運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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これが哀というのなら

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 霧絵さんと話したあの日から、もしかしたらの可能性が私の思考に付き纏う。あそこまで思わせ振りなことを言われて、何のことかを察せない程、鈍くはない。

 私の中で生まれた疑惑がもし当たっていたとして、安堵や嬉しいなどの感情よりも先にやってきたのは、恐れだった。

 常日頃の移動手段であるバイクではなく、珍しく電車を使うと言って私を連れ出した隣の男性を覗き見る。ひとの少ない電車の緩やかな揺れに眠気が刺激されたのか、微睡んでいる。かくんかくんと揺れる灰色の頭に、赤い目は開閉を幾度も繰り返して、油断しきっている風に見えるけれど、やはり警戒心は張り巡らせてはいるのだろう。

 足元に据えた一泊分の荷物から、ペットボトルを取り出し水分補給を取る。背後の窓から外の風景を眺める。遠い向こうの景色は、霧のかかった大きな山がいくつも聳えていて、仙人が住んでいそうだ。中国三千年の歴史とか重々しいテロップがとてもよく似合いそうだ。冬耕の為された田畑が広がり、そこらかしらが白く染まっている。電車が進むにつれて、雪の色が濃くなっていった。

 ぼんやりとその景色を見つめていると、肩に重みを感じて視線を下げる。くしゃくしゃの灰色が頬を撫でてくすぐったい。腕を組んだまま身体を預けてきた岡崎さんは、私の左肩を枕代わりにして小さな寝息を立てていた。体格差を考えたら逆に寝辛いでしょ、これ。しかし、思いの外安らいだ寝顔をしているものだから、起こすことも出来ず、そのままにさせておく。だらしなく口が開いている。よだれ垂らしそう。

 寒いのかな。もぞもぞと身動ぎをして居心地の良い体勢を探している岡崎さんを見つめる。暖かさを求めているのか、それとも甘えたいのか、大きなワンコはぐいぐいと肩に頭を押し付けて、すり寄ってくる。ふわりと石鹸の匂いがした。

 また繰り返されるのだろうか。脳裏によぎるのは、互いの喉をかき斬らんと刃を向け合う男性ふたりの姿。けれど、明確な勝を決すること無く終わった、命の殺り合い。理性を失い、荒ぶり猛進してくる岡崎さんに向かい合うあの人が、突然に咳き込み、赤黒いものを吐き出す。苦々しく表情を歪ませ、血を流しながら舌打ちし、己の命を守りながら相手を斬る刀から手を離し、カランと地面に打ち付けられる。あの音が、今も耳に残っている。

 仏の顔も三度までと言う。もし、次に鋭い刀の刃を互いの喉元に突き立てることになれば、そのときは、きっと。

 すぅすぅと呑気に寝息を立てる岡崎さんの顔を、じっくりと観察する。意外にも長い睫毛は、髪の色と同じ色彩を持っている。黙っていれば、なんて考えるのはもうこれで何度目になるだろう。

 岡崎さんが傷付くのを見たくない。強靭な身体とは裏腹に、柔らかいものを内に抱えるひと。まさに諸刃の剣。同じことが、にも言える。

 彼は止まることなどしないだろう。自らの身体が朽ち果てることになったとしても、きっと止まりはしない。彼だけじゃない、岡崎さんも。

 相対的に見えるのに、この人達はそっくりだ。間違いなく両者共、誰よりもお互いのことを一番理解している。私なんかよりも、よっぽどに。思い出してみると、早い段階から、その片鱗は見えていた。しかし、理解こそはすれど、相容れることも無いのだろう。

 肩のぬくもりを感じたまま、車窓からの景色を眺める。正しい道へと導いてくれる祖父は、私が自分自身で考えて選んだ道を聞いたら、どう言うだろうか。

 人気が少ない場所に行くのかとと思いきや、そうでもなかった。途中停まった駅で、それなりの人が旅行鞄などの荷物を持って乗り込んできた。イワンさんの様なお仕事を生業としている人達が好んで行く場所だということで怪しい風貌の人も居たが、一般人にしか見えない家族連れもちらほらと居る。

 お母さんに手を繋いでもらった、チャイナ服を着た五歳位の可愛い女の子と目が合い、ヒラヒラと手を振ってあげると、恥ずかしそうにお母さんの後ろに隠れてしまった。あの子のご両親と思われるご夫婦が楽しそうに会話している。そうは見えないけれど、もしかしたら彼等も、我が子を撫でるその手を汚したことがあるのかもしれない。はたから見れば普通にしか見えない家族模様を築き上げていても、本人達にしか知らない、重く積み重ねてきたものがあるのかも、なんて考える。あながち、間違ってはいないのかも。

 ひとは見た目や言動によらない。重いも軽いも関係なく、誰にでも、必ず内に抱える秘密がある。そして岡崎さんは、隠し事をするのが上手くないと生きてはいけない世界で、ずっと息を潜めて生きてきたのだろう。

 どれだけ獰猛な獣だ、化け物だ、と罵られたとしても、本人が言うように、それが岡崎さんの根っこで、けれど、自分でも最悪だと忌み嫌う本来の自分を、世界は受け入れてくれないとわかっていて。だからこそ、気づかれないように必死に押さえ込み、殺し続けている。

 それがどんなに悲しく、辛く虚しいことか。岡崎さんだって、好きでそんな人生を選んだ訳じゃない。選択を阻め、そう生きざるを得ない道を選ばせてしまったのは、紛れもなく、この世界だろうに。

 陰と陽の様な関係だ。岡崎さんの中に蹲った情を最も理解出来るのは、やはり、どこか似通った燻りを抱える青い瞳を持つ彼なんだろう。

 目的地に到着したのは、夜を呼ぶ闇色と紫の入った夕焼け色が混じり合う、暮れ時だった。

 駅を降り立った私達を迎えたのは、中国の古い歴史を感じさせ、趣が残る旧市街だった。提灯などの仄かな灯りが街を照らし始めている。私の分まで荷物を手に取った岡崎さんに「行くぞ」と声をかけられ、慌てて後を追う。さっきまで人の肩に涎擦り付けてグースカ寝てたくせに、何事も無かったみたいにシャキッとしちゃって。

 街にはありきたりな日常が広がっていた。趣深い木造家屋から出てくるのは、この市街に住んでいるひとたちで、皆それぞれの生活のリズムのひとつである洗濯や料理を拵えている。道行く観光客は、情緒ある古代の匂いが残った街並みの景色を写真に収めたり、並んだお店のお土産を見たり、露天のグルメを食べるなど、それぞれの楽しみ方があった。もう少し暗くなると、お店ももっと灯りを増やして、品数も増やし、今以上に盛り上がりを見せて賑わうのだろう。夜の街歩きが楽しみになってくる。染み入るような心地よさが此処にはあった。

 お世話になるお宿は、かつてお仕事をしていた時雨を思い起こさせる温泉旅館だった。宿を取り仕切る老齢の女性が「ようこそ」とご挨拶に来てくれたときに、女将さんのことを思い出して、遣る瀬無い。顔には出すまいとしていたのに、岡崎さんにはお見通しで、お部屋まで案内される道筋に手を握られる。私たちの様子を見て、前を歩いていたお婆さんは「仲がよろしいのですねぇ」と朗らかに微笑んでいた。

 私たちがお通しされたのは5階のお部屋だった。洋と和が入り交じりつつも、統一感はあるお部屋だ。足の裏に伝わる畳の感触と匂いは久々だ。館内の説明と食事の案内をしたあと、お婆さんは「ごゆっくり」と挨拶をして退出する。

 荷物をひとまず部屋の隅にまとめて置く。湖を一望出来ると案内のお婆さんが言っていた景色が気になり、閉ざされていた襖を両手で左右に開く。

 一目見た瞬間に感嘆する。どこまでも続く広大な湖が夕焼けに反射してキラキラと輝いている。目を凝らせば、此処からでも湖の中で泳ぐ魚たちを見られそうな程に、その水は透き通っていた。色んなサイズの島が湖の上に浮かび、冬枯れした木々が風に揺れている。緑緑さは無いけれど、独特の魅力がある。

 小舟が何隻か揺蕩い、乗り手が櫓をこぐと、水面に波紋が広がった。小さいものから大きなもの、古めかしいものから最新鋭のもの、と舟の大きさや型は様々だ。恐らく、生活の為の必需品として舟を用い、数多の島を行き来している人は、この市街の住人だろう。時折、後ろにお客さんと思われる人物を乗せているものも見る。風情を楽しむ為に遊覧を提供しているのかも。

 対し、エンジン音が響く大きい船も何隻か既に出航しており、集団の観光客を乗せ、丁度真向かいの一際巨大な離島へと水面を走らせている。デッキに出ているお客さん達は、この旧市街には少し異色だった。アジアの風貌だけでなく、多種多様な国籍の来遊者がシャンパングラスを片手に乾杯をし、賑わっている。男性も女性もきちんとヘアメイクをして、歴史の趣と静けさがある空間にはあまりそぐわない豪華なパーティードレスを着ていた。

 彼等の目的地としている離島を眺める。夜が近いと言えども、まだ日暮れだ。にも関わらず、既に色とりどりのネオンが発光し、爆音轟かせるクラブミュージックが、こちらまで微かに響いてくる。ギラギラした場所だと思った。

 過去から未来を覗き見ているみたいだ。そう思える程に、その離島は別世界で、テーマパークの様だった。彼処だけが不自然に切り取られている。特に不快感は無けれど、違和感は拭えなかった。


離島あそこに行くにゃ、ああやって船で渡る必要がある」


 ぼうっと眺めていた私の後ろから、岡崎さんの声がかかる。私の隣に立ち、手摺に両手を乗せて、岡崎さんも異色の島を眺めた。


「あれはなんですか?」

「ギャンブラーの巣窟」

「あぁ、イワンさん達が好んで行くっていう……あそこのことだったんですね」

「一応会員制でな。成金の中でも選ばれた連中と、裏稼業で名が通ってる奴がメイン。一般人も入れるっちゃ入れるけど、招待が無ぇと入れないの。ああいう輩と関わり持ってる時点で、本当にパンピーか怪しいとこだけどな」

「はぁ、それはまた闇が深そうな」

「行きたい?」

「へ?」

「一応、俺もその筋の人間だし、渡れるっちゃ渡れる。まぁ、ほんとは、俺みてぇな身分のは歓迎されねぇんだけど。イワンが絡んでるから連中は断れねぇよ」

「……」

「一攫千金夢見ちゃう? アメリカンドリーム狙っちゃう?」

「アメリカじゃないし。私はいいです。あ、でも行く予定だったんなら、全然お付き合いしますけど」

「あんま興味無さ気なのな」

「ギャンブルはちょっと後ろめたいというか。私の時代では御法度だったんで」

「は!? マジで?」

「公営競技として、競馬とか、競艇とか、あと競輪? パチンコだとかはありましたけど。カジノって露骨なのは日本にはありませんでした。あ、でも一部で導入されるかもって話が出てきたとこでしたよ」

「へぇ~~。そりゃあ、お前んとこのチンピラ共は苦労してそうだな。賭場なんざ、俺達の格好の餌だってのに」

「そ、そちらの界隈については、よく知りませんけど。岡崎さんが行きたければ、どうぞ。必要ならついていきますし、アレだったらお留守番しときます。でも、程ほどにしといてくださいね。パンイチで帰ってくるとか、やめてくださいね」

「何で、俺がすかんぴんになって負ける前提で話されてんの? 大勝ちして帰ってくるイメージ持たれてないの?」

「ここぞというときにだけ勝負運が爆上がりしそうな感じがしますよね、岡崎さんて。あ、もしかして、普通にお強いんですか?」

「な、わきゃねーだろ。賭博で食って生けるんなら、とっくの昔に高跳びして、ナイスなバデーなビキニのねーちゃん達侍らせて、もっと悠々自適に豪遊生活してら」

「弱いんですか」

「いいや?」

「いや、どっち」

「そのときの運次第だろ、ああいうのは。強くもなるし、弱くもなる。それに、賭け事ってのは、基本プレイヤーが損する様に出来てんだよ。それを頭に入れとかねぇで、引き際も見極めねぇで、思惑通りカモになっちまうのは、ただのアホだ」

「意外ですね。それこそ、一攫千金だー! もう一勝負! とか言って、勝つまでつぎ込んでそうなのに。聞いてると、岡崎さん結構現実的ですね」

「言ったろ? あんま夢は見ない主義なの。クールなリアリストな訳だよ。惚れ直した?」

「……まぁ、それは置いといて」

「置くなよ。……賭博は別に嫌いじゃねぇよ。まぁ人並みに? ドップリとまではいかねぇだけ」

「へぇ……」

「でも、良かったわ。このあと別に予定あっから。一日しか居られねぇし。……お前がどうしても行ってみたいってんなら仕方無ぇなと思ってたけど」

「い、いえいえ! ほんとに、私は大丈夫です。こわいひと多そうだし」

「関わり合いにならねぇ方が良い連中しかいねぇのは間違えねぇわな。変に首突っ込まねぇのが無難だ。負けりゃ地下労働が待ち受けてるし」

「え。地下帝国? カ●ジ? 利●川さん?」


 日が沈みかけたのを見て、岡崎さんがそろそろ行くか、と美しい夕焼けに背を向ける。私もその後ろをついていくが、あっと思い出した様に目の前に差し出されたものを見て、はてなマークを浮かべる。

 赤を中心とした、厚みのある衣服。受け取ると僅かに重みがある。きちんと畳まれていたそれを開いてみる。

 赤と紅を貴重とした布地に、季節外れの薄桃や白の桜が刺繍であしらわれている。金と黒が絡み合う帯にも細やかな花弁が上品に散っていた。物凄く上質なものだと、一目見ただけでわかる。


「岡崎さん、これ」

「あー、その、着付けとか覚えてる? 一人でやんの難しいなら、フロントの婆さん呼んでくるけど」

「い、いや。大丈夫なんですけど、そうじゃなくて、どうしたんですか、これ」

「言わせんの、それ。買ったんだよ」

「は!? なんで!? こんな高そうな着物」

「見たかったから」

「……」

「俺、結構根に持つタイプなんだよね。ずっと。そんじゃ、外で待ってるから、着替え終わったら呼んで」


 手を振り、わざとらしく大きな欠伸をしながら出ていく岡崎さん後ろ姿。扉を閉める前に見えた耳は、この着物と同じ色に染まっていた。

 手にしたものを、もう一度じっくりと眺める。艶やかな赤に舞う桜の花弁は、とても可愛らしい。大人っぽさの中に、ほんの少しの愛らしさを彩り、気取らないデザインとなっている。

 お店のひとに選んでもらったのか、それとも岡崎さん自身が選んで手に取ったのか。なんとなく、どちらかわかる気がした。彼が好きだと言っていた花の柄を優しくなぞる。

 やはりブランクがある為か、旅館で働いていたとき程スムーズにはいかず、少々着付けに手間取ってしまった。そうこうしている内に、とうとう日は沈み、空が本格的に暗くなっていくのを見て慌てる。なんとか着付け終わり、髪も緩くまとめて、「」お待たせしました!」と外に出ると、扉の横に腕を組んで突っ立っている岡崎さんとパチリと目が合う。

 彼の視線が、私の頭部から下に動くのを見ているのがわかり、恥ずかしくなって、もじもじと下駄を履いた足を動かす。ふむ、と顎に手をやり、お気に召したのか、上機嫌になった岡崎さんはニマニマとしている。


「やーーっぱり俺の見立てに間違いは無かったな。くっっらい性格のお前には、それ位の派手な色合いが丁度いいわ。溌剌として見えるわ」

「悪かったですね、暗くて」

「むくれんなよ。ちゃんと似合ってるって」

「う」

「洋服も、チャイナ服も、あれはあれでいいんだけどさ。お前はやっぱ、こういう和服姿がしっくりくるわ。原点にして頂点ってやつ?」

「なんか、変」

「はん?」

「いやに優しいというか、キザったらしいというか。カッコつけてるというか。な、なにか裏でもあります? 正直ちょっと怖いです」

「人の素直さを、またお前はそうやって! 普通に傷つくからな! この餅め、こうしてやる!」

「あいひゃひゃひゃひゃ! ごめんなひゃいごめんなひゃい~。やさひいれす。おかざきさんはいつもかっこいいし、やさひぃれす~!」

「わかりゃいいんだよ、わかりゃ。うし、行くぞ」

「うぅ、ひりひりする。せっかくお化粧直したのに。……え、行くって、わ、私、この格好でですか?」

「そりゃそうだろ。何のために着替えたんだよ。言っとくけど、七五三の写真撮りにスタジ●アリス行くとかじゃねーからな」

「わ、わかってますよ。でも、ここ中国ですよ。浮きませんか。それに目立ちますよ」

「別にいいんじゃね。人目なんか気にしねぇで、自分の着たいモン着てりゃいいんだよ。それに、いちいち服にイチャモンつけてくる様な器量の狭い奴は此所にゃいねぇし」

「……」

「ほら、行くぞ」


 自然な動作で右手を取られ、私の足に負担がかからない速度で歩いてくれる。無邪気さを感じさせる横顔と、大きな背中を見て、私はただ、このひとに着いていけばいいのだと実感した。

 年末年始の時期は特に、海外旅行客の出入りが激しいらしく、色んな言語があちこちから聞こえてくる。数えきれないほど、多くのカラフルな提灯が店先にずらりと並ぶ様は、暗闇を爛々と照らし、イン●タ映えを狙った女性客が端末を向けていた。聞こえてくる祝いの歌太鼓の音が、お祭りの雰囲気を色濃くしていた。

 岡崎さんに買ってもらったわた飴をモグモグと頬張っているのに、美味しそうな匂いがあちこちから漂う為、次はあれが食べたい、これが食べたいと、無尽蔵と呼ばれた食欲をそそられる。


「一口ちょーだい」


 岡崎さんがとあーんと牙を見せて、大きく口を開ける。はい、と口に近づけてあげると、ばくりと白いふわふわに噛みつき、みょーーんと中々千切れない雲に苦労していた。もぐもぐと口を動かす岡崎さんの眉間には皺が寄っていた。口の周りがペタペタするのか、ぺろりと舌で舐め取っている。


「甘っ。一口で十分だわ。よくこんな砂糖の塊ひとりで食い切れるな」

「次は塩っ気のあるものが食べたいです。あっちに焼きたて餃子たくさん売ってました。行きましょう!」

「へーへー」

「あとは肉まんとお饅頭に、羊肉串に……あ、サンザシ飴だ! おじさん、糖葫芦タンフールふたつくださーい!」

「うん。好きなモン頼めって言ったのは俺だし、全然いいんだけどさ、いつも遠慮ばっかなのに、何で祭りの屋台飯になると容赦無いの? いや、いいんだけど。安いし。いや、でもいいのか、お前、それで。ヒロインとしていいのか。もう何年(一応)メイン張ってんだよ。もうちょっとこう、色気とロマンスあるものを強請ってくれた方が、俺としてもだな」


「ふぁー! おいひ~! あっ、食べ終わっちゃった。おじさん、おかわり!」

「聞こえてねぇわ、これ。もう食に取り付かれてるわ。暴食の大罪に身を任せてるわ。もう、なんなの、この子。昔と全然変わってねぇじゃん。何これ、デジャヴ?」


 あちらこちらに目移りしながら、着々と食欲を満たしていく私に、岡崎さんが呆れた視線を送りながらも、仕方ねぇなぁと笑い、付き合ってくれた。なんだかんだ優しい。


「あ、動くなよ」

「んぐ」


 口の端についていたサンザシ飴の欠片を、ちょいちょいと指で取られる。そのまま岡崎さんの口に運ばれるのを見て、思わず、実ひとつ丸ごとを飲み込んでしまった。

 やっぱり、ちょっとおかしい。この人の纏う空気には遥かに縁遠い少女漫画みたいなことをさらりとやってのけた岡崎さんは、今しがた肉まんを購入した屋台のおじさんに、今何時かと尋ねている。23時と聞いた岡崎さんは、まだ余裕があるなと頷き、私の手を引いて人混みのなかを先へ進む。

 あれ、と思った。私の手を包む岡崎さんの手と温もり。堂々と前へ歩みを進める、その背中。何度も見てきた筈なのに。岡崎さんに握られた手を見つめる。

 幼き頃の自分の小さな手があった。しっかりと握りこまれたそれは、岡崎さんの手の中に完全に収まっている。顔を上げると、まるで早送りかの様に、お祭りの景色が急速に流れていく。色鮮やかな紙提灯が素早く流れ虹になり、やがてそれは、淡いオレンジの暖色に統一されていく。太鼓の音と歌は、私の生まれた国で聞いたことのあるものになり、日本語が頭に流れてくる。周りの景色は素早く移り変わるのに、私の前を歩くひとの時間だけは変わることがない。

 けれど、変化はあった。私が幼い姿になってしまった為に、そのひとはより大きな存在に見えた。

 白に近い灰色の髪はくすみが増している。服装も、ついさっきまで着ていたものとは違い、砂埃を被って薄汚れていた。男性を呼ぶ私の声はこども特有で高くて幼い。何度も呼んでいるのに聞こえていない様で、こちらを振り向いてくれない。もういちど、今度はより大きな声で彼の名前を呼ぶ。すると私の手を力強く引いていた人は足を止め、後ろを振り向かんと顔を横に向けた。その横顔に見えた右目は、兎の様に赤くて。既視感が。


「……き、志紀」

「っ」

「大丈夫か?」

「え、あ」


 名前を呼ばれ、一気に現実に引き戻された感じがした。周りを見渡せば、色彩豊かな紙提灯がたんと飾られ、中国語が飛び交う屋台が目の前にあった。私の様子を確認するために顔を覗き込み、ヒラヒラと手を振っている人は訝しげにしている。


「どうした。疲れたか」

「い、いいえ。その、満腹指数が高まって、眠気が」

「子供かよ」


 なんともないです、と笑って見せると、岡崎さんは安心した様に息をついた。

 なんだったんだろ、いまの。ただただ、覚えの無い、懐かしいという情が、私の中で駆け巡っている。


「志紀、何が欲しい?」

「うぇ、あ、は、はい?」

「あっこから選んで」


 くいっと岡崎さんが親指を向けた先を目で追うと、景品が均等に縦横斜めにと並んでいた。岡崎さんはお店のおじさんに代金を支払い、交換に貰ったコルク弾を、慣れた手つきで銃に詰めていた。


「ほら、早く言え」

「ええと、お菓子なら何でもいいです」

「いや、あのさ、何でそういうとこブレねぇの? いいんだけどさ、よく食べ、よく動き、よく寝る、ってルーティンは素晴らしいんだけどさ。あの、これ一応、そのあれじゃん? その、デー………」

「デ?」

「~~あーー、もう! 前にも言ったろ! ぬいぐるみとかさぁ! おねだりしてみなさいよ! キュンとするエピソード生み出す為に、ちょっと協力的になってくれませんか!」

「……岡崎さん、私のこと、いくつだと思ってます?」

「ん?」

「ぬいぐるみは好きだから、いいんですけど」

「そういや、いくつなったの、お前。……あれ、っていうか……お、お誕生日、いつでしたっけ」


 今更感がすごい。私のプロフィールなんて、とっくの昔に調べがついているだろうに、けれど色々あったせいで、すっかりその日付を失念していたらしい岡崎さんは、だらだらと変な汗をかきまくっている。人の誕生日って、覚え辛いよね。

 絶望感を滲ませている岡崎さんに、気にしないでくださいと両手を振る。さらりと誕生月を伝えると、その絶望色は更に色濃くなった。気にしなくていいって言ってるのに。


「え、あ、そうだ、そうだった。ってあれ? マジ? めっちゃ、過ぎてない。ん? 待て待て。てことはお前もうティーンズじゃなくなって」

「20になってます。というか21になります」

「は、ハァ!? 節目の祝いしてねぇじゃん! ど、どうする? やっぱスタジ●アリス行っとく!? 着物丁度着てるし、写真だけでも撮っとく!?」

「べ、別に、気にもしてませんでしたから。ていうか、いいですよ、そこまでしてもらわなくて」

「なんで言わなかったの」

「なんで、というか。この時代に成人のお祝いってあるんですか? なんなら、もっと早いのかと。私よりもずっと年下の子が結婚してるくらいだし」

「まぁ、そうなんだけども」

「行き遅れちゃいましたね」

「えっ!」

「そうなんじゃないですか? この時代に来てから早々に、さっさとお嫁に行きなさいって何度か言われてましたよ」

「あー、いや、でもうん」

「?」

「一応、その……行き遅れは免れてんだろ」

「……い、いやいやいやいやいや、何言ってんですか」

「とにかく、後ろ並び始めたから選べ。一発しかやらねぇから、いっこだけな」


 はよ、と急かされ、慌てて景品を確認する。まず順に見ていって、目に入り心惹かれたのは、おやつの詰め合わせパックだった。が、一番左上に飾られていたものを見た瞬間、どうしても目が離せなくなった。


「決まったか? どうせ食い意地張った志紀さんのことだから、真ん中の菓子詰め合わせでしょうけどね! どうせ、このやり取りもド定番な流れに」

「あのうさぎ」

「デスヨネー。まぁいいわ、射的名人と謳われたこの岡崎さんに任せろ任せろ。夜のツマミにもなるし、丁度いい……って、え?」

「あのうさぎがほしいです」


 ついさっき、お腹の中に収めたわたあめと同じくらい真っ白で、ふわふわのぴょこんとした長い耳が特徴的な、愛らしいぬいぐるみを指差す。その両目は誰かさんを彷彿とさせる、真っ赤なおめめをしていた。

 心を奪われた様にジッとそのうさぎを見つめたままでいる私に、岡崎さんは何も言わず、私の頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でた。

 銃を構え、真剣な目つきで、岡崎さんが獲物を狙う。引き金に添えた指にぐぐっと力が込められ、パァンと空気を弾く音が響き、次に歓声が沸いた。

 見事獲得した景品を、岡崎さんが首根っこを掴み(もう少し優しく持ったげて)受けとる。それなりの大きさのうさぎが私に近付いてくる。

 ぼうっとその赤い目を見つめていると、一気に距離が詰められ、エッと不意打ちに驚いていると、白いモフモフが私の口にひっつく。至近距離にある赤い目に戸惑っていると、そのままうさぎはぐりぐりと顔を左右に動かし、色んな角度で熱烈なちゅーをお見舞いしてくる。


「うぷっ、ぷぁ、もう! 岡崎さん!」

「奪っちゃったー……なんちて」

「……」

「……」

「……」

「じ、自分でやっといて照れないでくださいよ」

「やべ、恥ずかしい。無いわ。今のは無いわ。自分の年齢考えたらクソ恥ずいじゃん、すげぇ痛いじゃん。ドン引きじゃん。流石に柄じゃなかった。三十路(推定)がやっていいことじゃなかった……」

「ほ、ほら。立って立って。こんなとこで沈まないで。ね! ほ、ほら~、ウサギさんも言ってますよ。お参り行こうよ~って、おみくじ引きたいな~って!」


 慰める様に、うさぎのふわふわのおててを岡崎さんの頬にぷにっと当てる。ムスッとした顔で見上げてくるその顔があんまりにもこどもっぽくて、吹き出してしまうと「わーーらーーうーーなーー」と両頬をみょーーんと左右に引っ張られてしまう。そんな強がりすらも可愛く見えてしまうから、抵抗する気も起こらなくなっていた。


「おひゃさきはん」

「んだよ、饅頭」

「ひゃりはほーほはいまふ。うひゃひ」

「……ドーイタシマシテ」


 岡崎さんに手を引かれ、年末年始のお祝いで賑わう市街区を抜けたすぐのところに、巨大な鳥居があった。重厚な歴史を感じさせる造りのそれを潜ると、橋があり、それを渡った先には、古代中国らしい建物がライトアップされている。鳥居から先は透明度の高い湖の上に存在している為に、爛々と輝く建物と光を反射し、煌めきが増している。

 宮殿にも不夜城にも見える建物は荘厳だ。橋を渡っている途中で、岡崎さんに寺院だと教えて貰った。道理で、なんとなく背筋が伸びてしまう訳だ。

 お寺の雰囲気に合わせ、この国の伝統的な漢服を着た係の男性に、静かに、そしてお上品にお辞儀をされ、こちらへと中に招かれる。

 壁のあちこちには、あらゆる動物や人物の木彫りの銅像、水墨画に、ずっしりと難しく複雑な漢字が綴られた掛軸などが飾ってある。高い天井を見上げると、そこは円形のドームになっていて、万華鏡の様に細かく模様が刻まれていた。

 奥へ進むと、ある部屋では、とびきりに小さい仏像から大きいものが、順列に並べられていた。飾りや展示物ひとつひとつに説明書きがあり、この国の歴史と、どういった品であるのか詳しく綴られ、とても勉強になる。お寺というよりは、博物館の要素がたんと詰められていた。

 人もちらほらといたが、皆口を閉ざして観賞しており、外の様な騒がしさは微塵足りとも無い。館内に流れる琵琶の音と、足音だけが、私の耳に届いていた。

 ウサギを腕に抱きながら、それらをひとつひとつ眺めて歩く。岡崎さんも、すぐそこで別の展示物を首を傾げつつ眺めていた。親に連れられた子供が、何が面白いのかわからなくて、ぼんやりと観賞するそれによく似ていた。こういった資料館に似た場所は、彼には似合わないな、と小さく笑ってしまう。それを言ったら怒られるかもしれない。しかし、ならばどうして、岡崎さんは私を連れてきたのだろう。

 此処に来てから、特に何も言ってこず、どこかソワソワした様子を見せる岡崎さんをとりあえず置いておいて、きょろきょろとまだ見ていない奥の小部屋へと入る。

 照明がひとつ、その作品だけを特別に照らしていた。山水画だった。しかし、その山水画は他のものとは雰囲気が違った。白の背景に淡い黒の墨を滲ませ、繊細な色の濃度によって画の味を造り上げていく印象が強いが、色がもう2種類だけ存在した。

 天から降りてきた、雄々しくも美しい龍は、青白く滲んだ色を蛇とも表現出来る身体に纏い、大きく口を開け、怒りに満ちた表情で咆哮している。天の怒り、憤怒とも言える圧倒的な龍の怒気に、今にも崩れ落ちそうな地上の崖っぷちから対峙するのは、形容し難い生き物だ。犬や狼に似た姿と言ってしまえば簡単かもしれない。獣が剥き出しにした牙はあまりに鋭く、己の口内を傷付けるのではないかと不安になる。赤黒い炎を吐き出し、龍を迎え撃たんと、全身の毛を逆立てていた。

 両者共に、既に身体がボロボロに描かれている。よく見ると、龍の鱗は所々剥がれ落ち、墨で表現されているため生々しさは無いが、恐らく血を垂れ流しているのだろうことが想像される。大きな怒りの中に潜む表情は苦悶だ。獣もまた同様に、全身におびただしい傷を負っている。体のあちこちから突き出た棒状のものは何だろうと目を凝らしたときに、それが骨なのだとわかった。獣が立つその場所には、何かがぼとぼとと落ちており、それが獣の血肉なのだと察する。

 命を燃やしている、そんな印象を受けた。互いを吼え合い、どれだけの深手を負おうとも、己の身が破滅の道を行こうとも、相手から目を反らすことは一寸たりともない。ウサギを抱く腕に、すがる様な力が籠る。

 この画の名は記されていなかった。誰が描いたとも、何を表現しようとしているのかも。


「そろそろお時間になります。皆様宜しければ外へどうぞ。お嬢さんも、せっかくですので良かったら」


 私一人だった小部屋を覗き、声を掛けたのは、先程の漢服を来た係の方だった。そろそろとは? と疑問を持ちつつ、反射的に返事をして小さく暗い箱から出ようと足を出口へと向ける。しかし、後ろ髪を引かれる気持ちに見舞われた。

 もう此処に訪れることも無いかもしれない。もう二度と、あの画を拝むことは無い可能性が高い。もう一度だけちゃんと見ておこうと振り返ろうとしたが、何故か思い留まる。そのまま、この目に収めることも、焼き付けておくこともせず、ひとの声が多数聞こえ始めた方向へと足を進めた。

 暗い小部屋を出ると、係のひとと立ち話をしていた岡崎さんが私に気付き、会話を切り上げ、こちらに近付いてくる。繊細な紋様があしらわれた、小さな四角形の筒をふたつ手にしていた。


「あ、いたいた。何見てたんだよ」

「ちょっと気になったものがあって。あんまり、こういうところに来る機会も無いし。目新しいものが多くて、つい」

「ふぅん? 楽しんでたとこ悪ィんだけど、もう始まるんだわ。そろそろ行こうや」

「えっと、さっきの人も言ってましたけど、始まるって何が? それに、手に持ってるの、何ですか?」

「いいから。ホラ、行くぞ」


 私の手を引く岡崎さんは悪戯っ子みたいにワクワクしていて、でも、どこか緊張を隠しきれていない風でもあった。

 連れてこられたのは建物の外にある回廊で、歩いている板のすぐ真下には水面が広がっている。

 周りを見渡せば、少し離れたところで、新しい年を迎えんと賑わうお祭りの風景と、一攫千金を夢見て、リスクの伴う運試しを楽しむ離島を、今度は見上げる形で一望出来た。やはり相対的な雰囲気を持っていると改めて実感する。

 足元に照らされた提灯が、淡くその道筋を照らしてくれる。冬風が吹くと、着込みはしているものの身震いする。ふわふわのウサギを抱きしめて暖を取ろうとしていた私の身体に、ぬくもりのあるものが掛けられる。へ、と見てみると、岡崎さんのコートだった。


「羽織ってろ」

「で、でも、岡崎さんが風邪引いちゃいます。私は大丈夫ですから、ちゃんと着てて下さい」

「俺は頑丈だからいーの」

「良くないですよ」

「こういうときには素直に受け取っとくもんだよ。いい加減学びなさいよ。少しは経験値上げなさい」

「あだっ」


 加減されているとはいえ、中々のダメージを食らうデコピンを食らい、おでこを押さえる。そうこうしている内に、周りにもちらほらと館内に居た少数のお客さん達が出てきている。皆揃って、紋様は違うものの、岡崎さんが持っているのと似た紙筒を、それぞれ手にしていた。

 何が始まるんだと尋ねようとした瞬間に、周囲の電気や灯りがフッと消えた。それは私達が屋台を楽しんだあのお祭りの場所だけではなくて、あのカジノ島も同じタイミングで、例外無く黒に包まれる。

 必要最低限の灯しか無くなった空間は、ほぼ暗闇で、目が慣れるまでは、岡崎さんの姿もよくわからなかった。うっすらと隣に居る存在のシルエットが認識出来始めたのと丁度に、どこからか太鼓の音が響き渡る。それは徐々に早く、大きな音になり、勇ましいものになっていく。ドラムロールを彷彿とさせ、ピークを迎えたところで、閃光が暗闇に撃ち放たれた。それが爆竹と気付いた途端に、ここから離れたあのカジノ島から、勢いよく次々と派手に花火が打ち上げられる。古代の中国らしさを感じさせる盛大で壮大で、スタイリッシュな音楽も共に流れると、所々で歓声が聞こえてくる。私もその遠慮の無い、もはや爆発と言って過言ではない、連続して勢いある打ち上げ花火に圧倒される。

 夜に咲く満開の花達は力強く、美しく、ちっぽけな私達を魅了する。圧巻の光景だった。透き通った水面にも花火が写り、上も下もと華美な光景を目で追うのが忙しい。視界に収まりきらない。

 ドン、と鳴る音と一緒に、次々と咲いては散りを繰り返す、その堂々たる儚さと、きらきらと消えていく彩りの花弁に目を奪われ、感嘆の息が漏れる。


「口開いてんぞ」


 ぱこ、と横から伸びてきた腕に、完全に惚けてだらしなく開いていた口を、顎下を押されることで閉ざされる。岡崎さんが小さく笑い声を漏らしているのが聞こえてくる。

 花火も最後に備え、打ち上げる数が控えめなものになる。予想通り、曲もクライマックスの盛り上がりになって、これまでで一番の大きな花火や爆竹が続々と長い時間打ち上げられる。観客のボルテージは最高潮に達し、熱量は凄まじいものになり、沸いた歓声が大きくなる。

 一瞬、世界が終わったんじゃないかと勘違いしそうになる光が、視界を真っ白にする。再び暗闇が現れると、眩しいほどの光も花達も消えて、闇夜を取り戻していた。

 壮大で果敢なテンポを踏んでいた音楽は曲調を変え、終わりを感じさせる、しっとりとしたものになる。芯の通った女性ボーカルの力強い歌声が熱狂していた胸の内を鎮まらせ、切なく物悲しいものにする。

 私達と同じ回廊から花火を見ていたお客さん達は、すぐに帰り支度をすることはなく、何やらごそごそとしている。照明も、花火が始まる直前の薄暗いままだ。

 右隣を見ると、そこに居るだろうひとは、思っていた位置よりもずっと下に居た。その場にしゃがみこんだ彼は、ずっと持っていた紙筒をいったん床に置き、取り出したマッチに火をつけているところだった。灯したばかりの火が、微かに吹く夜風で消えてしまわないように、岡崎さんが包むようにして片手で覆うと、彼に守られた柔らかい灯火が岡崎さんの顔をそっと照らした。岡崎さんの赤い目の光が、揺蕩う炎によってキラキラと揺らめく。

 その赤に、完全に心を奪われ、言葉を失う。こんなにも綺麗なものを、この世界は今まで辱しめ、虐げていたのかと、愚かに思った。

 筒の中に、そっとマッチの火を差し入れた岡崎さんは、立ったままの私を見上げ、ほんのりと優しく淡い橙色が灯るそれを手渡してきた。うさぎを柱に凭れさせ、手すりから落ちないよう気を付けて置いてから、繊細な造りの紙筒、いや、紙灯籠を受け取る。寒さで冷えていた手のひらに温もりが滲んだ。

 既に周りのひとは灯籠を水面に浮かべ、流し始めていた。自分の灯籠にも火をつけた岡崎さんは、やけに広く開いているなと思っていた手摺の隙間から灯籠を外へと送り出す。岡崎さんの手から離れた、薄紅の桜が描かれた灯籠は、ゆらゆらと水面に誘われて、遠ざかっていく。ひとつ、ぽつんと湖へと出ていくその様は寂しい。淡い光を放つ四角の筒を、薄く笑みを浮かべ、優しく穏やかな表情でじっと静かに見送る岡崎さんの姿に、胸の奥が軋んだ。

 私も半ば急ぐようにして水に浮かべ岡崎さんの灯籠を追いかけさせたけれど、追い付くことは叶わなかった。それどころか、どんどんと風に流されて、ふたつの灯籠の距離は広がり、離れ、遠ざかっていく。

 盛大な花火を見せてくれたお礼か返事の様に、人々が流した灯籠が風の動きに従い、ゆったりと、現代的と表した島へと向かっていく。暗闇の水面を反射する数えきれないろうの光は、花火の輝きに負けない美しさと儚さを放ち、見惚れるものである筈なのに。そっと寄り添う歌声も、もうどれが私達の灯籠だかわからなくなった灯り達を運ぶ水音も、あんなにも岡崎さんともう一度見たいと切望していた筈の光景なのに。


「穴場なんだよ、ここ」

「え?」

「パッと見、ただの寺だろ? 中はよくわかんねぇ絵だの、仏像だの、文字ばっかの掛軸しかねぇし。だから、そんなに人も寄り付かない」

「……」

「この回廊は、普段は解放されてないんだよ。けど、この日だけは開けてんの。もみくちゃになりながら花火見んのも、それはそれで風情あるし、良いんだけどさ。灯籠流しはなぁ、我先に投げ捨てるみてぇにはやりたくねぇだろ」

「何度か、来たことあるんですか?」

「目が覚めてから、一度だけ」

「……白鷹の皆さんと?」

「ひとりで」

「どうして」

「報告、付き合ってやれなかったから」

「……」

「だから、お前の分も、せめて、灯籠これぐらいは流しといてやらねーとと思って。お前のじーさんにも謝りたかったし。……盆じゃねーし、国も違うから、届くかどうかわかんなかったけど」

「おじいちゃん」

「ん?」

「何て言ってました?」

「……あ、あの、俺、確かに人間離れしてっけど、あの世の人間と交信は流石に無理があるっつーか。そんなテレパス使えないよ、志紀ちゃん。いくら完璧な俺にも、出来る出来ないがあってだな」

「何て言ってました?」

「……」

「私のこと、なんて馬鹿な孫だって、呆れてました?」

「滅茶苦茶な」

「そっか」

「そんなふしだらな娘に育てた覚えはありませんー! だってよ。男を見る目が無いにも程があるとも言ってたな」

「ですよね。異論はありません」

「……」

「俺は違うだろって怒らないんですか?」

「いや、俺って、その筆頭の内だよなぁ、そのひとりだよなぁって思って……無茶苦茶沈んでる。そうだよな、そうだよ……。お前、マジで見る目無いわ。こんなろくでなし野郎に目ェ付けられちゃって、ホント……ホンマお前」

「自分で言って、自己嫌悪して、ガチ沈みしないで下さいよ。それに、岡崎さんは自分が思ってるより、ずっと魅力的なひとですよ」

「いっつも、すげぇ俺のこと立ててくれるけどさ……マジで言ってんの、それ。世辞ならいらねぇからな。虚しくなるだけだから」

「だって、私が好きになったひとですよ」

「……」

「男性を見る目は無いかもしれないけど、ひとを見る目は多少はあ……」

「……」

「あ、あるかな~。あるんじゃないかな。あったらいいな~。ちょっと位は、うん」

「そこは流石に自信持って締めてくんねぇかな!? 俺の切ないキュンを返して!」

「岡崎さん」

「もう、本気でこいつの完全攻略本欲しい。分厚い辞書みてぇなのでもいいから、アルティ●ニアが欲し……な、なに?」

「明けまして、おめでとうございます」

「……」

「屋台のごはんも美味しかった。取ってくれたうさぎのぬいぐるみも可愛いから、今度こそ大事にしたい。花火も綺麗でした。あんなにすごいの見たのは生まれて初めてです。灯籠も」


 決して、嬉しい気持ちだけではなかった。初めて一緒に流したときみたいに、私達の灯籠は寄り添ってはくれなかった。けれど、この想いだけは本物だから、伝えたくて仕方がなかった。


「もう一度、岡崎さんとこの景色を見られて、すごく嬉しかった」


 悲願とも言えるそれを叶えてくれた男性に、真正面から向き合って、心からの感謝を伝える。

 しかし、礼を受けた本人は、ほんの僅かに戸惑いを見せ、不満そうに、私が見惚れた赤い目を、揺蕩う灯籠達へと反らした。昔の岡崎さんなら考えられない。いつも真っ直ぐで、相手の目から視線を反らすことなど一切無く、真正面から見据えていたひとだ。その眼力に圧倒されて俯いていたばかりだったのは、私だったのに。こんな小娘ひとりを相手にして、立派な成人男性が、大人げなく、子供っぽく拗ねている。そんなところが、いとおしくて、仕方なくて、以前よりも人間らしいその仕草が、嬉しく思えた。


「なんで、過去形なんだよ。そこは今年もよろしくなんじゃねーの」

「……」

「これが最後みたいな言い方、すんなよ」

「最後になるかは、岡崎さんが決めてください」

「……なに?」


 私の発言に戸惑いの色を深くして、きょとんとした岡崎さんに、きっと、これが分岐点だと、ひっそりと己のなかに押し留めていたことを切り出す。

 荷を背負わせることになる。それが岡崎さんにとって、重いのか、軽いのか、どれだけの負担を強いることになるのか、それとも、案外たいしたことはないのか、それは本人にしかわからないけれど。ずるい選択だとも思う。だけど、どうしても、私の運命を他者に委ねる瞬間があるとするなら、その相手は岡崎さんが良かった。


「形も残らない程燃やされた天龍寺で、気力も希望も無くした私に、岡崎さんが約束してくれたこと、覚えてますか?」


 目を丸くし、一気に、顔から色という色が失せた岡崎さんは、口を一文字に固く結び、やはり私から顔ごと目を反らした。現実逃避に似た態度と、長い長い沈黙を岡崎さんは貫く。


「おぼえてない」


 やっと開かれた口からは、今にも消えそうな、掠れた低い声を聞き逃すことはなかった。ちがうよ僕じゃない、とオモチャを壊してしまったことを弁解する子供が目の前に居た。


「うそだ。覚えてるでしょ」

「覚えてねぇもん。なに、なんの話をしてんの。あんときは、誰かさんのせいで、次から次へと面倒事が舞い込んで命懸けだったしー。なんなら一回命落としましたし!」

「こうやって」


 だらだらと嫌な汗をかき、私から泳ぎまくる目を反らし続ける挙動不審さを露にする岡崎さんの両頬に手を添える。そっぽを向いていた顔を私の方に向け、見下ろさせる。

 じっと真っ直ぐに赤い目を見つめていると、へらへらと誤魔化していた虚勢が徐々にぼろぼろと剥がれていくのがわかった。ひきつった笑みを見せていたその口許は閉ざされ、堪えるようにして奥歯を噛み締めているのが、頬に添えた手に伝わる感覚でわかる。再びだんまりになってまった岡崎さんは、眉間には皺を寄せ、私を睨み付けている。睨むといっても迫力はなく、どちらかというと、今にも泣き出しそうになるのを我慢する表情だった。


「私のこと、ちゃんと帰してやるからって、約束してくれた」

「……」

「任せろって言ってくれた」

「言ってない」

「言ってましたよ。あのとき、どれだけ私の琴線に触れたと思ってんですか」

「覚えてねぇもん」

「本当に?」

「……」

「……」

「……俺がまじで、忘れてたらどうすんの」

「ありえないですよ」

「何で言い切れんだよ」

「プールで泳ぎ方教えるなんて些細な約束覚えてるひとが、忘れてるわけないでしょう。形は違えど、貴方も、どんなに小さくても、ちっぽけでも、交わした約束ごとは、ひとつずつ必ず守ろうとしてくれるひとなんですよ」

「……も?」


 岡崎さんの自嘲するような笑みには、私が他に誰を指していたのかを嘲笑うものが見える。このひとはそれに対して、自身に対しての嫌悪感を抱き、また深みへと墜ちていく。

 でも、このひとには這い上がるだけの力がある。自分を騙し、他人も騙しつつ、誤魔化しながら進んでいく力が。でも、それだけじゃ駄目なんだと知って欲しい。塞ぎ込んだ思いを吐き出すことも、分かち合うことも大切なんだと気付いてほしい。我慢は限界を迎えれば、とんでもない形で爆発してしまうことも、身に沁みて理解している筈だ。見せかけを剥ぎ取った貴方を見て、確かに離れてしまうひとはいるかも知れない。でも、そうでないひとも確かに居る。それでも大丈夫よ、と寄り添ってくれる人たちは存在しているし、していたことを、最期の瞬間まで貴方のことを気にかけていたひとがいたことを忘れないで欲しい。

 太刀川さんには出来なくて、岡崎さんには出来ること。似ている二人でも、決定的な違い。太刀川さんは岡崎さんになれない、岡崎さんも太刀川さんにはなれない。

 大きな耳と尻尾が、シュンと垂れている。可哀想に眉を下げ、すっかり炎が弱まり、元気を無くした赤色が可哀想だった。


「俺に、選ばすの?」

「……」

「どんだけ鬼畜なの、お前」

「ごめんなさい」

「ゴメンで済んだら、ケーサツは要らねぇんだよ」

「岡崎さんがどんな選択をしても、私、恨んだりしませんから」

「……」

「でも、覚えていてほしいんです」

「何を」

「前にも言いましたよね。岡崎さんはいつか、私を切り捨てなきゃいけないときがくるって」

「そんなもん」

「来ますよ」

「……」

「今は穏やかでも、いつまでも、この平穏が永遠に続く訳じゃない。岡崎さんも、それはよくわかってると思います。切り捨てるものがあるのは私だけじゃない。それどころか、私よりも、貴方が喪うものの方がとてつもなく多くなる。もしかしたら、岡崎さんが今までに必死になって手に入れてきたものも、全部、すべて、パァになっちゃうかもしれない」

「……」

「私、何度だって言います。しつこいって言われても、言い続けます。私は、岡崎さんが幸せに生きていてくれるなら、それだけでいいんです」


 どうするのかという答えを、今すぐ頂戴とは急かさない。そりゃあ早い方がより良いのだろうけど、こんなにも今にも泣き出しそう顔をしている人にそこまで強いることは、あまりにも酷だというものだ。

 徐々に明かりが戻る。私達以外のお客さんも、ぞろぞろとお寺の中に、さむいさむいと言いながら戻っていく。 
 
 ぷかぷかと離島へ向けて漂う灯籠達は、随分と遠くまで行ってしまった。小さくなる光の粒をもう一度だけ眺め、置いていたうさぎを再び抱える。

 陰鬱な顔で、重苦しく考え込んでいる面立ちの岡崎さんの手を強く引く。びくっと一瞬手が震えた岡崎さんを引き摺るようにして、前を歩く。わざとらしく聞こえるかもしれないが、それなりの明るい声を出して先導する。


「せっかくですから、御神籤引いてからお宿に戻りましょうよ。あ、そもそも中国にも御神籤ってあるんですか?」

「……似たようなのは」

「そっか~。このお寺にもあるかな。中国まで来て大凶なんか引いちゃったらどうしよう。香澄ちゃん曰く私、かなりの不運属性らしいんですよ。否定できないし、あり得るんだよなぁ。やだなぁ。高望みはしないから、吉って文字は欲しいなぁ」

「……そしたら、俺が大吉引いてやるよ。大凶だろうが、一緒にいりゃ相殺されるだろ」

「そうですね。じゃあ、とびっきり酷いことが書かれたのを引いても、岡崎さんが打ち消してくれるし、何が来ても籤は結ばないで取って置こうかな」


 返事は無かった。岡崎さんは私に引っ張られて、抵抗もなく後ろをついてくるだけで、先導している私からは、彼が今どんな顔をしているかはわからない。

 そんなに思い詰める必要は無いよって、後で教えてあげよう。

 岡崎さんはただ、自分がこれからをどう生きていきたいかを考えたらいいだけなんだよって。


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