運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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「前髪、伸びてきましたね」


 目が悪くなりますよ、と海の様に輝く綺麗な青眼を微かに覆う髪を、下から手を伸ばし横に払う。しかし、サラサラの髪は重力に従い、すぐに元の位置に戻る。同じシャンプー使ってるのになぁ。襟足の部分も長くなって、首にぴったりくっついてしまっているし、全体的にざっくばらんに伸びた髪は、この季節には鬱陶しいだろうに、太刀川さんはいつだって涼しげな顔をしている。

 ちりんちりんと、風鈴が風に吹かれて鳴った。行灯をひとつ点けただけで、わざと部屋を暗くして見る夜の庭を、ゆらゆらと幻想的な色で照らす蛍の光は、とても魅力的だった。お昼よりも比較的涼しくなった縁側で太刀川さんに膝枕をしてもらい、シロちゃんを愛でるのと同じ様に髪を撫でられる。少し立てられた膝に頭を預け、腰に回された腕が私の身体を安定させてくれる。すっぽりと太刀川さんの身体に囚われるこの体勢は、今やひどく居心地のいい檻だった。


「お前が切れよ」


 するりと頬を擽られながら、飽きずに何度も何度も繰り返されてきた誘いに、私は決まって首を振る。


「何回も言ってますけど、嫌ですってば。変な髪型になっちゃったら責任取れません」

「どうなろうが構やしねェよ。刈り上げだろうが剃ろうが、好きにしろ」

「いやいやいやいや、だめですよ。少しは構ってください。そこまで徹底してヤクザしなくていいです。せっかく綺麗な容姿されてるんですから、ちょっとは頓着してください」

「興味ねぇもんは仕方あるめぇよ」

「ハ●様みたいに物凄いパッツンになっちゃったらどうすんですか。取り返しつきませんよ。それに、いくら美丈夫の太刀川さんでも、あれは美少年だから許されるのであって、お年を召したら流石にキツイものが……ふぎゅっ」

「ほぉ?」

「ひゅ、ひゅいまへん。ナマいいまひた」


 両頬をぐわしっと大きな手でわし掴まれ、唇がタコさんの、異性にはあまり見られたくない、ひょっとこ顔になってしまう。女として魅力に掛ける私の顔を見て、太刀川さんがくつくつと笑い、今の私とは対照的に整いすぎている顔を近づけてくる。降りてきた太刀川さんの髪が、私の顔をほんの少しだけ隠し、色気の欠片も無くすぼんだ唇に口付ける。名残惜しそうにゆっくりと離れてから、もう一度軽くちゅうをし、ひっ掴んでいた私の頬を、むにむにと弄り始めた。

 間近にあるお顔をぼんやりと眺める。ほんと老けないなぁ、このひと。未だにちゃんとした年齢は教えてもらったことはないけれど、私よりも10は離れているだろうことはわかる。しかして、昔からここまでの太刀川さんを見ると、青年から大人の男性になったとは思えても、その先へは中々進まない。童顔という訳でもないけれど、若々しさはいつまでも健在だ。私と再会してから数年は経ち、余裕ある大人の風格は漂えども、太刀川さん自身に大きな変化はそこまで感じられない。不思議なひとだ。実は裏でこっそりアンチエイジングしてるのかな。私の方が若い筈なのに、私より肌綺麗だしスベスベだし、なんか悔しい。あり得ないとわかっても、裏でこっそり肌パックをしている太刀川さんを想像すると、中々にシュールだった。

 私の腰を抱く太刀川さんの逞しい腕に、手を添える。枕となっている太刀川さんの膝に置く頭の位置を調整し、ご機嫌を窺うように見上げる。太刀川さんはうっすらと笑みを浮かべ、さも感心したような声を出す。


「ヘェ。男への甘え方がわかってきたじゃねぇか」

「あなた限定ですよ。嬉しいですか」

「……本当に生意気になったもんだな」

「とか言って、内心喜んでるでしょ」

「なら、もっと俺の機嫌を取ってみろ」


 する、と耳の後ろを擽られる。その先にある行為の意図が読めたので、いやいやと身を捩る。


「も、もっとお話したいです。一週間ぶりに会うんですから」

「……」

「太刀川さんは千と●尋で誰が一番お好きですか? カ●ナシ?」

「さっきから誰の話をしてんだ」

「えっ、知らないんですか。千と●尋。金曜●ードショー夏休みのド定番じゃないですか。橋を渡るシーンで●尋と一緒に息止めるのは、何歳いくつになってもお約束ですよ」

「知らねェな」

「え、え~。そうなんですか。天下のジ●リなのに。時代が時代だし、相当古い作品になっちゃうから、知らないのも仕方ないのかな」

「……」

「そもそも太刀川さんって、テレビとか映画見に行ったりとか」

「する様に見えるか」

「いえ、全く。興味無いんですか? 見てみたいなって興味のわく映画とかありません?」

「ねェよ」

「あの、昔から疑問だったんですけど、太刀川さんて、お暇なときは何されてるんです? 物凄く今更ですけど、趣味とか」

「ねェよ」

「し、強いていうなら? その、私がまだここに来てなくて、暇なときは傍らに何がありました?」

「酒と女」

「(なんでへんなとこでそっくりかな)」


  誰と、とは、このひとの前で絶対に口には出せないけれど。何もかもが相対的なのに、時折太刀川さんとあのひとは人間として、何処か似通った部分があるなと思う瞬間がある。全くの正反対だけれど、似た者同士。矛盾。最近は特にそう感じることが多い。だからこそ、困る。

 私の表情に、一瞬惑いが見えたのだろう、太刀川さんがそれを追求しようと口を開く前に、話を続けた。


「私は映画見るの好きですよ」

「らしいな」

「はい。お父さんが結構な映画好きで、古い作品から新しいものまで、小さい頃から色々見せてくれたんです。映画館にもよく連れてってもらいました。太刀川さんは、今までに何かひとつでも見に行ったことあります?」

「あの場所に足は向かねぇよ。俺にゃ縁遠い空間だ」

「どうして?」

「暗闇は好かねぇ」

「……」
 
「俺にしちゃ、自殺行為とそう変わりゃしねぇよ」


 そっか、そうだった。そりゃあそうだよ。このひとは平々凡々に生きている一般市民とは全然違う。俗世間に介入し、掻き回すことはあれど、馴染むことは出来ず、人々が娯楽として楽しむことを、太刀川さんは容易には経験出来ない。アウトローに動くことは出来ても、それよりも遥かに簡単なことに対しての制限の方が多いのだろう。

 真っ暗な空間、隣には何処の誰ともわからぬ何者かが座っている映画館で、辺りを警戒すること無く無防備に、目の前にある大画面にだけ集中している私達こそ、太刀川さんにとっては信じがたいのかもしれない。貸し切りにして万全な体制を取ったとしても、警戒心の塊である太刀川さんが、好き好んで近付くことはないのだろう。生き辛い生き方をするひとだと思う。仕方のないことなんだろう。けれど。それでもせめて、少しずつでもいいから。


「じゃあ、タブレットででもいいから、近い内に一緒に見ましょう。時期的にもピッタリの作品ですよ」

「やけに積極的じゃねぇか」

「私の好きなものを鑑賞した太刀川さんが、どんな感想を言うのか気になるんです」


 太刀川さんが、酔狂な奴だとうっすらと笑みを浮かべる。それに、私も小さく笑顔を返した。


「ほんとにお薦めですよ。ジ●リ作品で一番好きなんです。さらっと出てくる台詞ひとつひとつに味があって良いんですよ。言葉の力って凄いなぁって思ったし、世界観も素敵で、どこかノスタルジックで、どの場面を切り取っても印象に残るというか」

「へぇ」

「主人公の女の子に物凄く共感出来るんですよね。ちょっとなよっちくて不器用な子で、世間知らずなとことか、境遇とか。最後なんか切なくて……」

「なんだ」

「あ、いや。その」 

「……」

「やっぱり紅●豚にしましょう」

「あ?」

「紅●豚。ものすごく渋いハードボイルドな豚さんパイロットのお話なんですけど、これがかっこよくってたまらないんですよ。太刀川さん、きっと好きですよ。飛べない豚はただの豚なんです」

「当たり前だろうが」 

「あっ、いやそうなんですけどね」


 明らかに不自然に、一緒に見たいと言っていた映画を別の作品に変更した私を、太刀川さんが意味深に見詰めてくる。そんな目で見ないでという意を込めて、ぺち、と太刀川さんの頬に触れて誤魔化す。触れたところから、深くは追求しないでほしいという私の気持ちが伝わったのか、太刀川さんは何も聞かないでいてくれた。

 背中に手を添えられ、身体を起こされる。太刀川さんの右膝の上に乗せられ、太刀川さんの肩に手を添える。

 灯りとして傍に置いてあった行灯、そして宝石箱オルゴールと共に置いてあった、綺麗に包装された中ぐらいの箱を、太刀川さんは手に取り、私に差し出した。きょとんとしている私に、太刀川さんは「土産だ」と向けてくるので受け取る。見た目よりもずっしりと重みがあった。


「あ、ありがとうございます。食べ物ですか? この重みは、餡子がぎっしり詰まった美味しいご当地饅頭とみました」

「違う」

「じょ、冗談ですよ。そんなキッパリ否定しなくても。開けてもいいですか?」

「あぁ」


 するすると純白のリボンを解き、黒い包装紙を破らない様丁寧に剥がす。な、なんだか高級感溢れた、しっかりした箱だな。箔押しされたブランドものらしいロゴに、思わず頬がひきつる。明らかにお値段の張るものだということがわかる。


「あの、ほんとに私が開封していいやつですか、これ」

「開けろ」


 いいのかなぁ。このひとの私に対する貢ぎ癖は、もはや悪癖だ。こどものときとは違い、私の年齢の変化に伴って、その贈り物のレパートリーもかなり変化しているが、あまりにもその品々がグレードアップしすぎている。気持ちは嬉しいけれど、高価な品はいらない(でもお菓子は有り難く受け取る)と何度も言ってるのに、相変わらず、太刀川さんは遠方へ赴いた際に着物やら何やらと必ず贈ってくる。しかして、お土産と言って、わざわざ買ってきてくれたものを無下に突っ返すことも出来ない。いらないなら捨てろとまで言われてしまっては、申し訳無さの方が勝り、結局はいつも押しに弱い私が負けてしまう。

 ぱかりと蓋を開け、中に入っていたものを見て一瞬固まる。中で物が暴れまわらないように、わざわざ形に合わせた型にはめこまれたソレをそっと取り出す。

 透明な黒、白、そして青い硝子達が、ぐるりと本革製のベルトをキラキラと贅沢に飾るものの華美な派手さはなく、落ち着きのあるデザインで、中央には、玉虫色に光る丸い飾りがぶら下がっている。一緒に入っていた小さな案内のカードには、ハンドメイドで一点モノと記されている。

 お、おいくらまんえんするのこれ。いや、それもなんだけど、何よりもまずこれは、この形状は。私の反応が予想通りだったのか、太刀川さんはくつくつと笑っている。


「いや、あの、太刀川さん」

「なんだ」

「なにしれっと何でもない様な顔してんですか。これ、首輪じゃないですか。わんちゃん用の。おもっきし、ここにもペット用って書いてあるんですけど」

「安心しろ。人間にも使える仕様だ」

「あ、ほんとだ……って、ちがう! そういう問題じゃなくて」

「ぐだぐだ言ってねぇで貸せ」


 付けてやると言われ、もうなんだかなぁ、と太刀川さんに首輪を大人しく託してしまう私もどうかと思う。

 膝から下りて、太刀川さんに背を向けて座る。まずは髪を梳かされ、下ろしていた髪を緩く結ってから纏め上げられる。首筋あたりの髪を掬われる際に、太刀川さんの冷たい手が当たってびくつくと、後ろから低い笑い声が聞こえてきたので、むっと唇を軽く噛む。

 ぼんやりと己の両足に目を向ける。足枷は無くなり、何にも囚われていない足首は、とてもスッキリしている。私が太刀川さんから離れない、逃げることはない、ずっと一緒に居ると再度誓ったあの日から、太刀川さんは私の足枷を外した。信用とはまた違うだろうけれど、あれだけ私を縛り付けることに固執していた太刀川さんの中で、恐らく、私がもうこの場所から自ら離れることはないと確信出来たのかもしれない。

 そう思ってたけど違うのかな。だって、次は首輪だもんなぁ。単にこういった道具で相手を縛るのがお好きなのかも。

 手慣れた手つきで私の髪を結い上げた太刀川さんが、最後に青と白の薔薇で飾られた簪を挿した。

 スッキリと露になった私の首回りを、太刀川さんがゆっくりと、性的なものを連想させる手つきで触れたあと、その首に今しがた贈られた首輪が優しく宛がわれる。カチリと留め具が嵌められた音。サイズはピッタリで、不思議と私の首に違和感無く、よく馴染んだ。顎下を捉えられ、後ろに居る太刀川さんを振り返る様に顔を動かされる。その際に、首輪にぶら下がるチャームが揺れた。

 肩越しに小さく振り返り、太刀川さんを見つめる私の姿に、太刀川さんはどこか満足げに笑みを浮かべ、顎下を擽り撫でてくる。


「いやに似合うな」

「嬉しくはないです」


 生意気にも反抗的な口を叩く私を、太刀川さんが面白そうに見つめてくる。これが単純な首飾りなら、まだ素直にお礼を言えたかもしれない。けれど、拘束具である首輪と認識した上で似合うと言われ、それに喜びでもすれば、それはちょっと危ない気がする。こちとら、被虐趣味など微塵も持ち合わせていないのだ。

 けれど悲しきかな、私の性格上、私のためにと選んで贈ってくれたことに対してのお礼を言わないということは、出来る訳もなく。小さく呟いた御礼の言葉に、太刀川さんは笑みを浮かべる。


「でもね、ほんとに毎回言ってることですけど、私、食い意地は張ってても、物欲は薄い方なんです。ブランドものとかも正直よくわからないし、私には勿体無いですよ。豚に真珠です」

「安心しろ。俺もよくわかっちゃあいねぇよ」

「え、でも」

「俺ァ、お前に合うと思ったモンを選んでるだけだ」

「……」

「何だ、そのツラは」

「太刀川さんが女性におモテになるのって、そういうとこなんだろうなって思って」


 私の言ってることが、いまいち分かっていないらしい太刀川さん自身に、自覚が無いのも理由のひとつなのだろう。それくらい自然にやってのけるのだ。サラッと、至極当然の様に紡がれるこのひとの発言は、太刀川さんが気になるという女性にとっては恐らく殺し文句で、そして止めの一撃に十分な破壊力を持っているに違いない。


「お気持ちは有難いんですよ。有難いし、それだけで十分なんです」

「いい加減しつけェ。俺が好きでやってんだ。オメェが気にするこたァねぇよ」

「気にしいな性格なんです。あなたが一番よく知ってるでしょ」

「なら考え方を変えてやる。趣味だ」

「え」

「考えてみりゃあ、昔から、オメェに土産やらなんだのと探すのに面倒を感じたことはねぇ。むしろ悪くなかった。これが俺の趣味って奴になるのかもしれねぇなァ」

「……」

「……で? 俺の少ない楽しみをそれでも奪うってのかい、お前は。酷ェもんだな」

「~~っ……この流れで、その言い方は狡くないですか! そんな風に言われたら、私何も言えなくなっちゃう」

「わかった上で言ってんだよ」

「ヤクザだ……」

「本物のな」

「ぐぬぬ」

「もう戯言は終いだ。志紀」


 首輪に触れられ、それらしく鳴いてみせろ、と後ろから腰を抱かれ、引き寄せられる。吐息混じりの色気たっぷりな低い声で名前を囁かれ、耳の後ろに唇が当たる。

 浴衣の上からやんわりと胸を揉まれ、その手が上へと徐々に上がり、首輪にぶら下がる飾りを指で軽く弄ばれる。手の甲で首輪のついた首を撫でたあと、掌が私の鎖骨をなぞって、浴衣の前合わせに侵入してくる。

 抵抗はせず、太刀川さんの望むようにさせるが、顔を斜め下に傾け、固く目を閉じる。やはり、縁側でことに及ぶのは羞恥が勝つ。灯りは蛍と行灯の光だけ。殆ど夜の暗闇に包まれているといっても、外であることに変わりはない。

 上半身の浴衣を肩口からずらされ、現れた両肩のラインを、掌が慎重になぞっていく。背中や肩に軽く唇を落とされながら、太刀川さんの両手が蛇のように脇下を這い、数年前に比べればほんのすこしだけ、気持ち程度でも膨らんだ(と信じたい)両胸を捕らえた。ひんやりとして冷たい。夏の暑さで、よりその感覚が過敏になる。

 片手で口元を隠し、後ろにいる太刀川さんに体重を預け、太刀川さんの手によって、すっぽりと包まれた肉。太刀川さんの手の動きによってぐにゃぐにゃと様々な形に変わる肉を眺める。くに、と両胸の飾りを指で摘ままれ、強弱をつけて指で捏ねられると、ピリとした感覚に息が詰まる。たまらず小さく身動ぐと、首輪の飾りが揺れた。淫らにひん剥かれた浴衣、首輪だけつけた、ほぼ半裸の自分が、本当に人間としての尊厳を喪ってしまったみたいで背徳感に苛まれる。

 ささやかな肉のなかに押し潰されたり、転がされたり、軽く引っ張られたりと、好き勝手される内に、太刀川さんに教え込まれた身体が反応を示しだす。もぞ、ともどかしそうに腰が動いてしまったのを太刀川さんに気づかれ、耳元でそのことを意地悪く指摘される。羞恥で熱くなる顔を背けると、真っ赤になっているだろう耳を食まれた。

 太刀川さんの右手が胸を離れ、下へと伸びる。帯を緩めようとしたのだろう、お腹の辺りに手を添えられた瞬間、私の中で突然恐怖心が生まれ、自分でもそれに驚き、咄嗟に私のお腹にあった太刀川さんの手を捕まえ、動きを止める。

 太刀川さんは私の制止に従う。けれど、今まで大人しくしていた私が、久し振りに抵抗を見せたことで、何も言わず様子を探られているのがわかった。

 死んでも悟られたくない。内心でかく嫌な汗が、滝の様に流れる。じわりと胸中に広がる苦味が辛くて仕方ない。

 この一瞬で想像してしまった、私に待ち受けている未来。そして、やがては訪れるだろう未来を、歓びなどではなく恐怖してしまった私を、太刀川さんにだけは死んでも知られたくない。

 早く、早く取り繕わないと。そう思いながら、留めてしまった太刀川さんの手を引き寄せ、両手で包み込む。


「あ、あついから、やだ」

「……」

部屋なかでしたいです」


 なんとか誤魔化したいという気持ちから、不慣れな誘いの言葉を恐る恐る紡ぐ。おねがいと甘えた声を出す自分の気持ち悪さに戦慄しながらも、太刀川さんを振り返り見上げ、首に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。

 太刀川さんを裏切り続けた今までの私を、一生許さなくていい。抱え続けてきた恨みと憎悪を、好きなだけ私にぶつけてくれていい。私が壊れるまで、好きなだけ滅茶苦茶にしてもいい。

 私が恐れてしまったそのいつかも、時間はかかるかもしれないけれど、必ず受け入れるから。だから、今だけは、形だけでもいいから、騙されて。もう次はこんなヘマはしない。だから、私に対して懐疑的にだけはならないで。

 私が、何事かを有耶無耶にしてしまいたがっているのを察したのか、そうでないのか、太刀川さんは私を軽々と抱き上げ、冷房の効いた室内へと連れていく。

 もう情婦って言われても否定できないな、なんて考えながら、私を抱く太刀川さんに為されるがまま身を預けた。




 




「志紀? 起きとる?」


 仕切りの向こうから声がかけられ、暫くしてから障子が開いた。ベトベトになったお布団のシーツをひっぺがしていた最中の私は、慌てて汚れたそれを後ろに隠す。鳥の鳴き声がする、少しだけ寝坊をした朝、朝食を持ってきてくれた女将さんが起きている私を見て、ほっと安心した顔をし、柔らかく笑いながら朝の挨拶をした。


「おはよう、志紀。ええ天気やね」


 後ろめたいような気まずさを抱えたまま、ゆっくりと顔を上げ、少し時間が経ってから、なんとか小さく挨拶を返すことが出来た。

 太刀川さんがお仕事から帰って来た次の日の朝は決まって、女将さんの顔をまともに見られなくなる自分が居る。太刀川さんがつけた、赤い痕が目立つ首もと付近を見られたくなくて、髪を前に持ってきて、整えるフリをして覆い隠す。

 わかりやすい、バレバレの私の挙動に女将さんは苦笑し、私の前に、ほかほかの湯気の立つ、美味しそうな朝食の載ったお盆を置いた。そして、私の後ろに隠したシーツを、手慣れた様子で機敏にぱっと取り上げられる。そして、手早く色んな体液で汚れたそれを、部屋にあった籠に入れた。


「お風呂まだやろ。今から連れてってあげるから」

「あ、いや……えっと、その……」

「なんや、尊嶺はんと朝風呂入ったんやね。じゃあ着替えはここに畳んであるやつね。これも洗濯持っていくわ」

「わ、私もお手伝いします」

「なぁに言うとんの。ただでさえ足腰弱ったフラフラの状態の癖して。ええのよ。わてがちゃっちゃと終わらすから。ちゃんと髪も乾かしてもろたみたいやね」


 一束髪を掬われ、湿り気が残っていないかの確認をされる。


「気にせんでええから、朝ご飯食べとき」

「すみません……有り難うございます」

「あぁ、そうそう。今日は夕方なったら外出ることになってるってことは聞いとる?」

「は、はい。太刀川さんから朝言われました。お仕事が済んだら、こっちに迎えを寄越すって。何処に行くかまでは、お聞きしてないんですけど」

「何処でもええやないの。外の空気吸うのも約一年振りやろ?」

「……はい」

「ちゃんとご飯食べて体力つけとき。どうせ、ちゃんと眠れてもないやろうし、時間なるまで二度寝しといたらええわ。お化粧と着付けも手伝ったげるから」

「女将さん」

「なに?」

「私……」


 膝の上に置いていた両手に、力が入らない。震えもしない。太刀川さんが傍から離れてしまった途端に、身体全身から力が抜け落ち、充電が切れる。今はまだいい方だ。太刀川さんと離れる期間が長ければ長くなるほど、この症状は酷くなる。お仕事で仕方がないとはいえ、一週間も離れてしまったときは、何をするにも億劫で、言葉ひとつ発するにも中々出てきてくれなくなった。伝えたいことやお話したいことはあるのに、自分でも戸惑うほど、女将さんとお話しするのもひと苦労となって。こうしてきちんと会話が出来るのも数日振りだった。

 何でもなかった様に振る舞ってくれる女将さんにお礼を言う。そして、ごめんなさいなんて一言で収まりきらない、ましてや申し訳ないなんて言葉もお門違いの、どう言葉で表現したらよいのかわからない胸の蟠りをなんとか伝えようと口を開こうとしたら、水仕事をしているとは思えない白魚みたいな肌をした手が、私の口を覆った。その状態のまま女将さんを見上げる。切なげに笑う女性の姿に、胸が締め付けられる。手の下で私が口を閉じたのを確認した女将さんが、すっと手を退ける。そして、きちんと整えられた眉を下げ、長い睫毛を伏せ、赤い紅が塗られた唇に、少しの笑みを浮かばせた。


「想うだけならタダやろ?」

「……」

「それに、わての勝手や。なんせ年季の入った情やもの。黴みたいに、しつこくこびりついとる。そう簡単には落ちてくれへん」


 にゃあんと猫の鳴き声が、縁側から聞こえてくる。首の鈴を鳴らして、こちらに近寄ってきたシロちゃんが、尻尾を揺らして私たちを見上げる。女将さんはシロちゃんを抱き上げ、ふわふわの頭を撫で始めた。


「こうなるんやないかって覚悟は、尊嶺はんがあんたに接するときの姿を目にする度にしてた。どれだけ望んでも、あんな風にあのひとがわてに触れることも、柔らかい言葉をかけられることも、大事に大事にされる日は一生おへんてね。そうわかってても、あの酷いひとを諦めきれへんのよ」

「……」

「引き際の悪い自分を恨んだけど、もうこればっかりはどうしようもない。あのひとが、わてのことを女として見いひんくなったとしても、わての後生を捧げたい思てしまったんやから」


 女将さんがシロちゃんを膝に下ろし、喉を擽る。ごろごろと甘えた音を発する白猫に、女将さんは「ほんまかわええ子やね」と破顔した。

 女将さんは顔を上げ、唇を噛んで溢れだしそうな何かを必死で抑えつけている私に、そんな顔をするなと言った。結局は惚れた方の負けでその時点で負け戦。どうにもならない融通の効かない感情なのだと。忘れようとしても、忘れられるものではないと私に教えた。


「香澄ちゃんにも同じ事を言われました」

「香澄に?」

「はい」

「あの子もようわかっとるわ」

「香澄ちゃんが今の私を見たら、ものすごい怒るんだろうなって、いつも考えるんです」

「自分の道を大事にする子やもの」

「はい、自慢のお友達です」

「……」

「……」

「……わても素直な方やない。今まで口に出したことはなかったけど……」


 女将さんは、私をまっすぐに見据えた。そしてひとつ息をつき、意を決した様子で口を開いた。


「志紀。わてはあんたのことを、ひとりの女として、これでもかいう程恨んでる。醜い女の嫉妬やと思われてもいい。実際そうやもの」

「……」

「でもその反面……同じくらい、あんたに同情しとる」


 膝の上で力無く垂れた私の手を取った女将さんは、真剣な表情で私に問いかける。ぎゅっと私の手を握る女将さんの手は、少しだけ震えていた。


「志紀。ほんまにこれでええの? ヤクザのものになるいうことの意味は、もう十分にわかっとるやろ。二人だけの問題で済まへんことだって、これからたくさん出てくる。それでもええの?」

「……」

「お願いや、志紀。わては、あんたの本心が知りたい。ほんまは、今もあの男のこと……」

「も、もう、いいんです」

「……」

「もう、私は」

「なんで? 何がええの?」

「女将さ……」


 がしりと勢いよく両肩を掴まれ、驚きで目を見開く。今にも泣きそうな表情かおをした女将さんが、私を一心に見詰めて言葉を詰まらせた。何度か口を開閉し、くしゃりと綺麗な顔を歪ませ、震えた声を漏らす女将さんに、私も戸惑いを隠せずにいた。


「わては、わてはよう覚えとる。あんたが想い人の話を聞かせてくれたときの顔。ほんまに嬉しそうで、普通の女の子で、平穏で……せやけど、今のあんたは痛々しいとしか言い様がない……」

「……」

「志紀。それを抱えて押し殺し続けて、これからを生きていくのは、あんたにはあんまりにも荷が重すぎるとしか思えへん」


 役不足だと責める様な口振りではなかった。女将さんはただ、私が奥底に秘めた真意を掬い上げようとしてくれている。私のことを想って、本心を引き出そうとしてくれていた。蜘蛛の糸みたいに。

 私の肩から脱力した手を下げ、だらんと俯く女性に、「それでもいいんです」と言うのが精一杯だった。油断していると溢れ出てしまいそうな感情の蓋を、強く押さえつける。

 最後に見た赤は、あの日から一年半経った今でも色褪せることなく、私の名前を叫ぶ力強い声も、私の脳裏と鼓膜に鮮明に焼き付き、残っている。焼き付いて、その痕が剥がれてくれない。女将さんの言っていた、拭いても洗っても中々落ちてくれない黴と同じだった。

 もう二度と会えなくても構わない。

 二人で参拝した神社、神様の前で手を合わせて願った事は、今も変わっていない。それ以上はもう何も望まない。無事に、出来るなら、心に決めた誰かと一緒に、幸せに生きていてさえくれるなら。



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