運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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断頭台に上がる少女

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 私達を乗せた車は、しばらく京の街を走った。引きずり出す様に車から降ろされた場所は、京都で二割のシマを持つ嶺上リャンシャンが拠点としている、多くの遊郭が連なる夜の風俗街だった。細く小さな肩を惜しげもなくはだけさせ、派手な着物をだらりと着た遊女たちが紅殻格子べにがらごうしから手を出し、男たちを誘っている。
 
 太刀川さんに腕を引かれ、遊女たちの手招きを潜り抜け入ったのは、遊郭とは思えぬ厳かな、かつて働いていた時雨の旅館とはまた異なる京都らしい和を強調した建物だった。

 中では、亡くなった嶺上組組長のおろちさんの跡を引き継いだ浩然ハオランさんが私達を出迎えた。一言二言、太刀川さんと西園寺さんが金髪の彼と何か話していたが何にも頭に入ってこず、私はただ太刀川さんに腕を捕まれたまま突っ立っているしかなかった。

 浩然さんの案内で私達が連れてこられたのは、松明の火で仄かに灯りが灯されただけの、薄暗く不気味な湿気臭い地下牢だった。遊女達の入っている隙間の多い格子などではない、囚人を逃がさぬ為の、頑丈な造りの牢獄だった。地下牢はそこそこの広さがあり、この地下のどこからなのか、ここに捕らえられている人の呻き声や、明らかに正気とは思えない誰かのぶつぶつとした呟きがひっきりなしに響いている。

 何者かわからない、しかしカタギでないことは確かな風貌の囚人達が投獄されている牢屋をいくつも通り過ぎ、誰も居ない一番奥の監獄に到着すると、太刀川さんはそこに私の背中を押し込んで、ガチャリと重い錠を掛けた。 

 彼は何も言わず、鍵を共についてきていた西園寺さんに渡し、地下を去っていく。西園寺さんは看守さんに何か指示をしたあと、憐れむ視線を向けてきた。その視線に応える気にもなれず、私は牢屋の隅っこで顔を伏せて膝を抱えて座り込んだ。








 私がこの地下の牢獄に閉じ込められてから何日が経っただろう。一週間は過ぎただろうか。

 外の情報は一切入ってこず、今が朝なのか昼なのか夜なのか時間の経過もよくわからない。ご飯も与えられるし、時間になれば入浴もさせてくれるので、単純に生きるという活動に関してのみならば何ら困ったことはない。

 しかし、その生きるという気力そのものを根こそぎ奪われた私には、やることなすこと全てが煩わしくて、やる気がなくて。運ばれてくるご飯にも殆ど手を付けることが出来ない。私が自害しないか見張る役を任された看守さんの視線に萎縮するばかりだ。入浴中も、この遊郭で働く女性の気怠い視線が付き纏い、プライバシーなどあったものではなかった。

 例えるならそう、動物園で飼育され、その生活全てを管理されている動物になった気分。一日中牢屋の隅っこで膝を抱えて動かない動物の監視程、つまらないものはないだろう。あんまりにも動かないので死んでいるんじゃないかと不振がった看守さんが、時折牢屋の中に入って私の様子を近くまで確認にくる始末だ。それはそうだろう、ベッドが設置されているのにそこで寝ようともせず、一日中隅っこ暮らしをしているのだから。

 単純に、眠りたくない。目を閉じ、眠りに落ちてしまえばおぞましい悪夢に襲われる。私の周りに惨たらしい死体がたくさん転がっていて、大事なあのひとが、鋭い刃物で胸を貫かれる光景が繰り返し巻き戻して再生される。助けようと手を伸ばしても絶対に間に合わない夢。何が悲しくて、大好きなひとが殺され息絶える様を絶え間なく眺め続けなければならないのだ。

 睡眠とは体を休めるためにあり、人間の三大欲求のひとつだとされている。しかし今の私にとって眠りにつくことは苦行でしかない。夢の内容に耐えきれず目をこじ開けて無理やり目覚めても、現実においても夢であっても、あのひとがもうここには居ないという事実には変わりはしないのだ。

 勝手に出てくる涙は止まらないし、止めることは出来ない。自分の体なのに言うことを聞かない。全身の水分が涙となって身体が枯れ果ててしまうのではないかと思う程、ポロポロと目から水滴が溢れ出る。

 一日に一度、時間はまばらだが、西園寺さんが私の様子を見に下に降りてくる。今日もまた厳かな表情をして、隅っこ暮らし続行中の私の顔色などを格子越しに確認している。いつもは声を発さずに眉を深く寄せて立ち去るのだが、今日は違った。


「お嬢、こちらへ」


 錠が外され、キィと開いた私の牢。出てこい、と私に手を差し出す西園寺さんのもう一方の手は、真っ白な清潔感のある無地の着物を持っていた。西園寺さんの姿をぼんやり見つめたまま動こうとしない私を、彼はもう一度呼んだ。


「若頭がお呼びです。さぁ」

「シラユキさんは今どこですか」

「……」

「シラユキさんは、どこに居るんですか」


 私の様子を見に来る西園寺さんは、私が生きていることを確認すると、いつも黙ったまま地下牢を出て行く。しかし、その西園寺さんが重い口を開いたのだ。この機会を逃すなとなけなしの本能が囁き、ずっと気掛かりだったシラユキさんのことを追求する。せめて、彼が守ろうとしていた存在は無事であってほしい。特に、彼がずっと長い間一番そばで過ごしてきた女性であるなら尚更。

 質問に答えないと、私が自分からはてこでも動かないと悟ったのだろう。西園寺さんなら、こんな弱り切った小娘ひとり無理矢理引きずり出すことなど容易いだろうに。彼はひとつ息をついて、教えてくれた。


「簡易的にですが、負傷部分の手当ては施し、あとの行方は知らずです」

「……」

「身動きが少しでも取れると判断し、すぐに数名の白鷹の生き残りと共に身柄を解放。自分達の組に帰らせています。天龍の言伝を白鷹の組の長である衣笠に届けさせる為に」

「言伝……」

「天龍は全面戦争にいつでも応じるということをです。仕掛けてくるならこちらも容赦はしないことを彼らに認識させる必要がある。彼らの状態を見れば、その意志が真であることは伝わることでしょう」

「……」

「此度の件、なにがきっかけであろうとも、先に火をつけたのは白鷹であるのは自明の理ですから。……ご安心を。執念深い女です。腕の一本二本喪うだけでくたばりはしないでしょう」


 ふぅと深い息を吐き、西園寺さんが牢の中に入り、隅っこで座り込む私の前に屈み込む。西園寺さんは私にどう接したらよいのか、珍しく戸惑っている様に見えた。


「着替えをご用意しました。身支度は付き添いのものに手伝わせますので」

「……い、行きたくない」

「お嬢」

「いきたくない。だって、た、太刀川さんは……あのひとは……わ、私のせいだって、わかってます。わかってるんです。でも、あ、あえない、あいたくない……っ」


 ぼとぼとと溢れ出した涙が、ただでさえ腫れぼったくなっている目元を強く刺激して痛い。今着ている着物の上に水滴が落ちてシミをつくる。手のひらで顔を覆い、泣き顔を見られないようにするも嗚咽は止まらない。


「もし拒否するなら、着ているものを全て剥がして連れてこいと言われています」

「……」

「頼みます。俺は今の貴女にその様な鬼畜じみた無体をする気にはなれないし、したくもありません」


 涙で濡れた顔を拭い、西園寺さんの顔を見上げる。本当に困った、という顔をしていた。

 太刀川さんは、やると言ったらやるひとだ。そして誰もが躊躇することでも、太刀川さんはやってみせろと相手にも強いる人物であることを私もよく知っているし、体感している。

 ぐす、と鼻を啜る。真っ裸で太刀川さんの前に引きずり出されたくはないので、差し出された純白の着物を仕方なく受け取る。

 ほっとした様子を隠さない西園寺さんの後ろに続き、牢獄を出る。そばで待っていた遊女の方がこっちだと私を連れて行く。

 自分で洗えると言っているのに、言いつけられてるからと入念にあちこち洗われ、非常に恥ずかしい思いをしながらお風呂を出た。乾かすのに時間がかかる様になった髪をドライヤーで乾かしたあと、とろとろと鈍い動きの私を見かねてお姉さんが着付けを手伝ってくれた。着終わり、側にあった全身鏡をちらりと見る。

 顔はげっそりとして覇気が無い。泣きはらした痕で目元は赤く腫れ、クマもびっしりと色濃くついている。すごく不気味で、そして不細工だ。ホラー映画に出てきそうな風貌をしている。せっかくの美しい白無地の着物だって、今の私が着ると死装束にしか見えない。やつれ果てたその姿は、自分で言うのもなんだがとても痛々しい。

 太刀川さんだって、こんな陰気で陰鬱な、夜化けて出てきそうな顔色をしている女を好き好んで見たい訳でもないだろうに。明るい顔をしろと言われたところで土台無理な話だ。それとも、ここまで惨めに落ちぶれた哀れな女の姿を見て、笑い者にでもしたいのだろうか。

 準備が出来たと手伝ってくれた女性が西園寺さんを呼びにいく。迎えに来てくれた西園寺さんが、より顔色の悪くなった私を見て何か声をかけようとしていたがその口を閉ざした。


「行きましょう」


 気遣うように背中に手を添えられる。西園寺さんに半ば押されながら、鉛をつけているのではないかと疑いたくなるほど重たい足をひきずる。

 断頭台に向かう囚人の様な気分だった。だとしたら西園寺さんは私をギロチンへ導いてくれる司祭といったところか。そんな絵画を、かつて元の世界で行った美術館で眺めたなぁなんて、ふっと思い出してしまった。








 広い館内の中にある高級料亭の、明らかに特別なお客様しかお通ししないのだろう、玉簾と名札のかけられた奥にあるお部屋の障子を開くと、中のお座敷から話し声が聞こえる。西園寺さんが広いお座敷の障子も開く。派手な宴会でも出来そうな位のスペースがあるというのに、三人の男性と彼らを囲む数名の遊女たちしか居ない。


「あの奴隷ばかを失った今の白鷹はそう脅威ではない。奴らの失墜は見るに明らかだ。攻め込むのなら今ではないのか」

「それはどうかなぁ、君のとこのお釈迦になっちゃったおろちさんも似たようなことを言っていたけど、僕達が考えてるより白鷹ってかなり強大だと思うんだよねぇ。何でもかんでも招き入れる組織ってことは知ってたけど、その規模は尋常じゃないかもしれない。正月の会に、あの衣笠って組長サンとちょぉっとお話ししたんだけどね。どうやら彼、ほぼ日本に居ない様なんだよ。そこそこのお年を召してるっていうのに、あちこち世界を回ってるらしくてねぇ。それもお供ひとり付けないでだよ? 暗殺の危機に晒されたことも無いって言うじゃない。余程腕に自信があるのか、それとも」

「行く先々で味方をつけ、勢力を増やしている、か。交渉力に長けているにしても信じがたい話ではあるが……貴様はどうなんだ太刀川。どう考える」
 

 華美な着物を着た色気ある綺麗な遊女が注いだお酒を悠々と嗜んでいる太刀川さんに、浩然ハオランさんが尋ねる。 太刀川さんはお酒に口を付けたあと煙管を口にし、ふぅと煙を吐く。太刀川さんにしだれかかる両隣の遊女がうっとりとした顔でそれを見ていた。紫煙を纏いながら太刀川さんは淡々と答える。


「規模がでかけりゃでかい程、打ってくる力が馬鹿強ェことは間違いねェ。道具もありとあらゆるもんを取り揃えてるだろうしな。……だが、人間ってのは集まれば集まるほど、ほつれが生まれる生き物だ」

「結束力はそうないと言いたいのか」

「統一性は無いに等しいだろうよ。お前の元ペットや復讐女、鬼柳の戦馬鹿みてぇな個性派の連中が寄ってたかって、何から何までの方針が合致することはまずありえねぇだろ。かつ、組織の頭がひとつの場所に留まることなく、どこに居るのか誰にも伝えずにそこら中ふらついて、ほぼ全ての役目を部下に任せてる様な野郎だ。衣笠のツラも拝んだことのねェ奴らが殆どだろ。不信感を抱いてる奴だって必ずしも居ねぇとは限らない。いや、居て当たり前だ」

「まぁ、糸を紡ぐよりもほつれた糸を解いて引っ張ることは簡単だからねぇ~。というか、白鷹の組長ってあの人とタイプがよく似てるよねぇ。放浪癖があるところなんか特に。まぁ尊嶺たかねくんが居るから天龍の統制は保たれてるけど……あぁそうかなるほど。そこが白鷹との違いかぁ」

「上に何の報告もせず、下の連中が好き勝手に暴れ回るガバガバの組織体制だ。必ずどこかしらに綻びは生じる。今回の件でそれを白鷹自身が露にしてくれた。これを利用して叩く方法を考えればいい」

「強いけど脆いかぁ~。どちらにせよ、全面戦争になると対処が難しい相手に変わりはないね……っと、あぁ西園寺くん、ごめんねぇ話が立て込んじゃって。そんな離れたとこに突っ立ってないで、こっちにおいでよ」


 土師さんがこっちこっちと私達を手招く。すると、上がってきたのが西園寺さんひとりじゃないと土師さんが気がつくと、彼は立ち上がってこちらに近付いてきた。


「ってあれあれ、志紀ちゃんどうしたの。こわぁい西園寺くんの後ろに雛鳥みたいに隠れちゃって~。そうしてると西園寺くんと親子に見えるよ~。ほら尊嶺くん。お待ちかねの志紀ちゃんが来てくれたよ」

 
 無駄だとわかってはいても、西園寺さんの背中に小さく隠れていた私を土師さんが笑みを浮かべながらひょこりと覗き込む。


「随分とやつれちゃったね」


 土師さんが苦笑した。西園寺さんがお辞儀をしたので、私の姿が晒されてしまう。太刀川さんがいつものように煙草の火を消すのを、浩然さんが些か呆れた顔で見る。そして疑問に満ちた表情になって、自分の隣に座っていた遊女が注いだお酒に口を付けていた。

 血生臭い話をしていたにも関わらず、彼らをもてなす選りすぐりの美しい遊女達は一切の動揺を見せない。それどころか楽しそうにぴったりと身体をくっつけて、甘えながら太刀川さん達の話を聞いていた。両手の華という、世の男性方の夢をいとも簡単に果たしてしまう太刀川さんの藍色の目が私に向けられる。

 血の気が一瞬で失せ、俯き後ずさると、誰かが私の背中に手を当てその動きを止める。見上げると、西園寺さんが眉を寄せ、それはいけないと首を振っていた。だけど、どう振る舞えばいいんだ。あんなことがあって、どうしたら平静を装えるんだ。

 太刀川さんにくっついている、はだけた着物から豊満な胸元を強調する遊女のひとりが、女として残念な状態の私の姿を目にして「あらやだぁ」とくすくすと笑うと、他の女性方もそれに倣ってほくそ笑み始めた。勿論、意地の悪い悪意が込められたものであることはすぐにわかった。別に、そういった視線を向けられることは、旅館で働いていた時期に何度も経験したことだから慣れている。

 ただ、ひとつだけ気になったことがある。太刀川さんの右隣に座っている女性が付けているあの簪。ひどく見覚えがある。いや、見覚えがあるどころの話ではなくて、あれは。

 太刀川さんが自分の周りに群がっていた遊女達に下がれと言うと、彼女たちは素直にそれに従い、優美で緩慢な所作で立ち上がる。私の横を通り過ぎる際にもくすくすと笑いながら遊女達はこの場を去っていった。そのうちの一人である、例の簪を付けた女性がうっとりとした表情で太刀川さんの顔にその白魚の様に美しい手を添えた。太刀川さんも何ら抵抗はせず、意味深に女性に笑みを返した。


「太刀川はん、ほんまにおおきに。こんなにえぇ簪を頂けるなんて光栄や」

「たいしたもんじゃねェ。あんまり深読みはしてくれるなよ」

「そないなこと言うて、もう、いけずなんやから。こらお礼どす」


 遊女は目を閉じ少し顔を傾け、その赤い紅が塗られた柔らかそうな唇を太刀川さんのものに合わせた。私の近くに居た土師さんは「ありゃま」と呟いて、未だ口付けを交わし続ける二人と私を見比べた。西園寺さんにこそこそと「西園寺くん、これいいの? もしかして修羅場が始まる感じ? 僕帰っていいかな」なんて耳打ちしている。聞こえてますよ土師さん。

 唇をゆっくりと離した遊女は手慣れた様子で太刀川さんの唇に付いた紅を指で拭う。そして優雅に礼をし、青と白の薔薇で飾られた簪をつけたこの女性もまた、私の横を勝ち誇った笑みをこぼしながら通り過ぎていった。仄かに、煙草と香水が入り混じった匂いをしていた。

 俯いたままその場に突っ立っている私の頭の天辺から足先を、太刀川さんがその藍色の瞳で貫く様に見ている。その熱い視線から逃れたいけれど、それは許されない。ぎゅっと胸元で両手を握り、耐えるしかなかった。

 土師さんが浩然さんと彼の御酌をしていた遊女を呼び、自分達は別の場所で話をしようと提案する。そんな。皆が居てくれるから私はこの場に、太刀川さんの前に居られるのに。焦りからバッと顔を上げるも、土師さんは柔らかく微笑んだ。


「二人の邪魔はしないよ。ごゆっくりね」


 私にとっては不要でしかない気遣いをされてしまう。浩然さんもそれに同意し、遊女を連れ立って立ち上がる。座敷を出る前の一瞬、私の姿を疑問に満ちた眼差しで見ていた。なぜこんな女が? そう緑の瞳が語っていた。

 西園寺さんが残ってくれたのが、何よりの救いだった。まだ、牢獄に閉じ込められていたときの方がマシだったと考えつつも、もうどうしようもないと悟った私は太刀川さんから少し離れた距離で、真正面に向き合ってゆっくりとその場に正座する。

 
「酷ェツラだな。まるで死人だ」


 太刀川さんが小さく笑いながら、低い声で目の前に座る女へ容赦のない評価を下した。だったらそんなに見なきゃいいのに、と下を向く。沈黙を貫く私の反応は予想していたのだろう、太刀川さんは返事をしない私を咎めはせず、残酷な問いかけを続けた。


「……で? どうだった。京都ここまでやってきて、お前が元の時代とやらに戻る為の手段は見つかったのか」

「……」

「まァ……そのくたびれた様子と、お前がまだこの場所に留まってるってこたぁ、満足のいく結果は得られなかったんだろ。残念な話じゃねぇか。骨折り損もいいところだったな。あぁ、それとも」


 すっと眼光を鋭くした太刀川さんに、体が凍りつく。


「置いてきた家族も何もかも全部捨てて、あの男と生きていくつもりだったか」

「っち、違います!」

「……」

「ち、違う、違うんです。私は……か、彼を選べなかった……」


 堰を切ったように、恐怖も忘れ、即座にそれだけは違うと真っ向から否定した私を、太刀川さんが気怠く、どうでも良さそうに見据える。

 確かに、あのひとは私に優しい誘いの言葉をかけてはくれたけれど、私は全てを捨ててまで彼を選ぶ勇気も度胸も持ち合わせてはいなかった。あれもこれもと欲張りが許される訳がないし、そんなことは有り得ないと分かっていたから。どちらを取る? と選択肢を並べられても、迷うことなく岡崎さんではなく、自分が本来在るべき場所を選んだのは私自身だ。

 大きく膨らみすぎた彼への気持ちに蓋をするのは時間がかかると分かっていたけれど、それでも、彼は彼でのんびりと彼らしく気ままに生きてさえくれたら私はそれでいいと、そう願っていたところだったのに。

 もう涙腺が馬鹿になってしまったんじゃないかと思う程、涙が溢れ出てくる。腫れた目元がひりひりして痛い。嗚咽する私を太刀川さんは嘲笑い、私の発言を信じるに値しないと切り捨てる。


「どうだかな。事実、臆病者びびりのお前が、あの男の後追いすることに躊躇せず引き金を引けたんだ。……お前が奴を選ぶ選ばないの話じゃねぇんだよ」

「……」

「あの狼が、志紀おまえを選んだんだ。化け物に目を付けられた時点で、お前を生かすも殺すも岡崎やつ次第だった」


 その逆も然りだがな、と太刀川さんが付け加える。


岡崎あいつも理解していた筈だ。自分のタマが取られりゃ、自責の念に駆られた馬鹿なお前が自分てめえを追ってくることもな」

「……岡崎さんは、そんなこと考えるひとじゃありません」

「お前が理解してないだけだ。言っただろ。俺と奴の中身はドス暗ェもんで溢れかえってやがんだ。同じ穴の狢なんだよ。だから俺には手に取るように奴の考えてることがわかる。おめぇよりもな」

「……」

「あいつはお前を地獄の果てまで付き合わせるつもりだったんだよ。お前はそれにまんまと乗せられたに過ぎねぇ」

「一緒じゃないッ!」

「……」

「……あ、あなたと岡崎さんは、っ同じなんかじゃない……」

「そう思い込みてェなら勝手にしろ。もう俺にはどうでもいい話だ。諦めな。お前が欲しいもんは、もうどっちも手に入らねェよ」


 何が同じだ。全然違う。太刀川さんと岡崎さんは全く異なる人間だ。今だってこの男性ひとは私に諦めろことを強いるけれど、岡崎さんは私に諦めるなと言ってくれた。前を向けと、私を立ち上がらせようとしてくれた。

 太刀川さんは、その逆を行くひとだ。私の心をズタズタに折り、この場所に置いておくことしか考えてない。

 自分のことよりも、相手のことを優先して動くのが岡崎さんだ。相手を傷つけることになんの躊躇いのない太刀川さんと一緒だなんて、岡崎さんが聞いたらブチ切れるに決まってる。

 太刀川さんはすっと立ち上がり、私が座っている場所まで近付いてくる。びくりと硬直する身体で逃げることはできない。いやな汗がぶわっと出てくる。

 畳を一心に見つめていると、刺青の入った裸足が視界に入ってくる。ぎゅっと目を閉じ、何をされるのかと待ち構えていると、目の前に太刀川さんが屈む気配がした。


「志紀」


 名前を呼ばれ、うっすらと恐る恐る目を開ける。私の膝の前に、あるものが置かれた。


「どこで見つけた」


 没収されてしまった鞄に入っていた宝石箱オルゴールがきらきらと光り輝いている。太刀川さんは、私に奇妙なもの見せるこの不思議な宝石箱オルゴール)を、あの離れで所有していた人物だ。それがどうしてここにあるのか、何故私が持っているのかと尋ねてくる太刀川さんは何かを確認しようとしている。


「あ、嵐山の、オルゴール館で……」


 おずおずと答えると、太刀川さんは青い目を少しだけ見開き、口を僅かに開いたがすぐに閉ざされた。宝石箱オルゴールを手に取り、手の中のそれを眺めてから再び私を見た。


「……あの館に行ったのか」

「……は、はい。それで、そのオルゴールを見つけて、思わず」

「志紀」

「……?」

「……あの場所でこいつを見つけても思い出さねェとはな。……薄情な女だよ、お前は」


 お手上げだ、と太刀川さんは宝石箱オルゴールを、後ろに居る西園寺さんに投げ渡す。西園寺さんはそれを落とすことなく確実にキャッチした。

 ピピピと西園寺さんから携帯の着信音が鳴った。


「失礼」


 西園寺さんが一言断り携帯を確認する。


「若頭、ジェイからです」

「代われ」


 西園寺さんが差し出した携帯を受け取り、太刀川さんが「よォ、どうだった」と応答する。しばし相手の話を黙って聞き、やがて話を聞き終え、彼は小さく笑い、「やっぱりな」と呟いた。


「まだ切るなよ」


 太刀川さんは西園寺さんに携帯を返し、妖しく笑いながら立ち上がって、私に背を向け話し出した。心底面白いと愉快な声色で。


「とんでもねぇ野郎だな。心臓に穴を開けてやったってのに、性懲りもなくまだくたばっていやがらねぇ」

「え……」

「確実に殺したと思ったんだがなァ」

 
 今も生きるか死ぬかの瀬戸際らしいが、と呟く太刀川さんが誰のことを話しているのかわからないなどと、そこまで察しは悪くない。

 うそ、まさか、本当に? 思わず口を手で抑える。自然に溢れてくる涙は悲しみからのものではない。よかった、よかった、とその言葉だけが頭の中をぐるぐる駆け巡る。冷え切っていた心に一筋の光が零れた。

 この世から消え去ってしまったと思っていたひとが、まだ生きようとしてくれている。岡崎さんがまだ生きている。あぁ神様! と感謝してしまう位、今の私には十分すぎるほどの幸いだった。


「毒を盛ろうがすぐには死なねぇ身体だ。バラして中身がどうなってるかを確かめる価値は十分にあった……が、裏目に出たな。病院に連れて行かせたのが間違いだ」

「このままジェイに始末させますか。昏睡している今なら容易いことでしょう」
 
「な……だ、だめ! お願いです、これ以上岡崎さんを苦しめないで! 太刀川さん!」


 私に背を向けて立っている太刀川さんの足元に縋りつく。手を出すな、殺さないでと請い願う私の姿は必死そのものだ。

 もういやだ、どんな形でもいい、もう生きてさえくれたら、会えなくてもいいから。彼が死んだという事実をもう一度受け止めることなど、もう私には出来ない。怖い。

 一度吊り下げられた希望を再び奪われてしまえば、私自身が今度は跡形もなく壊れてしまう。


「お願いします太刀川さん、何でもします。何でもするから」


 涙混じりに縋る私を、太刀川さんが意味深な笑みを浮かべて振り向く。そして涙塗れの私の顎下を撫でた。


「何でも、ねぇ。いつか聞いた台詞だな」

「……っ」

「その言葉、今度こそ違えねぇってんなら考えてやらなくもねぇ。ただし、今回は一切の妥協は無しだ。ただでさえお前は、俺と交わした契りを一度反故にしてんだ。忘れたとは言わせねぇ」


 ぐっと私の顔を上げさせ、強制的に目と目を合わせられる。逸らすことは許されなかった。


「俺達は奴に対して、懇切丁寧に治療を施す義理は微塵も無い。むしろ、今すぐにトドメをさして息の根を止めるのが普通だ」

「やだ、それだけは……」

「ただし、志紀おまえが俺に差し出すもん差しだしゃあ、まぁ……目覚めさせる気は無いにしろ、この世でまだ息をさせてやるぐらいの慈悲は与えてやってもいい。死んでるのと変わりはねぇがな」

「……何を、すればいいんですか?」


 震える声で問う。脅えた表情の私を、太刀川さんが深い笑みを浮かべて見ていた。再び目の前に屈み込み、私の頬を撫で、指で私の唇を厭らしくなぞった。

 この触れ方には覚えがある。初めて会合に出席したあの日、後に連れられた料亭で、太刀川さんが私に触れてきたときのものと同じだと気づいてしまう。

 顔を真っ青にした私に、彼は自らの要求を口にした。


「抱かせろよ」


 舌なめずりをする獣が私を喰らおうとしていた。

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