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君はなにも変わらない。それでいい。
しおりを挟む何年経っても、未だに暗いことばかりを考え、そして、いつまでもねちっこく、前に進むどころか後退するばかりの、鬱陶しい自分。身体は成長しても、根本的な部分はちっとも変わっていない。もうこればっかりは仕方ないのかもしれないと、諦めてすらいる。
話を追うごとに、少しずつでも心身ともにプラスの方向に成長していくのは、漫画やアニメのキャラクターだけ。本来の性質そのものを変えるだなんて、実際はものすごく難しいことだし、現実はこんなもんだ。
私は、私自身のうじうじとした部分を受け入れて生きていくしかない。子供のときみたいに、夢の中に逃げ込むんじゃなく、今までのことも全部背負っていかなきゃいけない。投げ捨てていいものなんて、何一つない。忘れることは、命を散らしていった人達への冒涜になる。
そんな重苦しいものを内に抱えている人間に、関わりたくなくなるのは当然だ。これから知り合っていく人が、私のことをより知る様になって、嫌気が差して、離れていくのも仕方ない。それは小さい頃から変わっていない。
なのに、奇特なひとは、やはり居るものだ。岡崎さんは特に、私のそういうところをよく知っていて、うんざりしただろうことも多くて、なんなら、これ以上無いって位の被害を受けているのに。どうして、私にここまでしてくれるんだ。実は聖人なのかとすら思う。何をされても人を見捨てるべからずみたいな教えでも何処かで受けてきたのかと聞くと岡崎さんは「んな訳ねーだろ。ていうか、それブーメランじゃね。お前と違って、こちとら下心と見返りムンムンだよ」とだけ返してきた。
「んんん? ここをこうして、捻って……あり?」
「……」
「いや、違う。ここに差し込んで、あ~~、んだよ。書いてる通りにやってんのに、上手くいかねーな。もちっとわかりやすく説明してくんねーかな。写真と文面だけじゃ、わかりづれーわ」
「岡崎さん、折り紙とか説明見ながら折れないタイプでしょ」
「はん?」
「でも、自分の感覚でなんとなく折っていったら、いつの間にか完成してるタイプでしょ」
「クソ真面目に折り紙なんかしたことねーから、わかんねーよ」
そりゃそうかと納得する。膝を抱えて、テレビの中で熱唱している歌手に再び集中した。本当に便利な時代だな。どこの国の番組も好きに見られるなんて。
すぐ後ろには岡崎さんが座り、私の長い髪を使ってウンウン唸りながら、雑誌の特集に載っていたヘアアレンジに挑戦している。そして、苦戦している。こんなもん、ちょちょいのちょいで簡単に出来るだろ、とやけに自信満々に私の後ろを陣取り、髪の毛に触れてきた岡崎さんだったが、三人の歌手が歌い終わる頃になっても、ぶつぶつと、ああでもないこうでもないと、何度も何度も説明を見直しながら手を動かしている。
基本的に、何でもそつなくこなす岡崎さんだが、やはりこの人にも得手不得手はあるらしい。
その点、太刀川さんは昔から私の髪を弄くるのが上手だったなと思い出す。小さい頃、仲がそこそこに良くなり始めてから、いつも髪を梳かすだけで結んだりすることもなく、放ったらかしにしていた私の髪を積極的にアレンジしてくれたのは、意外にも太刀川さんからだった。
お店に来てくれた女性のお客さんが、少し手の込んだ素敵なヘアアレンジをしていたので、綺麗だなぁなんて呟くと、次の朝には、コテとアイロンを両手に装備した太刀川さんと対面することになったときは本当に吃驚した。何をされるのかと、かなりビビった。
するすると髪を巻いていく手つきは本当に手慣れたもので、美容師か何かしていたのかなとすら思った程。それは、太刀川さんと再会してからも変わっていなくて。
「動くなよ」
色々と思い出して、心が沈み、ぶんぶんと首を振ると、岡崎さんからクレームがあがる。
とりあえず気を紛らわせたくて、岡崎さんが買ってきてくれた本の山から一冊を手に取る。赤組と白組の途中経過の点差が発表されるのを耳にしながら、文字の羅列に目を動かしていく。
「ひぅ」
突然、私を襲ったゾワッとしたこそばゆい感覚に背筋がゾゾゾとし、思わず肩が跳ねて、身体を縮みこませてしまう。髪を纏めようとした岡崎さんの大きな手が、私の首回りをするりと微妙な加減で霞め、集中力が遮断されてしまった。くすぐったくて身を震わせながら後ろを振り向くと、何故か、私よりも岡崎さんの方が顔を真っ赤にした口許を鼻と手を押さえ、天を仰いでいた。なにしてるのと疑問が湧くよりも先に、別のものに私の目が引き付けられてしまう。
「……え……えっ? うそ、岡崎さん。あの、大丈夫ですか」
ふごふごと口と鼻を塞いでいる為分かりづらいが、「なにが」と返事をくれたのは何とか聞き取れた。聞き取れた、が。
「いえ、その……は、鼻血? 鼻血が」
鼻と口を塞いだ岡崎さんの指の隙間から、血がだらだらと滴り落ちている。位置的に、吐血か鼻血なのだが、手を離した岡崎さんの鼻の穴から赤が流れているので後者とわかる。
何ゆえに突然と、内心割りと焦りながらも、近くにあったティッシュ箱を掴み塵紙を何枚か抜き取って、岡崎さんの鼻に当て、ぽんぽんと血を拭う。私からティッシュを受け取り、丸めて鼻の穴に突っ込もうとした岡崎さんの行動を静止し、鼻を摘まんだ状態でちょっと待っててください、とよろよろ立ち上がると、焦った声色で「気を付けろよ」と声をかけられる。いや、流石にこの距離で心配されると、あれだな。
私が妙な真似をしない様にと、包丁などの刃物が何もかもをきっちりと隠す対処が施された台所に近寄り、ミニタオルを手に取って冷水で濡らし、しっかり絞る。その間も、岡崎さんの目はこちらを見つめていて、まるで立ったばかりの子供の行動を、目を離すことなく見守るお父さんに見えた。言った通り、両鼻を摘まんだ状態の岡崎さんの真正面に座り、タオルを当てようとしたが、鼻血を止めようとして、岡崎さんが僅かに上を向いているのに気づき、先に下を向くように促す。
「上向いちゃ駄目です。ちょっとだけ下向いててください」
「下?」
「血が口の中に入ってきちゃいます。飲み込んじゃったら気持ち悪いでしょ」
「お、おー」
「摘まんだままですよ。じっとしててくださいね」
冷えたタオルをぴとりと岡崎さんの目と目の間のおでこに充てる。そうしていると、赤い目が物凄く近くにあることに、やっと気付く。もう少しで息がかかるのではないかという至近距離で、一心に見つめられ、体温が上昇していくのがわかる。血を止めてあげなきゃという思考でいっぱいになってしまっていたからか、意識し始めると心臓が忙しなく逸る。
ここまで近い必要はない。身体を離そうとしたが、岡崎さんの空いている左手が私の腰をがっしりと掴んで、自分から逃げられない様にした。胡座をかいている岡崎さんの両足の内側に身体を閉じ込められてしまい、逃げ場がなくなる。腰を抱く手の力強さが、このひとが男性なんだということを私に強く意識させた。
顔を熱くした私の表情をよく見ようとしたのか、少しだけ顔を傾けて、更に顔を近づけ、覗き込んできた岡崎さんに対抗する為、顔を伏せる。タオルを当てている為ぶつかるなんてことはないが、それでも意識せざるをえない。
暫く冷やしたらいいって、どれ位だっけ。もう何分経った? 結局、殆ど抱き締められているのと変わらない状況のまま、白組の男性歌手が2曲歌い終えるまで、この状態が続いた。
「もっ……もう、大丈夫ですから」
「……」
「は、はなして」
「……へーへー」
腰も身体もやっと解放され、少しひんやりとした空気に熱くなった身体が晒される。すっかり温くなったタオルを握りしめ、顔を上げて岡崎さんの様子をこっそりと伺う。そっぽを向いていたが、その左耳は真っ赤に染まっていた。それには気づかないふりをして、鼻血が止まっていることを確認し、ほっとする。
「止まりましたね、鼻血」
「ん」
「でも、どうして突然。室内暖かすぎました? もう少し下げても大丈夫ですよ」
「寒がりが無理すんな。別に熱くもねーし、チョコの食い過ぎでもねーよ。ちょっとあれだよ。興奮して、血圧がマッハに上昇しちまっただけ」
「こ、興奮?」
ぶすくれた顔をしながらも、頬と耳を染めた岡崎さんにじろりと半目で睨まれる。あんまりにも恨みがましいものを感じ、びくびくする私だが、どうしてそんな目で見られるのかわからなかった。
「な、なんですか。なんで睨むんですか」
「別に」
「別にって(またエ●カ様になってるし)」
「何でもねーって。とにかくお前、あんまり変な声出すな。あられも無さ過ぎですぅ。心臓に悪いですぅ」
「タ●ちゃんの物真似ですか。似てませんよ。変なって言われても、条件反射で」
「あーーはいはいそうですね! 俺が童貞過ぎました! お前は何にも悪くないです! ミッ●ーもビックリな俺のイマジネーション能力の豊かさが罪なんです! ファン●ズミックなんです! ひとりで勝手に苛々悶々してるだけですー!」
「な、何怒ってるんですか。岡崎さんがよく言ってた生理中の女の子みたいになってますよ」
「怒ってねーし。ずぇっんずぇん怒ってないし。2日目とかじゃないしぃ」
「……」
「い、いやほんとよ? お前には全然怒ってないから。ただちょっと……今更、色々悔しくなってきたっていうか……」
「……?」
「……あー、やめやめ。もう終わり終わり。っていうか、いやにこういう時の対処慣れてんな。よく鼻血出す系女子だったの? 小学生のガキで、クラスにはひとりふたり居るよな。割りと頻繁に鼻血吹いてる奴」
「その、小さい頃に、はしゃいで転んじゃったときとかに、たち……よくやってもらったのを覚えてたというか」
「たち?」
「だ、誰でもいいじゃないですか」
「……」
「……太刀川さんに」
身体の調子が比較的良いときは、外……といっても、薔薇の咲き誇るお庭でよく遊んでいた。館長さんか太刀川さんの目の届く場所で、許される程度に軽く走ってみたりなんかして。けれど、走ることを固く禁じられていた私にとっては慣れない動作で、時々足を絡ませたりなどして、よく転び、そして決まって打ち所が悪く、よく鼻血も出した。
そんな私の手当てをしてくれるのは、決まって館長さんだった。痛みでぴいぴい泣く私を、よしよし痛かったねぇと慰めながら、適切な処置を施してくれる館長さんの安心感といったら半端がなく、それにも泣いた。
しかし、ある日を境に、その役目をかって出るようになったのは、青い瞳をしたお兄さんだった。
「え、き、君が? 大丈夫? ほんとうに、君、出来るの? っていうか、ほんとうにどうしたんだ。何があったんだ。何だその変わり様。やっぱり喧嘩したときに、どこかネジ飛んだままなんじゃ」
救急箱を太刀川さんに奪い取られ、彼の周りを心配そうにうろちょろする館長さんを「鬱陶しい」と一蹴した太刀川さんを、よく覚えている。なんせ、目の前に居るお兄さんに一番ビビっていたのは紛れもない私だ。その救急箱に入ってるもので、今度は痛い意地悪をされるのかとひたすらに怯えていた。けれど、びくびくと恐怖し、目をぎゅっと瞑っていた私に与えられたのは、ぎこちない手つきで私の頭を撫でる太刀川さんの手だった。きょとんとして太刀川さんを見上げた私を、彼は無言で見つめていた。
館長さんのレクチャーを受けながら、私の鼻血を止めたり、膝小僧に出来た傷の手当てをしたりなど、辿々しくもありながら、怪我をした私への触れ方は非常に繊細だった。そして、いつしか、私が怪我をしたときは、館長さんに成り代わり、太刀川さんが処置をするのが当たり前になり、その腕前も慣れたものになっていった。ひどい転び方をしたときは、もっと周りと足元も見ろとこっぴどくお説教され、びーびー泣いて謝る私を抱き締め、転んだときの受け身の練習でもさせるべきかと呟いていたことを思い出す。結局は、自分が居るから大丈夫か、と彼が結論を出していたことも。
思い出巡りをし、無意識に空を見つめていると、岡崎さんがムスッと不機嫌な顔でこちらを見ているのにハッと気がつき、意識が戻る。明らかにどこか違う世界に飛んでいた私に、岡崎さんはいつもより少し低めの声で尋ねてきた。
「小さい頃って、お前ら結局知り合いだったの」
「あ……はい」
「ふーん」
「……」
「で、あの刺青野郎に鼻血止めてもらってたって?」
「は、はい」
「今みてぇに?」
「……はい」
「へーーーえ、ふーーーん」
私が肯定の返事をする度に、岡崎さんの機嫌がどんどん急降下していくのが、表情と低くなっていく声色でわかる。責められている様な気がして、萎縮してしまう。
なんだか微妙な空気が流れ始めて、そっぽを向いてしまった岡崎さんも、私も、何も話さず、そして動かなくなってしまう。歌合戦の出演陣全員が、歌って踊ってのどんちゃん騒ぎして盛り上がっているのが後ろから聞こえてくるだけに、こちらとの温度差が凄まじい。
こうしていても気まずいだけだし、と再び紅白か、本の続きを読もうと、岡崎さんに背中を向けようとしたところで、頬の横辺りで揺れていた髪を掴まれ阻止される。え、と戸惑っている私に、御機嫌ナナメな顔の岡崎さんは、そのまま手櫛で私の髪をとかしていく。
向かい合った状態のまま、私の髪を二束に分けて全部前に持っていき、右からひと束ずつ指を絡めていった。編み込みではない、至ってシンプルで簡単な三つ編みが出来上がっていく。ひと束完成し、左も同じようにして編んでいく岡崎さんの顔は至って真剣だ。ほんの少し伏せられた睫毛が長いなと考えながら、岡崎さんのやりたいように、好きにさせていた。
「今は、これくらいしかパッとは出来ねぇけど」
まぁ、追々な。と最後に私の前髪を整えて、岡崎さんは緩く笑みを浮かべていた。
「そろそろ年越し蕎麦食うかぁ」
立ち上がった岡崎さんは、パーカーのポケットに両手を突っ込み、お蕎麦を作るべくキッチンに向かった。冷蔵庫から、えびの天ぷら、めんつゆ等の材料を取りだし、調理を始める岡崎さんの後ろ姿を見つめる。パーカーのバックには、EDMという英字と共に並ぶ、可愛らしい顔をした、けれど荒ぶるポージングの女子高生のキャラクターがデザインされている。あのアニメキャラの服よく着てるな、好きなのかな。
三つ編みを手にとって眺めてみる。編み目は大小のまばらで、ぼこぼこしていた。
岡崎さんの作ってくれた、ほかほかと湯気のたつ年越しそばを目の前に、緩く手を合わせる。全部を食べ切ることはまだ難しいが、出来るだけお腹の中には納めよう。もう既に隣では、ずずずーと音を立てて、岡崎さんがお蕎麦を啜っていた。豪快だな。
私もお箸に手を伸ばし、ふぅふぅと軽く冷まして、ちゅるちゅると一本だけ口にする。もぎゅ、と麺を噛む。素朴だけれど、お出汁の味がきいていて美味しかった。おじいちゃんみたいに、海老天もゆっくりゆっくり咀嚼しながら、合戦の結果発表を眺める。年末になると、いつも慌ただしくなる傾向が強く、色んなことがたくさんあったことを考えると、緩く穏やかで平和過ぎた。昔は当たり前だった筈のそれが、今の私にはとても違和感がある。
合戦も終了し、0時を過ぎると、日本のお寺が画面に映し出され、除夜の鐘が鳴る。歯磨きも何もかも済ませた私に、まだなんか見たいもんある? と岡崎さんが手にしていたリモコンを軽く振る。
「特には」
「じゃあ、もう寝るか。カウントダウンの番組夜通ししてるっぽいけど、俺もぶっちゃけ洋楽しか興味ねぇしな~」
「あの、それなんですけど」
「ん? えっ、見たいの? だったら付き合うけど」
「あ、いや、そっちじゃなくて……岡崎さんがベッドで寝てください」
「まーたそれか。ここんとこ毎晩だな。まぁいいや。で? イヤイヤ期到来の志紀ちゃんは何処で寝るつもりだよ」
「そこのソファで」
「寝れるか、んなとこで。風邪引くわ。もう結構な日にち同衾してきただろ。今まで通り、一緒でいいだろ。別に狭いわけじゃあるめーし」
「同衾って言い方やめてください。だ、だって」
「だって?」
「その、香澄ちゃんも言ってたし」
「へぇ、香澄? 何て言ってた?」
「わ、私は女で、岡崎さんは男性で……」
「で?」
「~~おっ、覚えてるくせに!」
「お。久しぶりにでかい声聞けたな」
ニヤニヤと意地悪な顔で笑っている岡崎さん相手に敵う気がしない。なんせ相手は、私みたいなちんちくりんよりも比べ物にならない大物相手に、その口を回してきたのだ。いや、それにしたって、これセクハラで訴えたら勝てる気がするぞ。それ以上を口に出すのは嫌で、唇を噛み、パジャマのズボンをぎゅっと握る。皺が出来たそれを俯いて眺めていると、目の前まで来ていた視線を合わせるために、少し屈んだ岡崎さんに、ぽんぽんと頭を撫でられる。
「なんもしねえって。実際、今までなんもしてねーだろ。俺。ちゃんとマテ出来てるだろ?」
「……」
「それに、今は落ち着いてても、まだたまに夜中に発作とか、変な夢とか見ちまうだろ。そん時側に居ねーと、すぐ起こしてやれねーだろ。パニックになってる状態で、ひとりで吸入出来ねーだろ、絶対」
「それは、でも、わかってるんですけど」
「けど?」
「……やっぱり良くない。それに、お、怒られちゃう。絶対今も怒ってる。だめ、こんなの、何にもなくてもダメです」
こうして一緒に居るだけでも、どう思われてるか。何度も何度も繰り返されたこのやり取り。だめ、を繰り返す私が、誰に怒られると嘆き怯えているのか、岡崎さんは追求しない。
「じゃあ、そうだな……。そうだ、抱き枕。あれだよ。俺のことは抱き枕と思え。無機物無機物」
「こんなゴツゴツしくて固い抱き枕じゃ眠れない……柔らかいほうがいい……夢に筋肉出てくる……」
「え? ディス? 俺ディスられてる?」
そして、あれよあれよと言っている内に、ベッドに転がされる流れに持ち込まれる。実力行使に及ばれると、もう敵わない。勝てるわけがない。
腕枕ならぬ筋肉枕まで有無を言わさず提供され、やむなく少しごつごつしい腕に頭を預ける。最初は頭の体重をかけないように必死だったが、人間繰り返されると慣れるもので、もう諦めが勝り、むしろとことん重みをかけて痺れさせて嫌にさせようとまで考え、実行に移している。が、岡崎さんが、そんな柔な筈もない。全て無駄な抵抗で終わっている。
岡崎さんに、肩口辺りまでお布団を掛けられながら、寝る間際の習慣となった宝石箱の仕掛けを解く。下手をすれば、一日中ぼんやりと聴いていることもある音色に耳を澄ませると、太刀川さんのことを思い出す。思い出して、岡崎さんと寝具を共にしている状況に後ろ暗くなる。太刀川さんが居ないのに、自分は何を呑気にしているんだろう、とも。
「あのときさ、なんで簪刺さなかったんだ」
私が眠るまで見守り続けてくれている岡崎さんと目を合わさないように、いつも通り、手の中の宝石箱を注視する私に、岡崎さんが問いかける。反射的に声のする方を向いてしまったが最後、もう目を反らすことなど出来ない様に、頬に手を添えられる。赤い目がランプの暖色に照らされて、その色を濃くしていた。
「俺、抵抗しなかっただろ」
あのとき、簪、刺す。物騒な単語が含まれたそれらのキーワードから導かれる記憶は、決して良いものではない。悪いとか、そんなレベルでもない。
指先から冷えていく感覚が広がり、強張る私の様子に気づいた岡崎さんが慌て、焦った表情で話を打ち切ろうとしたが、私の口は意外にもすんなりと動いていた。
「あー、待った。今のナシ。思い出したくないよな。悪い。いい、気にしなくて」
「太刀川さんは」
「……」
「太刀川さんは、太刀川さん以外のひとの命を私が奪ったりすることを嫌がるって、思い出して」
「……なにそれ。お前に殺されたいとか言ってたの? あいつ、実はマゾなの?」
「否定は出来ないです。実際、首締めたときも、喜んでたし」
「締めたって……お前が?」
「はい。未遂で終わりましたけど」
「……」
「私の全部あげる代わりに、太刀川さんも全部くれるって、言ってたのに」
これからも一緒に生きてくれるって思ってたのに。最期は連れてってくれるって言ってたのに。自分で自分の命を断ち切って、彼の後を追えばいいのかとも勿論考えた。けれど、違う。死んでしまったら、全部終わってしまう。こうして、太刀川さんの存在を強く刻まれた身体を、頭を、喪うことになってしまう。
それに、私のことを追っかけてくる自称ストーカーさんも居る。私が死ねば俺も、なんて恐ろしいことを言っていたが、強ち冗談に聞こえない。勿論ついてきてほしくない。私は岡崎さんに幸せに生きていてほしいという、兼ねてからの願いがある。それらが私を、この世に留まらせる。本人には言えなかったけれど、私が岡崎さんの首に簪を埋め込むことが出来なかった、もうひとつの理由だった。
太刀川さんは自分の命を差し出してでも、私に自分の存在を強く刻み込むことを望んでいた。何があっても、私の全部は太刀川さんのものなんだと自覚することを。生きても死んでも、私が太刀川さんを忘れないでいることを。
ひとりで命を断っても、太刀川さんと一緒じゃないと意味がない。その瞬間に手を繋いでてくれないと、一緒に居られない。今、私が一人で彼を追っかけたとしても追い付けない。迷子になって、さ迷って、終わってしまう。
息を引き取ったおじいちゃんの手を握り、静かに見送った祖母は、どうしてあれだけ、その後も気丈に力強く、祖父の居ない一日一日を過ごせていけたんだろう。最も親愛する人が隣からぽっかりと消えてしまったとき、どうしていたんだろう。
「太刀川さんは、自分以外の人のことで私がいっぱいいっぱいになるの、すごく嫌がるんです。……太刀川さんにも聞いたんですけど、岡崎さんも初めて、その……ひとを殺したときのこと、覚えてますか」
「そりゃあ……まぁ」
覚えてるよ、とどこか遠くを見る薄暗い目をした岡崎さんの反応に、心が痛む。聞いてはいけないことを聞いてしまったなと、申し訳ない気持ちになった。
「それを、私に植え付けたかったんだと思います。絶対忘れないじゃないですか。その相手のこと」
「がむしゃらというか、自分の命賭けて、そこまでするか。お前のために全部擲ってんな、刺青野郎」
「……」
「まぁでも、今ならわからねぇでもねぇわ」
「え」
「何でもねーよ。ほら、もう目ぇ閉じて寝ろ。ちゃんとネンネしたの確認したら、宝石箱もちゃんとしたとこに置いといてやっから」
「……」
「なに、子守唄もいる? 贅沢なやつだな~。まぁいいや任せろ。ここは俺様の美声で一眠り……」
「おやすみなさい」
「スルーはやめて。ねぇ、ちょ、ちょっとは聞いてくんない。俺、結構歌上手いほうよ? 結構イイ声してる方よ? ジャイ●ンリサイタルにはならないから。おい、え、ね、寝た?」
新年を迎えても、劇的に何かが変わるわけではなかった。相変わらず岡崎さんに何もかもを任せきりの、至れり尽くせりの生活に自己嫌悪し、宝石箱を手に、仕掛けを解いて、その音色を聴く。
時折私自身の充電が切れ、魂の抜けた人形の様な時間を淡々と送ることもある。その間は一切何も話せなくなって、硬直状態。けれど、岡崎さんはそんな私に対しても、ひとりで延々とお喋りし、私の返事が返ってくるまで語らいかけてくる。そんな岡崎さんを視界に収める度に、何か言ってあげなくちゃと声を出すことも多くなってきた。岡崎さんとお話をすることに対しての躊躇が、僅かながらに薄れてきた気がする。それを自覚して、また、太刀川さんごめんなさいごめんなさいごめんさい違うんですごめんなさいごめんなさい、と謝罪を繰り返す無限ループだった。
一緒に暮らしていたら、やはりわかってくることもある。岡崎さんって、ちゃんと寝てるのだろうか。
夜は、私が眠りにつくのを確認し、ときたま悪夢を見て魘される私の身体を揺すり起こし、喘息の発作を起こしたらば、すぐに背中を擦り、吸入器を口許に持ってきてくれる。それら一連の動作は全て素早い。私が眠っている間も、寝ずに私の様子を常に観察しているとしか思えなかった。
目が覚めたら、岡崎さんは既に起床していて、私を起こしにきて、居間に行くと、既に朝食をほぼほぼ完成されている。その上、家事もなにもかも全部ささっとこなしてしまうから、流石に出来た妻にしか見えなくなってきた。これ、岡崎さんをお嫁さんにもらいたいってひとが出てきても、おかしくない気がする。本人に言ったら物凄く怒られそうだ。
岡崎さんは、夜ちゃんと寝ていないんじゃないかという疑問を、更に助長させる要素がもうひとつある。
少し前、私が夢も見ない位、珍しく早くに安眠出来た夜があった。けれど、夜中にトイレに行きたくなって、もぞもぞと身体を起こすと、隣に居る筈の岡崎さんが居ない。枕も筋肉ではなく、ふかふかの枕になっていた。
あれ、と思い、辺りを見渡すも、ひとの気配がない。トイレを済ませ、きょろきょろと暗い部屋を見渡すが、岡崎さんの姿はどこにもなかった。じわじわと焦燥感に駈られた私は、上掛けもせずに、幽霊のごとく広い邸宅をさ迷い、よたよたと足を引きずりながら歩いた。
寝室はともかく、邸全体に暖房がついている訳ではなく、物凄く冷え込んでいる。ぺたぺたと裸足で歩くと、突き刺す様な冷たさが皮膚を刺激したけれど、気にしてはいられなかった。ただただ必死に、おかざきさん、と涙混じりの声で、彼のことを呼びながら、夜が明けるまで探し続けた。
結局見つからなくて、玄関口の扉を開け放ち、寒さに震えながら白い息を吐いて、途方もなく、外の階段の段差に座り込んでいた。どこにいっちゃったの、とひたすらにそれだけを考えながら。
やがて、朝日が私の身体を照らし始めた頃に、バイクの音が近場から聞こえてきて、それがどんどんと近付いてくる。
しき? と名前を呼ばれた気がした。ゆるゆると顔を上げると、大きなバイクを乱暴に捨て、ゴーグルとグローブを外して、そこら辺にほっぽり投げながら、走って駆け寄ってくる灰色の髪の男性が居た。
すぐに両肩を抱かれ、冷えきった私の身体に、岡崎さんが顔をしかめる。抱き上げられたとき、すこし汗の匂いと、服が砂埃で汚れていたのがわかった。そして、再びお風呂場にぶちこまれたのは言うまでもない。
「まさか、起きてるとは思わなかった。ごめん」
髪をドライヤーで乾かされながら、素直に謝られたものの、外で待っていたことに関しては「馬鹿」と軽く小突かれた。
あとは、岡崎さんは、お昼間にうたた寝をすることが多い。一通りの家事を終わらせたあと、私の傍で適当に時間を潰す岡崎さんだが、映画を見るにも音楽を聞くにも、途中で寝落ちしているパターンが多い。小さな寝息が聞こえてきて隣を見ると、座った状態でかくんかくんと首を揺らしている岡崎さんを何度も見た。私が集中して本を読んでいるときなんて、特にそうだ。肩に突然重みがかかって顔を横に向けると、灰色の髪がすぐそこにあって、私の肩がじんわりと湿り気を帯びていくのを感じていた。よだれよだれ。
私が眠ったあと、夜中に岡崎さんは何処かに出掛けている。毎晩何処に行ってるんですか、と尋ねてみても、たいしたことじゃない、野暮用、とはぐらかされてしまう。それ以上何を言っても、気にするなの一点張り。結局根負けして、無理はしないでくださいね、としか言ってあげられなかった。
このまんまじゃ、だめだ。太刀川さんは関係なく、一人の人間として。あまりにも堕落しすぎている。いい加減にしろと、本来の私の気にしいな性質が、ゆっくりと顔を覗かせた。
「え」
「お……おかえり、なさい」
「え、あ、うん、た……ただいま?」
居間に入った途端、まだ寝ていると思っていたのだろう、私から、まさかの出迎えを受け、え? と戸惑った表情を浮かべている岡崎さんの鼻の頭は赤い。その手には、室内で乾かそうと持ってきたのだろう、まだちょっと雪がついた真っ赤な傘があって、頻繁に使ってくれているんだなとむず痒い気持ちになった。
カァカァと外では烏が鳴いているが、まだまだ世間のひとは眠っている時間帯の早朝。鳴き声が煩いと、目を覚ましてしまうひとが居るかもしれない。
突っ立ったままでいる岡崎さんの手は、肌色を晒した素手だった。そっと両手で、岡崎さんの右手だけを掬い取る。抵抗はされなかった。手や足が何かに覆われているのは好かないと言っていたから、邸に到着して、既にグローブを外したのだろう。それでも、夜中に少し雪が降っていた外は、手袋を着けていても寒さを完全には凌ぎ切れなかったらしく、子供体温が如く、いつもはぽかぽかしている岡崎さんの手は、ひんやりとして冷たい。
「す、座って待っててください。あ、えっと、お風呂入って暖まりたかったら、先に入ってもらってても大丈夫です。湯船も張っておいたんで……」
「え、あ、うん」
コートを脱ぎながら、未だに戸惑いを隠せないでいる岡崎さんが椅子を引き、両手を擦りながらテーブルの椅子に腰掛けたので、とりあえず、予め作っておいたお鍋に火をつけた。ふつふつと白いそれが沸騰したのを確認して、マグに溢さないように注ぐ。
本当は、ちゃんとした朝食を作ってあげたかったが、如何せん包丁の場所などがわからなくて叶わなかった。流石に、パンだけを焼いてハイ終わりは悲しかったので、とにかく一息つけるものをと思いついたものが、これしかなかった。簡単に、にも程がある。
ほかほかと湯気のたつ飲み物を岡崎さんに差し出す。私から出されたそれを、岡崎さんは赤い目を真ん丸にして、無言で見下ろしていた。なかなか岡崎さんの手が動かない。キッチンのシンクに少しだけ体重を預け、なんだか気恥ずかしくて、もじもじとしてしまう。
「は、はちみつミルクです」
「……」
「あったまるかなと思って、それで……ごめんなさい。他に、もっと何か作れたら良かったんですけど……」
こんなにも手軽で簡単なはちみつミルクを作る為に、少しの時間キッチンに立っているだけでもヘトヘトになってしまって情けなくなった。体力の衰えなんてもんじゃない。まさか、ここまで弱体化していたなんて。かなりショックを受けた。あんまりにもの不甲斐なさに俯き、落ち込んでいた私の耳に、ことり、と食器が動く音が聞こえてきて、顔を上げる。
フーと湯気を払った岡崎さんが、マグに口をつけ、中に入っているミルクを口に含んだ。ごく、と男のひとらしい喉仏が動いたのがわかる。
「……あっま」
ほんの少し眉を寄せた岡崎さんの反応に、あっとなる。そうだ、岡崎さん、甘いの苦手。私、いつも通りに作っちゃ……太刀川さんが得意だったから、それでつい、しまった。
大慌てでキッチンに身体を向けて、ボ●トも吃驚なスピードで、近くにあったインスタント珈琲に手を伸ばした。
「ご、ごごごごごめんなさい! す、すぐに珈琲淹れっ、ミルクはなしで、ぶ、ブラックでいいですよ……」
ね、と確認のために振り返って、息が止まる。岡崎さんがすぐ目の前に居て、いつの間にと驚き、見上げようとした瞬間に腕を引かれ、全身が暖かいものに力強く包まれていた。
え、え。なんで。なんで。
腰と後頭部をきつく抱かれて、身動ぎ出来ない。あまりにも強く圧迫されて、顔が潰れているのがわかる。今の私の顔は見るに耐えない、女性としてとんでもない形状になっているに違いない。
鍛え抜かれた厚い胸元と強固な腕に突然拘束され、お饅頭の状態で絶句し固まる。両手の行き場がわからず、どうしたらいいのかと宙をぎこちなくさ迷ってしまう。声も出せず、うまく息が出来なくて、苦しくて、離れようと力を入れると、更に岡崎さんの腕に力が込められた。
まって、恥ずかしい云々よりも先に、ぐるじい。ち、力強すぎる。なんとか顔をもぞもぞと上にあげて、ひとまず息を吸う。
「あの、おかざき……」
名前を呼ぶと更に締められた。いやだから、ぐるじい。
抱き締める力強さとは裏腹に、岡崎さんは私の後頭部を信じられないほど優しく撫でて、そして小さく呟いた。
「癒されるって、こんな感じなのな」
返事はできなかった。
甘える様に、すり、と頬擦りをしてきた岡崎さんを拒否することが出来るひとなんて、この世界に居るんだろうか。居るなら会ってみたい。
ふらふらとしていた両手を、迷いに迷った末に、岡崎さんの体に腕を回す、なんてことまでは出来なかったが、服をきゅ、と緩く掴むと、今度は苦しくない力加減で抱き締め直され、「しき」と囁かれた。
マグのなかは空っぽだった。
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