんてことだ……」
呆然とした呟きは聞く者もなく、サミュエルの足元にこぼれ落ちていった。
◆ ◆ ◆
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
部屋に戻るなりベッドに倒れこんで突っ伏し、エマは後悔していた。
(アーレにひどい言い方しちゃった! 彼は何も悪くないのに! きっと驚いたに違いないわ!!)
だけど、たまらなかった。
いつの間にか膨れ上がっていた気持ちが、こんなにどうしようもなくなるなんて、想像もしてなかった。
エマは思い出す。
はじめてトレモイユ邸に来た時。
家族の前では笑顔を作って家を出たけど、本当は不安で仕方なかった。
奴隷を買い集めては切り刻む、そんな噂の男性との結婚。どんな待遇で何をされるのか。
なるべく胸を張って、顔を上げて、必死に恐怖と戦っていたエマを、優しい笑顔の家令が迎えてくれた。
それだけで、どれほど安心出来たか。
そして伯爵邸は、噂とまるでかけ離れた場所だった。
トレモイユ領で暮らす人々はあたたかく、子ども達も楽しそうに笑っていて、エマはすんなりと新しい生活に溶け込むことが出来た。
また、そうなるよう尽力してくれたのが家令のアーレ。
エマが困らないよう、楽しめるよう、常に心を配ってくれていた。
たとえそれが主人である伯爵の命令からだったとしても。
そばにいて心強く支えてくれる彼にエマは感謝し、年も大きく違わないはずなのに伯爵家を切り盛りしていてスゴイと、尊敬の念を抱いていた。
そのうちに。
エマは一日の終わりに、いつもアーレのことを思うようになっていた。
今日は彼にたくさん会えた。いっぱい声が聞けた。
楽しかった。嬉しかった。
伯爵から贈られた高価なドレスや宝石は、アーレからのプレゼントのように感じてしまうし、"教室"でアーレに毎日会えるようになって、驚くくらいに心が弾んだ。
意外な面もたくさん見れた。
子どもっぽいところには笑ったし、怒っていると、抑えていてもとても迫力があるのには、びっくりした。
時々口が悪くて、実はあんずが大好きで、アールグレイが好みで。
ある日、気がついた。
──私、アーレのことばかり考えている──
そして自分の想いに、特別な気持ちが含まれていることを自覚して、慌てた。
ダメだ。
自分はすでにエマ・カデュアールではなく、エマ・トレモイユで夫のある身。
しかもその夫は、アーレの主人。
このままではアーレに迷惑をかけてしまう!!!
あわててアーレと距離を置こうとした。
気づかれないよう、惹かれないよう、望まないように。
きっとアーレが来ているだろう"教室"には、焼き菓子を理由に時間をずらして行った。
逆効果だった。
思いがけず無防備な寝顔を見ることになり、たまらなくなって、自分の気をそらすために歌を歌った。
かつて祖母から教わった、思い出の歌。
その後初めて見た彼の素顔には、息が止まりかけた。
エマの胸中には、想像通りに素敵で、想像以上に愛しいアーレが焼き付いてしまい、あわててバスケットで顔を隠して、赤く染まった頬と耳を見られないよう必死に平静を装った。
あとの展開は、何度でも思い出す。
花冠をそっと載せてくれた彼が、すごく、すごくあたたかかった。
髪越しに伝わる柔らかな眼差しに、泣きそうになった。
あの胸に飛び込むことは許されてない。これまでも、これからも、ずっと。
こんな気持ち、初めてだった。
止まらなくなるほどの想いなんて、知らなかった。
これが"恋"というもので、自分はアーレが好きなのだと。
──気づかないままいれたなら、良かったのに。
◆ ◆ ◆
「今夜、伯爵様がお会いになります」
エマにそう告げたのは、侍女長であるジルだった。
彼女は伯爵の腹心であるゾフの妹とのことで、他の侍女たちを指導し、エマの身の周りの世話をかいがいしく焼いてくれている。とても助けられている相手ではあるが。
(こういった連絡は、いつもならアーレが伝えてくれていたのに……)
お昼の件で、気を悪くさせてしまったのだろうか……。でもアーレに会ったら心が揺らいでしまう。伯爵に会うと決めたのは、自分なのに。
エマの憂いた表情をどう受け取ったのか、ジルが言う。
「ご緊張なされなくても大丈夫ですよ。伯爵様はエマ様のことを、とてもお気に召していらっしゃいます。エマ様がいらしてから、いつも機嫌よく楽しそうにされておいでで。お仕えする私たちも、嬉しく思っておりました」
「? 私はまだ、お会いしたことがなかったはずですが……」
それなのに気に入られてる? 嬉しそう? どうして?
にっこりとジルが答える。
「膝掛けをお贈りになられましたでしょう? 私どもに何度も自慢されまして、兄のゾフなど、とうとう伯爵様お相手に"いい加減にしてください"と言ってしまったのだとか」
思い出したように、くすくすとジルが笑っている。
(膝掛け、確かにお贈りしたわ。その後ものすごい量のお礼の品が届いて、逆に恐縮したっけ)
そんなに喜んでくれてたのなら、良かった。
同時に心が痛む。
やはり伯爵様は噂とは全然違う、良い方だ。
「伯爵様のご事業の成功を妬む人たちがいろんな噂を流していますが……、伯爵様のもとで働く者たちは皆、あの方が好きなのです。幸せになっていただきたいと、僭越ながらも願っております。エマ様があの方を笑顔にしてくださると、信じております」
言葉に詰まった。
私はなんということをしてしまっているのか。
伯爵の妻としてここに来たのに、伯爵に仕える、彼のことが好きな人たちすべてを裏切るような行為をしている。
その最たるはアーレ。何も知らない、何の罪もない彼をも巻き込んで。
以前、ジルに伯爵とアーレの関係を尋ねたことがある。名前のことなど気になっていたので、血縁者ではと思っていたからだ。
とても近しい間柄だと、彼女は言っていた。
そんなふたりに、波風を立てるわけにはいかない。自分の一方的な思いのせいで、アーレに迷惑をかけるわけにはいかない。
この想いは、絶対誰にも悟られるわけにはいかない。
悶々と思い悩むうちに、気がつくとエマは素晴らしく綺麗なドレスを着せられていた。
ジルや他の侍女たちが、伯爵に会うためにと身支度を整えてくれており、髪を結い、化粧を施し、しっかり仕上がって、彼女たちから賞賛の声をおくられていた。
「後ほど伯爵様がおみえになります」
そう言って恭しく頭を下げたジルが、侍女たちと共に退室する。
自分が行くのではなく、相手が来る?
足は大丈夫なのだろうか。
不思議に思いつつも、鏡台の前にエマはひとり残された。
息を吸って、まっすぐに鏡の中の自分を見つめる。
花嫁のように純白のドレス。施された全面の刺繍が、祝うように煌いていて……。
ぽろり
頬を涙がつたい落ちる。
(どうしよう……。私がドレスを見せたい相手は、伯爵様じゃない……)
たまらなくなった。
夜に会うという意味が、エマに覚悟を強いてくる。
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙に、ぬぐう手が間に合わず、エマはついに席を立った。
(やっぱり無理)
アーレ以外の男性に触れられて、耐えられるとは思えない。
アーレに相談すれば、何とかしてくれるかもしれない。
だけど私が伯爵を拒否する理由が、アーレに思いを寄せているせいだと知られたら?
もしかしたら私のことを軽蔑するかも知れない。
勘違いだと冷たく拒否されるかも知れない。
もしくは一緒に悩んでくれるかもしれない。
そうしたら、彼を苦しめることになってしまう。
そのどれもが、絶望にしか繋がらなかった。
(逃げよう)
どこか遠くに、誰にも見つからない場所に。
逃げてひっそりと、アーレだけを想って生きていこう。
伯爵家の捜査力も、実家のことも、今のエマには思い及ばなかった。
若い彼女はただ混乱して、逃げるためにバルコニーへと出た。高い位置に、ある部屋だというのに。
◆ ◆ ◆
そして今。
エマは絶体絶命に、陥っていた。
バルコニーの手すりに、テーブルかけなどの布を結わえて、下に降りようとした。
いろいろな計算が、まったく噛み合っていなかった。
布は短く、そしてまた弱かった。
途中で千切れそうになり、全身で捕まっていて、足下には遠く地面が見える。
3階の見晴らしの良い部屋を、とアーレが用意してくれた場所は、脱走にはまるで適していなかった。
(どうしよう……、どうしよう……、誰か……アーレ!!)
そんな状態でも、呼んでしまうのは唯一人の名で。
エマはつくづく泣きそうになりながら、身じろぎひとつ出来ずにいた。
コンコンと、遠くノックの音が聞こえる。
(!! 伯爵様?!)
でも、これをどう説明すれば?
こんな場所にぶら下がってしまったのでは言いわけのしようがないし、助けてもらうにしても難しい。
「エマ……?」
部屋に姿が見えない自分を探しているのか、声が聞こえる。
(この声!!)
「ア……レ……」
絞りだした声は、呟くように微かで掠れて、とても彼まで届かないように思えた。なのに。
途端に駆けてくる音が聞こえて、バルコニーの手すりから、よく知った彼が、アーレが顔を出した。
「エマ!!」
目が合う。
(あ……今日は前髪を下ろしてないんだ)
こんな状況だというのに、そんな意識が頭をよぎる。
(アーレの瞳……、紫で綺麗……)
しびれた手が、布から離れた。
「!!!!」
彼の顔が驚愕に染まり、そしてアーレが、跳んだ。
突然の、言葉だった。
何を言われたのか、一瞬把握が遅れる。
エマとは毎日会っている。だが彼女が求めているのが家令の自分ではなく、まだ会ったことのない奥の部屋の伯爵だと気づくと、さすがのサミュエルも慌てた。
急になぜ?
確かに不自然ではあったろうが、この2か月、特に希望してきたことはなかったのに。
もしや、何か勘づかれた──?
「いきなりどうされたのですか、エマ様。ご希望やお言伝があれば、私からお伝えいたしますが……」
「このまま……このまま旦那様に会わないと、良くないことになりそうなの。無理かな?」
ぱっと顔をあげたエマの表情に、思わず息をのむ。
追い詰められ切羽詰まったような、そんな必死なまなざし。
(────!)
わからないが、あいまいに無視出来る空気ではない。彼女は真剣そのものだ。
「承知しました。色良いお返事となるかどうかわかりませんが、お伝えしてみます」
かろうじてそう答えると、エマは更にショックを受けたような表情を見せた。
(??)
「ありがとう、お願いね、アーレ。今日用事があったの思い出したから、もう部屋に帰るね」
「え?」
弱々しい声でそう言うなり、空になったバスケットを手に持つと、エマは立ち上がって駆けだした。
「あ、エマ様、お部屋までお送りします!」
チラッと、バラけている子どもらに目を遣る。
「バジル! 野外学習は終わりだ! 子ども達を教室に連れ帰れ! 後で他の大人を回す!」
年長の少年にそう声掛け、サミュエルはエマを追った。
自問自答する。つい先ほどまで、おかしな点はなかったはずで、エマも楽しそうにしていたのに。
急にどうしたんだ?
「エマ様!」
すぐに追いついた。けれど。
「来ないで!!」
振り向いて叫んだエマからの強い拒絶と、彼女の目に光った涙を見て、金縛りにあったようにサミュエルはビクリと立ち尽くした。
逃げるように走り行くエマの背中を、ただ見送って、いま見た彼女を何度も脳裏で再生する。
(あの目には、覚えがある──)
あれは。いまの、エマの目は。
かつての自分が、ミレイユを諦めきれなくて苦しんでいた時、何度も鏡で見た。
切ない恋に溺れて、行き場のない心にもがいた。その時の目に、そっくりだった。
エマが恋をしている。
誰に?
ふいに、ゾフの言葉が蘇った。
"トレモイユ夫人を、家令のアーレとして誑し込むな"
(まさか──)
エマが想う相手は──、アーレ!?
そう考えれば、エマの行動も腑に落ちる。彼女は伯爵夫人という立場でありながら、その家の家令に想いを寄せてしまい、罪悪感を覚えた。
思いを断ち切り、自分の立ち位置を自覚するために、夫である伯爵に会わせろと要求した。
……すべては推測の域だが……。
「なんてことだ……」
呆然とした呟きは聞く者もなく、サミュエルの足元にこぼれ落ちていった。
◆ ◆ ◆
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
部屋に戻るなりベッドに倒れこんで突っ伏し、エマは後悔していた。
(アーレにひどい言い方しちゃった! 彼は何も悪くないのに! きっと驚いたに違いないわ!!)
だけど、たまらなかった。
いつの間にか膨れ上がっていた気持ちが、こんなにどうしようもなくなるなんて、想像もしてなかった。
エマは思い出す。
はじめてトレモイユ邸に来た時。
家族の前では笑顔を作って家を出たけど、本当は不安で仕方なかった。
奴隷を買い集めては切り刻む、そんな噂の男性との結婚。どんな待遇で何をされるのか。
なるべく胸を張って、顔を上げて、必死に恐怖と戦っていたエマを、優しい笑顔の家令が迎えてくれた。
それだけで、どれほど安心出来たか。
そして伯爵邸は、噂とまるでかけ離れた場所だった。
トレモイユ領で暮らす人々はあたたかく、子ども達も楽しそうに笑っていて、エマはすんなりと新しい生活に溶け込むことが出来た。
また、そうなるよう尽力してくれたのが家令のアーレ。
エマが困らないよう、楽しめるよう、常に心を配ってくれていた。
たとえそれが主人である伯爵の命令からだったとしても。
そばにいて心強く支えてくれる彼にエマは感謝し、年も大きく違わないはずなのに伯爵家を切り盛りしていてスゴイと、尊敬の念を抱いていた。
そのうちに。
エマは一日の終わりに、いつもアーレのことを思うようになっていた。
今日は彼にたくさん会えた。いっぱい声が聞けた。
楽しかった。嬉しかった。
伯爵から贈られた高価なドレスや宝石は、アーレからのプレゼントのように感じてしまうし、"教室"でアーレに毎日会えるようになって、驚くくらいに心が弾んだ。
意外な面もたくさん見れた。
子どもっぽいところには笑ったし、怒っていると、抑えていてもとても迫力があるのには、びっくりした。
時々口が悪くて、実はあんずが大好きで、アールグレイが好みで。
ある日、気がついた。
──私、アーレのことばかり考えている──
そして自分の想いに、特別な気持ちが含まれていることを自覚して、慌てた。
ダメだ。
自分はすでにエマ・カデュアールではなく、エマ・トレモイユで夫のある身。
しかもその夫は、アーレの主人。
このままではアーレに迷惑をかけてしまう!!!
あわててアーレと距離を置こうとした。
気づかれないよう、惹かれないよう、望まないように。
きっとアーレが来ているだろう"教室"には、焼き菓子を理由に時間をずらして行った。
逆効果だった。
思いがけず無防備な寝顔を見ることになり、たまらなくなって、自分の気をそらすために歌を歌った。
かつて祖母から教わった、思い出の歌。
その後初めて見た彼の素顔には、息が止まりかけた。
エマの胸中には、想像通りに素敵で、想像以上に愛しいアーレが焼き付いてしまい、あわててバスケットで顔を隠して、赤く染まった頬と耳を見られないよう必死に平静を装った。
あとの展開は、何度でも思い出す。
花冠をそっと載せてくれた彼が、すごく、すごくあたたかかった。
髪越しに伝わる柔らかな眼差しに、泣きそうになった。
あの胸に飛び込むことは許されてない。これまでも、これからも、ずっと。
こんな気持ち、初めてだった。
止まらなくなるほどの想いなんて、知らなかった。
これが"恋"というもので、自分はアーレが好きなのだと。
──気づかないままいれたなら、良かったのに。
◆ ◆ ◆
「今夜、伯爵様がお会いになります」
エマにそう告げたのは、侍女長であるジルだった。
彼女は伯爵の腹心であるゾフの妹とのことで、他の侍女たちを指導し、エマの身の周りの世話をかいがいしく焼いてくれている。とても助けられている相手ではあるが。
(こういった連絡は、いつもならアーレが伝えてくれていたのに……)
お昼の件で、気を悪くさせてしまったのだろうか……。でもアーレに会ったら心が揺らいでしまう。伯爵に会うと決めたのは、自分なのに。
エマの憂いた表情をどう受け取ったのか、ジルが言う。
「ご緊張なされなくても大丈夫ですよ。伯爵様はエマ様のことを、とてもお気に召していらっしゃいます。エマ様がいらしてから、いつも機嫌よく楽しそうにされておいでで。お仕えする私たちも、嬉しく思っておりました」
「? 私はまだ、お会いしたことがなかったはずですが……」
それなのに気に入られてる? 嬉しそう? どうして?
にっこりとジルが答える。
「膝掛けをお贈りになられましたでしょう? 私どもに何度も自慢されまして、兄のゾフなど、とうとう伯爵様お相手に"いい加減にしてください"と言ってしまったのだとか」
思い出したように、くすくすとジルが笑っている。
(膝掛け、確かにお贈りしたわ。その後ものすごい量のお礼の品が届いて、逆に恐縮したっけ)
そんなに喜んでくれてたのなら、良かった。
同時に心が痛む。
やはり伯爵様は噂とは全然違う、良い方だ。
「伯爵様のご事業の成功を妬む人たちがいろんな噂を流していますが……、伯爵様のもとで働く者たちは皆、あの方が好きなのです。幸せになっていただきたいと、僭越ながらも願っております。エマ様があの方を笑顔にしてくださると、信じております」
言葉に詰まった。
私はなんということをしてしまっているのか。
伯爵の妻としてここに来たのに、伯爵に仕える、彼のことが好きな人たちすべてを裏切るような行為をしている。
その最たるはアーレ。何も知らない、何の罪もない彼をも巻き込んで。
以前、ジルに伯爵とアーレの関係を尋ねたことがある。名前のことなど気になっていたので、血縁者ではと思っていたからだ。
とても近しい間柄だと、彼女は言っていた。
そんなふたりに、波風を立てるわけにはいかない。自分の一方的な思いのせいで、アーレに迷惑をかけるわけにはいかない。
この想いは、絶対誰にも悟られるわけにはいかない。
悶々と思い悩むうちに、気がつくとエマは素晴らしく綺麗なドレスを着せられていた。
ジルや他の侍女たちが、伯爵に会うためにと身支度を整えてくれており、髪を結い、化粧を施し、しっかり仕上がって、彼女たちから賞賛の声をおくられていた。
「後ほど伯爵様がおみえになります」
そう言って恭しく頭を下げたジルが、侍女たちと共に退室する。
自分が行くのではなく、相手が来る?
足は大丈夫なのだろうか。
不思議に思いつつも、鏡台の前にエマはひとり残された。
息を吸って、まっすぐに鏡の中の自分を見つめる。
花嫁のように純白のドレス。施された全面の刺繍が、祝うように煌いていて……。
ぽろり
頬を涙がつたい落ちる。
(どうしよう……。私がドレスを見せたい相手は、伯爵様じゃない……)
たまらなくなった。
夜に会うという意味が、エマに覚悟を強いてくる。
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙に、ぬぐう手が間に合わず、エマはついに席を立った。
(やっぱり無理)
アーレ以外の男性に触れられて、耐えられるとは思えない。
アーレに相談すれば、何とかしてくれるかもしれない。
だけど私が伯爵を拒否する理由が、アーレに思いを寄せているせいだと知られたら?
もしかしたら私のことを軽蔑するかも知れない。
勘違いだと冷たく拒否されるかも知れない。
もしくは一緒に悩んでくれるかもしれない。
そうしたら、彼を苦しめることになってしまう。
そのどれもが、絶望にしか繋がらなかった。
(逃げよう)
どこか遠くに、誰にも見つからない場所に。
逃げてひっそりと、アーレだけを想って生きていこう。
伯爵家の捜査力も、実家のことも、今のエマには思い及ばなかった。
若い彼女はただ混乱して、逃げるためにバルコニーへと出た。高い位置に、ある部屋だというのに。
◆ ◆ ◆
そして今。
エマは絶体絶命に、陥っていた。
バルコニーの手すりに、テーブルかけなどの布を結わえて、下に降りようとした。
いろいろな計算が、まったく噛み合っていなかった。
布は短く、そしてまた弱かった。
途中で千切れそうになり、全身で捕まっていて、足下には遠く地面が見える。
3階の見晴らしの良い部屋を、とアーレが用意してくれた場所は、脱走にはまるで適していなかった。
(どうしよう……、どうしよう……、誰か……アーレ!!)
そんな状態でも、呼んでしまうのは唯一人の名で。
エマはつくづく泣きそうになりながら、身じろぎひとつ出来ずにいた。
コンコンと、遠くノックの音が聞こえる。
(!! 伯爵様?!)
でも、これをどう説明すれば?
こんな場所にぶら下がってしまったのでは言いわけのしようがないし、助けてもらうにしても難しい。
「エマ……?」
部屋に姿が見えない自分を探しているのか、声が聞こえる。
(この声!!)
「ア……レ……」
絞りだした声は、呟くように微かで掠れて、とても彼まで届かないように思えた。なのに。
途端に駆けてくる音が聞こえて、バルコニーの手すりから、よく知った彼が、アーレが顔を出した。
「エマ!!」
目が合う。
(あ……今日は前髪を下ろしてないんだ)
こんな状況だというのに、そんな意識が頭をよぎる。
(アーレの瞳……、紫で綺麗……)
しびれた手が、布から離れた。
「!!!!」
彼の顔が驚愕に染まり、そしてアーレが、跳んだ。
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