運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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君が為に何度でも傘をさす

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 ほぼほぼ介護か、まだよちよち歩きしか出来ない子供を世話する親の様だと、岡崎さんの私への接し方を見る度に強く思う。

 朝起こされて顔を洗えと洗面所まで運ばれて、居間に戻ると、消化の良さそうな朝御飯が用意されている。せっかく作ってくれたんだからと、温かく甘いミルクの中にトロトロにふやけて溶けたパン粥を、スプーンに掬って口の前まで運ぶ。

 けれど、自分の意思では一口二口しか進まない。食べた内には入らないそれを、岡崎さんが良しとする筈もない。彼は怒ることも、責めることも、早くしろと急かすことも無く、たとえ一時間以上かかっても、私の食事を辛抱強く見守っていた。私がスプーンを置くと、隣に移動してきた岡崎さんが代わりにスプーンを取り、所謂あーんをぶちかましてこようとするので、岡崎さんの許容範囲の量を摂取出来るまでは匙を離すことが出来ない。長い時間を掛けて、なんとか半分ちょっとを胃に納めると、嫌いなものを我慢して食べた子供を誉める親みたいに「頑張ったな」と毎回毎回頭を撫でられる。子供扱いしないで、と心中呟くけれど、本当に子供みたいな状態の自分だからこそ、真っ向から否定も出来ない。

 予め用意されていた洋服に、のろのろと寝室でひとりで着替える。初めて着たチャイナドレスの様に、スリットなどの露出は殆ど無い詰襟の長衫が、いつも食事を終えると枕元に置いてあった。

 ワンピース仕様なので、ゴリゴリのチャイナドレスとは違い、着用に難を極めることはない。詰襟の衣服の下には、きちんと畳まれた下着が隠されている。岡崎さんの趣味入ってるでしょコレ、と言いたくなる、ちょっとだけ色っぽい派手な色合いの下着がいつも用意されている。そもそも、なんで私の下着のサイズきっちり把握してるんだとか色々と疑問もあるが、もう全く気にしなくなった。以前の私なら、発狂案件だったのに。あれだけあった羞恥心は、どこへ旅立ってしまったのだろう。

 着替えが終わると、櫛を手にソファに座る岡崎さんにと手招きされる。腕を引かれ、岡崎さんの腕のなかに収まると、寝癖でぐしゃぐしゃになった髪を、後ろに居る岡崎さんにとかされる。お互いの呼吸がわかる位に近くて、いつも無意識に息を止めてしまう。異性が近いという照れなどではなく、恐怖から。

 私の中に多少なりともあった恥じらいのある乙女は、死んだんだと思った。大人になるって、こんな感じなのかな。大人なのに、食事も、服の準備も、自分一人では何にも出来ないのか。

 お昼間は主夫が如く、午前中の内に掃除やら洗濯やら、一通りの家事をてきぱきと手際よくこなす岡崎さんの後ろ姿を、ぼんやりと見つめる。手伝うって言え。なに、岡崎さんに全部任せてるの。最低。ありえない。なんて、私のなかにいる何かが自分の身体を動かそうと必死になっているけど、鉛でもつけられてるみたいに、重い腰が上がることはなかった。

 そんな自分を嫌悪し、居堪まれなさから、家事をさっさとこなす岡崎さんの背中を、私がちらちらと見ていたことに彼が気づく。私が何を考えているのか察している様で、何度も何度も「気にしないで、だらだらしてろ」とせっかく整えてくれた髪をくしゃくしゃに撫でられる。


「お前に必要なのは休憩だ」

「……」

「ちょっと頑張りすぎたんだよ」


 優しく甘い言葉を投げ掛けられても、色んなところから現れる罪悪感が私の思考を支配する。膝の上にきっちりと揃えて置いていた両手で拳を作るが、それをやんわりとほどき、揉みほぐすのも岡崎さんだった。ソファに座る私の前に屈んだ岡崎さんは、あちこちに視線をさ迷わせる私の不審な様子に苦笑する。ゆっくりと伸びてきた右手が私の頬を撫でたかと思うと、すぐに移動し、ぎゅむりと眉間を親指で揉まれた。


「うっ」

「愛の●プロンみたいになってんぞ。イ●リンの手料理食った後の反応だった」

「……」

「気張るのは、トイレでカッチカチになったブツ捻り出す時だけにしとけ」


 異性に向かって、デリカシーの欠片も無いことを吐く岡崎さんは、好きな番組があるなら好きに見ていいし、見たい映画があるなら借りてくるし、聞きたい音楽や読みたい本があるなら調達してくるからと、これでもかという程、私を甘やかす言葉も合わせ技で飛ばしてくる。

 なにこれ、このひと、ほんとに岡崎さん? 実は偽物だったりする?

 かつて天龍組に与えられていた一人暮らしの家に遊びに来ていたときの岡崎さんとは、リモコンの取り合いなどの権利戦争はザラだった。何事においても、俺の見たいもの・したいことを優先し、譲り合い精神はどちらかというと薄いひとの筈なのに。イワンさんの言っていた通りだ。岡崎さんらしくない。かといって、取り繕ってる様には見えない。見えないけれど。


「……き」

「き?」

「きもちわるい」

「なんつったコラ」


 お前、気持ち悪いってなんだ、と口をひくつかせ、青筋を額に浮かべた岡崎さんに、両頬をみょーんと引っ張られる。しかし、あんまりにも緩い力加減で全く痛くない。もちもち感が減ったと岡崎さんは不満そうな顔をしながらも、私の頬から中々手を離してくれなかった。タコみたいに唇を突き出した顔にされたりと、為すがままの私は、岡崎さんの手って、ほんと何でこんなにぽかぽかしてるんだろう、子供体温? 冷え性の太刀川さんとは大違いだと、彼との体温差を考えてしまい、心がざわつく。太刀川さんが許す筈ないのに、彼以外の男性に触れられる行為を、私自身が享受してしまっている。


「やだ」


 掠れた拒否の言葉と共に、私の目の下のクマをなぞっていた岡崎さんの手をやんわりと除けさせる。気まずい空気が流れて、岡崎さんと目を合わせないように、斜め横下にある絨毯を一心に見つめる。焦燥感でバクバクと逸る心臓を落ち着かせようと必死だった。

 岡崎さんは、振りほどかれた手で私にもう一度手を伸ばそうとしたが、それに脅えるように身体を震わせた私を見て、寸前で手を止め、行き場の無くなった掌を握ったり開いたりとしている。それを見て、首を掻き毟りたくなった。怒ってくれたらいいのに、その方がどんなに楽か。けれど、岡崎さんは無礼千万の私を責めることも叱ることもしなかった。

 栄養バランスを考えた、岡崎さんお手製の昼食も、朝御飯のときと同じやりとりをしながら、なんとかお腹に納める(もう私の中では一種のスポーツだった)と、岡崎さんは私の座るソファに腰掛ける。

 私が興味無さげにテレビを見ていると、岡崎さんが自身の好きな映画をセットし、一緒に見る。エンドロールになると、岡崎さんが一人でベラベラベラベラと感想を語りだす。私は相槌を打つこともなく、黙ってそれを聞いているだけ。本当に岡崎さんは、どれだけの引き出しを持っているのか、あれよこれよと色んな話題にころころと展開させていく。悔しいけれど、興味を誘う内容が多い。聞いてる側を飽きさせない、ラジオのパーソナリティーみたいだ。

 そういえば、岡崎さんが読んでいた週間●春に、デートに行く場所に遊園地を選ぶと、男性側にとっては試練になるとか見出しがあったのを思い出した。アトラクションに並んでる最中に、パートナーをいかに退屈させない対応や気遣いが出来るか、とか。

 岡崎さんは難なく、というか意識せずとも、それが出来るひとなんだろう。どうりでモテる訳だ。デリカシーは無いけれど、どこぞの少年漫画みたいに、色んなタイプの女性から好意を持たれるのもわかる。というか、一緒の空間に居るだけで心地いいと思わせるそれは、岡崎さんの才能のひとつなんだろう。本人に自覚があるのかどうかは知らないけれど。

 岡崎さんがソファに寝転がり、だらだらし始めたので、普通にちょっと狭い。頭をこちら側に向けて、身長が高い為に、岡崎さんの長い足がソファからはみ出している。窮屈だろうからと立ち上がり退こうとすると、強い力で腕をひん掴まれて元の位置へ戻される。


「此処に居ろ」


 赤い目で真っ直ぐにそう見上げられると、私はへなへなと足の力が抜けてしまう。それを見ると、岡崎さんは満足そうに緩い笑みを浮かべ、グラビア雑誌のナイスバデーなお姉さんたちを再び眺め始める。けど、私だって譲れないものがある。というか我慢できない。


「トイレ行きたいんです」


 正直に白状すると、真剣に水着のお姉さん達を見ていた岡崎さんの顔がみるみるうちに真っ赤になって、雑誌を思い切り握り、捻り潰した。綺麗なお姉さんの写真はひしゃげてしまい、ナイスなバデーは見る影も無くなってしまう。そうだよね、ごめんね。カッコいい顔してたけど、相手はただ催してただけって、ちょっとあれだよね。恥ずかしいよね。

 夜になると、岡崎さんが準備してれていた温かいお風呂に入って、パジャマに着替えて、髪をドライヤーで丁寧にきちんと乾かしてもらって、晩御飯を食べて、眠るまでの時間を付かず離れずといった距離感で、各々好きに過ごす。以前の私達みたいに。

 ただ違うのは、私が一人になることが無いということだった。岡崎さんがそろそろと刀を取り、腰をあげて玄関へ向かうなどといったことはない。私が玄関まで見送りに行くことも。自分の居心地のいい巣穴に帰る狼の様に岡崎さんがシラユキさんの元に帰ったあと、賑やかな雰囲気から一転、しんと静かになった空間でひとり佇むこともなくなった。

 いい時間になって、そろそろ寝ろとベッドまで抱き上げられる。真っ白なシルクの天蓋がついた、一人で寝るには大きすぎるベッド。古風で上質な木製のフレームには、中華風の装飾が施されている。

 そっと寝かせられ、掛け布団をきちんと顔の口許を覆い隠す位のところまでかけられると、岡崎さんもベッドに腰掛け、ポンポンと子供をあやす手つきで、布団の上から私の背中らへんを優しく叩く。ベッドサイドに置かれた陶器のランプの暖色の灯が、岡崎さんを淡く照らしている。

 私は、日がなとしているだけだけで何にもしてないので、易々眠るなど出来る筈もない。それでも、辛抱強く岡崎さんは中々眠らない私に付き合い、横になる私の身体を、お布団の上からぽんぽんし、自分は腰掛けたままランプの微かな光を頼って、お昼間に私が軽く眺めていた本を読んでいる。目を悪くしますよ、そう言ってあげたいのに、上手く声に出来ない。

 リラックス効果が有ると、岡崎さんが調達し焚かれたお香の匂いに、静かで穏やかな空間と、ゆったりとしたリズムで触れられる感覚に、暖かさ。落ち着いた色合いの部屋に、徐々に意識が薄れていく。

 けれど、それも短時間のことで、睡眠といっても浅いものしか取れず、すぐに身の毛も弥立つ程恐ろしい光景の夢が繰り返される。安眠など出来る筈もない。水中にいるみたいに息をするのも難しくて、溺れてもがき苦しむ私を掬い上げるのは、必ず岡崎さんだった。

 大きな声を出すんじゃなくて、何度も何度も直接耳元で私の名前を囁き、私を悪夢から目覚めさせる。涙で滲んだ視界に飛び込んでくるのは、心配そうに私を見つめる兎みたいに真っ赤な双眼。

 涙でぐしゃぐしゃになった目元を指ですっと拭われ、おでこを合わせて、大丈夫だからと低い声で慰められ続けると、やっと呼吸が落ち着く。私の手を包み込んだ岡崎さんの右手が、半分くらい枕に埋めた私の顔の前に置かれる。岡崎さんの空いた左手は、私の耳と頬辺りにかかった髪を払い、親指で頬を撫でた。緊張から解き放たれ、疲労した体が安息を求めて、私を再び夢の中へ引き戻す。それらを一晩で、良いときは一回、多いときは四、五回繰り返す。それでも献身的に、岡崎さんは私を自分の元へ引き戻し、私が無事に眠りの世界に行くことが出来るまでは絶対に離れることなく、そして一人にはしなかった。

 毎日毎日、岡崎さんにとっては面倒でしかない手のかかるルーチンワークが繰り返される。けれど、今日は違った。朝から岡崎さんの端末が絶え間なく鳴り響き、夕時になっても、それは続いた。着信に応答した岡崎さんが、電話の相手と押し問答を見るのも、これで何度目になるだろう。とはいっても、会話は全て他国語……おそらく中国語で為されているので、私には何を言っているのか全くわからない。

 相手からの誘いかなにかを何度も何度も断り続けていた岡崎さんが、遂に押しに負けたのか、チッと舌打ちし、頭をガシガシとかいて、観念した返事をして端末を切った。そして非常に申し訳なさそうな……恐らく、今の岡崎さんに耳と尻尾があれば、だらんと垂れているだろう表情で、大きな出窓のあるウィンドウベンチでクッションを抱え、まだ手入れの施されていない広いお庭を眺めていた私に近寄り、自分も腰掛けて、私と視線を合わせてくる。


「志紀。悪ィ。今から野暮用でちょっと出てくるわ。すぐ戻ってくるから。二時間、いや一時間だけ、留守番出来るか?」

「……」

「すぐ片付けて戻ってくっから。なんか欲しいもんある? 食いもんでもなんでも」


 ふるふると首を振り、再び窓の向こうへと視線を向ける。そんな私に、ちょっとだけ声を低くした岡崎さんが忠告する。


「妙なことは考えんなよ」

「妙なことって、なんですか」

「言わなくても、わかってんだろ」


 窓を向いていた顔が伸びてきた手に顎下を捉えられ、「こっち見ろ」と岡崎さんの方を向けさせられる。のほほんとした顔をしていたが、赤い瞳の奥は真剣そのものだった。真正面から目を合わすことは出来ず、やっぱり挙動不審に視線をさ迷わせてしまう。


「し、しません。しませんから。大人しくしてます、から」

「そ、そんな脅えなくても。え、なに? 前から見てて思うんだけど、俺、そんな怖い? 前に比べりゃ、わりかし優しめに接してるつもり……あ」

「……」

「あー……怖いよな。……そりゃそうだわ」

「……え?」

「いや……だよな。まともに接しろって言われても困るわな」

「あ、あの……?」


 なんのことを言っているのかわからない。突然両手で顔を覆った岡崎さんから発せられたのは、本当に彼らしくない萎み切った声だった。いきなり落ち込み始めた岡崎さんが、何をひとりで納得しているのかがわからず、戸惑いながら見守っていると、岡崎さんは自分の灰色の髪をぐしゃぐしゃにする。それを見て、思わず手を伸ばして行動を止めさせた。ちょんと、指先が岡崎さんの手の甲に触れただけ。なのに、彼はぴたりと動きを止め、指の間からまんまるい目で私を覗き見ている。伸ばした手をゆっくりと下ろし、斜め下を見ながら、なんとか声を絞り出す。


「それ……」

「……それ? どれ?」

「頭、わしゃわしゃするの……」

「……」

「頭皮傷付くし、良くない。ハゲますよ」

「ウッソだろ。まさか、この流れでハゲの心配されるとは思わなかったわ。久々に何話してくれんのかと思ったら、まさかの過ぎるだろ。どういうことだよ。雰囲気ブレイカーは変わらねぇな、ほんっと」

「……すみません」

「……まぁ、これは癖みてぇなもんだし」

「な、直した方がいい」

「あん? ダイジョーブダイジョーブ。禿げたらアレ、お前の長い髪提供してもらうから。それで俺専用のカツラ作ってもらうから」

「……」

「いや、冗談じゃん。本気でドン引きすんなよ。後ずさりすんなよ。距離取んなよ。やめて、ちょっ、カムバックカムバック。黙りこむなって。俺が悪かったから。今の俺にはクるから、それ。こう見えても、俺、今ちょっとナイーブモード入ってるから。し、志紀さん? あの、ねぇ? 聞こえてる?」


 通常よりも大きめの車体のバイクが、エンジン音をふかせ、邸宅を出ていく。真っ黒なバイクに跨がった岡崎さんの後ろ姿を、室内のウィンドウベンチから見送った。姿が見えなくなり、やがて遠くなっていったエンジン音に、安心と不安の入り交じった複雑な情に呑み込まれそうになる。

 窓に身体を預け、庭園を見つめた。天気は良くない。雨が降りそうな曇り空だ。岡崎さん、折り畳み傘か何か持っていったのかな。首周りに持ってきていた手が肌をかく。きちんと整えられた爪のため、引っ掻いて傷になることはない。

 物騒な争いも諍いも、一切として耳に入ってこない。時間の経過が遅すぎるくらいに、ゆったりとした、淡々とした日々。あんまりにも穏やかで、平和すぎて、今まで私の身に起こったことが嘘だったんじゃないかと思える程に。

 ……嘘? 嘘だって。嘘なんかじゃない。何を馬鹿げたことを言っている。ふざけるなふざけるなふざけるな。太刀川さんと出会い、それから二人過ごしたあの時間を、紛い物だって? ふざけるな。嘘にするな。ふざけるな。許さない。そんなの、許さない。太刀川さんも、私も。

 首に強く食い込んだ五本の指が皮膚を刺激する。焦りと動揺が、私の全身を震わせた。それは徐々に大きく膨れ上がって、私ひとりで抱え込むには対処しきれないレベルに育っていく。

 岡崎さんの考えていることがわからない。なぜ、何がしたいんだ彼は。大きなリスクを払って、何故私を隣に置く。

 岡崎さんと暮らすことで、歪みはあるものの、人間らしい生活リズムを刻んでいく。岡崎さんが、いつか別の女性と、こんな風に穏やかで普通のありきたりな日常を、彼が心から想いを寄せる女性と過ごす様になればいいと、ずっと願い続けていた。そして、これまでの分を取り戻す勢いで幸せになって欲しいと。

 そりゃあ、その相手が本当は私だったらいいのになんて、私なんかには贅沢過ぎる秘かな願いを奥底に抱え、焦がれていたのは事実だ。けれど、願ったところで決して叶いはしない。私にそんな権利は与えられないから、と諦めていたものが、何故か今ここにある。私が望んだ、あんなにも叶うわけないと思っていた岡崎さんとの日常が、何故か私の手の中にある。

 けれど、その代償は大きすぎた。

 わからない、岡崎さんがわからない。こんな疫病神の様な女をこうして抱え込んで、何がしたいんだ、本当に。もういやだ、だめだ。考えたくない。岡崎さんのことで頭を一杯にしたくない。上書きされていく様な気がして怖い。

 太刀川さん、どうして、たちかわさん、たすけて。私は貴方のもので、貴方だって私のものだって言ったじゃないですか。そう固く約束したじゃない。なんで、なんでなんでなんで。なんで、また私を置いていったの。ちがう、置いていったのは。


「太刀川さん、たちかわさん、たちかわさんたちかわさん、たすけて、おねがい。あいたい、たすけて」


 認めよう。どれだけの迷惑や負担をかけたとしても、私は今こうして岡崎さんと過ごしていることに対して、少なからず、安堵感を得てしまっていることを。同時に、恐怖していることも。

 だからこそ、貴方との日々が塗り替えられるような気がしてならない。

 こわい。此処に居たくない。ここに居ちゃだめだ。岡崎さんとこれ以上一緒にいたら、太刀川さんが。

 気が付いたら、ウィンドウベンチから転げ落ち、床に身体を強く打ち付けていた。痣が残るんじゃないかと、あちこちジンジンと痛むけれど、そんなことどうだっていい。一生残る傷痕がついたって構わない。それよりも早く、早く、岡崎さんが居ない内に帰らなきゃ。

 帰らなきゃ? どこに?

 近くにあった椅子まで身体を引きずり、なんとか立ち上がる。これ以上はないという焦燥感が私に襲いかかる。帰るって、どこへ。

 太刀川さんは、もう何処にも居ない。彼と長く暮らしたあの箱庭まで戻れたとしても、そこにあのひとが居なければ、中身のない、蓋の開いた空の鳥籠でしかない。なら、今の私が帰りたいのは何処だ。生まれ育った故郷か。今は亡き祖父と、私を育ててくれた父と祖母、そして、今もどこに居るわからない、孤独に過ごしているかもしれない母が居る元の時代か。

 壁に手をつき、荒い息を繰り返し、使い物にならない右足を引きずって、死に物狂いで玄関を目指す。

 どこだっていい。岡崎さんが私の隣に居なければ、どこでも。

 邸宅の敷地内にある、冬枯れの色が強い古庭の桟橋を渡り、朱色の門を渾身の力で押して、なんとか出来た小さな隙間に身体を差し込み、抜け出した。塀に手をつき、冷たい地面を裸足でペトペトと歩き、森と見間違う立派な竹林の中を、安定しない足取りで、たまに転倒しつつ、それでも逃げる為に、重りのついた様な足を引きずる。林を出る頃にはポツポツと雨が降りだして、私の体温を徐々に奪っていった。

 テレビで見たのと同じ、あちこちから賑やかな笑い声や怒鳴り声が絶えず聞こえてくる、中国らしい喧騒に包まれた商店街の様なところに出てきたが、右も左もわからない。息荒く、誰かに追われてるのかという必死の形相に、ぼろぼろの裸足でフラフラ歩く女を、すれ違う人達が奇異の目で見てくるのも無理はない。雨で湿り気を帯びた地面に何度も転けたせいで、服は泥だらけになり、端から見れば、浮浪者か変質者にしか見えないだろう。

 覚束ない足取りで人にぶつかって、舌打ちされる度に謝って、それでもなんとか足を前に進めて。けれど、とうとう体力が尽き、動けなくなって、思い切り前から歩いてきた人に身体をぶつけてしまった拍子に、呆気なく地面に転がった。ぶつかってしまった男性に、中国語で、気を付けろ! と言った風のニュアンスで怒鳴られてしまう。日本語で謝っても通じないとはわかってはいるが、それでも地面から見上げる形で謝ると、男性は苛立ちを隠すことなく、再び私に怒鳴ってから行ってしまった。

 道の真ん中で座り込む女を、迷惑だ邪魔だと見られているのがわかったので、なんとか身体をひきずって端に移動する。お店も何もない壁に凭れ、呼吸を整えながら、膝を抱えた。見ず知らずの他人に迷惑をかけ、怒られたことで、冷静になりつつある。

 何やってんだろ、私。

 小雨がしんしんと雪に変わる。先程よりも気温は冷え、裸足の足を擦り合わせる。吐いた息は白く、身体を縮みこませた。暗くなりはじめ、人々が帰路につくのを眺める。皆、帰る場所があるんだな、と。

 目を閉じて、膝に顔を埋める。ぐす、と目の奥と鼻の中が、熱く湿り出すのを感じた。

 雪の中に晒され、寒さでかたかたと唇が震える。このまま眠って一晩越えると、凍死するのかな。朝になって誰かに発見されたら、私の身体はどこに運ばれるんだろう。それとも放置されたまま? それは、ちょっと嫌だなぁ。自分から仕出かしておいて、心細くて仕方がなかった。

 マッチ売りの少女だって。ジャックの言う通りだ。幸せな思い出や願望を振り返ることの出来るマッチなんて持ち合わせていないけれど、もしも持っていたとしら、最後の一本に火をつけたとき、太刀川さんが迎えに来てくれるのかな、なんて。

 
「ケーキ」

「……」

「買ってきてやったぞ」


 食おうや、という聞き覚えのありすぎる声が、鼓膜に響いてきた。迎えに来てくれたのは太刀川さんじゃなかった。

 後ろめたさから、のろのろと顔を上げる。コートを着た岡崎さんが、右手をポケットに突っ込み、私を見下ろしていた。雪が降っていないなと更に見上げてみると、空は赤かった。お詫びの品ですと、贈った覚えのある赤い傘を、岡崎さんが私に翳していた。

 私の前にしゃがみこんだ岡崎さんが、私の頭に積もった雪を落とし始める。口を閉ざして呼吸を押し殺している様だが、顔と首に滴る大量の汗は誤魔化しきれていなかった。

 岡崎さんは赤い傘を肩に凭れさせ、冷えきって感覚もなくなった私の手を握ろうとした。反射的に、その手を振り払ってしまう。岡崎さんは静かになり、私に拒否された掌を握ったり離したりを数回繰り返したが、今度は退くことはせず、再び手を伸ばして、逃げた私の手を捕まえて、しっかりと放さなかった。私の両手をすっぽりと包み込み、熱を取り戻させる為に、少し強めに擦られる。温かい息を私の手に当てて暖めようとしてくるので、やめてくださいと小さい声で訴え続けるが、聞いてくれない。

 表情には出してないけれど、怒っている。さっきの男の人と同じように、私に対して苛立っている。


「めんどくさいでしょ。こんな、やたらと手のかかるだけの女」


 怒ってるくせに、居なくなったことを責めて怒鳴り散らすこともなく、コートを脱ぎ、私に着せようとしてくる岡崎さんに、聞いている方が嫌になることを吐き出す。岡崎さんは黙って、私の話に耳を傾ける態勢になってくれていた。


「捨て置いてくださいよ。ど、同情だかなんだか知らないですけど、お荷物にしかならない女の世話を見るなんて貴方らしくもないし、する必要ない。前に、岡崎さん言ってましたけど……わ、私なんかに恩義なんて、やっぱりおかしな話なんですよ。それを返さなきゃって、義理を遠そうとしているなら、気にしないでいいんです。あの日、私が貴方に出逢わなくても、貴方のことはシラユキさんが助けてくれてた。私じゃなくて良かったんです。たまたまなんです。居合わせただけ。私でなくたって、他にも、貴方を気にしてくれた人は出てきてたかも。だから、そんな偶然に固執することない」

「……」

「私、ヒモなんてどころじゃないですよ。ヤバいですよ、岡崎さん。だめですよ、こんなの。貴方の為になるわけない。だから」

「だから?」

「っだから……」

「言いたいことはそれだけか? 腹の底に溜めてたモン、全部吐き出せたかよ」

「……」

「帰ろうや。洋菓子好きだろ」


 何も言えなくなった。コートを着せられ、ファスナーを顔の半分が埋まるギリギリまで上げられる。傘を持てと言われ、大人しく従ってしまう。岡崎さんがこちらに背中を向けて、おぶされと私に声掛けをした。


「此処に居たいなら別にいいけど、俺も一緒に居るからな。一緒に凍死してやるからな」


 動かずにいると脅され、直ぐ様その背中にしがみつく。赤い天井の下で、目線は上がり、岡崎さんが「さみーさみー」と言いながら、積もり始めた雪の上を歩いていく。


「なんでですか」


 どうして私に構うんですか。ほっといたらいいじゃないですか。なんでなんで、とグスグスと怨念がましく、背中でベソベソ泣いて、薄暗く呟き続けるヤバい女を、岡崎さんは「子泣き爺か、お前は」となじってくる。それはそれで離れないからいいけどよ、と笑っている岡崎さんだが、ちっとも笑えない。


「そんなに、俺と居るのイヤ?」

「イヤです」

「おまっ、即答かよ。ひっでぇな! ちょっとは躊躇しなさいよ」

「イヤです」

「……」

「……イヤ、です」

「鼻まで真っ赤に染めて、よく言うよなぁ。トナカイかよ。まぁ、今日にはぴったりだけど」

「染めてません。寒いんです」

「へぇへぇ。そういうことにしといてやるよ」

「……」

「イヤかもしんねぇけど……我慢してくんねぇかな」

「出来ません」

「わりーな。イエスしか受け付けねぇ耳なんだわ」

「なんで聞いたんですか」


 街をあっさりと抜け、竹林が見えてくる。ここまで来るのに、私は一時間位かかったのになと情けなくなった。
 

「俺さぁ、何言われても、拒否られても、とことん嫌われても、今のお前を放っとくなんざ絶対出来ねぇんだよ。絶対無理なんだよ。絶対離してやれる気しねーの」

「どうして」

「自分で考えろ、バーカ。バカバカ。いい加減気付いてくんねぇかな、マジで」

「……」

「散々、刺青野郎に独占させてやったんだ。今度は俺の番だろ。俺のことしか考えんなよ」

「……」

「そりゃあ、俺が寝てる間に、なんでそんなに太刀川と進展してんだよって感じだし、イライラするし、でもお前のこと見てると……俺と過ごしてると、太刀川に後ろめてぇんだろうなってのは何となくわかるし、そこんとこはちゃんと理解してるつもり」


 それに、と続けようとした岡崎さんが、口ごもる。その様子を後ろから見ると、いつもは自信たっぷりの赤い瞳は弱々しく、眉を下げて、自信無さげで、落ち込んだ表情をしていた。内心驚いている私に岡崎さんは気づかず、一度唇を噛んだ岡崎さんは、ひとつ深呼吸をして話し出した。


「それに、あんな……エ●ァのビーストモードみたいな隠しコマンド抱えてるヤベェ野郎と、四六時中一緒に居るのが怖いってのも十分わかるよ」

「え」

「いや、わかってる。怖いよな。マジ勘弁って感じだよな。なんだよアレってなるのもわかるんだよ。セイバーじゃなくてバーサーカーじゃねぇかって言われるのも仕方ないんだよ。いやでも、ほんと俺もお前にだけはマジで見られたくなかっ……」

「ま、まって。私、別に、岡崎さん自身が怖いんじゃなくて」

「え。は? いや、でも、だって」

「ちがう、ちがうんです。確かに怖いんです。怖いんですけど、私が怖いのは……」


 今も、想いを寄せる貴方と一緒に居ることで生まれる罪の意識が恐ろしいだなんて、そんなこと言える訳ない。口を閉ざした私を、岡崎さんが振り返る。心底驚いたと、そして私の本心を探るような目で。


「……マジで言ってる? アレ見て、なんとも思ってないの」

「実際見たときは怖かったですよ。すごく怖かったですよ」

「あ、あぁ、そう。正直ね、お前」

「でも、人間誰しもそういうところあるじゃないですか」

「いや、無いだろ。アレはないだろ。誰しもああなら世界とんでもねぇよ。手ェ付けらねぇよ。世紀末だよ。北●の拳も真っ青だよ」

「ありますよ」

「……」

「人間って、人に見られたくない部分をいろんな形にして、ひた隠しに出来るんです。皆、上手いこと隠すんですよ。……私も」

「……」

「岡崎さんは、それを隠すのが下手で、露見しちゃったのが、人よりとびきり派手だったってだけじゃないんですか」

「ちょっとって、お前。派手ってお前。そんなエンターテイメントみてぇに言う? あ~~も~~、なんかな~~。やっぱ駄目だわ。危なっかしくて、本当目ェ離してらんねーわ。離したくねーわ」


 私を背負い直した岡崎さんが、低い声で呟いた。


「俺も、大概だな。太刀川あいつに、デケェ口叩けなくなっちまったなぁ」


 岡崎さんが用意した巣に戻ると、身体を暖めろとお風呂場にまず投げ込まれたので、大人しく湯船に浸かった。ほかほかと湯気のたつ身体に、用意されていた服を着て、居間に戻ると、やめた方がいいって言ってるのに、髪をぐしゃぐしゃにして、あちゃーと袋の中を覗き込んでいる岡崎さんに近寄る。

 私も同様に中身を確認すると、袋の中にはかなり型崩れした縦長のケーキ、ブッシュ・ド・ノエルが入っていた。せっかくの薪は折れてしまっているし、乗っていた赤い服のメレンゲドールは首が取れていた。サンタさん……。ケーキを持って帰ったら、居間に私が居ないことで呆然とし、焦った岡崎さんが床に落としてしまったらしい。


「く、食えりゃいいんだよ、食えりゃ。胃のなかに入りゃ一緒だろ」


 そう言って、ぐしゃぐしゃのそれをお皿に二つぶん、ご飯でもよそっているみたいに、せっせと分け始めた。暖かい珈琲と一緒に差し出されたスポンジ(らしきもの)が乗ったお皿を受け取り、何故か私は素直にフォークを取って、一口、口に運んだ。

 苦めのショコラかと思ったら、ミルクチョコレートで甘い。向かいに座ってパクパクと食している岡崎さんをちらりと見る。甘いもの苦手な筈なのに。自分の分は苦いのにして、別個のケーキ買ってくれば良かったじゃない。なんで、わざわざ。

 ケーキも食べ終えて、歯も磨いて、岡崎さんが私をベッドまで運ぶまではいつも通りだった。そう、そこまでは。


「もちっと、そっち寄って」


 もぞもぞと布団の中に潜り込んできた岡崎さんにギョッとする。カチコチに固まっている私にはお構いナシで、自身にもお布団を掛けた岡崎さんはこちらを向いて寝転がり、枕に片肘を置き頬杖をついて、硬直した私を見下ろしている。近い。

 離れようとしたが、岡崎さんの左腕ががっちりと、布団の上から私の腰辺りをホールドしていて身動きが取れない。一文字に口を閉ざし、見上げれば、すぐそこにある岡崎さんの目と目が合わないように、布団の中に身体を小さく潜り込ませる。


「んな緊張すんなって。取って喰ったりしねぇよ。何もしねぇから。必死で抑えつけてるから。なんとかギリギリ踏ん張ってるから信じて」


 説得力が無い。ぽむぽむと腰に充てられた手がリズムを刻む。岡崎さんが話し出すことはなく、静かな時間が暫く流れる。いつも以上に眠ることが出来る気がしなくて、私も沈黙を貫いていた。

 すぐ目の前にある岡崎さんの胸板から、心臓の音が聞こえてきて、ひどく安心感を覚える。同時に、悲しくもなった。


「志紀」


 頬をくすぐられ、少しだけ目線を上げる。頬杖をついている岡崎さんは、いつものぽややんとした緩い表情で、しかし真っ直ぐ私を見つめていた。


「出掛けたい時は俺に言え。イワンのシマっつっても、治安が良いとは言えねぇんだ。特に夜。チンピラとか、まともじゃねぇ連中も出歩き始める時間帯なんだわ」

「ごめん、なさい」

「いーよ。でも、ほんと肝冷えたから、次はナシな。二度はねーぞ。次、またやらかしたら、しまっちゃうおじさ……お兄さんに変身するからな。冗談抜きで」

「ごめんなさい」

「……閉じ込めるつもりはねぇから。買い物とかついていきてぇなら、連れてってやるよ。だから、俺の目が届かねぇとこで肝冷えさせることすんな。頼む。心臓に悪いから、マジで。探しながら、胃のなか全部出てきそうだったわ。リッ●ーになりそうだったから」

「……」

「返事は」

「……はい。もうしません。迷惑かけてごめんなさい」

「迷惑じゃなくて」

「心配かけて、ごめんなさい」


 言い直した私の言葉は正解だったらしく、岡崎さんは軽く笑みを浮かべ「ちゃんと謝れるいい子だから、これやるよ」と私の目と鼻の先に、質量のある何かが入った小包を置いた。ラッピングも何もされていない、くしゃくしゃの紙袋を開けてみろと促され、そっと手に取る。右手を袋の中の差し入れ、中を探り、手に当たった感触に心臓が止まる。うそだ、と戸惑いながら、そっと掴んだそれを外に出す。

 信じられない。限界まで目を見開き、取り出したものを凝視している私の反応を、岡崎さんは穏やかな、しかし、どこかイタズラっ子の様な表情で見ていた。


「精巧な造りだっつって、どの店回っても、直せるって奴、中々見つからなくてよ。どいつもこいつも、諦めろだのなんだの、買い直せだの。いっそ自分てめぇで直すか~と思ったけど、マジで細かいから、これ以上構造ぐちゃぐちゃになって取り返しつかなくなったらヤベェって日和ヒヨってさ。ちゃんと修理出来る奴探してたら、時間かかっちまった。もっと早く渡してやりたかったけど、驚かしてやりてぇっていう俺のサプライズ精神っつーか、下心もあって……遅くなってワリ」


 それ、オルゴールだったのな。なんて、軽い調子で言う岡崎さんの顔が滲む。


「な、なんで、これが、ここに」

白鷹シマ出るときに、ちょちょいっとリゼの部屋から拝借した」

「壊されたって」

「おーおー。そりゃあ、ものの見事にバラバラに」

「……」

「でも、木っ端微塵にはされてなかった。組み立て直したら、ちゃんと元に戻る様に解体されてた。ひとつひとつ、ちゃんと部品も残して」


 息が詰まる。それがどういう意味なのか気付かない訳がない。私のあだ名を叫んだひとりの女性の声が、頭のなかでリフレインする。

 ゆらゆらとブレる視界をクリアにするために、目の中の水滴を拭い、大切な彼に教えて貰った順番通りに、宝石箱の仕掛けを解いていく。かちりかちりと音を立てながら、私が宝石箱オルゴールを弄る姿を、岡崎さんは黙って見守ってくれていた。

 何度も何度も聞いたメロディーが流れ始める。太刀川さんに貰ったときと何も変わっていない、彼が私の為にと贈ってくれた、クリスマスプレゼント。
 
 涙腺が崩壊というか、バカになった。ぼろぼろと流れる大粒の涙が、枕を濡らす。オルゴールを胸に抱きしめて、子供みたいに泣く女の姿の、どれ程痛々しいことか。けれど、私の大事なものを甦らせてくれた恩人は、私が落ち着くまで、からかうこともなく、待ち続けてくれていた。


「っおかざきさん」

「ん」

「……ごめんなさい」

「じゃなくて」

「ありがとうございます。ほんとうに、っあ、ありがとうございます」

「おー」


 満足そうに歯を見せて笑った岡崎さんに「泣き顔、ブッサイクだな。鼻水えらいことになってんぞ。チーンしろ、チーン」とベッドサイドにあったティッシュを鼻に充てられ、チーンを促される。遠慮無く大きく息を吸って、ありったけの鼻水を放出させた。

 この人には、いくら抗おうとも無駄なんだと思い知らされる。昔から、一枚も二枚も、岡崎さんは上手うわてだ。私みたいなミジンコが敵う訳ない。岡崎さんの手のひらの上で、ころころころころ転がされている。それを岡崎さんに伝えると、「それはこっちの台詞なんですけど」と強い力で全身を包まれた。


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