運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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哀哭の遠吠えは人間か、それとも化け物のものか

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「今日からは、おじいちゃんとおばあちゃんの家がしきのおうちだよ」


 しきの部屋もちゃんと用意したからね、と柔らかく微笑むおばあちゃんの手に繋がれる。少しひんやりもした、ふわふわのお肉が、私のちっちゃな手を包み込んでいる。随分と久しぶりに感じたものだ。ずっとずっと恋しかった。

 会いたかった筈なのに。触れたかったはずなのに、違う。おじいちゃんとおばあちゃんと一時のお別れをしてから、ずっと、私の手を引いてくれた人の手は、もっともっと冷たくて、ふわふわとは程遠くて、無駄な肉は無い、骨ばったものだ。

 おばあちゃんに言われたことを私は上手く理解出来なかった。だって、じゃあ、これから館長さんのオルゴール館はどうなるの? 誰がお客さんのお相手をするの? 館長さんがまだ戻ってきてないのに。ワンくんとたちかわさんだって、みんな居ないのに、誰が。

 おじいちゃんと、知らない誰かによって、玄関から詰め込まれる私の荷物。オルゴール館に預けられる前と比べ、スーツケースの数は倍近くに増えていた。僅かに開いたチャックの隙間からは、館長さんが買ってくれたお洋服のフリルが覗いている。

 今、私が身に纏っているのは、かつて通っていた幼稚園のこどもたちが着ていたのと同じ、動きやすいパーカーとスカート。あちこちを駆け回るこどもたちの習性に合わせて拵えた、機動性の高い服を着用していた。

 元気も、気力も出ない。私をひとりにしないと約束したのに。なんで、なんで。どうして。

 もう会えないのかと、ぎゅうと片手でスカートを握り、畳を見下ろす。呆然と突っ立っている私の前に、おばあちゃんがしゃがみこみ、皺でくしゃくしゃになった顔を更に歪ませて、私を抱き締めた。懐かしいお香の匂いに、じわりじわりとお腹辺りが熱くなる。喪失と安堵感がせめぎ合う。悲しみと嬉しさ、どちらの方が勝っているのかわからない。おばあちゃんの首にに手を回し、服を強く掴んで、声を上げて泣いた。

 夢から覚めて現実に戻ってきた、そんな感じだ。館長さんもワンくんも、たちかわさんもどこへ行ってしまったの。あの館に行く前から、ずっと一緒だった先生とお姉ちゃん達も、もう姿が見えない。本当は全部全部、私の長い夢で、最初から誰も居なかったの? 最初から、ひとりぼっちだったの?


「遠坂先生。これはどこに運んだらいいですか」


 びいびいと祖母にしがみつき慰められながら泣き声を上げる中、障子の向こうで、私の知らない大人の声がする。ぐすと鼻水をすすり、ぼろぼろと涙を流しつつ、畳の部屋の少し空いた障子の隙間を、おばあちゃんの背中から覗き見る。

 
「あぁ。それは2階の子供部屋に運んでおいてくれるかい」

「わかりました。じゃ、お邪魔します」

「いやぁ、悪いね。荷物運びの為に、車まで出して手伝ってもらっちゃって」

「イーエ、お気になさらず。これくらいの荷物なら、引っ越し業者に頼むのもお金が勿体ないでしょう」

「大学は大丈夫かい?」

「ええ。そんなに大勢の学生を請け負ってる訳じゃあないんで。一度二度休講しても、どうということはありませんよ」

「サボり魔は相変わらずだねぇ。お給料貰ってるんだから真面目にやりなさい、真面目に。学生さんだって、安くない学費を支払ってきてるんだから」

「すみません」


 イヤァ~と頭をかき、悪気の欠片も無さそうな態度を取る大人の男のひとが、おじいちゃんと親しげに話していた。その後ろ姿に目を奪われる。あちこち跳ねた寝癖のついた髪は真っ白で雑じり気が無く、雪の様だ。雑に伸びた髪を後ろで一纏めにしている。

 おじいちゃんと同じ白髪? おじいさん? と思ったが、その声は覇気は無けれども、大人らしい低く落ち着いた男のひとの声で、老いは全く感じさせない。

 強いて言うなら、サンダルを脱ぎ捨て、よっこらせと荷物を持ち上げる際の掛け声や動作などがかなりゆったりとしていて、おじいさんっぽいが、その後ろ姿は髪色に反して若さがある。

 ロング丈のTシャツに、ゆったりとした青のカーディガンを羽織り、黒のスキニーパンツと、シンプルだけれども落ち着いた服装。

 両手にボストンバッグをそれぞれ手にしたその男性が、こちらを振り向いた。

 真っ赤な目をしていた。たちかわさんとの深い青の瞳とは真逆で全然違う、トマトみたいな赤。重たそうな瞼によって半目になった目はとてつもなく気だるげで眠たそうにしている。今の私も元気は無いが、あのお兄さんも負けず劣らず、元気もやる気も感じられない。顔の下半分は清潔なマスクに覆われていて、どんな表情をしているのかわからない。

 障子の隙間から視線を寄越していた私の姿が、真っ赤な目に囚われる。涙が一瞬途切れた。よしよしとあやす為、祖母によってゆったりと前後に揺らされていた体が緊張で固まる。

 僅かな隙間、普通ならば、こちらの存在には気づかないだろう。しかし、彼はしっかりと私の姿を捉え、じーーと緩いながらも、凄まじく強い視線を向けてくる。バクバクと緊張で逸る心臓、目を背けづらい、この何とも言えない微妙な状況。むんずと下唇を噛み、より強く、おばあちゃんにしがみついた。

 お兄さんは三日月形の目を作り、静かに此方に笑んで見せた。は、とその柔らかさに気が抜ける。お兄さんは笑顔を作ったまま、身を翻し、祖父に導かれ、階段を上がり、2階へ向かっていった。

 ちょっとしたら、片腕をぐりんぐりんと回しながら、再び玄関まで降りてきたお兄さんは、もう運び込むものはないですか、とお祖父ちゃんに尋ねていた。


「ありがとう、本当に助かった。最近腰がひどく弱くなってね。しきを抱っこするのも難しくなってきたんだ」

「お孫さんも、もう小学校に上がる年齢ですから。そりゃあ難儀にもなりますよ」

「小学校か……」

「大丈夫ですよ」

「何がだい?」

「今回の件ですよ。なんとかなります」

「そう思うかい」

「ええ。子供の頃の記憶は、時間とともに次第に薄れていくものです。あの館で、お孫さんに何があったかはもう知る由もありませんが、これからは、同年代の子供達と接する機会も増える。楽しいことも悲しいことも積み重なって、辛い過去は徐々に薄れていく」

「それは、ひとそれぞれだろう。君の言うとおり、悲劇を乗り換え、逆に経験とし、成長に繋げられる子も居れば、トラウマとして、ずっと抱えこんでしまう子も居る」

「だとしたら、お孫さんは前者ですね」

「どこから来るんだい、その自信は」

「先生のお孫さんですから」


 目だけで再び緩く笑ったお兄さんに、おじいちゃんは毒気を抜かれたようにポカンとしたあと、お兄さんにつられて、「参ったな」と笑った。


「それじゃあ、俺はこれで失礼します。また何かあれば連絡を。すぐに駆けつけますよ」

「こういうときだけは心から頼もしい生徒だよ、お前は。普段から、いつもこうだったらなぁ」

「ここぞってときに光ってたでしょ。昔から」

「このまま真っ直ぐ大学に戻るのかい」

「……のつもりでしたが、警察に呼び出されてるんで、ちょっくら顔出してきます」

「え? い、いやいや。君にそこまで頼むわけにはいかないよ。それはこっちで」

「いーえいーえ。俺が行かなきゃ意味がないんです」

「?」

「あとのことも話をしておきます。どうせ同じ事をまた聞かれるだけでしょうし。先生も連日動きっぱなしで心身ともにお疲れでしょう。ご夫婦共に少し休んでてください。無理したら、また倒れますよ。ご自分の年齢も考えてください」

「しかしな」

「俺のことはお気になさらず。現場も、もう一度見ておきたいと思っていたところなんで」

「館に? でも、あそこはまだ警察が捜査中で、立ち入り禁止になってるだろう」

「ちゃんと許可はもらってきましたよ。ほら」


 はいコレと、お兄さんはどこからか手品のように紙を出して見せた。それをおじいちゃんが受け取り、中身を確認している。


「オーウェン先生の手掛かりがあの館に残っているかもしれません。あと気になることもある」

「気になること?」

「ええ。あの館には、もうひとり居た筈なんです。オーウェン先生が秘密裏に匿っていた人物なんですがね、彼の痕跡も残っていないか探っておきたい」

「何故、そんなことを君が知っているんだ」

「ちょくちょく、先生と連絡は取ってましたから」


 それに、と一瞬だけこちらに向いた赤い目にヒヤリとする。


「お孫さんとも、深く関わり合いがあった人物だと考えられます。オーウェン先生の失踪にも、何か絡んでいるに違いない」

「志紀と?」

「えぇ。ただ、まぁ、お孫さんにあんまり突っ込んで聞かない方がいいでしょ。今はとにかく、落ち着いてもらうことが最優先でしょうから」

「驚いたな……丸くなったものだね。君が他人に対して、気を遣うとは」

「流石にねぇ、もう青臭い餓鬼じゃありませんよ」

「それもそうだ」


 眉を下げて、「やだなー。もー」と言うお兄さん相手に、おじいちゃんは苦笑いで返した。

 おじいちゃんが、おばあちゃんと私の居る畳の部屋に近付いて、障子を開ける。私から体を離したお婆ちゃんはハンカチを取り出し、ほろほろと流れていた自身の涙を拭った。


「おいで、しき」


 おじいちゃんに手を引かれ、おばあちゃんに背中を支えられながら立ち上がる。とぼとぼと足を引きずりながら玄関に進むと、おじいちゃんが抱っこしようとしてくれだが、腰を痛めているという先程の会話を聞いて甘えるのは憚れ、首を振って断る。それならばと、おじいちゃんに後ろから両肩に手を添えられ、お兄さんの目の前に立つように促される。


「志紀。ちょくちょく話したことはあったけど、会うのは初めてだろう。挨拶しなさい」


 マスクで見えない表情、見下ろしてくる、やる気無さげな赤い目が、何故か重りのように私の体にのしかかる。失礼とわかりながらも顔を上げられない。お兄さんが片足に重心をかけて立ち、ズボンのポケットに片方の手を突っ込んでいる様子だけが視界に写る。


「しき」


 挨拶するよう優しく言われるも、唇を噛み、ぎゅうとスカートを両手でくしゃくしゃにする。

 こんな簡単なことも出来ない自分が情けなくて、悔しくて。だから、たちかわさんは私の前から消えちゃったんじゃないかと思うと、悲しくて。

 自分の意思とは関係なく込み上げてくる鬱々としたもので、胸がいっぱいになる。滲み出そうな涙をこらえる為に、ぎゅううううっと力強く顔をくしゃっとさせて耐えていると「噛んじゃだーめ」と聞き心地のいい低音に妨げられる。

 恐る恐る目をうっすらと開くと、とろんとしたやる気のない瞼の奥にある赤い目が、私の目線と同じ位置にあった。

 片膝をついてしゃがんだお兄さんは、ポケットをごそごそと探り、突っ込んていた手を引き出して私に伸ばす。体を強張らせ、ぎゅっと目をつぶって、何をされるのかと耐え忍び待っていると。


「……?」


 噛んでいた唇の隙間に、何かをふにゅりと無理矢理差し込まれた。人差し指がほんのちょっとだけ私の口内に入り込み、ころんと口の中に転がってきたそれを反射的に舐めると、甘い柑橘の味がした。


「おいしい?」


 口の中で転がる、まろやかな甘みに怯えも忘れ、こくりと頷くと、「そーかそーか」と笑まれる。

 両手を出すように言われ、手を仰向けにして出すと、ぽとぽとと、上から透明な紙で包装されたオレンジ色の飴玉が落ちてきて、私の両手をいっぱいにした。水晶玉みたいに透き通る、きらきらとしたそれらに、ぽかんと見惚れていると、些か雑な手つきで頭をぐしゃぐしゃに撫でられ、やっと顔を上げる。

 にこにことしていた目を開けたお兄さんの赤に、戸惑った顔をした私が写っている。私との目線を同じにしたお兄さんは、顔を近づけ、マスク越しに、私にしか聞こえないちいちゃな声で囁いた。


「お前も、こんなにちっちゃいのに、大変なことに巻き込まれちゃったね」

「……」

「でも、もう暫くは大丈夫だ。元気出しなさいよ」


 私の頭をぐちゃぐちゃにして、お兄さんは慰めの言葉をかける。真正面から真っ直ぐに目を見つめられた瞬間、頭のなかに、お兄さんの声が深くまで抉るように響き渡る。赤が、私を貫いたまま放さない。目を反らすことも許されず、泥濘にはまる。

 いやだ、やめて、けさないで、と心の奥で抵抗するが、じわりじわりと黒いもので、大事なものが覆われていく。

 気付いたときには、もう空っぽになっていた。

 そう、例えるなら1・2の・・・ポカン!  だ。放心状態になり、あ、の状態で口を開けた状態になる。溶けかけのオレンジ色の飴玉が口から転がり落ちて、床に落っこちた。同時に、私の手のなかにあった飴玉たちも音を立てて次々と落ちていく。


「志紀?」

「あらら、美味しくなかった?」


 心配そうに、私の隣に慌てて屈むおばあちゃんに、正面では、「ちびっこの舌には合わなかったかなー」なんて呑気なお兄さんの声色に何故だか悲しくなった。

 何にも盗られてなどいないのに、返して、と言ってやりたくなる。

 唾液にまみれた飴玉をお兄さんは躊躇もなく拾い上げ、包み紙にしまい、玄関に置いてあるゴミ箱に躊躇無く棄ててしまった。それにもまた涙がじわりと出てくるが、理由はわからない。ただただ、えも言わず、悲しくて悲しくて、どうしようもなくて、隣に居たおばあちゃんの首にしがみつく私の代わりに、おじいちゃんがお兄さんに謝ってくれた。


「申し訳ないね。まだ不安定で。許してあげてくれるかい」

「いやいやー、許すも何も、驚かせちゃったのはこっちですし。元々こどもに好かれるタイプじゃありませんから、こういうのには慣れてますよ。はい、どうぞ。この飴、お孫さんはお好きじゃないらしいですが、先生と奥さんで良ければ。疲れてるときほど、糖分はよく効きますし」

「有り難く頂くよ。にしても、君は飴ひとつでも、相変わらず年に似合わずチョイスが渋いなぁ」

「はは。学生にも爺くさいってよく言われます。あ、そうだ。遠坂先生」

「なんだい」

「ウィリアムがいったん日本こっちに戻るそうです。昨晩メールが来てました。明後日の夕方には到着するとのことです」

「そうか。それはそうだろうなぁ。彼、どこの国に居たんだ?」

「イタリアのバチカン市国に滞在してたそうで」

「また興味深いところに赴いたんだねぇ。にしても……何と声を掛けてやったらいいのか」

「あいつは父親に似て、偏屈としたところがありますからね。じっとしてられないところも。ま、悲しむよりも先に行動するでしょ」

「……」

「ウィリアムも戻ってくることです。俺もあいつに手を貸しますから、心配は無用ですよ、先生。何より、この件は警察の手だけじゃあ、恐らく何も見えてこない。オーウェン先生のことだ。人懐っこく見えて、誰よりも用心深く、疑り深いひとです。あのひとの性格上、本当に大事なものは、人の目には簡単に触れられないところに置いとくでしょうし、それを見つけるのは、教え子の俺達の役目であり、課題なんでしょう」


 案外、ひょっこり戻ってくるかもしれないですしねぇ、と笑ってみせるお兄さんに、おじいちゃんは困った様に笑う。


「長年君の先生をやってきたが、君は本当に掴み所が無いな」

「そうですか? 俺は結構わかりやすい方ですよ」

「どの口が言うんだか。その落ち着きぶりのせいなのか、時々ね、君は一歩二歩どころか、未来すら見えているんじゃないかと思うことがあるんだ」

「はぁ」

「今回の件も、まるで予め、こうなることを知っていたんじゃないかと言う風にも思えてしまう」

「いやだなぁ、先生、それじゃあ容疑者扱いだ」

「あ、あぁ、違う違う! そうじゃなくて」

「わかってますよ。胡散臭いやら、詐欺師っぽいやら、これも昔っから言われてきましたから。……っと、もうこんな時間か。それじゃあ先生、何かあれば気軽に呼びつけて下さい。こういうときにこそ、弟子をこきつかうもんですよ。もうお年ですしね」

「はは……すまないね」

「先生の奥さんも、あまり思い詰めずに。無理はなさらないで下さいね」


 震える私の背中を擦っていたお婆ちゃんが、か弱い声で、有り難うと謝意を表し、頭を軽く下げた。

 私はずっとお兄さんに背中を向けたまま、怯えていた。大事なことを忘れてしまった気がしてならなくて、混乱して、動けなくなってしまっていたと言ってもいい。どうしようどうしようと訳もわからない焦りと不安でいっぱいになっていた。そんな私の頭を、後ろから誰かか撫でた。おばあちゃんと思ったが、違う。


「今は何も考えずに休むんだよ」

「……」

「辛いことも待ってるだろうが、目の前の現実をしっかりと見て、地面に足つけて、踏ん張って生きていくんだ」


 頑張れ、とぽんぽんと撫でられ、手が離れていく。じわりと涙が溢れて、おばあちゃんの肩を、涙と鼻水で濡らすことになった。より力を込めて私を囲ってくれる腕の人物に抱きつく。

 この懐かしい匂いと温もりに、これ以上ない程ひどく安心し、そして、やっと、一点の淀みもない安堵に息を吐く。私が本当に求めていた温もりはここにある。そう信じて、疑うことはもうなかった。








 重苦しい空気のなか、知っていたのかと尋ねる。隣に座る男性は暫く黙ったままだったが、やがて頭の上にのし掛かる重圧に耐えられなくなったのか、顔を俯かせ、小さく頷き、灰色の髪を揺らした。


「……ごめん」

「……いつから?」

こっちに帰って来て、しばらくしてから」

「たとえば、なんですけどね、例えばの話ですよ?」

「……」

「私が、戻るっていったら」

「それもう完全にDV受けてた女の典型的な行動パターンじゃん」

「……」

「太刀川に会うために戻るだ?  俺が許すわけねぇだろ」

「ですよね」 

「……」

「……」

「あっさり引き下がるのな」

「言ったじゃないですか。例えばの話って」

「それにしたって、もちっとなんか言ってくると思ったけど」

「口で岡崎さんに敵うわけないじゃないでしょ」

「そうじゃなくて」

「そんな事言わないでって泣き縋ると思いました?」

「って、訳じゃねぇけど」

「繰り返されるだけだなと思ったんです。因果は巡るって、こういうことなんだなとも」

「……」

「太刀川さんに会いたいですよ。明確に生きてるって聞いた今。ちゃんと動いてるとこが見たい。話がしたい。声が聞きたい。病気ってどういうことだって詰めたい」

「……」

「でも、その気持ちを優先させた先に待ってるのは、たぶん」


 この先は口にしなかった。言わなくても岡崎さんが一番それをよくわかっている。

 だって、因果は巡るんだから。


「最近忙しくしてたのは、イワンさんが言ってた通り、天龍組の動きが活発になったからですか」


 沈黙は肯定に等しかった。そうですか、と呟いて、胸元で揺れる指輪を指で転がす。だらりと膝に両手をかけて、前屈みに重心を置いて座り、地面に視線を寄越したままの岡崎さんの表情はここからじゃ見えない。いつかの真夜中に見た岡崎さんの姿を彷彿とさせる。あのときと同じ、さながら赦しを乞う罪人。

 その日以来、岡崎さんからも、私の口からも、太刀川さんのことや天龍組のことを切り出すことはなく、岡崎さんは最近の界隈の事情について話さなくなった。イワンさんも困った顔をして「一切教えるなって言われてんだ」と、誰にと聞くまでもなく、私は「そうですか」と答え、それ以上の追及はしなかった。私の耳に入ってくる情報は皆無に等しくなった。

 今まで通りだった。朝ご飯の準備をして、岡崎さんと一緒に食べて、出かける彼を見送ったあとは家の掃除と洗濯をして、お昼を食べて、お医者さんに教えてもらった足のストレッチをして、庭のお世話をして、本を読んだりして時間を潰して、晩御飯の準備をして、帰ってくる岡崎さんと一緒に食べたり食べられなかったり、あとは寝て、悪夢に魘されて起きて、寝ての繰り返し。

 より忙しくなった岡崎さんの帰りを待つ日々が淡々と続いていく。まるで、フォックスさんがやってきたことなど無かったみたいに。岡崎さんは、彼の稼業と私を完全に切り離そうとしていた。

 たったひとつ、変化というよりも不思議なことがある。殺伐としている筈の現状とは裏腹に、お仕事から戻ってくる岡崎さんの身体の怪我は圧倒的に減り、反り血にまみれて来ることも、思わず眉を潜めてしまう死臭を纏ってくることも無くなっていった。なんなら何事もなく、のほほんと帰って来た日もある。刀についた血の汚れを落とす作業を見かけることは恒例だったのだが、その手入れ姿を見ることも希になっていた。一方、イワンさんは会うたびにやつれていく。彼は誰かさんのお陰で、これまでサボって溜めてた仕事のツケが一気に回ってきたと語っていた。

 お互いに核心に触れた話題を出さないが、その代わりに、岡崎さんは私に考える時間だけは、たっぷり与えてしまった。太刀川さんのことも。岡崎さんのことも。そして、私自身のことも。

 自分でも吃驚するほどに落ち着いて、自分と向き合うことが出来た。この時代にやってきてからのことを、ひとつひとつ思い出して、鏡写しの様に見つめ直す。あのときああしておけば何か変わっていたのかもしれないと、ありもしない、もしかしての未来も想像して、過去の拙い自分を貶める。けれど、それが軌跡と云うものなのだろう。

 酸いも甘いも、こうして各々の人生というものが形成されていく。何があろうとも、どんな結果であろうとも、生きる上でこれはついて回るものだ。受け入れて、踏みしめて、それでも進んでいくしかない。それがどんなに泥沼の道であっても。

 けれど、ときに立ち止まりたくなるときもある。つまづいて、先を往くことが怖くて、足が震えることだって。

 そうでなくては、人間ではない。だからこそ人間なのだ。

 そして膝をつきたくなる光景を、その赤い目にどれだけ収めても、周りで蹲っているひとをも支え、ときに背負い、真っ直ぐに前だけを見つめ、無理矢理にでも足を踏み出し続けていたひとが、今立ち止まっている。途方に暮れている。別れ道のどちらを選び進むのか、考えることすらも恐れている。化け物と罵られ続けた彼が恐れている。

 今まで、ほぼノンストップの勇み足で進み続けたのだ。一度二度と言わず、ときには周りの景色を見る為に足を休め、立ち止まってみるのもいい。


「(でも、岡崎さんはずっと留まってたいみたい)」
 

 こわいんだろうな、と思う。せっかく手に入れた平穏にヒビが入るのが。

 自ら切り出してしまえば、今までに持ち得なかったものを自ら手放すことになるかもしれないことに気づいているのだろう。
 
 座り込んでいるままでは、ただの逃避でしかないのだということを、私は身を以て、よく知っていた。岡崎さんは、それを教えてくれたひとでもある。

 そして、太刀川さんも。彼は今の岡崎さんとは対照的だ。目覚めても尚、途方もない道を歩き続けている。道がなければ作るまでと、無理矢理に切り開き、茨の道を行く、その豪胆さ。まさにゴーイングマイウェイ。

 形振り構わず歩みを進める太刀川さんが恐い。茨の刺で傷付いた足はとっくの昔に肉が削げ落ち、ギリギリ繋がっているという風にしか見えなくて。彼に手折られた私の足なんかよりも余程、太刀川さんの方が重傷だ。そして、もう治せないところまで来ているらしい。腐敗し続け、途中で血溜まりが出来ていても、知ったことかと自分のことなのに、まるで他人事のように彼は進んでいく。

 太刀川さんはどこを目指しているのだろう。私は、その道筋が途切れているような気がしてこわい。切り開く為の大地も、もう荒れ果てて、落ちたら即死の断崖絶壁が待ち受けている様な気がしてならない。太刀川さんの前に立ち塞がる崖は、もう夢も希望もなく、堕ちるしかない運命なのだと、彼に知らしめるのではないか。

 更に残酷なことに、例え、もし道が続いていたとして、その先に待っているのは私ではないことに、太刀川さんは気付いているのだろうか。








「ホワイトデー、何か欲しいモンねーの」


 お庭にある池の花筏をぼんやりと傍らで屈んで眺めていると、室内に居た岡崎さんがベランダを開けて、少し距離の離れた私に、大きめの声で尋ねた。


「え?」

「え? じゃなくて、今日ホワイトデーだろ。俺もさっきカレンダー見て気付いたんだけど」

「あ、あー」


 ホワイトデーと聞いて真っ先に思ったのは、もうそれだけ日数が経っていたのかという自覚だった。思うところはあれ、のんびりと過ごしていると、時間の経過というのはその時はゆっくりでも、終わってみれば一瞬だったなと感じさせる。

 というか、岡崎さん、気付いて、すぐさま私に欲しいもの聞いてきたの? ほんと言動にそぐわず、イベント大事にするひとだな。やっぱりお祭りとか、行事ものが好きなのかも。


「特に無いです」

「は? マジで言ってんの? ほら、なんか流行りの服だの、鞄だの、欲しいモンあるだろ。ほんとにねーの」

「流行はよくわからないし、いつも置いてかれる側なので。服も鞄も、今ある物で使えるし、十分なので」

「えぇ……も、もっとこう、我が儘言ってもらっても構わないんだけど、岡崎さん的に。というか、言ってくれなきゃ、わかんないものもあるっつーかね?」

「牛肉と豚肉が切れたので欲しいです。あ、あと、お味噌も一回分で無くなりそうだったな……お豆腐とお葱とワカメも」

「そうじゃなくてね!?」

「あ。でも、もうそんな買い足さなくてもいいのか。ごめんなさい、忘れてください」

「え?」

「欲しいもの、やっぱり特に無いです」

「ちょ、え、えぇ~」

「いいですよ。お返しとか気にしなくて。それに、これまでのこと考えたら、私の方が返さないといけないもの、たくさんあるし」


 私だって、ホワイトデーのお返し、岡崎さんに渡さなくちゃならないし。指輪を手の中で握り締める。これに見合うものを見繕うのは、とても大変だ。


「それにしたって、もうちょっと欲深になってくんねぇと、こっちもこういうときに困るっつーか。シラユキの奴は、新作の化粧品だの、新しく出たブランドのバッグだの、遠慮も無しに値札も見ねぇで、一個だっつってんのに次々と要求してきやがったぞ」

「はは。シラユキさんらしいですね。いいなぁ。私もそういう大人なお買い物は憧れますね」

「……興味あんなら見に行ってもいいぞー。気に入ったもんあったら買ってやるよ。ただし、いっこな。いっこだけな」

「大丈夫です。ちょっと高価なお買い物デビューは自分で働いたお金でって決めましたから。今」

「なんで今決めちゃうかな!?」

「それよりも、岡崎さんにいっこお願いしたいこと見つけましたから」

「ん? おーおー、なんだ言ってみろ。買い物でも、お出掛けでも、家の雑用でも、床の世話も、任せなさい任せなさい。……忘れられない夜にしてやんよ」

「岡崎さん、確かなんでも出来るマンでしたよね」

「ちょっと。スルーはやめて。普通に恥ずかしいから。キメ顔した俺馬鹿みたいじゃん。恥ずかしい奴じゃん。つか、なにそれ。俺、ドラ●もんじゃねーぞ。四次●ポケットなんざ持ってねーぞ」

「大丈夫大丈夫。無理難題を言うつもりはありませんから」

「ん。なに?」

「髪切ってくれませんか」

「……え」

「バッサリと。美容室に行くお金勿体無いし、ハサミでいいんで、思い切りいっちゃってください」

「い、いやいやいやいや、ちょっと待て。待てって」

「よし、思い付いたが吉日です。椅子とタオルと準備しますね。お庭でいいですよね」

「志紀さん!? 聞いてる!? さっきから俺の話聞いてる!? あ、あの、もしもーし! もしもし! あれ!? 声届いてる!? 志紀さん!? お前、さっき太刀川のことゴーイングマイウェイとか回想してたけど、お前も相当だよ!」


 落ちた髪を集めやすくする為、椅子の下に古新聞を敷き詰める。よいせと腰掛けたあとは、服に細かい髪が付着しないよう、カットクロス代わりに100均一で買っておいておいたレインコートを羽織る。


「いざ! おねがいします!」 


 気合いを切れて膝を叩く。まるで切腹前の武士だ。ふんすふんすと鼻を鳴らして待ち構えるも、先程、そこらにあった鋏を持たせた岡崎さんが動き出す気配が一向にない。

 振り向くと、私の真後ろに居た筈の岡崎さんは忽然と消えており、何やら部屋の奥からドッタンバッタンと騒がしい物音が聞こえてくる。立ち上がり、そろそろと覗いてみると、上着を羽織った岡崎さんが家を出ていこうとしているところだった。え、なんでエスケープ?


「ちょ、岡崎さん。どこにいくんですか」

「はん!? 床屋に決まってんだろ!」

「……岡崎さんも髪切るんですか?」

「ちがいますー! ちゃんとした、すき鋏諸々セットで借りてくんだよ、プロ仕様のやつ! こんな100均で買ったブツで切れるか! つか本当に俺でいいの!? 今時話題の腕利きのシャレオツな床屋行かなくていいの!?」

「別に、そこまでしなくても。それに、日が暮れちゃう」

「流石に考えろや! 髪は女の命なんだろ!? マッハで行って戻ってくるから、茶ァしばいて待ってろ!」


 大袈裟な顔をして、ウオォオオオと叫び、コンマ一秒でバイクを走らせて出ていった岡崎さんの姿を庭から見送る。別に、ほんとに気にしなくていいのに。

 宣言通り、約30分程で戻ってきた岡崎さんはゼェゼェと息を切らしていた。ちょっと休んではどうかと気遣うも、はやくしないと覚えたこと忘れてしまいそうだから、今すぐ取りかかりたい、と腕捲りをしている。覚えたこととはと尋ねると、どうやら、知り合いの美容師さんに、鋏の入れ方、カットの方法諸々のいろはを、最短時間で簡単にだが教授してもらったらしい。「この鋏がああでこうで……」とぶつぶつ呟きながら鋏と私の髪を何度も何度も見比べている岡崎さんの顔は焦燥としたものだ。


「ちょ、ちょっと毛先で練習してもいい?」

「どうぞ。どうせ切り落とす部分ですから」


 岡崎さんが私の毛先を手に取り、櫛の通りが悪い傷んだ毛先をとかして、鋏を入れる。何度か練習を繰り返していく内に、最初はしどろもどろだった手つきに、心なしか安定感がでてきた。もちろんプロには敵う訳もない。いくらやり方を教えてもらったとはいえ、岡崎さんの手つきはプロから見れば失笑ものだろう。彼が練習のなかで取り込んだ我流ではあるが、持ち前の器用さで大体の要領は掴めたらしい。

 それじゃあ本当に日が暮れる前に終わらせてしまいましょう、どうぞ、と岡崎さんに委ねる。

 
「どれくらい切りたいの」

「肩にかかるか、かからないか位で」

「またそんな微妙な表現を。ハッキリ言えよ。こちとらドのつくシロートなんだから」

「じゃあ、岡崎さんと初めて会ったとき位って言ったらわかります?」

「……」

「あ、覚えてません?」

「覚えてるよ」


 当たり前だろ、と真剣な声色で言ってくれたことに、心がじんわりと暖かくなる。


「じゃあ、よろしくおねがいします」

「……」

「あの、おかざきさん? プルプル震えて持ってるだけじゃ進みませんよ。逆に震えてる刃先が恐いんですけど、危ないんですけど」

「でも、おまえ、せっかく、そこまで伸ばしたのに」

「とはいっても……さっき触ってもらったのでわかったと思うんですけど、私、もともと、髪質そんなに良くなくって、ロングは向いてないんです。ここまで伸ばしたのも、子供の頃以来だったんですよ」

「へぇ……」

「あとは、そうですね。実は思いのほか、最近鬱陶しくて。口に入るし、朝起きたら踏んじゃって痛い思いするし、引っ掛かるし、重いし」

「女の台詞とは思えねーな……」

「それは偏見です」

「えっ、いや、でも良いの? そこまで伸ばすのに苦労すんじゃねぇの? ほんとは、ちょっと惜しいなってなるもんじゃねぇの? マジで後悔しねぇ?」

「しませんしません。ほらほら、晩御飯前にやっちゃわないと。善は急げでしょ」

「ま、まてよ! ちょ、まてよ!」

「も、もー! なんで岡崎さんの方が慌ててんですか」

「おっ、俺はなぁ! お前の為に、日々密かに髪結いの技を極めようと研究してたんだよ! 今は、この超ド級メガ盛りキラキラトルネードをマスターしようとだな!」

「まさかの参考書がち●おでビックリですよ……見てるだけで首折れそうだから、いいです……」

「見てろよ……太刀川も及ばねぇ髪結いしてやっから! ……そんな気概で、研究に研究を重ねてたっていうのに! チクショウ! 俺の努力が水の泡に!」

「どこで太刀川さんと張り合ってるんですか」

「それにしても、なんだよ、突然、どういう心境の変化だよ。フラれた訳でもねーだろ。俺、フった覚えねーぞ。これからも無ぇけどな!」

「はぁ……。いや、私のおばあちゃん、年齢的に考えても流石にぼけちゃってるかなぁと思って。髪が長いと、私だとわかんないかなぁと。誰とか言われたら、やっぱりショックだし……少しでも、おばあちゃんの知ってる姿に近付けておこうって」

「あぁ、なるほど」

「はい」

「……」

「……」 


 完全に沈黙し、硬直してしまった岡崎さんを振り返り、見上げると、困惑というよりも、受け止めきれておらず、口を結び、目を開いて呆然としていた。


「おかざきさん」


 名前を呼ぶと、彼はハッとした顔で私を見下ろし、その赤い目に映した。迷子の子供が、やっとお母さんを見つけた様な顔だった。


「大丈夫ですよ。そんなに気を張り詰めなくて」

「……」

「失敗しても、また伸びるのを待てばいいんだから」


 両手で支えた宝石箱オルゴールの仕掛けを解くと、聞き慣れたメロディーが流れ始める。沈黙の中の柔らかい音色は緊張を解していく。庭の真ん中に聳える大木には満開の桜が咲き、時折吹いた風によって、花弁がひらひらと舞う。しだれ桜だったんだなぁ。

 あの日は、まだ花開いていない蕾がちらほらとあった。雨も降っていたなんて思いを馳せる。過去の思い出へ道案内をしてくれる宝石箱オルゴールの歌と、視界を彩る薄桃色の景色を、穏やかな気持ちで見守っていると、ザクリ、と束ねられた毛が切り落とされた。頭の軽さが今までとは段違いで、懐かしかった。そのままポイと下に落とせばいいのに、後ろに控える男性はそれをせず、ゆっくりと束になったそれを台の上に置いた。

 毛先を整える為、チョキチョキと鋏を入れる音が首辺りから聞こえてくる。刃物を向けられているというのに、どうしてこうも、この音と、時折掠める暖かい手は、こんなにも安心させてくれるんだろう。手放すのが惜しくないのかと言われれば、簡単に首を縦に振ることが出来ない自分が居ることも確かだ。

 けれど、と私の足元に散らばる黒髪を眺める。さらりと少し顔を傾ければ、もうすぐそこに毛先が見える。かつて少女だった私が、後ろ向きながらも、カレンダーを日々睨みつけ、絶対にと強い想いを抱いていた、夢とも違わぬ目標に一点の淀みも無かった。やはり、それが正しかったのだ。まだまだ完璧でなくでも、半端でも、大人になった私が周り回って、やっと、桜の木の下で、青い傘を手にした、まっさらな子供の前に、やっとたどり着いた。

 宝石箱の蓋をゆっくりと閉じる。音色が途切れ、花や草木が揺れる音、そして緩やかな風の音が鼓膜に静かに届く。岡崎さんが私の体を覆っていたコートを脱がせ、散らばった髪を払い落とす音も。重みのなくなった頭、頬を掠める短くなった髪、確かに、私がこの時代に訪れたときと同じ長さだった。

 私も片付けのお手伝いをしようと腰を上げかけたところで、後ろから両肩を押さえつけられ、再び椅子に戻される。立ち上がらせようとしない意思を、その両手から感じられる。誰かとは言わずもがなだ。

 どんな顔をしてるんだろう。見せてほしいなと振り返ろうとすると「こっち見んな」とくぐもった声が聞こえてきた。あと、ぐすって鼻を啜る音が……って、え、ちょ、ちょっと待って。ちょい待ち。


「お、岡崎さーん?」

「……」

「な、なに泣いてるんですか? 大丈夫?」

「泣いてねーよ!」

「いやだって、ものっそいグスグスしてる音が」

「埃に目と鼻が入っただけですけど!? 勘違いやめてくれません!?」

「いや、逆。逆です、岡崎さん。落ち着いて」

「落ち着いてるよ。滅茶苦茶落ち着いてるよ。これまでの生涯で一番平静だよ。クールだよ。イカしてるよ」

「(どこがだ)は、鼻水は落とさないでくださいね。ティッシュ持ってきましょうか」

「いい」

「でも」

「いらねぇって言ってんだろ」

「……慰めさせてくれないんですか?」

「何をだよ」

「岡崎さんのこと」


 返事の代わりに、ぐぐっと私の肩を掴まえた手に力が入る。あ、ちょっと痛い。もっと緩めてくれないかな。そしたら、痛気持ちいいの丁度良さになるんだけどな。いや、それよりも顔が見たい。見たいけど、私の力じゃ無理かあ。


「岡崎さん。顔は見ないから、このままでいいから、私の話、ちょこっとだけ聞いてくれます?」

「……」

「私ね、お母さんが心から笑ってる姿、片手で数える位しか見たこと無いんですよ。それも、困った風に笑うのが圧倒的に多くて。あんまり岡崎さんに詳しく話したことなかったけど、私、恥ずかしながら、円満な家庭で育ったとは言えなくて、今も母とは色々と問題を抱えてて、もう十五年位まともに顔を合わせてないんですよ」

「……」

「他にも色々とあって。ほら、私中学卒業前に、こっちに来ちゃったじゃないですか。義務教育だから卒業はさせてくれるとはいえ、所謂まともに学が無い状態なんです。そんなに勉強出来るタイプじゃなかったし。私、一人っ子で、色々問題はあれど、大切に育ててもらったんです。色んなひとに。だから、そのひとたちに恥じないように、胸張って生きたいんです。ここまで成長してくれて良かったって安心してほしい。だから、大学も行っておきたいんです。出来れば、自分で働いたお金で。高校卒業の資格は必要だし、バイトはしなきゃだし、課題が山積みなんです」

「……」

「私、身体は成長しても、まだまだ未熟なんです。世間知らずで、人生経験不足で。でも、ひとひとりの成長を見守ることが、どれだけ大変なことなのかっていうのは、自分のことを見返して、少しでもわかったつもりです。だからこそ親孝行もしたいし。とくに祖父母には、……一番お世話になったのに、何もしてあげられないままは嫌なんです」


『志紀。優しく、気高く、聡明に、他人に馬鹿にされても、自分自身に恥じないひとになりなさい』


 一番に私のことを気にかけ、私のための言葉をいくつもくれたお祖父ちゃんに、その姿を見せるには間に合わなかった。でもせめて、墓前に花を供え、今の私の姿で挨拶がしたい。


「もちろん、二人だけじゃない。早朝から夜遅くまで、あくせく働いて家計を支えてくれるお父さんにも、今もひとりぼっちにさせたままでいる、お母さんにも」


 冷たいと言われるかもしれない。要は、自分のこともままならないのに、まともに自立すら出来ていないのに、他の人まで面倒見切れるのかって話だった。他人のことを気に掛けてる場合なのかと聞かれて、確かになぁと思えてしまう位に、ある程度の成長を遂げてしまった。どんな人であろうが放っておけない、見捨てられない病を抱えていた少女は、息を潜め、現実を知った。

 土台が不安定なのに、自分の他に人を乗せて、支えてなどいられる筈がない。最初は保てたとしても、いずれ崩れ、共倒れになってしまうに決まっている。沈没寸前の船に、無理やりひとを乗せるようなものだった。共に沈もうと手をこまねいているだけに過ぎず、あとは終わるのを一緒に待つだけの無責任。それに、なんの意味があるというのか。


「私、太刀川さんに会いに戻るんじゃないんですよ」

「うそだ」

「嘘じゃないです」

「うそだ。だって、お前はずっと」

「……」

「本当は、最初から、俺じゃなくて、ずっと、俺に会う前から」

「岡崎さん。大好きです」

「……」

「嘘じゃないですよ」


 嘘にしないで。お願いだから。私がどれだけ、あなたのことを想っているのか、それを嘘偽りだと決めつけないで。

 大切なひとだ。これからも、ずっとかけがえのないひとだ。きっと、恋だとかの段階はとっくに越えていて、言葉では言い表せないもので大きく膨らんでいて、それが当たり前になっていて。

 岡崎さんと一緒に居たら、幸せで熔けてしまいそうな瞬間がいくつもあった。岡崎さんが望むならなんだって差し出すと、あのひとを裏切ることを頭に浮かべたことも、はっきり言って一度や二度じゃない。いっそのこと、無理やりにでも暴いてくれたらいいのに、と思ったことさえある。

 私に、妬ききれる様な嫉妬の情を教え込んだのが自分だということも、岡崎さんは気付いてない。なんてことない顔してるだなんて、岡崎さんに言われたときには笑いそうになった。私のものなのに、と醜い独占欲で、疼き、のたうち回る女を、私がどれだけ必死で押さえ付けていたか、このひとが知ることは一生無いのだろう。

 岡崎さんが思ってる以上に、このままじゃ私は、このひとを潰してしまうんじゃないかと不安になる程に、想っていることも。


「ね、岡崎さん。顔見ちゃ駄目?」

「……だめ、ぜってーだめ」

「けち」

「むりだって。ほんと、勘弁して。むり」 

「ぎゅーってしてあげたいのに」

「……」

「(あ、葛藤してる)」

「……んで」

「ん?」

「なんで、あんなこと言っちまったかなぁ、俺。後先考えねーで、馬鹿じゃねーの」

「後悔してるんですか?」

「後悔してるよ、めちゃくちゃ!! 当たり前だろ!」

「う、うぉおう!」


 後ろで突然叫ぶものだから、思わず声を上げてしまった。び、びっくりした。一度吐き出す切っ掛けを得た岡崎さんは水を得た魚で、もう留めることは出来ないらしく、その後悔の念を、私の背中に次々と溢し始める。


「帰したくねぇに決まってんだろ! ふざけんなよ。何であんとき無駄にかっこつけて、俺が帰してやるよ(キリッ)なんてしちゃったかなぁ~。やり直したい……デロ●アン乗って修正しに行きたい」

「デ●リアンも、最後は木っ端微塵に破壊されちゃうんですけどね」

「……」

「でも、岡崎さん、すごくかっこよかったですよ。まんまと射ぬかれましたよ」

「わかってんだよ、そんなことは! あんときの俺がピカイチにイケてる野郎だったことは、一番俺がわかってますー!」

「はい。そうですね」

「でも……仕方ねぇじゃん」

「はい」

「約束しちまったんだ」

「……」

自分てめぇの都合で、お前の意思曲げんのも違うだろ。男が廃る。……それに、俺のワガママ貫き通しちまったら、太刀川に言ったことが全部、俺にブーメランで反ってくるんだよ」


 あいつとサシでやりあえなくなると、弱々しくも言い切ってくれた岡崎さんの手の力はとっくに弱まっていて、難なく、ほどくことが出来た。

 後ろを向くと、真っ赤な目から透明な液体をぽろぽろと流し続ける男性が居た。本人があんまりにも見てほしくないと言うものだから、もっと汚い顔をしているのかと思いきや、そうではなかった。むしろ真逆だ。

 落とさないよう、宝石箱オルゴールを膝の上に置き、岡崎さんの顔に両手を伸ばして、座る私の方に引き寄せる。岡崎さんは私の為すがままだった。ルビーの様に赤い目には、肩あたりまでの髪の長さになった私が映っている。

 いちばんに強い風が吹き、桜がの花弁が舞う。岡崎さんの灰色の髪が揺れる。灰と赤と花弁の色は、とても相性がいい。桜が好きだといってくれた岡崎さんのことばを思い出して、チクリと甘く、胸の奥が疼いた。

 引き寄せた顔に、ゆっくりと自分のものを合わせる。目を閉じて、柔らかいものが触れ合う感覚を享受していると、両頬に大きな手が添えられた。応えるようにして、優しく角度を変えながら、岡崎さんのものが押し付けられる。離れても、すぐにくっついたり、啄み合わせるだけで、雪崩れ込んでる感情の海。

 名残惜しいながらも、唇を離し、岡崎さんのおでこに自分の額をぐりぐりと擦り合わせる。近すぎて、お互いの顔はちゃんと見えない。でも、お互いの声はよく聞こえた。


「ね、もう泣かないでくださいよ」

「こんなに嬉しくないお返しがあってたまるかよ。笑って喜べってのか」

「難しいですよね」

「……なぁ」

「はい」

「うさぎって、さみしいと死んじゃうって知ってる?」

「……しってますよ」


 よく知ってる。






 その夜だった。もはや恒例となった青い龍の夢に眉を寄せ、嫌な汗を身体中に纏いながら、夜中にスッと目を開ける。いつも目を覚ます度、心配そうに私を見守ってくれていた男性が居ない。寝る前には、確かに隣に居たのに。ぱすぱすとシーツを叩いてみると、温もりは失われていた。ベッドから下りて、居間に続く扉を静かに開く。

 居間のソファには、私もまだその真髄の奥の奥を知らない岡崎さんが居た。声を発することはしないまま、裸足で近付く。ソファにひとり座り、祈るみたいに両手を組み、深く項垂れる姿は、やはり懺悔する咎人にも見えるし、行き場を失った捨て犬にも見える。

 このひとも、おかざきさんなんだよなぁと色々な顔を持つ男性を思いながら、目の前に屈み座る。固く結ばれていた手に、自分のものを添えると、垂れた灰色の前髪の隙間から、怨念と憎しみの籠められた赤目が、私を殺さんばかりに、鋭く睨み付けてくる。


「ごめんね」

「……」

「ごめんね、おかざきさん」


 なんどもなんども、ごめんねを繰り返す。返事はなくても、それをずっと続けていると、やがて私を睨み付けたままでいた岡崎さんの右目から、ツー一と一筋だけ、涙が静かに流れたのが見えた。

 私の首を囲う、鎖で繋がれた輪を、頭の上に持ってきて外した。もう髪でひっかかることはなく、すんなりだ。手のなかで光る黄金の指輪を、しっかりとこの目に収めて、固く結ばれていた岡崎さんの手を取る。ぎちぎちに握られていた両手を時間をかけて剥がしていく。やっとの思いで自由にさせられた岡崎さんの片手だけを取り、ゴツゴツとした掌に指輪を乗せる。そして、私の両手で、その手をゆっくりと閉じた。握り込まれた拳を暫く包み、そっと離す。開かれることはなかった。

 腰を上げ、少しだけ屈み、岡崎さんの額に口をつける。おやすみなさい、とだけ伝えて、身を翻して寝室に戻り、再びベッドにひとりで潜って目を閉じた。

 次に見た夢は龍の夢ではなかった。真っ暗闇な空間で、ぽろぽろと赤い目から涙を流し続ける、狼に似た形をした灰色の獣の夢。私はその獣の頭を撫で、後ろ髪を引かれながらも、踵を返し、背中を向けて立ち去っていく。

 何度か、くぅんという切ない鳴き声と共に、スカートの裾を噛んで引き留められるけれど、私の足が止まることも、振り向くこともなかった。何度も何度も引き留められては歩くを繰り返し、その内に、獣が私を引き留める間隔も長くなっていって、追いかけてくる距離も遠くなっていった。

 やがて、獣の足音が聞こえなくなる。諦めたのだろうか。

 私が通り過ぎてきた真っ暗闇の道の向こうでは、泣き声にも似た遠吠えが、暗闇の中で響き渡っている。誰かを呼ぶように、ずっとずっと。その咆哮が聞こえなくなる距離になっても、ずっと、それは続いていた。




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