運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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初夜

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 盛大なお祝いの花火に、このひとともう一度見たいとあれほど切願していた灯籠流しの後だというのに、お宿まで戻る道のりは、少しだけしんみりとしていた。声を掛ければ返事は返ってくるけれど、岡崎さんはずっとぼんやりとしていて、いつものお喋りさんはどこへと尋ねたくなる位に、口達者なお口は開かれない。深く考え込んでしまっている。こういうときは逆に、あまり茶々を入れない方がいいだろう。
 
 しかし現実は酷なもので、岡崎さんに悠々と思考出来る余裕を与えることを許してはくれなかった。

 お部屋に戻ってきて、まず一番に目に飛び込んできたもの。懇切丁寧にお部屋のど真ん中にご用意されていた寝床を見て、岡崎さんはガチガチに固まっている。その後ろで、やっぱりなーそうだよねーそうなるよねー、と比較的冷静に、しかし死んだ目になりながら心中で呟いた。

 デデーーンと集中線が描かれている主張強めに敷かれたお布団は、ひとつだけしか用意されていなかった。サイズはやたらに大きく、明らかに一人用ではない。当然の様に枕も一つで、すぐ側には、これまたご丁寧に塵紙と芥箱が添えらている。気のせいか、ピンクの照明が若干かかっているし、アッハ~ンと色気たっぷりの女性の吐息(BGM)がどこからか聞こえてくる。何らかの意図とメッセージ性を感じずにはいられなかった。ここまでくると、赤裸々と言っていい程行き渡ったおもてなしだ。

 目の前の景色に圧倒されてしまったのか、中に一歩として踏み込むことはせず、耳まで真っ赤っかにした目の前の男性を後ろから見上げる。目元を真っ暗にし、唇を噛みしめ、だらだらだらだらと尋常じゃない量の汗を流している。脱水症状にならない? 大丈夫か。大きな体は、まるで生まれたての小鹿の様にぷるぷると小刻みに震え、ぎゅううと両の手には固い拳が作られている。

 岡崎さんの反応が、少しだけ意外に思う。なんだかんだ、太刀川さんにも負けず劣らず百戦錬磨で、様々な女性とこういうシチュエーションで、ありとあらゆる格闘を寝具上でゴングを鳴らしながら熱く繰り広げてきただろうに。慣れてそうなんだけど、この初心な動揺は何だというのだ。


「お、おおおおばちゃーーん!?」

「うわっ。び、びっくりした。え、ちょ、岡崎さん。どこに」

「おおおお前はここで待ってろ。あ、こ、これには深い意味は無いから! 別に俺が頼んだ訳じゃねぇから! 安心しなさい。俺がなんとかしてやるから!」

「お、落ち着いて岡崎さん。って、鼻血、鼻血が。深呼吸です。深呼吸してください」


 勢いよく此方を振り向いた岡崎さんの目は血走り、顔中汗もだらだらで、鼻の下にはツーーと赤いものが流れ始めていた。お布団の側に置かれていた塵紙で赤いものを拭き取ってあげると、岡崎さんの赤い目はぐるぐると渦を巻いていた。だ、大丈夫なのか、ほんとに。

 興奮した闘牛状態に陥っている岡崎さんを、どうどう、落ち着きたまえ、と宥めていると、このお部屋のセッティングをしてくれた担当のおばあさんが丁度別のお部屋の準備を済ませたところらしく、二つとなりの客室から出てきた。中にも入らず、玄関でわたわたしている私たち二人組の様子を見て察したのか、あっ! とおばあさんを見て、目をかっ開いた岡崎さんに対し、いやにいい笑顔で、グッ! と親指を立て、爽快と自分の仕事に戻っていった。岡崎さんはもはや何も言えず、口をはくはくと開閉させ、呆然としている。そんな岡崎さんの背中をぐいぐいと押して、とりあえず中に入れる。

 端に寄せられていた座椅子に腰掛けさせ、ぐいぐいと鼻の穴に小さく固めたティッシュを詰め込んでやる。とりあえず、本人のなかで落ち着くまでは放っておいた方が良さそうだ。と思っていたのだが、鼻にティッシュ突っ込まれるあまり格好良いとは言えない状態の岡崎さんに、じろりと赤い目で見つめられているのに気付く。


「なんで?」

「なんで、とは」

「何でお前、そんな落ち着いてんの、冷静なの。俺の想像では、お前の方が顔赤くして、パニックになって、それを俺がどうどうするって流れになる筈だったんだけど。真逆じゃん。なんでよ」

「そう言われても……何となくそうなってるかもなって予想はしてたし」

「ファ!?」

「このお宿に到着したとき、岡崎さん、あのおばあさんに質問されて、誤魔化しながら新婚旅行みたいなもんって答えてたじゃないですか。まぁ、気を遣われるだろうなって」

「それでも冷静すぎない?」

「こういうこと、初めてじゃないですから」


 それに岡崎さんだし、とさらりと答えてしまったが、すぐに後悔した。一気に眉間に皺を寄せ、そっぽを向いてムッス~と膨れっ面になってしまった男性に、まずいことを言ったと自覚する。

 気まずい雰囲気に耐えきれず、少し距離の離れた位置で持ってきた荷物を開き、いそいそと片付けと準備に取りかかる。洗面用具やバスタオル、替えの下着に、その他諸々を、別に持参しておいたトートバッグに突っ込む。部屋に備え付けのタオルを拝借する際、一緒の棚にパジャマや浴衣も用意されていた。部屋に戻ってから、また寝衣に着替える手間が無くなるということで、館内でも歩き回って問題のない浴衣を手に取った。


「私、温泉行ってきますね」

「……」

「有名だそうじゃないですか。なんだっけかな。楊貴妃も入った浴槽もあるって。ビックリですよ。昔は遺跡として、そりゃもう厳重貴重に保存されてたけど、今では一般のお客さんでも入ることが出来るようになってるって。遺跡にお湯が張れて、しかも誰でも入ることが出来るなんて。時代の流れってすごいですね」

「……ふぅん」

「朝の4時までやってるみたいですよ。岡崎さんも落ち着いたら入ってきて下さいね」


 一番に疲れを落としてきてほしい人に、絶対ですよと念を押す。いってきますと声を掛けてから部屋を出たあと、岡崎さんが大きなため息をついて、頭をわしゃわしゃとかき回し、お布団を睨み付けていたことを私が知ることは無かった。

 温泉、というより温泉プールといった方が近いかもしれない。旅館の敷地内にある丘を少し上がったところにあるそこは離宮だった。かつての皇帝が寵愛した女性のために造り上げた宮の入り口には、男性と美しい肢体をした女性のモニュメントがある。ライトアップされた庭園や御池を横目にしながら、広い宮殿を進んでいく。夜も良いが、昼間に来てもまた景色が鮮明になって、建物の造りなどがどうなっているかより詳しく楽しめそうだ。

 看板の矢印に従い着いたところで、係の女性から温泉の説明を受ける。利用できる浴槽は二つあり、ひとつは皇帝が使っていた、大理石で造られた巨大な浴槽で、そちらは混浴となっている。もうひとつは楊貴妃が実際に使用していたお風呂で、女性のみが利用可だった。

 中国皇帝が浸かっていたお風呂は確かに興味があったし、どれ程のものか見てみたかったが、どうも混浴というのが引っ掛かる。ここに来たひとは両方に入りにいくそうだが、どうしようか迷う。水着の着用が絶対とされているし、今の時間帯は空いているよと言われたが、少人数でも気まずいものは気まずいし、女性はともかくとして、やはり知らない男性と浴槽を共にするのは恥ずかしい。ということで、入浴は女性専用の温泉のみにした。

 水着に着替え、裸足で浴槽のある場所へ向かうと、大きな声でお話ししながら女性ふたりが火照った顔をして出てくるところだった。きゃっきゃっと頬に手を当てて、肌の調子を確かめながら「これで美人になれるわね!」「国も傾けちゃうかも~」と話して宮の方へ戻っていった。

 入れ替わる様にして中へ入ると、お風呂ひとつの為とは思えないほど天井も高く、スペースが広がっている。しかしながら、その景色は素晴らしいの一言だった。

 薄暗く、しかし照明が施されている室内には桜の花弁がひらひらと漂っている。夜桜だ。この時期には決して咲くことは無い筈の花。このお風呂の景観の為に、特殊に栽培されているのだろう。それにしたって、木を丸ごと持ってきたことは凄いとしか言えない。桜だけではない、梅や牡丹もふんだんに配置されており、仄かに香ってくるその匂いはとても心地よい。恐らく、件の女性にまつわる花たちなのだろう。

 ひらひらと漂う花弁の中を歩き、真ん中にある華の形をした浴槽を覗き混む。悲劇の妃が使用していた湯槽は思っていた程大きくはない、が、一人で入るには十分に広い。ひらひらと落ちてきた花弁がお湯の上にぷかぷかと浮いて、美しくもあり、ほんの少し艶かしさも感じさせる。

 時間が時間だからか、私以外の誰も居なかった。ちゃぷ、と片足を入れて、温度を確認する。ものすごく熱いということは無く、適温で、身体を徐々に湯のなかに沈ませていく。お湯に浮かんだ花達から良い匂いが漂ってくる。通常の桜よりも弁が詰まったものが、形崩れることなく浮かんでいたので、お湯ごと掌で掬ってみた。蕾と花の先端、花弁で、それぞれ色合いが僅かに異なっていた。

 湯けむりで薄紅の華達に靄がかかっている。ふわふわとした霧の中か、夢の中に居るみたいだ。

 花達で隠されたお湯の中に潜む自分のお腹辺りに、手を当てる。指でむに、と摘まんだ感触はとても柔らかい。ううう、やっぱり太った。絶対太った。太ももにも触れてみると、やはり前よりも指が沈む。ガリガリに痩せていた頃に比べたら、そりゃあ良いと思うが、やはり気になる。岡崎さんが作るご飯がおいしくて、ついつい日頃多めに食べがちだ。自覚もある。そろそろ自制した方がいいかも。

 それにしても、本当に不条理だ。今度は胸部に手を伸ばし、むにむにとサイズ感を確かめ、そして落ち込んだ。何ゆえ脂肪というのは本当についてほしいところについてくれないのか。

 成長すれども、今まで出会ってきた女性達のスタイルなどを考えると、その圧倒的差に思わず菩薩顔になってしまう。出るとこは出ているという、せめてハッキリとした輪郭のあるスタイルにはなりたい。不●子ちゃんや●姉妹になりたいなんて贅沢は絶対に言わないから。着物が似合う体型ねと香澄ちゃんは誉めてくれたけれど、その顔はほんの少しお粗末なものを見る表情をしていた。やはりそのお仕事柄、体型のチェックはとてつもなくシビアだ。それでも、ハッキリ言わずに、遠回しに、それも誉めるといった形に持っていってくれたのは、香澄ちゃんのとてつもない優しさによるものだろう。流石パーフェクトウーマンだ。

 岡崎さんも、今頃お風呂入ってるのかな。混浴の方へ行ってる筈だが、女性客の体つきをジロジロ観察していたりしないだろうか。あのひと、結構そういうところオープンというか、あんまり恥じらいも無いからなぁ。

 部屋で不貞腐れていた岡崎さんの顔を思い出す。ひとつしか用意されていない布団を見て、いやに慌てていた姿も。何をそんなに焦ることがあるのだろう。今までずっと、私の抵抗感が無くなる位に夜具は共にしてきたし、幾夜も一緒に眠りについてきた。そこには、今まで一度だって、決して淫らなものは無かった。

 今さら何を意識することがあるのだろうと疑問に思う。場所が変わっただけだ。たったそれだけ。それに、彼は私に対してそういった情を抱えることはない。彼自身もそう言っていたのだから。

 だと言うのに、けれど、もしかして、が頭をよぎる。お湯で濡れたうなじや首筋に触れると、花弁がくっついていた。もうそこに噛み跡はない。岡崎さんの気性が荒くなっていた為とはいえ、私の身体に、熱くて大きな手を這わせるあの動きは、今でも色濃く頭のなかに、ちりちりと焼けるようにしてこびりついている。私を喰らおうと、湿り気を帯びた熱を持った舌が肌の上を蠢く、その感覚も。

 バシン、と頬を両手で張ると、微かに反響した。ぶんぶんと頭を振る。ちがう、ちがう。あのときの岡崎さんは頭に血が上って、ちょっとどうかしていたんだ。そうだよ。昂るものをなんとか静めようと必死になっていただけ。たまたま近くに私が居ただけで、手を伸ばすには丁度良かっただけで。

 そう自分に言い聞かせ続けるが、一度意識してみると止まらなくなる。長めに湯に浸かって逆上せたのか、それとも、岡崎さんのあの緊張が私にも移ったのか、どんどん顔の熱が上昇していく。

 まさか、そんな、ありえない。そうだよ。有る訳がない。有り得ない。岡崎さんは太刀川さんじゃない。太刀川さんみたいに、岡崎さんが私に触れることは。

 熱い。熱すぎて、頭がどうにかなりそうだ。この熱がどこから来るかなんて考えたくなくて、お湯のせいだと誤魔化したくて、花弁がたんと浮かぶお湯の中に顔を沈め、頭ごと全身を潜らせた。ぶくぶくと口から泡が生まれる。息が、苦しい。








「……あれ?」

「おかえり」


 はーーとぱたぱたと火照った顔を手で仰ぎながら部屋に戻り、鍵を回すと、まだ戻ってきてないだろうと思われた人が、私と同じ柄の浴衣姿でバラエティ番組を見て寛いでいた。うわ、浴衣姿新鮮だ。……って。


「え、お、岡崎さん? お風呂行ってきました?」

「行ってきましたー。ちゃんと100数えるまで風呂から出ない良い子でしたー。隅々までゴシゴシ全身の皮が剥がれるんじゃねぇかって勢いで、洗いに洗い磨き抜きました。もう全身ピッカピカよ。岡崎さん、新車同様よ。どうよ、いっちょ乗ってみない?」

「(下ネタ?)えぇ? 早くないですか? 私の方が先に出たのに」

「俺じゃなくて、お前の方がいつもより長風呂だったんじゃん。顔真っ赤だぞ」
 

 よっこいしょういちと気怠げに身体を起こして近寄ってきた岡崎さんが、ぴとりと手の甲を私の頬に当ててくる。大したことじゃないのに、それだけで私の心拍数は上昇し、思わずあらぬ方向に視線を投げてしまう。私の頬をすりすりと撫でることで体温を確認する岡崎さんの手を軽く払い除ける。


「や、やだ。あんま見ないで下さいよ。すっぴんだから」

「いや、おたくのすっぴん、こちとら毎日見てますけど。なんなら涎垂らして気の抜けてる寝顔も」

「うっ」

「お偉いさんの浴場」

「?」

「入んなかったの」

「ええと、はい」

「チッ、やっぱりか。どうりで探せ探せども居ねぇなと思った」

「は、入りませんよ。だって混浴だし。知らない男性居たら恥ずかしいし」

「俺が居るだろ」

「は、え?」

「ちょっと位待ってくれりゃあいいのに、お前先に一人で行っちまうし。あのあと直ぐに追っかけて風呂駆け込んでも、知らねぇ奴しか居ねぇし。ピチピチギャルが居るならまだしも、むさっ苦しいオッサン共しか居ねぇし。必死こいて丘走り抜けた俺メチャ恥ずかしいじゃん。俺の純情な楽しみと期待は木端微塵だよ。どうしてくれんだ。どんな水着着てたんだ、このやろう。こうなったら、今からでもここで水着ショーしてもらうぞ、コンニャロウ」

「目が据わりすぎて怖い。そして下心隠す気ゼロで凄い」

「当たり前だろ。どんだけ楽しみにしてたと思ってんだ! 朝からウッキウキで、背中流してもらおーー♪ シャンプーしてやろー♪ とか柄じゃねぇ音符までルンルンに飛ばしまくってたのに!」

「き、期待に添えず、すみません。でも、流石に水着着用でも、お風呂一緒は岡崎さんでもちょっと……ごめんなさいしてました。ごめんなさい」 


 無理。このむちむちになってきた身体を岡崎さんに見られるのは無理。絶対無理。痩せてたとしても無理だけど、もっと無理だ。

 どこまでも不満そうな岡崎さんの気をなんとか逸らそうと、あちらこちらに目を通している、とローテーブルにビニール袋があることに気が付く。部屋を出る前には無かったそれの存在が何か気になって尋ねると「あーー」ときちんと乾かしきれていない、少しぺしゃりとなっている灰色の髪を混ぜながらテーブルの上にある袋を手に取り、口を広げて中身を見せてくれた。


「アイスと……お酒?」

「風呂の帰りにちょっくら売店で」

「こ、こんなにたくさん飲むんですか?」

「ばーか。俺だけじゃねぇよ。お前も飲むの」

「へ」

「節目の祝いしようや。一度も飲んだことねぇんだろ? とりあえず、売店にあるだけの種類は買い揃えてきたから、とびっきり甘いものから苦いもんまで選び放題試し放題。飲みやすいのも好きなやつも見つかるだろ」


 ビギナーのお前に、酒の飲み方をプロの俺が教えてやるよ、と笑みを浮かべて、岡崎さんは酒瓶を翳してみせた。20になったときは嬉しいとも悲しいとも、そんなにはっきりとした情は無かった。けれど、私もお酒が飲める年にまでなったことを、そして、それ位長い年月を此処で過ごしてきたのだと強く実感した。

 岡崎さんにこれが好きそうだと選んでもらった、キンキンに冷えたお酒を手にする。


「10代女子卒業、おめでとさん」


 こつん、と己が選んだ缶ビールを、林檎のラベルが張られた私の缶に岡崎さんが当てる。素直にお祝いしてくれることを喜ぶべきなのか、それとも二十代なんてあっという間だから謳歌しろよと忠告してくる岡崎さんの言葉に、ちょっぴり時の流れを切なく思うべきなのか。おばあちゃんが楽しみにしていてくれた振り袖姿を見せてあげられなかったと、申し訳ないと、悔やみ謝り続けるべきなのか。

 どうすることが正しいのかわからない。きっと、どれもこれも私には優先しなくてはならないことで、感情はないまぜだ。でも今は、今だけは。自分のことの様に喜び、そして祝ってくれるこのひとの気持ちに応えたいと思った。
 








「なぁに言ってんれすかぁ、ばかぁ! たけのこときのこならたけのこに決まってんでしょーが! チョコと! クッキーの! バランスが! 至高なんでしょうが! 里こそ世界一れす! 異論は認めまへん!」

「い、いや。きのこだっていいとこあるぞ? ほら、あのー、比率とか。きのこの方がチョコ多いし……。つかお前、チューハイひと缶開けただけだよな? 飲みきってもないよな? 度数もそんな高くねぇのに、そこまで出来上がっちゃうの? 嘘でしょ?」

「あぁん!? 酔ってませんよ! 嘘なんかつくか、ドタマカチ割られてぇのか、このヤロー!」

「ええぇええ」

「おらもっと飲めー! 酌しろ、酌ー!」

「ばっ、馬鹿! その瓶下ろしなさい! らっぱ飲みなんざしたらマジで潰れるから! 下手したら急性アル中になっちゃうから! 飲酒レベル1にゃレベル高過ぎるから!」

「あっはっはははは! はぁ~~おかしいなぁ~~おかざきさんったらぁ~あはははっは!」

「お、怒ったりゴキゲンになったり、楽しそうですね~……志紀サン……」

「もう、だかるぁ! ちゃんと私の話聞いてるんれすかぁ、おかざきさん! わたしのじらいれはねぇ、お酒はねぇ、ハタチになってからなんれすよぉー!」

「ああ、はいはい、聞いた聞いた。五回は聞いたからな~。お前はもう飲んでいい年だもんな~。うん」

「そうれすよ! 子供が飲んじゃいけない飲み物なんれす! だめれすよ! いくら成人早いっていってもねぇ、いたいけな子供にお酒は許しちゃらめなんれすう!」

「う、うん。時代の流れに反発心を抱いてたって話だよな。うん」

「やぁーーっとわかってくれましたかぁ。そうなんですよぉ。へへへへへへ、世界がくるくるしてますねぇ、おかざきさん。ね、おかざきさん! いつにもまして髪が真っ白ですねぇ。ふわふわですよぉ。おじいちゃんみたいですよぉ」

「志紀さん。それ、俺じゃなくて、うさぎさんな。俺、こっちな。あと、俺まだジジイじゃねぇから。お兄さんだから」

「あっ、こっちか~。間違えた。えへへへへへへ。あれ? なんかのっぺりしました? 木綿豆腐みたいになってますよ」

「それは壁。お前、相当の下戸なんだな……。ことごとく思ってたのと違うんだけど……もっとこう、ラッキースケベ的な展開期待してたのに、次から次へと夢が打ち砕かれるんだけど、なにこれ……」

「げこ? かえる? ゲロ? ゲロはまだ吐かない! だいじょーぶ、れす!」

「あーーはいはい。女の子が簡単にゲロゲロ言うんじゃありませーん。足元おぼついてない千鳥足は大人しく座っとけ」

「おおっ、おかざきさん力持ちー! さすが、きんにくまん! おでこに肉って書いていいですか」

「だめですー」


 抱き上げられたことにより、視界が高くなったことで、キャッキャッとはしゃぐ私に苦笑いを浮かべた岡崎さんの太い首に両手を回してギュッ抱きつくと「いつもこんくらい、おかざきさんおかざきさんって素直だったら可愛いのになぁ」とムッとするお小言を言われ、お仕置きに岡崎さんのモチ肌ほっぺを摘まむ。むにむにしている。

 座椅子に凭れかかる形に座らされて大人しくしていると、ふらふらとメトロノームみたいに左右に頭が勝手に揺れる。目の前に飲め、と差し出されたのは透明な液体が入ったグラスだった。新しいお酒だー! とウキウキで飲むと、冷たくて喉に通りやすく、そして無味だった。


「ヒック、おさけじゃにゃい」

「しゃっくりまで出て来てんじゃねーか」

「甘いの飲みたいれす」

「あー、わかったわかった。けど、いったん酒は置こうな。休憩。ガバガバ飲むのは大人じゃねーぞ。ちゃんと加減も覚えて嗜めてこそ、立派な酒飲みになれんだ。よく覚えとけ」

「う」


 どうしても甘いのが飲みたいなら、こっちのジュースにしとけ、とコップに注がれる。ぼんやりとした頭でそれを見つめ、手を伸ばして受け取り、ちびちびと口をつける。

 真正面では、私と違い、素面な岡崎さんが手酌で自らコップに麦酒やらリキュールやら注いでは飲みを繰り返している。けれど、全然酔いが回っている様子は無い。お酒に強いのだろう。丈夫な身体が特徴の岡崎さんのことだ。おそらくアルコールの分解速度も並外れているに違いない。

 あのひとも同じだったなと思う。静かにお酒を口にするその様がとても優美だった男性も、お酒によって、その白い顔を赤らめさせたことはない。勿論、酔っているところも見たことはなかった。彼は、酔いたくても酔えない性質なんだろう。あのひとのことを呆けた頭で思い出して、なんだか気持ちが落ち込んできて、ほろほろと目や鼻から水気のあるものが生まれ落ちる。ぐすっと鼻を啜る。


「っぐす、おかざきさん」

「んー? ……って、な、なに。どうしたの。え、ど、どうした。んな泣きべそかいて」

「うっうぇえええん、ずび」


 お酒が入っているからか、我慢の糸が切れるのは凄まじく簡単だった。一度ほどけてしまった感情は、溢れ出て止められなくなってしまった。

 嗜んでいたお酒を置き、慌てて私の側まで近付いてきた岡崎さんは、塵紙を手にし鼻に当て、チーンを促す。私の頭を撫でるその手つきがあまりに優しく、それも起爆剤となって、思い切り鼻の奥から止めどなく出てくる粘液をズビイィイイイと噴出した。


「ったく。大人どころか幼児返りしてんじゃねーか。怒り上戸に笑い上戸、加えて泣き上戸とくるたぁ、忙しいやつだな、ホント! ハッピーセットでも、ここまで詰め込まれてねぇぞ」

「ぅっうぇ、ごめんなざい」

「責めちゃいねぇよ。あーあー、鼻水垂れてきた。はい、もっかいチーン」

「ンンンン」

「……で? どうした。何が悲しいんだ。言ってみ。吐き出しゃ、ちっとは楽になるだろ」


 ん? と覗き込んでくる岡崎さんの顔はとてつもなく穏やかだ。あの保育園で泣いていたちいちゃい子をあやしていたときの優しい表情をして、頭を撫でてくれる。馬鹿になっている涙腺が、ますます刺激される。


「ずっと、一緒にいるって言ったのに」


 岡崎さんの手がピタリと止まる。柔らかかったものに、ほんの僅かな歪みを呼び起こしてしまった。後悔先に立たず。

 私から手を離して顔を反らし、伏せられた赤目に、やってしまったという気持ちでいっぱいになる。


「また、太刀川さんか」

「……」

「何でもかんでも、いつでもどこでも、思考の中心が、あの野郎で回ってやがんな。懲りない奴だよ。DV受けてた女が、いつまでも昔の男忘れられねぇみてぇな……」


 否定も反論も出来なかった。岡崎さんの言葉を黙って受け止めていた私と、こちらに視線だけを寄越した岡崎さんと目が合う。罰の悪そうな顔をした岡崎さんが、勢いよく自身の口を片手で覆った。まずいことを言った、という雰囲気が岡崎さんから流れてくる。口許が隠れていても気まずそうに、眉を下げてしょんぼりと落ち込んでいた。なんで貴方がそんな顔をするの。何ひとつとして、間違ったことは言っていないのに。

 このひとの前で、彼の話はあまりしない方が良いことはわかっている。私があのひとのことを語る度、岡崎さんは快くは思っていないことも知っていた。でも、今の私には気を浸かってあげる余裕も能力も喪われていて、やらかしてしまったのは私の方なのに。

 お互いにだんまりになって、気まずさも共に生まれてしまった。静かになると、どんどんと体内に入り込んだアルコールが回り、私の思考力を蝕んでいく。うつらうつらとなり、時々ぼやける視界。中途半端に保たれた意識は自我を崩壊させていく。なのに、心だけは自分の気持ちに正直で、なんならいつもより情を入り込みやすくさせるから厄介だ。自分が情けなくて仕方ない。

 勝手に涙がほろほろと出てくる湿り気マックスの私の周りで、きのこでも栽培出来そうだ。鼻をかもうと塵紙に手を伸ばすのと同時に、鍛え上げられ、引き締まった腕が目前に現れる。私をよりも先にティッシュを確保した岡崎さんは、二、三枚紙を抜き取り、私に向き合って、きちんと丁寧にゆっくりと、私から出てきた水分を拭き取っていく。上目遣いで確認した岡崎さんは怒った顔をしていなかった。だからといって、穏やかとは言えないけれど。いつもの何となしな表情でグズグズになった私と面し、自身の灰色の髪を軽くかき混ぜたあと、ポンポンと私の頭を撫でた。


「聞かせろよ」

「……でも」

「女心が難しいのと同じで、男心ってのがあるんだよ。そりゃあ平静じゃいられねーよ。けど、さっきのはマジでゴメン。カッとなって、言い過ぎた」

「……」

「さっきの続き、話してくんねぇかな。今度はちゃんと聞くから」

「聞きたくないでしょ?」

「いいや。これも乗り越えてかねぇと、先に進めねぇんだわ」

「……?」

「一種の試練みたいなもんなんだよ。ま、これは俺ひとりの問題だから、深く考えんな」


 ローテーブルに頬杖をついて、目線を合わしてくれた岡崎さんは、しょうがないなぁと言う様にほんの少し口角を上げている。私の一番好きな表情をして、赤い目で真っ直ぐに私を見つめていた。心の内を明かしても大丈夫だと安心させてくれる。いつかの日の様に、迷子になった私にこっちだと正しい道を示してくれる安堵感。暫く姿を潜め見ることが出来なかった岡崎さんの姿に、じんわりと胸のあたりが熱くなる。


「ずっと昔に、やくそくしてたんです。太刀川さんとずっと一緒にいるって」

「うん」

「それも、私から」

「お前から? 意外だな。ちっせぇ頃は今と違って積極的だったの?」

「いまとそうは変わらないです。マイナス思考で、怖がりで」

「そっか。そうだろうな」

「軽い気持ちだったんです。よくある、子供の口約束だった」

「……」

「太刀川さんと私の受け止め方に差はあったけど、気持ちは本物だったんです。小さい頃の私は、太刀川さんがとても大事で、離れたくなくて、これからの時間も一緒に過ごして、色んなものを見て、色んなことを経験したいって、今まで寂しかった分も塗り替える位、楽しい思い出を太刀川さんと作っていきたいと思ってた」

「……好きだったのか」


 頷く。子どもなりに、太刀川さんのことを男性として見ていたことは確かだった。

 傍から見れば、おかしいと思われても仕方のない歪な関係性だった。どうかしていると顔を白くしていた館長さんの反応は正しい。

 太刀川さんが望むなら、どんなに恥ずかしいことも盲目的に受け入れていた。善悪の区別もつかない幼い私に太刀川さんがしていたことを、おぞましいと言われたって仕方ない。何が正しく、そして悪いことなのかを理解することなく、彼が私に為し、施すほぼ全てを甘んじて受け入れていた。それら全てが過ちだらけの日々だったとわかる年になってもなお、太刀川さんと過ごした幼い日々に彼に抱いていたあの気持ちは確かなものだったと、確信を持って言える。


「……引きました?」 

「そりゃあな、正直。幼妻が認められてるこのご時世でも、そこまで突き抜けられると流石に思うところはある。つか、太刀川あいつマジで倫理から外れてやがるな。ひとのこと言えねぇけどさ」

「清々しくなる位に、人道外れてますよ。そんな七面倒なモンいちいち気にする意味がわからないし、考えてられるかって、堂々とご自分でも仰ってましたから」


 頭がふわふわとして、微睡みが私を襲い始める。寝てしまいそうだ。回りにくい呂律をなんとか動かし、話を続ける。


「秋になって、私が、これからもずっと二人で居られるよねって太刀川さんに確認したくて、指切りげんまんをねだったんです」

「ゆびきりげんまん?」

「互いの小指を結んで約束するんです。約束を破った方は、針を千本飲まないといけないんです」

「うっそだろ。なにそれ、物騒すぎない? ヤクザよりもひどくね? 指落とされた方がまだマシじゃね? そんなヤベェ筋の通し方が罷り通ってた時代に生きてたの?」

「本当に飲むひとは居ませんよ。たぶん。交わした約束をたがえたら、針を千本飲んで死ぬ覚悟で居ますっていうのを重要視してるんですよ、きっと」

「……」

「再会してからも太刀川さんとした約束ごと、それなりにあるんです。だけど、どれもこれも、ちゃんと守ってあげられたことが一度も無いんです。針千本じゃ、全然足りない」


 一番最初の約束を太刀川さんに取り付けたのは私の方で、なのに私は、その誓いをすっかり綺麗に忘れて、のうのうと生きてきた。太刀川さんはずっと長い間、また会えるといった保証など全く無いというのに、長い時を越えてもなお、私との約定を守り続けようとしていてくれたのに。千本どころか、本来なら数えきれない程の針が私の口内に突っ込まれたっておかしくはない。


「彼が私に注ぎ続けてくれた年月に、どうしたら私も返すことが出来るだろう、どうしていれば彼の心は満たされるだろうって、太刀川さんの傍にいるときに、ずっと考えてたんです」

「……」

「それで、太刀川さんが求める志紀になろろと思ったんです。昔みたいに、太刀川さんに従順で、でもたまにワガママも言ってみたり、素直になったり。太刀川さんが、私を女として求めるときは、私もそれに精一杯応えようって。彼が喜んでくれるならと思って、自分から誘ったこともあるんですよ」


 以前、太刀川さんが岡崎さんに向けて放った啖呵に何一つ嘘はない。恥ずかしいし、岡崎さんにだけは知られたくなかった。どれもこれも事実だったから。

 太刀川さんが求めるなら、私も太刀川さんを求めたし、ねだりもした。自ら彼の上に跨がり身体を揺らしたこともある。みっともないと罵る太刀川さんが楽しそうに私の頬を撫でるから頑張れた。でも、でも。


「それこそ、私の柄じゃなかったんですよ。私、誰かに甘えるの苦手なんです。弱音を吐くのも。たくさん溜め込んで、結局爆発させちゃうタイプなんです」

「知ってる。一応、現場に立ち会ってるし。股からバースト事件で」
 
「その命名やめてください。一生の恥なんです。あのときはほんとごめんなさい。お見苦しいものをお見せしました。ほんとごめんなさい」

「バースト命名したのはお前だけどな」

「とにかくも、太刀川さんに些細なことで甘えるにも、私のなかで結構な勇気と気力の要ることなんです。彼に限った話でもない」

「……」

「どんなことでも、太刀川さんに意気揚々と                                                                                   真っ先にお話し出来てた小さい頃はともかく、……太刀川さんと離れて、それなりの時間が経って、色んなひとと交流する機会を得て、そこから少しずつ人格が形成されていって、今の遠坂志紀があるんです。今の私が昔みたいに振る舞うことは、本当にものすごいエネルギーを使わなきゃなんです。それでも、太刀川さんが喜んでくれるから頑張って。太刀川さんの思いに応えなきゃ、報いなきゃって頑張って、私なりに頑張り続けて」

「……」

「変ですよね。昔はあんなに、自然で簡単に出来てたことだったのに。やっぱり向いてないというか、なれないんですよね。岡崎さんが言う様なヒロインっていうのには」

「攻略難易度ナイトメアが何言ってんだよ。今更気付いたの? どんだけルート解放に手間隙かかってると思ってんだ。お願いだから、はやく攻略本出してくれや。あと遠坂志紀の取り扱い説明書も」

「そうですね。トリ●ツ、遠坂志紀バージョンも発売しましょうか」
 
「……」 

「でも、気付いてたんだろうなぁ」

「何を」

「私が無理してるって。自意識過剰とかじゃなくて、太刀川さんは本気で私のことしか見てませんでしたから。彼には、私のこと全部お見通しなんですよ。私のことよりも、私のことをよく分かってるんです。下手したら、生みの親よりも」

「……」

「ほんと、意地悪でドエスですよ。私らしさをかなぐり捨てでも、太刀川さんの為になるのならって必死になって、しんどくなってる私を、良い子だって撫でて満足そうに笑ってくれるんですもん」

「その笑い方やめろ」

「……」

「……泣くのか笑うのか、どっちかにしろよ」


 ぐしゃぐしゃで見るに耐えない、とだけ言って、私の目元を親指で拭う岡崎さんの顔はぐにゃぐにゃでよく見えない。

 吐き出した弱音に、同調することも、責めることもせず、岡崎さんはただ黙って私に寄り添い、ぼろぼろと私の両目から流れ続けるものを掬い続けていた。

 そのうち我慢できなくなって、咳を切った様に、子供みたいにわんわんと大きな泣き声をあげる。まじないをかけたおにぎりでも貰ったのかと言われてもおかしくない程、ヒックヒックとしゃくりあげて、大粒の涙をドバドバ流す私を、岡崎さんは両足で囲い込み、暖かい手で両頬を包み続けてくれた。何十分か続いて、すっかり泣き疲れた私は、放心状態に近いものになっていた。


「……おかざきさん」

「ん?」

「あいす、たべたい」

「握り飯じゃなくて? ほら、お口あーんしろ。あーん」

「んぐ」

「うまい?」

「おいしい、けど、頭ふわふわする」

「あーー、酒が回ってきたんだろな」

「ん……」

「しゃあねぇ。売店行ってスポドリ買ってくるから、ちょっと待ってろ。ついでにアイスも追加してくる。酔った頭にゃ甘いものが利くんだよ」


 そそくさと浴衣の帯を絞め直してから、鍵を持って出ていく岡崎さんの背中をぼんやりと見送る。ほんと、気さくなひとだなと思う。昔は随分とやんちゃ……という言葉では済まさない暴れん坊だったそうだが、誤魔化しであろうとも、岡崎さんが社会の中での身の振る舞いを変えようと思った出来事は何だったのだろう。

 散々泣き張らした目元に触れると、チクリと痛んだ。明日、真っ赤になって腫れてるだろうなぁ。重みの増した頭を手で支え、テーブルに体重をかける。だめだ。怠い。気持ちよさもあるけど、倦怠感も物凄い。

 女将さんや香澄ちゃんを筆頭とした時雨の旅館の皆は、日々お客様の相手でお酒は摂取していたが、毎晩毎晩これを飲み続けるのは正直きつい。お酒なんか水とそう変わりゃしないと言っていた香澄ちゃんの逞しさが凄まじい。

 何事においても、耐性というパラメーターがどこまでも低い気がする。慣れていないものを初めて取り込んだことで身体がビックリしているだけかもしれないが。せめて人並みにはなりたい。

 とにかく、今はしっかりと水分を摂らなければと、なんとかギリギリで保っている理性を叩き起こして、透明な液体の入ったグラスに手を伸ばす。カクンカクンと不安定に揺れ、ぼーっとする頭を、とにかく一度スッキリさせたい。

 その一心から、水と思い込んだそれをゴクゴクと一気に口に含み、飲み干してしまう。空になったグラスを音を立てて置き、私の口から勝手に出てきたのは大きなしゃっくりだった。


「わりぃ志紀、店員のにーちゃんが裏で爆睡してて会計遅くな……っファーー!?」

「うぇ、ヒック。おからきはん」

「おっっま、ちょ、な、はぁ!? なななななんつーカッコしてんだ!!」

「あづい」

「キャーー!! ちょ、やめろ、帯解くな、ストップストップ!」


 上掛けを脱ぎ、浴衣の前を開き緩めて、火照った身体を冷ましていたのだが、どうにも内に溜まった熱が放出されることは無く、蒸しる様な熱さが不快で、とにかく涼しくなりたかった。うーうー言いながら帯を解き始めていた手を、首のそらし具合がヤバい岡崎さんに鷲掴みにされ、強制的に止められる。


「と、とにかく、おち、おおおおおちつけ。とにかく前閉めような。な。クローズして、クローズ。あ、あれ。志紀さん、さっきより顔真っ赤になってない? 目も据わって……あ」


 ひとのことを言えない位顔を真っ赤にした岡崎さんが、テーブルの上にある空のグラスを手に取り、まさかと口をひきつらせながらクンクンと中身の匂いを嗅いだ。


「志紀、もしかして、これ飲んだ?」


 岡崎さんが言っていることを理解するのに少々の時間を要した。ぼやけた視界にくらくらする頭で、岡崎さんの手のなかに収まるグラスを見つめて、思い切り頷いた。


「あ、あーあー。そうか、水と間違えて飲んじまったのか。ヤベェな、これ結構度数たけぇやつじゃん。やっちまった、飲み干してから行くべきだったか……」

「ヒック」

「しき、俺の指今何本に見える?」

「んー……ひゃっぽん」

「俺は百足か。気持ち悪くねぇか? 吐きそうって感じはしてねぇみたいだけど。とりあえず水分取って……」 

「おかざきさん、ろこいってらんれふか」

「どこってばいて……い、いや、あの、志紀さん?」

「ん」

「ち、近くない?」

「んーん」

「んーん、じゃなくて、ちょ、待って待って。う、嬉しいんだけど。嬉しいんだけれども! お前からぎゅーしてくれんのはレア過ぎて尊いけれども、待って。ちょっと、せめて浴衣整えてからにしようや。はだけすぎだろ。乱れすぎだろ。際どい際どい。胸元とか、脚とか、ほんっっとマッッテ。それでくっつかれると色々とまずいから! 俺が!!」

 
 岡崎さんの首に腕を回し、ゴツゴツとした肩に顎を置いて体重を預けると、体勢的にも丁度楽で、理性が吹き飛ぶだの、プッツンしちゃうだの、呻きながらも、岡崎さんがしっかりと腰の辺りを抱いて支えてくれるので安心感があった。

 体調を崩したとき、信頼するひとの腕の中に居るときの心地よさを思い出す。酒気による眠気にハッキリとした意識を掴めずに微睡み始めた私の顔を、赤い目が覗き込んでいる。


「……志紀、眠い?」

「ちょっと……」

「あーー、もうちょい水飲んでからな。酒入った状態ですぐ寝ても、気持ちのいいもんじゃねぇから」


 僅かに身体を離され、買い物袋の中身を漁る岡崎さんの挙動ひとつひとつを、朧気ながらも目に焼き付ける様に見つめる。

 水の入ったペットボトルの蓋を開け、私に飲ませる間に、きちんと包装された袋を開け、白い棒アイスを中から取り出して私の前に翳した。

 おいしそうだと、思った。


「練乳アイスだってよ。溶ける前に食べとけ。ちょっとは涼しくなると思うし」

「……」

「志紀?」


 いつまでたってもアイスを手に取らない私に、岡崎さんが訝しげな顔をする。す、と両手を前に出した私に、岡崎さんは冷えた甘味を持たせようとしてくれたが、私の手がそれを受け取ることはなく、すり抜けて奥にあるものに手を伸ばす。

 両手で包んだ頬はすべすべしていた。深みのある赤の双眼は飴玉みたいで、角度によって色の濃度が変わり、何度見ても飽きることはない。真ん丸に見開かれたその眼球には、私の姿が写っている。

 日本人には珍しい灰色の髪は脱色されたものではなく、本人も言っていた通り、自前のもので、傷んでいない。きちんと整えられていない髪はざっくばらんに所々跳ねていて、耳辺りにある髪を撫でて落ち着かせる。

 目元や鼻の形も順に確かめるようにしてなぞり、最後に淡い色合いをして薄い唇をなぞる。

  美味しそうだと思った。どんな味がするんだろう、どんな感触をしていたっけ。それを確かめたかった。

 食べやすいようにと、両手で捕まえた顔を下に引き寄せると、すんなりと簡単に目的のものが近くなる。口をちょっとだけ開いてから目を閉じ、食べたくて仕方ないそれに自分のものをくっつけると、柔らかい感触が伝わってきた。ぼとり、と何かが床に落ちる音がしたけれど、そんなことはどうでもよくて、口にしたそれを堪能することに夢中になった。合わせるだけじゃ物足りなくて、もっとその柔らかさを感じたくて、食む様にして唇を動かした。

 呼吸のリズムが乱れても、苦しくなっても構わないから、離れたくなくて、もっともっとと貪欲に沸き上がる情から食み続けていると、腰と首の後ろに手が添えられる。性急に力強く引き寄せられ、今度は立場が逆転して、こっちが食べられてるんじゃないかと言う位に、くっついたものが深くなっていく。荒くなる呼吸音が鼓膜を刺激する。

 優しく啄んでみたり、窒息するんじゃないかって位深いものになったり、角度を変えたりなどして、その柔らかさを感受し合う。こんなに食べてるのに、中々お腹一杯にならない。それどころかお腹は空く一方だった。でも、不思議と渇いていた何かは満たされていく。

 足りないものを補う合う様にして耽りあったあと、名残惜しさを表すみたいにひとつになっていた薄い皮膚同士が完全に放れるまで、時間を要した。おでこはくっつけたまま、お互いの乱れた吐息を受け止め、見つめ合う。

 もう一度、二度と唇を合わせて、また離して、そしてまた同じ事を繰り返そうとしたところで、岡崎さんの首筋に手をやり静止する。肩を抱かれ、顎下を撫でられた状態で、ずっと思っていたことを岡崎さんにしか聞こえない声量で囁く。


「おかざきさん、あつい」

「……俺、体温高いから。離れた方がいいんじゃない。余計熱上がるぞ」

「やだ」

「……」

「はなれたくない」


 血の色にも見える真っ赤なうさぎの目が、私を貫かんばかりに見つめている。熱の籠った視線に、全身が焼けるように熱くなる。ちゅ、ちゅと岡崎さんの頬に何度か軽く唇を当てる。耳や、頬に、首に、身体のラインをなぞってくる岡崎さんの手や腕が熱すぎるのに、気持ちが良くて堪らなくなる。同時に悲しくもなった。どれだけ欲しがっても、求めても、このひとの熱は永遠に手に入らない。

 シラユキさんにも、こんな風に触ったの? なんて、可愛くないことを考えて、チリチリと焦げ付く音がした。尋ねる勇気は無かった。ベッドで絡み合う二人を、すぐそばで立ったまま、どこか冷めたような、ぼんやりとした視線で眺めている自分が居る。でも冷静な訳じゃない。決して想いが萎んでいく訳じゃない。嫌な自分が顔を出して、じわじわと内側から破壊されていく。想像しただけでもこのザマだということがわかったのに、どうして本人の口から聞くことが出来るのか。


「おかざきさん、私ね、うそつきなんです」

「……ん」

「汚く見られたくないからって、見栄も張ってるんです。ほんとうは、ほんとは、だれとも、ほかのおんなのひとともイチャイチャしてほしくない。仲良くしてるとこなんて見たくない。深い関係にもなってほしくない。お姉さん達が居るお店にだって通ってほしくない。今までどんな女性とお付き合いしてきたんだろうって考えれば考えるほど、嫌な子になってくんです」

「……」

「それでも、私が最初に好きになったのは、皆になんやかんや優しくて、好かれてて、からかわれてても心底楽しそうにしてる、おかざきさんなんです。こんなに、憎ましいとすら思うのに」

 
 脈絡の無い私の話を聞いている岡崎さんが、うん、うんと都度に頷きながら、私の頭に頬を擦り寄せる。

 今となっては、たとえ私が心の底からの慕情と憧憬を捧げた女性、シラユキさんがお相手であっても、岡崎さんの隣を歩み、一緒に同じ時代に生まれ、同じ時間を生きて、共に年を重ねていくに相応しい女性だということはわかりきっているし、敵う筈もないのに、岡崎さんと並ぶ姿を想像すればするほど、羨望と呼ぶには生温い、真っ黒な妬み嫉みが私を支配する

 ひた隠しにして、圧し殺してきたドロドロした情が露になり、剥き出しになっていく。嫉妬で気が狂いそうだった自分が泣き叫んでいる。親しくなった人達に囲われる中で笑っている岡崎さんが好きだ。けれど、憎らしくも思う。醜い独占欲は早くから生まれていた。

 最初は、自覚はなかったかもしれない。でも、今ならわかる。蚊帳のそとに居るという疎外感で不貞腐れていた、まだ少女と呼ぶに相応しい私のなかに、その兆しは既に生まれていて、どうしようもなくなるまで膨らみ続けていたのだと。


「おかざきさん、おかざきさん……」

「……」

「すきです。すきなんです。自分でもどうしようもないくらい。わたし、ほんとうに、岡崎さんが考えてるような女じゃな……」


 続きを口にすることは出来なかった。代わりに出てきたのは、くぐもった声。これ以上の言葉は不要とばかりに押し付けられた岡崎さんの唇は熱い。不思議な感覚だった。しこたま飲んでいたお酒の味がこっちにまで伝わってきて苦いのに、何故か甘ったるく思う。

 噛みつく様にして口付けられた勢いで、自然に、岡崎さんの重みに身体が後ろに傾く。合わさった唇は離れることなく、背中に手を添えられるが、後ろに倒れる勢いを弱める為のもので、支える意図ではなかった。敷かれていたお布団の上にあっさり寝転ばされ、耳や頬の輪郭をなぞるようにして触れられ、ひんやりとした寝具の上に、力強く身体を押し付けられる。


「志紀」


 まだ完全に唇が離れていない状態で、低く重みのある声に名前を呼ばれる。頭がほとんど溶けかけている私は深呼吸を繰り返しながら、零距離にある赤を見上げる。どこか切なげで、情欲に溢れた赤をしていた。まさかこのひとからそんな目で見られる日が来ると思っていなかった私は、あやふやになった頭で静かに驚いていた。

 私の顔の横に肘をつき、岡崎さんが私の上に跨がっている。岡崎さんの屈強な身体そのものが、私を囚える強固な檻そのものだった。

 先ほどのお返しみたいに、私の目元や鼻、口の端や頬に、岡崎さんが唇を滑らせていく。刀の使い手の為、少しゴツゴツとした大きな手の平や甲で、くすぐるように片頬を撫でられる。幾度も私の心を癒し、溶かしてきた、暖かくて大きな手。心地好くて、もっと触ってほしくて、殆ど無意識に頬に添えられていた掌に頬擦りすると、岡崎さんが喉を鳴らす。ちゅと一度音を立てて唇を食まれ、また徐々に深いものになっていく。


「ん、っん、ぅ」


 布団の上に投げ出されていた私の右手が、するするとあっさり捕まり、指を絡められ、強く握り込まれる。ぎゅ、と自然な動作で岡崎さんの手を握り返すと、よりその力は強くなり、少しだけ痛みも感じたが、甘やかなやものだった。

 ギャハハ、とつけっぱなしにしていたテレビから、お笑い芸人達の笑い声がけたたましく聞こえてくる。完全に私の上に身体を倒して密着していた岡崎さんが、私の唇は塞いだまま、頭の上らへんに転がっていたリモコンを取り、視線もやらないまま操作し、テレビの電源を落とし、些か余裕無く乱暴に、リモコンをあらぬ方向に投げたのがわかる。そして今度は、私の両頬を掬う様にして少しだけ顔を上げさせ、赤い目を閉ざし、ほんのすこし口を開き、斜めに顔を傾けてかぶりつかれる。

 雑音が消えた為に、唇を押し付け合う音と、甘く乱れる吐息、そして、敷布の上を滑る衣擦れの音がより鮮明になり、二人だけの存在感をより強調した。

 真上にある電気が点けっ放しなので、影はかかりつつも、目と鼻の先どころでない距離にある岡崎さんの顔が、うっすらと、安定しない視界でもよく見えた。伏せられた灰色の睫毛の美しさと艶かしさが際立っている。彷彿とした頭の中は、岡崎さんという男性しか見えなくなっていた。

 湿り気をおび、すっかりふやけた唇が解放されると、冷気にさらされ、物足りなくなる。しかし、岡崎さんの唇は私の肌から離れることはなく、そのまま顎を伝って下へと滑り、大きな手によって擽る様にして撫でられていた首元に移動する。

 首に顔を埋め、少々荒めの息遣いと共に、鼻を鳴らし、くんくんと匂いを嗅がかれるこそばゆさに身をよじる。お酒が入って熱っぽい身体は、せっかくお風呂に入ったあとだというのに、じんわりと微かに汗が出始めている。だからそんなに嗅がないでほしくて、岡崎さんの胸に手を添える。

 岡崎さんの身体も、いつも以上に熱が籠っていた。私の意を汲み取ってはいるだろうに、動かないように私の両肩を掴み、布団に押し付け、お構い無しに匂いを確かめてくる。野性的で、誰かが言っていた様に狼みたいだった。

 鼻息がこそばゆくて、思わず肩があがる。その肩にも唇を当てられ、むず痒くなる。身体の輪郭をなぞり、お腹辺りに岡崎さんの手が当たり、熱い熱いと緩めていた帯の隙間にくい、と指が差し込まれる。腰を軽く持ち上げられ、巻き付いていた浴衣の帯をしゅるしゅると音を立てて、ゆっくりとほどかれる。浴衣を締める役割を為さなくなった帯は力を失い、緩慢な動作で、岡崎さんの手ずから抜き取られる。

 おでこを合わせ、岡崎さんが私の顔を熱っぽく見つめながら浴衣の合わせ目をゆっくりと左右に開く。生まれたばかりと大差ない、霰もない姿が、岡崎さんの眼下に晒された。まじまじと見つめてくる熱視線が体感温度を上昇させる。恥ずかしいから手で覆い隠したいのに、身体はずっしりと重く、指一本動かすにも億劫だった。頭が働かず、目がとろんとして、開ききらない。

 恐る恐るといった風に、心臓の辺りに岡崎さんが掌を宛がう。早くなった心拍数が、岡崎さんに伝わっているのがわかった。岡崎さんの熱が、よりダイレクトに肌を通し、染み込んできて、下腹部当たりに熱が籠るのを感じる。するりと肌の感触を確かめるようにして、擦られる。触れられたところから火傷しそうだ。なんとか口まで右手を持ってきて、赤くなった顔を半分だけ隠す。


「……いつも思ってたんだけどさ、お前、寝るときブラつけないの?」

「う~……」

「う~じゃなくて。ったく、お前な……こっちはどんだけ毎晩悶々とさせられて……。家はともかく、風呂行くまでに外も歩いただろうが。敷地内だから大丈夫~とか呑気に考えてんだろうが、もう少し警戒心持てって……それと」


 参ったな、と言いたげに顔を歪ませた岡崎さんは、一度口を閉ざし、ひとつ息をついてから、私の耳元に口を近づける。男性にしか出せない声域で呟いた。


「俺も男なんだよ」


 ゾクリ、と何かに背筋を撫でられる感覚に支配される。ちゅ、という音が鼓膜にいやに響く。


「さっきもそうだけど、大丈夫だって安心しきるの、いい加減やめてくんねぇか。香澄も言ってたろ」


 俺は男で、お前は女なんだと、目を見て言い切られる。鋭いけれど、どこか柔らかい赤の目に吸い込まれる。ごめんなさい、と声を出そうとしたが、もう喉に力が入らず、目で訴える。岡崎さんによしよしと頭を撫でられ、額に口付けられる。


「今は都合いいから許すけど。次、外でしてなかったら、マジで怒るからな」

「っぁ」


 胸の辺りに顔を埋めた岡崎さんが、鎖骨から下にかけて唇を滑らせていく。時折、皮膚を甘く噛まれ、その度に漏れ出る小さな声が恥ずかしくてならない。

 岡崎さんに触られる度に身体が震える。肌を掠める岡崎さんの灰色の髪がこそばゆい。思わず、胸をまさぐっているひとの頭にしがみつくようにして手を添えると、完全に身を委ね、もっととねだっている様にしか見えなくなった。

 顔を上げた岡崎さんの赤は深みが増している。ふにゅり、と覆われた胸が柔く揉みこまれると、子犬の様な掠れた鳴き声が出てしまう。少しの汗を顔に滲ませた岡崎さんが、そんな私の反応をあまりにも一心に見詰めてくるので、赤くなり火照った顔を隠す。


「志紀」

「みないで」

「可愛い」

「や」

「可愛い」
 

 何度も何度も可愛いと連呼する岡崎さんに耐えきれなくて、ぎゅっと目をつむる。そんな私に、また可愛いと言って、顔を隠した手に口付けてくる。今私の頭からは、湯気がふしゅうと出ているに違いない。やんわりと両手首をとられ、真っ赤になった顔を暴かれ、ぱっくりとまた啄みながら食べられる。

 もうだめだ、何がなんだかよくわからない。ますます頭が働かなくなる。熱に浮かされた頭は、考えるという行為を拒否していた。頭の熱が上昇。思考回路の完全崩壊。キャパシティオーバー。容量不足。横たわっているのに、頭がぐるぐると、世界が私を回している感覚に苛まれる。三半規管が正常に働かず、長時間荒波に揉まれる漁船に揺られている様な、全く安定しない感覚に、気持ち悪さが沸いてくる。アルコールによる酔いが、これでもかと言うほど急速に私の身体を蝕んだ。

 首のあたりに甘い痛みを受けながら、空気に晒されて、心なしかスースーしていたお腹あたりに熱い手が這うのが感じ取れた。徐々に下へと降りていくそれが太股をなぞり、意味深に内腿を撫でる。うつらうつらとした視界が、私の上に居る男性の姿をぼやけさせ、思考力共に状況の判断力も麻痺させた。

 おかしいな、と思う。私に伸びてくる手は、意地悪で、狂暴な顔をした蒼い龍の身体が巻き付いていたはずだ。いや、違う。この頃はまだ、背中だけしか龍は占領してなかった。手や足にまでは及んでいなかった。

 お臍の丁度下辺りを、大きくてぽかぽかと熱い手が覆う。低体温症と言っても過言じゃないのに、珍しい。いつもなら、その冷たさに驚いて、私の方が変な声を出してしまうのに。ちゅうしてくるその人からは、いつもの煙草の匂いもしてこない。

 この絶不調に陥った身体の状態で無理に動かされたら、絶対今以上に気持ち悪くなるし、途中で吐く未来しか見えない。既にくわんくわんしている頭は目眩を起こさせた。天井がぐるぐるしている。歪んだ世界から逃げる為、ぎゅっと目を瞑り、肩口の辺りに唇を這わせていた頭にそっと手を添え、やんわりと制止する。私の顔を覗きこんでいる気配がした。

 目を覆っている私の手を除けさせ、じんわりと熱く大きな手が私の両頬を包む。いやか、と尋ねられたので、こくりと小さく頷き、「やだ。今日は、しない」と、いつかの日の受け答えを繰り返し、すぐに不機嫌になってしまうひとを諭すつもりで、そのひとの名前を呼んだ。


「たち、かわさん」


 ピタリ、と私の肌の感触を確かめるようにして触れていた手の動きが止まる。とろんと開閉を繰り返していた瞼が、これ以上無い位に重くなり、逆らうことも出来ずに、ふっと両目を閉ざす。ふよふよとした感覚は決して気持ちのいいものだけではない。山道を走る車に揺られ続ける不快感を思い出した。

 初めての酒酔いの苦しみに耐える私の頭に、先程の手が触れる。最初は戸惑いがちだったが、改まって、わしゃわしゃと豪快に撫でた。

 乱れに乱れていた浴衣をきちんと着させられ、顔の下半分まで暖かいお布団がかけられるのが、うっすらとわかった。

 うっすらと目を開けると、肩肘をつき、私の方を向いて隣に横たわっている人が居る。浴衣を着ていて胸元しか見えない。布団の上から私を抱えるようにして、背中を一定のリズムであやすようにして撫でるその安心感は、私の眉間の皺を和らげた。その安心感から、自然と私の口に小さな笑みが浮かぶ。


「ひでぇ女」


 ふに、と頬を優しすぎる力加減でつままれた気がした。少し上からかけられた声に、嫌悪や憎悪の情は一切感じられない。

 この暖かさをより感じたくて、もぞもぞと身を寄せると、熱は逃れることなく、私を優しく包み込んだ。コアラみたいに、がっちりとした身体に手を回し、胸板に顔を押し付け、足も使って捕獲し、ぎゅうっとしがみつくと「寝にくっ」と声が上がったが、やめろと拒むどころか、私を包み、腕に優しく力を加えることで応えてくれるから、このひとに対する愛おしさが溢れて仕方がなかった。



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