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果てない殺人
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☆
ふと気づくと、俺の前には死体があった。
ぱっくりと割れた頭の傍らには、猫の置物が転がっている。頭部から流れ出た血は、既に完全に赤黒く固まっていた。そして表情を醜く歪ませたこの男。他でもない、俺の父親だった。父がいつも籠っている黴臭い地下室で、彼は呆気なく事切れていたのだ。俺はその現場を、ドアから少し中に入ったところで、他人事のように眺めている。
はて、何が起こったものか。思い出そうとしてもまるでできない。だが俺は特に狼狽することもなかった。記憶がないのはいつものことである。幼少期の事故以来、おれの記憶はきっかり三十分で飛んでしまう。ただ、何もかもを忘れるわけではない。その三十分に自分が何をしたのかの部分だけが、綺麗さっぱり葬り去られる。もちろん言葉や知識は残っているし、昔覚えた円周率だって諳んじることはできるのだ。
俺は視線を落とし、首にかかった手帳を認めた。何だろう、これは。表紙には「記憶ノート」とあり、「俺はこれで記憶を引き継ぐことにした」と注意書きがある。なるほど、俺の考えそうなことだ。妙に納得しながら開くと、日付と行った事柄が羅列されていた。最新のページにはたった一行。
「許せない。父を殺してやる。」
ちっ、と舌打ちをする。薄々勘付いてはいたが、どうやらこの事件の犯人は俺らしい。過去の俺め、面倒なことをしやがって、と悪態を吐く。
そこで俺ははたと思い止まった。その一文は、不自然なほどに震えていたのだ。次に死体の血へ目を向ける。どうして黒く変色し終えているのか。素人目から見ても、死後数時間以上経過しているのは明らかだ。
読めたぞ、と俺は笑った。これは罠だ。俺の「記憶喪失癖」を利用して、何者かが俺に殺人の濡れ衣を着せようとしてるのだ。あの文章の震えは、筆跡を誤魔化した証拠。手帳を見た人や、記憶のない俺にまで「犯人は俺だ」と信じ込ませるのが真犯人の狙いなのだ。
なかなかよく考えられた作戦だが、一つ犯人が見誤ったことがあるとすれば、それは俺の頭脳の優秀さだ。この文を消してしまえば、誤解されることもないだろう。俺は消しゴムで丁寧にその痕跡を消し去る。これでひとまず安心だが、俺を陥れようとした犯人を突き止めないことには気が済まない。ではどうすればいいのか。
自室でゆっくり考えよう、と俺は踵を返し、後ろ手にドアを閉めた。埃の積もった階段をスリッパで登る。館の反対側にある俺の部屋まで歩くと、中に入った。本棚にクローゼット。机には無造作に放り出され、開いたままの雑誌。そんなものには気も留めず、椅子に座ってひたすら思索に耽った。何か上手い手立てはないものか……。
☆
ふと気づくと、俺は殺風景な部屋の中で、椅子に腰掛けていた。俺は一体何をしていたのか。記憶ノートと題された手帳の最新頁には、何も書かれていない。前の机には、週刊誌が置いてあった。どうせこれを読んでいたのだろう。そう独り合点しながら、俺は開かれていたページの活字を目で追った。
見出しには、「有名科学者S氏の恐るべき人体実験」。本来の俺なら、いかにも胡散臭いフレーズを一笑に付すべきところだ。ところが俺は、ひどく興味を唆られていた。そのS氏とは俺の父なのだ。看過できず、読み進めていくと、驚嘆に値する事実が浮かび上がってきた。彼は自らの子供を「天才」にすべく、幼いときに意図して頭に傷を負わせ、人工的にサヴァン症候群を作り出そうとしていたらしい。左脳に銃弾で損傷を受けた異国の九歳の少年が、驚異的な機械工作の能力を得た実例が紹介されている。だが実際にそんな上手くいくはずもなく、子の中には後遺症が残った人もいるというーーそんな言葉でその怪しげな記事は締めくくられていた。
.……俺だ。
その被害者は、俺だ。
味わったことのない感情が押し寄せてくる。父のせいで、俺の人生は台無しになったのだ。いや、記憶が積み重ならない毎日を、暗闇を懐中電灯一本で歩くようなこの頼りない日々を、人生と呼んでもいいのだろうか?
怒りが抑えられない。これは殺意だ、と認識した。
俺は手帳に「許せない。父を殺してやる。」と殴り書きすると、雑誌を閉めることも忘れて部屋を飛び出した。向かうは無論、父が四六時中研究を行っている地下室である。
一歩一歩、階段を降りて行った。スリッパが埃の上に足跡を残していく。何故だか、階段には俺のスリッパが無数に往復した跡が刻まれていた。奇妙だ、普段はこんなところに用はないはずだがーー。疑問に思ったものの、そこまでだった。俺は立ち止まりはしなかった。
地下室のドアの前に辿り着く。まだ殺害方法を考えていなかったことに今更思い当たる。そうだ、部屋の中に猫の置物があったはずだ。それで頭を思いっきり殴ってしまおう。
俺は深呼吸をする。もう寸分の迷いもなかった。ドアノブをつかみ、勢いよく開け、中へ一歩を踏み出してーー。
☆
ふと気づくと、俺の前には死体があった。
ふと気づくと、俺の前には死体があった。
ぱっくりと割れた頭の傍らには、猫の置物が転がっている。頭部から流れ出た血は、既に完全に赤黒く固まっていた。そして表情を醜く歪ませたこの男。他でもない、俺の父親だった。父がいつも籠っている黴臭い地下室で、彼は呆気なく事切れていたのだ。俺はその現場を、ドアから少し中に入ったところで、他人事のように眺めている。
はて、何が起こったものか。思い出そうとしてもまるでできない。だが俺は特に狼狽することもなかった。記憶がないのはいつものことである。幼少期の事故以来、おれの記憶はきっかり三十分で飛んでしまう。ただ、何もかもを忘れるわけではない。その三十分に自分が何をしたのかの部分だけが、綺麗さっぱり葬り去られる。もちろん言葉や知識は残っているし、昔覚えた円周率だって諳んじることはできるのだ。
俺は視線を落とし、首にかかった手帳を認めた。何だろう、これは。表紙には「記憶ノート」とあり、「俺はこれで記憶を引き継ぐことにした」と注意書きがある。なるほど、俺の考えそうなことだ。妙に納得しながら開くと、日付と行った事柄が羅列されていた。最新のページにはたった一行。
「許せない。父を殺してやる。」
ちっ、と舌打ちをする。薄々勘付いてはいたが、どうやらこの事件の犯人は俺らしい。過去の俺め、面倒なことをしやがって、と悪態を吐く。
そこで俺ははたと思い止まった。その一文は、不自然なほどに震えていたのだ。次に死体の血へ目を向ける。どうして黒く変色し終えているのか。素人目から見ても、死後数時間以上経過しているのは明らかだ。
読めたぞ、と俺は笑った。これは罠だ。俺の「記憶喪失癖」を利用して、何者かが俺に殺人の濡れ衣を着せようとしてるのだ。あの文章の震えは、筆跡を誤魔化した証拠。手帳を見た人や、記憶のない俺にまで「犯人は俺だ」と信じ込ませるのが真犯人の狙いなのだ。
なかなかよく考えられた作戦だが、一つ犯人が見誤ったことがあるとすれば、それは俺の頭脳の優秀さだ。この文を消してしまえば、誤解されることもないだろう。俺は消しゴムで丁寧にその痕跡を消し去る。これでひとまず安心だが、俺を陥れようとした犯人を突き止めないことには気が済まない。ではどうすればいいのか。
自室でゆっくり考えよう、と俺は踵を返し、後ろ手にドアを閉めた。埃の積もった階段をスリッパで登る。館の反対側にある俺の部屋まで歩くと、中に入った。本棚にクローゼット。机には無造作に放り出され、開いたままの雑誌。そんなものには気も留めず、椅子に座ってひたすら思索に耽った。何か上手い手立てはないものか……。
☆
ふと気づくと、俺は殺風景な部屋の中で、椅子に腰掛けていた。俺は一体何をしていたのか。記憶ノートと題された手帳の最新頁には、何も書かれていない。前の机には、週刊誌が置いてあった。どうせこれを読んでいたのだろう。そう独り合点しながら、俺は開かれていたページの活字を目で追った。
見出しには、「有名科学者S氏の恐るべき人体実験」。本来の俺なら、いかにも胡散臭いフレーズを一笑に付すべきところだ。ところが俺は、ひどく興味を唆られていた。そのS氏とは俺の父なのだ。看過できず、読み進めていくと、驚嘆に値する事実が浮かび上がってきた。彼は自らの子供を「天才」にすべく、幼いときに意図して頭に傷を負わせ、人工的にサヴァン症候群を作り出そうとしていたらしい。左脳に銃弾で損傷を受けた異国の九歳の少年が、驚異的な機械工作の能力を得た実例が紹介されている。だが実際にそんな上手くいくはずもなく、子の中には後遺症が残った人もいるというーーそんな言葉でその怪しげな記事は締めくくられていた。
.……俺だ。
その被害者は、俺だ。
味わったことのない感情が押し寄せてくる。父のせいで、俺の人生は台無しになったのだ。いや、記憶が積み重ならない毎日を、暗闇を懐中電灯一本で歩くようなこの頼りない日々を、人生と呼んでもいいのだろうか?
怒りが抑えられない。これは殺意だ、と認識した。
俺は手帳に「許せない。父を殺してやる。」と殴り書きすると、雑誌を閉めることも忘れて部屋を飛び出した。向かうは無論、父が四六時中研究を行っている地下室である。
一歩一歩、階段を降りて行った。スリッパが埃の上に足跡を残していく。何故だか、階段には俺のスリッパが無数に往復した跡が刻まれていた。奇妙だ、普段はこんなところに用はないはずだがーー。疑問に思ったものの、そこまでだった。俺は立ち止まりはしなかった。
地下室のドアの前に辿り着く。まだ殺害方法を考えていなかったことに今更思い当たる。そうだ、部屋の中に猫の置物があったはずだ。それで頭を思いっきり殴ってしまおう。
俺は深呼吸をする。もう寸分の迷いもなかった。ドアノブをつかみ、勢いよく開け、中へ一歩を踏み出してーー。
☆
ふと気づくと、俺の前には死体があった。
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