運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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あなたの全部が愛おしい

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「女将さんにとって、太刀川さんはどんなひとなんですか?」


 朝ご飯を持ってきてくれた女将さんに唐突だが尋ねると、は? と怪訝な顔をされる。キャンディケースからお薬を取り出しながら、再度太刀川さんってどんなひとですか? と繰り返す。自分の身体を守るための薬を飲むことがすっかり習慣になってしまったことに気づいてしまい、辟易する。


「なんやの、藪から棒に」

「私、あのひとのこと、よく知らなくて。女将さんは太刀川さんとのお付き合い長いんですよね」

「やからって、何でそないなことわてに聞くの。 尊嶺はん本人に直接聞いたらええやないの」

「……」

「……はぁ」


 女将さんは洗濯物を畳む作業を中断し、虚空を見つめる。


「ひどいおひとや」


 ぽつりと呟かれたひとことは、私にとっては予想外のものだった。女将さんの言った言葉を思わず反復する。てっきり彼を賞賛する言葉が出てくると思っていたのだけれど、返ってきたのは真逆のものだった。せや、と頷く女将さんは、それでも愛しいひとを想う女性の表情かおをしていた。同性の私でも見惚れる、綺麗な横顔。


「あのひとは誰も信用しいひんし、してくれへん。どこまでも頑ななひと。どれだけ身体を繋げたところで心は絶対に開いてくれへんし、砕いてくれへん」

「……」

「女に対しての扱いの酷さったらない。優しく抱いてくれたことなんて一度もない。奉仕させて、突っ込んで、出すもん出したらそれで終わり。あとは帰れ言われるだけ。……どっかの誰かさんは随分と優しく可愛がられてるみたいやけど」


 横目で睨まれ俯く。

 需要と供給がまるで合っていないと心の中で呟く。女将さんは贅沢な女と私を詰り、太刀川さんの話を続けた。女将さんから聞く太刀川さんは、どれもこれも人間性を疑うものばかりで、聞くんじゃなかったと後悔するものもあった。


「あんだけの色男や。身分だって申し分ない。どんな形でもいいから尊嶺はんに近づきたい言う女は山ほどおる。あわよくば、天龍若頭の好い人になれるんやないかって、頭お花畑な女もたくさん見てきた。そんな阿呆にわてはいつも忠告するんや。性処理道具として、あの人のお相手が出来るだけマシや考えなあかんって。あのひとに心まで捧げようもんなら手酷く扱われて、二度と同じ口が利けへん様に一生の傷を負わされる」

「傷?」


 太刀川さんの足に縋りつき、愛してるのと涙を流していた可哀想な女性を思い出した。愛していると言ってくれた女性に対して、自分のために死んで見せろと迫り刀を差し出す。彼は自分に好意を持ってくれた女性に対して、あの様な惨い行為を躊躇わず行っているというのか。だが、今から女将さんが話してくれる事象は、比べてはいけないことはわかっているが、でも私の目前で行われたあの女性への太刀川さんの仕打ちがまだ生易しい、ほんの序の口のものであったことを思い知らせた。


「一番酷かったんは……まあこれはタイミングも悪かったかもしらん。だいぶ昔のことやけど、今でもよう覚えてる。忘れもせえへん」

「……」

「10年位前、尊嶺はんにしつこく愛してる愛してる言うて迫り続けた女がおったんや。あのひとも、抱いて言う女はよっぽどやないと拒まんさかい、捌け口として相手しとった。けど、一時期あのひと、 長い間……半年以上やったか、姿を眩ましたことがあって。そりゃあもう大騒ぎ。誰かに拉致されたか殺されてもうたんやないかって。天龍の存続を揺るがす大事件やった」

「行方不明……太刀川さんが?」

「信じられへん話やろ? でもほんまにあったことやで。どこを探しても見つからんし、どんな情報網を使ても無駄やった。皆がもうどこかで死んでるか、殺されてる可能性が高いって諦めかけてた。けど、あのひとは戻ってきた。どこに居ったんか何をしてたんか、何にも語りはらへんかった。ただもの凄い、あんときの尊嶺はんは、怖かったわ」


 ぎゅっと着物の袖を掴んだ女将さんは難しい顔をしている。こわい、と私はよく太刀川さんを評するが、まさか女将さんの口から彼に対してその言葉が出るとは思いもしなかった。


「帰ってきてからはずっとえらい不機嫌で、常にイライラしてはった。いつもは平静な尊嶺はんが、あのときばかりはなんでか落ち着きがなくて。気に入らないことがあれば、そばにいる人間の首を跳ねかねへん位ずっと殺気立ってて。まるで鬱憤を晴らさんが如く、当時敵対関係にあった組を多少無茶でもお構いなしに、強引に潰しにかかった。身内でもどれだけの血が流れたことか。皆が畏怖して、わてでも尊嶺はんから暫く距離を置いたくらい」

「暴君……」

「せやな。そうとしか思えへん。10年経った今でも、あのときのことを尊嶺はんに尋ねる勇気は、わてにはないわ」

「……」

「そんな状態の尊嶺はんに、何を考えてたんか気でも狂ってたんか、近づく女がいた。誰かわかるやろ? あのひとに愛してる言い続けた女や。わては止めたんやで。今の尊嶺はんは何するかわからんから近付かん方がええて。命が惜しいならやめときって。ちっとも、聞かんかった。 尊嶺はんを愛してるから、何をされても大丈夫や簡単に言うてな。あのひとがおらんくなってた期間に、あの子も相当気をやられてたみたいやったし、それが爆発したんやろ。案の定酷い扱いされて、仕事で使いもんにならんほど性器ボロボロにして戻ってくることもザラで……ほんまにアホな子やった」

 
 女性のことを蔑む言葉を並べながらも、女将さんは眉を寄せて悲しそうにうなだれていた。その姿がなぜだか香澄ちゃんとダブる。きっと親しい仲だったのだろう。同僚かお友達か、あるいは親友。太刀川さんを好きな者同士、ライバルだったのかもしれない。

 女将さんははぁと大きくため息をつき、深く息を吸った。そして私を見つめて口を開く。


「ある日の夜、いつも通りに尊嶺はんのところに押し掛けに行ったあの子をわては見送った。それで、泣いて戻ってくるやろうあの子のために、暖かいお風呂と薬を取り揃えて帰りを待ってた。でも帰ってきたのは」


 女将さんは一瞬口をきゅっと噛み、暫く沈黙してから、言った。


「どこの誰かもわからん無頼漢共に輪姦まわされて、心も身体も何もかも壊された傀儡になった女やった」

「え……」

「意志の疎通も計れへん。何度呼びかけても、薬でも使われたんか頭が色に染まりきって、使われすぎて擦り切れてもうた自分のモンずっと弄くりまわしとった」


 何それ。あまりの酷薄さに口を手で抑える。なんだそれなんだそれなんだそれ。……なんだ、それ。

 好きな人に会いに行って、待ち受けていたのは、素性も知れぬけだものたちの群れ。そして地獄。

 女どころか、人間としての尊厳をズタズタに貶める非道な状況に彼女を貶めたのは紛れもない太刀川さんだということに、ゾッとした。何故、何故そんな畜生なことが出来る。それがヤクザというものなのか。それが、同じ人間のすることなのか。私の理解の範疇を越えている。


「その女性は今……」

「戻ってきて数時間してから死んでもうたわ」

「……」

「ほんまろくなひとやない。やのに、わてもなんで、あんなひとに惚れてもうたんか……」

「なんでですか?」

「……」

「なんで女将さんは、今でも太刀川さんのそばにいたいと思えるんですか」

「それはあんただってわかってる筈やろ」

「わ、わかりませんよ! いつ自分もそうなるかって考えたりするでしょう!?」

「だったら、なんであんたは岡崎ってヤクザに傾倒し続けとるんや」


 予想だにしない人物の名前が出て来て、驚きで目を見開く。そんな私を女将さんは嘲笑した。


「聞いたで。とんでもない数の人間殺して回る暴れ馬やったらしいやないの。老若男女子供関係なく、自分達に仇なすやっことあらば、躊躇せずに斬り捨てる男やってね。情報を聞き出すためなら顔色ひとつ変えんと、眼を背けたくなるほど相手を甚振る。それだって恐ろしい思いまへんか」

「ち、ちがう。岡崎さんは……」

「ちがう? どこがや? 言うてみ。あぁ、その岡崎さんとやらは後でちゃんと自分がしたことを悔いてるとか? そんな寝言言わんといてや。どんだけ後悔しても、その男がやったことは一生消えることはないんやから。ごめんなさいで済んだら警察はいらん。それとおんなじ」

「……」

「志紀はん」


 何にも反論できなくて、でも岡崎さんのことをそんな、血も涙もない人殺しみたいに言ってほしくなくて。だけどだけど、と自分の中でちがうと誤魔化してきた何かが崩壊していく。

 涙を滲ませる私に女将さんが近付く。懐から以前のものとは違う、新調したのだろういい匂いがする手布を取り出して私の涙を拭いてくれた。ずび、と鼻をすすりながら女将さんを見上げる。女将さんは先程まで私を責め立てた厳しい表情をふっと打ち消し、柔らかく笑みを浮かべて私を見つめている。


「わてばっかり話すのはフェアやないんとちゃう?」

「……」

「あんたも聞かせてみ。過ぎたことをいつまでも引き摺って手紙まで寄越してくる程、馬鹿みたいに他人ひとに気ィ遣う志紀はんが、ずっとあんたの面倒見てくれた尊嶺はんへの恩を投げ捨ててまで、その岡崎さんの手ぇ取った理由を」


 言ってみなさい、と優しく促してくる女将さんの意図が少しわかった気がする。こくこくと頷きゆっくりと口を開く。支離滅裂になってしまうだろうけれど、でも、この気持ちは本物だと女将さんに伝えたかった。すうと息を吸って、声にした。


「男性としては、最低なひとなんです」

「は?」

 
 第一声から想い人のマイナス面をぶちかました私に、女将さんが素っ頓狂な声を上げる。私も困った笑みをこぼしながら、言葉を紡いでいく。


「デリカシーないし、すぐひとのことからかっていじめるし、ひとのものすぐ口にするし、すけべだし、えっちなお店に行ってえっちなお姉さんたちと楽しむし、でも誤魔化すし、節操ないし、プライド馬鹿みたいに高いし、意地っ張りだし、遠慮しないし、えらっそうだし、礼儀知らないし、上から物言うし……」


 段々女将さんの顔が曇っていくのがわかる。えええ……と若干引いてるのも感じ取れた。いや、ほんと、こういう男性ひとなんですよ。ぽんぽん欠点が次々出てくるんですほんとに。

 でも、でもね、と心がじんわりと暖かくなる。岡崎さんと過ごした日々を、特に意味も他愛もない彼とのおしゃべりを、起こった出来事を、女将さんにつらつらと口にするごとに、こんなにも自然に笑みがこぼれた。


「暖かくて優しい、半端だけど、ヒーローみたいなひとなんです。本人はちがうって否定してたけど、私にとっては間違いなくそうだったんです。辛くて辛くて、悲しくてどうしようもなくて、ぬかるみに足取られた私を、自分も足突っ込んできて泥臭くなっても必ず引き上げてくれたんです」

「……」

「一度彼と色々あって、彼のことすごく怒らせて強く責められたことがあるんですよ。逃げようとしたら壁殴られちゃって、すごいんですよ、ヒビ入っちゃって。それが衝撃で吃驚して私泣いちゃったんです。そしたらそれまで気の強い態度取ってたのに、彼、しょげかえって、慌てふためいてすごく謝って慰めてきて。あのときはほんとに余裕なくて、今思い出すと、そういうとこがちょっと可愛いななんて思ったりして」

「……そう」

「私がへこたれたらちゃんと叱ってくれて、ちょっときつい言い方で。でもそれが彼らしくて。立ち上がれないって私が言うなら、大きな背中で背負ってくれたんです。このひとが居なかったら、出会えなかったら、私、ここでどうなってたんだろうって思うことが何度も……」


 ぽろぽろと、涙が止まらない。


「確かに、あのひとがしてきたことは許されないことだし、駄目なことです。道に反してる。岡崎さんはそういうところ私に見せないから、私も見て見ぬ振りしてたんです。ぬるま湯に浸かった関係が心地よくて、ずっと彼の優しさにも甘えてた」

「……」

「でも、そうですよね、そうなんですよ。彼はヒーローだけど、完璧なヒーローにはなれない。大事な場面でかっこいい台詞ひとつ言えなくて、締まらなくって、どうしても半端になってしまう。けど、岡崎さんはそれでいいんです。完全無欠じゃなくていいんです。過去に何があっても、どんなに後ろ暗いことをしていても、それらがあって今の彼を形成したのなら、どれだけ批判されても後ろ指指されても、お前は間違ってるって言われても、私はどんな岡崎さんも、それが彼なら受け止めたいって思うんです」


 彼に傷つけられた、果ては殺されたひとたちに私は地獄の底から一生恨まれることだろう。なぜ自分を葬った男を庇い立て擁護するのだと。そんな人殺しの罪を全て享受し、想いを捧げるなんて何を考えているんだと。

 誇り高い生き方とは全く言えない。おじいちゃんが生きていたらカンカンに私を叱ることだろう。勘当だってされたかも。

 でも、ごめんなさい、ごめんなさい。私はおじいちゃんとした大事な約束や教えを破ってでも、岡崎さんの全てを、良いところも悪いところも醜いところも、彼自身が後ろめたいと、隠したいと思っていることも、全部まるごと受け入れてあげたい。

 あのひとは優しい。私のことをお人好しだなんだの言ったって、なんやかんやと文句を言いつつも、彼だって放ってはおけないと困っているひとに手をさしのべてしまうのだから。だから彼の周りにはひとが集まる。彼の暖かさに触れたいと思うひとがたくさん居る。だって、彼に話しかけるひとは皆親しみを持って、笑顔で彼に積極的に接していた。あの香澄ちゃんだって、本当に嫌いなひととは口を効かないのに岡崎さんとは何だかんだとすらすらと話をする。彼に心を許すひとは、大勢居る。

 そんな彼が顔色ひとつ変えずにひとを殺していると言っても、きっとその内側で大きく悲鳴を上げ続けている。じわじわとたくさんの傷を負っている。手負いの狼。飄々としていても、その重さにいつか耐えきれなくなって、あのひと自身が潰されてしまうんじゃないかって不安になる。だから一緒に背負ってあげたい。あのひとが抱えているものを私にも分けてほしい。

 あいたい。あいたくてたまらない。もう一度あのあったかい手に触れたい、触れてほしい。すらすらとどうでもいいことを語るあの低い声を聞きたい。彼のためならどんな陵辱も恥辱も耐えられるなんて、太刀川さんに殺されてしまった女性の様に強いことは言えない。だって、殺されてもいいからなんて、岡崎さんには思えない。むしろ、真逆の思いを抱いてる。息を引き取るまでお爺ちゃんの手を握り続けたお婆ちゃんの姿が頭に浮かぶ。そうだ、私は彼と。


「最期のときまで一緒に生きていきたいって思う、大事なひとなんです」

 
 女将さんに吐露したことが、私の想いの全てだった。

 私の話を黙って聞き、涙を拭ってくれる綺麗な女性は、眼を閉じてふうと息をついた。


「そういうことやろ。理屈やない。周りから見てどんだけひどいおひとでも、惚れてもうたからにはもうどうしようもない。全部まるごと好きやなんて、あほなこと考えてまう」

「女将さんは、太刀川さんのどんなところに惹かれたんですか」

「いややね。言う訳ないやろ。あんたがあのひとの魅力に気づいてもうたら、余計憎たらしい展開になることは目に見えてるやないの」

「太刀川さんに想いを告げたことはないんですか」

「なんでわてが長年、あのひとのお側に居られた思てんの」

「……」

「わてはもう、近づけば近づく程遠ざけられるんやったらなんもせん。あんたと一緒や。心を開いてくれへんでも、好いた男のそばに居たい」
 
「もし私が太刀川さんを受け入れたら、今までの女性と同じように切り捨てられるんでしょうか」

「さぁ? 嘘でも言うてみたら?」

「ワンチャンありますかね……」

「あんたも意外に俗っぽい言葉使うんやね。そういうの疎そうやのに」


 ふふ、と初めて見た女将さんの柔らかい笑顔はとても穏やかだった。いつも旅館では怒られてばかりで、厳しい顔しか見たことなかったから思わず顔が熱くなる。ほんとうに綺麗に笑う女性ひとだ。

 その笑みを見てもうひとり、私が憧れた女性のことを思い出す。岡崎さんとの繋がりが深く、彼と同じく暖かくて優しい、私のことを妹みたいに思っていると言ってくれた年上のお姉さん。

 きゅ、とキャンディケースを握って、恐る恐る女将さんに尋ねる。答えてくれないかもしれないけど、それでも聞いてみたかった。
 

「女将さん。白鷹組は、今どんな状況なんですか」


 女将さんが表情を固くした。口を結び少しばかり眉を寄せ、駄目だと言う様に首を振った。


「言えへん。あんたには外の情報を聞かせるなて、強く尊嶺はんに言われとる」

「……」

「やから、今からわてが言うことはただの独り言」


 え、と顔を上げると、女将さんは私から視線を逸らし、洗濯物を畳む作業を再開させた。


「白鷹の組長、衣笠が天龍に談合を申し入れてきたらしいわ」

「談合って、話し合いってことですか」

「そう。その日取りを天龍が検討中。談合いうても所詮は名ばかり。実際はタマの取り合いなるやろね。おそらく、白鷹むこうの目的は、あんたの大事な岡崎さんの奪還」

「……」

「特に、白鷹のいうんがそれにえらい力入れてるらしいわ。よっぽどその岡崎はんっていうのは重要な人物なんか、それともあんたの言うとおり、余程人徳がある男やったのか」


 普通ならやっこの手に落ちたモンなんか使い物にならんと判断して見捨てようもんやのに、と言った女将さんは気付いていないだろう。私が、今の情報だけでどれだけの安堵と憂慮したことか。

 片腕の女性、私が憧れたあの女性は五体満足とは言えずとも今も無事に生きている。共に苦難を乗り越えてきた彼を助け出してくれようとしている。まずはそこに安堵し、希望が見えた。

 だけど、同時に見えたのは、また同じことが繰り返されるのではないかという恐怖だった。血に染まる2人の姿がフラッシュバックした。


「他の組を巻き込んでの全面戦争になる可能性は十分にある。また人がよぉ死ぬことになりそうや。西園寺はんが胸痛めはるわ」

 
 あのひとはああ見えて誰よりも仲間思いなお人やから、と言いつつも女将さんは覚悟を決めた顔をしている。極道の女として、数々の修羅場を乗り越えてきた力強さを感じさせた。


「でも、これが任侠の世界や。大儀や仁義やいうても結局は腹の化かし合い。利用できるもんは利用する。駒は使い捨て。それを覚悟で極道に足突っ込んだんなら、いつ命落としてもいい覚悟はせなあかん。勿論わても。理由はどうあれあんたもやで。志紀はん」

「……」

「またそないな情けない顔して。志紀はん、あんたみたいなカタギがどこで尊嶺はんと出会うたんか知らんけど、家族はどないしてはるの」

「そ、息災です。ただ、おばあちゃんがもう結構年で、元気で居てくれているかどうか……」

「それは心配やな……。他には?」

「父と祖母の二人だけです。祖父は数年前に病で亡くなって」

「お母様は?」

「え?」

「……なんか、聞いたらまずいんやったら別に」

「いっいえ、そんなことは。えっと、おかあさんは、母は……」

「志紀はん?」


 女将さんが心配そうに、困った顔をして私を見ていた。何でもない、と言いたかったが声がでなくて、下手くそに笑うことしか出来ない。そんな私を見て、また女将さんが怪訝そうにする。

 そんな微妙な空気の中、「失礼します。鏡花さんはこちらですか」と尋ねる野太い声が障子の向こうから聞こえ、私は弾かれた様にど、どうぞ! とその相手に返事をした。障子がすっと開いて現れたのは相も変わらず難しい顔をした太刀川さんの若頭補佐である西園寺さんだった。


「歓談中失礼を。鏡花さん、今晩の会合について打ち合わせが間もなく始まります。ご準備を」

「あ、あぁ。もうそないな時間? すぐ行くわ」


 女将さんが時計を見て驚いた様子で慌てて、しかし優雅な動作で立ち上がる。今、会合に出てるのは女将さんなのか。一時的に私が負っていた荷の重い役を、思わぬ形で女将さんに返すことが出来ていたらしい。

 ほっとしていると視線を感じた。そちらに目を向けると、西園寺さんが複雑そうな表情でを私を見て、目が合うとすぐに逸らされてしまった。

 だ、大丈夫かな。西園寺さんはいつからここに来ていたんだろう。来たばかりならいいが、私達の話がキリのいいところで終わるのを静かに障子の向こうで待っていたとしたら、どこからどこまで聞かれていたんだろう。岡崎さんの話を聞いていたとしたら、太刀川さんに報告したりするのかな……どうしよう。

 不安の色に染まった私に、女将さんが何かほしいものや必要なものはないかと尋ねてくる。暇つぶしに何か必要だろうと、本でも何でも遠慮なく言えと有り難い言葉をかけてくれた。少し悩んで、私はひとこと絵本が欲しいですと答えた。私の幼稚な要望を聞いて瞠目したのは女将さんだけでなく、固い表情で座っていた西園寺さんもだった。


「え、絵本?」

「は、はい。お話は何でもいいので」

「ど、どうしてまたそんな子どもみたいなもんを。ついこの前は小難しい本読んでたやないの」

「えっと、その……」


 言うべきだろうか。最近、文字がうまく読めないって。全くというわけではないけれど、本を読んでいても時々何を書いてるのか、何と書かれてるのか、その字自体がわからなくなることが最近多くなった。特に、漢字が読めない。ひらがなも怪しい瞬間がある。 文字の羅列をただ追うばかりで、内容が頭に入らない、というか入ってこない。でも、何もせず時間を潰すのはイヤで、何かに集中していたかった。その手段だった活字が読めない。頭の中で想像も出来ないとなれば、もっと簡単に読める絵本でも頼るしかない。

 頭の病気かな、と疑う。ただ精神的に参って疲れているだけと信じたくて、もう少しだけ様子を見たかった。

 訝しむ女将さんだったがそれ以上追求はせず、適当に何冊か持ってくると約束してくれた。理由を聞かずにいてくれた女将さんに感謝するばかりだった。


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