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memento mori
しおりを挟む目の前には白鷹組と鬼龍組の軍勢。圧倒的な数の差は見て明らかだ。数の暴力と言っても過言ではない。
太刀川さんは、元々何処へ行くにしろ、ぞろぞろと人数を引き連れて歩くのがお好きでないひとだ。基本的に、護衛にも西園寺さんとジェイさんという、最も腕の立つ方達のみで固め同行させる。それは今日とて例外ではない。
なんなら、女将さんとスーツの男性、そして私が加わり、いつもよりも珍しく賑やかな位だ。けれど、死人の如く顔色の悪いお兄さんはともかくとして、女将さんと私は全くの戦力外。そして、まさに今、戦う術を持たない人間が、いの一番にその犠牲となっていた。
しかし何故、どうやって。白鷹組は殆ど壊滅寸前で、残党もほぼ潰し終えたと西園寺さんから聞いていたのに、それらを微塵も感じさせないこの状況はなんだ。全く、聞いていた状態には見えない。むしろ、勢いが増しているようにも見える。
「見知った顔も紛れてるな」
私達を睨み上げる勢力を見下ろし、煙管の火を悠々と消しながら、太刀川さんがポツリと呟く。それに対し、西園寺さんは「調べ以上の手腕の様ですな」と返事を返した。
「天龍と手を結んでも、腹の底で反発と猜疑心を抱える連中が多いことは確かです。しかし、村雨の場合もそうでしたが、実際に天龍に対して、反旗を翻すなどというリスクを犯させるのは、そう簡単なことではありません」
「しかし、やってのけやがったんだろう。結果がこれだ。どういう口八丁で調子付かせたのかね」
「目前に、余程上手い餌でも釣り下げたのでしょう。敵を誑かすことに長けているとみます」
「類は友を呼ぶってのは、本当らしいな」
女将さんが傷つけられたことに、ショックから抜け出せないでいる私を、流し目に見下ろして、太刀川さんは薄く笑みを浮かべた。
太刀川さんの代わりに、西園寺さんがシラユキさんの名を呼ぶ。目的は何かと尋ねても、彼女はただこちらを黙って見上げるのみで、一言として答えはしない。目の前で血を流し、痛みに泣き叫ぶ女性にも一目もやらない。その目は光無く、沼の様に暗く濁った色をしている。活気に溢れていた、かつてのシラユキさんは、もう見る影もない。暫くの沈黙の後、シラユキさんは西園寺さんの問いに応えた。
ただし、暴力という形で。
「もうやめ、いや、やめて、たかねは……! たすけ……ッァアあぁあああ!!」
重い弾丸が一発、再び放たれた音がホールに響き渡る。自身の顔も写るのではないのかいう程に磨き抜かれた床は、真っ赤な水溜まりを作る。その上で、右腕と、そしてたった今、左足を喪った女性が甲高い悲鳴をあげ、声を枯らしながら泣き叫んでいる。強制的に切り離された手足の断面からは、噴水の如く鮮血が放たれた。
女将さんだけじゃない。惨たらしい、あまりにも残虐な光景を目にしてしまった私からも、大きな悲鳴が喉奥から発されそうになった。咄嗟に動いた両手が、強く強く、そのまま顎を折るのではないかという勢いで口を塞いだ。じわりとじわりと視界が歪む。鼻の奥が痛い。心臓が握り潰されそうな程締め付けられる。手も体も、何もかもが震えていた。血溜まりの上で、欠損した胴体をくねくねと悶えさせ、太刀川さんに必死に助けを求める女将さんを見ていられない。おかみさん、と呼んだつもりでも、肝心の声は出てくれなくて、掠れていた。
女将さんから噴き出された大量の血液に濡れても、シラユキさんの真っ黒な軍服がその色に染まることはない。彼女の白い頬にこびりついた血痕の赤だけが、異様に際立っていた。
床の上でごろごろとのたうち回る女将さんを、シラユキさんは無感動に見下ろした後、だらんと無気力に首を傾けて、再びこちらを濁りきった双眼で捉えた。不気味だ。もはや太刀川さんしか目に入っていない様な。
シラユキさんにしてみたら、私の前に立っている男性を視界に入れる為に、目の前に立ちはだかる女将さんという障害を取り除いただけのつもりなのかもしれない。
目の前で起こった光景に、耳と目を塞ぎたくなる。実際、見ていられなくなって、口を塞いでいた両手で両目を覆った。床にへたり込み頭を垂れ、溢れそうになる涙と悲鳴を、唇を強く噛むことで必死に押さえつけた。
「目には目を、歯には歯を。我々のやり方を真似てきたという訳ですね」
「復讐女のやりそうなことだ」
「若頭。鏡花さんの救出を最優先としてもよろしいですか。あの出血は致死量です。直ぐに応急処置を施さねば……間に合いますまい」
耳に聞こえてきた発言に、そんな、と顔を上げる。冷静な声色で、それを言い放った西園寺さんを見上げると、彼は厳かな表情で、痛め付けられた女将さんを、その左目で見つめていた。その右手は既に、刀の柄を強く握り締めている。
「片腕の女は、鏡花さんをもはや人質と扱う気はない。見せしめという形での、我々に対する宣戦布告の意思表示でしょう」
「……」
「若頭」
「好きにしろ」
「感謝します」
怨み辛みの念にまみれた眼を向けてくる勢力を、淡々とした面立ちで見下していた太刀川さんは、彼等を見て小さく鼻で笑った。
先程仕舞ったばかりの煙管を懐から取りだした太刀川さんに「志紀」と名前を呼ばれる。太刀川さんの足元で震えながら蹲り、すっかり血の気の引いた私を、太刀川さんはその青い瞳で見つめる。
「オメェは下がってろ。中で大人しく待ってりゃあ、それでいい。そう長くはならねェよ」
「で、でも、でも、おかみさんが。どうして、どうして女将さんが、あんな目に!」
「そいつだけは誤算だった」
「……え」
今までと同じだ、と答える太刀川さんは、いつもと何ら変わりない。動じない表情のまま、私の疑問に答える。
「白鷹が、天龍側の人間を誰かひとり拘束してくるってこたァ、予め踏んじゃいた。馬鹿の一つ覚えだと思いもしたが、今度ばかりは、巧みな交渉術を使う奴が居るんだ。この手を使わない訳もあるねぇ。その的になるとしたら、志紀、お前だと俺達は読んでたんだがな」
「……」
「天龍の弱味が遠坂志紀だと、名前まで正式に晒し、触れ回させ、奴等が動きやすい様に膳立てしてやったってのに、どうやら、白鷹の頭らしい復讐女のあの様子だと、俺への怨讐に駆られ、理性もぶっ飛んで、何が有利で不利になるかの見境もつかなくなったみてェだな」
太刀川さんは、こちらに真っ暗な眼を向け続けるシラユキさんを、つまらなそうに見つめた。
こうなるとわかっていて、私を此処に敢えて連れて来たことも、私を囮にしたことも別に怒ってはいない。言ってくれれば良かったのに位は思うけれど、傍若無人な太刀川の横暴は、今に始まったことじゃない。そんなひとの、太刀川さんの隣に立って、私はこれから生きていこうというのだ。どんな戦場であっても、たとえ道具として利用されたとしても、それが太刀川さんの側に居るということなのだ、腹を決めなくてはならないことだということは十分に理解していた。けれど、これは。
「安心しろ。お前にゃ傷ひとつ付けさせやしねぇよ。復讐女はともかく、向こうにゃオメェもよく知る喧しい番犬が」
「私のせいですか?」
「……」
「私のせいで、私の代わりに、おかみさんが……っ、っ……ぅ」
とうとう抑えきれなくなったものが爆発する。決壊し、それらが眼球から水滴としてどばどば流れてくる。
今もなお大切なひとが、本人の前では、なんだか恥ずかしくって口には出せないかったけれど、お母さんにも等しい情を抱いていた女将さんの悲鳴が、私の鼓膜を刺激し、キリキリと心臓を締め付ける。ひとひとりの人生を台無しにする、取り返しのつかない残虐非道な仕打ちは、本来私が受ける筈だったのに、なぜ、なぜあの女性が、女将さんが、その荷を請け負わねばならなかったんだ。
沸々と沸いてくる熱いものが、怒りなのか悲しみなのか、はたまた憎しみなのかがわからない。それらの重い感情が誰に向けられたものなのかも。ただ、燃え上がる何かが、私の心を真っ黒にしていく。床に手をついていた私に固い拳を作らせた。
太刀川さんは、行き場のない感情に苛まれている私を黙って見つめているだけだ。私をこの戦場に連れてきた男性は、暫し目を閉じ、沈黙したあと、深海を思わせる青い瞳を再び開いて、忠臣である西園寺さんを呼んだ。
「予定外の事態はあったが、全て計画通りだ。さっき言った通り、鏡花のことはお前の好きにしていい。だが、あとに支障を来す様なら捨て置け。無駄に生かして、生き地獄を見させるのも酷だろうからな」
「太刀川さん!!」
「西園寺」
「は」
「もしもの時は、躊躇するんじゃねぇ」
「……」
「二度目はねェぞ。今度は抜かるな」
「……はい」
これまでで見たことのない程に、重苦しい顔をした西園寺さんに、悪寒が止まらない。太刀川さんと西園寺さんの間にしかわからないやり取りが行われたあと、ここまでずっと、血色の悪い長身の男性の少し後ろに震えながら隠れていた巨体の男性が「たっ、太刀川殿!」と叫んだ。
「どどどどうなっておられるのか、この状況は! 何故、白鷹の鼠共がここに!」
「あんたも運が悪いな」
「ほひっ!?」
「あんまりにも、俺を此処に招こうと必死だったからな。オメェさんも、白鷹の手の内の者じゃねぇかとも考えちゃあいたが」
「ななななにを言っておられる、太刀川殿! 何故、私が美しい貴方に反旗を翻さねばならないのか!」
「……その様子だと、どうやら違うらしい。気を悪くするな。こんな状況だ。もう誰が敵か味方かなんざ、よくわからねぇもんでね」
「~~ええい警備は! 私の護衛は、な、なにをやっとる! なぜ誰も来ない!」
「残念ですが、この状況では、連中に滅されたと考えて良いでしょう」
「な、なんっ!?」
「そういうこった。まぁ、安心しろ。後ろで大人しくしてくれさえすりゃあ、命の保証はしてやるよ。くれぐれも、前線にしゃしゃり出てくるなんてこたァしてくれるな」
太刀川さんは火は点けないまま手にしていた煙管を、ゆらゆらと上下に揺らした。こうして話してる間にも、こちらの様子を伺いながら武器を構えて、じりじりと大階段を上ってくる白鷹と鬼龍の勢を、太刀川さんは余裕綽々にくつくつと笑いながら見下ろしている。大階段の下に居るシラユキさんが率いる組員達も、たくさんの銃をこちらに構えていた 。皆引き金に指を添えている。一斉に発砲してきてもおかしくない。
すぐそこ、もうあと2mの距離まで近付き、緊張感のある吐息を漏らした白鷹と鬼龍の組員の様子に、太刀川さんはただ薄く笑みを浮かべ、言った。
「間違って殺される、なんてことになりたくねぇならな」
一瞬の出来事だった。最初、何が起きたのかもよくわからなかった。一秒もかかっていない。目の前で、先陣を切って、雄叫びをあげながら太刀川さんへと迫り襲いかかって来た10名ほどの首が、一斉に、スパンと切れた。
首のない胴体が、切れた肉の断面から鮮血を空中に舞い上がらせ、皆ビクビクと痙攣し、バラバラに踊る。ドサリと次々に倒れる身体のあとに、ゴトゴトと生首が空から落ちてきた。皆、自分に何が起きたのか理解する前に絶命したのだとわかる、最期の顔だった。ごろん、ごろんと、いくつかの頭が階段を転げ落ちていく。じわりじわりと広がり、滴り落ちる血の海に、先程胃の中に納められた魚料理が還りそうになった。
どこから飛び出してきたのか、太刀川さんに背を向ける形で、黒スーツを着た男性と女性の二人組が私達の前に颯爽と着地した。女性は鎖鎌を、男性は日本刀を手にしており、真新しい血が、その刃を濡らしていた。二人とも怠そうに振る舞い、白鷹と鬼龍に対峙した。
「ギャアアアぁあアアァ!」
野太い男性の悲鳴が前方から聞こえて、そちらに顔を向ける。白鷹と鬼龍組がやってきたホールの入り口からも、血飛沫があがった。白鷹と鬼龍組の不意をついて、彼らの後ろから、ゆらゆらと黒装束を纏った数名が現れ、すぐさま俊敏に動き出し、私達に奇襲をかけてきた人達の腕や足を、次々と斬り落としていった。広いホールを、まるでスケートリンクの様に滑りながら、目にも留まらぬ素早さで駆け抜け、自分がすれ違った人間の息の根を容赦なく止めていく。
皆、突如現れた黒スーツの人達に銃を構えて発砲したり、刀やナイフを振り下ろすも、その速さに追い付けず、いとも簡単に命が摘み取られていく。
お腹の奥底まで届く銃声音が、ホールに響き渡る。あまりの大きな音に耳を塞ぐが、それでも轟音は聞こえてくる。乱射された発砲音は重いようで軽い。次々と弾が発射される音に伴って、多くの人間が撃たれた衝撃と共にバタバタと倒れていく。黒スーツの彼らに、なんとか対抗しようとする人たちは、身体のあちこちに風穴を開けられ、虚しく地に伏せていく。音のする方に目をやると、黒装束のひとりが巨大なガトリング砲を、鷹と鬼の勢に向けて乱射していた。あまりにも淡々に、目の前にいる人間を躊躇無く、次々と撃ち殺している。
ガトリングの発砲で地響きが鳴り、流れ弾が水槽になっている柱に何度か当たって、頑丈な造りの硝子も、その強度の限界を迎える。ヒビが入ったあと、盛大な破裂音と共に、硝子が散り散りに割れて弾けた。それ同時に、大量の水が柱から吹き出す。片方の柱は、上にあったポンプも破裂したらしく、留まることなく、水が滝のように流れ続けた。
数の差で不利な状況であった筈が、たった4、5人の人間によって、相手はあっという間に半数近くまで減らされていた。豪華絢爛に賑わっていたホールに広がるのは、死体の山、山、山。
虐殺だ。これは、もはや戦場などではない。言うなれば処刑場だ。数名の処刑人が、順に並べられた人間の首に、次々とギロチンを落としていく。私には、此処が地獄にしか見えない。
勿論、彼らも突如現れた相手にやられっぱなしで黙っているわけがない。水浸しになった場に足をとられながらも、必死の表情で己を奮い立たせ、雄々しく叫びながら武器を構える者もたくさん居る。襲いかかる黒服を避けて、なんとか太刀川さんに果敢に向かってくる。
私達の前に先程着地した二人組が、向かってくる果敢な勇者達をぼんやりと眺め、太刀川さんを、いや、太刀川さんの後ろにいる高身長の男性を振り向く。丁度、私の隣に居た黒スーツのお兄さんは、彼らに視線を返すのではなく、そのまま流し目に太刀川さんへと視線を向ける。太刀川さんもまた、お兄さんの方に視線を寄越すことはなく、ただ「やれ」とだけ言うと、お兄さんはくい、と二人組に向かって顎を傾け、なんらかの合図を送る。
男性と女性はそれを確認し、ゆらりと再び前を向き、武器を携え向かってきた人達に立ち塞がる。二人とも、まるで掃除でもするかの様に、威勢良く向かってきた輩を迅速に始末していく。
すると、銃を持っていた白鷹のひとりが男性に向かって弾丸を放つと、意外にも特に避けることもなく、男性は肩口に弾を喰らい、よろめいた。その隙を狙って、次々と弾丸が撃ち込まれるが、体勢を崩しはするも、二本の足はしっかりと地面についていて、ひれ伏すことはなかった。流石におかしい。何故倒れない、死んでもおかしくないのに、と男性を畏怖する空気が流れ始める。
女性の方は、一応仲間である筈の男性が撃たれたというのに、青ざめるどころか周りの反応を面白そうに眺めているだけだ。
全身に弾を喰らい、だらんと天井を仰いだ状態で突っ立っていた男性は、かくんと頭を前方に戻した。撃たれた箇所や口の端から、ごぼりと血を流しながらも、男性はニヤァと、背筋も凍るような笑みを浮かべていた。
「ば……化け物がァア!」
黒服を相手取った人物が、そう叫びたくなるのも無理はない。しかし、そう叫びながら再び銃を乱射していた人物も、自らが化け物と呼んだ、黒を纏う男性の信じられない腕力によって、胸をスボリも貫かれていた。貫通した胸から腕を引っこ抜き、ズルズルと生きたまま、血管やら何やらも一緒に引きずり、胸から直接引き抜かれてきたものは、赤黒く、ドクンドクンと動く塊、心臓だった。
「お嬢」
「……」
「お嬢、それ以上は見てはなりません。お気を確かに。さぁ、急いで中へ」
衝撃的な光景の連続に、今にも気をやって倒れてしまいそうだった。すっかり全身から力が抜け、ひとりでは歩けない身体が、西園寺さんに抱き上げられる。太刀川さんは中へ連れられる私を横目に見届けた後、煙管に火をつけていた。紫煙を纏う太刀川さんの後ろ姿を最後に、重い扉が閉ざされた。
断末魔が入り交じる外の喧騒は聞こえてくるものの、多少は防音が効いているのか籠っていた。つい数十分ほど前まで食事をしていた、落ち着きのある空間は、荒れ果てることなく、そのままで、何も変わっていない。大きな水槽に人魚のお姉さんはもう泳いではいないものの、魚達は悠々としたものだ。
「お嬢、聞こえますか。事が終わるまで、お嬢は此方で身を隠していて下さい。いいですか、若頭か俺がいいというまでは、此処から出てはなりません」
「で……でも、っおかみさ、おかみさんが、わ、わたし……どうしよう、さいおんじさ……」
「お嬢、お嬢。いいですか、とにかく落ち着いて。俺の呼吸に合わせて、ゆっくり息を吸って吐いてください。ゆっくりです。慌てず、焦らないで。さぁ」
過呼吸気味になっていた私を椅子に座らせ、背中を擦り、なんとか落ち着かせようとしてくれる西園寺さんの真っ直ぐな左目を見つめる。目を閉じ、吸って、吐いてという西園寺さんの声を頼りに、ゆっくりと呼吸を整える。
完全にとは言わないまでも、なんとか気を取り戻した私の背中を擦っていた西園寺さんは、ゆっくりと手を離した。そして、椅子に座る私の前に西園寺さんは膝まずき、下から見上げる形で、私をその左目に映す。
「若頭も言いましたが、貴女に危険は及びません。手出しもさせませんので、そこはご安心を」
「……」
「鏡花さんも、俺がすぐに此方へと連れ戻します」
待っていてください、と出ていってしまった西園寺さんを呆然と見送り、水槽からの水音に耳を集中させて、椅子の上で両足を抱えて頭を埋め、小さく踞る。
私の覚悟が足りていなかった。そう言ってしまえば簡単だ。慣れていかなきゃだなんて。そんな簡単なもんじゃないと、改めて思い知らされる。西園寺さんが落ち着かせてくれた呼吸が、不安から段々と、再び荒くなり始め、息が苦しくなる。
「ほ、ほひ~~! く、くそぉ~、こんなことになるだなんて~~! だ、だまされたぁ~~!」
どうやら、この部屋に逃げ込んだのはひとりじゃなかったらしい。部屋の隅から聞こえてきた声に顔を上げる。
隅っこで、ふひふひ言いながら、顔面中に脂汗を流していたのは、私達を此処に招いた、あの太ったお偉いさんだった。彼は私のことなど目もくれず、何やら先程から、ごそごそと壁を殴ってみたり、戸棚を物盗りの如く漁ったりと、落ち着きのない行動を繰り返している。
男性の行動を黙って見守っていると、どうやら目的のものが見つかったらしく、彼は嬉々としてそれを翳した。目を凝らして見てみると、それは端末で、彼はダイヤルをゆっくりと慎重に押し、耳に当て、どこかしらに電話を架けている様だった。あれ? さっき、通信回線は繋がりにくいように、邪魔か何かされてるって、西園寺さん言ってなかったっけ。
けれども、そのような様子はなく、相手方にらすぐに電話が通じた様子で、男性は意味のわからないことを相手に捲し立てていたが、ひとつだけ、私の耳が過去に捉えたことのある名前が出て来て驚愕する。
「は、はぁ!? なんですと!? 霧絵殿、話が違いますぞ! 私はただ、太刀川殿を間近で拝見したいと言っただけで」
「……きりえ? きりえさん?」
「今回でお近づきになれればそれで……ってなんだ、小娘。お、おっかない顔をして」
「か、代わってください」
「は?」
「いいから! 代わってください! お願いします!」
「ほ、ほひっ!? いやまぁ、構わんけれども、はい、ドウゾ……」
あんまりにもな必死さを見せた私に、若干引いた様子の男性は、意外にもすんなりと簡単に端末を私に手渡してくれた。ありがとうございます、と一言お礼を言ってから受け取り、端末を耳に当てる。
「……もしもし?」
『……あら? どこかで聞いた声ね。確か……あぁ、思い出した。この特徴のない面白味のない声は、貴女、遠坂さんね』
「やっぱり、霧絵さんですよね。浩然さんの奥さんの……」
『元ね。残念ながら、離縁されちゃったから。今は悠々自適な独身生活を送ってるわ』
「ま、まさか、また貴女が彼らを、シラユキさん達を此処に手引きしたんですか」
『あらいやだ、私を疑ってるの? 遠坂さん』
「そうです、ごめんなさい。ち、違うなら本当にごめんなさい。でも、状況が状況なんです。今は、誰も彼も疑ってかからないといけないんです」
『あらあら。声がえらく震えてるわよ。随分と参っちゃってるみたいね。ちょっとは度胸を身に付けたかと思ったら、まぁだおこちゃまのままなのね、貴女』
「わ、私のことは何とでも言ってください。それで、どうなんですか。霧絵さんは、この件に関わりが」
『なんでもかんでも、質問すれば必ず答えが帰ってくると思ってるんじゃないわよ、小娘。大体、誰に向かってそんな無礼な口を利いてるの、貴女』
「っ」
『なぁんてね。ついつい苛めたくなっちゃうのが私の性質なの。許してね』
「~~誤魔化さないでください!」
『あら。バレちゃった。ハイハイ、そうよ。手引きはした。そこにいる豚が、そのホテルに尊嶺たちを呼び寄せる様にね。その高層階じゃあ簡単には逃げられないでしょう。入り口も出口も、簡単に塞ぐことは容易でしょうし』
「どうして、そんな。霧絵さんも、何か太刀川さんに恨みがあるんですか。シラユキさんみたいに、昔、彼と何かあったとか……」
『あらやだ、なぁんにもないわよ。まぁ、あるにはあったけど、所詮お遊びというやつでね。尊嶺とは昔から仲良しこよしよ』
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「え?」
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「……?」
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「……」
『ああ。それに貴女、他人のことだけじゃなくって、そろそろ、自分のことも考えた方がいいんじゃないかしら』
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『此処では、貴女の存在はイレギュラーなのよ。どうするのかは貴女の勝手だけど、貴女が本来居るべき場所はどこなのか、よく考えることね。あぁ、あと、たまには帽子屋にも構ってあげなさいな。ツンケンしてる風に見えて、意外と寂しがり屋でね。すぐ拗ねちゃうんだから。愚痴ばっかり言いに来るから、鬱陶しいったらありゃしない』
「……え? 霧絵さん。今なんて」
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「まって、待ってください、霧絵さん! どうして、あなたが帽子屋のことを……霧絵さん? 霧絵さん!」
何度呼び掛けても返事はない。代わりに、ツーツーという無機質な音が、空しく連続して聞こえてくるのみだ。
おかしい。けれどあの言い方、間違いない。帽子屋のことを知っている口振りからも、霧絵さんは、私がこの時代の人間だということではないことに、おそらく気づいている。
霧絵さんは何者だ。いや、そもそも、あの聖堂に居た女性だって帽子屋のことに言及していた。私の想像の世界だけにしか存在しえない筈だった帽子屋とは、一年前に会ったのが最後で、それからずっと私の前に姿を現していない。
おろおろとしている男性に、端末を力無くお返しする。ぐるぐると思考を巡らせてはいるが、解決には程遠くて、現状も相まって、どこから考えていいのかわからない。
ぐ、と唾を飲み込む。よせ、やめろ。また悪い癖が出てきている。あれこれと一気に考えようとするのはよせ。まずは目の前のことに集中する。帽子屋のことはまた後だ。
そんな中、閉ざされていた扉が開かれ、男性も私も、そちらに視線をやる。西園寺さんが戻ってきたのかと思ったが、違った。
「ジェイさん……女将さん!!」
こちらに近寄ってきた血塗れのジェイさんが、米俵の様に担いでいたのは、女将さんだった。ジェイさんが歩く度、見るに耐えない痛々しい傷から、ぼたぼたと血が流れていく。
どさりと私に向けて落とされた女将さんの身体を、慌てて抱き留め、すぐに女将さんの身体に負担がかからないように抱える。
女将さんを連れ戻してくれたジェイさんに、お礼を言おうと顔を上げると、目の前に細長い何かが落とされた。え、とそれを見つめると、柄に金平糖の様な可愛らしい飾りのついた小刀だった。
「護身用。私、戻るから」
「……」
「どうせ使えないだろうけど、持ってて」
それだけを告げて、全身に返り血を浴びたジェイさんは、スカートを翻し、再び戦場へと出ていってしまう。
ともかく、今は女将さんだ。私の身体に凭れさせるように抱えた女将さんには、覇気もなければ生気もなく、目は宙を見ており虚ろで、ヒューヒューと蚊の鳴くような音を立てて弱々しく、今にも止まりそうな呼吸を繰り返している。
このままじゃ、まずい。
「な、何か布、止血出来る……傷口を覆えるもの下さい!」
「ほ、ほひっ!? そんなもの此処には……」
「何でもいいですから! は、はやく!」
「わ、わかった。待っておれ!」
男性はわたわたと、慌てて部屋のあちこちを見渡し、はっとした顔をして、規則正しく並べられたお皿やグラスの下に敷かれたテーブルクロスを引き抜いた。ガチャンガチャンと床に落ちた食器が割れるのも構わず、男性は「これでよいか!?」と、私に細かな刺繍の施されたクロスを提供してくれた。お礼を言って、女将さんの切断された手足の断面を覆うように、ぐるぐるとクロスをきつめに巻いていく。応急処置と言うには、あまりにもお粗末な止血をなんとか施すが、真っ白なクロスはすぐに赤に染められ、あっという間に湿り気を帯びていく。
「ど、どうしよう。どうしよう」
女将さん、と呼び掛けても返事は返ってこない。その顔色は、血を流しすぎた為だろう、真っ青を通り越して白くなっている。
男性も、女将さんの様子を見てサーーと顔を青くし、何か医療品がないか探してくると言って、大きな身体についた脂肪をぶるぶると揺らしながら室内を探しに行ってくれた。
ガチャガチャと部屋の奥の方で、男性が慌ただしく物を荒らす音を聞きながら、私はただひたすら、「女将さん、女将さん」と意識を保ったままでいてくれるようにと呼び続ける。女将さんが眼を閉ざしたら、それで最期な気がしてならなかったから。
しかし、女将さんを呼び掛ける私の声は、いつの間にか謝罪のことばに変わっていて、ぼろぼろと涙や鼻水を垂れ流し、ごめんなさいと呟き続けていた。
「し、き」
「お、女将さん! 女将さん、私がわかりますか!? しっかり……」
「……ぁ」
「だ、だめです。下は見ちゃダメ。女将さん、私だけを見てください。大丈夫、大丈夫ですから」
「……て」
「え、な、なんですか!?」
虚ろな瞳はそのままだった。唇に綺麗に塗られていた赤紅は、すっかりカサカサに乾いてしまっていて、その唇を微かにパクパクと動かす女将さんの口元に、片耳を近付ける。てっきり私は、いつもみたいに「大丈夫やから」と、相手に心配をかけさせまいとする気丈な女将さんの言葉が聞けると、心のどこかで愚かにも期待してしまっていた。
「ころして」
声に芯はなく、ほとんど掠れた息の中で囁かれた言葉だったが、私の耳は聞き入れてしまった。
女将さんの意思に、身も心も凍った。なに馬鹿なこと言ってるんですか、と言う間もなく、女将さんはすっかり光の失われた両目で私を見上げ、虫の声ながらも必死に、途切れ途切れにゆっくりと話し出す。聞き取るのに精一杯な筈なのに、女将さんの望みが、すんなりと耳に入ってきてしまう。
太刀川さんの足手纏いになりたくない。みっともなく無様な姿を、これ以上あのひとの眼前に晒したくない。あのひとに見られたくない。太刀川さんの前では綺麗なままでいたい。綺麗なままで死にたい。痛くて痛くて仕方ない。耐えられない。楽になりたい。ころして。しにたい。
それらを、涙を流しながら呪詛の様に何度も何度も繰り返す女将さんに、絶句する。女将さんはどんなときだってお綺麗です。勿論今だって、十分過ぎるほど。そう声をかけてあげたいのに。
「おねがい」
「……」
「たすけて、しき」
女将さんに泣いて懇願されたとき、なぜか脳裏にちらついたのは、自身の首を絞めろと迫り私を見上げる、太刀川さんの嬉しそうな顔だった。
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