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4章・プリンセス・マーメイド
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光るイルカが空中を飛び回るのにも慣れたし、人には見えない動物たちの存在も受け入れた。あまつさえ、伝説上の生き物である竜を目の当たりにし、その存在に畏怖を感じさえもした。これほどのことを経験しておきながら、なぜ今さらになってこんな気持ちになるのか自分自身でも分からない。
だが礼一はこの瞬間、痛切に自分の限界を感じていた。
これは完全に許容範囲外だ。もうこれ以上はついていけない、と。
人魚だったのか、と言うハオランの声も、イルカが懐く理由もその辺にあるのだろうか、とダニエルに問うクリスの声も、ひどく遠かった。日本での生活も、オーストラリアに来てからの生活も、目の前で繰り広げられる話も、すべてに現実感が感じられない。
いや、あやふやなのは自分自身の存在なのか。
現実から遠く引き離された場所でぼんやりと彼らの日常を眺めている。そんな心地だった。ただでさえ母国語ではない英語が耳を上滑りし、スペルが分解され、ただの音の羅列になっていく。正体がなんだというのだろう。日本に帰りさえすれば、自分が歩いて来た道があって、暖かく送り出してくれた友人がいて、彼らとの交流が始まればまた地に足がついた生活ができるはず――それなのに、どうして彼らの顔がひとりも浮かんでこない?
焦りに心臓が冷たい汗をかきはじめた。同時に、耐え難い衝撃とともに自分の足が地面から離れていくような、深い水の世界へ沈んでいくような感覚が襲いかかってくる。今まで自分が築き上げて来たものや大切にしてきたものが価値を失ってぼろぼろと崩れ落ちていく気がした。
ダニエルが気遣わしげな視線を向けたのが分かったが、それを受け止める余裕もない。
――なあ、ぼく普通の人間じゃないんだってさ。
自分の内側に響いたうつろな声に、答える声があった。
そんなこと、もうとっくの昔に知っていただろう?
自分の奥底から吹き上がって来た言葉に呼吸が止まる。突然がなり立て始めた心臓の音と共に嫌な汗が吹き出し、目の前の光景から一切の色が消えて真っ黒になった。これは良くない兆候だ、とまだ冷静さを保った頭の一部で思った。落ち着け、人魚だなんて、ダニエルが一方的に主張しているだけだ。だが本当に、心当たりはないのか?
その時、低い、淡々とした声が礼一の耳に響いてきた。
「――おれも同じだ。」水の中にいるような、ひどく不明瞭な音の中にあって、なぜその声だけが、まっすぐ礼一の耳に届いたのだろう。ゆっくりと顔を上げ、その声の主を見やる。きれいなターコイズブルーだな、そう思った瞬間、礼一の世界が彼を中心に、ゆっくりと色彩を取り戻し始めた。茫洋とした表情のまま自身を見つめる礼一に向かって、男がどこまでも変わりのない、淡々とした様子で続ける。
「おれも、ファンタジーの類いに足を突っ込んだ存在の血を引いているんだと言われた。そういうの大嫌いだったから、それを聞いた時は暴れもしたし、くそったれが、と今でも思ってるな。」この無愛想な男が、一体どんな顔をして暴れたのだろう。礼一はふっと口元を綻ばせる。同時に、ひどく遠かったはずの周りの風景が、急速に現実感と質量を取り戻していく。
「だがその事実は別におれから何も奪いはしなかったよ。なんの血を引いてようが、腹は減るし、夜になれば眠くなる。学校に行けばクラスメイトが笑って挨拶してくるし、宿題を忘れたら怒られる。不思議に思えるほどに、そこにはいつもの日常があって、そのうち考えるのもバカらしくなったほどだ。」そう言ってから、ひと息ついて付け加える。「君は、少なくともおれの目にはとても誠実な人間に見える。嫌なことにも、理不尽なことにもきちんと向き合って、出会った人との縁を大切にして、日々すべきことを丁寧にこなしながら生きてきたんだろう。そうやって築いてきたものは、君の人生からなくなりはしないから、」深いターコイズブルーが、ひどく静かに礼一の瞳を見つめながら続けた。「――だからそんなに心配することはない。」
今まで出会った人々の姿が、次々と浮かんでくる。彼らと交わした一瞬一瞬の何気ない言葉や感覚、感情と言ったものが瞬き、礼一をこの世界に引き止めた。五感がよみがえり、自分の身体の重さを足の裏に感じた。早鐘を打っていた心臓が落ち着きを取り戻し、止まっていた呼吸がゆっくりと動き始める。
「自分が何であるのかについては割と理不尽なこともあるが、自分がどのようにありたいかは、これからだって自分で選んでいけるさ。今まできっと君がそうしてきたように。」
礼一はターコイズブルーの瞳を見つめ返し、その言葉にならないありったけの感謝を、ぎこちないながら心からの笑みに乗せた。男の目がどこかほっとしたように緩む。
心が落ち着いてみれば、あんなにも動揺した自分が不思議に思えるほどに、事実はただ事実でしかなかった。いや、そもそも事実かどうかさえも怪しいものなのだ。そんなもののために、自分が歩いてきた道や、学んできたものも、大切にしてきた人との縁が変質するはずがない。
礼一の微笑みが、ふっと自分を笑い飛ばすような苦笑に変わる。出生に関わる事実というのは、こんなに人を動揺させるものなのか、とどこか他人事のように感心している自分がいてまたおかしくなった。
顔を上げてダニエルを見やる。
「ダニエル、それが本当かどうかは、話を聞いてから判断させてもらうとして」いつもの抑揚控えめなテナーで、礼一は言った。「ぼくがイルカをコントロールして呼び出したように見えたから、クリスはぼくを引き止めたんですね?ーーあなたか、もしくはこの船の誰かが、コントロールされた竜に狙われたから、その方法を探る手がかりとして。」
ダニエルが芝居掛かった様子で、肩をすくめてみせる。「まあ、簡単に言えば、そういうことになるのかね。」
「もしぼくが本当に人魚で、それが理由でイルカが懐いてくれているのだとしたら、ダニエル、当てが外れることになりますね?」
「――それでも、君と知り合えた良かったと、心から思うよ。」礼一の人の悪い笑みに苦笑を返しながら、ダニエルが言った。「わたしは本当に運がいい。君のような人に出会えたのだから。」
ダニエルの深みのある声は、それがどこまでも本心なのだと伝えていた。
だが礼一はこの瞬間、痛切に自分の限界を感じていた。
これは完全に許容範囲外だ。もうこれ以上はついていけない、と。
人魚だったのか、と言うハオランの声も、イルカが懐く理由もその辺にあるのだろうか、とダニエルに問うクリスの声も、ひどく遠かった。日本での生活も、オーストラリアに来てからの生活も、目の前で繰り広げられる話も、すべてに現実感が感じられない。
いや、あやふやなのは自分自身の存在なのか。
現実から遠く引き離された場所でぼんやりと彼らの日常を眺めている。そんな心地だった。ただでさえ母国語ではない英語が耳を上滑りし、スペルが分解され、ただの音の羅列になっていく。正体がなんだというのだろう。日本に帰りさえすれば、自分が歩いて来た道があって、暖かく送り出してくれた友人がいて、彼らとの交流が始まればまた地に足がついた生活ができるはず――それなのに、どうして彼らの顔がひとりも浮かんでこない?
焦りに心臓が冷たい汗をかきはじめた。同時に、耐え難い衝撃とともに自分の足が地面から離れていくような、深い水の世界へ沈んでいくような感覚が襲いかかってくる。今まで自分が築き上げて来たものや大切にしてきたものが価値を失ってぼろぼろと崩れ落ちていく気がした。
ダニエルが気遣わしげな視線を向けたのが分かったが、それを受け止める余裕もない。
――なあ、ぼく普通の人間じゃないんだってさ。
自分の内側に響いたうつろな声に、答える声があった。
そんなこと、もうとっくの昔に知っていただろう?
自分の奥底から吹き上がって来た言葉に呼吸が止まる。突然がなり立て始めた心臓の音と共に嫌な汗が吹き出し、目の前の光景から一切の色が消えて真っ黒になった。これは良くない兆候だ、とまだ冷静さを保った頭の一部で思った。落ち着け、人魚だなんて、ダニエルが一方的に主張しているだけだ。だが本当に、心当たりはないのか?
その時、低い、淡々とした声が礼一の耳に響いてきた。
「――おれも同じだ。」水の中にいるような、ひどく不明瞭な音の中にあって、なぜその声だけが、まっすぐ礼一の耳に届いたのだろう。ゆっくりと顔を上げ、その声の主を見やる。きれいなターコイズブルーだな、そう思った瞬間、礼一の世界が彼を中心に、ゆっくりと色彩を取り戻し始めた。茫洋とした表情のまま自身を見つめる礼一に向かって、男がどこまでも変わりのない、淡々とした様子で続ける。
「おれも、ファンタジーの類いに足を突っ込んだ存在の血を引いているんだと言われた。そういうの大嫌いだったから、それを聞いた時は暴れもしたし、くそったれが、と今でも思ってるな。」この無愛想な男が、一体どんな顔をして暴れたのだろう。礼一はふっと口元を綻ばせる。同時に、ひどく遠かったはずの周りの風景が、急速に現実感と質量を取り戻していく。
「だがその事実は別におれから何も奪いはしなかったよ。なんの血を引いてようが、腹は減るし、夜になれば眠くなる。学校に行けばクラスメイトが笑って挨拶してくるし、宿題を忘れたら怒られる。不思議に思えるほどに、そこにはいつもの日常があって、そのうち考えるのもバカらしくなったほどだ。」そう言ってから、ひと息ついて付け加える。「君は、少なくともおれの目にはとても誠実な人間に見える。嫌なことにも、理不尽なことにもきちんと向き合って、出会った人との縁を大切にして、日々すべきことを丁寧にこなしながら生きてきたんだろう。そうやって築いてきたものは、君の人生からなくなりはしないから、」深いターコイズブルーが、ひどく静かに礼一の瞳を見つめながら続けた。「――だからそんなに心配することはない。」
今まで出会った人々の姿が、次々と浮かんでくる。彼らと交わした一瞬一瞬の何気ない言葉や感覚、感情と言ったものが瞬き、礼一をこの世界に引き止めた。五感がよみがえり、自分の身体の重さを足の裏に感じた。早鐘を打っていた心臓が落ち着きを取り戻し、止まっていた呼吸がゆっくりと動き始める。
「自分が何であるのかについては割と理不尽なこともあるが、自分がどのようにありたいかは、これからだって自分で選んでいけるさ。今まできっと君がそうしてきたように。」
礼一はターコイズブルーの瞳を見つめ返し、その言葉にならないありったけの感謝を、ぎこちないながら心からの笑みに乗せた。男の目がどこかほっとしたように緩む。
心が落ち着いてみれば、あんなにも動揺した自分が不思議に思えるほどに、事実はただ事実でしかなかった。いや、そもそも事実かどうかさえも怪しいものなのだ。そんなもののために、自分が歩いてきた道や、学んできたものも、大切にしてきた人との縁が変質するはずがない。
礼一の微笑みが、ふっと自分を笑い飛ばすような苦笑に変わる。出生に関わる事実というのは、こんなに人を動揺させるものなのか、とどこか他人事のように感心している自分がいてまたおかしくなった。
顔を上げてダニエルを見やる。
「ダニエル、それが本当かどうかは、話を聞いてから判断させてもらうとして」いつもの抑揚控えめなテナーで、礼一は言った。「ぼくがイルカをコントロールして呼び出したように見えたから、クリスはぼくを引き止めたんですね?ーーあなたか、もしくはこの船の誰かが、コントロールされた竜に狙われたから、その方法を探る手がかりとして。」
ダニエルが芝居掛かった様子で、肩をすくめてみせる。「まあ、簡単に言えば、そういうことになるのかね。」
「もしぼくが本当に人魚で、それが理由でイルカが懐いてくれているのだとしたら、ダニエル、当てが外れることになりますね?」
「――それでも、君と知り合えた良かったと、心から思うよ。」礼一の人の悪い笑みに苦笑を返しながら、ダニエルが言った。「わたしは本当に運がいい。君のような人に出会えたのだから。」
ダニエルの深みのある声は、それがどこまでも本心なのだと伝えていた。
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