運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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「お手伝いしてもいいですか」


 キッチンに立って夕食の用意をしてくれていた女将さんの背中にそうお願いすると、美しい女性ひとはお味噌汁をかき混ぜていた手を止め、きょとりとした顔でこちらを振り向いた。そしてふう、と息をつき料理を再開する。


「あんたもしつこい子やね。ええのよ。何度も言うとるけど、わてが任されてることなんやから。志紀はんはゆっくりしてたらええ」

「でも」


 手をあちこちに動かし、様々な作業を同時に手際よく進行する女将さんを見て、うっとたじろぐ。確かに、ここに私が投入されても邪魔にしかならない気がする。

 時々こうしてお手伝いを申し出るのだが、いつも断られてしまう。今日もだめかと身を引こうとするも、いや、でもと踏みとどまる。そして女将さんの隣に立っておねがいしますと頭を下げた。ちょっと、と私の顔を上げさせようと戸惑った女将さんの声が降りてくる。


「包丁とかは持たないので」



 ご飯の作り方、忘れてしまいそうなんです、と小さく伝える。女将さんは黙ったまま私を見ていた。きゅ、と目をつぶる。

 日々を怠惰に過ごす自分を咎める様に、何かが私の身体を蝕み初めている気がしてならない。何とかしたかった。何かしていたかった。少しでも、人間として正常な生活をしていた以前の自分を取り戻したかった。


「そこに茹でてあるほうれん草、それ切って」

「え」

「おひたしの作り方はわかる?」

「は、はい」

「ほんならもう出汁もとってあるから、あとは任せるわ」


 女将さんからのお許しが出たことに、や、やった! と内心ガッツポーズをとり、急いで髪を後ろで纏める。手を洗って、いざ! とお箸を手に取ったところでピタリと動きが止まる。

 私に手伝わせたと、女将さんが怒られたりはしないだろうか。大丈夫かな、え、ど、どうしよう、自分のことしか考えてなかったと困り果てる。しかしお箸を持ったまま硬直した私の意図に気づいたのか、女将さんが魚をするすると捌きながら声をかけた。


「ちんたらせんといて。やる言うたのはあんたやねんから、責任もってちゃんと最後までし」

「も、もちろんです。でも」

「よう考えたら、天龍若頭の女が料理一つ出来ひんのは恥やわ。仕事もせえへん会合にも出えへん、日がな何もせず本読むか猫と遊ぶか寝るかぼーっとしてるだけなんて」

「とんだだめ人間ですね」

「ほんまやで。穀潰しもええとこや。怠け腐って腑抜けた女の方があのひとに大事にされてるっちゅうのも腹が立つ」


 シュッと風を切り勢いよく包丁を振り下ろして魚の頭をスパーン! と落とした女将さんに流石に顔が引きつった。


「尊嶺はんはあんたに何もさせんでええ言いはるけど、そないな訳にはいかんわ。働かざるもの食うべからずやで」

「ご、ごもっともです」

「わかったら細かいことごちゃごちゃ考えんと手ェ動かして。ただでさえあんた、時雨に居ったときからグズグズしてたんやから。あんたのペースに合わせてたら日が暮れる」


 厳しく言ってくれる女将さんにほっとする。私が旅館で働いてたときもこんな感じでビシバシと愛の鞭を振るわれ、毎度ひいひいと香澄ちゃんに泣きついていたなぁと回顧する。以前に比べて少しは余裕の心を持って、はいとお返事が出来る様になったのは、あの頃から私も少しは成長できていると考えてもいいのだろうか。








「意外やね、随分と手際良いやないの」

「ぅえ」


 味付けも悪ないし、と魚の煮付けを味見した女将さんは少し驚いた表情を浮かべてそう言った。女将さんに褒められたという事実をすんなり呑み込めなかった私は妙ちきりんな声を発してしまう。え、ほ、褒め、褒められた!? あの女将さんに!?


「ちょ、な、なんやのその顔。戸惑うんかにやにやするんかどっちかにしいや気持ち悪い」

「ううう、すみません」

「ほんま変なやね。にしても珍しいやないの。あんたの年頃で料理本も見いひんでぱぱっと作れるやなんて」

「えぁ、そ、そんな」

「照れやんでも。咲なんかに包丁握らせてみ。お百姓さん泣かすことになるわ。時雨には料理できひん子が殆どやったからね。外面は磨けても、中身の磨き方を知らんのが多すぎたわ」

「……」

「皆外見そとみの繕い方ばっかり上手くなってもうて。まぁ商売柄仕方ないんやけど。……誰かに娶ってもらっても、何も出来ひんだら捨てられるでって、いつも言うてたんやけどね」

 
 美しさはどれだけ磨こうともいつか朽ち果てるもの。だからこそ、外だけじゃなく内も磨けと口を酸っぱくし、女の子たちに何度も繰り返し言っていた女将さんは今も印象に残っている。真面目に聞く人もいれば、香澄ちゃんみたいに欠伸まじりに聞く子もいた。私はというと、それを耳にするたび意気消沈するばかりで。私も女将さんみたいに、そういったことを胸を張って発言できる強い女性になりたいなと考えつつ、なれる気がしなくて。それは今も、変わらなくて。


「家の人に教えてもろたん?」

「え」

「お料理」

「い、いえ。私も最初はほんとに、おにぎりとかパスタとかカレーとか簡単なものしか作れなかったんです。ただその、ものすごくお料理上手なひとが居て」

「……」

「……教えて貰ったんです、いろいろ。年頃の女がこれぐらい作れなくってどうするって。残った材料でなにかしら作れるようになれ。いちいちクッ●パッド見るな、目分量に慣れろとか。ほんと、お姑さんみたいに指摘が多くて」

「そう」

「はい。ええっと、なんだっけ。か、かー、カーチャンとかなんかすごい変わった名前のお料理もちゃちゃっと作っちゃうんですよ」

「なんやのそれ」

「確かイタリアの料理だった気がします」


 ご飯を作りながら女将さんと他愛ない話をするのがとても楽しかった。二年前は女将さんの隣に立つだけでも萎縮するだけだったのになぁ。今の私を見たら香澄ちゃんもびっくりするかもしれない。

 なんか、いいなぁこういうの。落ち着きのある、私も少し大人になった気分になれる居心地の良さがあった。ス●バのふかふかのソファで大人の女性とゆっくりフラ●チーノじゃなくて珈琲飲んでる気分……とはちょっと違うか。

 お味噌汁を温め直そうと火をつけたところで、雨の降る音が聞こえてきた。最近湿気もひどいし、よく降るなぁとちらっと見たカレンダーを見て納得した。そうか、もう梅雨時か。

 天龍寺に置いてきてしまったあの赤い傘は、今どうなっているだろう。まだあの場所に取り残されてるのかな。もうぼろぼろに朽ちて、使い物にならなくなっていることだろう。それでも大事なものだから、どんな形になっていても回収しにいきたいけれど、それはもう出来ないことなんだと沈む。

 ぼーっとしていたのか、女将さんが私を呼ぶ声と肩を叩かれるまで気付けなかった。


「志紀はん、味噌汁沸騰しとる」

「え、あ、わっ」


 お味噌汁がお鍋から吹き出そうになってるのを見て慌ててガスを止める。あ、危ない危ない。


「ちょっと、大丈夫なん? 最近、呆けることいやに多いんちゃう?」

「そ、そうですかね」

「元々ぼけっとしとったけど、よりひどなったいうんか、心ここにあらずいうんか……。しっかりしぃや。若い内からそないな調子でどうすんの」


 バシッと背中を叩かれる。予想だにしなかった女将さんからの喝に「うわっ!」と色気のない声を上げた。ふふん、と満足げな表情かおをした女将さんにさっさとご飯をよそえと促される。

 今日は太刀川さんも夕食時に戻られるので離れで食べることになっているらしい。ぺしぺしとご飯をお椀に入れる。それはもう山盛りにぺしぺしと米粒を積み上げていく。おかずを分けていた女将さんが私の手に持つソレを見て、口をひきつらせた。


「そ、そないに食べんの? あんたそれ、若い衆とか体育系の男の子がする盛り方やないの。ただでさえ動いとらんのに肥るで」

「これは太刀川さんの分です」

「は?」

「太刀川さんの分です」

「い、いや。あのひとそんな食べへ」

「太刀川さんの分です」

「……」

「おかずも多めにしときましょう」

「なに? あのひと、あんた怒らせるようなことでもしたん。えっ、まだ盛るん?」

「あ。そういえば女将さん、前に太刀川さんが血塗れで帰ってきた日のことなんですけど……」

「あぁ、まだ志紀はんには何があったか話してなかった……」

「……女将さん?」

「いや、あんたも把握はしといた方がええやろ。それとも、もう尊嶺はんから大体のことは聞いとんの?」

「いえ、相手の組の方を太刀川さんが、その……」


 直々に粛清したとしか聞いていないと答えると女将さんは「せやろね」と小さく呟いた。そして、女将さんはお刺身を綺麗にお皿に盛り付けながら私に忠告する。


「志紀はん。どんだけ気になっても、尊嶺はんに生まれはどこやとか、そういうことを尋ねるのは絶対にやめとき」


 真剣な声色だった。


「わても本当のところはどうなんかわからんけど……会合相手の会長が、極道になる前の尊嶺はんのことをよう知っとる人物やったらしくて。厭らしい男やったわ。過去の話をぐだぐだと持ち出してニタニタ笑て、まるで強請るみたいに尊嶺はんに気持ち悪く絡みついて」
 
「……」

「最初は尊嶺はんも黙ってはったけど、あの会長、あのひとに対して信じられへん侮蔑の言葉で罵ってきよってな。それ吐かれた瞬間、あのひと問答無用で首跳ねてしもて」

「た、太刀川さんは、そのひとになんて言われたんですか」

「悪いけど、わての口からはよう言わん。あの男の言うたことは出任せとしか思えへんけど、尊嶺はんもあの後えらい機嫌悪して口利かん様なってもうたし……」

 
 女将さんは眉を寄せて首を振り、きっと出任せそうに決まってると言い切りはするものの、自信はなさげだった。

 とにかくそういうことだから、あまり太刀川さん自身の根元ルーツに踏み込むのは止せと言われる。人には触れられたくない過去がある。もちろん私にもあるし、太刀川さんだって同じだろう。そこにずかずか足を踏み入るのは、それを必死で隠そうとする相手の心を傷つけるのと同じことだ。こくり頷き、女将さんの助言に従うことを示す。
 

「あぁ、そうそう。明日の朝からまた尊嶺はん、暫く不在にしはるってもう聞いとる?」

「えっ、またですか? つい三日前に中国から帰ってきたばっかりなのに」

「今回は数カ国一気に回るらしいで。なんのことかわからんけど、根回し言うとったわ。ほんまに身体の空かん忙しいおひとや」


 どこの国行くんかはまだちゃんと聞いとらんけどね、と女将さんが肩をすくめた。私も旅は好きだけど、そんな短いスパンであちこち飛び回る体力は無い。一カ国への移動だけでも相当疲れるというのに。それも気楽な旅行とは訳が違う。太刀川さんはお仕事で国を回るのだ。一緒に考えてはいけないだろう。


「あのひと、いつかほんとに身体壊すと思います」

「せやね。食事もまともに三食取らん、寝ない、重度の喫煙に飲酒。あんだけ不摂生に毎日過ごしてはるんや。長生きはしはらんと思うわ」

「それは、いやだなぁ」

「……」

「将来、生活習慣病が原因で寿命縮ませてますよってお医者様に診断される太刀川さんはあんまり見たくないですね」

「わて、あんたが尊嶺はんのこと舐めとるんやないかって思うことがたまにあるんやけど」

「へ!? ま、まさか! そんな訳ないじゃないですか!」


 どうだか、と疑いの眼差しをこちらに向けてくる女将さんに本気で慌てる。え、ほ、ほんとになんで? 








「しばらくここにゃ戻らねェ」


 山のごとくずっしりと盛られたご飯を暫く沈黙して見つめた後、重量感のあるそれを手にしたまま太刀川さんが声を発した。な、なんという違和感のあるだ。んぐ、と口にしていた沢庵を飲み込む。


「女将さんから聞きました。今回はどちらへ?」

「米国、中国、台湾、露西亜」


 ひ、飛距離えげつな……っ。フットワーク軽いどころの話じゃない。期間はどれくらいになるのか尋ねると、早くて3ヶ月、遅くても年末には戻るという。大変だなぁ……。

 お魚の身をほぐして口にする。もぐもぐと口を動かす私に、太刀川さんは何か欲しいものはあるかと尋ねてきた。きょとんとしていると「土産」と付け加え、太刀川さんは日本酒の入ったお猪口に口を付けた。お土産、お土産か。


「だ、大丈夫です」

「へェ、名物の食いもんも菓子もいらねェってか。熱でもあるんじゃねぇのか。風邪か」

「あの、私どんだけ食い意地張ってると思われてるんですか」

「それとも、俺の首だけが戻ってきた方がお前は喜ぶか」


 くつくつと笑いながら太刀川さんが発言した台詞に、お箸を持つ手が強くなる。ぎゅうっとお箸を握る手の血の気が失せ、真っ白になった。そして、私にしては珍しく鋭い声色が堰を切った様に発せられた。


「やめてください」

「……」
 
「じょ、冗談でも……そんなこと言わないでください。聞きたくありません」

「……」

「……」

「なんつう顔してんだお前」

「お、おこってるんです! にらんでるんです!」

「泣きべそかいてる餓鬼にしか見えねぇよ」

「茶化さないでくださいよ! もう身近なひとが怪我したとか、しっ、死んだとか、そんな知らせ聞くのも見るのもやなんです。つらいんです」

「ヤクザの女とは思えねェ発言だな」


 それは、認めたくないところがある。でも馬鹿正直に口に出すと怖いし、実際第三者から見たら今の私は太刀川さんのものなのだろう。自分の身体なのに、所有権は私自身には無い。

 お箸を置いた太刀川さんがこっちに来いとぽんぽんと自分の隣を叩いた。一瞬躊躇したが従わないわけにもいくまいと立ち上がり、すとんと太刀川さんの隣に腰を下ろす。注げと私の方に傾けられたお猪口を見て、熱燗の入った徳利を手にし、すっかり慣れてしまった御酌をする。

 日本酒を嗜む太刀川さんの前に置かれたお膳の上にある料理が、すべて太刀川さんの胃に収められていることに安心した。そうだ、このひとは別に食べられない訳じゃない。ただ、進んで食べようとしないだけで。

 たまにこうして御相伴にあずかる機会がある度にさりげなく……いや、このひとなら私の意図などお見通しだとは思うけれど、お酒の肴だけじゃなくてご飯を食べましょうとしつこく言い続けた。その効果が少しは出ているかもしれない。

 今日も戻ってくるなり、腹が減ったと空腹を訴えていたし、それを太刀川さんの口から聞いた女将さんが思わず「エッ」と声を出して驚いていた位だ。私だって吃驚した。まさかそんな人間らしい言葉を太刀川さんの口から聞くことになるだなんて、と。良い傾向であることは間違いないはずだ。

 するりと頬をなでられ、隣に居る男性ひとに視線を向ける。太刀川さんは時折手の甲で撫でてみたり、ふに、と私の頬を軽く摘まんだりとその柔い感触を楽しんでいるようだった。何故私に関わる人は皆、私の頬を弄くりたおすのか。特に抵抗もせず、おそらく機嫌の良い太刀川さんのなすがまま好きなようにさせる。


「……お土産はほんとにいいので、私と簡単な約束だけしてくれませんか」

「言ってみろ」

「どれだけ忙しくても、ちゃんとご飯は1日三食食べて下さいね。お酒とおつまみだけで済ますのはだめですよ。飲みすぎもだめです。お米をちゃんと食してください。もちろんお肉とお野菜も」

「……」

「あと、移動が多いと思うので、出来るだけ睡眠をとって下さい。飛行機とかは揺れるし、人の気配もあって眠りづらいとは思いますけど、眼を閉じてるだけでもだいぶ違いますから」


 働かざるもの食うべからず。でも、きちんとお休みすることも大事なことだ。しっかり働いた分好きなことをして、身体も心もしっかり休ませてあげるというサイクルが大切だと思う。私はそれを旅館で働いているときに痛いほどよく学んだ。

 だからこそ、お偉いさんなのにあちこち飛び回り、ピリピリと気の張って仕方のないことだろう時間を多く過ごす太刀川さんにも、それを知ってほしかった。生活リズム的に難しいことだとは思うけど、このひとはどこか、自分のことを投げやりにしているような気がしてならないから。


「怪我せず、五体満足で無事に帰ってきてください。それだけでいいです」

「……」

「どんな国だったとか景色だとか、ご飯とか文化とか、そういうお土産話を待ってますから」

「他の女に現を抜かすなぐらい言えねぇのか」

「うえ、あ、いや。それは別に。あ。でも、そういう場面になったら相手のことを考えてちゃんとゴムをふぎゅっ」

「可愛くねぇ上に憎たらしいんだよお前は」

「ひゅ、ひゅいまへぇん!」


 頬を鷲掴みにされ、たこみたいに唇を突き出す私の顔はさぞ不細工なことだろう。だというのに、太刀川さんは私を引き寄せて、 誘うように首筋を厭らしくなぞってくるからぎくりとする。ちょっと待った、とその手を掴んで静止させる。不満そうに少し眉間にしわを寄せた太刀川さんにびくびくしつつも、肩を押して距離をとる。そしてバッと立ち上がり、ぐいぐいと太刀川さんの腕を引っ張って立たせようとする。
 

「明日朝はやいんですよね! じゃあ体力温存しないと。ちゃんと睡眠取らなきゃですよ。今日はお風呂入って早く寝ちゃいましょう」

「おい」

「よっ、夜通しで膝枕したげますから。……い、いりませんか?」


 沈黙した太刀川さんの反応を見て、おこがましい発言だったかなと後悔する。でも、こんな寝心地の悪い膝でも、いつもぐっすり寝入ってくれるし、割と頻繁に太刀川さんから膝を貸せとも言われるから気に入られてないということはない……と思うんだけど。

 しかし自信はさほどなく、冷や汗を垂らしながら未だに座ったままの太刀川さんの返事を待つ。何も言わずにすっと立ち上がった太刀川さんをびくびくしながら見上げる。太刀川さんは無言で私の頭を撫で、和室を出て行った。その後ろ姿を見送る。お風呂のある方へ向かっていったのでこれは、了承と受け取っていい、のかな。うんそうだ、きっとそうだ。そうと決まれば、後であったかいミルクも用意しなければ。      








 お皿洗いと食器の後片付けを済ませたころ、雨音が聞こえてきた。急いで和室に戻り、中に雨が入り込まないように縁側の障子を閉めようと近付く。

 その障子に触れた際、お庭の隅に人影が見えた。え、と目を向けるとカオ●シ……ではなく、あの嘴形のマスクを被った人物がこちらの様子を窺う様にして立っていた。草花の陰に隠れている様だが、暗闇の中でも如何せんその長身は目立っていた。

 ごきゅり、と生唾を飲み込む。なんと声をかけたらいいのだろうか。そもそもどこから入ってきた? もしかして天龍の関係者だったり? 怪しすぎる風体の人物の出現に太刀川さんを呼ぶべきなんだろうけど……その必要はないと思った。


「あ……あの……」


 隠れているつもりらしい人物に勇気を振り絞って声をかける。すると彼はふるふると嘴を左右に振り、私が誰に呼びかけているのかと周りを確認している様だ。いやあなたあなた。草木からはみ出してるあなたですって。ば、バレてないとでも思っているのだろうか。長身の彼はこてりと首を傾げ私を見ている。

 強くなる雨の中で佇んでいるその姿を見ているのがなんだかつらくて、かといって某ヒロインの様に「ここ、あけときますね!」とほんの少し障子を開けて彼を招き入れる訳にもいかない。でも見て見ぬ振りは出来ない、というのが私のさがだった。


「ちょっと待っててくださいね」


 声をかけ、鎖をジャラジャラとうるさく鳴らしながら急いで玄関へ向かう。しかし玄関に行き着く丁度手前のところで、くい、と右足首を引っ張られ、勢いあまってこけてしまう。い、いたい。

 起き上がりながら足を見ると、鎖が長さの限界を迎え、ピンと張ってしまっていた。く、くそう。あとちょっとなのに、と目的のものを睨む。しかし、私の隣にある戸棚を開けると小さく簡易的なものだけれど似たものが見つかったのでよしとする。

 急いで縁側まで戻ると、嘴形のマスクの男性は先程と同じ場所に突っ立っていた。雨でぬかるんだ地面に足の鎖がつかないように手に持ち、下駄を履いて、持ってきた折り畳み傘を差して近付く。彼は目の前までやってきた私に対して何も言わない。近くで見ると本当に背が高い。見上げる首が少ししんどいくらいだ。どうぞ、と持ってきた傘を差し出すも受け取ってくれる様子はない。


「前に、駅でお会いしましたよね」

 
 京都のホテルでも、と尋ねても返事は返ってこない。こちらを見下ろして黙ったままの嘴を見上げる。話せないのかな。見ているだけでも不安になってくる怪しげな風貌で怖いはずなのに、なぜこんなにもそばにいるだけで安心するんだろう。

 不思議なことに、目の前にいるひとが雨に濡れていないことに気付く。傘も差していない。雨を草木が凌いでいる訳でもないのに。空を見る。確かに、このひとが立っている場所にも雨粒が降り注いでいた。

 なんとなく、黒いマントに触れてみようとゆっくりと手を伸ばす。あと数センチ、というところで私は現実に引き戻されることとなった。


「志紀」

「っ」


 手にしていた鎖がつん、と後ろに引かれる。後ろを振り向くと、縁側に立つ太刀川さんが私の鎖を手に軽く引っ張っていた。お風呂から上がって、髪も乾かさないでそのまま戻ってきたのだろう。ぽたぽたと水滴が毛先から落ちているのがわかる。


「何してんだ」


 雨の中傘をさして立ち尽くしている私に太刀川さんが声をかける。


「え、あ、えっと、その……あ、あれ?」


 つい先程まで一緒にここにいた人物の姿はどこにもない。私が後ろを振り向いていた一瞬で居なくなってしまっていた。残ったのは傘を打つ雨音だけ。

 訝しげに周囲を見渡している私を、太刀川さんはその青い瞳で黙って見つめている。何かを探るような視線に、思わず傘を持つ手に力が入る。

 太刀川さんはそんな私に早く上がれ、と声をかけた。すぐに返事をして言われたとおり縁側に居る太刀川さんの元まで戻り、傘に付着した雨水を払ってから閉じていると、太刀川さんがもう何も、誰も居ない雨景色となった夜のお庭を見ながら口を開いた。


「何か見えたのか」

「……いっいえ。なにも」

「……」

「雨宿りしにシロちゃんが来てないかなって、お庭覗いてただけです」


 口から出てきたのは嘘だった。明らかに不審な人物が居たというのに、それを太刀川さんに告げる気にはなれなかった。言ってはならない気がした。太刀川さんに告げたら、また彼らから引き離されるんじゃないかと思うと怖くて。

 また? またってなんだ。

 
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