運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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呪いにも似た

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 宝石箱オルゴールの音色を聴きながらサボテンに水をやる。サボテンに話し掛けるだけでなく、こうしてちょっとした音楽を聴かせるのも何かしらの効果があるのではないかと思ってのことだった。なんとか、元気を取り戻してくれないだろうかと願い、未だ枯れ色のサボテンを軽くつついてみる。

 水やりを終え、縁側に座り、太刀川さんから貰った簪を取り出し眺める。飾りとしてつけられた青と白の薔薇は手細工によるもので、非常に繊細な造りをしている。私なんかには勿体ない品であることは一目瞭然だった。それでも、太刀川さんはこんな私に簪を与えてしまう。

 香澄ちゃんの言うことは正しかった。太刀川さんの行動は歪すぎるけれど、あのひとはあのひとなりのやり方で、私のことを大事にしようとはしてくれている。私が小さいときからずっと変わることなく。

 それは気付いているし、わかっている。わかっているけれど。








 新年を迎えた1月1日。太刀川さんは新年の朝からもお忙しい身だ。ゆっくりと新年を過ごすことなく、西園寺さんと共に早朝からお出掛けしている。昨日から女将さんも今晩の新年の集まりの用意でとても忙しくしていて、なかなかゆっくりとお話することも出来なかった。

 何かお手伝いしたいが、返って邪魔になるだけでは? と思いつつ、自分にも何か出来ることはないかと尋ねると、女将さんは今日の昼食は私が作ってくれと簡単なお仕事を頂いた。

 太刀川さんは夜までには戻ると言っていたが、お昼には絶対に間に合わない。太刀川さんが居ないときは必ず女将さんとご飯を一緒にする私がそれを任されたということは、女将さんが私のつくるご飯を食べてくれるということで。い、いや、お昼を作る余裕も殆ど無いくらい忙しいから、ということはわかっているのだが。

 それでも気合いを入れて、女将さんのスタミナを回復させるものを作ろうと根気よく返事をすると、女将さんは薄く笑って私の頭を撫でた。


「は~~。ひとまずなんとか休憩出来たわ。ほんに助かったわ、志紀。自分のお昼食べられるかどうかわからんとこやったんよ」

「う、うぇ、そんなに……」

「まだ午後からもやることはあるからね。なんせ一年に一度、天龍本家に色んなお客人がたっくさん来はる日や。お料理もお酒もえらい量やし、飾るお華の準備やったり他にも色々せなあかんことはたんとある」

「……私にお手伝い出来ることはありますか?」

「気持ちは嬉しいんやけど、今回は無いわ。全部母屋でないと出来ひんことやし」

「……」

「そないな顔せんといて。責めとる訳やないんやから」


 しっかりとタレをつけた豚バラと玉葱、そして真ん中に落とした生卵の周りにまぶした青葱の乗ったビビンバ風味の丼を女将さんが上品に、しかしこの後もやることがあるとのことで急ぎめに口に運んでいく。少し濃いめの味付けにしたタレがご飯に染み込み、調度いい塩梅になっていた。


「あんたは気にせず、のんべんくらりとしとき。新年くらいだらだらしとっても口煩いことは言いまへん」

「私、いつもだらだらさせて頂いてますから……」

「そういえばそうやったね」

「女将さん」

「ん?」

「明けましておめでとう御座います。今年もよろしくお願いします。あ。こ、これ言って大丈夫なんですかね。その、極道ってお亡くなりになる方が多いし、喪中とか……」

「おめでとう」

「……」

「今年はええ年に出来るとええね。お互い」


 私が作ったお昼を食べ終えた女将さんはお皿洗いもお願いしてよいかと私に尋ねたので、もちろんと何度も頷く。薄紅色のストールを肩に掛け、再び戦場へと出て行く女将さんを見送ってから、空になったお皿を台所へ運ぶ。お皿を洗っているとおねえちゃん達が隣に来てくれたので、他愛のないお話しをしながら片付けを始めた。








 新年でもいつもと変わらない緩やかな午後を過ごしているうちに夕日が出てきた。縁側から眺める雪景色の庭が、淡い紅に染まり始めた。そんなに遅い時間という訳でもないのに日が暮れるのが早いのは冬の特徴だ。

 隣に座っていた先生が、そろそろ気温も冷えてくるから中に入っていなさいと嘴を和室へと向けた。傍らに置いていた絵本を何冊も抱える。

 障子を閉める前に一度だけ庭を振り返る。夕日の紅に照らされた日本庭園。その赤に背を向けるのが罪深く思えた。おねえちゃんが首を傾げてその赤を見つめる私の顔を覗き込んでいる。なんでもないと首を振り、庭で遊んでいたワンくんを呼び、先に中に入ってもらう。全部閉め切ろうとした縁側の障子は、なんとなくほんの少しだけ開けておいた。

 絵本の続きを読む……というよりは眺めていた私の本が突然ひとりでに浮いて驚く。まぁそんなSFな現象が起こるはずもなく。


「おかえりなさい」


 私の絵本を手にしたひとを見上げ声をかける。あぁ、と頷いたその人は私の隣に腰掛け、つい今まで私が読んでいた絵本を捲り、目を通し始めた。

 先生とおねえちゃんはいつも通り、太刀川さんが現れるとどこかへ隠れてしまい、ワンくんだけが尻尾を振って太刀川さんの顔を見つめながら彼の周りをぐるぐると動き回っていた。シロちゃんのときもそうだっだが、このひとはどうやら動物に好かれやすい体質らしい。


「飽きもしねぇでまたこの話か」

「す、好きなんですよ」

「昔から読めってせがんでくるのはいつもこれだったからな」

「……昔なんて知りません」

「オメェもいい加減意固地だな」

「あだっ」


 絵本の角で頭を軽く小突かれる。ほんの少しばかりのダメージを受けた私はむっと太刀川さんを睨む。そんな私を見て太刀川さんは迫力の欠片もないと小さく笑い、再び絵本に目を落とす。

 まだ時間あるのかな。例年通り、天龍組の新年のお祝いの席には勿論、若頭の地位に座する太刀川さんも出られるのだろう。瀧島さんはやはり今年も太刀川さんに全て任せて組の頭として出席することなく、今もどこかをふらついているのだろうか。

 私のせいで、謝っても許されるとは思えない程の怪我を負わせてしまったあのひとが今どうしているのか、今日こそは太刀川さんに追求しなければという気持ちで口を開きかけるが、絵本を眺めている太刀川さんの青い瞳を見ると何故だか、しゅんとその意思が萎んでしまう。あのひとの話題を出し、太刀川さんの機嫌を損ね、なんらかの仕置きを受けるのが怖いからなのか、それとも彼がどんな仕打ちを受けているか知るのが恐ろしいからなのか、理由はわからない。何度も何度も尋ねようとして、結局聞けず仕舞い。どちらにせよ、大事なひとがどんな状況にあるのか確認すら出来ない、意気地なしの自分が嫌になることには変わりはなかった。

 沈んだ気分のまま、少しだけ太刀川さんの方に体を寄せて絵本をのぞき込む。こうして、一冊の本をよく一緒に眺めてたなと回顧する。そしてその懐かしさに影響されてか、追求の代わりに自然に口をついて出た言葉は、殆ど無意識によるものだった。
 

「読んでくれませんか?」

「……」

「えっ? あ、いや、ちがっ。私、何言ってんだろ。す、すみません。わすれてください。ごめんなさい、邪魔して」

「お前が読めよ」

「えっ」


 私が? 太刀川さんに読み聞かせするの? 戸惑いを隠せないでいる私に太刀川さんが絵本を押し付けてきたので受け取る。しかし困ったことに、今の私に本を読むなど不可能な話だった。だって、もう。


「ごめんなさい、私実はその……最近文字が読めなくなっちゃって……」

「みてェだな」

「……知ってたんですか」

「ずっと見てりゃあな」

「知ってて読めって言ったんですか……いじわる」

「拗ねるなよ」


 腕をぐいと引っ張られ、後ろからきつく抱き締められる。太刀川さんが私を後ろから包んだまま、私が持っていた絵本を自分にも見えるよう開かせた。


「ゆっくりでいい。口に出して読んでみろ」

「……」

「恥ずかしがるこたァねえよ」


 いや、どっちかっていうと恥ずかしいのはこの態勢なんですけど。腰に手を回され、背中には太刀川さんの身体がぴったりとくっつき、後ろにいるひとの体温と息遣いを感じた。時々、太刀川さんが私の首を掠めるようにして唇を押しつけてくるのがこそばゆいし、恥ずかしくてたまらない。

 首回りを冷たい手でさすられながら、早く読めと吐息混じりの低い声で耳に囁かれる。いや読ませる気ないでしょと内心文句を言う。冷たい指でなぞるように唇に触れてくるその動きがとても厭らしい。おさわりしてくる太刀川さんが絵本どころではない状況に持ち込もうとしているのに嫌でも気づき、恥ずかしさから赤くなる顔を絵本で覆い、いやいやと首を振る。


「志紀」

「や、やです。せくはらですよ、こんなの……」

「何とでも言え」

「ひっ……ん、んっ」


 浴衣の合わせ目に不躾に片手を差し込まれ、私の胸元を弄るびっしりと刺青が入った腕をぎゅっとつかむ。セクハラどころじゃなかった。

 顔をすぐ後ろの太刀川さんの方に向けさせられ、唇と唇をくっつけられる。色んな角度からかぶりつかれ、口内を蹂躙する熱い舌に息が荒くなる。口の端からどちらのものかわからない唾液が滴り落ちる。やだ、と顔を背けようとするけれどやはり力で適うはずもなく、太刀川さんの好きにされてしまう。

 ぽとり、と力の入らなくなった手から絵本が滑り、畳の上に落ちる。乱された浴衣から現れた肩口に唇を落とされながら浴衣の下にある胸を緩く揉まれ、出そうになる声を漏らすまいと両手で口を抑える。口を塞ぐ手を太刀川さんの大きな手に取られ、耳を食みながら囁かれる。

 
「安心しろ」

「ひ、ぁ」

「文字くらい、俺がまた一から教えてやるよ」

「っすぐ、おこるから、やだぁ」

「だったら俺だけに集中しろ」

「やっ、ぁ……」


 身体を横に倒され、手をついて起き上がろうとした私の背後に太刀川さんがのし掛かってくる。首筋にちゅうをされながら帯を器用に解かれる。太刀川さんからは見えないものの、完全に浴衣の前がはだけてしまい、無防備になったお腹辺りの肌に触れられる。その手をするすると上へと向かい滑らせてくる。下着をずらされ、ふるりと露わになった左の胸を太刀川さんの大きな手が覆い、柔く解されてしまう。

 力が入らなくて、畳の上で悶えることしか出来ない。浴衣を腰あたりまで捲り上げられてしまい、みっともなく晒された内ももを太刀川さんが撫でてくるので、その冷たさに思わず太刀川さんの手を太ももで挟んでしまう。私の上に居るひとは私の顔の近く、すぐ背後で低く笑い、挟み込まれたままの手でやんわりと太ももの肉を揉んでくるから顔が真っ赤になる。

 何よりも恥ずかしいのは、太刀川さんの好きに弄ばれ苦しそうにしている私を心配して、くんくんと顔を近づけてくるワンくんがすぐそばにいることだった。ワンくんは私達の様子を見て首を傾げながら、くぅんと鳴いた。


「も、もうやだっ、だめ……! たちかわさ……わんくんがいるから……っきゃ、ぁっ」

「俺達が何してるかなんざ、ワンにはわかりゃしねぇよ」

「~~っそういう、もんだいじゃ、ないんですってばぁ……!」


 羞恥心から涙目になって、真っ赤になった顔を両手で覆う私の様子を太刀川さんが面白がっているのがわかるから余計につらかった。


 途中でワンくんは自分に構ってくれないとわかったのか、尻尾を振り、いつのまにやら日の暮れてしまっていたお庭へと遊びに出て行ってしまう。それにほっとするのも束の間のことで、これで文句はないだろと言わんばかりに遠慮もなしに、太刀川さんが満足するまで私の全部、容赦のかけらもなく喰べてしまった。

 事が終わり、汗やら何やら、口に出すのもおぞましい体液やらで、でろでろに乱れた私の浴衣を剥ぎ、敷いたお布団に寝かせてくれるのは有り難……原因はこのひとなのだから有り難いというのもおかしな話だけれど。

 疲れ果てて眠りに落ち掛けている私の隣に座り、髪を手慰みに弄んでくる彼に胸中をうつらうつら吐露する。


「よくもこんな貧相な身体に飽きずにいられますね」

「どれだけ抱こうが足りゃしねぇよ」


 淀みのない返事が返ってきて何とも言えなくなり、掛け布団を引き寄せ頭まで被ることで、私の髪を弄って遊ぶ太刀川さんの行動を妨害した。

 太刀川さんを呼ぶ西園寺さんの声が聞こえてくる。段取りなどを話したいと障子の向こうで言う西園寺さんが障子を開けて入室しようとしないのは中の現状を知っていてるからなのだと気づき、熱くなる顔を手で覆う。

 風呂に入ってから行くと返事をした太刀川さんが、目元まで布団を被った私のおでこにちゅうをしてから立ち上がり、新年の会へと行ってしまった。障子が閉まる音を聞いて、寝返りを打ちながらゆっくりと掛け布団をずらし、顔を出す。

 先程手から離してしまった絵本を手繰り寄せ、眠気眼でページを開く。

 エプロンドレスを着た小さな女の子が、帽子屋とウサギと奇妙なお茶会をしている絵が描かれていた。更にページを遡っていると、少女が白兎を追いかけて穴に落ちているシーンに眼が止まる。絵本の中で、時計を見ながら慌てふためいた様子で跳ね回っている真っ赤な目の白兎をじっと見つめ、その赤い目元をなぞる。

 脳裏に浮かんだのは、夏のお祭りの日のことだった。屋台の射的でとってくれた白い兎のぬいぐるみを私に差し出すひと。彼が手にしているウサギと同じ、赤い色の瞳をもつひと。

 じわりと視界が滲む。あのぬいぐるみも思い出の品として持って帰りたかったけれど、これ以上荷物は増やしてはいけないと、苦渋の思いでかつて住んでいたお家に置いてきた。あのウサギのぬいぐるみは今どうなっているのだろう。今は真っ暗な部屋でひとりぼっち、埃に塗れてしまっているのだろうか。

 白兎のページを開いたまま絵本を抱え、布団の中に潜り込む。小さく体を縮めて、私のために灯籠を持ってきてくれた彼の名前を何度も何度も呪詛の様に呼び続ける。そうしないと、今はもう全く読めなくなってしまった文字と同じように、頭の中から大事なものが抜け落ちていく。私の中にある、決して多いとは言えない彼との大切な思い出が、何かに上書きされるように徐々に消えていってしまっている気がした。








 ワンくんとお散歩から帰ってきて玄関でコートを脱ぎ、雪を払い落とす。あったかいミルクでも飲みたい。

 ワンくんの毛についた雪を払ってあげていると、玄関にまで太刀川さんを叱りつけるというか、諭す様な館長さんの大きな声が聞こえてきてびくりと体が跳ねる。何事だ、とワンくんと顔を見合わせる。太刀川さんを窘める声を張り上げることはあっても、こんなにも真剣な、それも怒りを含む声色で館長さんが声を荒げるのを聞いたことなかった私は、不安と緊張を少しでも軽減するために、前よりも重みを増したワンくんを抱き上げ、恐る恐る奥の部屋へと繋がる廊下を進んでいく。


「君は何を考えてるんだ! そんなことが許される訳がないだろう! しきちゃんの人生を何だと思ってるんだ!」


 少しだけ扉を開いて中を覗きこむのと同時に、自分の名前が聞こえてきて更にビクリと体が震える。ワンくんを抱く腕に思わず力が入り、ワンくんが苦しそうに声を上げたのを聞いて慌てて小声で謝る。力を緩めるとワンくんは私の腕の中から下り、とてとてと館長さんの足元へ行ってしまった。私達が散歩から戻ってきたことに先に気付いたのは太刀川さんだった。


「志紀」


 名前を呼ばれる。太刀川さんが私に近づいて目の前に屈み、私の頬を撫でた。館長さんが太刀川さんのことを眉を寄せて、少し怖い顔で見ているのが不安で怖くなって、館長さんと太刀川さんを交互に見つめる。しかし、太刀川さんに館長さんから逸らすよう、自分の方に目を向けさせられる。

 太刀川さんは薄く笑みを浮かべ、私の髪をとかしながら綺麗な顔を近づけてくる。視界が青い瞳でいっぱいになった。それと同時に、柔らかい何かが口に触れて目を見開く。口にちゅうをされたのは初めてだった。

 おでこや頬にするのとはちがう、ぱくぱくと私の唇を食べるみたいにして、太刀川さんが口をくっつけたり離したりしてくるから、恥ずかしいよりも先にびっくりして固まっていると、「尊嶺」と息を呑んだ館長さんが太刀川さんを諫める声が聞こえてくる。

 それでも太刀川さんは私の頭の後ろを掴みより深く唇を合わせてきたので、ずっと息を止めていた私は呼吸が出来ずに苦しくなる。荒くなった息遣いで、はなしてと太刀川さんの肩を押すがびくともしない。


「やめなさい! 尊嶺!!」


 館長さんの声に、ちゅ、と音を立ててやっと私から唇を離してくれた太刀川さんは、熱の籠もった青い瞳で、よだれを垂らし息を荒くする私を貫く。ゾク、とした。

 いつものたちかわさんじゃない、ちがう男の人が私を見ているみたいで、すごく怖くなって後退る。しかし逃げようとする私の腕を掴まれ、捕らえられる。

 太刀川さんが私の唇の端についたよだれを指で拭いながら、館長さんを振り向くことなく言った。


「こいつを俺に任せたのはあんただろ。オーウェン」


 目を見開き絶句した館長さんが私に駆けより抱き上げ、太刀川さんから距離をとる。そしてこちらを見上げる太刀川さんと視線を交わし、館長さんは急ぎ足で玄関へと向かった。その間も太刀川さんが私達から……私から一瞬たりとも目をそらすことはなく、青の瞳は獰猛にぎらついていた。それが怖くて、見たくなくって、館長さんの肩に顔を埋めた。

 玄関で下ろされ、私達のあとについてきていたワンくんの頭を館長さんが撫でる。そしていつもどおり優しい、しかしどこか余裕なさげな顔をした館長さんが屈んで、先程脱いだばかりのコートを私に再び着せ、私の両手をしっかりと握った。


「しきちゃん。私はちょっと尊嶺とだいじなお話をしなきゃいけなくてね。しきちゃんにはつまらないと思うから、しばらくワンと外で遊んでおいで」

「今ワンくんとお散歩行ってきたばっかり……」

「あ、あぁそうか。じゃあ、そうだね……ええと」 
 
「わ、わたし、先生たちと遊んでます」

「そっ、そうだね! それがいい。寒くてどうしようもなくなったら、こっそり私の部屋にあがりなさい。いいかい、こっそりだよ」

「どうして?」

「どうしても。いいね? 私が呼びにくるまで下に降りてきてはいけないよ」

「館長さん、たちかわさんとけんかしてるの?」

「喧嘩じゃあない。いつもの言い争いだよ。しきちゃんが気にすることじゃあないから大丈夫だよ。さて、私の部屋の鍵の開け方は前に教えたけど覚えてるかい?」

「覚え……てます」


 少々複雑な仕掛けだった気がするが、教えて貰ったのはつい最近だ。まだ記憶に新しい。頷くと、いいこだねとしわしわの手で館長さんは頭を撫でてくれた。

 ワンくんと雪が僅かばかりに積もるお庭に出て、館長さんと太刀川さんが作ってくれたスウィングベンチに腰かけ、前後に身体を揺らす。

 この場所からなら、一階の窓の中の光景が、距離は少し有れども覗き見ることが出来る。この角度からでは館長さんと対面しているであろう太刀川さんの姿は見えないけれど、彼とだいじなお話とやらをしている館長さんの姿は見える。

 窓は閉じているので何を言っているのか聞こえてはこないが、館長さんは真っ青な顔をして怒っていた。ときに頭を抱え、必死になって説得をしている様にも見える。ただならぬ雰囲気に身体が硬直する。その光景は、私のことで言い争うおじいちゃん達とお母さんの姿に、とてもよく似ていた。

 眼をぎゅっと閉じてベンチの上で膝を抱える。隣にやってきたワンくんが、私を慰めようと顔をぺろぺろと舐めてくる。ワンくんのふわふわの灰色の毛並みを撫でて気持ちを落ち着かせようとするが、震える手は誤魔化せなかった。

 先生がやってくる気配がして顔を上げる。ベンチに座る私を黙って見下ろす嘴形のマスクの長身のひとは何も言わず、ワンくんが苦手だろうに賢い犬を挟んで、彼も私の隣に腰掛けた。しかし、足りない。私の気持ちを鎮めてくれるひとは、先生だけではない筈なのに。


「先生……おねえちゃんは?」


 私の問いかけに先生は気まずそうに、私から視線を逸らした。

 最近、私の前に姿を現してくれない美しい双子を思い浮かべるけれど、どんな姿をしていたのか明確に思い出せない程に、会えない期間が長くなっていた。あんなに一緒にいたのに、どうしてちゃんと覚えていないのと頭を抱える。私がこの館にやってくる前から、先生と一緒にずっと私のそばに居てくれた、私にとっては本当のおねえちゃんと言っても過言ではない存在であった筈なのに。

 しかし、もう、おねえちゃんだけじゃない。私が館にやってきて一番に仲良くしてくれたお喋りが大好きな人形のマリーも、まだたちかわさんと仲良くなかったとき、彼にひどいことを言われて隠れてこそこそ泣いていた私に寄り添い、一緒に血の涙を流してくれた臆病なテディベアも、この場所にやってきてから私とお友達になってくれた皆ひとりずつ、何も話さなくなって、そして動かなくなってしまった。どれだけ話しかけても、もう何も応えてはくれない。

 お母さんの帰りを待つひとりぼっちの部屋で、一番最初に私の前に現れてくれた先生の嘴を見上げる。皆、私を置いてどこかへ行ってしまう。なぜ、どうしてと、どれだけ泣いたことだろう。マリーが動かなくなったとき、おねえちゃんに会えなくなったとき、皆私のことを慰めてくれたのに、その皆も少しずつ消えていってしまって、今となっては。

 居なくなった彼らの存在を埋める様に、私の中で色濃くなっていくのは館長さんと、そして太刀川さんだった。

 不思議な話だ。最初はあんなにも怖くて近づきたいとも思えなかったのに。今となっては一緒にお店の手伝いをし、休憩には穏やかなお茶の時間を過ごしている。2人くっついて絵本を読んだり、勉強を教えて貰ったり、いつからか夜は一緒のベッドで寝るようにもなった。太刀川さんと離れている時間の方が少ないといってもいい。

 たちかわさんと一緒に居る時間が増えれば増えるほど、皆と過ごす時間は徐々に減っていく一方だった。それは私が大事にしていたお友達に対しての裏切りで、そのことが原因で皆は私に愛想が尽き、仲良くしてくれなくなったんじゃないかと思えてならない。彼らの代わりなどいらない。必要ないのに。後悔するにも遅すぎた。


「せんせいも……いなくなっちゃうの? みんなみたいに」


 先生は黙ったまま、しかし私の問いかけに僅かに嘴を揺らし、明らかに動揺していることがわかる。それはつまり、私の恐れていることが起こり得るということを私に知らしめた。それがわかってしまって絶望する。

 涙をぼろぼろと流して、ごめんなさい、いなくならないでと、自業自得だというのに、先生に縋り、謝り続ける今の私の姿はどれだけみじめに先生の目に映っていることだろう。

 私の頭の上にすぽりと何かが被せられる。頭から薔薇の匂いがして、顔を上げようとするけれど、被せられた帽子ごと頭を強く押さえつけられて動けない。視界には、顔を合わせる度ジャ●アンばりに私のことをいじめてくる、燕尾服を着た帽子屋のすらりとした足が見えた。今はその足を見ただけで安心して、よりぽろぽろ大粒の涙を流す私の頬をワンくんが舐めた。


「ほらね、先生ドクター、僕の言った通りだったろ」


 帽子屋ジャックは帽子ごと私の頭を抑え付ける力を一切弱めることなく 、隣にいる先生に話しかけ始めた。


女王様あいつは信用するに値しないってさぁ、何度も言ったじゃないか。はやいとこ志紀をあいつから引き離さないと取り返しのつかないことになるって、僕はずっと忠告してあげたのに。先生ドクターは志紀の為だっていって聞かなかったね。そりゃあいつか、遅かれ早かれ、志紀が僕らのことを忘れるときはくるさ。仕方のないことだってことは僕もわかってたよ。でもそれにしたって、あんな男に馬鹿志紀を託せる訳ないだろ? 本気であの男が真っ当だと思ってたんなら、先生ドクターは眼が曇ってるよ。それとも、元々ひとを見る目が無いのか。そのマスク外した方が、もう少しものがよく見えるんじゃないの」

「じゃ、ジャック、いたい、頭離してっ」

「で? どうするつもりなんだよ、先生ドクター。ついに双子まで消えた。もう残ってるのは、僕とあんただけだよ」


 って言っても、もうどうしようもないけどね、とジャックは呟き、やっと頭から手を離してくれた。頭からずり落ちそうになったジャックの帽子を手で支える。そして、帽子屋が今し方発言したことを何度も頭の中で繰り返す。

 冬空の下、寒さからなのか、いや原因はそれだけではない、顔を真っ青にした私に帽子屋はため息をついた。お気に入りの派手な薔薇の帽子を脱いだジャックの端正な顔は、赤と黒のアイシャドウがとても目立つ。


「なんで、あんなやつとずっと一緒なんて約束しちゃったんだ」

「……」

「ほんと馬鹿だね、君は」


 私を責める帽子屋は、どんなときでもいつも笑顔な彼にしてはらしくない、苦々しい表情をしていた。不機嫌を隠さない帽子屋が、私の唇をごしごしとグローブで拭う。あんまりにも強く擦ってくるので、唇が摩擦でひりひりとしてきた。そして先程何があったのかを思い出して、居たたまれなくなり、ジャックの帽子で顔を覆い隠す。

 先生が立ち上がって、この場を離れようとしているのがわかった。は、として帽子をジャックに押し付ける。


「先生、まって!」


 背の高く大きな背中を追いかけて手を伸ばす。うなだれた先生の後ろ姿を見て罪悪感でいっぱいになる。違う、先生はなんにも悪くないのに。全部、悪いのは。








 せんせい、と声を出すのと同時に目が覚める。涙が一筋頬を流れた。パチパチと瞬きをして、ぼーっとした頭のままむくりと体を起こし、目をこする。さむい、と掛け布団を手繰り寄せ、何も身にまとっていない体に熱を取り戻そうとした。

 まだ太刀川さんは戻っていない。今のうちにお風呂に入ってスッキリしてこよう、お薬も飲まなきゃ。とりあえず傍らに脱ぎ捨てられていた浴衣を身につけ、お風呂場に向かった。

 身体を隅々まできっちりと洗い、暖かいお湯に浸かって温まった身体はほかほかと湯気を纏っている。気怠くて仕方なくて、あとでちゃんとドライヤーで乾かそうとタオルで濡れた髪を拭いながら到着した台所で、キャンディケースから取り出した薬を飲む。ごくりと薬が水とともに食道を伝っていくのを感じる。倦怠感から大きくため息をついてシンクに手をつき項垂れる。

 ふっと眼を閉じると、紅葉の美しい、懐かしい天龍寺が脳裏に浮かんだ。風に吹かれた紅葉がひらひらと私達の上に舞い落ちる。

 目の前には洋装ではなく着物を着た若い太刀川さんが、私に宝石箱オルゴールを差し出している。それを受け取った私は嬉々として小指を太刀川さんに向ける。太刀川さんは自身に向けられた小さく短い指を見て暫く黙った後、私の手を、そして小指を撫でた。


「ヤクザもんに小指を差し出すたぁな」


 そう言って小さく笑い、自分の小指を私のものに絡ませた。

 赤、黄色、緑と様々な彩りに輝く山に囲まれた荘厳な天龍のお寺。今となっては悲しい記憶の色濃いあの場所で、幼い私は子供らしい、単純でありきたりな素朴な願いを口にして、太刀川さんと契りを交わした。交わしてしまった。

 太刀川さんの奥底に隠れた暗く重たくて、そして冷たいものに気づくこともなく、一生の誓いとも言える約束を太刀川さんに強くせがんでしまったのは、他でもない私だった。



 
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「ねぇ、本当に陰キャの童貞だって信じてたの?経験豊富なお姉さん………」 30歳の誕生日当日、彼氏に呼び出された先は高級ホテルのレストラン。胸を高鳴らせ向かった先で見たものは、可愛らしいワンピースを着た女と腕を組み、こちらを見据える彼の姿だった。 一方的に別れを告げられ、ヤケ酒目的で向かったBAR。 「ねぇ。酔っちゃったの……… ………ふふふ…貴方に酔っちゃったみたい」 一夜のアバンチュールの筈だった。 運命とは時に残酷で甘い……… 羊の皮を被った年下オオカミ君×三十路崖っぷち女の恋愛攻防戦。 覗いて行きませんか? ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ・R18の話には※をつけます。 ・女性が男性を襲うシーンが初回にあります。苦手な方はご注意を。 ・裏テーマは『クズ男愛に目覚める』です。年上の女性に振り回されながら、愛を自覚し、更生するクズ男をゆるっく書けたらいいなぁ〜と。

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