運命のひと。ー暗転ー

破落戸

文字の大きさ
上 下
48 / 124

死んだら御免

しおりを挟む


 ペロペロと顔を舐められる感覚に目が覚める。ふっと瞼を開けると、小さいワンくんが尻尾を振りながら私の身体に乗り上げていた。

 ワンくんを抱えて目をこすり、起きあがろうとしたら、ぐらりと自分が座っている場所が揺れた。ハンギングチェアの揺らぎに微睡み、そのまま寝てしまっていたらしい。ゆらゆらと身体を前後に動かすと、椅子が私に合わせてブランコみたいに動いた。

 なんか最近このパターンが多いなぁ。気付いたら眠ってて、起きたら違う場所にいるっていう。

 基本的には天龍の離れとこのオルゴール館を行き来している。あまりにも頻繁に起こるものだから、たまにどっちが現実なのかわからなくなる。そしてそれは今回も然りだった。

 揺れる椅子から降りるのと同時に、ワンくんを床に降ろす。少しばかり寝崩れしまった青のフレアスカートの型を直し、白いブラウスの胸元にある、大きくふんわりとした白リボンを結び直す。側に脱ぎ捨ててあった黒いメリージェーンの靴をいそいそと履く。

 お喋りをしているぬいぐるみたちや、いつも通り私に世界の御伽噺を聞かせようと意気揚々と語り始めた機械人形オートマタに挨拶し、ちょっと館内を見て回りたいからと部屋を後にする。いってらっしゃいと快く見送ってくれた彼らの声を背に、2階にあるまだ行ったことのない部屋を探索する。てとてとと足元にはワンくんがついてきてくれていた。

 関係者以外は入室禁止の扉を開くと、そこは真っ赤な絨毯の敷かれた廊下が続いている。廊下の突き当たりまで進んでみると、扉は4つあった。

 一番右奥の部屋は鍵が掛かっているため開かない。それじゃあこっちは? と、その真向かいの部屋は鍵がはかかっておらず、扉を少しだけ開けて中を覗いてみた。ベッドと棚と、それ以外は何もない。不気味さすら感じる程に寂しく真っ暗な部屋だった。

 いつか読んだ本に、部屋という空間はそのひとの心の状態を表したりもすると書かれていたのを思い出した。もしそれが本当なら、この部屋の主が抱える空虚感は凄まじいものであると捉えざるを得ない。今の私には、この部屋に足を踏み込む権利は無い気がしてならなくて、気になりはしつつも、そっと扉を閉じた。

 残る二部屋のうち、ひとつは鍵がかかっていないものの、パスワードを解くよりも複雑な仕掛けが施されており開かない。それを見て、ああ館長さんの部屋だな、ということがすぐにわかった。

 そして踵を返し、先程の何もなく寂しいの一言につきる部屋の隣室の前に立つ。ノブを回し中に入ると、女の子らしい部屋が広がっている。たくさんのアンティーク人形ドールや、可愛らしいぬいぐるみ、そして壁には絵画が飾られている。カチコチという音は隅にある大型の柱時計の振り子からのものだった。

 時間を見ると、もうすぐ館長さんが紅茶の時間だよ、と私を呼びにくる15時ちょっと前だった。なにもかもが古めかしいアンティーク家具で統一されたロココ調のお部屋は、子供の部屋にしては落ち着きがあった。

 机の引き出しを開けてみると、中には赤いリボンで留められたスケッチブックが入っていた。それを手に取り、ふわふわの真っ白なベッドに腰かける。ワンくんもベッドによじ登り、慣れたようにくつろぎ始めた。

 そういえば、小さい頃の私はお絵かきばかりしていたな。中身を開きページをめくると、私が離れで描いていたものと同じ、大事なお友達がたくさんお絵かきされていた。パラパラと最新のページまでめくると、そこには今までの頁には居なかった人物……というよりは人間がひとり描かれていた。

 人間を描いた絵はこのスケッチブックでは珍しく、途中で館長さんらしき特徴を捉えた人物が一枚だけ見受けられたが、これはどうやらまた別の人らしい。お世辞にも上手とはいえない絵のため誰を描いたのかわからないが、どうやら怪我をしている様だった。体のあちこちが赤いクレヨンで塗られている。痛々しかった。

 日記代わりにもなっていたスケッチブックを引き出しに戻す。ほんの少し開いていた真紅のカーテンを限界まで引き、窓から見えるガーデンを見下ろす。四季咲きの黄色とピンクの薔薇が咲き誇っている。

 そうだ、お茶の前に水やりしとこう。ベッドの上でうとうととしていたワンくんの頭を撫でて、ひとり部屋を出て行った。








 たくさんの薔薇のいい香りがする庭の空気をすうっと大きく吸う。午後の暖かい日差しの下で咲き誇る、彩りの良い薔薇たちの美しさは素晴らしいものだった。このオルゴール館に足を運ぶお客様の中には、この薔薇の庭を目的にやってくる方もいらっしゃると聞く。納得だった。

 いつもは館長さんと2人でする水やりをひとりで行うことに少し胸が高鳴る。館長さん、びっくりするかな。ひとりで出来たねと褒めてくれるだろうかと淡い期待もあった。

 しかし、蛇口を思い切り捻ってしまった為にホースが水の力で暴れ馬のごとく暴走し、あちこちに水が勢いよくまき散らされてしまう。


「うわわっ」


 暴走するホースを離してしまい、勢いに押されて地面にへたり込んでしまう。慌てて蛇口に手を伸ばそうとしたその瞬間、ホースからの水が洋館の陰から突如現れた人物にクリティカルヒットしてしまった。そのことに呆然として水を止めるという行為も頭からすっぽ抜けて、びちょびちょに濡れ続けるその男性ひとを凝視してしまう。


「…………」

「…………」


 何とも言い難い、重く気まずい沈黙が走る。みっ水も滴るいい男? なんてコメントしてる場合じゃないことはわかっている。ともかくも私の頭を支配したのは「あっ、私死んだな……」という絶望だった。

 全身を水で濡らしたそのひとを視界に収めながら、なんとか蛇口に触れて捻る。緩やかに止まった水の流れを見届け、少し距離のあるところから私を見下ろす彼をこちらも見上げる。

 怪我をしていた。綺麗な顔はガーゼや絆創膏がベタベタ貼られ、痣も出来ている。腕まくりをしたブラウスから覗く腕にも包帯がぐるぐるに巻かれていた。喧嘩でもしてきたかの様子に驚く。しかしそれ以上に……このひと、怪我するんだという驚きのほうが勝っていたのかもしれない。

 水に濡れて傷に滲みたりしていないかとか、なんか手当て雑じゃないか? 自分でやったのか? ていうか何でここにいるんだとか、思うことはたくさんある。

 だって確か、この頃太刀川さんと私はかなり険悪……というかお互いに全く関わろうともしなかった筈だ。太刀川さんも私のことをかなり蔑ろに扱っていたし、言ってしまえば私は彼に嫌われていた。私もあのブリザードの様に冷たい青の瞳が怖くて怖くて仕方がないから、自分から近づくことも、なんなら彼の視界に入らないように物凄く気をつけていたのに。

 そういえば、昨日確か、このひと傷だらけでここに戻ってきてそれで……あれ? 何があったんだっけ……。

 お互い水に濡れたびしょびしょの状態で、何も言わないまま時が過ぎていく。先に立ち上がったのは私で、彼にごめんなさいと礼をしてホースを手にし、今度はゆっくりと蛇口を回し、その場を離れて薔薇に水をやりにいった。ごめんなさい? 相手をずぶ濡れにしてしまったんだからタオルぐらい取りにいきなさいよと自分に対して思ったが、おそらくこのときの私はそんな気遣いが出来る余裕も無いほどに焦っていた。肌寒くなってきたこの秋という季節に水かぶらせてスミマセンという謝罪というよりも、あれは、あなたの視界に入ってごめんなさい、という意味が大きかった。

 ぴちょんぴちょん、と水気で重くなった前髪から落ちる雫を拭う気にもなれず、ピンク色の薔薇たちに水を降らせる。沈み込んだ気持ちはこうなるとなかなか晴れない。

 暗い表情をしているだろう私の隣に誰かが立つ気配がして、横を見上げようとした私の頭に柔らかいタオルが乱暴に被せられる。顔面を布で覆われたために、思わず「ぶえっ!?」と情けない声を上げてしまう。

 慌てて顔からタオルをずらそうとした私の手から、するりとホースを取られる。えっと私から道具を掠めとった人物を見上げると、太刀川さんが首にかけたタオルで濡れた髪をぐしゃぐしゃに乱暴に拭きながら、私の代わりに薔薇たちに水やりをしていた。

 戸惑いながら太刀川さんを見つめる私を、彼は横目で一瞥する。怪我だらけの顔は薔薇たちに向けたまま、彼は手にしていたものを私に差し出した。それはあんまりにも可愛らしすぎて太刀川さんには似合わない、緑色のぞうさんの如雨露だった。異色の組み合わせに目を点にした私を誰も責めはしないだろう。

 戸惑いつつも、ぞうさんの如雨露を受け取ると、太刀川さんは中身に水を入れてくれた。そしてもう私に構うことなく、黒いデニムのポケットに片手をつっこんで再び水やりを再開させた。私はというと、そんな彼の隣でもだもだしながら、蕾から花開いたばかりの赤薔薇にぞうさんの鼻から水をあげた。ホースから出る水飛沫によって出来た虹と赤薔薇の色合いがとてもきれいだった。


 お茶の時間だよ、と呼びにきてくれた館長さんが、私達がびしょ濡れでふたり並んでいるところを見て、物凄く驚いた顔をして「んええつ!?」と素っ頓狂な声を上げた。







 
 けほっと咳が出る。思いの外長引いている風邪にうんざりする。いつもより治りが遅く、免疫力が落ちていることを思い知らされる。

 お布団の中で、太刀川さんからのお土産であるパンダのぬいぐるみの手足をうりうりと動かして戯れる。この子、よく見たら目のあたりがちょっと太刀川さんに似てるなぁ。パンダ特有の眼の周りを覆う黒い部分なんか、太刀川さんのクマみたいだ。い、いやまあ、ここまでダイナミックでも黒くもないけど。

 名前は何にしようかなぁ、本当にネーミングセンスがないので女将さんにつけてもらおうかな、なんて考えている私にお庭から話し掛けた人物がいた。


「ありゃ、志紀ちゃん風邪引いたの?」

「った、瀧島さん?」

「へへっ久しぶり~。元気にしてた……ならこんな寝込んでないよねぇ」

「風邪引いちゃって……うつっちゃいますよ」

「俺、そんな柔じゃないから大丈夫よ」


 どっこいしょ、と縁側に腰掛けのびをしているのは神出鬼没の瀧島さんで、会うのは大分ひさしぶりだった。てっきり太刀川さんと同じく日本を出ているものだと思っていたが。


「瀧島さんは、日本を出られないんですか?」

「ん~~、たまにしか出ないよ。美味いもん食べにいきたくなったときぐらい?」

「た、太刀川さんは随分とお忙しいようですけど……」

「みたいだねぇ」

「……」

「そのパンダ可愛いじゃない。どうしたの?」

「えっ、あ、その、太刀川さんから……」

「アイツから?」

「は、はい」

「へぇ~~、そんなことするんだアイツ」

「そんなに珍しいですか?」

「志紀ちゃんにとってはあるあるなの?」

「そうですね。昔からよくいろんな贈り物してくれてたんです」

「昔?」

「はい。お菓子だったり人形だったり、少し遠い場所へ行ったらご当地のもの買ってきてくれたり。それは今も変わらな……」


 言い切る前に、呆然と口を閉じる。口から滑るようにして出てきた昔話と共に、脳裏に蘇る、ぶっきらぼうにお土産を押し付けてくる若い彼の姿。

 突然閉口してしまった私に瀧島さんはへへっと軽く笑った。後ろ手をつき午後の庭を眺めて、のんびりとした口調で「なぁんだ」と言った。


「退屈で死にそうな顔してるんじゃないかと思って、今日は慰めに来たんだけどなァ」


 瀧島さんは懐から煙草を取り出し火をつけた。口に咥えてふーーと煙を吹き出し、布団から身体を起こした私をニヤニヤとした顔で振り返る。おもちゃを見つけた、そんな顔だった。


「こんな箱庭に閉じこめられてる訳だし、てっきりアイツとは殺伐としてるんだろうなと思ったけど、そんなお土産まで貰っちゃって、結構和やかにやってんだねぇ」

「……」

「強姦紛いの行為してくる野郎に、よくもまぁそんな平静でいられるもんだって不思議に思うとこなんだけど、そっかぁ、知らなかったなぁ。アイツとは昔からの懇意の仲だったんだねぇ。俺、何にも聞かされてねぇなぁ」

「……」

「そっかそっか。ということは、今回のこともちょっと大袈裟な痴話喧嘩みたいなも……」

「ち、ちがいます!」

「違うの?」

「ちがいます! た、太刀川さんとはそんなんじゃっ」

「じゃあ志紀ちゃんはアイツのただの情婦イロなんだ?」


 意地悪に、そして厭らしく笑う瀧島さんに何も反論できなくて口をつぐむ。彼にとって今の私は何であるのか明確に言い表す言葉が見つからない。ただ、瀧島さんの言っていることも間違っていないと思ってしまうと自分の存在が堪らなく嫌になって、自分が自分であることに対しての嫌悪感に口を手で抑えた。
 

「まぁまぁ、そんな顔しないでよ、ちょっとからかっただけだから。へへっ」

「わ、私……」

「知ってるよ。白鷹の若いのを助けるためってんでしょ。いやぁ健気だねぇ、殊勝だねぇ。オジサン涙が出そうになるよ」

「……」

「それでもねぇ志紀ちゃん、騙されてるかもって考えないの?」

「……え?」


 相手はヤクザだよォ? と煙草を吹かしながら、瀧島さんは私が抱いていたパンダの首根っこを猫にする様に掴み、目の前に翳してゆらゆらと左右に揺らした。


「もしかしたら本当は生きてないかもしんないよ」


 息が止まる。瀧島さんの持つぬいぐるみが、首を吊らされている様に見える。煙草の煙が天に向かい、届くことなく途中で消えていく。


「だって、証拠がないじゃない。一度でも生きてる姿を見せてもらった? 志紀ちゃんを強請ゆするためのネタをでっちあげるために、芝居を打っただけかもしんないよ。俺達おれたちの常套手段だからねぇ」

「そん、な」

「最初は本当に生きてたかもしんないけど、もしかしたらもうとっくに上に逝っちゃってるかもしれないね。志紀ちゃんの好い人は」


 ゾクリと心が凄まじいスピードで凍りつく。岡崎さんが、もうこの世には居ないかもしれないだって? そんな、それが真実だとしたら、私は今、何のために。

 灰色の髪の、がっちりした背中が遠ざかっていく。口が震える。吐き気がするほど気分が悪くなって、胃の中のものが出てこないように万が一に備えて両手で口を覆う。その手もガクガクと震えが止まらなかった。

 尚も瀧島さんはくぐもった笑い声を漏らす。それがなんだか、太刀川さんのそれに似ていて、ゾッとした。

 でも、違う、と頭が瀧島さんの言っていることを強く否定した。ぶんぶんと首を振る私を、瀧島さんは口元に笑みを浮かべたまま首を傾げて見ている。口を覆っていた両手を離し、太刀川さんと指切りをした小指を見つめる。

 彼は、私との約束だけは反故にしないと、絶対的に確信めいたものもあった。 『ずっと一緒』と、覚えのない契りの言葉が頭に響き、気持ちの悪さに歯を食いしばったあと、瀧島さんをびくびくしつつも見つめ返した。


「た、太刀川さんは、私との約束を破ったりはしません」


 瀧島さんは、私の発言に少し意外そうに目を丸くしたが、すぐに元のにやにやとした表情に戻り、私にパンダを返した。腕の中のパンダをじっと見つめる。


「へぇ? えらく信用されてるじゃない、アイツ」

「約束破ったら、針千本飲んで貰うことになってますから」

「へへっ、怖いこと言うなァ。そこらへんのヤクザより物騒じゃない」

「知りませんか? 指切りげんまんって」

「いやぁ、勿論知ってるよ。むしろ志紀ちゃんみたいな若い子がそれを知ってることに驚いてる。指切りげんまんの由来ってなかなか面白いよ。志紀ちゃん聞いたことある?」


 尋ねられるも、そこまではと首を振る。瀧島さんは意味深に笑って煙草を吸う。


「でもそうかァ、アイツと指切りまでしたんだねぇ。へへっ、皮肉なもんだ。酷だけど、アイツにゃピッタリの契り方じゃないの」

「あの……何がですか?」

「いやぁこっちの話。まぁ安心してよ。白鷹の若いのはちゃんと生きてるよ」

「ほ、本当ですか!?」

「うん。からかっただけ」

「や、やめてください、そんな……本当に心臓に悪い……」

「へへっ、ごめんごめん。痛めつけることはあっても殺しはしないと思うから。なんせ、死者ってのは残された人間の心中にずうっと色濃くこびりついて残る訳じゃない? それはアイツも気にくわない所だろうし。……でもまぁ、ものは言いようだけどね」

「……え」

「確かに、約束は守られてるよ。ちゃあんと。違えちゃいないけど。アレはどうなんだろうねぇ。どう言ったらいいのか。俺だったら一思いに殺してくれって思うなァ」


 愉しそうに発言する瀧島さんに息をするのを忘れる。なにそれ。布団から身を乗り出し、瀧島さんの服をつかんで尋ねる。


「瀧島さん、岡崎さんが今どこに居るのか知ってるんですか」

「そりゃあねぇ、俺も立場が立場だし。現状も現状だしで把握はしとかないとだからねぇ」

「おかざきさん、どういう状況なんですか、い、いきてるんですよね。さっきの、どういう意味なんですか!?」

「さっき言った通りだよ?」

「……」

「俺がその岡崎さんの立場なら、死んだ方がマシってね」


 瀧島さんは私の手をやんわりと解いて庭に降り立ち、煙草を投げ捨てる。吸い殻を足で地面に押しつけ、ぐりぐりと火を消した。


「アイツもすぐに殺しはしないよ。もし死なせでもしたら、しきちゃんがアイツの傍にいないといけない理由が無くなっちゃうからね」

「……」

「今はとりあえず、志紀ちゃんが大事にしてる野郎が生きてるって事実にだけ安心しとけばいいと思うよォ。今はね。へへっ」


 安心なんて、出来るわけない。








 その日の夜、私は何にも口にすることが出来なかった。せっかく女将さんが作ってくれた夕食も全く手をつけることが出来なくて。それでも女将さんに心配をさせたくなくて、無理やり口に詰め込んだけれども飲み込むことが出来なくて、結局吐き出してしまった。焦った様子の女将さんにどうしたのと背中をさすられながら、首を振る。すみませんと謝り、目眩がして気持ち悪くて食べ物が喉を通らないだけと誤魔化し続けた。風邪が悪化したのか、と女将さんは噛まずともただ流し込める様にと重湯を用意してくれた。

 明らかに顔色が悪い私を気遣って今晩は泊まるとまで言ってもらえたが、それに対しても首を振る。あんまりにも私が大丈夫を繰り返すのに女将さんが根負けし、お腹が空いたら食べなさいと消化しやすい食べ物を台所に作り置きしておいてくれた。明日は早めに様子を見に来るからと去っていく優美な後ろ姿を見送る。

 そしてひとりになった和室で頭を抱えた。何をしていても考えるのは岡崎さんのことだった。

 怖い、死んだ方がマシってなんなの。何度追求しても、瀧島さんは笑って誤魔化すばかりで、彼の現状を詳しくは教えてはくれなかった。

 今、岡崎さんは何をされているの。どうなっているの。なんで私は、こんなところでのほほんと過ごしている間、彼は何もされていないと思いこんでしまったのか。

 いやだ、傷つけないで。これ以上あのひとに何もしないでと叫びたくなるほどの懇願が今にも身体から溢れ出しそうになる。

 太刀川さんは私との約束は破らない。絶対に。だから、岡崎さんは生きてる。生きてる、けど。

 もう、生きてくれているだけでいいと強く思っていた私の心が甲高い悲鳴を上げる。それは、私のエゴでしかないのではないかと。大事だという相手に、どんな形でも生きていてほしいと、たとえそれが本人にとって苦しみを強いることであったとしても、それを願うのは間違っているんじゃないかと。

 どうしよう、私どうすればいいの。何も出来ない、どうすることも出来ない無力な自分が憎くてたまらない。こういうとき、シラユキさんならどうするんだろうだなんて考えてしまう自分がまた嫌になった。

 こんな状態ですやすやと眠ることが出来る筈もない。不安と恐怖に苛まれ、心臓もバクバクと忙しなく鳴り続ける。眼を閉じようとも、岡崎さんが痛めつけられているイメージだけが焼き付いて離れてくれない。涙を止められず嗚咽する私の枕元に、大きなワンくんも不安そうに小さく鳴いて座り込む。

 瀧島さんのたった一言で、ここまでダメージを受ける弱っちい私に何が出来るってんだ。あのひとの命を繋ぎ止めることだけでも必死だったというのに。

 その行為すらもが岡崎さんを苦しみに貶めることに繋がっているとするなら、彼を今も尚傷付けているのは太刀川さんではなく、私自身じゃないか。

 何時間経ったのかわからない程泣き続けて、涙ももう枯れ果ててしまった。泣き疲れて眠るということも出来ずにぼーっと宙を見つめていると、ワンくんが私の頬についた涙の痕を慰めるように舐めた。

 目が痛い。明日……というかもう今日だが、赤く腫れぼったくなっていることは確定だろう。女将さんがこの顔を見たら何て言うだろう。

 どうせもう眠れる気がしない。顔を洗いにいこうとゆっくりと立ち上がると、ぐらりと頭が揺れる。最近になってやっと落ち着いていた熱がぶり返しているみたいだ。何もかもが悪い方向に進んでしまい頭をかきむしりたくなる。








 ワンくんが今も昔も変わらず、いつも通り横をついてきて歩いてくれるのが心の支えだった。この子がいなかったら本当にどうなっていたかと想像するだけでも恐ろしい。とても堪えられない。

 月灯りに青白く照らされた薄暗い廊下を進んでいく。ふらつく身体を支えるため壁に手を伝わせながら、キシキシと軋む廊下を進んでいく。

 ふと、何かの気配を奥の方から感じた。顔を上げ、あまりよく見えない真っ暗闇の廊下の奥を眼を細めて見つめる。ワンくんも私の前に立ち、暗闇の方向を見ながら唸り、やがて大きく吠え始めた。頼もしい見た目に反して、基本的に大人しいワンくんがここまで警戒する姿をこれまで見たことがなかった私は、その不穏さに進めていた足を止める。息を潜め、コツコツと誰かが近付いてくる足音がする前方に目を凝らす。

 暗闇から現れ、まず月の光に晒され見えたのは、長くスラっとした足と綺麗に磨かれた黒の革靴。家屋の中だというのに靴も脱がす、遠慮もへったくれもなく大股で歩いてくるその人物のシルエットは男性だった。徐々に明らかになっていくその姿、そして足早にこちらに近付いてくる人物に心臓が逸る。

 こっちにこないでと後退ると、何故だか突然足に力が入らなくなり、がくんとその場に座り込んでしまう。それでも距離をとろうと身体を少しずつでも後ろに下がらせる。ワンくんがより大きく吠え立て、焦りが増していく。
 
 月光に照らされ、距離を詰めてきた人物の風貌が露わになった。赤薔薇をたんと飾りつけたシルクハットを被り、赤いネクタイに燕尾服を着た青年。この日本家屋において、世界観が全く合わない人物。深く帽子を被っているせいでその目元は見えないけれど、白い歯を見せてにんまりと笑っている様はこの上なく不気味だった。

 縮みこまりながらも後退り続ける、青年は私の前に長い足を折りたたんで屈み込み、傷つきました! といういかにもな声色で私を責めた。


「心外だなぁ、そんなに脅えなくてもいいでしょ」


 帽子を目深に被ったままの彼は真っ黒なグローブを右手だけ外し、その骨ばった大きな手を脅える私に伸ばすも、自分に対して吠えることを止めないワンくんに大袈裟なため息をついた。私に触れようとしていた手を引っ込めて立ち上がる。帽子屋は未だ大きく吠え続けるワンくんに対し「Shush, One!」と人差し指を向けて窘めた。それを聞いたワンくんは鳴くのを止めて、戸惑ったように大きな体をうろうろと動かし、やがてくぅんと小さく鳴いてその場にうずくまり大人しくなった。その様子を見て帽子屋は満足げに笑い、再びこちらに向き合い、呆然と座り込んだままの私を見下ろした。

 恐る恐る顔を上げると、帽子の下にある顔が私からはよく見えた。スラリとしたモデル体型、派手な帽子の下から覗くローズティブラウンの髪に、黒と赤のアイシャドウが色濃く施された印象的な目。

 まって、このひと、どこかで会ったことが。

 
先生ドクターも双子も、ワンのこともすんなり受け入れた癖に、何で僕のことは思い出してくんないかなぁ。そりゃあよくキミのこといじめてたけど、それなりに仲良くやってたじゃないか」


 先程と同じように私の前に屈み込んだ彼は頬杖をつきにっこりと笑った。笑ってはいるけど、怒ってる。帽子屋このひとはへらりへらりとどんなときでも笑ってばかりで、自分の気持ちを表情に出すことは無いに等しかった。けれど、この頬杖をつく仕草は怒っている時にしかしないのだと、私は知っていた。


「あなたは」

「僕が最後ってのも気に入らない話さ。大きくなったキミに一番に会いに行ったのはボクだってのにね」

「オルゴール館で会った……」


 私がこの時代にやってくる前に友人と立ち寄ったオルゴール館、二階から降りてくる女性客の色めき立つ声、ガラスケースに納められたレプリカの宝石箱オルゴールを見つめる私の肩に手を置き、囁く男性の声。

 このひともまた、かつて同じ時間を共有したお友達のひとりだった。ただ、大事な友人ではあるけれど、わたしはこのひとが苦手で仕方なかった。


「オルゴールは運命のひとに出逢わせてくれたかい? 志紀」


 それにしても君は相変わらず脆いね、と白い歯を見せて笑う帽子屋このひとだけは、他の先生やお姉ちゃん達とは、どこか違っていたから。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

お見合い相手は極道の天使様!?

愛月花音
恋愛
恋愛小説大賞にエントリー中。  勝ち気で手の早い性格が災いしてなかなか彼氏がいない歴数年。  そんな私にお見合い相手の話がきた。 見た目は、ドストライクな クールビューティーなイケメン。   だが相手は、ヤクザの若頭だった。 騙された……そう思った。  しかし彼は、若頭なのに 極道の天使という異名を持っており……? 彼を知れば知るほど甘く胸キュンなギャップにハマっていく。  勝ち気なお嬢様&英語教師。 椎名上紗(24) 《しいな かずさ》 &  極道の天使&若頭 鬼龍院葵(26歳) 《きりゅういん あおい》  勝ち気女性教師&極道の天使の 甘キュンラブストーリー。 表紙は、素敵な絵師様。 紺野遥様です! 2022年12月18日エタニティ 投稿恋愛小説人気ランキング過去最高3位。 誤字、脱字あったら申し訳ないありません。 見つけ次第、修正します。 公開日・2022年11月29日。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

極道に大切に飼われた、お姫様

真木
恋愛
珈涼は父の組のため、生粋の極道、月岡に大切に飼われるようにして暮らすことになる。憧れていた月岡に甲斐甲斐しく世話を焼かれるのも、教え込まれるように夜ごと結ばれるのも、珈涼はただ恐ろしくて殻にこもっていく。繊細で怖がりな少女と、愛情の伝え方が下手な極道の、すれ違いラブストーリー。

【R18完結】エリートビジネスマンの裏の顔

白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます​─​──​。 私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。 同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが…… この生活に果たして救いはあるのか。 ※サムネにAI生成画像を使用しています

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~

菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。 だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。 車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。 あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。

ニューハーフな生活

フロイライン
恋愛
東京で浪人生活を送るユキこと西村幸洋は、ニューハーフの店でアルバイトを始めるが

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~ その後

菱沼あゆ
恋愛
その後のみんなの日記です。

処理中です...