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分岐点で立ち往生
しおりを挟む今日も今日とて、繊細な音色を奏でる宝石箱の紡ぎ歌に耳を傾ける。岡崎さんは床に敷かれた絨毯に胡座をかき、鹿部さんに打ち直してもらった刀の手入れをしている。ソファに腰掛け、両膝を抱え、その横顔をぼんやりと眺めるのは、すっかり日常の一部と化していた。
蒸し暑さは息を潜めたものの、ほんの僅かに残暑の残る穏やかな午後。そこで切り出すことにした。
「バイト?」
「はい」
というよりは、お手伝いって言った方が近いですけど、と小さく訂正した私を、抜き身の刃を真紅の鞘に納めながら、岡崎さんはキョトンとした顔で見上げている。私もこのお誘いをされたとき、こんな顔してたんだろうなぁと小さく笑った。
「バイトですか?」
まだまだゆっくりでないと言葉を聞き取れない私のために、ゆるりした口調で話してくれたひとが、そうそうと頷いている。そんなに高いお給料は出せないけどねぇ、小遣い稼ぎ位に思ってくれれば、とお婆さんはしわしわのお顔を綻ばせた。
週に一度のペースで、お婆さんから麻雀のお相手に誘われる様になり、こうしてたまにお家の外に出て、束の間の一時を、あちらこちらから中国語が降ってくる空間に身を置くようになった。岡崎さんにも、交流を持つことは良いことだ、何よりも本気でこの国の言葉を身に付けたいなら、これ以上に適した環境は無いだろうと、お婆さん同伴での外出許可を得られた。お陰で、すんなりと言うには程遠いが、それでも随分と耳が慣れてきた気がする。簡単な言葉で且つゆっくりお話してもらえるなら、なんとか聞き取ることは出来るまでにはなった。
そして、今日も顔の広いお婆さんを通じて、色んな人との麻雀を興じたあと、卓の上に散らばる麻雀の牌を片付けているところで「店のお手伝いをしないか」と誘われたのだった。
人の手が欲しいのはお婆さんがいつも居るお店の方ではなく、お婆さんのお孫さんが営む甘味亭だなのだとか。何やら、雇っていた従業員が病気を患って暫くお休みをされるらしく、その空いてしまった穴を埋めたいのだが、中々人が見つからないらしい。
「あんたさえ良ければなんだけどねぇ」
お休みしている従業員が療養から戻ってくるまでの短期で構わない。お客さんも駆け込んでくることはそうはないし、難しいことはしてないと話すお婆さんは困った表情をされていた。駄目かい? と問われ、困ったご老人が求める助けを蔑ろに出来る訳もなく。
私の返事を聞いたお婆さんの顔が、ぱぁと花開く。「谢谢、谢谢」と笑顔で両手を握られ、ぶんぶんと上下に振られる。その嬉しそうな顔を見て、なんとか岡崎さんにOK貰わないとなぁと考えていると、ずいっと目前にお菓子箱が差し出された。にこにこと笑うお婆さんから「持って帰りなさい」と両手に持たされたものを眺める。どうやら、そのお孫さんが営むお店で出しているお菓子だそうで。頂いていいのかと尋ねると何度も頷かれ、じゃあお金をと財布を出すために荷物を探るも、遠慮するな! 要らない要らない! と私の腕を掴んで止められてしまった。
「徹也と、二人で、食べなさい」
私が聞き取りやすいようゆっくりと言葉を区切って、今日は満月だからと微笑まれる。こてりと首を傾げた。
有難うございますと頭を下げる私に「あぁ、そういえば」とお婆さんではない声が掛けられる。先程まで半荘を共にしていた、右隣に座るおじさまからだった。おつまみとお酒を傍らに一勝負を楽しんだ男性は、爪楊枝を咥え、じゃらじゃらと卓上の牌を両手でかき集め、ケースに戻しながら「楽しかったかい? 花火」と私に尋ねる。
「え?」
「ほんと、君んとこの旦那は酔狂なあんちゃんだよねぇ。それに、嫁さん思いったらねぇや。こっちが充てられちまうよ」
「ええと……ごめんなさい。その、もう一度いいですか」
「ありゃっ。ごめんごめん。ついつい早く喋りすぎちまったかい。これくらいなら聞き取れる?」
「あっ、はい。ごめんなさい」
「いやね、ほら、君んとこのあんちゃん。ちょいと前に、うちの店の抽選でガラガラ回して景品当てたでしょ」
「ガラガラ……あ、あぁ。催してたの、おじさんのお店だったんですね」
「そうそう。亭主関白が当たり前ってぇ時代に珍しい若者も居たもんだなぁって印象に残ってんだよぉ。せぇっかく特賞当てたってのに、なんだって交換なんか申し出るんだろうなぁって」
「え? 交換?」
「そうだよぉ。せぇっかく景品の中では目玉中の目玉だった、有名な温泉行けるってぇ特賞当てたのに、その後で一等の花火セット当てたおばちゃんに交換してくれなんて交渉しててねぇ」
「……」
「知る人ぞ知るって結構いい温泉だったのよ。オジサン頑張って一番に力入れてたもんだからさぁ。それをある意味いらねぇって突っ返されちゃったみたいなもんだし、本当にいいのかって、そのおばちゃんと一緒に何度も聞き返した訳だよ。後でまたさっきのに戻したいだのイチャモンつけられても嫌だったからさ。したら『花火の方が喜びそうだから』なんて言われちゃって」
へへへと愉快に笑うおじさんは、お酒の残りをぐびっと煽り、空になった器を置いた。
「思わず笑っちゃったね。婆さんは湯に浸かって、そのしわしわをツルツルにして、短い寿命引き伸ばしてこい、なんて無礼千万な軽口叩きながら穏和に交換するの見たら笑っちゃったよ」
なに笑ってんの、と口角を上げていた私を、怪訝そうに床に座る岡崎さんが見上げてくる。首を振り、貰ってきたお菓子箱の包装を解いていく。
「いいえ、何でも」
「? とりあえず、バイトでも手伝いでも何でもいいけど、ぶっちゃけお前、給仕とかは難しいんじゃね。長い時間突っ立って、あちこち忙しなく歩いてってのは正直まだキツイだろ」
「私もそれが気になって。逆にご迷惑になるかもしれないって聞いてみたら、基本的に混んでないし、お店もこじんまりとしてるから大丈夫だって。それに、私にはお店番とかお会計とか、そういうことをしてほしいみたいです。動き回ったりは、よっぽど忙しくならない限り、しなくていいって」
「成る程な。とりあえず役割分担出来るだけの人手が欲しいってとこか」
「それに、私もいつまでも岡崎さんにお世話になりっ放しっていうのも申し訳ないし……」
「いや、それは気にしなくていいだろ。家のことだってお前はよくやってくれてんじゃん」
「う、でも、ほら、食費とか、電気代とか水道代とかガス代とか、生活費の諸々もあるじゃないですか。それに」
「前にも言ったけど、付き合わせてんのは俺なんだから。志紀が後ろめたく思うことは無ぇって」
「……だめですか?」
「何が?」
「お手伝いに行くの……」
「え、いいんじゃね?」
「ほ、ほんとですか!」
「うん。いや別に、聞いた感じだと、激務で無理して~ってことも無さそうだし。あそこの婆さんの孫が経営してんなら信頼はおけるし、特に駄目って言う理由は無い」
「よ、良かった」
「寧ろ、そこまで安心される意味がよくわかんねぇんだけど」
「駄目って言われるかもって思ってたので……」
疑問符をあちこちに浮かべる岡崎さんは、心の底から何がいけないのかわからないらしく、首を傾げまくっている。包み紙を取り終えたばかりのお饅頭をその赤い瞳に納めた岡崎さんが、あ、と大きな口を開けてきたので、その意図を汲み、少々サイズ感のあるおやつを岡崎さんの口に入れてあげた。餌付け? 私から与えられたお饅頭を頬いっぱいに膨らませて咀嚼する岡崎さんは動物にしか見えない。
太刀川さんなら、駄目って言っただろうなと、オルゴールの音色を聞きながら頭の隅で考える。
私が天龍組の本家で過ごすことに、息が詰まりに詰まり、限界を迎え、とにかく一旦この場所から離れたい、働かせてほしいと正座し、殆ど泣きながら、深々と畳の上に頭を擦り付けた。
縁側に気怠く座り、夜の帳に光るまんまるの月を見上げていた太刀川さんが私の方を向く気配がしたが、顔を上げられなかった。私の懇願に対し、物凄く気分を害されているのだなというのが、ひしひしと痛い程に感じられたし、何よりも物凄く怖かった。
彼は、私が働くことを、他者と関わり、社会の中に入っていくということを、快くは思っていなかった。自分が造り上げた檻から、私を出すことを良しとはしていなかった。
結局、このままでは本当に私の心身が持たないということで、自身の息がかかった場所ならばと、あの時雨旅館で働けるよう手を回してくれた。
「一日で音を上げるなんてことの無ぇ様、精々気張るこったな」
私が本家を出る前に、太刀川さんが薄く笑みを浮かべ、皮肉混じりに耳元で囁いた言葉は、はやいとこ大ポカやらかしてさっさと戻ってこい、そう言われている気がしてならなかった。まさかなぁ、そんなぁ、流石にそんな、アハハ、考えすぎ考えすぎと自分を誤魔化していたが、たぶん、あのときの私の「まさかね」は当たっていたのだと思う。
実際、本当にお仕事でやらかしたことは大いにあったし、身体的なものだけでなく、メンタル的にもキツい瞬間は幾度とあって、それが太刀川さんの耳に入っていない訳も無い。一切としての口出しや手出しはしてこなかったのは、太刀川さんの傍に居た方が良かったと思わせ、自ら太刀川さんの元に戻りたいと縋らせようとしていたんじゃないかと勘繰ってしまう。私が言うのもなんだが、捻くれに捻くれ、拗らせに拗らせた性根のひとだ。強ち間違ってない気がする。
「ただ、無理はすんなよ」
「むぐっ」
お返しとばかりに、いつのまにか剥かれていたお饅頭を岡崎さんによって口の中に丸ごと突っ込まれる。岡崎さんと違い、準備も何も、大きな口も開けていなかった私は、全て口内に収めることは出来ず、落っことさないように慌てて両手で掴み、もひもひと少しずつ頬張った。そんなハムスター状態の私に、岡崎さんが端末を寄越してきた。っていうか、このひと、もう全部食べ終わったのか。
「丁度いいや。お前も昼間に外出すること多くなってきたし、渡そうと思ってたとこなんだわ。ほら」
「んぐ。あ、有難うございます」
「ん。俺の番号はもう登録してあるから。メッセージでも大丈夫だぞ。岡崎さんはもう日本語マスターなんで」
「へぁ~、すごいですね。岡崎さん、これで何ヵ国語巧みになったんです? なにリンガルになりました?」
「いんや。巧みではねーな。読み書き出来るのは中国語と日本語だけ。他は喋るのが多少出来るだけ」
「十分凄いですよ」
意外に教え方も上手だし、と言うと、「意外とはなんだ、意外とは」と鼻を軽く摘ままれてしまう。
「とにかく、イワンの管轄する地域だ。比較的治安は良い方といえど、油断はすんな。何かあったら、電話でもすぐ寄越せ」
「わかりました」
「あと、バイト終わったら連絡して。迎えに行くわ」
「ええ。いいですよ、そんな。別に物凄く遠いところって訳じゃないし、ひとりでも」
「いいから」
「……岡崎さん、お父さんみたい」
「ハン!? 俺ァまだ、んな年……」
「でもあるでしょ。流石に」
「……すげぇ沈んだわ。そうだわ、俺もうゼッタイ20代って言える自信ねーわ。自分でもわかるもの。オッサン化してきてるなってわかるもの。ワンチャンまだ29歳のギリじゃねーのかなとは思えねーもの!」
「まぁまぁ。中身はいつまでも若々しい少年のままなんですから、いいじゃないですか。枯れてる訳でもなし」
「せめて青年にしてくんない? 女子のスカートの中身追っ掛けてる鼻垂れ小僧みたいなニュアンスやめてくんない?」
「それに、三十路だって、まだまだ十分お若い領域ですから。あ、そうだ。ねぇねぇ、岡崎さん」
「その服ちょいちょいしてくるの、ほんとお前!」
「ちょ、こわい。何目血走らせてんですか。何悶えてんですか。あの、中国にもお月見みたいな習慣あるんですか?」
「月見?」
「はい。お婆さんに、このお菓子貰ったときに、今晩は満月だからって仰られて」
「バリッバリ昼間に食っちゃってんじゃん。あー、そか。もうそういう時期か」
「?」
「中秋節っつってな。美味いもん食いながら満月見て、家族団欒するってやつだよ。ほぼほぼ日本の月見と一緒だな。こんなかにも入ってんじゃね。ほら。月餅」
「あ、有難うございます」
「月餅食うのが定番なんだよ。満月みてぇに家族の誰ひとり欠けることが無い様に、っていう日だった筈。たぶん」
「たぶんて」
「しょうがねぇだろ。中国で生きてたときなんざ、そんなもん、わざわざ意識して一緒に過ごす相手居なかったんだから」
「……月餅は置いておきましょ」
「え。なんで」
「折角ですから夜に食べましょうよ。お月様見ながら。それにほら、今年は私が居るじゃないですか」
「……意味分かって言ってる? ソレ」
「はい?」
「何でもねーよ」
「? それに、こんだけのお饅頭一気に食べると太りますよ。いくらムキムキマンの岡崎さんでも、油断するとすぐにぽっこりお腹になっちゃいますからね。みるみる内にメタボですよ、メタボ。うちのお父さんが、若いから大丈夫~って好きなものたらふく食べる生活してたら、いつの間にか……って言ってたから間違いないです」
「なりません~。俺はこのパーフェクトボディを貫き通します~。それに、その言葉そのままそっくり返してやるわ、小娘。お前の方こそ、食欲の秋を謳歌しすぎだろ。最近、ちょっとむちむちになってきてるぞ。ガリガリよか全然いいけどさ。そのうち顔パンっパンになるんじゃね。志紀パンマンだ、志紀パンマン」
「んなっ! そ、それは言わないでくださいよ! わかってても黙っててくださいてへぶっ」
「やーいやーい、志紀パンマン。まじでいつ触ってもやわっこいなぁ、コレ。癖になるわ。噛み千切りたくなる柔さだわ、このほっぺ」
「ぅ、ちょ、も、もう触んないでください! ほんとデリカシー無いんだから!」
魔●宅のヒロインが如く、カウンターにべたりと両腕をついて、その上に顎をのせ、流れ行く人々の景色を店内から眺める。油断すると、こてりこてりと睡魔が襲ってくる。なるほど。確かにお婆さんが言っていた通り、これは私でも出来るお仕事だ。
やって来るのは、おやつ時になると甘いものでも食べて一息つこうというお客様か、物珍しそうに店内を覗きこみ、彩り豊かで、形状のバリエーション豊富な甘味達を興味深そうに眺める海外からのお客様位だ。
給仕はお婆さんのお孫さんが対応している。裏では、お孫さんの旦那さんが職人の手つきで次々と甘味を作り上げている。私はというと、その光景を基本的にカウンターに座って、のんびりと眺めて、たまのお会計に対応するといった繰り返しだ。やっぱり私もお茶を出すくらいはした方がいいのでは、と申し出るが、「大丈夫よ。座っていて」とニコニコ笑って椅子に引き戻される。
元々、お孫さんご夫婦と、今はお休みしている従業員の方と、三人でお店を回していたとのことだ。確かに、とてつもなく忙しいという瞬間は無いけれど、ご夫婦のお二人のみで対応するのは大変だろう。一人居るのと居ないのとでは、役割分担も負担も大きく違う。忙殺されることはないけれど、二人はキツイ。三人で丁度いいといった感じだ。
「志紀」
「は、はい!」
「お客さんも暫くは入ってこない時間帯だし、テーブルの方は閉めたから。旦那と今のうちに必要なものの買い出しに行ってこようと思うんだけれど、その間、お店番を任せてもいいかしら。パパっと済ませてパパっと戻ってくるつもり。構わない?」
「大丈夫です。お気を付けて」
「有り難う。何かあれば連絡を寄越してね。すっ飛んで帰ってくるから。それじゃあ行ってきます」
私とそう変わらない年齢の為か、気さくに志紀と呼び捨ててくれるお婆さんのお孫さんは、作業着を脱いで、裏から出てきた旦那さんと並んで、私に「任せたわね」と笑った。
奥さんの隣に並ぶ旦那さんは、私達よりもずっと年は離れていて、たぶん岡崎さんよりももっと上だ。お見合いによるご結婚をされたのだとか。随分年の差があるなぁとは思うけれど、この時代では珍しいことではないんだと認識を改めさせられる。眼鏡をかけた寡黙な男性が私に軽く頭を下げたので、私もそれに返した。
連れ立って買い出しに行くご夫婦が、仲睦まじく並んで歩く後ろ姿を見送ったあとの、店内で流しているテレビ以外の音を除き、街の喧騒から切り離された空間は、まるで境界線が敷かれたみたいだ。
静まり返ったお店の中、此処で働き始めてから一週間で自身の定位置となったカウンターの椅子に戻る。甘い砂糖菓子の匂いに包まれた空間はとても心地良い。
再びカウンターに両腕をついて、何事も無い平和な時間を過ごす。こうしていると、昔小さい頃にオルゴール館でお店番をしていたのを思い出す。館に預けられて間もなく、可愛いアンティークな洋服を館長さんに着せて貰って、志紀ちゃんにはこの館の看板娘になってもらいたいから、なんて言われて、この上なく照れ臭くてもじもじ恥ずかしがってたな。
集まったお客さん達の前でオルゴールの歴史や解説をし、実演する館長さんの隣でお手伝いをする日々だった。館長さんお手製のオルゴールが並ぶショップでも、売り子になり、完成度の高い作品に色めくお客さんや年配の方々に、可愛いお洋服を着たちいちゃい子どもが居ると、囲まれて話し掛けられることも多く、小さい頃からちょっとだけ人見知りで恥ずかしがり屋の私は、顔を真っ赤にしアウアウとなっていた。それでも、ずっと閉じ籠った世界に居た私にとって、色んな世代の、日本各地、あるいは海外から来たお客さんと軽くお喋りをすることは、新鮮で発見がたくさんだった。お客さんに囲まれ、慌てふためく私の様子を、少し離れたところで微笑ましそうに見ていた館長さんの顔も覚えている。
それが、いつからだろう、その役割が、気付いたら、ひとりから二人になったのは。
館長さんから、たんと与えられた洋服の数々から、今日は何を着ようかと、毎朝毎朝血の涙を流す熊さん、そしてファッションにはとにかくうるさい帽子屋と一緒に選んでいた日常から、どこから仕入れてきたのか、太刀川さんが持ってきたお着物に彼の手ずから着付けられ、髪も整えてもらって、お化粧も何もかも全てが、太刀川さんの手に施される形に変化し、いつしかそれが当たり前になっていった。
時々にしか館のお手伝いに出ることはなかった太刀川さんも、きちんととは言えないものの、ラフに着崩した洋装で、表でお客さんへの接待をメインとする館長さんの裏側、経営面でのサポートなども担当するようになる。よく姿を消していた太刀川さんの姿が、オルゴール館で見られることが通常となった。よって、眉目秀麗な太刀川さんを目当てにやってくる女性客が殺到した。
いつも通り、館長さんのお手伝いをしていた私の状況にも、ちょっとした変化が生まれた。あちこちをちょこちょこと駆ける私の隣には、いつも太刀川さんが居る様になったのだ。
最初こそ、いや何ゆえ突然、とビビり倒していたが、毎日続くと人間慣れるもので、すっかりお客さん達には、太刀川さんとセット扱いにされることが当たり前になった。ご近所の診療所の看護師さんからは、どんなにイケメンと謳われる芸能人もひれ伏すだろう凄まじいレベルの美丈夫とお着物姿の女児の組み合わせは、すっかりオルゴール館の名物? 珍百景の様になっていて、「あなた達の組み合わせ見たさに、館に足を運ぶひとも居るのよ。ウフフ」と教えてもらった。
言われてみれば、太刀川さんと一緒にお写真を撮りたいから写真撮って、と女性のお客さんからスマートホンを託されることが何度もある中(太刀川さんはその度に凄くイヤそうな顔をしていた)、希に私も、そしてワンくんも一緒に写真に入ってほしいと太刀川さんの隣に並べさせられたこともあったなぁ、と思い出に脳を満たす。
幸せで満たされた気分になれたけれど、同時に悲しくもなった。こうして過去をいくら巡ったとして、終わりは訪れる。彼らとの記憶に、その先が訪れることはない。未来は無い。館長さんも、ワンくんも、太刀川さんも、それぞれとの出会いという始まりが存在し、そして別れという終止符が否応なく打たれてしまった。それも真っ暗で、救いのない形で。
先程までふわふわと暖かった筈の心がピキピキとひび割れていくのを感じて、息が詰まった。両腕の中に顔を埋め、暗い気持ちに呑まれて項垂れていると、チリンチリンとお店の扉が開いたことを知らせる鈴の音が、何やら忙しなく店内に響き、慌てて頭を上げる。
「あっ、いらっしゃ、じゃなくて、ええと、ふぁ、欢迎光临……」
中国語で、いらっしゃいませと絞り出した言葉が萎んでいく。
入店して、中々奥へと足を踏み込んでこない男性は、帽子屋が見たら「しゃんとしろ」とお小言を飛ばすだろう、くたびれた背広に、ボロボロのトランクを大事に手にしている。ぴょこぴょこに跳ねたくすんだ金髪に長身。少しだけ息を乱し、カウンターに居る私を惚けた様子でじっと見つめてくるその紫色の瞳には覚えがある。いや、有りすぎた。
「あ」
「っ」
「あのときの」
お茶屋さんで会ったお兄さん、と思わず日本語で口に出すと、おどおどした様子の男性は言葉が出ないといった風に言葉を詰まらせた表情をし、そして。
「って……う、うわっ!?」
「!?」
「ちょ、だ、大丈夫ですか?」
ガタンと床に何かぶつかる大きな音が響き渡り、反射的に立ち上がる。お兄さんは自身の手にしていたトランクを、初めて目が合ったときと同じく地に落とし、そして中身を盛大にぶちまけてしまっていた。男性は慌てて屈みこみ、自らの回りに散らばったそれらをかき集めてトランクの中に戻していく。
私もカウンターから離れて、思いの外広範囲に落とされた書類や珍しい小物などを集めるのを手伝う。何も焦ることはないのに、男性は散らばってしまった荷物を無造作に寄せ集め、整頓もせずにトランクの中へ慌てて押し込んでいく。
こちらでも収集した荷物を男性の前に差し出すと、男性は忙しなく動かしていた手を止める。目前に現れた手にゆっくりと視線を伝わせ、その先に居る私をその紫色の瞳に収めた。
「たぶん、落ちてしまったものはこれで全部だと思います。一応足りないものが無いか、念のため確認して頂けると。ゆっくりで構いませんから」
「……」
「って、あ、日本語……ええと、チャ、チャイニーズ? イングリッシュ? ど、どっち……」
中国生まれの方には見えないし、以前、少し訛りはあるものの流暢な英語を駆使していたし、容姿的にも英語圏から来た旅行者さんである可能性が非常に高い。ど、どうしよう。中国語もだけど、英語だってそんなに話せる訳じゃない。
男性は苦し気に、そして何か物言いた気に、私の頬に両手を伸ばしてきたので、思わずビクッと身を引いてしまう。そんな私に気付き、紫色の目をまんまるとさせ、ハッとした顔をし、緩慢な動作で両手を引き戻した男性は、きゅ、と唇を結んだあとで口を開いた。
「日本語で、大丈夫です。少しなら話せる」
前に聞いたときも思ったが、控えめな物腰にとてもよく合う、心地よい低音の穏やかな声をしている。お兄さんは俯きがちに、トランクに残りのものを詰め込み、パチンと留め金をして、今にも引きちぎれそうなボロボロのベルトをぐるぐるに巻き付けていた。新しいの、買った方がいいんじゃ。
「えっと……ごゆっくりどうぞ」
接客対応として、とりあえず当たり障りの無い言葉をかけると、男性は小さく頷いて、猫背気味に立ち上がった。それを確認し、私もカウンターの方に戻ろうと踵を返したのだが。
「あ、あの。何かお探しですか?」
何故か私の後ろをついてくる男性を振り返って尋ねると、彼はまたも驚いた様子で、またもやトランクを落としそうになっていた。だ、大丈夫か、ほんとに。
「えっ。あ、い、いや。いやじゃない、その、探してはいるんですけど」
「お手伝いしましょうか?」
「だっ、大丈夫。もう見つかったから」
「? そうですか。どれかお伝え頂ければ、お包みしますよ?」
「あっ、いや、まだその……すみません。もう少し、店内を見させて貰っても……」
「は、はい。それは全然」
ごゆっくりどうぞ、と添えると、男性は安心したように息をついて、とりあえず近くのお団子コーナーに移動し、眺めていた。邪魔にならないようにと定位置に戻り、手持ち無沙汰に、もぞもぞと身の回りの整理などを軽く行っていたのだが、この店内に居る私以外のひとりからの視線をちらちらと感じ、気になって仕方がない。終いには、盗み見るようにしていたのが、完全に私を注視し始めたのをひしひしと感じ取ってしまう。けれども、視線を上げて目が合っても、どう反応したものかと悩む。故に作業の手を止めることはしなかった。
どこかで会ったことあるのかな。しかし、控えめな容貌とは裏腹に、中々存在感のあるあのお兄さんを簡単に忘れるものだろうか。いや、そこに関しては自信無いな。太刀川さんがクラウチングスタートして、その勢いでラリアットかましてきそうだ。
何か私に言いたそうにしてるし、こちらから何か用があるのかともう一度切り出した方がいいのかな。本当に知人だったら、この前は失礼千万な態度を取ってしまったことを謝りたくもある。
どうしようと悩む私の耳に、ピロンピロンと速報ニュースを知らせる音が聞こえてくる。テレビの方に目を向ける。何やら慌ただしくキャスターが速報を伝えているが、上手く聞き取れなかった。チャンネルを変えて日本の番組に切り替えると、同じ内容だと思われるニュース番組で、ゲストのコメンテーター達がその件について神妙な面立ちで語り合っている。そして、その内容を耳にした私は、目をこれでもかという程かっ開き、飛び上がる様にしてテレビに近付き、函体そのものを両手で鷲掴んでしまう。
そんな、でも、まさか。
画面の向こうでは、威厳ある和装姿をした壮年の男性が、後ろに大人数の、黒スーツを着用した怪しげで不気味な雰囲気のある人達を引き連れて闊歩している映像が流れている。真ん中を陣取り、堂々と歩く男性以外、皆何かしらの凶器を携えていて、物騒極まりない。
映像は短く、キャスターの解説が入りながら何度もリピートされる。テレビにかぶりつく勢いで、これでもかという目を凝らして映像の隅々をくまなく見つめる。
『日本の裏社会で、いの一番の猛威を振るっていた暴力団組織が、突如、ほぼ壊滅状態に落ちたと聞いたときも驚かされたものですが、まさか、また息を吹き返すとは。これはまた大荒れしそうですね。大町さん』
『そうですねぇ。とはいえ、彼らの調査を数十年行っている私と致しましては、何となく、こうなる予感はしてましたがねぇ。そう簡単にくたばる連中じゃありませんよ。奴等は』
『それは、つまり』
『これまで、天龍組を取り仕切っていたのは大親分じゃあないんですよ。若者頭なんです。こいつもとびきり優秀な奴でしたから、組長だって勘違いしてる人達が多いですけどね。なんのその、今映ってるこの男が、正真正銘その組長殿ですよ。何十年も姿を眩まし続け、表には出ず、巣に籠っていた女王蜂……恐らく一番食えない、厄介な大親分が、重い腰を上げて出てきたんです。こういうこと言っちゃあ駄目なんでしょうけど、私は感動すらしてますよ。遂に本物の龍が、天から顔を覗かせたとね』
『なるほど。しかしながら、それ程に警戒心の高い人物が表だって動き出したということは、天龍組の権威は落ちている、復活が難しいということを表しているのではないでしょうか。事実、天龍組と協力関係にあった組織も、半数が壊滅させられている状態です。果たして、かつて猛威を奮えども、一度転落したも同然の組織、それも、もはや殆ど力も残っているとは思えない相手と手を結ぶということはあり得るのでしょうか』
『さぁ、どうでしょうねぇ。この瀧島という男、不明事項が多く、どこまでも未知数ですから。私は逆に、この機会をずうっと窺っていたんじゃあないかと勘繰ってしまうんですよ』
『なるほど。いやぁ、しかし、これは……日本社会に、いいえ、アジアの他にも世界各国で繋がりのあった大組織でしたから、何かひと波乱起きそうですね。経済影響にも懸念が予想されます』
『そうですねぇ。我々警察組織も総力を上げて彼らの実態を追うと共に、抑止をーー』
「物騒な時世ですね」
「うわっ!」
「あ、ご、ごめん! 突然話し掛けて」
「あ、あぁ。い、いえっ。ごめんなさい! お、お会計ですね!」
パッケージに入ったお団子を数個手にした男性が「本当にすまない」と小さく、か細い声でへこへこと頭を下げながら謝ってくる。べ、別に、貴方は悪いことしてないのに。むしろ仕事中に、なにお客さんそっちのけでテレビガン見してんだって怒られるのは私の方だ。
形が崩れない様に、丁寧に商品を包装し、買い物袋に入れていく。
「以前は、すみません」
私の作業を黙って見守っていた男性が、ぼそりと口を開いた。え? と顔を上げると、お兄さんは少したじろいだ様子で、ぐ、と唇をひき結び、挙動不審に視線をさ迷わせた。
「追いかけ回す形になってしまって、怖がらせた」
「……あ。それは、わ、私の方こそ。思わず驚いて反射的に、ごめんなさい」
「いいや、君が謝る必要は無い。逃げられて当然だ。ごめん」
なんか、フランクだなと思った。付け足すみたいに、ところどころで敬語を使ってはいるけれど、ふとした瞬間、たぶん本人も気づかない内に気軽な口調が出てきている。まるで、前からの知人に話し掛けるみたいに。ちょっと話せるって言ってた割には日本語上手だし、けれど、そこら辺の使い分けがまだ不慣れなのかもしれない。決して不快という訳ではない。それにさっきからなんだか。
「どこかでお会いしました?」
「え」
「あ、ごっ、ごめんなさい! 私、ちょっと、いや、かなり忘れっぽいところがあって。以前も何か私にお話されたそうにしてられたので、もしかしたら、昔、何処かでお会いしてたり……」
「……」
「それに何だか……初めて会った気がしないってのは、これが初対面って訳じゃないから当たり前ではあるんですけど。なんだろう、なんか段々、ずっと前から、あなたのこと知っていたような気が……」
紫色の目を丸くして私を見下ろしているお兄さんの反応に気付き、何を意味のわからないことをべらべら話しているんだと自覚して、サーーと血の気が引いた。い、いや。ほんと、何言ってるの、私。接客中だってば。
「あ、あはは、ご、ごめんなさい。なんか変な口説き文句みたいになっちゃいましたね! し、失礼しました。お待たせしました。これ、お品……」
「間違ってない」
「え?」
「……いや。君は悪くない。僕が、一方的に知っているだけなんだ」
「……?」
「あっ、決してストーカーとか、そういう訳では!」
焦った様子で、自分は不審者などではないと主張するお兄さんは、いきなりハッとした顔で、懐を探り、ゴソゴソと取り出したものを確認した。それが何かを視覚に収めた私は既視感に襲われる。
お兄さんの掌中に収まる、時を紡ぐ道具。古めかしいアンティークの懐中時計だった。
現在の時間を確認し、何か急ぎの用でもあったのか顔を真っ青にしたお兄さんは「Oh my gosh」と英語で呟き、私から商品を受け取り、お礼を言って、直ぐ様ボロボロのロングコートを翻した。
「ありがとうございました」
お馴染みの言葉をその背中に掛けると、彼は出口の扉の取っ手を掴んで、そのまま動かなくなった。どうしたのだろう。急いでいるのではないのか。
お兄さんは、ほんの僅かだけ横顔をこちらに覗かせ、躊躇してまた前を向いて足を踏み出そうとして、そしてまた此方に僅かに顔を向けるというのを二、三度繰り返した。しかし最後は意を決し、私の名前を呼んだ。
「っ志紀」
「はっ、はい」
「その……また、来ても構いませんか」
「……」
「ご、ご迷惑ならそう言ってください。僕は、別に」
おどおどとした声がどんどん小さくなって萎む。自信無くシュンと沈んだ雰囲気を漂わせ、どんどんと俯いていくお兄さんに、言いようもないシンパシーを感じざるを得なかった。自分を見ているみたいだ。
「いつでもいらしてください。今は閉めてますけど、テーブル席もありますから。また忙しくないときにでも、休憩がてらにだとかで甘いもの食べに来て下さい」
しょげかえったその人に、なんとか顔を上げてほしくて、ペラペラと、あれもどうぞこれもどうぞといった風に言葉を紡いでしまう。パァと控えめな活気がお兄さんに戻ってきたのがわかり、安心する。ふと何を思ったのか、それは私が脳で判断するよりも先に口が先に動いていた。
「名前」
「え?」
「お兄さんのお名前、お窺いしてもいいですか?」
くすんだ金髪に紫色の瞳をした男性は、私に名前を尋ねられ、何を考えているのかわからない顔をした。唇をひき結んだ真剣な顔で黙っていたが、その薄い唇を何度か開閉させてから答えた。
「オーウェン」
「……」
「ウィリアム・オーウェン」
「……オーウェン?」
告げられた名前、名字を反復し、明らかに引っ掛かりを覚えている私を見て、複雑そうに、しかし、うんと頷いて、彼は再び懐中時計を確認してから「それじゃあ、また」と遂に扉を押した。トランクと、新たに加わったお土産袋を手にして、景色の向こうに走っていった。
偶然だよね。太刀川さんが昔、頻繁とは言わずとも、何かあれば呼んでいた名前。親身になって不安定だった私のお世話を、そして色んな知識やものを与えてくれた、私にとっては、もうひとりの祖父と言っても過言ではない大きな存在。ビー玉みたいにきらきらとした目で私を見つめ、昔語りをしてくれる穏やかな声が大好きだった。
「……館長さん」
そして、私の前から突然姿を消してしまったひと。消したというよりも、夜中に館を抜け出し、館長さんにどこかへ連れられかけたところで、立ち塞がる太刀川さんの姿が甦る。そして彼に悲しそうに、そして辛そうに、けれど折れてやるものかという強さで、対峙する館長さんの姿も。
再びテレビのニュース番組に視線を向ける。一番知りたい、聞きたいひとの名前や情報は出てこなかった。
「(太刀川さん)」
もしかしたらと私のなかに潜んでいた淡い希望が、しゅるしゅると萎んでいった。
お手伝いの時間を終えて、岡崎さんにもうすぐ帰りますとメッセージを送ると、直ぐ様迎えに行くとの返事が返ってきた。はやすぎる。女子高生か。返信が早いのは仕事が出来るひとの特徴とか何処かで聞いたことあるな。
もう着くので大丈夫です、と一端道の端に寄り立ち止まって、既に歩き始めていたことを仄めかす文章をタップして打ち込む。そしたら『待ってろって言っといたろ!』とプンプンと怒りに打ち震えるポ●子のスタンプが送り付けられてきた。『今からそっち行くから』と追記されたが、でも、本当にすぐそこなんだよなぁ。あと5分もかからない。プリプリと頬を膨らませている岡崎さんが居るだろう邸宅は、もう目と鼻の先だった。
よたよたとびっこを引きながら門をくぐると、この歴史の趣ある建物には似つかわしくないものが重鎮していた。
セレブの歩くレッドカーペットを連想させる赤のシートに、ピカピカに磨き抜かれたブラックボディのオープンカーが停車していた。す、すご。これアレだよね。B●Wだよね。車に詳しくない私でもわかる。え、嘘でしょ? まさか、岡崎さん買った? 車とかあんまり興味ないとか言ってたけど、一目惚れかなんかしちゃった? 一応B●の隣には岡崎さんの愛車である、これまた真っ黒で大きなバイクが停まっている。
もしかしてお客様でもいらしてるのか、と玄関の扉を開けようと手を伸ばす。が、勢いよく先に開け放たれた為に触れることは叶わず。飛び込んできた大きな身体が私にぶつかりそうになる寸前、その持ち前の体幹の良さで引き止めた。
慌てた様子で出てきたのは岡崎さんだった。その手にはバイクのキーを握り締めていて、今から何処へ向かおうとしていたのか、何となく察する。
「っしき!」
「岡崎さん」
「おまっ、バイト終わったら待ってろって言ってたろ!」
「ごめんなさい。いつもより早く上がらせてもらえたから。でも、岡崎さん、夜に備えてお昼寝してる時間だろうから、邪魔したくなくて」
「んないらねぇ気ィ使ってんな。俺はお前に何かあったら」
両肩を強めに掴まれ、切羽詰まった様子の岡崎さんがどうも、母親に家でお留守番を言いつけられ、なんで置いていったのと怒っている子どもの様に見える。なんだか可哀想になってきて、なでりなでりと灰色の頭を撫でてあげると「お前、ちゃんとわかってんのか!」と少し頬を染めた岡崎さんに叱られてしまった。
「徹也ァ。んなに神経尖らせなくったって、ここはまだ俺様の縄張りだ。この一帯はまぁだ大丈夫だよ。しかしまぁ、状況が変わったのは確かだ。いつどうなるかわからない。危機感を持つに越したこたぁないがね。今は不用意にひとりになるのは避けた方がいい。特に遠阪さん、アンタはね」
岡崎さんと私の他に第三者の声が奥から聞こえてきて、岡崎さんの身体越しに、その人物を確認する。渋く気怠げな声を発した男性は、廊下の壁に持たれて、ふーーと煙草の煙を宙に吹いていた。無精髭を生やし、少しにやついた顔でこちらを向いた男性は、ヒラヒラと手を振ることで挨拶を寄越してきた。
「イワンさん」
「ドーモ、遠阪さん。久しぶり。お邪魔してるぜ」
どうやら岡崎さんはお昼寝タイムは無しに、来訪者であるイワンさんと今の今までお話していたらしい。どうりで寝起きとは思えない位返信が早かった訳だ。まだイワンさんと話があるから、岡崎さんに部屋でゆっくりしてろと言われるが、お茶でも煎れた方がいいのではと申し出るも、それも不要だと背中を押されてしまう。
だったら庭の鯉に餌をあげたい、花に水やりもしておきたいからお庭で手入れをしていると言うと、まぁそれならと岡崎さんに了承を得る。
聞かれたくない話でもしてるのかな。夕焼けでキラキラと光る池の水面を揺らす鯉達に餌を与える。
涼しくなってきたなぁ。そろそろ薄手の上着も羽織った方がいいかもしれない。季節の代わり目は一番風邪を引きやすい体質だ。気を付けないとと引き締めていると、後ろの壁から、声がそれなりにハッキリと聞こえてくる。この壁の向こうは岡崎さんとイワンさんがお話ししている客室だ。
「いやぁ、それにしてもだよ。初めて遠阪さんと面合わせたときを思い出したら、あの娘も随分大人っぽくなったなぁ。数年前は言っちゃあなんだが、ちんちくりんのケツの青い餓鬼って感じだったのに。女の成長ってのは恐いもんだねぇ」
「まーな。それは俺が1番痛い程実感してるよ」
「前の遠阪さんに手ェ出してるってんならオイオイってなるけど、あれ位になりゃあ気にならなくなるってんだから不思議なもんだよなぁ。お前さんのことだ。毎日さぞよろしくやってるんだろ? いやぁ羨ましいことだねぇ! 合法的にあれだけ若い娘とお楽しみが出来るとは」
「……」
「オイオイ、照れてんのかぁ? 何を今更。あんだけ俺様と楽しい夜を渡り歩いた仲じゃあねぇか。ちょっとは面白い話のひとつ聞かせてみろって……徹也? オイ、何黙ってんだ」
「何もしてねぇよ」
「は?」
「だから、志紀とは何もしてねぇ」
「は?」
「んだよ。いちいち聞き返すな」
「何もって……嘘つけ、お前! あんだけピチピチの若い女とひとつ屋根の下で暮らして、手ひとつ出してないのか!? しかも、岡崎が!? 性欲魔人のお前が!!」
「誰か性欲魔人だ! 人聞きの悪ィこと言うな!」
「なんだって、そんな修行僧みてぇな。あっ、そうか。なんだ、なんか、あれか? 我慢すればする程ご馳走は上手くなるっていう、そういうプレイか?」
「ちげーよ馬鹿!」
「それとも何か。か、枯れたのか。使い物にならなくなったのか。お前さん、俺よりもまだ若いだろうに……」
「ばっ、どこ見てんだ! 枯れてねーわ! 俺のゴールデンバットはバリバリ現役だわ! ホームランも打てるし! あーもー、さっきから何! ちょっと黙っててくんない!? 俺達にも色々あるの。今のままで十分満足してんの!」
「うっそだろ……少し昔のお前さんなら絶対に考えられない発言だぞ。どうしたってんだ……」
「やめろ。その哀れむ様な目やめろ」
下世話な会話の内容が丸聞こえだった。二人共それなりに大きな声で話してるから、余計に。というか、なんつう話をしてるんだ。大事な話なんじゃないのか。下ネタ聞かれたくなかったから私を遠ざけたのか。
そういえば、冬は客室だけやたら寒かった気がする。そうか、見た目は厚そうに見えるが、この壁の面だけ薄いのか。ここにやってきたとき、掃除は軽く施されていたとはいえ、雰囲気は幽霊屋敷みたいだったし、古い建物ということなので、増築やら何やらで徐々に大きくしていった作業過程によるものなのかも。それにしても駄々漏れじゃないか。あとで岡崎さんに言っておかないと。
とにかくも、私には聞かれたくないみたいだったし、向こう側の花に水やりをしていよう。それに、なんか聞いていて気まずい。非常に居たたまれない。
「天龍組の件だが」
離れていようと距離を取ろうとしたが、その足を止めざるを得ないイワンさんの発言が耳に入った。既に背を向けていた薄壁を振り返り、無意識に耳を澄ませてしまう。
「ちょっと前から、界隈で不穏な動きが見られるなとは思っちゃあいたが、こんなにも大々的に、身も隠すことなく出てくるたぁな。驚かされたよ」
「白鷹と争ってる最中だった敵も、停戦を申し出てきたってリゼから聞いてる。事態が性急すぎて、あちこち混乱状態みてぇだな」
「ドンパチが収まって、冷戦に持ち込まれるだけなら、まだいい方だ。散々自分達を痛め付けてきた龍の再臨に、ビビってケツ捲って、居所を失ったゴロツキどもが、色んなシマで好き勝手してやがる。嵐山の大火事なんぞ、比べもんにならねぇくらいの無法地帯の地方もあるとよ。天龍にはもうそんな力も残ってねぇって頭ではわかっちゃあいるだろうに。まぁ、それほど奴等の存在は脅威だったってことだ」
「ポリ公も、今まで出てきたことのねぇでけぇ鼠の出現に、珍しく重い腰上げてるって聞いたけど」
「そりゃそうだろ。いくら墜落したとはいえ、あの天龍組の組長殿だぞ。弱ってるが、あれを検挙すりゃあ、今まで堕落してると詰られ続けた汚名も一気に返上出来るってもんよ。そう簡単にいくとは思わんがね。何より警察機関上層部の方が、もう既に裏社会の人間とズブズブなんだ。今更、正義と法の下で裁くなんざ言われても、内部関係のゴタゴタで上手く事は運ばんさ」
「シラユキは」
「……」
「シラユキはどうしてる。どうしようとしてる」
「お前さんも、そこら辺は聞かされてねぇか。色々と画策はしてるみてぇだが、柊嬢は今の天龍の動きを見て今後どうするか、全部自分ひとりで考えてるらしい。ひとりで考えて、決定して、一切誰にも共有しなければ、口外もしない。正式な命が下されるまでは、誰にもわからん。自らのみの秘匿が上手いっていう奴が、情報屋にとっちゃあ一番の天敵だな」
「……」
「けど、予測位は立てられる。近いうち、白鷹と国内外の関係組織で会合が開かれるだろう。勿論、天龍の処遇についてを主題にな。柊嬢のことだ。天龍の瀧島にも、真正面から召集への呼び掛けをするかもしれん。再始動への支援という餌を釣ってな。勿論、白鷹組の傘下、犬になることを条件に。はたまた、篭の中に餌を置いて釣られてやってきた獲物を、一気に叩くって算段かもしれない。これ以外にも色々パターンは存在する」
しかし、とイワンさんの声が翳る。
「厄介極まりないのは、瀧島という未知数の存在だ。なんせ、本当に存在しているのかもわからん、都市伝説の様な扱いだったお山の大将が出てくるんだ。どういう思考パターンをしてるのか、どんな動きを仕掛けてくるつもりなのか、全く予測がつかん」
「……」
「しかしなぁ、本当になんでこのタイミングで出てきたんだか」
「そりゃあ、自分の組の存続がヤバいからだろ」
「それにしちゃあ、動くのが遅すぎる。もっと早い段階、なんなら白鷹に襲撃を受けたその直後か、まだ天龍の息がかかった組織連合組合が生きてるときに動けばまだマシだった筈だ。立て直せる確率も段が違う。この壊滅一歩手前の最悪の状況で、大将がのこのこでてくる。まるでトドメをさせって首差し出してるみたいじゃあねぇか。このまま雲隠れしてりゃあ、とりあえず自分の命は助かったかもしれないのに。気がトチ狂っちまったのか。何を考えてるのかさっぱりだ」
「あの刺青野郎を下につけてたんだろ。一筋縄じゃあいかねぇ野郎だってこたぁ、間違いねぇだろうよ」
「……太刀川ねぇ」
「……」
「ま、いいか。とにかく、ここら一帯も一応の根回しはしてるが、その分これからより忙しくなる。お前さんにもみっちり、今までの倍は働いてもらうからな」
「慣れたもんだよ」
「詳細は追って連絡する。そろそろお暇するかね。愛の巣にあんまり長居しちゃあなんだしな。馬に蹴られたくはねぇし。あぁそうだ。徹也」
「なんだよ」
「お前、遠阪さんの足、治してやらないのか」
顔を上げる。きり、と太刀川さんに手折られた片足が痛んだ気がした。
「俺が紹介してやった医者、胡散臭いし、モグリだが、どんな病だって治せる腕利きだ。聞いたところ、遠阪さんの足も手遅れなんじゃねぇかって尋ねたら、奴なら治せるらしいじゃねぇか。おったまげたね」
希望するなら治してやるって言われたんだろ? そう問われた岡崎さんは黙ったままだった。
「組の資金はともかく、個人的な金に関しては困ってる訳じゃあないだろ。他人の為に、組の為に何かを支払う、肩代わりするってことにも、躊躇ってことをしなかったお前さんだ。ましてや、それが遠阪さんの為になるってんなら」
「……」
「……お前さんもなんだ、あの子の為にがむしゃらに尽くしてる様に見えて、肝心なところにゃ目ぇ背けちまうんだなぁ。利己主義な面はちゃんとあったか。いいや、そんなもんで簡単に言い表せるもんでもないか。拗らせてる、って言った方がしっくりくる。でも、安心したよ」
「……何が」
「そんな葬式みてぇな暗い顔しなさんなよ。さぞ自己嫌悪に陥ってることだろうが……人間なら誰もが持ち得る、普通の部分なんだよ」
「……」
「徹也。お前、やっと人間らしくなってきたじゃねぇか」
「やっと、って」
「今までのお前さんは出来過ぎてたんだよ。強さばっかりのいっちょまえの人間として、上手く見せ過ぎだ」
「……」
「お前、そこそこのスター●ォーズ愛好家だったよな」
「なんだよ、突然」
「察しが悪いな。滅茶苦茶動揺してんじゃねぇか。しこたま見てるってんならわかるだろ。どんな人間にも、光と闇の側面が存在するんだよ」
「……」
「どんだけ善人ぶってたって、薄汚ぇ欲望や手の届かないものに対する切望ってのは、全部が全部覆い隠せるもんじゃねぇ。それをひた隠しにしてして、自分のなかに収まりきれなくなって、爆発しちまったのが、お前が一番好きだっつってたダース・ベ●ダーなんじゃねぇのかい」
「……」
「徹也ァ。お前さんが遠阪さんに抱えてるソレは、何にも悪いもんじゃねぇ。皆、誰しも抱え得るもんだ。でもな、その情との付き合い方を間違えると、取り返しのつかねぇことにもなる。……お前もよぉく知ってる男みたいにな」
「……」
「まぁ、これ以上突っ込むのは野暮ってもんだろ。精々、上手くやるこった。……堕ちるところまで堕ちちまった太刀川の道を、お前さんがなぞっていくのを見たくないんでね」
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