運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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少女を想い続けた暴君

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 下腹部が重くて痛くて、気持ち悪い。しかしてこの鈍痛がやってくる度、こんなにも安心感を得る期間になるとは思いもしなかった。自分の中から流れる血が、私の身体は私ひとりのものだということを教えてくれた。

 おなかをさすりながら畳の上に寝っ転がる。苦しい不快感と痛み、そして気持ち悪さのフルコンボ。

 苦渋を味わう私の顔をワンくんがクーンと鳴きながら舐めた。今日も遊びに来てくれたというのに遊び相手になってあげられないのが申し訳無い。

 しかしながら今回も今回とて3ヶ月程空いたために身体の重苦しさが半端なく、まともに動けるものではなかった。女将さんに痛み止めの薬を貰い先程服用したばかりなので、その効果が現れるのにはもう少し時間がかかりそうだ。

 おなかに優しいものが飲みたい。温かいお茶でも煎れようとゆらりと身を起こし、ふらつきながら立ち上がる。

 壁を伝って廊下をゆっくり歩き、キッチンへ向かう。ワンくんが私の顔を見上げつつ、歩調を合わせてついてきてくれた。しかして凄まじい鈍痛が私を襲い、痛みに唸りながらその場にうずくまる。ワンくんがどうしようどうしようと私の周りをぐるぐるする。


「だ、大丈夫だよ」


 なんとか声をかける。そうだ、大丈夫。意識を飛ばす程ではない。以前岡崎さんの前でやらかしたときの方がもっとひどかった。今回は沈静薬も飲んでいるし、もうあんな事態にはならないし、させない。

 このまま休んでいたらすぐに動けるようになる筈とうずくまっていると、玄関の方から誰かがやってきた物音がした。誰だろう、晩御飯にはまだ少し早いし。

 あ、でも確か、女将さんはお昼から別の組で会合があるって言ってたな。太刀川さんについていかなければないということで帰りが遅くなるから、夕飯は別の女性ひとに任せてあるとか。その女性が時間を間違えちゃったのかな、なんて考えているとそばに居たはずのワンくんがいつの間にか居なくなっていることに気付く。突然居なくなった賢い犬の名前を呼ぶも、どこに隠れたのか出てこない。帰っちゃったのかな。

 玄関の方から近づいてくる音がなにやら騒がしい。慌てた様子の女将さんの声も聞こえてくる。随分早く終わったんだな。ということは太刀川さんもいっしょ? だとしたら、こんなところを見せるわけにはいかない。ちゃんとしてなきゃ。

 壁に手をついて立ち上がったところで、突き当たりの廊下から現れたひとたちに、あぁやっぱり帰ってきてたんだと確信する。おかえりなさいと声をかけようとしたが、口から出てこなかった。

 床に赤いしるしを刻みながら颯爽と歩いてくる太刀川さんは全身血塗れで、着物は真っ赤に染まってしまっている。怪我をしているのかと思ったが、当の本人は涼しげな顔だ。

 しかし、その青い眼は氷柱の様に鋭い眼光を放っており、冷たく凍てついていた。赤の中に浮かぶ青は、とんでもない威圧感を放っている。

 こちらに向かって歩いてくる太刀川さんの視界に私が収められると、へなへなと全身の力が抜けてへたりこんでしまった。太刀川さんの後ろを女将さんがタオルを持って追いかけてきている。太刀川さんが私の前まできて足を止めた。

 お腹を押さえて太刀川さんを見上げる。太刀川さんは眉を寄せ、血で染まった手を私の頬に添えた。


「どうした」


 い、いや、それはこっちの台詞なんですけど。あなたがどうした。何があった。

 目の前の人から漂ってきた血のにおいと真っ赤な光景に眩暈がしてきた。体調も芳しくない上に、今あんまり目にしたくない赤をここまで見せつけられると、思い出したくない血みどろの出来事が物凄い勢いで脳裏に映像として蘇ってしまう。これがトラウマというやつなのだろうか。身体面だけじゃなく、精神メンタルまでも相当きているらしい。

 ただでさえ良くなかった気分が更に降下し、ぐにゃりとした視界に酔う。同じ轍を踏むまいと思っていた矢先にこれかぁ。

 崩れ落ちた身体を抱き留めてくれたのは、言うまでもなく血のにおいを纏った太刀川さんで。なんか、日に日にひ弱になっていくな、私。








「……ちゃん、しきちゃん」


 誰かに肩を揺さぶられ、眉を寄せながらゆっくりと重い瞼を開ける。ぼやける視界にまず入ってきたのはどこか見覚えのある真っ白な天井。そしてこちらを覗き込む知らない女性の顔だった。え? と目をぱちくりとさせる私に、女性は「おはよう」と挨拶した。


「え、あ、お、おはよう、ございます……?」

「ごめんねぇ、起こしてもうて~。今からお熱計るから、ちょっと我慢してな」


 そう言って私の脇の下に体温計を差し込んできたのは、ナース服を着た看護士さんだった。


「しんどいところはない? 気持ち悪いとかない?」


 尋ねられ、状況を飲み込めないながらも返答する。看護士さんは、持っていたバインダーに挟んだチェックリストにさらさらと何かを記入している。ピピピと体温計が鳴ったので抜き取る。平熱だ。私から体温計を受け取った看護士さんは熱が無いことを確認し、よしよしとペンを走らせた。

 私が寝ていたベッドの横にある椅子に座り、看護士さんは着替えた覚えがない私のパジャマの釦をひとつずつ外していく。同性なので問題はないのだが、如何せん私の身体には人には見られたくないものがいくつもつけられている。反射的に看護士さんの手を取り胸元を開ける動作を止めてしまうが、看護士さんは優しく笑って私の頭を撫でた。


「大丈夫やで~。いたいことはせえへんからね~。ちょっと胸のおとだけきかせてな」

「でっ、でも」


 ちらりとパジャマの中を覗き込む。下着をつけてないことも気になったが、太刀川さんによってつけられた痕がひとつもない。

 困惑している私をよそに、「ちょっとひんやりするで」と自然な動作で私のパジャマを開き、看護士さんは首にかけていた聴診器を胸に当てた。大きく息吸う様に言われ、大人しく深呼吸する。背中も同じようにされる。


「ぜぇぜぇもしてへんな。おくすりがきいたみたいやね」


 確認を終えた看護士さんが私の釦を締め直す。状況をつかみ切れない。


「あ、あの、ここって病院ですよね。私どうして」

「あれ? 覚えてへん? って、それもそうやね。しきちゃんねぇ、ひどーいゼェゼェが出てなぁ、上手く息が出来なくなっちゃったんよぉ」

「ぜ、ぜぇぜぇ?」

「そう。しきちゃんが仲良くしとるおにいさんね、いっつもたばこ吸っとるやろ? あのわる~い煙がしきちゃんのぜんそく、もっと悪くさせちゃってん」

「喘息? え? で、でも私」


 もう完治してるに近い……と言おうとして、口を閉じる。なんだろう……さっきから、この違和感。

 煙草を吸うお兄さんって太刀川さんのこと? でもあのひと、私の前ではいつも……。それに、どうしてこんなに小さい子に話しかけるみたいに看護士さんは私にお話するんだろう。


「お兄さんにはね、せんせぇからしきちゃんの前で吸ったら危ないんやでってきつーく言ってもろたから、もう大丈夫やで。ものすごーく反省……んーと、落ち込んではったわ」

「……」

「それにしてもほんまビックリよ~。あのイケメンくん、えらい血相で突然診療所うちに飛び込んできて、何事や思たら、ぐったりしたしきちゃん背負うて助けてくれ言うてね。お休みやったけど、あんなに必死に頭下げて頼む言われたらねぇ~」

「……」

「しきちゃん診てもろてるときもずーっと離れてくれへんのよぉ。心打たれたわ~。セ●チューみたいやったよぉ。しきちゃん知ってる? セ●チュー」


 おかしい。やっぱり変だ。一体誰のことを話してるんだろう。太刀川さんではないことは確かだ。私の知っている彼とはまるで違いすぎる。

 たぶん、これは夢だ。最近、眠っているのか現実なのか白昼夢なのか判断を付けるのに時間を要する夢を見る。きっとこれも同じ類いのものだろう。

 しかし、いつもよりなんだか鮮明で、はっきりとしていて、いやにリアルだなと思った。

 看護士さんはそれにしても、と笑って話を続ける。
 

「あそこのオルゴール館の看板娘ってしきちゃんのことやったんやね。えらい可愛い着物着せてもろて~」

「……オルゴール館?」

「この辺りではちょっとした名物になってんのよぉ。無愛想やけどえらいイケメンくんと、着物着たちっちゃい女の子があの博物館のお手伝いしてるって。女性のお客さんなんか、しきちゃんら見る為にあのオルゴール館行くいうひともおるらしいやないの~」

「あ、あの」

「二人のちぐはぐな感じがたぶん人気……ん? なぁに?」


 いやな予感がした。夢は夢でも、こんなにも情報がはっきりとしているものだろうか。もっとふわふわと曖昧なものではないのか。

 ここはどこなのか、どこの病院なのか。オルゴール館はきっと、何故だか私の心に深く根付いてしまった京都のあの場所のことだろう。ならば、今私が居るのは京都の病院? それらを全て尋ねようとして口を開いた瞬間、キャン! と子犬の鳴き声が病室の外から聞こえてきた。パタパタと走り寄ってきたのは灰色の毛並みの……。


「……ワンくん?」

「あ~、また入ってきて! ほんまにもう、いくら小さい診療所やからいうて、ほんまは動物入れたらあかんねんからねぇ」


 看護士さんは屈んでちいちゃいワンくんの頭をよしよしと撫でた。


「お外に出てような~。エサもあげるから」


 くーんと鳴き続けるワンくんをひょいと抱き上げ、看護士さんが私を見る。


「しきちゃん。このおりこうさんにごはんあげに行くついでに、しきちゃん起きたで~って先生とかっこええお兄さん呼んでくるから。ちょっと待っててな」


 なにかあったらすぐナースコール押すんやで、と病室を出て行った看護士さんの背中を見送る。

 ひとりになった個室で、自分の手を広げて見つめる。掛け布団をめくり、自分の体型も確認する。ちいさい子どもではなく、通常サイズの私で間違いない。

 開いた窓から風が差し込み、真っ白なカーテンがそよそよと揺れる。その隙間から見えた昼下がりの街並みの景色を見て、ほ、と息をつく。まるで昔に戻ったかの様な……むかし?
 
  窓の外を見ていた私の耳に、病室の扉が勢いよく開く音が入り込む。


「っしき、」


 焦りを混じえた声色で名前を呼ばれた。え、とそちらに目を向ける。年配のお医者様と、たち……た……え?

 私の居るベッドに駆け寄ってきた人物に両肩を強く、しかし痛くない程度に掴まれ、顔をのぞき込まれる。その表情は余裕がなく、汗を滲ませている。呆然とその顔を見つめ、私もその名前を口にした。


「……た、たちかわさん?」

「……」

「は!? んえ!? たちかわさん!?」

「……まだ寝ぼけてんのか、お前は……」

「い、いやだって……えぇ!?」


 他に誰に見えるんだ、と呆れた表情を浮かべている太刀川さんをまじまじと凝視する。

 え、だ、だって……わかい。私の知ってる太刀川さんよりもずっと。目の前に居る太刀川さん(?)は高校生か大学生くらいの年齢に見えるし、な、なんだその格好。

 真っ黒なシャツに黒のデニム、これまた黒のショートエプロンを腰につけ、何もかも黒で統一した若者らしい洋装。そのスタイルの良さがよく出ている。出ている……が、着物のイメージしかなかった太刀川さんのレアすぎる……というか年の段階で色々飛び抜けてしまった感があるが、その様を見て驚愕を隠せない。

 ザ・大人の渋みと凄まじい色気を周囲に撒き散らしていた太刀川さんからは想像できない、青年と形容するに相応しい若者。

 少しばかり震える手で私の頬や髪、首もとを、その存在を確かめる様に撫でてくる太刀川さんのその顔には表情があった。

 何を考えているのかわからない、いつも薄ら笑いを浮かべ飄々とした態度で人を手の上で踊らせるひと。それが私の知っている太刀川さん。でもこのひとは、それを為す余裕がまだ無いのか、何ともない顔を装おうとしているけれど、その青い瞳には心配や不安の色が浮かんでいる。なんと言えばいいのか、若者らしい青さが……浮き世離れしたあのひととは違う、人間らしさがあった。


「しきちゃん、呼吸も落ち着いたみたいやね」


 よかった、と皺を深くさせて微笑んだお医者様に私は思わず曖昧に、「は、はい」と返事をしてしまう。

 お医者様の隣には、あの嘴形のマスクを被った長身の黒マントが立っていた。その少し後ろで、身体の繋がった顔のない双子のお姉さんたちが心配そうにこちらを伺っている。怖いとはもう思わない、けれど。

 ちっちゃいワンくんにごはんをあげに出ていた先程の看護士さんも戻ってきたが、嘴形のマスクの男性にも双子にも気にも留めず、にこにことベッドのそばまで近づき、太刀川さんと私の様子を見ていた。

 私以外には、彼らの存在が見えていない?

 どうして、と戸惑い困惑する私の身体を煙草の匂いが包み込む。すっぽりと腕の中に私を納める太刀川さんの鍛えられた身体は、私が知っている温もりをしていて、今も昔も変わらず私にとっては大きかった。


「しき」


 耳元でため息と共に囁かれた低い声に泣きそうになる。いや、既に涙は出ていた。哀しいのか、それとも嬉しさからなのか。

 刺青の見える首もとに顔を埋めると、ないまぜの感情で胸がいっぱいになった。私をぎゅっと抱き締める太刀川さんの背中におずおずと手を回す。私を捉える腕がより強くなったことに安心した。

 そういえば私、ちゅうされるより、こうやってぎゅっとしてもらう方が好きだったな、なんてことを思い出した。








 冷たい手で頬を撫でられ、目元の水滴を掬い取られる感覚がした。ふっと、目を開けると和室の天井に、あっという顔をした女将さんが視界に映った。寝起きでぼんやりとした頭が夢から覚めたことを何とか私に伝達する。むくりと上半身を起こし目をこすると、手に水がついていた。


「やっと起きた。ほんまお寝坊さんやね。悪い夢でも見たん?」

「え?」

「え? って……泣いとるやん。あんた」


 女将さんに指摘されてやっと気づく。あ、この水、これ涙だったんだ。訳も分からずほろほろと流れ続ける涙を拭う私を見た女将さんが「いつでもどこでも泣いて。ほんま忙しい子やね」と呆れた声色で言った。ほんとだよ、どうしたっていうんだ。情緒不安定が過ぎる。


「顔色は良くなったみたいやね。せやから言いましたやろ、尊嶺はん。血ィみて驚いて気ィ失っただけ。 わざわざ病院行かさんでも、ちょっと寝かせてたら目ぇ覚ますって」

「え」


 お布団の右側に座っていた女将さんが、私の左側に居る人物に声をかけた。そちらに目を向けると、すぐそばで未だに血の赤に染まったままでいる太刀川さんがだらりと座り、その膝にシロちゃんを乗せて横目でこちらを見ていた。にゃあんとシロちゃんが私を見て鳴いた。き、気づかなかった。い、居たんだ。

 太刀川さんを視界に収めるも、頭はまだふわふわと夢と現実の境目をさまよっている為に、思わず太刀川さんの方に体を向け、私にしては恐ろしく積極的に彼に距離をつめた。目を見開き、所謂ガン見をしてしまう。私からの熱い、なんなら暑苦しすぎる視線に太刀川さんは微動だにせず、動揺もせず、ただただ流し目でこちらに視線を返す。色気のおばけの、太刀川さんだった。


「た……たちかわさん?」

「……」

「……た、たちかわさん!」

「……寝惚けてんのか」

「ふっ……老けてる!!」

「……」

「あ。ち、ちがっ、い、今のはつい……! いっ……~~いひゃいいひゃい! たちかわさんはおわかいれす! ふけてまへん! ごっごめんなひゃいいい!」


 両頬を太刀川さんに思い切りみょーーんとつねられる。その痛みに「はなしてぇえええ」と更に涙目になって太刀川さんの仕置きから逃れようともがく私を、女将さんはひたすら呆れ返った表情で見ていた。


「はいはい。とりあえず尊嶺はんもお風呂入ってきてください。わてはもうお暇しますさかい」


 女将さんは太刀川さんを促し、彼の膝の上で寛いでいたシロちゃんを抱き上げた。にゃあん、と嫌がる様に鳴いたシロちゃんを女将さんが撫でるとゴロゴロと喉を鳴らした。

 太刀川さんは女将さんと私を無言で見比べたあとゆっくりと立ち上がり、和室を出ていった。ひりひりと痛むほっぺたを押さえて、女将さんとシロちゃんと私だけになった空間で深く息をつく。

 
「ほんに情けない子やね。もっと酷いモン見てきたやろに、こんなことで倒れて迷惑かけて」

「す、すみません……」

「まぁ、痛み止めも効いたみたいやし、もう大丈夫やろ。夕食は台所に置いてあるから暖めて食べ。尊嶺はんは食べてきた……言うても、お酒しか口にしとらんかったから、おつまみ一緒に置いとるわ」

「……」

「今日はあのひと色々あったから、あんたが御酌でもしてあげ。ええね?」

「……色々って?」

「それはまた今度。わても今日は早めに休ませてもらうわ。はい」


 女将さんは私にシロちゃんを預けて、小さくふわふわのシロちゃんの頭を穏やかな顔で撫でた。ちりんちりん、とシロちゃんの首にある鈴の音が鳴る。

 水色のショールを肩に掛け、女将さんも太刀川さんに続き優雅な動作で静かに退出していった。あんな女性になりたいと思うけれど、今の私にはあんまりにも遠すぎた。








 まだキリキリと小さな痛みが続く下腹部が気になりはするが、先程よりも随分とマシだ。鈴を鳴らしながらにゃんにゃんとひとりで遊んでいるシロちゃんを眺め、浴衣の前合わせを引っ張ってその下にある素肌を確認する。そしてため息をついた。

 こちらに近づき、お布団の中に潜り込んできたシロちゃんの身体を撫でる。遊び疲れて眠たくなったのか、うとうととごめん寝をしていた。かわいい。

 障子の向こうから誰かの足音がする。まぁ言わずもがな太刀川さんだろうな、と開かれた障子の方を見て絶句し、バッと顔を背けた。

 なっななななんで、なんでちゃんと着てないの!? 太刀川さんは着物の上半身の部分は着ずに腰に垂れ下げ、その鍛え抜かれた肉体と、その体全体を這う様にして刻まれた藍色の刺青を惜しみもなく晒していた。肩に掛けたタオルで濡れた髪を荒々しく拭いている太刀川さんに背中を向けて顔を真っ赤にして叫ぶ。


「な、なんで、ちゃんと着てないんですか!」

「風呂上がりで熱いんだよ。こんくらいでいちいち喚くな」

「す、すみません……じゃ、じゃなくて! 風邪引きますから! お願いですからきちんとしてください!」

「まだそんな生娘きむすめみてェなこと言ってんのか」


 しょうがねぇ奴だな、なんて溜め息混じりの声と共に、後ろで衣擦れの音が聞こえてくる。その音すらもなんだか気恥ずかしくて、バクバクと破裂しそうな心臓を落ち着かせようと必死だった私がはたと気付く。

 なんか、逆じゃない? 何が? 男性と女性の立場が。

 いろいろと負けた気分になった。ちらりと一瞬だけ後ろを向く。太刀川さんはこちらに背を向けて袖に腕を通しているところだった。再び前を向いて、その一瞬で視界に収めた大きな背中を思い出す。

 太刀川さんが衣服を脱いだところを見たのは、女性とお楽しみだったときに遭遇してしまったアレ以来だ。私との行為においても全部剥ぎ取られるのはいつだって私だけで、太刀川さんが着物を脱ぎ捨てることはない。だからこそ、上半身だけでもちゃんとアレを見たのはとても久しぶりだった。
 

「できたのか」

「っは、はい!? な、なにがですか?」

「餓鬼」

「へ」


 きちんと着物を着た太刀川さんが、ぽつぽつと毛先から落ちる水滴が着物を濡らすのを気にすることなく、ぽかんとしている私の隣に膝を立てて座った。そして、どうなんだと言いたげな目を私に向けてくる。い、いや出来てない出来てない。出来てたまるか。ふるふると勢いよく首を振って否定すると太刀川さんは喉を鳴らして笑った。


「だろうな。どうせ鏡花に薬でも渡されてんだろ」

「(バレてる……)」

「構やしねェよ。その足じゃどこにも逃げられやしねぇからな」

「……」

「風邪か」

「いえ、ちょっと……体調崩しただけです。季節の変わり目はいつもこうなので」

「医者に診せなくていいのか」

「だっ、だいじょうぶです。ほんとうに」

「……」

「もう落ち着きましたから」


 ただの生理なので……と言えるはずもない。曖昧に濁した私の返答が気に入らなかったらしい太刀川さんが「アイツも大丈夫だの一点張りだった」と告げる。あいつ? と首を傾げた私に女将さんのことだと言われる。

 どうやら私を病院に連れて行こうとした太刀川さんを、女将さんが大袈裟だからと言って強く止めてくれたらしい。そりゃあそうだ、女将さんは私がアレの期間中だと知っているのだから。女将さんは同じ女性としての名誉を守り、太刀川さんに詳しく話さないでなんとか説き伏せてくれたらしい。もう、明日土下座してお礼を言わねばならない。

 にしても、肩にタオルをかけたまま、濡れた髪を拭く動作を殆ど見せなくなった太刀川さんが気になって仕方がない。いやほんとに風邪引きますよ。いくら暖かくなったとはいえ夜は少し冷えるんだから。

 すやすやと眠っていたシロちゃんが起き、布団から這い出て、太刀川さんのところまでてとてとと近寄り膝に乗った。ほんと太刀川さんのこと好きだねシロちゃん。

 私もお手洗いに行ってこよ、と起き上がる。太刀川さんにその旨を告げて、ジャラジャラと鎖を引きずってトイレに行き、そして洗面所で手を洗って目的のものを手にして和室に戻った。お手洗いから帰ってくるなりプラグをコンセントに繋ぐ私を太刀川さんが見ていたので、手にしていたものを翳す。


「ドライヤーしましょ、太刀川さん。そのままだとほんとに風邪引いちゃいます」

「面倒くせェ。ほっときゃ乾く」

「そんな、駄目ですよ。せっかく綺麗な髪なのに」

「……」

「それに知ってますか。髪は濡れたままにしとくと頭が冷えちゃって血行を悪くするんです。そうなるとハゲやすくなっちゃうらしいですよ」
 
「……」

「ね、私がやったげますから」

「勝手にしろ」

「(絶対薄毛になっちゃう未来想像したよこのひと)」


 太刀川さんの後ろに回り、まずは肩に掛かっていただけのタオルを手にして簡単に髪の水気を取る。ドライヤーの温風を充てながら太刀川さんの髪に触れる。キューティクルの素晴らしい、サラサラとした太刀川さんの髪質にいいなぁと羨ましくなる。これが……世界が嫉妬する髪……。CM出れるんじゃないのこれ……とカメラ目線に髪を靡かせる太刀川さんを想像して、似合うような似合わんようなどっちとも言えない感想を抱いてしまった。ま、まぁ人気は出るだろう。確実に。
 

「今日、会合でしたよね」

「アァ」

「あんな格好で戻ってきて、何かあったんですか。というか、ありましたよね」

「何も出来ねぇ癖に、うざってェ愚痴と要求を天龍うちに延々とかましてくる腐れ外道の連中を黙らせてやっただけだ」

「……こ、殺したんですか」

「元々、今日潰す予定にあった連中だ。時間と場所、直接手を下すのが俺に変わっただけで結果は変わりゃしねぇ」

「……」

「どっちにしろ皆殺しだった」


 何と答えたらよいのかわからない。どうしてあなた直々に粛清することになったんですかとか、あんなに血塗れになってどんな状況だったんですか、怪我はしてませんかとか、どうしてあんなに冷たく悲しい目をしてたんですかとか、聞きたいことは山ほどあるのに。

 私の手によって大人しく髪を乾かされているこの男性ひとが、ひとを殺してきたばかりという事実が重くて。

 ドライヤーからの温風で浮き上がった襟足の髪を見ていると、その少し下の位置から覗く青の刺青が気になった。先程見た龍の一部。背中だけじゃなくて、胸元にも彫られた刺青は着物から覗く足首まで続いているのだろう。


「痛くなかったですか?」

「怪我なんぞしてねぇよ」

「えっ? あ、それは、はい……よかったです」

「……」

「あ……えっと、ごめんなさい。その、刺青すごいなって。入れるとき、痛くなかったのかなって考えちゃって」


 大分乾いてきた太刀川さんの髪に触れ、あと少しかなと思いながらまだ湿り気の残る毛先に温風を充てる。

 ふと、以前後背位で行為に及んだとき、背中をすっと大きな手で撫でられたのを思い出した。あのとき、太刀川さんは何を考えてたんだろう。まさか。


「わ、私も入れなきゃならなくなるんですか?」

「あ?」

「極道のひとって、皆さんどこかしらに刺青入れてらっしゃるじゃないですか。あの女将さんだって、肩口に金魚の模様彫ってるって仰ってましたし……。ま、まさか、私もいつか……!」

「必要ねぇ」

「え」

「お前にゃ必要ねぇよ。興味本位で入れようなんざ馬鹿な考えも持つんじゃねぇぞ」

「……」

「オメェはそのままでいい」 
   
「(よ、よかった……)それで、その、実際痛くないんですか?」

「慣れりゃどうとも思わねェよ。たいしたもんじゃねぇ」

「それ、太刀川さんの痛覚が麻痺してるとかじゃなくてですか」

「さぁな」

「ちょ、めんどくさくならないでくださいよ。……もう増やさないで下さいね。前は背中だけだったのに、いつの間に手足まで」

「お前が此処に来てからは増えてねェよ」

「え?」

「……」

「あ、あれ? そうでしたっけ、え、でも……まえは……ん、んむっ」
 

 後ろを振り向いた太刀川さんにちゅ、と唇を合わせられ、そのまま深く口づけられる。もういいとドライヤーを取り上げられ、その手を包まれる。そして自然な動作で身体を布団の上に押し倒され、帯に手をかけられたところでだめだ! とその手を掴む。なんだよ、と視線を向けてくる太刀川さんに、今日はしません絶対だめですと必死に訴える。


「オメェの駄々それは定式みてぇなもんじゃねえか」

「何がなんでもだめ! 絶対だめ! は、はい! ほら起きてください! ねっ、ハウス! ハウスです!」

「うるせぇ」

「ひぇう! や、も……~~っい、いま私! 生理中なんです!!」

「……あ?」

「にっ二度も言わせないでくださいよぉ。~~だ、だからその、いま、せいりなんですってばぁ……」

「……毎月言ってこなかったじゃねぇか」

「不順なんです……。今回も久しぶりに何ヶ月か空いちゃって、今下はえらいことになってて……太刀川さんが被った血ぐらいすごいんです」

「一緒にしてんじゃねぇよ」

「だっだからその……っひ!? ちょ、な、脱がせないで脱がせないで! え? わ、私の話聞いてました!?」

「アァ、月経なんだろ。別に構やしねェよ」

 
 寧ろ昂奮する、と青い目を更にぎらつかせた太刀川さんに顔がひきつる。な、何言ってんのこのひと……。

 全身全霊の力を込めて太刀川さんの腕をつかんで動きを止めさせる。今の私は必死がすぎて凄まじい形相をしているのは言うまでもないだろう。むしろこの顔を見て萎えてくれるといいのだ! という思いでふんぬー! と踏ん張り続ける。


「や、いやです! 絶対、ぜったいやですからね!」

「安心しろ。挿れるのは勘弁してやらァ。弄るだけにしてやるよ、それでどうだ」

「なんですかその妥協してやったぞ感謝しろみたいな顔!」

「虫の居所が悪ィんだよ。発散させろや。付き合え」

「わ、私に苛々をぶつけないでくださ……っう」


 突然猛烈な痛みが下腹部を襲う。痛み止めでマシになったといえど、油断すると襲いかかってく鈍痛にいやな汗がでる。明らかに顔色の悪くなった私を見て太刀川さんはゆっくりと私の身体を起こし、名前を呼んで背中をさすってくれた。ほんと、ひどいのか優しいのか、たまによくわからない。


「だ、だいじょうぶです。鎮痛剤も飲んでますから」

「……」

「だから……太刀川さん?」

「待ってろ」


 太刀川さんはいつの間にやら部屋の隅に移動し気ままに寛いでいたシロちゃんを呼び、一緒に和室を出て行った。ひとりになった和室でお腹をさすっていると、閉ざされた障子の向こうにある縁側から雨音が聞こえてきた。外に出た時に降られるのは嫌だけれど、室内に居るときに窓から覗く雨の風景が好きだった。

 暫くして戻ってきた太刀川さんはマグを2つ手にしていた。え? とその姿に躊躇している私に、太刀川さんはマグの一つを私に差し出す。受け取った私の頭を撫で、隣に座って自分の分のマグに口を付けていた。

 マグの中身をのぞき込むと、ほかほかと湯気のたった、甘い匂いのするミルクが入っていた。うそ、太刀川さんが淹れてくれたの? まじまじと隣にいるひとを見るも、こちらに視線を向けることなく、彼の足下にいるシロちゃんに煮干しをあげていた。もう一度マグの中を見てから、ふうふうと冷ましてから恐る恐る一口頂いた。


「……ぉぇう」


 口内に広がる凄まじい甘みに顔が固まる。なんとかごくりと飲み込んだが、食道が悲鳴をあげている。しょ、正直な感想を、言ってもいいだろうか。不味くはない、まずくはないけど、いや、やっぱまずいかもしれない。

 甘……すぎ……る。何これ? 砂糖の量どうなってるの? 糖尿病なるよ、これ。え、え? な、なにこれ嫌がらせ? お誘いを断ったから? 腹いせに? い、いやそんなちゃちなことをするひとではない。横を見ると太刀川さんは素面な顔をしてごくごくとホットミルクを飲んでいた。


「た、たちかわさん」

「何だよ」

「これ、砂糖、どのくらい入れました?」

「入るだけぶち込んだ」

「ぶち……こんだ……」


 こんくらいが丁度いいと言いながらホットミルクを飲み干した太刀川さんの姿に「そ、そうですか」と返すことしか出来ない。私も甘党だし、それなりの甘さもいける口だけど限度はあるというか。太刀川さんて極度の甘党だったんだな。人は見かけによらない。

 せっかく、あの……あの太刀川さんがわざわざ淹れてくれたのだ。その好意を無碍にする訳にはいかない。しかして太刀川さんみたいに一気に飲み干す勇気はない。なのでちびちびと少しずつ口にしていく。

 なんとなく、先程見た夢の内容を思い出す。今の太刀川さんに至るには未完成の、まだ人間らしさの残る青年の太刀川さんの姿を。いやにリアルだった。偶然だよね。そうだよ、きっと彼は私が作り出した想像で。ごきゅりと、甘いミルクを飲み下す。


「……お尋ねしてもいいですか?」


 シロちゃんの背中を撫でる手はそのままに、なんだと太刀川さんから質疑の許可が下りる。彼の手が気持ちいいのか、シロちゃんはうとうとと微睡んでいた。


「なんで、私の前では煙草を吸わないんですか」


 太刀川さんの手が一瞬止まった。しかし、すぐに再開させた。


「どうして、私が喘息持ちだったこと知ってたんですか」

「さぁな、何でだと思う」

「……」

「よく考えろよ、志紀」


 もっとその足りねぇ頭を悩ませろと太刀川さんは意地悪に笑って、肝心の回答を教えてくれない。むっとして彼の言うとおり足りねぇ頭を働かせる。そして思い浮かんだことを試しに告げてみる。


「じゅっ、受動喫煙を防ぐため」

「当たらずとも遠からずだな」

「赤ペン先生、厳しいです。ヒントを下さい」

「誰が赤ペン先生だ。そんなもん必要ねぇだろ。何となくでも気づいちゃいんだろ。何で誤魔化そうとする。志紀」

「……」

「それを認めたくねぇ理由は何だ。何故過去おれを拒む」

「あ、会ったことない」

「……」

「私、太刀川さんと会ったこと、ありません」

「そうかい」

「……へ、変な夢見たんです。あれは夢です。ただの夢ですもん」


 そうだ、ちょっと現実と夢がごっちゃになっちゃっただけ。ありえない。太刀川さんと私がむかし……。ピシャリと思考回路の入り口の扉が勢いよく閉ざされる。思い出してはだめだ、ここからは禁止区域だと言う様に。

 そして頭に浮かんだのは、あの雪の降る駅。赤い傘の下、頭に雪を積もらせ、鼻を真っ赤にしながら最初からやり直そうと言ってくれた彼の顔。

 助けて、と思った。私をここから、太刀川さんのそばから連れ出してほしいと記憶の中の彼に叫んだ。今本当に助けが必要なのはあのひとなのに、私は何言ってるんだ。あいたい、今すぐあのひとの赤い瞳を見たい。じゃなきゃ、このひとの青に。
 
 ぎゅっとお腹が痛くなってお布団の上でうずくまる。痛い、いたい、すごく、いたい。痛みに悶える私を後ろから抱き抱えるひとがいた。太刀川さんは私が楽な体勢が取れるようにと自分の方に凭れさせ、私が抑えていた下腹部をやさしく撫で始めた。

 雨音がする。後ろから聞こえる静かな呼吸音と、それに伴う微かな振動。心臓のおと。背中が、身体が暖かい。私のお腹をさする太刀川さんの手の動きにいやでも連想させられる。
 

「太刀川さんは……こども欲しいんですか」


 いつだったか、岡崎さんが私に尋ねた質問だった。私はあのとき、あのひとに……なんて答えたんだっけ。私のお腹を撫でながら太刀川さんは答えた。


「興味はねぇな」

「なのに中に出すんですか。ほんと暴君ですね。最低です。女性の敵です」

「オメェこそ、最初こそ一々中に出すなだの避妊しろだの五月蝿かったってのに最近は言わなくなったじゃねぇか。諦めたのか」

「だって、拒否したらもっと酷くするじゃないですか」

「……」

「……しつこくなるし」

「……」

「嫌に決まってるじゃないですか」


 どうせ、やだって言っても聞いてくれない。それどころか状況は悪化するだけ。だったら大人しくする。女将さんが言ってたみたいに、好き勝手にさせて、相手がさっさと満足して終わらせてくれるのを待つ。

 そりゃあいやだよ、こわいよ、すごくこわいよ。いくらすごいお薬飲んでるからって絶対大丈夫ってわけじゃないんだから。

 約束通り太刀川さんを受け入れるけれど、最低限のマナーは今でも守ってほしい。その気持ちは今も強い。気が変わって、ちゃんとしてくれないかななんてずっと考えてる。でも、こんなこと言ったってどうせ聞いてくれないんだ。このひとは。暴君と書いて、たちかわさんと読むんだから。 
 
 ずっと黙ったままの太刀川さんに対して私も何も言わない。雨音だけが響き渡る。その音をしばらく聞いてから、太刀川さんがずっと閉ざしていた重い口を開いた。


「……俺ァ、餓鬼が出来ようが何だろうが、お前ごと全部背負ってやるって言ったろ」

「……独りよがりですよ」

「だろうな。でもだから何だってんだ」

「……」
 
「お前が忘れても、何度でも言ってやらァ。オメェの言うとおり、酷くてしつけぇ、どうしようもねェ野郎だからな」


 覚悟しろ、と呟かれた言葉の重みはなんなのだろう。以前、私に簪をくれたときに言われたものとはまた違う重さだった。私の全部背負うと言ったこの男性ひとは、もう十分に様々な重たいものを背負っているだろうに。これ以上、錘を増やすべきではないのに。   

 やりたい放題の傍若無人。だけど本人がその限度を知らないのは、もうすでにこのひとは壊れているからなんじゃないだろうか。誰にも気付かれることなく、救出もされず、重たい瓦礫の山の下に潰されてしまっているからなんじゃないのかと思った。


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