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内助の功
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「吉永さん、いい加減ちゃんとやってくださいよ!」
若き店長が僕にむかって口角泡を飛ばす。
「すみません……」
僕はただ項垂れて謝る。叱られる時は理不尽なことでもとにかく謝る。長い社会経験で唯一身についた処世術だ。
「僕だってねえ、何も父親みたいな年齢のオッサンに向かって小言を言いたくはないですよ。だけどねえ、コンビニってのは、レジ打ちミスの繰り返しで収益に影響が出ちゃうんですよ。本当にこんなの、困るんです」
等々、こんこんと説教は続く。店長は僕を父親のような年齢と言ったが、10歳も離れていないのだから、それは言い過ぎだ。それはともかく、それからは何とも気まずく、やりにくい空気の中で僕の勤務時間が過ぎて行った。
「お先に失礼します……」
僕は一日の勤めを終え、忙しそうな店長に気を使いながらいとまを告げる。
「お疲れ様です」
店長の声に、労苦をねぎらう響きはなかった。
(また、ここもダメか……)
僕は肩を落とした。
僕の名前は吉永直。半年前、正社員として働いていた会社でリストラされ、それ以来僕はバイト先を転々としている。なんだかんだ言っても守られている会社員とは違い、時間に応じて対価が払われるアルバイトは、より労働への評価がシビアだ。支出の価値なし、と判断されれば迷うことなくクビだ。
重い足取りで家路を行進し、家の前に辿り着くと、一呼吸置いてドアの呼び鈴を鳴らす。すると、バタバタという足音が中から聞こえてくる。そして、ガチャリと音を立ててドアが開き、妻が顔を出す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
僕が玄関に入り、靴を脱ごうとすると輝と恵が僕の足元に纏わり付く。
「パパ、だっこー!」
「やだ、ボクがだっこー!」
チビスケたちは、僕がどちらを先にだっこをするかということで互いに譲らず、しまいに取っ組み合いの喧嘩を初める。そんな子どもたちを妻が静かにたしなめる。
「おやめなさい、パパはお疲れなのよ」
彼女の声がどこか優しげなのは、子煩悩な僕がさほど嫌がってはおらず、むしろ癒やしを感じていることを暗黙の内に理解しているからだろう。
「ようし、じゃあダブルだっこだぞお!」
僕は右脇に輝、左脇に恵を抱えて持ち上げ、ダダダダと家の中に入って行った。彼らは足を空中にバタバタさせながら、キャアキャアわめきたてる。サラリーマン時代から変わらずに繰り返されるこの行事に、僕はホッとする。仕事で嫌なことがあっても、この過程で溶解していくのだ。やがてパパとのスキンシップに子どもたちが飽きたタイミングで、妻は夕食を提供する。
ところで、僕が彼女を妻と呼ぶのは、明治文学にかぶれているわけでも、高等遊民を気取っているわけでもない。妻……それが彼女の、実の名前だからである。
「あなた、今日はカラハナソウの天ぷらよ」
「おっ、いいね!」
カラハナソウの天ぷらは僕の大好物だ。これのすごいところは、近所の野原に雑草として沢山生えているところだ。つまり、タダで仕入れることが出来る。
妻は、野生の植物の中から食べられるものとそうでないものを見分けることが出来る。彼女曰く、その辺に生えている雑草には、高級食材に引けを取らない逸材が少なくないそうだ。
「もちろん、あんまりみんなが沢山採ってたらなくなっちゃうけど、町の人は見向きもしないんですもの、私たちは採り放題ですわね」
さも自分たちが特権を得ているように、妻は誇らしげに言う。側から見れば我が家など、絵に描いたような貧しい家庭なのに、妻の話すことばを聞いていると、まるで裕福になったような気持ちにさえなるから不思議だ。
子どもたちを寝かしつけてから、僕は徐に話した。
「今のコンビニのバイト、またダメかもしれない……」
ところが妻は顔色一つ変えない。
「よかったわ。コンビニのお仕事って、あなたに向いてないんじゃないかって思っていたところなの」
「でも……君たちには迷惑ばかりかけてしまって……本当に申し訳ないと思ってる」
「ううん。人に歴史あり……素敵だわ。ねえ、これまでの多彩な職業経験を生かして小説でも書いたら売れるんじゃないかしら?」
妻はどこまでも前向きで屈託がない。そんな彼女のおかげで、僕はどれほどドン底に突き落とされてもいつだって這い上がれる。
「小説は書けるかもしれないけど、たぶん売れないだろうね」
「まあ、どうして?」
「『毎日幸せです』なんて小説、誰が読みたいと思う? 売れる小説を書くには、僕は幸せ過ぎる」
そう言って僕は妻の肩を抱き寄せた。そう、僕は本当に幸せ過ぎる。
若き店長が僕にむかって口角泡を飛ばす。
「すみません……」
僕はただ項垂れて謝る。叱られる時は理不尽なことでもとにかく謝る。長い社会経験で唯一身についた処世術だ。
「僕だってねえ、何も父親みたいな年齢のオッサンに向かって小言を言いたくはないですよ。だけどねえ、コンビニってのは、レジ打ちミスの繰り返しで収益に影響が出ちゃうんですよ。本当にこんなの、困るんです」
等々、こんこんと説教は続く。店長は僕を父親のような年齢と言ったが、10歳も離れていないのだから、それは言い過ぎだ。それはともかく、それからは何とも気まずく、やりにくい空気の中で僕の勤務時間が過ぎて行った。
「お先に失礼します……」
僕は一日の勤めを終え、忙しそうな店長に気を使いながらいとまを告げる。
「お疲れ様です」
店長の声に、労苦をねぎらう響きはなかった。
(また、ここもダメか……)
僕は肩を落とした。
僕の名前は吉永直。半年前、正社員として働いていた会社でリストラされ、それ以来僕はバイト先を転々としている。なんだかんだ言っても守られている会社員とは違い、時間に応じて対価が払われるアルバイトは、より労働への評価がシビアだ。支出の価値なし、と判断されれば迷うことなくクビだ。
重い足取りで家路を行進し、家の前に辿り着くと、一呼吸置いてドアの呼び鈴を鳴らす。すると、バタバタという足音が中から聞こえてくる。そして、ガチャリと音を立ててドアが開き、妻が顔を出す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
僕が玄関に入り、靴を脱ごうとすると輝と恵が僕の足元に纏わり付く。
「パパ、だっこー!」
「やだ、ボクがだっこー!」
チビスケたちは、僕がどちらを先にだっこをするかということで互いに譲らず、しまいに取っ組み合いの喧嘩を初める。そんな子どもたちを妻が静かにたしなめる。
「おやめなさい、パパはお疲れなのよ」
彼女の声がどこか優しげなのは、子煩悩な僕がさほど嫌がってはおらず、むしろ癒やしを感じていることを暗黙の内に理解しているからだろう。
「ようし、じゃあダブルだっこだぞお!」
僕は右脇に輝、左脇に恵を抱えて持ち上げ、ダダダダと家の中に入って行った。彼らは足を空中にバタバタさせながら、キャアキャアわめきたてる。サラリーマン時代から変わらずに繰り返されるこの行事に、僕はホッとする。仕事で嫌なことがあっても、この過程で溶解していくのだ。やがてパパとのスキンシップに子どもたちが飽きたタイミングで、妻は夕食を提供する。
ところで、僕が彼女を妻と呼ぶのは、明治文学にかぶれているわけでも、高等遊民を気取っているわけでもない。妻……それが彼女の、実の名前だからである。
「あなた、今日はカラハナソウの天ぷらよ」
「おっ、いいね!」
カラハナソウの天ぷらは僕の大好物だ。これのすごいところは、近所の野原に雑草として沢山生えているところだ。つまり、タダで仕入れることが出来る。
妻は、野生の植物の中から食べられるものとそうでないものを見分けることが出来る。彼女曰く、その辺に生えている雑草には、高級食材に引けを取らない逸材が少なくないそうだ。
「もちろん、あんまりみんなが沢山採ってたらなくなっちゃうけど、町の人は見向きもしないんですもの、私たちは採り放題ですわね」
さも自分たちが特権を得ているように、妻は誇らしげに言う。側から見れば我が家など、絵に描いたような貧しい家庭なのに、妻の話すことばを聞いていると、まるで裕福になったような気持ちにさえなるから不思議だ。
子どもたちを寝かしつけてから、僕は徐に話した。
「今のコンビニのバイト、またダメかもしれない……」
ところが妻は顔色一つ変えない。
「よかったわ。コンビニのお仕事って、あなたに向いてないんじゃないかって思っていたところなの」
「でも……君たちには迷惑ばかりかけてしまって……本当に申し訳ないと思ってる」
「ううん。人に歴史あり……素敵だわ。ねえ、これまでの多彩な職業経験を生かして小説でも書いたら売れるんじゃないかしら?」
妻はどこまでも前向きで屈託がない。そんな彼女のおかげで、僕はどれほどドン底に突き落とされてもいつだって這い上がれる。
「小説は書けるかもしれないけど、たぶん売れないだろうね」
「まあ、どうして?」
「『毎日幸せです』なんて小説、誰が読みたいと思う? 売れる小説を書くには、僕は幸せ過ぎる」
そう言って僕は妻の肩を抱き寄せた。そう、僕は本当に幸せ過ぎる。
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