3 / 8
なれそめ
しおりを挟む
僕と妻が出会ったのは、一昨年の梅雨の日のことだった。慣れない営業と、ねっとりとした湿気に、僕はすっかり滅入っていた。
得意先へ訪問するため、早めの電車に乗ってその最寄りの駅に降り立ったが、改札を出た途端に雨が激しく降ってきた。僕はうっかり傘を持って来なかった。僕はスマホを取り出して、雨雲レーダーアプリを起動させた。すると、ほんの十分ほどで止むと分かったので、しばらく待つことにした。
ふと横を見ると、一人の若い女性が立ち止まって時折雨雲を見上げていた。傘を忘れて雨宿りしていたのだ。僕は気を利かせるつもりで、
「大丈夫ですよ、もうすぐ止むみたいですから」と言ってスマホの画面を見せた。すると、彼女は安心した表情で微笑み返した。僕はその微笑みにすっかり魅せられた。ところが、アプリの予報に反して、雨はいつまでも降り止まないどころか、雷雨にまで発展した。
雷鳴が轟く度に、彼女は怖がった。しかし、声を立てずに、静かに怖がるので、それが何とも上品に思えた。
「そういえば、ベネズエラのカタトゥンボでは年間260日も雷が発生するんですけど、音が全然出ないらしいですよ」
「ええ、本当ですか!?」
彼女が思いのほか好意的な反応をしたので、僕はある意味拍子抜けした。あんまり女の人は、こういう蘊蓄をあまり喜ばないと認識していたからだ。にもかかわらず僕のような人間はどうしても口を開けば女子にウケない話ばかりしてしまうのだ。でも、彼女はさも楽しそうに僕の話に耳を傾けていた。僕も話しながら、なんて素敵なひとときだろうと思ったが、まもなく雨は止んで別れの時が来た。
「楽しいお話、ありがとうございました、おかげで雷が怖くなくなりました」
「いえいえ、これからどちらへ?」
別に他意があって訊いたわけでもなかったが、次の答えは少なからずショックだった。
「これから、保育園に子どもたちを迎えに行くのです」
……子持ち、すなわち既婚者。ああ、いい出会いと思ったんだけどなあ、と彼女にわからないように肩を落とす僕。それが、僕と妻との出会いだった。
その夜、僕が寝る時も彼女のことを忘れることができなかった。どうしても彼女のことが気になって仕方がなかった僕は、あの時と同じ時間に、あの駅に通いつめた。偶然を装って彼女に会おうとした。実際、時々彼女と会うことが出来た。彼女は僕を警戒するでもなく、いつだって素敵な笑顔を向けてくれた。嬉しかった。同時に、既婚者に恋心を抱くことに後ろめたさも感じていた。
そうして、もうこんなことはやめようと思いながら、ある日これが最後だと決めて件の駅に行った。すると、妻が抱っこ紐で乳幼児を抱きながら、小さな男の子の手を引いて現れた。
「こんにちは」
「こんにちは」
互いに挨拶を交わす。これが最後だと思うと、寂しくて仕方がなかった。ところが、男の子がタタタと駆け寄って来たかと思うと、「パパー!」と足にしがみ付いて来た。
「え?」
戸惑う僕に妻は苦笑しながら説明した。
「実は……あなたが亡くなった主人にそっくりなんです。それでこの子、父親に会えたと思って……」
そう言う妻の目が潤み出した。「ねえ、輝。この人はね、パパじゃ……」と言おうとした妻を、僕は止めた。そして小声で囁いた。
「今日だけは、僕にパパでいさせて下さい」
そうして、しばらく〝親子水入らず〟のひとときを過ごした。それから僕たちは互いに自己紹介し、家族ぐるみで会うようになった。そしていつしか、僕は本当に彼らの父親になり、妻の夫となった。
得意先へ訪問するため、早めの電車に乗ってその最寄りの駅に降り立ったが、改札を出た途端に雨が激しく降ってきた。僕はうっかり傘を持って来なかった。僕はスマホを取り出して、雨雲レーダーアプリを起動させた。すると、ほんの十分ほどで止むと分かったので、しばらく待つことにした。
ふと横を見ると、一人の若い女性が立ち止まって時折雨雲を見上げていた。傘を忘れて雨宿りしていたのだ。僕は気を利かせるつもりで、
「大丈夫ですよ、もうすぐ止むみたいですから」と言ってスマホの画面を見せた。すると、彼女は安心した表情で微笑み返した。僕はその微笑みにすっかり魅せられた。ところが、アプリの予報に反して、雨はいつまでも降り止まないどころか、雷雨にまで発展した。
雷鳴が轟く度に、彼女は怖がった。しかし、声を立てずに、静かに怖がるので、それが何とも上品に思えた。
「そういえば、ベネズエラのカタトゥンボでは年間260日も雷が発生するんですけど、音が全然出ないらしいですよ」
「ええ、本当ですか!?」
彼女が思いのほか好意的な反応をしたので、僕はある意味拍子抜けした。あんまり女の人は、こういう蘊蓄をあまり喜ばないと認識していたからだ。にもかかわらず僕のような人間はどうしても口を開けば女子にウケない話ばかりしてしまうのだ。でも、彼女はさも楽しそうに僕の話に耳を傾けていた。僕も話しながら、なんて素敵なひとときだろうと思ったが、まもなく雨は止んで別れの時が来た。
「楽しいお話、ありがとうございました、おかげで雷が怖くなくなりました」
「いえいえ、これからどちらへ?」
別に他意があって訊いたわけでもなかったが、次の答えは少なからずショックだった。
「これから、保育園に子どもたちを迎えに行くのです」
……子持ち、すなわち既婚者。ああ、いい出会いと思ったんだけどなあ、と彼女にわからないように肩を落とす僕。それが、僕と妻との出会いだった。
その夜、僕が寝る時も彼女のことを忘れることができなかった。どうしても彼女のことが気になって仕方がなかった僕は、あの時と同じ時間に、あの駅に通いつめた。偶然を装って彼女に会おうとした。実際、時々彼女と会うことが出来た。彼女は僕を警戒するでもなく、いつだって素敵な笑顔を向けてくれた。嬉しかった。同時に、既婚者に恋心を抱くことに後ろめたさも感じていた。
そうして、もうこんなことはやめようと思いながら、ある日これが最後だと決めて件の駅に行った。すると、妻が抱っこ紐で乳幼児を抱きながら、小さな男の子の手を引いて現れた。
「こんにちは」
「こんにちは」
互いに挨拶を交わす。これが最後だと思うと、寂しくて仕方がなかった。ところが、男の子がタタタと駆け寄って来たかと思うと、「パパー!」と足にしがみ付いて来た。
「え?」
戸惑う僕に妻は苦笑しながら説明した。
「実は……あなたが亡くなった主人にそっくりなんです。それでこの子、父親に会えたと思って……」
そう言う妻の目が潤み出した。「ねえ、輝。この人はね、パパじゃ……」と言おうとした妻を、僕は止めた。そして小声で囁いた。
「今日だけは、僕にパパでいさせて下さい」
そうして、しばらく〝親子水入らず〟のひとときを過ごした。それから僕たちは互いに自己紹介し、家族ぐるみで会うようになった。そしていつしか、僕は本当に彼らの父親になり、妻の夫となった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
周三
不知火美月
現代文学
どうしても表紙は黒猫を使いたかったので、恐縮ながら描かせていただきました。
猫と人間のちょっぴり不思議なお話です。
最後まで読んで初めて分かるようなお話ですので、是非最後までお付き合いの程よろしくお願い致します。
周三とは何なのか。
ペットがありふれるこの社会で、今一度命の大切さを見つめて頂ければ幸いです。
猫好きの方々、是非とも覗いて行ってください♪
※こちらの作品は、エブリスタにも掲載しております。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
“K”
七部(ななべ)
現代文学
これはとある黒猫と絵描きの話。
黒猫はその見た目から迫害されていました。
※これは主がBUMP OF CHICKENさん『K』という曲にハマったのでそれを小説風にアレンジしてやろうという思いで制作しました。

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる