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周りは敵だらけだ。でも決して見捨てはしない。
しおりを挟む周りを歩く多種多様な国籍の人達から、憎悪に満ち溢れた視線を一心に浴び、全身をチクチクと針で刺されている様な感覚に陥る。男性二人に左右をきつく固められ、裸足を引きずって、冷たい床をなんとか歩く。
エレベーターを出ると、当然だが、私の知らない場所が広がっていた。まず視界に収まるのは、天井の高い立派な玄関ホール。足の裏に伝わる感触は、埃がそこら中にこびりついているが、立派な赤絨毯のもの。二階に繋がる階段にまで、その赤が敷かれている。お陰で、冷えきって麻痺していた足裏の感覚が戻りつつあった。
暫く歩き、通り過ぎていく景色の中で、自分がどんな場所に居るのか徐々に認識出来た。
建物は西洋木造建築で、随所に細かい装飾模様が施されている。館内を淡く照らすのは、珍しいヴィクトリアンランプで、埃を被り、いくつかは割れたり欠けたりしている。恐らく高価なものだろう花瓶に飾られてる花も枯れ果て、そのままにされていて、建物自体の管理が行き届いている風ではない。ホールには外に張り出した窓がずらりと並んでいて、所々ひび割れて、雑に補修されている。
ひとつの大きな窓にも見えるそこから、テラスの向こう側の外の様子がわかる。日が沈みかけている夕暮れ。そして緑多い庭が広がっており、夕焼けに染まっていた。
のびのびと走り回ることも出来る広範囲の庭の草は生え散らかり、荒れて、整備されていない。庭の真ん中には噴水が見えるが、肝心の水は噴き上げられておらず、景観をより絢爛に装飾する役割を果たしていなかった。
今居る洋館のすぐ右に、和館が隣接しているのが見える。しかし、そちらは洋館とは違い、人の出入りも見られない。遠目でしかわかないが、人気は感じられなかった。
まるで明治大正時代に建てられた、和洋折衷の西洋館だ。相当な敷地面積を持つ立派なお屋敷。擬洋風建築の建物は相当古く、朽ちかけていてるが、重厚。建物自体の軋み、そして歴史と寿命を感じる。戦災に見舞われた後の様な雰囲気がある。元々は誰かの邸宅だったのかもしれない。昔、此処で誰かが生活していた名残の様なものも垣間見えた。
時々すれ違う白鷹の人達から冷淡な視線を受け、言うことを聞かない身体を無理矢理引かれ、ヴィンテージな赤絨毯の敷かれた階段を上り、二階へと連れられた。
一階だけでなく二階にもあるテラスを横目に、書斎や集会室、応接間などを通り過ぎ、客室へと背中を押される。
部屋の中は、ゆったりとした余裕のある空間だった。装飾の細かい壁紙が、落ち着いた雰囲気を醸し出している。隅には大きく古びたグランドピアノや書架がぽつんと置かれていて、やはりここも埃を被っている。暖炉の上に飾られている鹿の剥製の角の部分には、クモの巣が張っていた。暖炉に火は灯されておらず、ただでさえ薄布一枚しか着ていない私の身体を、尋常じゃない肌寒さが襲う。
部屋の真ん中に、レトロだけれども高級感のある円形テーブルがある。そのテーブルにだらりと両肘をつき、椅子に腰掛けている白衣の人物が居る。マグに入った黒い液状、豆の匂いが漂ってくることから珈琲とわかるそれを、ズズズと音を立てて口にする女性は、入室してきた私を上目遣いで見ている。
室内に夕焼け色を取り込む、三つ並んだ窓の際に立ち、外の景色を眺め、窓ガラスに凛とした表情を映しているのは、私がかつて憧れたひとだった。
「リゼさん、連れてきたよ」
私をここまで先導した女の子に右腕を引っ張られ、リゼと呼ばれた座っている女性の真向かいの椅子に投げられる。撃たれた箇所が反動でひどく痛み、歯を食い縛り、ギプスで縛られた右肩辺りを抑えた。
「こらこら。あんま乱暴にしないの、美帆。っていうか、起きたら布巻いたげてって言ったでしょうに」
「だって、触りたくないんですもん~」
「困ったちゃんね~」
肩を竦めた女性は、珈琲の入ったマグをテーブルに置いて立ち上がり、着ていた白衣のポケットから白布を取り出して、私に近づいた。何をされるのかとビクつく私を安心させる様に、女性は「大丈夫よ」と笑いながら、ぶらんと力の入らない右腕を三角巾で吊ることで固定し、首の後ろで布を結ばれる。先程よりも負担は軽くなり、小さく息をつく。
「肩は骨ごと撃ち抜かれてたからね。変形したら大変だし、暫くは窮屈だろうけど、これでガマンよ~」
白衣のポケットに左手を突っ込んだ女性は、目を惹くブロンドの髪を払い、爽やかな青をした目を細め、右手を私に差し出した。
「リーゼロッテ・ウォン・オルガ・シエスタ・アルバート・ファウスト・レオナルダです。よろしく」
「……え、え?」
「長くて覚えにくい名前でごめんなさいね~。皆、リゼって呼ぶわ。それだけ頭に入れておいてくれたらいいから」
あんまりにも長いフルネームにポカンとした私を置いてけぼりに、白衣を着た金髪の女性は、再び真向かいの席に、白衣から覗く長い足を組んで腰掛けた。その後ろで外の景色を見つめたままの彼女は、一切として此方を振り向きはしない。対照的に、私をこの部屋に連れてきた女の子は、妙な真似でもしたらすぐに殺すとでも言いたげに、部屋にあった大きなライフル銃を手に、鋭い視線をこちらに向けつつ、別のテーブルにそのまま腰掛けていた。
「起きて早々に、ごめんなさいねぇ。かなり切迫した状況が続いててね。今すぐにでも得られる有益な情報があるなら、とっとと取り入れて、先手を打たなくっちゃあいけないのよ」
「私、情報なんて持ってません」
「嘘ついてんじゃないわよ!」
「美帆。あなたは、ちょっとだんまりしてましょうね~。こういうタイプの女の子はね、萎縮させると、余計喋らなくなっちゃうのよ」
ガンと銃口を床に叩きつけて威嚇してくる女の子を、女性がどうどうと抑える。長い名前を持つ女性は、上半身をテーブルに少し乗り上げて、ほんの少し近くなった距離から、私の様子をまじまじと観察してくるので、少し怖じ気づく。
気分を紛らわす為、自分の喉元に触れてみる。ガサガサの掠れた声だった。芯がなく覇気も無い。どれくらい、寝てたんだろう。
「あの」
「なぁに?」
「っあんた、自分の立場考えたら? 質問するのはこっちで……」
「美帆。口出すなら、貴女は外に出てなさい」
「シラユキさん! でも、あたしだって」
「貴女が居ると話が進まない」
やっと聞けたシラユキさんの第一声は、突き放す様な冷ややかさを持っていた。退出しろと促された女の子は、抗議の為に勇んで立ち上がり、未だ此方を振り向くことの無いシラユキさんの背中に、何か言いたげに、悔しそうに口をパクパクとさせた。しかし、リゼさんが首を振って扉を指差すと、女の子は大きく舌打ちをし、再びどかりとテーブルに腰掛けた。リゼさんはその様子を、苦笑いで横目に見ている。
「ごめんなさいねぇ。あの娘、根っからの天龍嫌いで。気を悪くしたなら私が謝るわ。それで? 私達に何が聞きたいの?」
「いえ……その、あれから、どれくらい経ったのかなって」
「うちのてっちゃんが、気絶した貴女を此処に連れてきてから、丁度二週間位になるかしらね。ホテルが爆発で倒壊していくのを見て、物凄いショックを受けちゃったんでしょう」
「二週間」
「怪我のせいもあるでしょうけど、かなり深い眠りについてたわよ。一度も目が覚めないから、このまま死んじゃうんじゃないかって位。長いこと、気を張り詰めて生活してたんじゃなぁい?」
「……」
「しかし、貴女、どこからどう見ても、普通の、どっちかっていうと、か弱い部類に入る女の子なのに、見かけによらず頑丈なのねー! シラユキの弾丸を食らって重傷程度で済むなんて!」
「太刀川さんは」
その名前を口にした途端、ニコニコとしたリゼさんの笑みは固まり、一瞬にして空気が冷気に包まれる。室内に居る人間のうち二人が纏う空気がマイナスにまで下がったのが要因だと思われるが、そんなことは今の私には構いやしなかった。
「太刀川さんは、亡くなったんですか」
氷点下に到達したんじゃないかという程ピリピリとした何かが、肌を刺す。やっぱり寒い、と思った。
金髪の女性は笑顔から、少し困った様な、考える表情になって小さく息をつく。湯気の立たなくなった珈琲を口にし、マグについた真っ赤な口紅を指で拭った。
「ホテルは全倒壊。あの斬り込みに巻き込まれた死傷者数は約七千人、その内の死亡数は約三千。てっちゃんに聞いた太刀川の負傷状態から鑑みて、あの状況からの生存は、まず望めない。私達白鷹は、三千の数字の中に、天龍組若頭、太刀川尊嶺も含まれてると考えてる」
「……」
「貴女には辛い現実かもしれないけれど、下手に希望は持たない方がいいわ」
そう言われるが、なんだかもう、何を言われても、ああそうなのかという実感は持てなかった。喪失感は凄まじいのに、目の前に出された現実を、どう受け止めればいいのかわからない。嫌な夢でも見てる気分だ。
だらりと全身から力が抜け、がくんと俯く。大きく空いた心の穴は空洞になっていて、何も感受することが出来なくなっていた。
「舌を噛み千切って後を追おうなんてことは、考えないで頂戴ね。未遂に終われども、貴女は以前に前科がある様だから。そんなことをされる前に、その舌自体を此方で切らせてもらうことになっちゃう。……さてと」
テーブルの端に置いてあった書類の束とパソコンを手に取り、リゼさんはどこからか取り出したパイプに火をつけ、口に咥えながら、適当に机に並べた書類とパソコンの画面を眺め始める。真っ赤な唇の隙間から、ゆっくりと吐き出された煙が宙に揺蕩う。
「まずは何から聞こうかしら。遠坂志紀さん。あら、もうすぐ20歳になるの? 高校生ぐらいに見えるわね。若く見えるのはいいことよ。うらやましい~」
「……」
「天龍のことだけじゃなく、貴女に関しても気になることはたくさんあってね。調べても調べても、遠坂さんの情報は薄っぺらいものしか出てこないし。まず、今のご時世、戸籍が無いっていうのも、不思議な話よ。今ある戸籍は、どうせ天龍が偽造した証明でしょう? もしかして貴女、てっちゃんと同じ奴隷の出なのかしら?」
「……」
「数年前、天龍の若大将が、年の離れた女の子を囲い始めたって噂が出たけれど、貴女のことよね。その噂が出始めた頃から太刀川の側に居るようになった、と私は考えてるんだけれど、どう? それ以前は、何処でどうしていたの? ご家族は? 死別された?」
「存命、です」
「あら、そこは答えてくれるのね」
「……」
「あぁ、ごめんなさいね。続けて続けて。お父さんとお母さん、あとお婆さんが居るってことは、てっちゃんの調査で聞いてるわ。今は、ご家族はどうされているの?」
「わかりません」
「わからない?」
「太刀川さんに拾ってもらうまでは、父と祖母と暮らしてました。色々あって、二人とは離ればなれになってしまって。今の私には、父と祖母が元気にしてるかどうか、知る術もないんです」
「色々って? 思春期こじらせて喧嘩でもして、家出してきちゃった? それとも、太刀川の目に留まって、見初められて、そのまま拉致でもされちゃった?」
「……い、言えません」
「……お父様とおばあ様と三人で暮らしてたのよね? お祖父様は?」
「病気で亡くなりました」
「それじゃあ、お母様は?」
ぐっと口をつぐんだ私に、リゼさんは笑顔のまま無言で詰めてくる。穏やかな態度の裏に、凄まじい圧力を感じる。全ての問いに絶対答える必要は無いけれど、全て答えないという選択肢だけは与えないし許さないという意志が伝わってくる。取り調べされている感覚だ。誰にも掘り起こしてほしくなくて、ぎっちりと埋めていた箇所を、遠慮もなく抉り出されてしまう。答えなければ、この沈黙はいつまでも終わらない。
お母さんとの思い出を遡る。泣いているお母さんの顔が、墨汁を垂らしたみたいに黒く滲んでいく。乱れそうになる呼吸を整える為、ゆっくりと静かに深呼吸を繰り返し、ガクガクと震え始めた唇を噛む。左手は、身に纏う布を、落ち着きなく握ったり離したりしている。
「は、母とは、離れて暮らしてて」
「どうして? 喧嘩した? それとも、ご両親の仲が悪くて別居を?」
「ち、違います。仲は悪くない。悪くなかったんです。ただ、小さい頃から身体の弱かった私を、原因は自分だと追い込んでしまって」
「……」
「精神を、病んでしまって」
私を育てるだけの十分な能力が無いと周りから判断されてしまった母は、強制的に、どこか遠くの、静かな土地にある専門の療養所で、治療を受けることになった。私は、その施設がどの県のどこにあるのか、今でも教えられていない。私から会いに行くことが無い様にと、お医者さんも祖父母も父も、私が何度尋ねても固く口を閉ざしていた。彼らが母を苛めているだとか虐げているだとか、そんなことは断じてない。ただ、世間から見て、私に対するお母さんの過保護は、限度を越えていたのだと思う。
後ろから私の小さい身体をしっかりと支える祖父の、しわくちゃの手を思い出す。呆然とする私の目の前で、私から引き剥がされ、数名がかりで取り押さえられて、どこかへと連れて行かれる母の姿を、今でもたまに夢に見る。それも、私の中では悪夢として。
志紀と何度も呼ばれて、長い髪を振り乱す女性に歩み寄ろうとした私を、祖父が両肩を掴み制止する。見上げると、お祖父ちゃんは眉を下げて、私の頭を慰める様に撫でた。
私に助けを求め、私を助けようと、自身を取り押さえる人達を振り払うのに無我夢中になっているお母さんが伸ばした手を、私は取ってあげられなかった。穏やかに笑うか泣くかのお母さんの姿しか見たことのなかった私にとって、断末魔の様な悲鳴と怒りの咆哮をあげる彼女は、私の知らないひとだった。母とは思えない、必死の形相をしていた。
今思えば、あれは、お腹を痛めて産んだ子どもを守る為には形振り構ってなどいられないという、母親の当たり前の本能が剥き出しになった姿だったのかもしれない。
そうだ。ただ、お母さんは、あのひとなりに、不器用で未熟ながらでも、必死になって、ひとりの母親として、世界の全てから私を守ろうとしてくれていただけだった。なのに、私は、私に向けられた母の手を取ってあげられなかった。廊下の向こう側にまで引きずられていくお母さんの姿が見えなくなるまで、幼い私は、ただ見送ることしか出来なかった。
理由はどうあれ、私は、あれだけ私のことを大事にしてくれたお母さんを見捨ててしまった。
俯き、空を見つめて何も言わず、不気味なほど静かになった私を、リゼさんはじっと見つめる。けれど、私が突然黙りこんだからといって、追及を止めることはない。
質問内容は様々だった。最初は、好きなもの嫌いなもの、趣味を尋ねられたり、最近何をしていて楽しかったか、悲しかったか。何がしたいか。夢は何か。どう生きてきたか。これからどう生きていきたいか……など、ありきたりな問い掛けをしてきた。私の人となりや内面や性格を把握し、ある程度の基本情報を引きずり出された、その後が苦痛だった。
デリカシーもプライバシーもない質問が、遠慮も無しに次々と投げつけられる。主に、太刀川さんとどう暮らしていたかについてや、太刀川さんに拾われてから、どの様に彼に対しての気持ちが変化していったのか、彼のことをどう思っていたか……などを、しつこく隅々まで、答えるのに躊躇する性事情まで尋ねられる。もちろん、太刀川さんとの間だけにある思い出など口に出せる筈もないから、関連する問いには口を固く閉ざすと、リゼさんは、それならと角度を変えて、あれはこれは? と次々と繰り出してくる。
二時間位の質問攻めに合い、淡々と答えるだけであっても、かなりの疲弊が積み重なっていく。
「なるほどねぇ。聞けば聞くほど、遠坂さんは普通の女の子ねぇ。どうしてヤクザなんかと繋がりを持ったのかって、心底不思議に思うわ」
「……」
「けど、偵察に寄越したウチのてっちゃんまで懐柔しちゃう辺り、手練れであることは確かなのよねぇ。あの太刀川も、貴女を手元に置いてからは、囲いこんでた女達をバッサバッサ切っていった様だったし。……よっぽどの床上手なのかしら!」
からかって笑うリゼさんの言葉は、刺のように聞こえはするも、決して嫌みで言ったのではなく、心からの疑問を口に出しただけということがわかる。否定する気も、もう起こらず、何もかもが、もうどうでもいい。そんな気持ちに似た倦怠感があった。
「それで、一番の本題になるんだけどね。天龍組組長の瀧島が、今何処に潜伏してるのか、知ってたら教えてくれないかしら」
「知りません」
「本当に?」
「本当です。いつも、どこからともなく突然現れて、すぐにまた何処かへ行ってしまうひとでした」
「ということは、貴女、瀧島に会ったことがあるのね」
「数回だけ」
「顔の特徴は? 覚えてる?」
「ぼんやりとなら」
「教えてくれる? 瀧島の顔を知る人物は、この界隈でもかなり希少なのよ。こっちが集めた少ない情報と照らし合わせてみたいの」
パソコンと向き合うリゼさんが、咥え煙草で、私が覚えている限りの瀧島さんの容姿や特徴、どんな話をしたか、どんな性格だったかを、うんうんと頷きながら打ち込んでいく。
私から瀧島さんの情報を聞き出した後、リゼさんは椅子の背凭れに背中を預け、妖艶にパイプをふーーと吹かし、天井に向かい延びていく煙を見上げた。そして、再びこちらに顔を向けて笑う。
「本当に行方を知らないの?」
「し、知らな……」
「本当の本当に? 知っていて隠してるんじゃない?」
「どうして、そこまで」
「瀧島の居場所は、私達が今最も欲しい情報でね。いくら天龍若大将を討ち取ったと周りのヤクザ共に吠えども、今の白鷹じゃあ、力及ばずなところもあるの。太刀川亡き今、天龍の実権を握るには、瀧島の首を先取りしたモン勝ちって、合戦状態なのよ。皆、この日の本のシマ全てを握ることが出来ると言っても過言じゃない、強力な天龍の席を狙って、血眼になって椅子取りゲームしてる」
「……」
「私達の目下の目的は、まず、この日本に蔓延るヤクザ共を統制すること。それには、あと一押しなのに、その一歩が重い。若頭の命取られたってなったら、流石に組長殿が出てきてくれるだろうと思ったら、尻尾すら出さない」
どうしたものか、と金髪をくるくると指に巻き付け、女性は小さく愚痴を溢した。
「こっちの動きも読んでたくせに、大将の瀧島は変わらずだんまりで姿も見せない。発言もしない。自分の組が潰れかかってるっていうのにね。何がしたいのか、目的がよくわからないわ」
「……」
「参ったわねぇ~。嶺上の浩然を手中に置けば、何か吐いてくれるかと思ったけど、遺体すらも見つからないって有り様だし。遠坂さんが砦になってくれるかと思って、期待してたんだけど。八方塞がりねぇ。ボス」
どうする? と伺うように、リゼさんが、ずっと自身の後ろで、窓の向こうの、濃紺と橙色が溶け合った日没後の薄明かりを眺めていた女性を振り返って、指示を求めた。
一度もこちらを見ることなく、時間の経過と共に変化していく景色を見つめていた女性が、軍服を翻し、遂にこちらに身体を向けた。すっかり変わり果てた、どん底にまで落ちた瞳が私のことを捉える。怖くて仕方なくて、思わず俯いてしまう。
カツカツとブーツのヒールを鳴らしながら、私達の居るテーブルに近付いてきたシラユキさんが、軍服のコートのポケットに手を突っ込み、リゼさんの少し手前辺りに、何かをコツリと置いたのが聞こえた。
「これは、何」
芯まで冷えきった、感情の読めない声に、ゆっくりと顔を上げる。テーブルの上に置かれたそれに、目を限界まで見開く。
きらきらと輝く、色とりどりの石が埋め込まれた宝石箱だった。生涯の全てを捧げると誓い合った大事な男性が、私なんかの為に、手をかけて一から造り、そして私に遺してくれた、世界でひとつしかない大切なもの。
自然と足に力が入る。立ち上がって手を伸ばし、宝物を掴もうとしたが、あっさりとシラユキさんの手によって後ろへと退けられる。がたんと崩れた上半身がテーブルに倒れる。不様にも、シラユキさんの手の中にあるものを見上げる形となった。
「これは、何」
繰り返された質問に、ガクガクと唇が震える。けれど答えなければ。正直に話して、返してもらわないと。
「それは、ただの宝石箱です」
「箱? どうしたって開かなかったわ」
「仕掛けがあるんです。それを解かないと開きません」
「貴女が個人的に手に入れたとは信じがたい代物ね。誰に貰ったの」
「た……太刀川さんです」
「へぇ、太刀川が」
「お願いです。とても大切なものなんです。返してください。お願いです」
涙を滲ませ、震える声で懇願し、自身を見上げる女を、シラユキさんは深く被った帽子から覗く目で、冷たく見下す。何も声を掛けてはくれない。けれど、太刀川さんの名前を出した途端、その目に暗い炎が灯り、ぎゅうと箱を力強く握り締めた。その扱いにゾッとする。そして、こういうときの予感程、よく当たる。
「太刀川が、何か細工を施してる可能性がある。天龍に関わる重要な何かを、この中に入れた可能性も無いとは言えない。カモフラージュとして、この女に託したのかも」
「シラユキさん、違う。ちがう、ちがうの。それは本当に、ただ私の為に、太刀川さんが」
「リゼ」
シラユキさんは、必死に訴えを続ける私にはもう目もくれず、私にではなく、リゼさんに宝石箱を渡した。
「壊して、中を確認して」
目の前が絶望に染まる。
オルゴール館の作業机に向かい、何時間も、何日も、時には食事を摂ることも忘れて、宝石箱を制作する太刀川さんの後ろ姿も、唐紅の紅葉が頭上に降ってくる秋の天龍寺で、まだ完成途中の、歪な音色を奏でる宝石箱を見せ、二人だけしか知らない仕掛けの解き方を教え、いつか私にくれると言ってくれた大切な約束も、肌寒い雪の降る朝、サンタさんは来ないとしょぼくれつつも、小さな期待を捨て切れずにいた私の為に、吊り下げられた靴下の中にこっそりと宝石箱を忍ばせてくれた太刀川さんの優しさも、綺麗な音を奏でるようになったオルゴールを贈られ、喜ぶ私を見つめる太刀川さんの穏やかな顔も、それら全てが、ぐちゃぐちゃに歪んでいく。
宝石箱に入っているのは、太刀川さんとの大切な思い出だけ。太刀川さんだけじゃない。オルゴール館で過ごした皆との思い出だって詰められている。それを壊そうとしないで。さわらないで、お願いだから。
「や、やめて! かえして! それだけは……っもう、それだけしか……!」
「だったら質問に答えなさい。瀧島の居場所を吐いて」
「知らない。本当に知らないんです! なにも、私は……」
「白鷹には、貴女の言葉を信用する人間は居ない」
「シラユキさん! お願いです、この通りですから……!」
「味方なんていないわよ」
「っ」
「徹也が貴女に近づいたのも、最初から天龍の内部事情を探る為でしかなかった。出会いや、その経過がどうあれ、全部は偽りから始まった。偽物から始まった関係なんて、本物にはなれない」
冷ややかな視線だけが、私を鋭く貫く。
「此処は蛇の領域じゃない。白鷹の領域よ。此の巣箱に、貴女に餌を与える人間は独りとしていない。生き残りたいなら、身の振る舞い方をよく考えることね」
シラユキさんにそう言い渡され、異常な程の孤独感に苛まれる。周りをゆっくりと見渡す。目の前に座するリゼさんも、私を冷たく見下ろすシラユキさんも、私達のやり取りを黙って見守っている女の子も、扉を固めている男性二人も、皆、私を害することになんの躊躇もない人達だ。彼らにとって、私は天敵であった組織に属する敵の女で、今や私も、その立場を認めざるを得ない。
女将さんも、西園寺さんも、喜助さんも、太刀川さんも、もう居ない。もうこの世界には、私には、誰にも。
「返してください……」
「……」
「お願いです……宝石箱だけは、返して」
「返さない」
「おねがい! 開け方なら教えます! 教えますから! だから壊さないで!!」
「貴女でも知り得ないものが仕掛けられてある可能性はある。だったら、全部バラした方が早い」
「やだ、やめて! 返して! かえ……っ!?」
必死に手を伸ばし、全身の力を振り絞り、宝石箱を手にしているリゼさんのところに向かおうとしたが、視界が突然に切り替わり、テーブルの表面が見える。叩きつけられた身体が悲鳴をあげ、言葉を失う程の痛みが襲う。強く打ち付けた頬がジンジンと熱くなる。痛さからだけじゃない涙が流れ、テーブルに落ちた。
「こら、美帆」
「口は出してないですよ」
私の左腕を背中に回し、掴んで、このまま圧死させてしまおうという意志が伝わってくる力強さでテーブルに押し付けてくるのは、美帆という女の子だった。
「っおねがい……かえして。返してください。わたし、かえらなきゃ。すぐに、帰らないと……」
「どこに? 天龍本家に? もう白鷹が占拠してるのに?」
あなたに帰る場所なんてない。それがシラユキさんからの最終宣告だった。
絶望し嗚咽する私を、静かに見下ろしたシラユキさんは、女の子に、私をあの地下に戻せと指示する。はぁい、と間延びする返事をした女の子は、長く伸びた私の髪を乱暴に引っ付かんで立たせる。部屋から連れ出されるその過程でも、必死にもがき、シラユキさんに許しを請う。出来る限りの力で暴れて、懇願を繰り返した。けれど無情にも、シラユキさんが私を見ることはもう無く、言葉のひとつも届かなかった。今の私は、誰にも手を取ってもらえなかった、あの日の母と同じだった。
暗くて冷たい牢獄の中に戻され、寒さに震えて身を縮ませる。此処にはもう、私の味方はひとりとしていない。周り中、敵だらけだ。今は情報の為にと生かされていても、私は本当に何にも知らない。いつ使えないと判断されて、命を取られることになっても、おかしくない。そして、その日が来るのは、きっと、そんなに遠くない。
勿論、怖い。これから私はどうなるのか、どういう扱いを受けるのか、いつまで私はこうして飼い殺されるのか。
じわりと涙で視界が滲む。恐怖からだけじゃない。寂寞から、シラユキさんにも訴えた、帰りたいという思いが、じわじわと広がっていく。
……帰りたい? どこに。今、私はどこに帰りたいんだ。太刀川さんのところ? 館長さんと、私を暖かく迎え入れてくれる皆と過ごしたオルゴール館?
それとも、私が一度は捨てると決めた、家族の元へなのか。
そんな、ムシのいい話があるか。こっちが駄目ならあっちだなんて、そんなこと。都合のいい風に大切な人達を扱おうとする自分に、吐き気が止まらない。狡猾ではしたない自分を、自分で捻り殺したくなった。
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「しかし」
「いいから下がってろ。いつも通り、この事は黙ってろよ」
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牢獄を閉ざす鍵の役割を担っている端末に、コードを何度か叩くが、番号が違うのか、認証は降りず、警告音が繰り返される。痺れを切らした男性は、私を閉じ込める鉄格子を、無駄とわかっているだろうに、再び乱暴に揺らし、こじ開けて入ろうしていたが、やはり駄目だとわかると大きく舌打ちをして、鉄格子をガン! と思い切り蹴った。が、打ち所が悪かったらしく、見ているこっちまで辛くなる程の苦悶の表情になり、足の爪先を押さえながら、隅にあった椅子をなんとか引っ張ってきて、私のベッドの隣らへんの柵の前に椅子を置いて、どかりと座った。
ついていた松葉杖を壁にかけ、ぶすくれた様子で足を組み、まだ痛むらしい爪先を擦っている。暫く何も話さなかったが、私が驚愕と戸惑いと、そして悲壮な顔で、その灰色と赤い瞳を見つめていると気付くと、爪先から目を離して、その赤色に私を映した。
「んな未亡人みたいな顔すんなよ」
からかいのつもりだったのだろうけれど、私に与えるダメージは凄まじかった。軽く出てきた彼の言葉に唇をぎゅっと噛み、涙を滲ませ、赤い瞳から逃れたくて再び俯く。
そんな私の様子を見て、その人は慌てて狼狽えた様な声を発する。そして、やらかしたことを反省する子供の様な声色で、ごめんなさいをした。
「あー……あ、うん。そうだよな。……悪い」
「……」
「ある意味、間違っちゃいねぇか……」
自身の発言を誤魔化すためか、「ほんと、ここ寒ィな」と私に話しかける男性は、もうハロウィンどころかクリスマスも終わったろうに、懲りずに、またミイラ男になっていた。とことん生傷の耐えないひとだ。傷を作った要因の私が言っちゃ駄目なことなんだろうけれど。
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私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
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