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仇名
しおりを挟む太刀川さんと再会するまでの、自分の生まれた時代で生きていたときの私は、本当に平々凡々な中学生として何の変哲もない日常を送っていた。
朝早く起きて学校に行って、一限目から古典の授業で、子守唄とそう違わないおじいちゃん先生の説明に眠気を誘われ、自分と闘いながらノートにミミズ文字を綴る。部活には入ってなかったから、基本的には真っ直ぐお家に帰って、たまにおばあちゃんから帰りにお買い物を頼まれたらスーパーへ寄ってお使いを済ませて、夕飯の支度をしているおばあちゃんにおかえりって言われて、それに返事をして。
自室で制服を脱いで部屋着に着替えたら、宿題を済ませて予習復習をする。眠気との戦闘の結果、古典のノートに残されたへろへろの文字は自分で書いた筈なのに解読不能。ただでさえ古文を読み取るのは得意じゃないのに、自分の書いた文字で躓いているのだからどうしようもない。教科書と照らし合わせ、友達と連絡を取り合い助けを借りてなんとか読み取り、綺麗に書き直すという二度手間の作業を済ませたら、晩御飯が出来たよとおばあちゃんに呼ばれる。
その頃にはお父さんもお仕事から帰ってきて、リビングで三人、テレビのニュースを見ながら少し味付けが濃いおばあちゃんお手製のご飯を食べる。
当番のお皿洗いを済ませたら、ビールを飲んでご機嫌になったお父さんにゲームに誘われる。お互いにブームになっていたス●ブラで、父の分身であるス●ークに私のカー●ィがぼこぼこにされてしまったり、おばあちゃんとその日あった出来事など他愛のない日常の話をしたり、おばあちゃんが歩ける内に何処か旅行へ行きたいねと所謂一家団欒を楽しんだあとは、おじいちゃんの仏壇の前で手を合わせてから自分の部屋に戻る。
もうすぐテストも近いし、そろそろ受験勉強もしなきゃなぁと、寝る前にテキストに触るようにもなっていた頃だった。部活やってるひととかどうしてるんだろう。両立出来るひとってすごいなぁと苦手な数式に頭を悩ませてからベッドに横たわって就寝。
それの繰り返し。世間一般の女の子と何ら変わらなかったのに。でも、それが良かった。私にはそれで十分で、不満なんて何もなかった。本や映画、ゲームの登場人物みたいに不可思議ですごい能力も、世界中の皆を救わなければならない特別な使命だとか、そんなのひとつもいらなかった。私は、人並みに生きることだけでも、それなりにいっぱいいっぱいだったから。
そんな凡庸な日常がある日突然に失われるなんて、まさか思いもしなくて。
未来に飛ばされたということだけでも、あまり賢いとは言えない脳みそがパンクしそうになるのに、普通に生きていたら絶対に関わり合うことのなかっただろう極の道を進む男性に拾われて、大事にされて。
しかし、実はその相手が、小さい頃に淡い想いを抱いていたお兄さんだったというのだから驚きだ。そして、彼が小さくちっぽけな存在だった私のことをずっとずっと覚えて、想い続けてくれたことも。私は忘れてたのに。
戯曲の様な運命が、太刀川さんとの巡り合わせを引き起こした。特に目立つこともない未来を淡々と歩む筈の、舗装されていた私の道が土砂崩れによって歪まされてしまった。家族と共に静かに息を潜め生きていた地中の巣に、邪気の無い悪意によって水を流し込まれ、理不尽に溺死させられてしまう蟻みたいに。
浩然さんに荷の扱いが如く、後ろ襟を取られ、瓦礫や破片の散らばる床の上をずるずると引き摺られる。先程から崩れた砂利が背中やお尻を直撃して地味に痛いし、首も苦しい。首周りに指を突っ込んでスペースを作り、息苦しさを軽減させる。
空いていた左手を顔の前に翳した。掌についた赤黒の染みを、滲んだ視界でぼんやりと見つめる。あの女の子と私は同じだ。生きるに必死な日々を生きていて、突然訳もわからない事態に巻き込まれて、そして意味も分からず殺されてしまう。自然災害と変わりはしない理不尽に溢れている。
此処は、太刀川さんの生きる世界は、ひとを殺すことに対してどうとも思わない、邪魔になるなら始末するし、目の前で死にかけた人間が居ようがお構いなしの人達ばかりだ。太刀川さん自身だってそれは変わらない。あのひとの側に居たら明日は我が身だ。だけど、だけど。
血に染まった手をぎゅっと握り締める。女の子の死を間近で見て助けられなかったことに対する罪悪感、しかし、その次に考えるのは自分のこと。
次にあんな結末を迎えるのは私なんじゃないか。
薄情だなぁ、と両目を血のついた片手で覆う。ぼろぼろと流れる滴は、どれだけひとのためと行動しようと、結局は自身に帰結してしまうことに対する嫌気、そして、元の世界へ帰る手段を先回りして奪われても、あれほど会いたいと焦がれた家族と引き離されても、この時代に来て、抱いてはならないとわかりつつも惹かれずにはいられなかったあの暖かさに溢れた男性を、あんな残酷極まりない方法で痛め続けているのを目の当たりにしても、どんなにひどく扱われたって、こんな私なんかに簪をくれた冷血非道で暴虐無人な太刀川さんを心から大切なひとだと想う気持ちが一寸もぶれてくれないことに対しての、呆れから出たものだった。
「いい加減に立て。煩わしい」
地下へ続く階段を、浩然さんが猛スピードで私を引き摺ったまま駆け降りるものだから身体中が痛い。下り終えたところで無気力に俯いていた私の頬を先程と同じく容赦なく叩いてきたので、じんじんヒリヒリと頬に熱と痛みが籠り始める。
よろよろと足に力を入れ顔を上げると、そこはかつて私も容れられた、太刀川さんから逃げて捕まったあと折檻された囚人用の牢屋だった。松明の火がほんのり中の様子を照らし出す。目を凝らして見えたものに息を呑んだ。
惨状を見た浩然さんが舌打ちをして近くにあった松明を手に取り、薄暗い中でも堂々と足を進める。慌ててその後を足を引きずりながら追う。
辺りを見渡すな。直視してはいけない。しかし、踏みしめる度にぶよぶよとした感触と、屑物に紛れたビチビチとした音が現実から目を背けることを許さない。出来るだけ踏まないようにと気を付ければ気を付けるほど、辺りの状況を把握することになってしまう。
「特殊加工の手榴弾を多量に投げ込まれたか。無粋なやり方を好む連中だ」
死屍累々。崩れた壁やぼろぼろになった牢獄。浩然さんの言い方からすると、爆発音はこの地下からのものだったのだろう。
浩然さんの様な漢服を着たひとたちだけじゃない、おそらく戦闘に巻き込まれてしまったのだろう、この牢獄に閉じ込められていた囚人たちの焦げた遺体に、四散し原型を留めていない肉の塊、部位を破壊された胴体などがあちこちに転がる地獄の光景がそこにあった。つんざく生臭い臭いが鼻孔を刺激する。
気持ち悪い。いったん両目をぎゅっと閉じ、荒くなった呼吸を必死に整えるが追い付かない。出たい、ここから。今すぐに。
長居したくないという思いも虚しく、どんどんと浩然さんは前へと進んでいってしまう。もう進みたくないと悲鳴をあげる重い足。けど、ついていかなきゃ。バシンと右の太腿を叩き、無理矢理でも言うことを聞かせる。
時折躓きながらも、浩然さんの後ろを必死に追いかけると、私が閉じ込められていた一番奥の牢獄に辿り着く。
その行き止まりの壁に浩然さんが手を添えてずらすと、隠されていた操作パネルが現れた。長い指で素早く数字を叩くと、地鳴りと共に、目の前の壁が左右に切り開いていく。開かれた隠し扉の奥は細長い通路が続いていた。薄暗い牢屋とはうって変わって、真っ白で無機質な空間。風来組の城で見たあの研究施設とおなじ匂いがした。
突然、浩然さんに二の腕を掴まれ、思い切り細長い廊下へと投げられる。受け身も取れずに呆気なく倒れ込んでしまい、いきなり何をするんだという意を込めて浩然さんを見上げると、彼は何事もない様子で、あちこちに疑問符を撒き散らしている私を見て舌打ちをし、顎に手をやり難しい顔をしていた。
「解除されたというのは本当だったか。しかし誰が……」
そう言いながら再びパネルを操作し始めた浩然さんに嫌な予感が止まらない。あたふたしながら身体を引き摺り、通路から出て、浩然さんの足元に到着したその直後、ビーーと電子音が後ろから鳴り、自分が今の今まで居た細長い通路を振り返ると、触れるとヤバイと見ただけでもわかるレーザーの様なものが通路の中を蠢いていた。暫くしてから光線は止み、再び静けさを取り戻す。
浩然さんはそこら辺に落ちていた瓦礫の小石を拾い上げ、通路へと投げた。するとジリリと焼ける音と共に、投げ込まれた石が瞬時にして木っ端微塵に跡形もなく砕け散った。ちょっと待って。
「やはり故障では無いな。正常に作動している。なれば、やはり人為的に操作されたものと考えるのが道理か」
「ちょ、ちょっと!? な、なななななんてことをひとで試してんですかッ!?」
「これしきのことでいちいち喚くな。喧しい」
「喚きますよ非難しますよ!! これで何も言わないならどうかしてます!」
「本当に喧しいな貴様。太刀川も女の趣味が悪くなったものだ。こんな小癪な女の何が良いのか」
「……わ、私に何かあったら太刀川さん黙ってませんよ……たぶん……」
「ほう? 太刀川を盾に俺を強請るか、女。たわけが。確認を怠り、自らずかずか先陣を切った結果、馬鹿馬鹿しい不慮の事故で呆気なく死んだと奴には伝えるに決まっておろうが」
なんか……その理由で太刀川さんが普通に納得してしまいそうだから怖い。
勝ち誇った顔で足元でへたりこんでいる私を見下す浩然さんは再びパネルを叩いたあと、堂々と通路を突き進んでいく。光線は出てこず、勿論彼の身体がぐちゃぐちゃのミンチ状にならない。このおぞましい罠を解除したのだろう。それでも、やはり恐怖心は勝る。おそるおそる、ちょんと人差し指だけを通路の中に入れてみる。何も起こらなかった。
長い通路を進んだ先にある扉にも厳重なセキュリティがかけられていた。にも関わらず、解除されていたとまたもや憤慨する浩然さんの後に続いて中に入る。
第一印象は無機質な病室。真っ白な通路とは違い、青白く薄暗くて、物悲しさが感じられる。破壊された蛍光灯のせいで、電気が十分に部屋を照らしていない。割れていないものですらバチバチと明暗を繰り返している。
入院病棟の集合部屋と同じで、ベッドがいくつも並んでいる。周辺の床にはいくつもの死体が転がっていた。顔を潰されたひとや、首と胴体が千切れたひと。それらの屍を、死者に対する冒涜だとも気にせず踏み越えた浩然さんが、奥にある重厚な機械に取り囲まれた空っぽのベッドの前まで進んでいく。
私はその場に立ち竦んだまま、どこの誰かもわからない亡骸を呆然と眺めてしまう。手前にあるベッドの足に凭れかかる様にして倒れている男性の遺体の前で屈む。口から血を垂れ流し、目を限界まで見開いたまま絶命している。その胸元には何かで貫かれたのか、大きな穴が開いていた。
震える手を伸ばし、衣笠さんがしていたのと同じ様に、その目を閉ざした。眠るようにして息絶えるという最期を迎えるのは、この世界ではどれほど難しいことなのだろう。命を落とした後も最期の光景をその眼に写し続けることは、あんまりにも酷だ。せめて、眠りにつきやすいように手助けをしてあげることしか出来ない。
空のベッドを見つめたまま動かず、ぷるぷると震えるほど拳を握りしめている浩然さんを見つめる。背中しか見えないが、彼が今非常に苛立っているということは雰囲気ですぐにわかった。
部屋の隅から小さな呻き声が聞こえてきた。は、とそちらに顔を向ける。それは浩然さんも同時で、彼も声のする方に松明を翳す。そこには、もがれた両足から大量の血を流す、中国服を着た男性が空を見つめ、呻きを上げている。嶺上の、浩然さんの部下の方だということはその容姿でわかる。
瀕死状態の相手を気遣うよりも先に、嶺上の長は己の部下の様を、私にはわからない言語、おそらく彼の母国語である中国語で強く罵倒し、胸ぐらを掴んで怪我人を前後に揺り起こした。それを見て、流石に手を出さずにはいられなかった。
「だ、だめですってば! そんな乱暴しないで! 本当に死んじゃう!」
腕を掴んで静止するも、このひとも鍛えているのだろう、びくともしてくれない。ごぼっと塊の血を吐いた男性は白目を剥きながらも、息も絶え絶えに言葉を発した。何度も質問を繰り返す横暴な上司に対し、掠れた声ながらも応えようとしていた。
一言二言、途切れ途切れに発した彼の言葉に重ねて問いを繰り返す浩然さんに、名も知らない部下の男性は最期の言葉を紡ぎ、没してしまった。それは、隣で暴挙の限りを尽くす金髪の男性を驚愕させるもので、彼は亡骸となったひとの胸ぐらを掴んでいた手を離し、その名前を声にした。
「霧絵だと?」
馬鹿な、と続いて呟かれた言葉は衝撃に満ちている。徐々に憎悪の色に染まっていく浩然さんの顔は凄まじく恐ろしい。
「あの淫売めが!! 」
憎々しげに吐かれたのは霧絵さんを貶すものだった。ダンと床を殴る拳からは、骨を打つ痛々しい音がした。その音を聴いて、思わず自身の手を握りしめてしまう。
暫く俯き沈黙していた浩然さんが大きく深呼吸し、その強い輝きを放つエメラルドグリーンの瞳を前に向ける。彼はただの肉塊と化してしまった部下をじっと見つめ、自身が着用していた裾の長い上衣を脱ぎ、先程まで力強く詰めていた男性の身体の上に覆うようにして掛けた。
「あの」
恐る恐る声を掛けるも、浩然さんはこちらを見ない。
バタバタと足音が聞こえてきて、扉の方を見ると、武器を持ち、あちこち傷だらけの中国服を着た物騒な人達が駆け込んできた。浩然さんは立ち上がり、その人達に向かって中国の言葉で怒鳴り、指示している。その後ろからも数人、天龍の方々も慌てた様子で現れたので、浩然さんが続けて日本語に切り替え、素早く指示を飛ばした。
「遅い! 何をちんたらしていた! 西園寺はどこだ!」
「鬼柳の兵隊が現れました! 現在若頭補佐も応戦しています」
「チィッ! 朝倉は姿を見せたのか!」
「鬼が頭は見当たりません!」
「派手を好む奴が戦場に出てこないなど有り得ん。何処かに姿を潜めて機会を伺っている筈だ! くまなく探せ! おい! そこの貴様! アバズレ……霧絵を見なかったか!」
「は、奥方様ですか。いえ、お見掛けしておりませんが」
「探せ! まだこの館の中に居る筈だ。捕らえて俺の前まで連れてこい! どれだけ痛め付けても構わん。息さえしておればいい!」
「しょ、承知した」
「は、浩然さん。霧絵さんがなにか……ッ!」
再び上の方で爆発音が響く。それを耳にし、舌打ちをした浩然さんが私の腕を取り、部下の皆さんを押し退け、ズンズンと来た道を戻っていく。足がもつれて上手く歩けない。浩然さんに半ば引き摺られる形で突き進んでいく私達の後ろを、中国服を着た人達が付いてくる。階段を上がり途中で転けて、前を歩く浩然さんに怒鳴られ、腕を引っ張られながら必死に身体を動かす。
やっと地上に出ると、浩然さんが立ち止まった。荒くなった息を整えるために、私を強引に引っ張ってきたひとの足元でへたりこんでいると、カチャリと物々しい音が私達を取り囲んだ。そして、聞こえてきた鼻唄。言い様もない悪寒に顔を上げる。
柱の陰からぞろぞろと現れたのは、手にしている銃火器を私達に向けた人達。私達の後ろに居た嶺上の皆さんが急ぎ前に出て、それぞれ手にしている武器を構えるが、数の差は圧倒的だった。後ろは地下へと繋がる道しかない。完全なる袋小路。
「誰かをお探し? 浩然」
「霧絵……」
こちらに銃口を向けている物騒な人達の中から現れたのは、優雅に笑みを浮かべた女性。編み込んだ銀髪に、紫色の瞳。青い紅がにんまりと半月を妖しく描いている。
私の腕を掴む浩然さんの手に力が込められる。痛くて仕方なくて顔を歪めると、あらあらと霧絵さんが夫を嗜める。
「女性は大切に扱いなさいな。そのままだと腕が折れちゃうわ」
「貴様、よくも俺の前にその薄汚い面を見せることが出来たな」
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「シラユキさん……」
私を捉えたその視線は、どこまでも深い憎悪、そして恨みが込められていた。
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的確な狙いで左足に銃弾を受けてしまった浩然さんがくぐもった呻き声を上げ、撃たれた太腿を手で押さえて膝をつく。手で押さえたところからはドクドクと血が流れ始めた。
「は、浩然さ……ッ!」
脂汗を滲ませ、敵を睨みつける緑色の瞳は、人を射殺さんばかりの力強さがある。
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こちら側で息をしているのは、足を負傷した浩然さんと、同じく歩くことすらままならない女のみとなった。
「随分と手荒ねぇ。まるで虐殺だわ」
頬に手をあて、ふうと息を漏らしながら呟く霧絵さんの隣で、シラユキさんが上げていた手を下ろした。すると、私達を取り囲むひとたちがすっと銃を下ろす。
シラユキさんは靴音を鳴らし私達に近づいた。顔中にびっしりと汗を滲ませ、息を荒くし、シラユキさんを忌々しげに睨みあげる浩然さんと、いまだ床に伏せつけられたままの私を見比べ、シラユキさんは黙ったまま、くいと首を動かす。
男性二人が出て来て、浩然さんの両腕を掴み無理矢理立たせ、連れて行ってしまう。
「離せ下朗!」
ガミガミ怒り狂い、霧絵さんへの罵倒を繰り返し、何処ぞへと連行されていくその後ろ姿は、今しがた発砲を直に受けた人物とは思えないほど威勢が良く元気だった。
ぴちょん、ぴちょんとシラユキさんの横髪から滴る水滴が床を濡らす。顔を上げることが出来なくて、その水溜まりを座り込んだまま見つめていた。しかし、いつまでもこうしている訳にはいかない。でも、何を話せばいい? まずは謝罪なのか。謝って許される訳ない。私のせいで、シラユキさんは腕の一本を取られてしまった。他にも数えきれない程、頭を下げなければならないことがある。
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「……」
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その後霧絵さんは、シラユキさんの頬に唇を落としてから身体を離し、私に対して、じゃあねと手を振り、鼻唄を歌いながら背を向けて行ってしまった。
『いくら盃を交わそうが兄弟と呼び合おうがよォ、今みてぇに、理由がなんであれ、裏切るときは呆気なく裏切られちまうしなぁ』
ヤクザの組長でありながらヤクザを好まないと言っていた衣笠さんの言葉の意味を、こんな形で痛感することになるとは思わなかった。誰を信じたらいいのかわからない、不信感が募るばかりの出来事が重なる。いつ、どんなときに、例えそれが身内であろうとも、婚姻を交わした相手であっても、こんな風にあっさりと裏切られてしまう。
眠れないことを癖みたいなものだと私に言っていたときの太刀川さんの表情が脳裏をよぎる。目元にびっしりとクマをつくり、毎夜おびただしい量のお酒を煽ることで、無理矢理自分自身を眠らせていたひと。
自分の命を守ることが出来るのは自分だけだからと羽を伸ばすことも出来ない、いつしか伸ばし方も忘れてしまって……いや、そもそもその方法すら知らなかったのかもしれない。
常に気を張り巡らせなければならない極限状態で毎日を生き抜くのは、どれだけ苦しいかなんて、そんなの本人しかわからない。そこまで自分を追い込まなければ生き抜くことが出来なかった太刀川さんは、たぶん、もうとっくの昔に限界を迎えてボロボロで、修復不可能なまでに壊れてしまっていて。いろんなひとに裏切られて、裏切って、殺して、肉体的な意味ではなく殺されることも数えきれない位にあったのだろう。
膝で眠るシロちゃんを撫でながら、夜の庭の風景をぼんやりと眺めている太刀川さんの横顔を思い出して、堪らなくなった。
「朝倉に状況の連絡を」
「シラユキさん」
「弾数の確認を怠らないで。ここからが本場よ。本部にいる赤城に車を寄越す様に伝達を。急いで」
「シラユキさん」
「フォックスは見つけ次第すぐに回収して。無理とは言わせないわ。これ以上、前線で戦える面子の損失は許されない」
「シラユキさん」
「上階に着いたら、すぐに各配置へ移動。標的は、衣笠と交戦中の太刀川尊嶺。周りに天龍の雑魚共が息を潜めている可能性は大いにある。こちらの存在を悟られないように、そいつらも仕留めるの。いいわね。確実に太刀川の頭だけを狙って、合図したら一斉に撃ち抜きなさい。衣笠に一弾でも当ててみなさい。命は無いわよ」
「シラユキさんッ!」
こちらを見ないシラユキさんの背中に、喉から血が出そうになるほどの大声で叫ぶ。振り向きはしないものの、迅速に指令を飛ばしていたシラユキさんの言葉が止まった。恐ろしいことばかり話しているシラユキさんを止める術など無いことはわかっている。わかってるけど。
「私とお話ししたくないのは、わかってます。ほんとは、私の顔を見るのも、一緒の空間で息をすることも嫌だってことは。それだけのことを、私は仕出かしてしまったから、両手の指どころか、私の命を全部差し出しても足りないってことも……」
「……」
「馬鹿なことを言ってるって、わかってます! なんの解決にもならないことも! 問題を先送りにしてるだけだってことも……でも……っおねがい、おねがいします!」
頭を下げ、跪き、額を床につける。叫びに近い懇願を、必死の思いでシラユキさんにぶつけた。
「お願いします……ッどうか……どうか! このままお引き取り下さい……!!」
「……」
「た、太刀川さんは私が止めます、何がなんでも! 衣笠さんも無事にお返しできるように、何としてでも、どんな方法を使っても、尽力しますから!」
「……」
「も、もう……あなた方の目的のひとは、そちらに渡った筈……だったら、こ、これ以上の戦闘は、白鷹の皆さんにとっても無益でしかない……」
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だから、もういいじゃない。これ以上、無意味に命を落とすひとたちを増やすことない。こうしている間にだって、避難も出来ずに、訳もわからないまま、あの女の子みたいに何の罪もないひとが巻き込まれている犠牲者が居る筈なのだ。
「それは貴女が決めることじゃない」
「っ」
「何も心配いらないわ、遠坂志紀さん。太刀川の命を頂戴したあと、貴女もすぐにあの男の元に送ってあげる」
「シラユキさ……」
「貴女には見届けてもらうわ。あの男も、貴女には見られたくないでしょう。無惨で、無様に死に行く情けないその姿をね」
「い……いや……いやです、いやです! シラユキさん! お願い! 太刀川さんに手を出さないで、殺さないで! お願いします! あのひとは私の……!」
「心変わりもいいところね」
ゆっくりと、こちらに目を向けたシラユキさんの私を見る目には、凄まじい軽蔑の色が含まれていた。
「あの日、天龍寺で、徹也のことを想って太刀川に叫んでいた言葉を、今度は私にぶつけるのね」
「……」
「この数年でそれらしく……随分と太刀川の女らしくなってくれたじゃないの」
「……」
「覚えてるかしら。私、あの夏に言ったわよね。ヤクザは塵ひとつ残さず、全部潰すって。それはね、家族も兄弟も、女も含まれてるの。ヤクザと関わりを持った以上、全部消えてもらう」
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もう誰にも私の言葉は届かない。女将さんにも言った通り、私には何にも出来ない。見ていることしか許されない。
なんで、なんで私なの。なんでこの時代に、何にも出来ない私が呼ばれたの。どうして私でなくちゃ駄目だったの。もっと心身ともに強くて、それこそ今この場で、シラユキさんの心を揺り動かして状況を良い方向に変えられる様な、天賦の才を持った女の子でも良かったじゃない。泣き喚くことしか出来ない、足手纏いにしかならない無力な女を、どうして。
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