運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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 編み込んで纏められた髪に、青と白の薔薇で飾られた簪が挿される。くい、と顎に手をかけられ、色んな角度から私の顔を女将さんが入念に最終確認をし、これでよしと頷いた。


「志紀、見てみ」


 渡された手鏡で、女将さんに仕上げてもらった自分の顔を覗いてみる。目周りは服の雰囲気に合わせた水色のラメ入りのアイシャドウがうっすらと、そして唇には真っ赤なルージュが引かれていた。頬にもほんのりとした薄桃のチークが塗られ、覇気の感じられない暗い表情に生気の色を持たせている。

 凄いなぁ。女将さんの手腕に感嘆する。派手すぎず、けれど決して地味すぎない、絶妙なバランスを保ったお化粧。自分ひとりでこんなメイク出来ないし、教えられたとしてもここまで完璧に仕上げられる自信もない。

 女将さんは私の全身を上から見て、やがてそれは何にも囲われていない足首に到達する。そして本家からここまでの移動中、そして太刀川さんと離れる際には付きっきりで私についてくれている西園寺さんを女将さんが振り返る。姿勢正しく厳粛な面立ちで固く口を閉ざし、そばにある椅子にも腰掛けず、壁際に立っているその姿はさながら武士、いや、戦況を見守る武将の様だった。


「此処におる間は一先ず、あんたがこの子の枷代わりってことみたいやね。西園寺はん」

「……」

「尊嶺はんは、ほんまにこの子を同席させるつもりでおるの?」

「はい」

「なら、もうわては何も言いまへん」


 志紀、と女将さんに呼ばれ顔を上げる。真剣な表情でしっかりと私を見据えてくるその視線に、背筋がピンと伸びる。


「初めて会合に出たときのこと覚えとる? まだ東雲組の黒川も、おろちも存命やった頃の……」


 ひとつ頷くと、女将さんは私の両肩に手をおいた。


「あのときから状況は大分変わっとる。組や会の勢力差も頭も。別におかしいことやないのよ。分裂や抗争でひとつの会が呆気なく崩れることはザラにある。黒川みたいに、組の頭がある日突然仏になってまうことも」

「……はい」

「情勢の把握はわてらにとっても大事なことや。せやから、あんたが初めて会合に出席したとき、相手の地位は勿論、蠎みたいに気性の荒い人物の人柄を教えといてあげることは出来た。でも今回は」


 女将さんが西園寺さんをちらりと見たが、彼は眉間に皺を寄せた難しい顔で首を振るのみだった。その姿を見て、女将さんは重い溜め息をついた。


「わてがあんたに教えてあげられることは、今回何にもない」

「……」

「わても知らされてるのは、相手があの白鷹組で、組長は衣笠南雲って初老の男ってことだけ。向こうさんが誰を何人なんびと連れてくるのかも知らへんのよ」

「鏡花さん、お嬢。お話し中に失礼を。そろそろお時間です」


 壁際の西園寺さんが室内にあった時計を確認し、私達に近寄る。さぁと手を差し伸べられ、躊躇いがちにその大きくごつごつしい、古傷だらけの手の平に、私の頼りない右手を乗せようとする。その直前、それほど強くない力加減で二の腕を掴まれる。女将さんが心配そうな顔をして私を見つめていて、腕を掴むその手は小刻みに震えていた。

 
「志紀。これはただの会合やない。談合や。ヤクザの、それもやっこ同士の話し合い。言葉だけの撃ち合いで穏便に終わるとは思われへん」


 明確には言葉にしない、遠回しな言い方でも、女将さんが心底私のことを心配してくれているのだとわかった。もしかしたら今の状況に、太刀川さんに同じ想いを寄せていた女将さんの友人……直接的でなくとも結果的には想い人に殺されてしまった親しかった女性を重ねているのかもしれない。


「私に出来ることなんて、何にもありませんから」

「けど」

「今回も邪魔にならない様にじっとしてます。何かあれば……ええっと、隠れるなり、その……」

「俺も後ろに控えておりますので」

「そっ、そうですね! 西園寺さんも居てくれますし」

「……」

「太刀川さんも私に望んでるのは……隣で黙って座ってることだけだと思うので」

「尊嶺はんに直接言われたん?」

「いえ、でも、なんとなく……」


 言われなくてもわかってしまう。太刀川さんは、あの男性ひとはもう、私にはなんの期待も信頼も一抹も寄せていない。太刀川さんと私の間に結び付いた縁に、これ以上の進展は無いと、あの人はもう踏ん切りをつけている。だからこそ、たぶん、どんな手段を持ってしてでも、その糸が切れない様に強固に固めるようとしている。

 複雑な表情かおの女将さんの不安を少しでも取り除くために何か声を掛けたいのに、それに相応しい言葉が見つからない、わからない。

 結局優しい女性の憂いを晴らすことは出来ないまま、太刀川さんと白鷹の組長さんがいらっしゃる広間へと、西園寺に抱き抱えられ向かう。

 その道中に考えたのは、私の憧れた女性のこと。シラユキさんが、衣笠さんと今日此処に、談合が行われる広間に既に来ているのではないかと心臓が五月蝿くなる。新年の会で、衣笠さんの秘書の様な役割で付いていたシラユキさんだ。私と相対する似た立ち位置で、衣笠さんの横に座ってらっしゃるのかもしれない。

 最後に見たシラユキさんの姿、ジェイさんに片腕を斬り落とされたときの悲鳴、太刀川さんに対する叫びの怒号、そして西園寺さんに回収される岡崎さんへの必死な呼び掛け。私に銃口を向けたシラユキさんの沈鬱な表情がリフレインする。どんな顔をして、会えばいいんだろう。

 広間のすぐ近く、廊下の向かい側から、黒の着物に紺色の帯と同じ色の羽織を着た太刀川さんが煙管を吹かしてこちらに歩いてきている。青い瞳が西園寺さんに抱えられた私を捉え、煙管を口から離して火を消した。

 西園寺さんが立ち止まり頭を下げ、私をゆっくりと下ろしてくれた。その拍子に、纏めた髪から垂れてしまった横髪を、目前に居る太刀川さんが耳へとかけてくれる。そのまま頬を撫でてくるその手つきはとても優しくて、けれど冷たい。

 私を見下ろす青に視線を返す。中で待っている方々へ間もなく私達が入室する旨を伝えると、西園寺さんが先に広間へと入っていった。二人きりになった束の間に、太刀川さんに腕を引かれ、一度だけ唇を合わせられる。触れあうだけのそれは一瞬で、すぐに離れた太刀川さんの薄い唇には私の赤い紅が移って艶やかだった。手を伸ばし、太刀川さんの唇に付いた赤を拭う。薄く柔らかい皮膚を指でなぞっても太刀川さんは抵抗せず、目を閉じて私の手を受け入れていた。

 かわいそうだと思った。私なんかに執心してしまう太刀川さんが。どうしたって、この男性ひとが歓喜するだろう想いを返してあげられない私を、それでもと自分の檻に囲い続けようとする太刀川さんが。

 呪縛の様に、私の存在に縛られている彼が憐れで仕方ない。何故そこまで、どうして私でなくてはならないのかという問に対する答えは、もう彼には望めない。

 思い出の中の岡崎さんに、私が岡崎さんのことを美化し過ぎだと本人に言われたことがある。でも、そう見えてしまうのが恋慕というものなのだろう。何をしていても相手の一挙一動が気になって仕方なくて、やきもきさせられて。

 太刀川さんも、私のことを女としてぼろかすに罵りはするけれど、私が岡崎さんのことを本人が戸惑う位に讃歎するのと同じ様に、太刀川さんも私のことを似た風に考えているところがあるんじゃないかと思えてならない。恋は盲目とはよく言ったものだ。目を眩ませてしまう。

 自意識過剰なのではないかと疑うことはもうしない。ここまできて、まだその疑念を持っているなら、それはもうただの阿呆だ。

 太刀川さんが私に抱えている情は、恋という表現で収められるものではない。太刀川さんが内に抱えている静かな激情は、彼の言う通り、言の葉で言い表せるものじゃない。誰かを特別に想う感情はゆっくりとじわじわ塵積もって、やがて大きく膨らみすぎて掻き乱されてどうしようもなくなる。自分を殺し、果ては想い人すらも殺す熱誠。そのひとのことで頭がいっぱいになって侵食されてしまうものだと、私も知ってしまったから。

 竹林の中で二頭の虎が睨み合う絵が描かれた襖が、太刀川さんの右手によって開かれる。明るい光が隙間から差し込む。先に足を踏み入れた太刀川さんの後ろ姿を黙って見つめていると、振り返った太刀川さんに手を取られ、導かれた。

 西園寺さんに案内された席へつく。相変わらずの長い黒髪に制服姿のジェイさんが既に控えていて、ちらりと私に横目で視線を寄越したけれど、すぐに前方に居る談合相手を無表情で真っ直ぐに見つめた。私が腰掛ける際に、足を負傷しているため正座が出来ない旨を後ろに居てくれる西園寺さんが、煙管を吹かし、リラックスした様子で胡座をかいている初老の男性に説明してくれたので、慌てて足を崩して横座りになってしまうことに対して、俯き加減だった頭を更に低くする。


「し、失礼をお許しください」

「仕方のねぇことだ。気にするこたァねぇよ」

「すみません」


 嗄れた、しかし重低音で重みのある渋い声で気遣いの言葉をかけられる。顔を上げなきゃ。いくらじっとしているだけでいいということはわかっていても、一度も目を合わせないなんておかしいと思われるに決まってる。カタカタと緊張で震えだした手を抑えつける。意を決して重い頭を起こすと、そこには、この場に居ると思っていた人物の姿は見えなかった。


「俺みてぇな年寄りはともかく、若ェ内に足をやられるたぁなァ。これから先不便が多くなる。転びでもしたのかィ」

「あ……は、はい」

「そりゃあドジしちまったなぁ。おいちゃんはてっきり獣にでも噛みつかれちまったんじゃねぇかと思ったよ」

「……」

「まぁ楽に座んな」


 恰幅の良い体格にスポーツ刈りの白髪頭、着物がよく似合い馴染んでいる白鷹組の衣笠南雲組長。顔に刻まれたいくつかの古傷は、厳めしい表情に更に迫力を与えている。衣笠さんのすぐ横には二口の日本刀が置かれていた。

 シラユキさんが来ていない。すとん、と力が抜ける。衣笠さんのお隣に座っているのは、葡萄酒を連想させる赤紫色の髪、薄桃色の瞳、ぷっくりとした唇、お会いするのは数年前の海水浴ぶりだ。フォックスさんが笑いながらひらひらと私に向けて手を振ってきたので、軽く頭を下げる。

 白鷹から来ているのは、衣笠さんとフォックスさん、そしてその後ろにはアジア、ヨーロッパ、南米系と様々な国籍の方々が黒の洋装で数名並んでいる。恐らく衣笠さんの護衛の様な役割なのだろう。その面子の並びは、極道というよりもマフィアと表現する方が近かった。


「改めて、こうして顔合わせるまでの数年にお互い色々あったらしいなァ、若大将。すまねぇな、こんなにむさ苦しい連中ぞろぞろ引き連れて来ちまってよ。俺ァこのフォックスだけで十分事足りるって言ったんだが、うちの幹部殿がうるさくてな」

「その幹部殿の姿が見えねぇ様だが。鬼柳きりゅうの朝倉もな」

「おいちゃんだけじゃあ不満かィ」

「いいや?」

「そりゃあなぁ、自分の腕を取った相手の前に出すってのは酷な話だろう。気は遣ってやらにゃあ」

「前に面合わせたときは、そこまで柔な精神持ちのアマにゃ思えなかったがな」

「気丈に振る舞ってるが、あれでも中身は繊細でなァ。大事なモンをどこぞの蛇に呑まれちまって、そりゃあ可哀想な様だったぜ」

「そりゃあ申し訳ねェことをしたな」

「思ってもねェ謝罪なんていらねェよ、あんちゃん。それで? 俺ァ今回も天龍組頭の面を拝むことは叶わねぇのかい。おいちゃんはあの瀧島と話をつけに来たんだが」

「奴の姿を、その眩んだ目に収めることは出来ねぇよ。今後もな」

「残念だな」


 立て膝で座る太刀川さんが私に空のお猪口を差し出した。徳利を手にし、ゆっくりと透明な日本酒を注ぐ。ちら、と衣笠さんにも注ぎに行くべきかと見るが、そんな私の疑問を読み取った太刀川さんが「必要ねェ」と私に声を掛けたので、お膳に徳利を戻した。

 雨音が聞こえてきた。緩やかだったそれはどんどん激しさを増して、静かではあるけれど、ピリピリとした広間の雰囲気を更に重くさせる。


「本題に入るとしようじゃねぇか。お前さんも暇な立場じゃあねぇだろう。さっさと話を固めるとしようや」


 衣笠さんが鈍色の目を鋭くする。弾丸の様に重みのあるそれを受けた太刀川さんは青い瞳を返し、ニヒルに笑った。


「もう一度、要求を聞かせてもらおうじゃねぇか」

「単刀直入に言うぜ。白鷹組員のひとり、お前さん達の捕虜になってるうちの若ェのを返しちゃくれねぇか」

「まさか無償タダで寄越せとは言う訳もあるめぇな」


 太刀川さんの青が獰猛な色になる。獲物を捉えた獣の目だった。


天龍うちに先に仕掛けてきたのは、あの狼だってことは把握してんだろう。俺達はそれに相応しい報復をしたまでだ。随分な被害者面で此処に足を運んで来てくれたらしいが、俺達に非があるとあんたは考えてるのか」

「……」

「あんたの指示かそうでないかなんざ、どうでもいいんだよ。それ以前にも白鷹おまえの飼ってる害鳥共は、散々ひとのシマを好き勝手荒らしてきた。その責は、頭であるあんたが取るべきだろう。今時餓鬼でも知ってる常識だ」

「それで? つまり若大将あんちゃんはおいちゃんに何を望んでんだい。金か、それとも」


 ジャキ、と音がいくつも鳴った。たくさんの銃口が衣笠さんとフォックスさんの頭に向けられる。え、と目を丸くしたのは私だけだった。

 大きいものから小さいものまで、様々な種類タイプの銃の的になった本人たちも、そして太刀川さんや西園寺さん、そして愉しそうに無言のままにんまりと口元に弧を描いたジェイさんも、動転の色を一切として見せない。なんで? この状況は一体なんだ。白鷹のお二人に武器を向けていたのは、護衛として彼らの後ろに控えていた、様々な国からやってきただろう黒の洋装を纏った人達だった。仲間割れ? このタイミングで? 意味がわからない。

 衣笠さんは懐に仕舞っていた煙管を取り出し、隣に居るフォックスさんに、先程太刀川さんが私にしたように火をつける様にと促すも、フォックスさんは行動を起こそうとする素振りを見せず、ワインレッドの髪を指に巻き付けて弄っていた。衣笠さんはそんなフォックスさんをジト目で暫く見るも、彼女は素知らぬ顔だ。彼女の方に傾けていた煙管が空しい。

 ハァと溜め息をついた衣笠さんは自分で火をつけ、煙管を咥え吹かした。ふぅと吐き出された紫煙が揺蕩う。


「俺のタマかい」


 太刀川さんはお猪口に口をつける。ごくりと大きく動いた喉仏が一気にお酒を飲み干したことを私に知らせる。空になったお猪口を膳に起き、太刀川さんはくつくつと下を向いて笑う。


「テメェらにあの化け物を渡すことに、俺はなんの躊躇いはねェ。天龍には不要な存在だ。すぐにでも返してやるよ」

「……」

「だが、戦力を戻した白鷹おまえらが、また性懲りもなく暴れるってんなら話は別だ。それじゃあ元の木阿弥にしかならねぇだろ」

「徹也と引き換えに、白鷹そのもののタマを取りてぇってか。貪欲だな。その為に此処まで手回ししてくれたってのかィ。成る程。天龍の若大将が一時期、海を越えて国を回ってるってェ噂は小耳に挟んじゃあいたが」

「……」

「そうかィ。国の外に居る白鷹おれたちの同盟相手を懐柔したかい。気難しい、理屈の通じねェ連中が多かったろうになぁ。どんな手を使ったんだ。俺ァ、金で動く様な組織と手は組んでなかったもんでなぁ。物静かに見えて、お前さん、実は余程口達者だったか。それとも、日の本で猛威を振るう組織の大将が、危険を冒してまで直々に、やっこの陣地に足を踏み込むその気概を気に入ったのか」

「七面倒くせぇのとばっかり手を組みやがって。予定よりも随分と時間がかかっちまったじゃねぇか」

「ったく。おい、お前んとこのおやっさんとは長いこと仲良くさせてもらってたのによォ。同胞に対してえらい仕打ちだな。えぇ?」


 衣笠さんが、自分に銃口を向けている黒人の男性に居酒屋の様な声の調子で絡んだ。声を掛けられた男性は苦悶の表情で、衣笠さんに対し小さく英語で謝罪した。彼の様子から、決して望んで衣笠さんに武器の照準を合わせているのではないということがわかる。

 煙管を手に、目を閉じた衣笠さんがやれやれと溜め息をつく。


「強硬手段も取ってるみてぇだなぁ」

「白鷹の組織体制を見直すべきだったな。衣笠組長殿」

「……」

「陣地を広めりゃ、必ずどこかしらにほつれが生まれる。なんせ、駒は人間だ。将棋みてェに、誰でも彼でもあんたの思う通りに動く訳じゃねえ。この国の外に、お前らを雲隠れさせる盾はもう何処にもねぇよ」

「その若さでよくわかってやがる。こいつぁ金筋だなァ」


 閉ざしていた瞳を開けた衣笠さんが、しかしと重く低い声を発する。


「ケツ割る訳にゃあいくめぇよ」

 
 風を切る音がした。そして次の瞬間、水が飛び散る音と共に、目の前の光景が赤になる。耳をつんざくたくさんの断末魔と、衣笠さん達の後ろにある襖が紅に染まっていく。床に転がり、のたうち回る数々の人間の身体はすぐに息絶えることは出来ずに、苦しみの悲鳴を上げ続ける。切られた腹部から臓物が出てきている者まで居た。凄惨な光景に頭が追い付かない。

 出そうになった悲鳴を抑えるため、両手で口を固く抑える。彼らの後ろに控え凶器を手にしていた者達の腹を纏めて斬ったのは、衣笠さんの傍らにあった刀の一本を手にし、目にも止まらぬ速さで鞘を抜いたフォックスさんだった。衣笠さんの側に立ち、血が滴る刀を手にしたフォックスさんは笑みを浮かべ、座ったままの己のかしらを見下ろしている。

 衣笠さんは残されたもう一本の刀を大きな手で握り締め、ゆっくりと重い腰を上げた。


「俺はこんな立場についちゃあ居るが、荒事は好きじゃなくってなぁ。そもそも、ヤクザそのものを好んじゃあいねぇんだよ。いくら盃を交わそうが兄弟と呼び合おうがよォ、今みてぇに理由がなんであれ、裏切るときは呆気なく裏切られちまうしなぁ」


 衣笠さんが、先程一言二言言葉を交わした黒人男性を見下ろす。彼はもう身動きひとつ取ることはなく、腹部が大量の血を流し、目を限界まで見開いたまま絶命していた。彼に関しては即死だったのかもしれない。もしかしたら、自分が死んだという認識すら間に合わず、息を引き取ったのかもしれない。そんな彼の身体に衣笠さんは近寄り、屈んで、光を失った瞳の上に大きな手を被せ、そっと閉ざしてあげていた。


「こんな老いぼれが生き永らえるために、若ェ命を摘まざるを得ねェ瞬間も多くってな。うんざりするぜ、全く」

「……」

「おいちゃんと徹也……おめぇさんらの玩具になっちまってるあいつは似てるとこがあってな」

「狼の話にゃ興味なんざねぇよ」

「まぁそう言わねぇで、ちょいと話に付き合ってくれや。もしかしたら、お前さんらの身内になってたかもしれねぇ野郎の話なんだからよォ」

「……」

「オメェのシマからあいつを強奪して、意思を確認したんだよ。ヤクザになって、喰われるだけだった人生やり直してみねぇかってよ」
 

 あいつ、というのは岡崎さんのことだろう。私とあの桜の木の下で出会って、シラユキさんに連れられたあとの、彼の話。私はあのあとのことの話をざっくりとしか岡崎さんに聞いたことはなかった。思わず身を乗り出してしまう。煙管を吹かしながら、衣笠さんがゆっくりと立ち上がる。


「ヤクザは御免だ。戦争の道具に使われるのはもう嫌だって、最初断われちまったんだよ。それまで、散々な面倒事に巻き込まれてばっかりだったらしくてなぁ。さっさととんずらして、楽に生きることしかあいつは考えちゃあいなかった。腐ってたって言ってもいい。会いてェ家族や友人、女も居ねぇってんだ。奴隷にそんなもんある訳ねぇって頑でな。しかし、その奴隷の身分じゃあ、この先まともになんざこの時勢で生きていける訳もねぇ。何より、俺達はあいつの力量がとんでもねぇってことは知ってたからな。どうせ摘まれちまうってんなら、俺が水を与えてやりたかったんだよ」


 こちらにゆっくりと近付いてくる衣笠さんに、私の丁度後ろに居る西園寺さんが刀に手をかけた。カチリと、鞘から僅かに刃物を覗かせる音に心が冷える。


「だから切り口を変えて、自分てめぇが今やりてぇことはなんだって尋ねてみたんだ。したらアイツ、なんて答えたと思う」


 太刀川さんは黙ったまま動かない。


「傘を返してぇって言われたよ」


 私に向けられた鈍色の目に息が止まる。傘。それって……。

 ふ、と渋く笑う衣笠さんがもう一度煙管を咥え、煙を吹かす。


「どこの誰だかに傘を貰って、喧嘩して折っちまったんだってよ。ちゃんと返してやりてぇって呑気な調子で言いやがって。今のオメェじゃ、そんな簡単なことすら出来ねぇよって言ったら、あっさり白鷹に入るって頷いちまってな。流石に面食らったよ。まさか、そんなチンケな理由で極道入りを決めちまうとはな。傘渡すためだけにヤクザになった阿呆なんざ、後にも先にもあいつだけだろうよ。俺ぁ、アイツのああいうとこを気に入っててなぁ」

「……」

若大将あんちゃんはどうだい。こんな血生臭ェ場所に、何を望んで足を踏み入れた」

「何も望んじゃいねぇよ」

「……」

「ぐだぐだと、くだらねェことをよく喋りやがるジジイだ」

「年を取ると、こんな老いぼれの話を聞いてくれる相手も減っちまうんもんでなぁ。機会があれば、すらすら口に出ちまうんだよ。フォックスなんざ、最近は生返事しか返しゃしねぇ」

「えぇ~、そんなことないですよ~~。ちゃんと聞いてますって」

「ジェイ」


 太刀川さんに名を呼ばれ、後ろに黙って控えていた彼女が素早く立ち上がり、衣笠さんの元へ走った。不意討ちとも取れる程の速さで一気に距離を詰めたジェイさんが、制服の袖の下に仕込んでいた隠しナイフを彼に振り下ろす。しかし、その刃は届かず、弾かれて宙を舞った。すぐさまジェイさんは後ろに下がり、新たなナイフを太腿のホルダーから取り出し、体制を整えて相手に構える。ジェイさんの前に立ちはだかったのは、ピシャリと刀についた血を払ったフォックスさんだった。


「あんたの相手は私がしたげる。サイコ女」


 刀の切っ先をジェイさんに向けるフォックスさんは余裕綽々に笑みを浮かべている。それとは対照的に、ジェイさんはどこまでも無を貫き、薄桃色の瞳を黒曜石の目で真っ直ぐに射抜いていた。


「西園寺」

「は」

「志紀を下がらせろ」

「わかりました。お嬢、こちらへ」

「まって、太刀川さ……」


 西園寺さんに腕を取られ、身体を引き寄せられる。抱き上げられる直前に、刀を手にし、ゆらりと立ち上がって衣笠さんと対峙した太刀川さんの後ろ姿を見上げる。しかし、彼は私の声にこちらを振り向くことなく、衣笠さんと言葉を交わす。


「交渉は決裂だな」

「元から期待しちやいねぇよ。オメェさんも最初からこのつもりだったろう」


 太刀川さんが愉しそうに笑い声を低く漏らす。


「オメェらが所望してる狼を、コソ泥みてぇにこの中を嗅ぎ回ってる連中が見つけるのが先か、あんたが死ぬのが先か、どっちが早いんだろうなァ」

「おっと。全部お見通しって訳かい」

「これが時間稼ぎってこたぁな。まぁ、結果は変わりゃしねぇ。どっちに転んでも、オメェらの組織はもう終わりだ」

「次に会うときは戦争になる、か。予言が当たっちまったなぁ。年寄りだからってェあんまり先輩を舐めてると痛い目見るぞ。天龍の若造」


 青白く光る刃が顔を出した。ピリと空気が張り詰め、ふたりとも刀の柄を強く握り、構えの姿勢を取る。そして互いに笑みを交わした。
 

「白鷹組十五代目組長、衣笠南雲。その首、この俺が貰い受ける」

「やれるもんならやってみろォ、チンピラァ」



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