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4.エマ、地下室を走る(噂の真相)
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エマ・カデュアールが伯爵家に嫁いでから、2か月が経とうとしていた。
(どうしよう。私、妻らしいことをしてないまま、好待遇の居候になってしまっているわ)
心地良い居室に趣味の良い寝室、ふかふかの大きなベッド、あらゆる食材を使った贅沢な料理。
男爵家にいたころとは比べものにならない環境で、日々を過ごしている。
実家を出た時の決死の思いは、完全に行き場を失っていた。
依然として夫であるトレモイユ伯爵と面会する機会はなく、むろんその方が気は楽であるではあるものの。
こうなると逆に、「何もしていない」という罪悪感が芽生え、焦りを感じる。
最初の頃は、見事な邸宅の見物をして過ごした。
続いて、季節のままに色変わる庭園を楽しみ、「ご退屈なのでは」と、アーレが勧めてくる、お茶会や趣味の習い事を試してはみた。
伯爵家からの支度金の大半を、弟の学費や実家の生活費にまわしてしまったと知られた時には、叱られることもなく、アーレが付き添った状態で街へドレスを仕立てに連れ出され、伯爵の名のもと、大量の注文の他、装飾品や帽子に靴と、びっくりするほどの品々を贈られてしまった。
(このまま甘えていて、良いわけがない)
エマは何とか伯爵家に貢献できないかと考えるようになっていた。
アーレことサミュエルからすれば、大切だった人の孫娘を預かっている感覚である。
"快適に楽しんでくれれば良い"くらいの考えだったので、夫婦である両者の間には決定的な意識の齟齬があったが、残念なことにそれを指摘してくれる人物は誰もいなかった。
そんなわけでエマは"自分に出来る何か"を探すため、本日は厨房付近で雑用を探していた。
その時である。耳が、子どもの囁くような声を拾った。
「あの人?」
「きっとそうだよ」
(?)
背中に視線を感じ、パッと振り返ると、さっと物陰に誰かが隠れるのが見えた。
(???)
エマには小さな弟たちがいたので、こういった状況には覚えがある。
(伯爵家に子どもがいる?)
不思議に思って、そちらに歩を進めると……。
「大変、こっちに来る」
「気づかれた?」
ふたつの小さな声は焦りを含んで、タッと走り出した。
「あ、待って」
パタパタと走り去る後ろ姿は簡素なスカートで、平民の女の子だと思えた。
彼女たちは、すばやく厨房横の食料庫に入り込み、たくさんの樽や野菜箱の間に潜り込んだ。エマがのぞき込むと、そこには階段がある。
(ワイン蔵かしら?)
思わず続いて駆け下りた。
突き当りの扉を開けると通路が広がっており、反射的に子どもの影を追いかけて、エマは足を踏み入れてしまった。
長い回廊に、途中で後悔する。
もしやここは、入ってはならないと言われていた地下室では。
だけど想像以上に入り組んでいて、子ども達を見失ったらそのまま迷子になってしまいそうに思われた。ついていくしかない。
進むたびに魔石ランプが点るので、視界は確保出来ている。
薄暗い地下の廊下には、いくつもの部屋があり、チラチラと横目に甲冑やら見慣れぬ武具的な何かが並べられているのが見て取れた。
反響する足音をお伴に走り抜けると、ついに上への階段が現れ、エマはホッと安堵する。
上がると、屋外に出た。
頭上から小鳥の声が降り注ぎ、草の香りが鼻をくすぐる。
そこは雑木林の中で、振り返ると背後に伯爵の館が見えた。
そして眼前には、こじんまりとした家屋がある。
(離れ? にしては、なんだか造りが……小屋かしら?)
その中から。
「遅い! どこに行っていた、リュシー、クロエ!!」
鋭い叱責の声が響いた。
聞き覚えのある声。
「アーレ?!」
「!! エマ! ……さま??? なぜここへ?」
窓をのぞいて、予想通りの声の主にエマは驚き、アーレは。
彼は予想外の相手を見た驚きに、硬直していた。
アーレの周りには幾人かの子どもたちが座し、先ほどのふたりの女の子は、立たされて叱られている、そんな状況に思えた。
アーレが慌てたように、窓外のエマと、ふたりの子ども──リュシーとクロエと呼んでいた──を見比べる。小屋の扉を開き、エマを中に招き入れながら、眉根を寄せて確認してきた。
「エマ様、まさか地下を通り抜けられたのでは?」
「ご、ごめんなさい、入ってはいけないと言われてたのに」
「……何かご覧になられましたか?」
(アーレの声が、緊張してる?)
いつも穏やかで、冷静なアーレが?
まさか、噂の奴隷!! ……たちは、いなかったわ。
「暗いし必死だったから。たくさんの甲冑とかはあった気がするけど……」
答えた途端、アーレが目に見えて動揺した。
「あ、あれは、トレモイユ伯爵が若い頃に趣味で集めた収蔵品でして」
(あら?)
「ゾフ様は"ガラクタ"って言ってたー」
「何ッ?! ゾフのやつ! あ、いや、」
割って入った子どもに反応したアーレに、他の子たちも口々に言葉を重ねる。
「でもアーレ様はお気に入りなんだよねぇ」
「アーレ様にうっかり話を振ると大変なことになるの」
「めちゃくちゃ説明されちゃうよ。ライレキがどーの、使い方がどーの」
「お前たち……! 俺の貴重な教えをそんな風に思ってたのか!」
くすくす
思わずエマから笑いがこぼれる。
(素の彼は「俺」って言うのね)
エマにとってのアーレは、年が近いはずなのに自分よりずっと大人で、何でも卒なくこなす完璧な人だったけれど。
デキる家令の意外な一面を見て、エマはなんだかとても嬉しくなり、少しからかってみたくなった。
どうやら伯爵様のコレクションに、アーレも相当夢中らしい。
「なぜあなたが慌てるの、アーレ。トレモイユ伯爵のコレクションなのでしょう?」
「そうです! 俺、いえ、私には関係のない品々です」
ハッとしたように、エマの言葉に乗る彼なんて、初めて見る姿だ。
「殿方ってああいうのがお好きなのね。お父様もお好みだったから、わかります」
「! カデュアール男爵も? ぜひ、語り合いたい……!!」
小声で答えたアーレが、力強く小さな握りこぶしを作ったのをエマは見逃さなかった。
(可愛いわ。うちの弟たちみたい)
「もしや地下室に入るなと言われたのは、それを見られたくなかったせい?」
奴隷の気配など、どこにもなかった。
エマは明るい気持ちで、これまで気になっていたことを尋ねることが出来た。
落ち着きを取り戻したらしいサミュエルが、ため息交じりに説明する。
「それもありますが、危ないのです。武器も多いし、古い道具をたくさん置いているので、もし崩れてきたら怪我をします。いくつかの仕掛けもあり、暗く迷いやすい場所です。ことさら足を踏み入れられることもないかと……」
「そうだったのね。勝手に入ってごめんなさい」
「いえ、元はといえばどうやらこの子たちが……。そうだ! お前たちも通り道に使うなとあれほど言っておいたのに!」
「お姫様が見たかったの」
(??)
「アーレ様が前に、お姫様が来てるって、おっしゃってたから」
「だからといって禁じた地下を通る理由にはならんぞ。そもそも"見たい"という発言自体、エマ様に対して失礼極まりない」
腕組みしたアーレが、仁王立ちで子ども達を見下ろしているが。
(お姫様? 私に失礼? ちょっと待って。それってつまり)
「ア、アーレ。"お姫様"ってもしかして私のこと?」
確認するのが恥ずかしい。違っていたら、とんでもない恥さらしだ。であるのに。
「そうです」
あっさり真顔で肯定されて、エマは耳まで熱くなるのを感じる。
(そ、そんな、私はただの男爵家の娘で)
その上いまは人妻の身だ。
婚姻届けにサインをしただけの妻だけど、間違いなく既婚者である。
(お姫様だなんて……!)
しかもアーレがそう言った、という事実がもう「どんな評価なの?」と問いたくなる。
(アーレに、アーレに「そうです」って頷かれちゃった……!)
もし理由を尋ねていたら、エマはさらに困惑していたかもしれない。
「大切で可愛いから」と、どこかの60歳は答えかねなかったから。
この2か月、エマのことを"存分に世話を焼いて良い相手"として認識していたサミュエルの意識は、彼女の優先度をかなり引き上げていた。まさに姫と遇するほどに。
問題は"孫として"。そう思っている点にあったが。
少女たちがか細い声で言う。
「……ごめんなさい、アーレ様」
「でもお姫様。本当にすごくおキレイ」
(キャアアアアア、やめてぇぇぇぇ)
キレイ? キレイでしょうか? ありふれた金髪ですよ? 瞳の色だって、普通に青で珍しくもなんとも。
いっそ美人と名高かった祖母にでも似ていれば、もっと胸を張れたのに。
つややかな黒髪で、明るいブラウングリーンの瞳が魅力的な女性だったと聞く。
そんなことをエマがぐるぐると考えていると、子どもの声が上ずり始めた。
「ぐすっ……」
「エマ様、ごめんなざぃ……」
「お前たち、泣けばいいというものでは――」
「ま、待って、アーレ!! 発言とか、私は気にしてないから。地下は私も通っちゃったし、私も謝るから、お願い、許してあげて」
むしろ"お姫様"と呼んでもらえて、すごく嬉しかった。
それに私が屋敷からついて来なければ、この子達も地下を通ったことがバレなかったはずなのに!
そう思ったエマがあわてて執り成しに入ると、アーレは少し困ったような素振りを見せながらもリュシーとクロエに言った。
「エマ様もこうおっしゃっているから、今回のことは特別に不問に付す。だが二度目はないぞ? 許可なく地下は通らない。言葉には気をつける。わかったな?」
アーレの念押しに、項垂れつつ頷く子ども達を見ながら、まずは場が鎮まったと胸をなでおろし、エマは気になっていたことを聞いてみた。
「ありがとう、アーレ。ねえ、この子達はどういう子達なの?」
固唾をのんでやりとりを見守っていた周りの子たちは、十人はいる。
「元奴隷や……使用人の子もいますが、領内の"これは"と見込んだ子ども達です。将来トレモイユの役に立ってもらうために教育をしています。2年間徹底的に学ばせ、適性を見て、次の場へ送り出す予定です。通常は他の者が教育に当たっているのですが、たまに私やゾフが進捗具合などを確認していまして」
今日アーレがいたのは、その確認の日だったらしい。
トレモイユのシステムの一環で、こういう場所を各地に何か所か設けてあると、アーレは説明してくれた。
つまりは養成機関であり、この小屋は教室だった。
奴隷の子ども、地下室の噂。
何かがねじ曲がって広がっていただけ?
エマは自分の中で伯爵家に対する疑惑が霧散していくのを感じた。
それにこの場所。
空気が良くて、風が爽やかで、とっても癒される。
子どもを見ていると、弟たちを思い出す。
「アーレ。私またここに来ても良いかしら?」
気がつくと、エマはそんなことを尋ねていた。
アーレが目を丸くしたのが、おろした前髪越しにもわかった。
(どうしよう。私、妻らしいことをしてないまま、好待遇の居候になってしまっているわ)
心地良い居室に趣味の良い寝室、ふかふかの大きなベッド、あらゆる食材を使った贅沢な料理。
男爵家にいたころとは比べものにならない環境で、日々を過ごしている。
実家を出た時の決死の思いは、完全に行き場を失っていた。
依然として夫であるトレモイユ伯爵と面会する機会はなく、むろんその方が気は楽であるではあるものの。
こうなると逆に、「何もしていない」という罪悪感が芽生え、焦りを感じる。
最初の頃は、見事な邸宅の見物をして過ごした。
続いて、季節のままに色変わる庭園を楽しみ、「ご退屈なのでは」と、アーレが勧めてくる、お茶会や趣味の習い事を試してはみた。
伯爵家からの支度金の大半を、弟の学費や実家の生活費にまわしてしまったと知られた時には、叱られることもなく、アーレが付き添った状態で街へドレスを仕立てに連れ出され、伯爵の名のもと、大量の注文の他、装飾品や帽子に靴と、びっくりするほどの品々を贈られてしまった。
(このまま甘えていて、良いわけがない)
エマは何とか伯爵家に貢献できないかと考えるようになっていた。
アーレことサミュエルからすれば、大切だった人の孫娘を預かっている感覚である。
"快適に楽しんでくれれば良い"くらいの考えだったので、夫婦である両者の間には決定的な意識の齟齬があったが、残念なことにそれを指摘してくれる人物は誰もいなかった。
そんなわけでエマは"自分に出来る何か"を探すため、本日は厨房付近で雑用を探していた。
その時である。耳が、子どもの囁くような声を拾った。
「あの人?」
「きっとそうだよ」
(?)
背中に視線を感じ、パッと振り返ると、さっと物陰に誰かが隠れるのが見えた。
(???)
エマには小さな弟たちがいたので、こういった状況には覚えがある。
(伯爵家に子どもがいる?)
不思議に思って、そちらに歩を進めると……。
「大変、こっちに来る」
「気づかれた?」
ふたつの小さな声は焦りを含んで、タッと走り出した。
「あ、待って」
パタパタと走り去る後ろ姿は簡素なスカートで、平民の女の子だと思えた。
彼女たちは、すばやく厨房横の食料庫に入り込み、たくさんの樽や野菜箱の間に潜り込んだ。エマがのぞき込むと、そこには階段がある。
(ワイン蔵かしら?)
思わず続いて駆け下りた。
突き当りの扉を開けると通路が広がっており、反射的に子どもの影を追いかけて、エマは足を踏み入れてしまった。
長い回廊に、途中で後悔する。
もしやここは、入ってはならないと言われていた地下室では。
だけど想像以上に入り組んでいて、子ども達を見失ったらそのまま迷子になってしまいそうに思われた。ついていくしかない。
進むたびに魔石ランプが点るので、視界は確保出来ている。
薄暗い地下の廊下には、いくつもの部屋があり、チラチラと横目に甲冑やら見慣れぬ武具的な何かが並べられているのが見て取れた。
反響する足音をお伴に走り抜けると、ついに上への階段が現れ、エマはホッと安堵する。
上がると、屋外に出た。
頭上から小鳥の声が降り注ぎ、草の香りが鼻をくすぐる。
そこは雑木林の中で、振り返ると背後に伯爵の館が見えた。
そして眼前には、こじんまりとした家屋がある。
(離れ? にしては、なんだか造りが……小屋かしら?)
その中から。
「遅い! どこに行っていた、リュシー、クロエ!!」
鋭い叱責の声が響いた。
聞き覚えのある声。
「アーレ?!」
「!! エマ! ……さま??? なぜここへ?」
窓をのぞいて、予想通りの声の主にエマは驚き、アーレは。
彼は予想外の相手を見た驚きに、硬直していた。
アーレの周りには幾人かの子どもたちが座し、先ほどのふたりの女の子は、立たされて叱られている、そんな状況に思えた。
アーレが慌てたように、窓外のエマと、ふたりの子ども──リュシーとクロエと呼んでいた──を見比べる。小屋の扉を開き、エマを中に招き入れながら、眉根を寄せて確認してきた。
「エマ様、まさか地下を通り抜けられたのでは?」
「ご、ごめんなさい、入ってはいけないと言われてたのに」
「……何かご覧になられましたか?」
(アーレの声が、緊張してる?)
いつも穏やかで、冷静なアーレが?
まさか、噂の奴隷!! ……たちは、いなかったわ。
「暗いし必死だったから。たくさんの甲冑とかはあった気がするけど……」
答えた途端、アーレが目に見えて動揺した。
「あ、あれは、トレモイユ伯爵が若い頃に趣味で集めた収蔵品でして」
(あら?)
「ゾフ様は"ガラクタ"って言ってたー」
「何ッ?! ゾフのやつ! あ、いや、」
割って入った子どもに反応したアーレに、他の子たちも口々に言葉を重ねる。
「でもアーレ様はお気に入りなんだよねぇ」
「アーレ様にうっかり話を振ると大変なことになるの」
「めちゃくちゃ説明されちゃうよ。ライレキがどーの、使い方がどーの」
「お前たち……! 俺の貴重な教えをそんな風に思ってたのか!」
くすくす
思わずエマから笑いがこぼれる。
(素の彼は「俺」って言うのね)
エマにとってのアーレは、年が近いはずなのに自分よりずっと大人で、何でも卒なくこなす完璧な人だったけれど。
デキる家令の意外な一面を見て、エマはなんだかとても嬉しくなり、少しからかってみたくなった。
どうやら伯爵様のコレクションに、アーレも相当夢中らしい。
「なぜあなたが慌てるの、アーレ。トレモイユ伯爵のコレクションなのでしょう?」
「そうです! 俺、いえ、私には関係のない品々です」
ハッとしたように、エマの言葉に乗る彼なんて、初めて見る姿だ。
「殿方ってああいうのがお好きなのね。お父様もお好みだったから、わかります」
「! カデュアール男爵も? ぜひ、語り合いたい……!!」
小声で答えたアーレが、力強く小さな握りこぶしを作ったのをエマは見逃さなかった。
(可愛いわ。うちの弟たちみたい)
「もしや地下室に入るなと言われたのは、それを見られたくなかったせい?」
奴隷の気配など、どこにもなかった。
エマは明るい気持ちで、これまで気になっていたことを尋ねることが出来た。
落ち着きを取り戻したらしいサミュエルが、ため息交じりに説明する。
「それもありますが、危ないのです。武器も多いし、古い道具をたくさん置いているので、もし崩れてきたら怪我をします。いくつかの仕掛けもあり、暗く迷いやすい場所です。ことさら足を踏み入れられることもないかと……」
「そうだったのね。勝手に入ってごめんなさい」
「いえ、元はといえばどうやらこの子たちが……。そうだ! お前たちも通り道に使うなとあれほど言っておいたのに!」
「お姫様が見たかったの」
(??)
「アーレ様が前に、お姫様が来てるって、おっしゃってたから」
「だからといって禁じた地下を通る理由にはならんぞ。そもそも"見たい"という発言自体、エマ様に対して失礼極まりない」
腕組みしたアーレが、仁王立ちで子ども達を見下ろしているが。
(お姫様? 私に失礼? ちょっと待って。それってつまり)
「ア、アーレ。"お姫様"ってもしかして私のこと?」
確認するのが恥ずかしい。違っていたら、とんでもない恥さらしだ。であるのに。
「そうです」
あっさり真顔で肯定されて、エマは耳まで熱くなるのを感じる。
(そ、そんな、私はただの男爵家の娘で)
その上いまは人妻の身だ。
婚姻届けにサインをしただけの妻だけど、間違いなく既婚者である。
(お姫様だなんて……!)
しかもアーレがそう言った、という事実がもう「どんな評価なの?」と問いたくなる。
(アーレに、アーレに「そうです」って頷かれちゃった……!)
もし理由を尋ねていたら、エマはさらに困惑していたかもしれない。
「大切で可愛いから」と、どこかの60歳は答えかねなかったから。
この2か月、エマのことを"存分に世話を焼いて良い相手"として認識していたサミュエルの意識は、彼女の優先度をかなり引き上げていた。まさに姫と遇するほどに。
問題は"孫として"。そう思っている点にあったが。
少女たちがか細い声で言う。
「……ごめんなさい、アーレ様」
「でもお姫様。本当にすごくおキレイ」
(キャアアアアア、やめてぇぇぇぇ)
キレイ? キレイでしょうか? ありふれた金髪ですよ? 瞳の色だって、普通に青で珍しくもなんとも。
いっそ美人と名高かった祖母にでも似ていれば、もっと胸を張れたのに。
つややかな黒髪で、明るいブラウングリーンの瞳が魅力的な女性だったと聞く。
そんなことをエマがぐるぐると考えていると、子どもの声が上ずり始めた。
「ぐすっ……」
「エマ様、ごめんなざぃ……」
「お前たち、泣けばいいというものでは――」
「ま、待って、アーレ!! 発言とか、私は気にしてないから。地下は私も通っちゃったし、私も謝るから、お願い、許してあげて」
むしろ"お姫様"と呼んでもらえて、すごく嬉しかった。
それに私が屋敷からついて来なければ、この子達も地下を通ったことがバレなかったはずなのに!
そう思ったエマがあわてて執り成しに入ると、アーレは少し困ったような素振りを見せながらもリュシーとクロエに言った。
「エマ様もこうおっしゃっているから、今回のことは特別に不問に付す。だが二度目はないぞ? 許可なく地下は通らない。言葉には気をつける。わかったな?」
アーレの念押しに、項垂れつつ頷く子ども達を見ながら、まずは場が鎮まったと胸をなでおろし、エマは気になっていたことを聞いてみた。
「ありがとう、アーレ。ねえ、この子達はどういう子達なの?」
固唾をのんでやりとりを見守っていた周りの子たちは、十人はいる。
「元奴隷や……使用人の子もいますが、領内の"これは"と見込んだ子ども達です。将来トレモイユの役に立ってもらうために教育をしています。2年間徹底的に学ばせ、適性を見て、次の場へ送り出す予定です。通常は他の者が教育に当たっているのですが、たまに私やゾフが進捗具合などを確認していまして」
今日アーレがいたのは、その確認の日だったらしい。
トレモイユのシステムの一環で、こういう場所を各地に何か所か設けてあると、アーレは説明してくれた。
つまりは養成機関であり、この小屋は教室だった。
奴隷の子ども、地下室の噂。
何かがねじ曲がって広がっていただけ?
エマは自分の中で伯爵家に対する疑惑が霧散していくのを感じた。
それにこの場所。
空気が良くて、風が爽やかで、とっても癒される。
子どもを見ていると、弟たちを思い出す。
「アーレ。私またここに来ても良いかしら?」
気がつくと、エマはそんなことを尋ねていた。
アーレが目を丸くしたのが、おろした前髪越しにもわかった。
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