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私の手を取って
しおりを挟む「あんた、なに。その目とクマ……。ブスが更にブスになってんじゃない」
休憩時間になり更衣室にお弁当を取りに来た私と鉢合わせたのは、今日はお昼からの出勤の香澄ちゃんだった。私の顔を見るやいなや、早々に遠慮も配慮もどこぞへ捨ててきた香澄ちゃんの正直な感想が炸裂する。
やっぱりそんなにひどいかなぁ。香澄ちゃんから渡された手鏡で確認する。真っ赤に充血した目に腫れぼったい目元、そればかりがびっしりと目の下にクマを蓄えているため、赤い目をしたパンダと化している。痛々しい見た目通り、散々泣いたせいで目は乾燥してるし、眼球の中に石が入ってるんじゃないかと思うほどゴロゴロした感覚で重苦しい上に痛い。
これでもめ●リズムのお陰で幾分マシになった方なのだ。今日はいつも以上にお化粧を塗りたくってきたのだが、誤魔化しきれるものではなかったらしい。お客様から指定された露出度高めの妖艶なネイビードレスに着替え終えた香澄ちゃんはロッカーから化粧ポーチを取り出し、更衣室の隅にある椅子に座る様私に言った。
「いくら表舞台には出ないとはいえ接客業なんだから、そんなみっともない顔晒すんじゃないわよ。あと、メイクでカモフラしようとしたんだろうけど酷すぎ、下手すぎ。ダーク●イトのジョー●ーじゃないんだから。濃くすればいいってもんじゃないのよ。ほら、化粧直してやるからそこ座りな」
「あ、ありがと……」
「ったく。あんたが一人でまともに化粧出来る様になるのはいつの話かしらね」
そんなんだから皆にナメられるのよとお説教しつつも、香澄ちゃんは手慣れた様子で手際よく、私のピエロメイクを落とし、丁寧に、しかし俊敏に直していく。
ファンデーションもチークも、アイメイクも終わり、最後に淡いピンク色のリップを塗ってくれている香澄ちゃんの真剣な表情を眺める。本当に可愛い顔してるなぁ……。どの角度から見ても綺麗なラインを描く小顔、ぱっちりとした目に、鼻筋の通ったちいさい鼻、血行の良いさくらんぼみたいな色をしたプルプルの唇。どのパーツを見てもお人形みたいに整った、女の子が皆羨ましいと思う顔立ちだ。スタイルもいいし、性格も良いときた。まさに非の打ち所がないとはこのことだろう。
一緒に町を歩いていると、モデルになりませんかと香澄ちゃんはよく声もかけられている。というかスカウトってほんとにあるんだと驚かされたものだった。いつもいつも興味がないといって彼らを慣れた様子であしらっているのを隣で見ているけれども、勿体ないなぁと思うのはいつも私だけだ。だって、雑誌とかに掲載されてる香澄ちゃんも見てみたいし。プロの力に飾られる香澄ちゃんはさぞ見応えがあることだろう。
「……さっきから人の顔じろじろ見て何なのよ。気持ち悪いわね。金取るわよ」
「え? あ、ご、ごめんね。香澄ちゃんてほんとに可愛いなぁって見惚れちゃってた」
「呆れた。美人の顔も3日で飽きるって言葉知ってる? あんた、あたしと付き合い始めてもう一年ちょっと経ってんのよ。よくもまぁそんなことまだ言えるわね」
香澄ちゃんは私の顔をいろんな角度からチェックをして、まあこんなもんでしょと納得して頷いた。
「で? また岡崎の野郎にいじめられでもした?」
化粧品をポーチに直してロッカーに片付けながら、香澄ちゃんがいつもの調子で尋ねてくる。あまりにもさらりとした声色だったので、一瞬何を聞かれたのかわからなかった。
「な、なんで岡崎さんが出てくるの?」
「あんたがそんな風になるのは大抵あいつ絡みでしょ。太刀川もちょいちょいだったけど、今はクソ男のことで頭ん中いっぱいいっぱいだろうし」
「いっぱいいっぱいて」
「だってあんた、岡崎のこと好きなんでしょうが」
「……」
「なにその間抜け面。気づいてたわよ、とっくに。嘗めんじゃないわよ。なんでよりにもよってあんなダメ男選ぶかな、あんたは。大人しく太刀川に丸め込まれてば、とりあえずはこんなややこしいことにはならなかったってのに」
かといって太刀川の味方する気も微塵もないけどねと、ロッカーを閉じて香澄ちゃんは私を真正面から見つめた。てっきりやめておけと、馬鹿な思いは捨てろだとか怒られると思っていただけに、今の香澄ちゃんの反応は意外にも落ち着きすぎていて戸惑うばかりだった。
「い、いつから? いつから気づいてた?」
「さぁね」
「……怒らないの?」
「なんであたしがそこまでガミガミ言わなきゃなんないのよ。惚れた腫れただのの話になるんならもう責めはしないわよ。どんな相手だろうと好きになったもんは仕方ないじゃない。……どうこう出来る感情じゃないんだから」
「……」
「詳しい話はまたあとで聞くとして、先にこれだけは言っとくわ。仕方ないことだけどね、それでも背負うもんは背負いな。あんたには荷が重いかもしんないだろうけど。天龍のことも太刀川のことも、のし掛かるもんは容赦なく重み増すことになるんだからね」
香澄ちゃんが手にしていた、青色のリンドウをかたどった豪華仕様の、サイズが大きめの髪飾りをつけながらそう言った。
「つっても、あんたのことだから言われる前にひとりで考えて考えて、なんかしでかした後なんでしょうけど。どーせ」
「(お見通しすぎて何にも言えないんだけど……私の理解者すぎるよ香澄ちゃん……)」
「まぁいいわ。ただ忠告しとくけどね。あんたが思ってる程、気持ちってのはそう簡単に断ち切れるもんじゃないわよ。特に恋だとか愛なんてもんはね。だから恋煩いなんて言葉があるぐらいなんだし」
「……」
「……あんたに限った話じゃないけどさ」
物憂げな表情を浮かべた香澄ちゃんは髪飾りをつけた際に少しぱらついてしまった髪を整え始めた。
香澄ちゃんも、そういう経験があったのだろうか。いやまぁ、経験豊富そうではあるのだけれども。もしかしたら香澄ちゃんも今こんな気持ちでいたりするのかな、と女性と並んで歩いていた香澄ちゃんの姿を思い出してしまう。
髪を整え終えて鏡を見て最終確認し、用意が出来たのだろう香澄ちゃんは私にリードしろと言いたいのか、右手を私の方に翳してきた。え? と怪訝な顔をする私に香澄ちゃんは少し頬を染めてほら、と手を取れと差し出してくる。
「これから相手する客、五階で待ってるの。そこまでエスコートしなさい。このドレス、丈長いしやたらヒラヒラするし、その上こんなたっかいヒールだからひとりじゃ転びそうなのよ」
「え、あ、うん。いいよ、もちろん」
端麗な容姿も相まって、お姫様みたいになった香澄ちゃんの傷一つない綺麗な白い肌の手を取る。爪もきちんと切り揃えられていて、トップコートが塗られているためツヤツヤだ。その綺麗な手を取るのは王子様ではなく、水仕事であちこちあかぎれやさかむけだらけの、かさかさに乾燥した荒れた手の女である。なんか相手がこんなんでごめんねと内心思ったのを超能力かなんかで読み取ったのか、エスパー香澄が「ほんっとうにお粗末な手ね。百年の恋も冷めるんじゃない?」とやはり正直な感想を述べた。それでも香澄ちゃんは「でも」と私の手をぎゅっと握り、顔を背けた。
「……あたしはあんたの手、好きだけどね」
「かすみちゃん……」
「……ほ、ほら! さっさと連れて行きなさいよ! 客を待たせるもんじゃないわ! ……何よその顔、にやついてんじゃないわよ! キモイ!」
「ご、ごみぇん」
突然のデレに思わず出てきてしまうにまにまを抑えきれない。抜け目ない香澄ちゃんに頬をつねられながらも、香澄ちゃんが転ばないようにエスコート……というには不格好すぎるが寄り添って歩く。というかもはや香澄ちゃんに引っ張られている気がせんでもない。リードしてるのかされてるのかよくわからなくなってきた。ただでさえ一方はドレスに一方は着物という女性二人組がくっついているちぐはぐ加減だ。その異色な組み合わせが注目を浴びない訳もなかった。私はあまり大勢の人から視線を受けることに慣れていないのでどぎまぎしていたが、香澄ちゃんは五階に到着するまで一切周囲の目を気にする素振りを見せることはなかった。
お座敷に入っていく香澄ちゃんを複雑な気持ちで見送り、とぼとぼと休憩に使用している馴染みの地下室へと足を進める。やっぱり、大事なお友達が春を売ってるというのは何とも言い難い。この仕事を馬鹿にしているわけではない。それは断じてない。ただ一個人として、やはりよくないことなのではないかという本音もちらついてしまう。彼女が大事だと思えたひととだけそういう行為をしてほしいと思うのは、私の立場では我が儘すぎるのだろうか。
「なるほどねぇ」
香澄ちゃんもお仕事を終えて合流し、おなかが空いたとのことなので何か食べにいこうという話をしていた私達の視界に入ったのは屋台のおでん屋さんだった。ほかほかとした湯気が屋台からあがり、ぐつぐつと煮込まれているおでんをみると食欲をそそられたのか、香澄ちゃんはここにしようと即欠した。
そこで何があったか、岡崎さん絡みのことで話せることは話した。岡崎さんにキスされたことは黙っていたのだが、エスパー香澄には全てお見通しの様で、「その夏祭りでキスのひとつやふたつぶちまかまされたんでしょ」とジト目で見つめられ反論できなかった。赤くなったり沈んだり、纏まらない話を香澄ちゃんは時折突っ込みを入れながらもきちんと聞いてくれた。話を聞き終えた香澄ちゃんは、まず私が気にしていたことをいの一番に指摘した。
「まず言わせてもらうけどさ。あんたそれ、ほとんど告白してるじゃん。あなたのことが気になって仕方ないんですって言ってる様なもんじゃん。だだ漏れじゃん」
「……や、やっぱりそうなるよねぇええお家帰ってから気付いたんだよすごく後悔したんだよおおウワァアアン」
「喚くなウザイ。……そう、あいつあんたに手出してたの」
香澄ちゃんは持っていた割り箸をバキンと勢いよく二本同時に真っ二つにした。割り箸って、そんな柔らかい素材だったっけ……。
「かっ、香澄ちゃん……?」
「あの××××野郎 ……手ェ出すなっつったのに……。全然気がありませんなんて澄ました顔で興味ないとかほざいといて、結果がこれか……。今度見かけたら平手じゃなくてグーで顔面アン●ンマンにしてやる」
お、おかしいな……。先程のお姫様はどこへやら、般若が隣に居るんだけど……私般若とおでん食べにきた覚えはないんだけど……。私のために怒ってくれていることはわかるにはわかるんだけれども……。香澄ちゃんはため息をつき、お出汁が染み込んだほかほかの大根を屋台のおじさんに新しくもらった割り箸でふたつに割った。
「……で、これ以上つらい立場にりたくない、好きになりたくない、傷つきたくないって自分から絶縁言い渡したってことね」
「……身勝手な話だよね。本当に……」
「そうね。 中途半端なことしてきた向こうも向こうだけど。相手が七面倒くさいの代表格のあんたが相手なら尚更。……あんたにお手つきした理由、岡崎からは何も言われてない訳でしょ?」
「……言われてないし、聞けてもない……でも気まぐれって言っても否定しなかったから、たぶん……」
「……ふぅん」
切り分けた大根を香澄ちゃんはとくにはふはふとすることなく、平気そうな顔で豪快に口に運んだ。ほんとに熱いの平気なんだなぁ。私はというと、いちいち一定の温度まで冷まさないと口内を火傷しそうなので、ちんたらおでんを食している。餅きんちゃくの独特な食感を噛み締め飲み込んでから、香澄ちゃんに質問した。
「香澄ちゃん」
「なによ」
「おとなになるって、どういうことなんだろう」
「藪から棒に……。おとなぁ?」
「うん。私ね、おとなってすごくて尊敬の出来る……なんていうんだろうな、学校の先生みたいなのを想像してたの。も、もちろん全員が全員そうじゃないとはわかってるけど、少なくとも私が関わるおとなは皆しっかりしてて、勤勉で、真面目なひとが多かったから」
「ハッ。よっぽど温室育ちだったのね」
「うん、そう思う。私の居たところではそんなおとなの人たちが色んな面で私を守ってくれてたから。家族だったり学校の先生だったり、病院の先生とか看護士さんだったり。皆優しくて、尊敬出来るひとたちばかりだった」
「……」
「でも、ここに来てから色んなことがあって、今まで触れ合ったことのないタイプの人達とたくさん関わるようになって、私が世間を知らないってことがよくわかって……」
「あんた。ほんと暗い」
「だから……ん、んえっ?」
「その上ほんとうざい」
「え、あ、ご、ごめんなさい」
「そんな小難しいことばっか考えてるからうざったいし、じめじめしてくんのよ。つまり何が言いたいのよ。自分が想像してたより大人ってめんどくさくて、粗暴で、横暴で意味わかんなくて尊敬に値するやつはそんなに居なかったって言いたいの? で? 自分はこどもだし、岡崎はよくわかんないおとなだから釣り合わないし、どんな風に大人になったらいいのかわかんないとか? 甘えんじゃないわよ。おとなになることがどういうことかなんて、生きるのに必死で生まれてこの方考えたことないわ。はは、あんた哲学者にでもなれば。向いてんじゃない」
「……」
「何でもかんでも聞いたら答えが返ってくると思ったら大間違いよ、志紀。あんたはあんたなりによく考えてると思うけど、考えすぎて空回りしすぎなのよ。ただでさえ足りない頭で、そんなちまちま細かいこと処理しきれる訳ないでしょうが」
「考えすぎ……」
「って言ったらまた悩んじゃうんだろうから、あたしがあくまで今ぱっと思いついたおとな像を話してやるわ。それでその疑問は完結させときなさい」
香澄ちゃんは私の器から大根を取って丸ごと口にした。よくそんな小さい顔で一気に口の中入れられるなと見つめている。香澄ちゃんは宙を見つめながら咀嚼したあと飲み込んで「こんなもんか」と呟いた。自分なりの考えが浮かんだらしい。そして語り出してくれた。
「大人なんてね、いくつになったって中身は子供のころとそんなに変わりゃしないわよ。自分は大人なんだからもっとしっかりしなきゃなんて自己意識、常に持てる奴はそんな居ないだろうし。気付いたら体でっかくなっててシワシワになってて、年喰ってるってだけなんじゃないの。20代になっても30代になっても、50代になっても中身は全く変わらなかったっていうお客も居るしね」
「……」
「あたしもまだ年数踏んでないからよくわかんないけどね、そんなとこでしょう。ハイこの話は終わり」
「……香澄ちゃんってすごいよね」
「は?」
「すごくしっかりしてるし……。なんか、うん、すごい」
「語彙力なんとかしてくんない」
「なんで香澄ちゃんは私なんかと仲良くしてくれるの?」
「……」
「どうしてなんだろうってずっと思ってたの。香澄ちゃんみたいなタイプの子からは私、いつも良くは思われてなかったから。真正面から『あんた見てるとイライラする』って言われたこともあるし……」
「あたし常々あんたにそう言ってるけど」
「ほ、ほんまや……!」
「言われてみれば確かにね。……本当に何でかしら。なんでこんなのとつるんでんだろ。甚だ疑問だわ」
「あの、真剣な顔にならないでいただけると……。本人が目の前にいるから……。なんかしょっぱい気持ちになるから……」
「まぁいいじゃない。今更でしょそんなの」
「う、うん。そうなんだけど……」
「……あんたさ、花一匁ってやったことある? むしろ誘われたことあんの」
「あ、あるよ。あんまり楽しい思い出はないけど……」
「あんたどうせ、誰にも奪い合いされることなく最後の一人になってたんでしょ。心細そうにしてんの想像つくわ~」
「実際心細いよ! 寂しいし、悲しいし……ひとりぼっちだし……」
「でしょうね」
「香澄ちゃんは……」
「あたしは引く手数多だったわよ」
「……ですよね」
「昔からそうやってウジウジジメジメしてたんでしょ。そりゃあ欲しいとは言われないでしょうよ」
「……」
「でも今は違うでしょ」
「……え」
「あたしが居るじゃない」
香澄ちゃんはしょうがないなぁみたいな、少しだけ笑みを浮かべて頬杖をついて私を見ていた。
「あんたが売れ残ってたら可哀想だから、あたしが引き抜いて貰ってあげるわよ」
「……」
「とりあえず、もやもやしてるとあんた食がつかなくなるんだから、ちゃんと食べな。油断したらすぐにガリガリになんだから。鶏ガラみたいな身体は見てるこっちが不安になってくんのよ」
「香澄ちゃん」
「……なに」
「……だいすき」
「知ってるわよバーカ」
たまらなくなって俯いてしまった私の頭をぐしゃぐしゃとかき乱し、香澄ちゃんは自分の器から私の方に私の好きな餅きんちゃくを入れてくれた。そんな私達の様子を今までずっと黙っていたおでん屋のおじさんが微笑ましそうにしていた。
岡崎さんだけじゃない、この時代に出来た大事なものが積もり積もっていく。帰りたいという気持ちは変わりはしないけれど、私は自分の生まれた時代でこんなにも大事なお友達を再び見つけることが出来るのだろうか。
期限はあと約3ヶ月。帰れるのかな、本当に。それでもこの問題だけは自らが動かないとどうしようもない。
玄関にある青い傘を部屋の中で開く。試しにくるくると回しても、雨も降らない室内では飛沫が飛び散ることはないし、それを咎めるひともいない。
もしものことを考える。もしもあの日、雨が降らなければ、お団子屋さんに入らなければ、奴隷市場を見に行かなければ、あの桜の木の下に足を運ばなければ、と。人との出会いは一期一会という。 ……私があのひとに出会う確率はどれほどのものなのだろうか。同じ時代ならまだしも、時を越えてしまうとなると吃驚な数字になることだろう。そんなひとを好きになってしまったのだ。後悔先に立たずというけれど、やり直すことが出来るならば、私はどこからやり直せばよいのだろう。いっそ出会わなければよかったのにという自分と、それでも出逢えよかったと泣く自分が私の中に2人居た。くるくると青い傘を回し続けた。
今日は香澄ちゃんが中華を食べにいきたいというので、先にお仕事を上がった私は先に着替えて地下室で待機していた。
地下室のソファに座り、スマートホンを取り出しアドレス帳を開く。登録数は少ないので目的の人物のページはすぐに見つかった。私から電話をかけたことは殆ど無いに等しい。いつもかけてくるのはあのひとの方だった。しかしあんな別れ方をしてから一度も連絡はこない。当然といえば、当然だった。『消去』という文字をタップしようとしたが、指が動かない。そしてまたタップしようとして~の繰り返し。何度この動作をリピートしたことだろう。
簡単に断ち切れない、かぁ。そのための行動に移すことは容易い。でも心はなかなか言うことを聞いてはくれない。だからこうしてためらいが生まれてしまう。じゃあ、私はいつまでこの気持ちを抱えて生きていかねばならないんだろう。今までと同じように、時が忘れさせてくれるのだろうか。どうかなぁ。あんな存在感の濃いひと、忘れられるのかなぁ。不安だなぁ……。
地下室にある時計を見る。時計は20時を指していた。おかしいな。今日は19時半までって聞いてたんだけど……。着替えに時間がかかっているのだろうか。でもあの子着替えるのすごく早いし……。
様子を見に行こうと立ち上がり更衣室へ向かう。上に上がって玄関を出たところにある従業員入り口へ行くため、旅館の玄関へ向かっている途中、その玄関の方から男の人の怒鳴り声と数々の悲鳴、そしてガラスが割れた音が聞こえてきた。え、な、何事? と戸惑っている私の前から従業員の皆が慌てふためいた様子で「仲居さんよんで!」「警察も呼んだ方がいいんじゃ、」「とにかくお客様をお部屋に!」と走り回っている。その間も怒鳴り声と破壊音は絶え間なく続いている。
玄関を物陰から覗くと、おそらくカップルだろう男女二人組がなにやら取っ組み合いをしながら暴れ倒している。それを取り押さえようと男性の従業員が数名で四苦八苦しているが、暴れている男性が鉄パイプを所持しており上手く対処出来ずにいた。な、なんだこれ。痴話喧嘩……?
「オィゴラァアア! 俺の女寝取ったってのはどこの女じゃごらぁ! ここにおるじゃろがぃ! さっさと出てこいやぁ!」
「ちょ、や、やめてよ! なんてことしてくれてんのよ! いい加減にして!」
「お客様困ります!」
「お前は黙っとれぇ!」
「キャア!」
泥酔状態なのだろうか、風体のよくない男がやめてと自分の体を引っ張る女性の頬をバシンと容赦なく叩いた。悲鳴を上げて地面に伏せった女性はシクシクと泣きながら男に対して文句を言っている。その様子を向かいの物陰から見守っている人物がもう一人居たので、慌ててそちらに走った。そして小声で何が起こっているのかと追求する。
「さ、咲ちゃん! なにこれ、ど、どういう状況なのこれ」
「せんぱい、やばいっすよ」
「い、いや、それは見たらわかるけど」
「あの男が探してんの、たぶん香澄せんぱいです」
「……え」
「倒れてる女。あれ、前香澄せんぱいとちゅーしてた女ですよ」
「……」
「さっきから女はどこだっつってるし……やばくないですか、これ」
事情が事情なだけに、咲ちゃんの表情にも余裕がない。その間にもガラスや、物が破壊される音が響いてくる。男はぶんぶんと鉄パイプを振り回している。ぞっとした。
「か、香澄ちゃんはどこ? 咲ちゃんしってる?」
「さっき従業員のひとりが呼びに行きました。とにかくこの事態をせんぱいに収拾させろって仲居さんと連絡取ってました」
「なっ……香澄ちゃんをここに連れてこようとしてるの!? だめだよ! 危ない!」
「咲もそう言いましたよ。でも警察沙汰にしたくないって仲居さんが。仲居さんは香澄せんぱいに責任取ってもらうってそればっかり言ってました。あの女判断力に欠けてるから状況が見えてないんすよ」
「じゃ、じゃあいい! 私が警察にれんらく」
する、と持っていたスマートホンで警察に電話しようとしたその一瞬、現場がしん、となった。従業員の体を押しのけ、暴れている男と倒れている女性の前にひとり立ちふさがったのは、香澄ちゃんだった。自分の前にあっさりと出てきた香澄ちゃんの姿を見た男の動きが止まる。静かに、焦る様子もなくご本人が出てきたことに動転しているのだろうか。男よりも先に香澄ちゃんに反応したのは、倒れている女性の方だった。女性は泣きじゃくった顔で香澄ちゃんを見上げ訴え始める。その様子は浮気がバレたことを弁解する様なものだった。
「ち、違うのよ香澄! こいつとは別れたの、別れたつもりだったの! でもしつこく追いかけ回してきて」
「なっ、んじゃゴラァ! この尻軽女! 俺ァ別れねえっつったろうが! よりによって女にヤられるなんざ、頭どうかしてぇんじゃねぇのか!」
「うるさいうるさいうるさい! やめてよ香澄の前でェ! アンタなんか嫌いよ! 別れるったら別れる! もうあんたみたいな飲んだくれの馬鹿とは付き合ってられないのよ!!」
「う、うるせェ!」
激昂して興奮状態の男は転がっている女性の腹部に蹴りを入れた。男性に容赦のない蹴りをもらった女性はくぐもった声を漏らし、静かになった。出そうになった悲鳴を手で塞ぐ。あの女性は大丈夫なのだろうか、ま、まさか死ん……。従業員の男性たちもまさかと慌てて女性に駆け寄る。どうやら気絶しているだけらしいが、蹴られたところがかなり悪かったのか血の入り混じったものを吐瀉しているらしく危険な状態であることは間違いない。
男は一切動かなくなった女性をしばらく呆然として眺め、やがてブツブツと香澄ちゃんに恨み言を怨念の様につぶやき始めた。いやな予感がした。
「お前のせいだ……」
「……」
「全部こうなったのも、あいつが俺を見限ったのも、俺がこうなったのも、あいつがこんなことになっちまったのも全部全部、……全部、この女がァぁああ!」
男は持っていた鉄パイプを香澄ちゃんの頭の上に振りかざした。香澄ちゃんは動かない。こちらに背を向けている香澄ちゃんがどんな表情をしているのかわからない。どうして逃げないの香澄ちゃん。だめだよ、逃げなきゃ。なんでなんでなんで。
「ちょっ、しきせんぱい!?」
咲ちゃんの静止する声も今の私には届かなかった。無意識に、衝動的にといってもいい。あれだけ足に全ての神経を集中させたのは今までもこれからももう更新はないだろう。人間は死ぬ気になればなんだって出来るって、あれはもしかしたら本当かもしれない。
両手を前に出してドン、と押したのは香澄ちゃんの身体だ。衝撃で床に座り込んでしまい、こちらを見上げる彼女の表情は驚愕に染まり、そして絶望的なものとなった。それを目にした瞬間、頭に降ってきたのは重いもの。痛いのかよくわからないが、とりあえず脳天へこむんじゃない? って位の重い衝撃があった。上からタライが落ちてきただとかそんなレベルではない。くわんくわんと視界が揺れて霞む。次第に強烈な痛みが襲ってきて立っていられなくなり膝をがくんとついた。息をするのも重くなっていく。ぽたぽたと地面に滴り落ちているのは血だろうか。 私の頭からぼたぼたと流れている。
地に倒れる寸前の霞む視界の中、香澄ちゃんが男の人を殴り飛ばしているのが見える。一発のパンチで男の人をのしているのを見て、ぼんやりとほんとすごいな香澄ちゃん、リアルファイトも出来るんだね、なんて呑気に感心していた。
咲ちゃんが涙交じりに私の名前を叫んでいるのが辛うじて聞こえてくる。他にもドタバタと騒がしい。そのまま目を閉じてしまおうかというときに、突然胸倉を掴まれ強制的に上半身だけを起こされる。霞んでいた視界の中に見えたのはおそらく香澄ちゃんだった。
「こ……の、っばか!」
「んなっ、か、香澄せんぱい落ち着いてって! 揺らしちゃだめだってば!」
「っ……」
「何前に出てきてんのよ! 何考えてんのよ! あんた女でしょ! 馬鹿なマネしてんじゃないわよ! 痕でも残ったらどうすんの!」
「いやせんぱい。これ痕とか気にするレベルじゃないから。とにかく志紀せんぱいマジでやばいことになってるから揺らすなっての! 救急は! 救急車まだ!?」
「何とか言いなさいよ! 無視してんじゃないわよ!」
出そうにも上手く声が出せないんだよ香澄ちゃん。返事をしてあげたいが、それを言っても聞き入れてくれなさそうだ。力を振り絞って口をパクパクさせる。ほとんどかすれた息だけになった、聞こえるか聞こえないかの声量で香澄ちゃんに声をかけると、彼女はこれ以上ないって位、絶望的に傷ついた表情をしたのが唯一はっきりと見えた。
「かすみちゃんだって、女の子じゃない」
香澄ちゃんは何も言わない。ただ私の上半身を支えていた。そこで視界はブラックアウトし、周りの声も、何も、聞こえなくなった。
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