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2章・日常の始まり
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いつもの通り道を、いつもより15分ほど早い時間に通り抜ける。
ランニングする人や、コーヒーを片手に新聞を読む人、焼きたてのパンの香りに、店員と常連客の会話。そんな鮮やかな街の風景に目もくれず、礼一は足早に乗船場を目指した。
まだ誰も並んでいないうちから船の到着を待ち、無愛想な船員の挨拶を聞き流しながら船の2階へと上がる。船の一番奥の席に腰を下ろし、そうして礼一はようやく全身の力を抜いた。
――男が、自分の獲物とそうでないものを見る目の違いは、割とあからさまだ。
知性と教養のある男ほど、その違いを隠そうとする。興味のない相手にも丁寧に接し、興味を抱いた相手には節度を持って接しようとする。
だが、どれほどその行動に抑制を利かせようと、その視線一つ、指先の動き一つに、どうしたってその思いはにじみ出るものだ。礼一は特別駆け引きに長けているわけではないが、それほど鈍いわけでもない。男が自分を見る目が変わる瞬間、というものを今までにも見てきた。
だが、昨日のあれは......。
礼一は船に揺られながら、昨晩のことをぼんやりと思い出した。
飲みかけのカップをさりげなく奪われる仕草には覚えがあった。
そのまま体を寄せてこられた時は、あれ、やっぱりそういう意味だったのかと思った。
――ずいぶん手慣れていたな。
ふとそんなことを考え、苦笑して頭を振る。
いや、そこが重要なのではなく。
あの時礼一が感じたのは、危機感でも――この年齢の男に使うには非常に抵抗があるのだが――ときめきでもなく、違和感と困惑だった。
礼一は昔から、なぜか同性愛者の男には一目でゲイだと見抜かれる。あの、「あれ?もしかして」と言いたげな視線。それに興味が宿るか宿らないかは別として、そんな相手の反応から、相手がゲイなのかどうかもある程度分かる。
だから、クリスがヘテロセクシュアルであることも分かっていたし、これまでの話からも、彼が過去に付き合ってきた相手は女性だということも検討がついていた。しかも礼一の見る限り、彼はかなり理性的な人物でもある。
そんな男が、アルコールを摂取したわけでもないのにあの行動だ。驚きよりもさらに、違和感が勝る。
クリスにしても、あれは無意識の行動だったのだろう。すぐにぴたっと動きを止めると、「ぬるくなっているようだから入れ直すよ。」と言いながらテーブルにおいたカップを再び手に取り、台所へと向かっていった。
そして、その後はまた何事もなく、時間が過ぎたわけだが。
「あれはなんだんたんだろうなあ」回りを飛び回る半透明の魚に向かって、礼一は日本語でつぶやいた。
オーストラリアについてから、なんだかおかしなことばかりが起こっていて、先のことが全く予測できない。そんなことを、ため息まじりに思った。
船が岸に近づいていく。考える時間は終わりだ。礼一は一通のメッセージをスマートフォンから送ると、船の入口へと足を進めた。
だが、一歩遅かったようだ。出入り口に到着したときには、自分以外の乗客は既に船を降りきり、新たな乗客が狭い入口から次々と船に乗り込んできていた。おとなしく人々が乗り切るのを待つしかなさそうだ。礼一は乗客の邪魔にならないよう、運転室の方へと身を寄せた。
カチカチという聞き慣れた音が響く中、手持ち無沙汰に突っ立っていると、不意に一迅の風が彼のそばを吹き抜けていくのを感じた。変わった風だと思った。それは風というよりも、まるで何かが通り抜けるような。
『空気が動くとき、あれ、なんか不思議な感じだな、と思ったのが始まりだった気がする。』
昨晩のクリスの言葉が浮かび、礼一ははっと顔を上げた。考えをこねくり回していたため、少し反応が遅れたが、今のはもしかして――。
「不思議な風だ」思わずつぶやくと、相変わらず愛想のないひげ面の船員が、顔を上げもせず、無感動に「そうだな」と返した。
返事が返ってきたことに驚いて、礼一は思わずちらりと視線を投げた。一瞬にして、困惑も何もが吹っ飛んでいた。
ランニングする人や、コーヒーを片手に新聞を読む人、焼きたてのパンの香りに、店員と常連客の会話。そんな鮮やかな街の風景に目もくれず、礼一は足早に乗船場を目指した。
まだ誰も並んでいないうちから船の到着を待ち、無愛想な船員の挨拶を聞き流しながら船の2階へと上がる。船の一番奥の席に腰を下ろし、そうして礼一はようやく全身の力を抜いた。
――男が、自分の獲物とそうでないものを見る目の違いは、割とあからさまだ。
知性と教養のある男ほど、その違いを隠そうとする。興味のない相手にも丁寧に接し、興味を抱いた相手には節度を持って接しようとする。
だが、どれほどその行動に抑制を利かせようと、その視線一つ、指先の動き一つに、どうしたってその思いはにじみ出るものだ。礼一は特別駆け引きに長けているわけではないが、それほど鈍いわけでもない。男が自分を見る目が変わる瞬間、というものを今までにも見てきた。
だが、昨日のあれは......。
礼一は船に揺られながら、昨晩のことをぼんやりと思い出した。
飲みかけのカップをさりげなく奪われる仕草には覚えがあった。
そのまま体を寄せてこられた時は、あれ、やっぱりそういう意味だったのかと思った。
――ずいぶん手慣れていたな。
ふとそんなことを考え、苦笑して頭を振る。
いや、そこが重要なのではなく。
あの時礼一が感じたのは、危機感でも――この年齢の男に使うには非常に抵抗があるのだが――ときめきでもなく、違和感と困惑だった。
礼一は昔から、なぜか同性愛者の男には一目でゲイだと見抜かれる。あの、「あれ?もしかして」と言いたげな視線。それに興味が宿るか宿らないかは別として、そんな相手の反応から、相手がゲイなのかどうかもある程度分かる。
だから、クリスがヘテロセクシュアルであることも分かっていたし、これまでの話からも、彼が過去に付き合ってきた相手は女性だということも検討がついていた。しかも礼一の見る限り、彼はかなり理性的な人物でもある。
そんな男が、アルコールを摂取したわけでもないのにあの行動だ。驚きよりもさらに、違和感が勝る。
クリスにしても、あれは無意識の行動だったのだろう。すぐにぴたっと動きを止めると、「ぬるくなっているようだから入れ直すよ。」と言いながらテーブルにおいたカップを再び手に取り、台所へと向かっていった。
そして、その後はまた何事もなく、時間が過ぎたわけだが。
「あれはなんだんたんだろうなあ」回りを飛び回る半透明の魚に向かって、礼一は日本語でつぶやいた。
オーストラリアについてから、なんだかおかしなことばかりが起こっていて、先のことが全く予測できない。そんなことを、ため息まじりに思った。
船が岸に近づいていく。考える時間は終わりだ。礼一は一通のメッセージをスマートフォンから送ると、船の入口へと足を進めた。
だが、一歩遅かったようだ。出入り口に到着したときには、自分以外の乗客は既に船を降りきり、新たな乗客が狭い入口から次々と船に乗り込んできていた。おとなしく人々が乗り切るのを待つしかなさそうだ。礼一は乗客の邪魔にならないよう、運転室の方へと身を寄せた。
カチカチという聞き慣れた音が響く中、手持ち無沙汰に突っ立っていると、不意に一迅の風が彼のそばを吹き抜けていくのを感じた。変わった風だと思った。それは風というよりも、まるで何かが通り抜けるような。
『空気が動くとき、あれ、なんか不思議な感じだな、と思ったのが始まりだった気がする。』
昨晩のクリスの言葉が浮かび、礼一ははっと顔を上げた。考えをこねくり回していたため、少し反応が遅れたが、今のはもしかして――。
「不思議な風だ」思わずつぶやくと、相変わらず愛想のないひげ面の船員が、顔を上げもせず、無感動に「そうだな」と返した。
返事が返ってきたことに驚いて、礼一は思わずちらりと視線を投げた。一瞬にして、困惑も何もが吹っ飛んでいた。
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