41 / 79
お風呂
しおりを挟む
着いたのは夕方で、お風呂に入っている間にどっぷりと日が暮れた。
「ホラ、星が見えます!」
「ああ、綺麗だな。」
気がつけば私は野上さんの分厚い胸筋に頭を乗せて、野上さんのひざの間に座っている。
私のウエストに野上さんの太い腕が回り、時折りサワサワと腰骨の辺りを撫でられる。
少し熱いお湯で上気せるのを冬の冷たい空気が頭を冷やし続けているせいで、いつまでも入っていられるのが不思議だ。
「今日をユキの誕生日の思い出にしてくれる?」
「もちろんします。」
そう答えながら…きっとムリだと思う自分がどこかにいる。
20歳の誕生日に起きたあの出来事はきっと真綿のように私の心をじわじわと締め付けて、いつかきっと息が出来なくなる。
もう、出来なくなっているのかもしれない。
終わりの見えない暮らしが苦しくて苦しくて、息が出来ない。
あの日の出来事を超える事はきっとない。
私の誕生日の思い出は辛く苦い。
上書きしたくても…出来ないし、消したくても消せない。
でもそれは野上さんには言っても仕方がない。
少なくないお金を使って、私なんかを思って車でここまで連れてきてくれたんだから。
申し訳なさすぎて泣きそうになる。
出来る事なら…そうしたいのに。
辛い事は忘れちゃって、楽しいことだけで埋め尽くしたい。
でも…出来ない。
今は、踏ん張って笑顔でいることだけを心がけよう、と決めた。
星空を眺めていた野上さんは唐突に、
「ユキ、お試し期間は終了でいい?」
と聞いてくる。
お試し…終わり?
身体の毛穴がギュッと締まる。見えていた物が見えなくなった。
綺麗な星空も、立ち上る湯気も、笑顔だった野上さんも。
あー、来ちゃった。とうとうこの日が。
なんだ、やっばりな。フラれる日が来たんだ。
これが私達の最後のデートか。
結構続いたな。半年とちょっとか。
新記録だ。
理由はわかる。
ただ私が溺れられないだけ。
どこか線を引いて、これ以上はのめり込まないように…心の隙間に入られないように…。
いつもそうだったから。
幾度も何人にも、もっと心を開いて、俺のことを見て、もっと気持ちを伝えて、と言われ続けてきた。
でもわかる。私には出来ない。
だから、野上さんには別れるのに十分な理由になるんだ。
もっと野上さんを好きになれて、もっと野上さんに甘えられて、もっと野上さんに相応しい人がきっといる。
…今日を誕生日の思い出に、か。
最期に楽しい思い出を作ってやったんだから、後腐れなく終わろうぜ、ってことだ。
「…はい。」
絞り出してなんとか答える。
波立つお湯を眺めているから、野上さんの顔は見えない。
「一応、シーズン中とオフシーズンを2人で過ごした。」
「はい。」
「寂しい思いをさせたと思うし、濃淡のある生活だったし。
あまり会えない期間に慣れた頃、オフシーズンになった。途端にほぼ同棲のような付き合い方になって。
その落差についてこれない女性は結構多いんだ。」
細かく理由を並べなくてもいい、そう思った。言い訳は必要ない。
終わりにしよう、そうしよう、たった1ターンの会話で私達の関係は終わりに出来るのに。
私はついていけなかった、野上さんはそう判断したんだろう…か?
そんなことはなかった…と思うんだけど?
現実にはを受け止めないと…。
「会えない期間に不満はあった?」
「いえ、特には。」
会えないのを寂しいとは思わなかった、と言ったら怒られるだろうか?
私にだって仕事はあるし、野上さんの動向は時にニュースが教えてくれる。
毎日定期連絡のようにスマホを繋いで、その日にあったことを報告しあって。
「シーズンオフの付き合い方は負担?」
「いえ、特には…。」
確かにシーズンオフになってからは毎日のように野上さんの家にいる。
とくに約束したわけじゃないけれど、バイトが終われば当たり前のように野上さんの家に戻るようになった。
…小さな約束が毎日あった。
夕食の献立のリクエスト、一緒にやろうと言われること、映画を見たりトレーニングに付き合ったり。
迎えにきてくれる日も増えた。
わかるようでわからない。
負担に思わなくちゃいけなかった?
後ろを振り向いて野上さんの瞳を見た。
別れ話をしているのに、熱い視線で私を見つめてくれている…?
「お試しをやめて、ちゃんとユキのことを見ようと思う。」
…は?
お試しをやめて、私を…見る?
「あ、あの。お試し、って?」
私が野上さんの人となりを知っていく期間じゃなかったんですか?と聞いたら物凄く睨まれた。
「それもあったけど。イヤだったらとっくに別れ話をされてると思ったけど。…嫌?俺とは付き合えない?」
「そんなことは…ないですよ。」
ならそれで良いじゃないか、と野上さんは言う。
「俺だってユキがどんな人か見たかったんだ。」
という正論には何も言えない。
もし、あの日に、「俺の事が好き?」とか「俺と付き合う?」と聞かれていたら、素直に「はい。」とは答えられなかった。
あの日の私は、迷ってた。
「…野上さんは狡い…。」
と呟いてみた。
「でなきゃ、プロ野球でバッテリーとの心理戦には勝てないよ。」
と笑うから…。
わかってて、この言い回しを選んでいるんだとわかる。
そして、私達はお試し期間を修了させて、ちゃんと向き合って付き合う事にいつの間にかなっていた。
「ホラ、星が見えます!」
「ああ、綺麗だな。」
気がつけば私は野上さんの分厚い胸筋に頭を乗せて、野上さんのひざの間に座っている。
私のウエストに野上さんの太い腕が回り、時折りサワサワと腰骨の辺りを撫でられる。
少し熱いお湯で上気せるのを冬の冷たい空気が頭を冷やし続けているせいで、いつまでも入っていられるのが不思議だ。
「今日をユキの誕生日の思い出にしてくれる?」
「もちろんします。」
そう答えながら…きっとムリだと思う自分がどこかにいる。
20歳の誕生日に起きたあの出来事はきっと真綿のように私の心をじわじわと締め付けて、いつかきっと息が出来なくなる。
もう、出来なくなっているのかもしれない。
終わりの見えない暮らしが苦しくて苦しくて、息が出来ない。
あの日の出来事を超える事はきっとない。
私の誕生日の思い出は辛く苦い。
上書きしたくても…出来ないし、消したくても消せない。
でもそれは野上さんには言っても仕方がない。
少なくないお金を使って、私なんかを思って車でここまで連れてきてくれたんだから。
申し訳なさすぎて泣きそうになる。
出来る事なら…そうしたいのに。
辛い事は忘れちゃって、楽しいことだけで埋め尽くしたい。
でも…出来ない。
今は、踏ん張って笑顔でいることだけを心がけよう、と決めた。
星空を眺めていた野上さんは唐突に、
「ユキ、お試し期間は終了でいい?」
と聞いてくる。
お試し…終わり?
身体の毛穴がギュッと締まる。見えていた物が見えなくなった。
綺麗な星空も、立ち上る湯気も、笑顔だった野上さんも。
あー、来ちゃった。とうとうこの日が。
なんだ、やっばりな。フラれる日が来たんだ。
これが私達の最後のデートか。
結構続いたな。半年とちょっとか。
新記録だ。
理由はわかる。
ただ私が溺れられないだけ。
どこか線を引いて、これ以上はのめり込まないように…心の隙間に入られないように…。
いつもそうだったから。
幾度も何人にも、もっと心を開いて、俺のことを見て、もっと気持ちを伝えて、と言われ続けてきた。
でもわかる。私には出来ない。
だから、野上さんには別れるのに十分な理由になるんだ。
もっと野上さんを好きになれて、もっと野上さんに甘えられて、もっと野上さんに相応しい人がきっといる。
…今日を誕生日の思い出に、か。
最期に楽しい思い出を作ってやったんだから、後腐れなく終わろうぜ、ってことだ。
「…はい。」
絞り出してなんとか答える。
波立つお湯を眺めているから、野上さんの顔は見えない。
「一応、シーズン中とオフシーズンを2人で過ごした。」
「はい。」
「寂しい思いをさせたと思うし、濃淡のある生活だったし。
あまり会えない期間に慣れた頃、オフシーズンになった。途端にほぼ同棲のような付き合い方になって。
その落差についてこれない女性は結構多いんだ。」
細かく理由を並べなくてもいい、そう思った。言い訳は必要ない。
終わりにしよう、そうしよう、たった1ターンの会話で私達の関係は終わりに出来るのに。
私はついていけなかった、野上さんはそう判断したんだろう…か?
そんなことはなかった…と思うんだけど?
現実にはを受け止めないと…。
「会えない期間に不満はあった?」
「いえ、特には。」
会えないのを寂しいとは思わなかった、と言ったら怒られるだろうか?
私にだって仕事はあるし、野上さんの動向は時にニュースが教えてくれる。
毎日定期連絡のようにスマホを繋いで、その日にあったことを報告しあって。
「シーズンオフの付き合い方は負担?」
「いえ、特には…。」
確かにシーズンオフになってからは毎日のように野上さんの家にいる。
とくに約束したわけじゃないけれど、バイトが終われば当たり前のように野上さんの家に戻るようになった。
…小さな約束が毎日あった。
夕食の献立のリクエスト、一緒にやろうと言われること、映画を見たりトレーニングに付き合ったり。
迎えにきてくれる日も増えた。
わかるようでわからない。
負担に思わなくちゃいけなかった?
後ろを振り向いて野上さんの瞳を見た。
別れ話をしているのに、熱い視線で私を見つめてくれている…?
「お試しをやめて、ちゃんとユキのことを見ようと思う。」
…は?
お試しをやめて、私を…見る?
「あ、あの。お試し、って?」
私が野上さんの人となりを知っていく期間じゃなかったんですか?と聞いたら物凄く睨まれた。
「それもあったけど。イヤだったらとっくに別れ話をされてると思ったけど。…嫌?俺とは付き合えない?」
「そんなことは…ないですよ。」
ならそれで良いじゃないか、と野上さんは言う。
「俺だってユキがどんな人か見たかったんだ。」
という正論には何も言えない。
もし、あの日に、「俺の事が好き?」とか「俺と付き合う?」と聞かれていたら、素直に「はい。」とは答えられなかった。
あの日の私は、迷ってた。
「…野上さんは狡い…。」
と呟いてみた。
「でなきゃ、プロ野球でバッテリーとの心理戦には勝てないよ。」
と笑うから…。
わかってて、この言い回しを選んでいるんだとわかる。
そして、私達はお試し期間を修了させて、ちゃんと向き合って付き合う事にいつの間にかなっていた。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
もうすぐ、お別れの時間です
夕立悠理
恋愛
──期限つきの恋だった。そんなの、わかってた、はずだったのに。
親友の代わりに、王太子の婚約者となった、レオーネ。けれど、親友の病は治り、婚約は解消される。その翌日、なぜか目覚めると、王太子が親友を見初めるパーティーの日まで、時間が巻き戻っていた。けれど、そのパーティーで、親友ではなくレオーネが見初められ──。王太子のことを信じたいけれど、信じられない。そんな想いにゆれるレオーネにずっと幼なじみだと思っていたアルロが告白し──!?
旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします
暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。
いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。
子を身ごもってからでは遅いのです。
あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」
伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。
女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。
妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。
だから恥じた。
「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。
本当に恥ずかしい…
私は潔く身を引くことにしますわ………」
そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。
「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。
私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。
手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。
そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」
こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる