妻(さい)

谷川流慕

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なれそめ

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 僕とさいが出会ったのは、一昨年おととしの梅雨の日のことだった。慣れない営業と、ねっとりとした湿気に、僕はすっかり滅入っていた。
 得意先へ訪問するため、早めの電車に乗ってその最寄りの駅に降り立ったが、改札を出た途端に雨が激しく降ってきた。僕はうっかり傘を持って来なかった。僕はスマホを取り出して、雨雲レーダーアプリを起動させた。すると、ほんの十分ほどで止むと分かったので、しばらく待つことにした。
 ふと横を見ると、一人の若い女性が立ち止まって時折雨雲を見上げていた。傘を忘れて雨宿りしていたのだ。僕は気を利かせるつもりで、
「大丈夫ですよ、もうすぐ止むみたいですから」と言ってスマホの画面を見せた。すると、彼女は安心した表情で微笑み返した。僕はその微笑みにすっかり魅せられた。ところが、アプリの予報に反して、雨はいつまでも降り止まないどころか、雷雨にまで発展した。
 雷鳴が轟く度に、彼女は怖がった。しかし、声を立てずに、静かに怖がるので、それが何とも上品に思えた。
「そういえば、ベネズエラのカタトゥンボでは年間260日も雷が発生するんですけど、音が全然出ないらしいですよ」
「ええ、本当ですか!?」
 彼女が思いのほか好意的な反応をしたので、僕はある意味拍子抜けした。あんまり女の人は、こういう蘊蓄うんちくをあまり喜ばないと認識していたからだ。にもかかわらず僕のような人間はどうしても口を開けば女子にウケない話ばかりしてしまうのだ。でも、彼女はさも楽しそうに僕の話に耳を傾けていた。僕も話しながら、なんて素敵なひとときだろうと思ったが、まもなく雨は止んで別れの時が来た。
「楽しいお話、ありがとうございました、おかげで雷が怖くなくなりました」
「いえいえ、これからどちらへ?」
 別に他意があって訊いたわけでもなかったが、次の答えは少なからずショックだった。
「これから、保育園に子どもたちを迎えに行くのです」
 ……子持ち、すなわち既婚者。ああ、いい出会いと思ったんだけどなあ、と彼女にわからないように肩を落とす僕。それが、僕とさいとの出会いだった。

 その夜、僕が寝る時も彼女のことを忘れることができなかった。どうしても彼女のことが気になって仕方がなかった僕は、あの時と同じ時間に、あの駅に通いつめた。偶然を装って彼女に会おうとした。実際、時々彼女と会うことが出来た。彼女は僕を警戒するでもなく、いつだって素敵な笑顔を向けてくれた。嬉しかった。同時に、既婚者に恋心を抱くことに後ろめたさも感じていた。
 そうして、もうこんなことはやめようと思いながら、ある日これが最後だと決めて件の駅に行った。すると、さいが抱っこ紐で乳幼児を抱きながら、小さな男の子の手を引いて現れた。
「こんにちは」
「こんにちは」
 互いに挨拶を交わす。これが最後だと思うと、寂しくて仕方がなかった。ところが、男の子がタタタと駆け寄って来たかと思うと、「パパー!」と足にしがみ付いて来た。
「え?」
 戸惑う僕にさいは苦笑しながら説明した。
「実は……あなたが亡くなった主人にそっくりなんです。それでこの子、父親に会えたと思って……」
 そう言うさいの目が潤み出した。「ねえ、輝。この人はね、パパじゃ……」と言おうとしたさいを、僕は止めた。そして小声で囁いた。
「今日だけは、僕にパパでいさせて下さい」
 そうして、しばらく〝親子水入らず〟のひとときを過ごした。それから僕たちは互いに自己紹介し、家族ぐるみで会うようになった。そしていつしか、僕は本当に彼らの父親になり、さいの夫となった。
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