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見るなの座敷
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店長の風当たりはますます強くなった。単なるミスの注意というレベルにとどまらず、あきらかな嫌がらせにまで発展してきた。そんなある日、店長がいつものように僕をバックヤードに連れ込み、理不尽な小言を垂れていた時のこと。同じバイトの女の子がバックヤードに入ってきた。
「店長ぉ、〝ゴロワーズ〟っていうタバコが欲しいというお客さんがいるんですけどぉ、どれかわからないんですがぁ……」
店長は「まったく……」と、誰に対してかわからないため息をついて、店頭に出た。僕も後について店頭に出てみたが……
なんと、そのタバコを買いに来た客というのは、妻であった。
「妻……どうしてここに?」
「ちょっと近くに用があったので、寄ってみたの」
僕から一旦子どもたちに視線を移し、その後で店長に微笑みかけた。
「店長さん、いつも宅がお世話になっております。吉永の家内でございます」
先ほどまでその身内をいびっていた後ろめたさか、気まずそうに店長は笑顔を作った。
「お、奥様でしたか。こちらこそ、いつもご主人のおかげで助かっております」
心にもないお世辞に歯が浮きそうになったが、本当に驚いたのは妻の言葉だった。
「店長さん、奥さんが身重でさぞ大変でしょうね……」
「え、いや……って言うか、どうしてそれを?」
「女ですもの。それくらいのことはわかりましてよ。ところで店長さん、奥さんもなかなかご飯を作るのは大変でしょうから、もしよろしければ、時々私がお食事を作って差し上げたいと思うのですが、いかがでしょうか?」
「え、いや、そんなこと……」
妻の提案に、店長は戸惑いながらも心の琴線を弾かれていた。
「ご遠慮なさることはありませんわ。宅のお世話になっている方がお困りなんですもの、……ねえ、あなた?」
妻は僕に同意を求める視線を投げかける。
「え? あ、はい、もちろん……」
僕も店長に微笑みかける。そんなやり取りを二、三繰り返した後、店長は妻の提案を呑んだ。
「……それで、おタバコの方は?」
妻はお茶目な顔でしれっと言う。
「ごめんなさい。宅が禁煙していたのを忘れておりましたわ」
ちなみに、僕はタバコを口にしたことは一度もない。
それから、妻は時々手料理をこしらえては、店長の自宅に届けた。驚いたことに、彼女はあの日、店長と口約束を取り付けただけではなく、きちんと店長の奥さんと話して了承を得ていたのだ。そして、店長の自宅を訪ねた折には、妊婦の先輩として、身重の奥さんの話に耳を傾けたり、相談に乗ったりしたという。
「吉永さんの奥さんのおかげで、ずいぶん家内の機嫌がよくなりましたよ」
ある日、店長は僕にそう言った。そういう店長も以前と比べて相当機嫌がよくなっている。そして、僕に当たり散らすようなことはほとんどなくなり、僕の労働環境はすこぶる良くなった。その変化ぶりは気持ち悪いほどであったが、それは言わずもがな妻の如才なさの賜物である。
しかし、彼女はどうして店長の妻君が妊娠していることがわかったのだろう。また、どうやってその自宅まで突き止めたのだろうか。考えれば疑問は尽きない。
僕は彼女を妻として完璧な女性だと思う。しかし反面、謎めいた面もあることは否めない。言うなれば、恩返しをしに来た鶴の化身のような……。
昔話の娘が鶴であることを隠したように、妻にも決して口にしないことがあった。それは、亡くなった前夫の死因であった。それが病死なのか、事故死なのか、それとも何かの事件の犠牲になってのか……僕は全く聞かされていなかった。そして、そのことを尋ねようとすると、
「お話しするほどのことではないので……」
と、お茶を濁してしまう。
でも、僕もそれ以上追求しない。好奇心に負けて〝見るなの座敷〟を覗いてしまった老夫婦のように、すべてを失ってしまいそうな気がして怖かったのだ。
「店長ぉ、〝ゴロワーズ〟っていうタバコが欲しいというお客さんがいるんですけどぉ、どれかわからないんですがぁ……」
店長は「まったく……」と、誰に対してかわからないため息をついて、店頭に出た。僕も後について店頭に出てみたが……
なんと、そのタバコを買いに来た客というのは、妻であった。
「妻……どうしてここに?」
「ちょっと近くに用があったので、寄ってみたの」
僕から一旦子どもたちに視線を移し、その後で店長に微笑みかけた。
「店長さん、いつも宅がお世話になっております。吉永の家内でございます」
先ほどまでその身内をいびっていた後ろめたさか、気まずそうに店長は笑顔を作った。
「お、奥様でしたか。こちらこそ、いつもご主人のおかげで助かっております」
心にもないお世辞に歯が浮きそうになったが、本当に驚いたのは妻の言葉だった。
「店長さん、奥さんが身重でさぞ大変でしょうね……」
「え、いや……って言うか、どうしてそれを?」
「女ですもの。それくらいのことはわかりましてよ。ところで店長さん、奥さんもなかなかご飯を作るのは大変でしょうから、もしよろしければ、時々私がお食事を作って差し上げたいと思うのですが、いかがでしょうか?」
「え、いや、そんなこと……」
妻の提案に、店長は戸惑いながらも心の琴線を弾かれていた。
「ご遠慮なさることはありませんわ。宅のお世話になっている方がお困りなんですもの、……ねえ、あなた?」
妻は僕に同意を求める視線を投げかける。
「え? あ、はい、もちろん……」
僕も店長に微笑みかける。そんなやり取りを二、三繰り返した後、店長は妻の提案を呑んだ。
「……それで、おタバコの方は?」
妻はお茶目な顔でしれっと言う。
「ごめんなさい。宅が禁煙していたのを忘れておりましたわ」
ちなみに、僕はタバコを口にしたことは一度もない。
それから、妻は時々手料理をこしらえては、店長の自宅に届けた。驚いたことに、彼女はあの日、店長と口約束を取り付けただけではなく、きちんと店長の奥さんと話して了承を得ていたのだ。そして、店長の自宅を訪ねた折には、妊婦の先輩として、身重の奥さんの話に耳を傾けたり、相談に乗ったりしたという。
「吉永さんの奥さんのおかげで、ずいぶん家内の機嫌がよくなりましたよ」
ある日、店長は僕にそう言った。そういう店長も以前と比べて相当機嫌がよくなっている。そして、僕に当たり散らすようなことはほとんどなくなり、僕の労働環境はすこぶる良くなった。その変化ぶりは気持ち悪いほどであったが、それは言わずもがな妻の如才なさの賜物である。
しかし、彼女はどうして店長の妻君が妊娠していることがわかったのだろう。また、どうやってその自宅まで突き止めたのだろうか。考えれば疑問は尽きない。
僕は彼女を妻として完璧な女性だと思う。しかし反面、謎めいた面もあることは否めない。言うなれば、恩返しをしに来た鶴の化身のような……。
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「お話しするほどのことではないので……」
と、お茶を濁してしまう。
でも、僕もそれ以上追求しない。好奇心に負けて〝見るなの座敷〟を覗いてしまった老夫婦のように、すべてを失ってしまいそうな気がして怖かったのだ。
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