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近くで聞こえた馬の嘶きに、ユウはハッとして顔を上げる。

「チヨちゃん…?」

落ち着けていた腰を上げて、じっと耳を澄ます。
間違いなく、最初の嘶きはレイモンドの声だった。
けれども、にわかに聞こえる蹄の音はひとつではない。
複数の音がした。

ユウは小屋を振り返る。
まだ、月が出るまでは時間があるはずだ。
ユウは暗闇の中、一歩踏み出す。
音だけを頼りに、やせ細った身体に鞭打ち駆け出した。

闇の中に、ぽつりぽつりと複数の明かりが見える。
もちろん、魔女の小屋の光ではない。
明らかに、炎の灯った松明だ。

「痛い、痛い!離して!」
「静かにしろ、このクソガキ!何なら、このうさぎを丸焼きにして目の前で食ってやってもいいんだぞ!」
「やめて!ルーノに酷いことしないでよ!この髭!」
「髭じゃねぇ、陛下だって言ってんだろ!おら、さっさと奴隷の居場所を教えろ!」
「だから、奴隷なんて知らないって言ってるでしょ!」

相手は三人いた。
一人はチヨを抑えつけ、もう一人はルーノの耳を鷲掴みにして吊るしあげている。
うさぎを捕まえている髭面の男が乗っているのは、王だけに許された馬具を纏ったしなやかな身体つきの白馬。
チヨを捕まえていたもう一人は、宰相の証である緋色の衣服を纏い、茶色の馬に乗っていた。
そのどちらの顔にも、見覚えがある。
最後の一人は、暴れるレイモンドを抑えていたが、振り解かれるのは時間の問題だろう。
残念ながら、この男の顔に見覚えはなかった。

ユウは、すぐにでも飛び出して行きたかったが、どう見ても分が悪い。
少し走っただけで息切れが止まらない身体に、やせ細った枯れ枝のような腕。
誰が見ても、勝敗は明らかだ。
ユウは悔しさに歯噛みする。
そして、必死に知恵を絞り、周囲に目を走らせた。

「ほら、さっさと吐かないと、うさぎの前にあなたが丸焼けになりますよ」
「熱い!熱いからやめて!」

ユウはその時、木にウロがあるのを見つけた。
迷わずそこに腕を突っ込み、何かいないかと手探りで探す。
手の平が、ひんやりとした鱗に触れた。
ごめんね、と心の中で謝りつつ、噛まれる前に素早く引っ張りだすと、それをレイモンドを抑えていた男に投げつける。

ぼとり、と見事にそれは男の頭の上に落ちた。
突然、鷲掴みにされ、眠りを妨げられた蛇は怒り狂って、男の目前で牙を剥く。

「ぎゃああああ!」

醜い悲鳴が上がると同時に、レイモンドを抑えていた手綱が手放される。
自由を得た黒馬はチヨとルーノを抑えている男たちに跳びかかり、踏みつぶさんばかりに前足を振り上げた。
当然、馬の上にいるとは言え、怯まないはずがない。
慌てた髭面の男はルーノを放り投げ馬から転げ落ちたが、もう一人は舌打ちをしてチヨの首根っこを片手で抑えこんで自身の馬を後退させる。
レイモンドは地面に落ちる前にルーノを背中で受け止め、髭面の男が乗っていた馬へともう一度襲い掛かる。
主人を投げ出した白馬は一目散に逃げ出し、振り返る素振りすら見せなかった。

大混乱に陥った場に、ユウは素早く滑り込む。
その際に、松明の光に寄ってきた虫を数匹、手の中に握った。
そして、馬の高さまで木に登って、チヨを未だに抑えている男の服の背中側を引っ張り、中へと落とす。

「うわあああああああ!」

背中を這いまわる虫の感触に、男はチヨを抑えていた手を放す。
レイモンドを抑えていた男は、すでに蛇に追い立てられて森の闇の中へと消えてしまった。
背中に虫を入れられた男は、主人と一緒にパニックになって暴れだした馬と共に、やたらめったら走り回り、そのまま姿が見えなくなる。
松明が投げ捨てられ、森には再び暗闇が戻って来た。
ユウは木からするりと滑り降りると、レイモンドにワンピースの背中を咥えられて、受け止められたチヨへと駆け寄る。

「良かった、間に合って」
「ユウ!どうして!」
「騒がしかったから、気になって」

ぜぇぜぇと、過呼吸になりそうな息をユウは必死に整える。
最後、木を登り降りしたのが随分と身体に負担をかけたようだ。
視界が周り、頭がくらくらとしてきた。
チヨはレイモンドに下ろして貰い、ユウの背中を擦ってあげようと近寄る。
その時、闇の中に銀色に煌めくものを垣間見た。

「危ない!」

咄嗟にチヨは守るように、ユウの背中に抱きつく。
振り下ろされた銀の刃が、容赦なくチヨの背中に食い込んだ。
痛みと熱さに意識を飛ばし、そのままずるずると身体が落ちていく。

「チヨちゃん!」

ユウの叫び声が上がると同時に、ルーノがレイモンドの背中から飛び出す。
ナイフを持った腕に襲いかかり、そのまま食い千切らんばかりに噛み付いた。

「離せ!この毛玉!」

髭面の男が、半狂乱になりながら、腕を振り回す。
それでも、ルーノは喰らいついて離さない。
大事な友達のチヨを傷つけられ、怒りで全身の毛が逆立っていた。
そこにレイモンドも迷わず参戦する。
相手が小さなうさぎならいざ知らず、自分の体躯の何倍もある馬に襲われればひとたまりもない。
髭面の男は情けない声を上げると、ナイフを手放し、すぐに回れ右をして逃げて行った。
ふん、と鼻息も荒くレイモンドとルーノが髭面の男を威嚇して追い立てる。
もう戻って来ないと確信したところで、すぐにチヨの周りに集まった。

「チヨちゃん、しっかり!」

ユウが必死にチヨを抱きしめ、呼吸を確かめる。
背中がぐっしょりと濡れていたが、それが何であるかなど考えたくもなかった。

「あぁ、ダメだ!そんな!こんなことって!」

このまま見ていれば、確実にチヨの命は失われる。
ルーノはユウの服の裾に噛み付くと、思い切り引っ張った。
そして、レイモンドの背に乗れと促す。

「でも、こんな怪我してるのに揺らしたりしたら!」

黙れとばかりにレイモンドが嘶いて膝を折る。
そして、魔女の家の方向へと首を振った。
一羽と一頭の顔を見て、ユウは気がつく。

「そうか!願い事!」

ユウはチヨを抱きかかえて、レイモンドによじ登る。
疲労が溜まりきった身体では、とてもではないが飛び乗ることなど出来なかった。
ルーノが少しでも手伝おうと、小さな身体を使ってユウを押し上げる。
二人と一羽が背中に落ち着いたところで、レイモンドが立ち上がり、走りだした。
最早、一刻の猶予も無い。
急激に下がっていくチヨの体温に、ユウは両目に涙を貯めた。

「レイモンド、急いで!」

言われなくとも、と黒馬は首を上げて返事をする。
ルーノは少しでもチヨを温めようと、身体を丸めて腹に抱きついた。

切り取られたような窓の光が目に飛び込んでくる。
ここまで来れば、あと一歩だった。
ユウはそっとチヨの口元に手を近づける。
弱々しい吐息が、まだあった。

滑るようにレイモンドが膝を折って、魔女の家の前に到着する。
飛び降りたのはルーノだけで、ユウはチヨを抱えて慎重に足を下ろした。
登る時に比べれば、随分と楽だったが、地面に降りた時の衝撃に膝が痺れる。
歯を食い縛って、それを我慢し、狂ったように扉を蹴りつけているルーノの頭上で、扉を押し開いた。

「おばあさん!」

ノックも挨拶も無い突然の来訪に、絨毯の上で魔法の準備をしていた老婆が飛び上がる。

「なんだい!?狂ったように扉を殴りつけたと思ったら、突然入ってきて!」
「助けてください!チヨちゃんが!チヨちゃんが!」

ユウはその場に座り込むと、そっとチヨを膝の上に横たえる。
明らかにその背中から滴っている血に、老婆が息を呑んだ。

「お嬢ちゃんに何があったんだい!?」
「あの大臣の奴が、彼女を!あぁ、でも、今は、そんなことはいいんです。チヨちゃんの怪我を、治してあげてください」

ユウは顔を上げて、下唇を強く噛む。

「復讐の願い事は取り消してください。代わりに、チヨちゃんを助けて欲しいんです」
「…いいのかい?願い事が叶うのは一度きりなんだよ?」
「チヨちゃんが助かるなら、構いません」

ボサボサの髪から覗く、青い瞳が強く輝く。
ユウはこの時、父親の気持ちを強く理解した。
大切な人のことは、自分の全てを投げ打ってでも助けたいと思うのだ。
それこそ、命を、魂を差し出してでも。

「チヨちゃんは、僕に優しくしてくれました。だから、僕もこの子に優しさを返したい」

大臣に陥れられて、奴隷の身分となってから、ユウはずっと復讐することだけを考えて生きてきた。
数年間、ずっと胸に秘めていた暗い感情。
それが、たった一日、一緒に過ごしただけの少女に塗り替えられていく。
乾いてひび割れた大地に、一滴の水が染みこむように、チヨの優しさがユウの心を潤したのだ。

「お願いします。チヨちゃんを、助けてください」

部屋に転がり込んでいたルーノが、自分も同じ願いを叶えて欲しいと飛び跳ねて訴える。
扉から顔を覗かせていたレイモンドも同じように嘶いた。
老婆は一人と一羽、そして一頭の顔を順番に見つめる。
そして、自分の胸に手を当てて、唖然として呟いた。

「あぁ、あんたたち。一人一回の願い事だけど、三人で一緒に叶えるなら、魔法が対価を小さくしようと言っているよ」
「魔法は何を欲しがっているんですか?」
「ユウ王子、あんたからはその髪の毛を。それから、うさぎちゃん。あんたからは、お腹の毛を。お馬ちゃん、あんたからは尻尾の毛だと」
「そんなものならいくらでも!」

ユウはボサボサの頭を老婆に向け、ルーノは床に仰向けに転がった。
レイモンドは部屋に突っ込んでいた首を引っ込めると、代わりに尻尾を向ける。
老婆は裁縫用のハサミを手に取ると、順番に一人と一羽と一頭の毛を少しずつ切り取った。

「なんでだろうねぇ。魔法がいつになく素直なんだよ。あんたたちの必死の思いに答えてくれたのかねぇ」

目をうるませながら、老婆が絨毯の上に置いてある紙にそれぞれの毛を乗せる。
そして、ユウの膝の上で息も絶え絶えなチヨの身体を絨毯に横たえると、そっと額に手を翳した。

「魔法よ、魔法。彼らの願いを叶えておくれ。代わりに対価を差し出そう」

老婆が、低い声で訴えかける。
すると、不思議なことに捧げた毛の束が光となって弾け、チヨの身体へと向かっていった。
ユウにルーノ、レイモンドは息を止めて見守る。
全身を光に包まれたチヨだったが、やがて荒く浅かった息は整い、ゆっくりとした呼吸に変わった。
そして、光が完全に消え去る頃には、真っ白だった顔には赤みが差し、ぴくりと瞼が震える。

「チヨちゃん?」

ユウがそっと呼びかける。
ぱちぱち、と何度か目を瞬かせた後、チヨは囲んで自分を見つめている友人たちを不思議そうに眺めた。

「みんな、どうしたの?」
「チヨちゃんっ!」

良かった、とユウが抱きつく。
ルーノも遅れをとるまいとばかりに、チヨの背中から飛びついた。
レイモンドも突進しそうなばかりに前足で部屋の床を踏み鳴らしていたが、良識のある黒馬なので喜びの表現はそれだけに留めている。
老婆はその様子を見て、にっこりと微笑んだ。

「あたしゃ、初めて自分の魔法が好きになれそうだよ」

そして、賑やかな客人たちをもてなそうと、踊り足で台所に向かった。
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