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死んだら御免
しおりを挟むペロペロと顔を舐められる感覚に目が覚める。ふっと瞼を開けると、小さいワンくんが尻尾を振りながら私の身体に乗り上げていた。
ワンくんを抱えて目をこすり、起きあがろうとしたら、ぐらりと自分が座っている場所が揺れた。ハンギングチェアの揺らぎに微睡み、そのまま寝てしまっていたらしい。ゆらゆらと身体を前後に動かすと、椅子が私に合わせてブランコみたいに動いた。
なんか最近このパターンが多いなぁ。気付いたら眠ってて、起きたら違う場所にいるっていう。
基本的には天龍の離れとこのオルゴール館を行き来している。あまりにも頻繁に起こるものだから、たまにどっちが現実なのかわからなくなる。そしてそれは今回も然りだった。
揺れる椅子から降りるのと同時に、ワンくんを床に降ろす。少しばかり寝崩れしまった青のフレアスカートの型を直し、白いブラウスの胸元にある、大きくふんわりとした白リボンを結び直す。側に脱ぎ捨ててあった黒いメリージェーンの靴をいそいそと履く。
お喋りをしているぬいぐるみたちや、いつも通り私に世界の御伽噺を聞かせようと意気揚々と語り始めた機械人形に挨拶し、ちょっと館内を見て回りたいからと部屋を後にする。いってらっしゃいと快く見送ってくれた彼らの声を背に、2階にあるまだ行ったことのない部屋を探索する。てとてとと足元にはワンくんがついてきてくれていた。
関係者以外は入室禁止の扉を開くと、そこは真っ赤な絨毯の敷かれた廊下が続いている。廊下の突き当たりまで進んでみると、扉は4つあった。
一番右奥の部屋は鍵が掛かっているため開かない。それじゃあこっちは? と、その真向かいの部屋は鍵がはかかっておらず、扉を少しだけ開けて中を覗いてみた。ベッドと棚と、それ以外は何もない。不気味さすら感じる程に寂しく真っ暗な部屋だった。
いつか読んだ本に、部屋という空間はそのひとの心の状態を表したりもすると書かれていたのを思い出した。もしそれが本当なら、この部屋の主が抱える空虚感は凄まじいものであると捉えざるを得ない。今の私には、この部屋に足を踏み込む権利は無い気がしてならなくて、気になりはしつつも、そっと扉を閉じた。
残る二部屋のうち、ひとつは鍵がかかっていないものの、パスワードを解くよりも複雑な仕掛けが施されており開かない。それを見て、ああ館長さんの部屋だな、ということがすぐにわかった。
そして踵を返し、先程の何もなく寂しいの一言につきる部屋の隣室の前に立つ。ノブを回し中に入ると、女の子らしい部屋が広がっている。たくさんのアンティーク人形や、可愛らしいぬいぐるみ、そして壁には絵画が飾られている。カチコチという音は隅にある大型の柱時計の振り子からのものだった。
時間を見ると、もうすぐ館長さんが紅茶の時間だよ、と私を呼びにくる15時ちょっと前だった。なにもかもが古めかしいアンティーク家具で統一されたロココ調のお部屋は、子供の部屋にしては落ち着きがあった。
机の引き出しを開けてみると、中には赤いリボンで留められたスケッチブックが入っていた。それを手に取り、ふわふわの真っ白なベッドに腰かける。ワンくんもベッドによじ登り、慣れたようにくつろぎ始めた。
そういえば、小さい頃の私はお絵かきばかりしていたな。中身を開きページをめくると、私が離れで描いていたものと同じ、大事なお友達がたくさんお絵かきされていた。パラパラと最新のページまでめくると、そこには今までの頁には居なかった人物……というよりは人間がひとり描かれていた。
人間を描いた絵はこのスケッチブックでは珍しく、途中で館長さんらしき特徴を捉えた人物が一枚だけ見受けられたが、これはどうやらまた別の人らしい。お世辞にも上手とはいえない絵のため誰を描いたのかわからないが、どうやら怪我をしている様だった。体のあちこちが赤いクレヨンで塗られている。痛々しかった。
日記代わりにもなっていたスケッチブックを引き出しに戻す。ほんの少し開いていた真紅のカーテンを限界まで引き、窓から見える庭を見下ろす。四季咲きの黄色とピンクの薔薇が咲き誇っている。
そうだ、お茶の前に水やりしとこう。ベッドの上でうとうととしていたワンくんの頭を撫でて、ひとり部屋を出て行った。
たくさんの薔薇のいい香りがする庭の空気をすうっと大きく吸う。午後の暖かい日差しの下で咲き誇る、彩りの良い薔薇たちの美しさは素晴らしいものだった。このオルゴール館に足を運ぶお客様の中には、この薔薇の庭を目的にやってくる方もいらっしゃると聞く。納得だった。
いつもは館長さんと2人でする水やりをひとりで行うことに少し胸が高鳴る。館長さん、びっくりするかな。ひとりで出来たねと褒めてくれるだろうかと淡い期待もあった。
しかし、蛇口を思い切り捻ってしまった為にホースが水の力で暴れ馬のごとく暴走し、あちこちに水が勢いよくまき散らされてしまう。
「うわわっ」
暴走するホースを離してしまい、勢いに押されて地面にへたり込んでしまう。慌てて蛇口に手を伸ばそうとしたその瞬間、ホースからの水が洋館の陰から突如現れた人物にクリティカルヒットしてしまった。そのことに呆然として水を止めるという行為も頭からすっぽ抜けて、びちょびちょに濡れ続けるその男性を凝視してしまう。
「…………」
「…………」
何とも言い難い、重く気まずい沈黙が走る。みっ水も滴るいい男? なんてコメントしてる場合じゃないことはわかっている。ともかくも私の頭を支配したのは「あっ、私死んだな……」という絶望だった。
全身を水で濡らしたそのひとを視界に収めながら、なんとか蛇口に触れて捻る。緩やかに止まった水の流れを見届け、少し距離のあるところから私を見下ろす彼をこちらも見上げる。
怪我をしていた。綺麗な顔はガーゼや絆創膏がベタベタ貼られ、痣も出来ている。腕まくりをしたブラウスから覗く腕にも包帯がぐるぐるに巻かれていた。喧嘩でもしてきたかの様子に驚く。しかしそれ以上に……このひと、怪我するんだという驚きのほうが勝っていたのかもしれない。
水に濡れて傷に滲みたりしていないかとか、なんか手当て雑じゃないか? 自分でやったのか? ていうか何でここにいるんだとか、思うことはたくさんある。
だって確か、この頃太刀川さんと私はかなり険悪……というかお互いに全く関わろうともしなかった筈だ。太刀川さんも私のことをかなり蔑ろに扱っていたし、言ってしまえば私は彼に嫌われていた。私もあのブリザードの様に冷たい青の瞳が怖くて怖くて仕方がないから、自分から近づくことも、なんなら彼の視界に入らないように物凄く気をつけていたのに。
そういえば、昨日確か、このひと傷だらけでここに戻ってきてそれで……あれ? 何があったんだっけ……。
お互い水に濡れたびしょびしょの状態で、何も言わないまま時が過ぎていく。先に立ち上がったのは私で、彼にごめんなさいと礼をしてホースを手にし、今度はゆっくりと蛇口を回し、その場を離れて薔薇に水をやりにいった。ごめんなさい? 相手をずぶ濡れにしてしまったんだからタオルぐらい取りにいきなさいよと自分に対して思ったが、おそらくこのときの私はそんな気遣いが出来る余裕も無いほどに焦っていた。肌寒くなってきたこの秋という季節に水かぶらせてスミマセンという謝罪というよりも、あれは、あなたの視界に入ってごめんなさい、という意味が大きかった。
ぴちょんぴちょん、と水気で重くなった前髪から落ちる雫を拭う気にもなれず、ピンク色の薔薇たちに水を降らせる。沈み込んだ気持ちはこうなるとなかなか晴れない。
暗い表情をしているだろう私の隣に誰かが立つ気配がして、横を見上げようとした私の頭に柔らかいタオルが乱暴に被せられる。顔面を布で覆われたために、思わず「ぶえっ!?」と情けない声を上げてしまう。
慌てて顔からタオルをずらそうとした私の手から、するりとホースを取られる。えっと私から道具を掠めとった人物を見上げると、太刀川さんが首にかけたタオルで濡れた髪をぐしゃぐしゃに乱暴に拭きながら、私の代わりに薔薇たちに水やりをしていた。
戸惑いながら太刀川さんを見つめる私を、彼は横目で一瞥する。怪我だらけの顔は薔薇たちに向けたまま、彼は手にしていたものを私に差し出した。それはあんまりにも可愛らしすぎて太刀川さんには似合わない、緑色のぞうさんの如雨露だった。異色の組み合わせに目を点にした私を誰も責めはしないだろう。
戸惑いつつも、ぞうさんの如雨露を受け取ると、太刀川さんは中身に水を入れてくれた。そしてもう私に構うことなく、黒いデニムのポケットに片手をつっこんで再び水やりを再開させた。私はというと、そんな彼の隣でもだもだしながら、蕾から花開いたばかりの赤薔薇にぞうさんの鼻から水をあげた。ホースから出る水飛沫によって出来た虹と赤薔薇の色合いがとてもきれいだった。
お茶の時間だよ、と呼びにきてくれた館長さんが、私達がびしょ濡れでふたり並んでいるところを見て、物凄く驚いた顔をして「んええつ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
けほっと咳が出る。思いの外長引いている風邪にうんざりする。いつもより治りが遅く、免疫力が落ちていることを思い知らされる。
お布団の中で、太刀川さんからのお土産であるパンダのぬいぐるみの手足をうりうりと動かして戯れる。この子、よく見たら目のあたりがちょっと太刀川さんに似てるなぁ。パンダ特有の眼の周りを覆う黒い部分なんか、太刀川さんのクマみたいだ。い、いやまあ、ここまでダイナミックでも黒くもないけど。
名前は何にしようかなぁ、本当にネーミングセンスがないので女将さんにつけてもらおうかな、なんて考えている私にお庭から話し掛けた人物がいた。
「ありゃ、志紀ちゃん風邪引いたの?」
「った、瀧島さん?」
「へへっ久しぶり~。元気にしてた……ならこんな寝込んでないよねぇ」
「風邪引いちゃって……うつっちゃいますよ」
「俺、そんな柔じゃないから大丈夫よ」
どっこいしょ、と縁側に腰掛けのびをしているのは神出鬼没の瀧島さんで、会うのは大分ひさしぶりだった。てっきり太刀川さんと同じく日本を出ているものだと思っていたが。
「瀧島さんは、日本を出られないんですか?」
「ん~~、たまにしか出ないよ。美味いもん食べにいきたくなったときぐらい?」
「た、太刀川さんは随分とお忙しいようですけど……」
「みたいだねぇ」
「……」
「そのパンダ可愛いじゃない。どうしたの?」
「えっ、あ、その、太刀川さんから……」
「アイツから?」
「は、はい」
「へぇ~~、そんなことするんだアイツ」
「そんなに珍しいですか?」
「志紀ちゃんにとってはあるあるなの?」
「そうですね。昔からよくいろんな贈り物してくれてたんです」
「昔?」
「はい。お菓子だったり人形だったり、少し遠い場所へ行ったらご当地のもの買ってきてくれたり。それは今も変わらな……」
言い切る前に、呆然と口を閉じる。口から滑るようにして出てきた昔話と共に、脳裏に蘇る、ぶっきらぼうにお土産を押し付けてくる若い彼の姿。
突然閉口してしまった私に瀧島さんはへへっと軽く笑った。後ろ手をつき午後の庭を眺めて、のんびりとした口調で「なぁんだ」と言った。
「退屈で死にそうな顔してるんじゃないかと思って、今日は慰めに来たんだけどなァ」
瀧島さんは懐から煙草を取り出し火をつけた。口に咥えてふーーと煙を吹き出し、布団から身体を起こした私をニヤニヤとした顔で振り返る。おもちゃを見つけた、そんな顔だった。
「こんな箱庭に閉じこめられてる訳だし、てっきりアイツとは殺伐としてるんだろうなと思ったけど、そんなお土産まで貰っちゃって、結構和やかにやってんだねぇ」
「……」
「強姦紛いの行為してくる野郎に、よくもまぁそんな平静でいられるもんだって不思議に思うとこなんだけど、そっかぁ、知らなかったなぁ。アイツとは昔からの懇意の仲だったんだねぇ。俺、何にも聞かされてねぇなぁ」
「……」
「そっかそっか。ということは、今回のこともちょっと大袈裟な痴話喧嘩みたいなも……」
「ち、ちがいます!」
「違うの?」
「ちがいます! た、太刀川さんとはそんなんじゃっ」
「じゃあ志紀ちゃんはアイツのただの情婦なんだ?」
意地悪に、そして厭らしく笑う瀧島さんに何も反論できなくて口をつぐむ。彼にとって今の私は何であるのか明確に言い表す言葉が見つからない。ただ、瀧島さんの言っていることも間違っていないと思ってしまうと自分の存在が堪らなく嫌になって、自分が自分であることに対しての嫌悪感に口を手で抑えた。
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尋ねられるも、そこまではと首を振る。瀧島さんは意味深に笑って煙草を吸う。
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そしてひとりになった和室で頭を抱えた。何をしていても考えるのは岡崎さんのことだった。
怖い、死んだ方がマシってなんなの。何度追求しても、瀧島さんは笑って誤魔化すばかりで、彼の現状を詳しくは教えてはくれなかった。
今、岡崎さんは何をされているの。どうなっているの。なんで私は、こんなところでのほほんと過ごしている間、彼は何もされていないと思いこんでしまったのか。
いやだ、傷つけないで。これ以上あのひとに何もしないでと叫びたくなるほどの懇願が今にも身体から溢れ出しそうになる。
太刀川さんは私との約束は破らない。絶対に。だから、岡崎さんは生きてる。生きてる、けど。
もう、生きてくれているだけでいいと強く思っていた私の心が甲高い悲鳴を上げる。それは、私のエゴでしかないのではないかと。大事だという相手に、どんな形でも生きていてほしいと、たとえそれが本人にとって苦しみを強いることであったとしても、それを願うのは間違っているんじゃないかと。
どうしよう、私どうすればいいの。何も出来ない、どうすることも出来ない無力な自分が憎くてたまらない。こういうとき、シラユキさんならどうするんだろうだなんて考えてしまう自分がまた嫌になった。
こんな状態ですやすやと眠ることが出来る筈もない。不安と恐怖に苛まれ、心臓もバクバクと忙しなく鳴り続ける。眼を閉じようとも、岡崎さんが痛めつけられているイメージだけが焼き付いて離れてくれない。涙を止められず嗚咽する私の枕元に、大きなワンくんも不安そうに小さく鳴いて座り込む。
瀧島さんのたった一言で、ここまでダメージを受ける弱っちい私に何が出来るってんだ。あのひとの命を繋ぎ止めることだけでも必死だったというのに。
その行為すらもが岡崎さんを苦しみに貶めることに繋がっているとするなら、彼を今も尚傷付けているのは太刀川さんではなく、私自身じゃないか。
何時間経ったのかわからない程泣き続けて、涙ももう枯れ果ててしまった。泣き疲れて眠るということも出来ずにぼーっと宙を見つめていると、ワンくんが私の頬についた涙の痕を慰めるように舐めた。
目が痛い。明日……というかもう今日だが、赤く腫れぼったくなっていることは確定だろう。女将さんがこの顔を見たら何て言うだろう。
どうせもう眠れる気がしない。顔を洗いにいこうとゆっくりと立ち上がると、ぐらりと頭が揺れる。最近になってやっと落ち着いていた熱がぶり返しているみたいだ。何もかもが悪い方向に進んでしまい頭をかきむしりたくなる。
ワンくんが今も昔も変わらず、いつも通り横をついてきて歩いてくれるのが心の支えだった。この子がいなかったら本当にどうなっていたかと想像するだけでも恐ろしい。とても堪えられない。
月灯りに青白く照らされた薄暗い廊下を進んでいく。ふらつく身体を支えるため壁に手を伝わせながら、キシキシと軋む廊下を進んでいく。
ふと、何かの気配を奥の方から感じた。顔を上げ、あまりよく見えない真っ暗闇の廊下の奥を眼を細めて見つめる。ワンくんも私の前に立ち、暗闇の方向を見ながら唸り、やがて大きく吠え始めた。頼もしい見た目に反して、基本的に大人しいワンくんがここまで警戒する姿をこれまで見たことがなかった私は、その不穏さに進めていた足を止める。息を潜め、コツコツと誰かが近付いてくる足音がする前方に目を凝らす。
暗闇から現れ、まず月の光に晒され見えたのは、長くスラっとした足と綺麗に磨かれた黒の革靴。家屋の中だというのに靴も脱がす、遠慮もへったくれもなく大股で歩いてくるその人物のシルエットは男性だった。徐々に明らかになっていくその姿、そして足早にこちらに近付いてくる人物に心臓が逸る。
こっちにこないでと後退ると、何故だか突然足に力が入らなくなり、がくんとその場に座り込んでしまう。それでも距離をとろうと身体を少しずつでも後ろに下がらせる。ワンくんがより大きく吠え立て、焦りが増していく。
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このひともまた、かつて同じ時間を共有したお友達のひとりだった。ただ、大事な友人ではあるけれど、わたしはこのひとが苦手で仕方なかった。
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