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完璧だけど、どこか脆い
しおりを挟む離れ暮らし第一日目の夜は、結果から言わせて貰うなら何事もなく過ごすことが出来た。
酒瓶とグラスを手に戻ってきた太刀川さんは私の隣に座り、こちらに無言でグラスを傾けお酒を注ぐ様促した。このあとどうしようどうしようとパニックになりながらもお酒を注ぐ私の動揺を読み取ったのか、太刀川さんは「今日は何もしねェからそんなに脅えるな」と言ってくつくつと笑った。その言葉に私がどれだけ安堵したことか彼は知らないだろう。
酒盛りを終えて太刀川さんは先にお風呂に行き、私はその間に先手必勝! とお布団を2つ、かなり離れた距離に敷いておいた。太刀川さんがお風呂から戻ってきたのと入れ替わりで、お布団のことで何か言われる前にと、そそくさと逃げる様に「私もお風呂行ってきます!」と小走りで向かった。
何もしないって言ってたけどほんとかな……。私今からどうなっちゃうんだろう。悶々とする不安と緊張のせいで随分と長風呂になってしまった。茹だりそうな頭とぽかぽかと熱い身体から湯気を出しながら、足音をたてない様気配を消し、まるで忍者のごとく太刀川さんが居るであろうお座敷へ戻る。
障子を恐る恐るほんの少しだけ開けて中の様子を伺う。私が用意したお布団に太刀川さんは既に入っていて、こちらに背を向けて眠っている様だった。その姿を見て、拍子抜けというか、安心感と脱力感にその場にへたりこむ。ほ、ほんとに寝てるよね……。寝息とか全然聞こえてこないけど寝てるんだよねこれ!? わざわざあちら側に回って太刀川さんが本当に寝ているかどうかの確認は今の私には出来ない。だ、だって覗きに行っておめめパッチリだったらこわい。目と目があったらどうしたらいいかわからない。蛇に睨まれた蛙みたいになる。太刀川さんの髪はしっとりとしていて、きちんと乾かしていないんだろうことがわかった。風邪引きそうで怖いなぁ……。
私が戻ってきたときに暗いといけないと思ったのか、電気はつけたままにしていてくれたらしい。太刀川さんの安眠のためにも私もさっさと寝よう! 急いで寝る準備をして明かりを全て消し、お布団にもぞもぞと潜り込んだ。
夜勤に備えてお昼に睡眠を取っていたこともあるが、すぐそこに太刀川さんが居ると意識してしまうと目が冴えて全然眠れない。頭まですっぽりお布団をかぶってぎゅっと目を閉じ、羊を延々数える。全く効果はなかった。相当時間はかかったが、なんとか眠りに落ちたらしい私は内容こそ覚えていないが、ふわふわとした夢を見ていた気がする。深い眠りにはつけていないということだろう。誰かに頭を優しく撫でられ、おでこに柔いものが触れた様な気がしたがこれも夢だろうか。
チュンチュンと鳥の鳴き声が聞こえる。ゆっくりと瞼を開ける。外が明るくて、朝になったんだとわかった。撫でられた感覚のあった頭の部分を触りながらむくりと起き上がる。ぼんやりとした頭であくびをしつつお座敷を見渡すと、もうひとつ敷いてあった筈のお布団が既に畳まれているのを見て一気に頭が覚醒した。
やっ、ヤヤヤヤヤヤバイ! 太刀川さんもう起きてる! ごっ、ごはん! 朝ご飯用意しないと……って今何時!? お座敷にある柱時計は8時半を指している。日勤とお休みの日には6時には起床する私にとっては大寝坊だ。お仕事の日だったらアウト中のアウトである。なんやかんやガッツリ寝てるじゃないか私のばか!
慌ててお布団から這い出る。寝起きで乱れた浴衣のままキッチンに急ぐ。向かう途中の廊下で滑ってすっ転がりそうになるも、ひいひい言いながら到着した。キッチンには誰もおらず、しんとしていた。
そういえば太刀川さんはどこにいるんだろう。朝の散歩でもしてるのかな。朝風呂にでも行ってるんだろうか。とりあえず遅くなったが急いで何か朝食を用意しなければ! というか私の手料理出していいのかな! 大丈夫かな!? 母屋にご飯食べに行った方がいいんじゃと冷蔵庫を開けたのと同時に、呼び鈴が鳴る。
「は、はーい!」
返事をし、流石に寝起きの浴衣で出るのはちょっと、と急いでお座敷にいったん戻り、置いてあった羽織をよく確認もせずに拝借した。パタパタと玄関に向かうと重箱を抱えた喜助さんが立っていた。おはようございやす! と挨拶する喜助さんの笑顔は朝から眩しい。こちらもおはようございますと返す。喜助さんは一人分にしては大きい重箱を私の前に差し出した。
「朝食をお持ちしやしたお嬢さん!」
「へ? ちょ、朝食?」
「へい! これからは俺が母屋からお食事をこちらまでお持ちしやすんで!」
「あ、ありがとうございます。すみませんわざわざ……。えと、これ太刀川さんの分も合わせての量、ですよね?」
「いいえ、頭は既に済ませてやす。7時位にお持ちしたんですが、お嬢さんはまだ寝てるからもう少し寝かしといてやれって言われやしてね。冷えたもんお出しする訳にゃあいかんとお嬢さんの分だけ一旦持ち帰ったんです」
「ごめんなさい……。私が寝坊したせいでなんか、お手間かけちゃったみたいで……。というか、太刀川さんやっぱり先に起きてたんですね……」
「はっはっは。お嬢さん、昨晩は若頭のお相手でよっぽどお疲れだったんですね。若頭もいつもより上機嫌でしたし。いやはやお若い2人は盛り上がって仕方ないでしょうね……! 歯止めもなかなか聞かんでしょう!」
「はい!? え、あの、ちがっ」
「照れなくてええんです! いやぁ~いやぁ~、朝から彼シャツならぬ彼羽織とは、お嬢さんもなかなか男心をくすぐることをなさる! 若頭が見たら喜ばれやすよ! 」
「……え、って、あぁああこれ太刀川さんの羽織!? ちちちちちがう! 喜助さん私達何も、何もしてません!」
「大丈夫です……! わかってやす……!」
「なにが!?」
「本日若頭は母屋にて昨日の東雲潰しについて、ちぃと他の組との話し合いをされておりやす。戻られるのは夜になると思うので……寂しいお気持ちはわかりやすが、夜までご辛抱を!」
「……は、はぁ……そうですか……。いやそうじゃなくてですね……」
私が弁明しようとする前に、それではまたお昼時に! と喜助さんは頭を下げ、離れから走り去ってしまった。鳥のチュンチュン鳴く声が静かになった離れによく響く。
一人分にしては量の多い重箱を抱えお座敷に戻り、縁側の障子を開ける。とてもお天気が良く洗濯日和だなとまず一番に思った。煙草の匂いが染み付いた太刀川さんの、赤と紫色で彩られた上品な羽織を脱いで綺麗に畳んでおく。洗面所で洗顔などを済ませて着物に着替える。
縁側に座り重箱をぱかっと開けると、朝食にしてはあまりにも豪華すぎるお料理がびっしりと詰められていた。な、なにこれ幕の内弁当……? ともかくきゅうううとおなかが鳴ったので、手を合わせいただきますと口に運ぶことにした。
太刀川さんは、四六時中離れに居る訳ではない。どういったお仕事をしているのか詳しくは知らないが、若頭という責任のある立場上、太刀川さんの身が完全に空く日は、離れ暮らしから数日が経った現在でも全くなかった。
流石に黒川さんが殺される以前のように、お仕事であちこちの県を行ったり来たりということはせず、あくまで本家内でのお仕事のみに留めているらしい。が、それにしても太刀川さんはとてもお忙しい。
朝早くに離れを出て夜遅くに戻ってきて、私に御酌の相手をさせてからお風呂に入って寝るという太刀川さんの生活スタイルを見ていると不安で仕方がない。今でこうなのだから、あちこちを飛び回っていたときはどうなっていたんだと想像するとげに恐ろしい。
睡眠時間だって、朝何時に起きているのかわからないが不足気味だと思う。 御酌のときに太刀川さんのお顔をちらりちらりと観察すると、うっすらと目元にクマがあるのがわかる。おそらくあれは慢性的なものだろう。私も太刀川さんがお仕事に出る前にお見送りしなきゃと、何時に起床されているかお尋ねするも頭を撫でられ「お前は寝てろ」とだけ言われてしまった。
前々から思っていたけれど、天龍の組長さんはどうしているんだろう。こんな大事な騒ぎだ。今回ばかりはお姿を拝見出来ると思っていたのだけれど……。ここにお世話になってはいるが、組長さんにご挨拶どころかお会いもしたことはない。会合に出るのも、周りは組のトップである組長さんで揃っていたが、天龍組だけ組長さんではなく、若頭に座する太刀川さんだった。それについて周りの方々は特に何も仰られなかったが、もしや太刀川さんは組長さんのお仕事も請け負っておられるのだろうか。それとも天龍の組長さんは尋常じゃない忙しさに追われているとか? どちらにせよ……大変だな……。
太刀川さんとは対照的に、私の生活は非常に自堕落……は言い過ぎる気がするが、ただただ時間をつぶす、ゆるりとした生活を送っていた。
朝起きて、喜助さんが持ってきてくれるご飯を食べて、離れのお掃除をして、天気のいい日はお洗濯をして、サボテンにお水をあげて、やることがなくなってお庭を散歩して、お昼には喜助さんが持ってきたご飯を食べて、洗い物をして、やることがなくなって、暖かい日差しの当たる縁側でごろごろと本を読んで、夜まで時間を潰す……という生活スタイルだ。これは所謂干物女というやつなのでは……? そもそも、離れのお掃除とお洗濯も最初は喜助さんがしてくれていたことだ。流石にそれくらいは私にやらせてくれと、(私の洗濯物を見られるのはご勘弁頂きたいという気持ちも強くあった)半ば無理やりもぎ取ったお仕事? である。だってこのままじゃほんとの駄目人間……世間一般でいうニート若しくはヒモ? になってしまう……! と、二日目にして尋常じゃない危機感に襲われたのだった。
今のところ、ここでの生活で特に困ったことはない。この時代にやって来た当初のことを考えると、天龍本家で過ごしている割にはかなり穏やかな日々を送ることが出来ている。……いや、違う。あくまで身体的には穏やかな日々だが、精神的にはかなりくるものがある。一日のほとんどを一人だらだらと過ごし、この年にしてのほほんと隠居生活している気分だ。こんなのんべんだらりな生活を続けていいのだろうか。いいわけない。何よりもメンタルをがりがりに削られるのは、太刀川さんが戻ってきてからだ。御酌をしてただ寝床についたのは一日目だけで、二日目からは違った。
「……ん、んむ。んん、や、ふぁ、う」
「……は……しき」
「ん、んん、た、ちかわさ、ぅ、……くっくるし、んん……!」
クチュクチュと耳を塞ぎたくなる音をたてながら舌を差し込まれ、口内をあちこちなぶられる。どちらのものかわからない唾液が口から零れてとてもだらしない。手首と腰をがっちりと掴まれ、太刀川さんの腕の中に横抱きに抱え込まれた私は満足な抵抗も出来ず、太刀川さんの獰猛ともいえるちゅ、ちゅー? ちゅーなのかこれ? 補食じゃなくて? ……を受け入れるしかなかった。
毎晩毎晩、寝る前になると「志紀」と色気たっぷりに名前を呼ばれ腕をとられてしまえば、この時間が始まる。逃げられないように体全体を包まれ、唇を重ねられる。最初はただ合わせるものから始まり、徐々に今のように激しいものとなっていく。息も絶えだえに舌を絡めさせられて、キスをしているだけとは思えない厭らしい音が絶え間なく聞こえてくる。
最初はびっくりして全力で抵抗していたけれど、太刀川さんの、大人の男のひとの力に適うはずもなく、ただただ体力を消耗してしまっただけだった。抵抗しても意味はないと悟り、それなら太刀川さんが早く満足して終わる様にと最近は戸惑いながらも大人しく、恥ずかしいと頭を沸騰させながら受け入れるようにしている。
ゆっくりとお布団の上に押し倒され、また唇を押し付けられる。うまく呼吸が出来ず、喘ぐことしか出来ない。真っ赤な顔で息を荒くし、太刀川さんを受け入れようと必死な形相の私を、その青い瞳に写して何が楽しいんだろうか。訳が分からない。枕元のオレンジ色のランプに淡く照らされる太刀川さんを見上げると、その顔はとても艶やかで、大人の男の人だった。
太刀川さんは薄く笑い、ちゅっとわざと音を立ててから一旦唇を離す。お互いの間に出来た唾液の糸がとても恥ずかしくてぎゅっと目をつむった。
私の耳を舐めたり、耳たぶを柔く噛んだりしたあと、私の首筋をちゅ、ちゅと太刀川さんが口づけていく。くすぐったくて「ひぅ」と情けない声を上げて身をよじると太刀川さんが低く笑った。ひ、ひどい。首はともかく、少しだけ浴衣の前合わせを広げられて胸元に唇を落とされる瞬間、いつも少し体が固まる。このまま体を暴かれはしないだろうかと息が止まる。しかし、いつも薄桃色の痕をいくつかつけるだけに留まり、太刀川さんがそれ以上のことをしてくることはなかった。そしてまた熱烈なちゅーをしてくる。
もうなんだか、ちゅーは挨拶と言わんばかりに何度も何度もしてくるので、脳内では「あれ? もしかしてこれ挨拶なんじゃない?」「もしかしたら太刀川さんって海外育ち?」「いやもしかしたらハーフかも?」「日本人のお顔をしてるけど、瞳は青いし、そういえば岡崎さんも灰色の髪に真っ赤なおめめだな」「この国ではそれがふつうになっちゃったのかな」なんて色んな自分が会議している。いやいや、こんなねっとりとした濃厚な長い挨拶があってたまるかとすぐに現実に戻されるのだが。
唇がふやけ、本当に呼吸困難で死にそうになる寸前に太刀川さんはわたしの頬に今までの獰猛さが嘘だったんじゃないかと思うほど優しくちゅーをし、私に腕枕をして抱き枕みたいにぎゅっと抱き締めてきた。
太刀川さんが満足するまで私の唇を貪ったあと、そのまま自然と一緒の布団でふたり眠るようになった。太刀川さんのいい匂いと、胸元の刺青が視界一杯に広がる。最初は、こんなに密着して寝られる訳ない! と顔を真っ赤にして思っていたが、太刀川さんからの激しいちゅー攻撃にへとへとになった私は、太刀川さんに一定のリズムで頭を撫でられながらぜえぜえと息を整えているうちに、そのまま疲れておねんねするという流れが完成してしまっている。だから太刀川さんが眠りにつくところも、寝顔も、目が覚めるところも、見たことがない。こうしてひとつしか使わないのに、未だにお布団をふたつ敷き続けるのは、私のなけなしの意地と抵抗だった。
朝は家事紛いのことをし、昼はだらだらと過ごし、夜は太刀川さんという試練に耐える毎日を過ごしてはや一週間が経った。これが来年から毎日になるというのだから何が何でも元の時代に帰らねばという思いもマシマシに増していく。
今日も今日とて、香澄ちゃんからのメッセージへの返信をする。縁側で横になりお庭をぼんやり眺めながら考え事をしていると、どこからか可愛らしい小さい鳴き声が聞こえてきた。むくりと起き上がり、鳴き声のする方向を見ると、どこから忍び込んだのか薄汚れた白い子猫がにゃーんとこちらを見て不安げに鳴いている。かっ……かわいい~。
「ねこちゃん、おいでおいで」
お庭に出て、そっと子猫の方に近づく。うるうるとしたまぁるい瞳が不安げに揺れている。あぁ……どうする、ア●フル~……! 逃げようとはしないものの、こちらの様子を窺っているのだろう。私が妙な行動をしたらすぐ逃げようとする気配がする。ねこちゃんから少し離れた距離でひざをつき、お庭に生えていた猫じゃらしを一本取って、パタパタと子猫の前で振ってみる。すると子猫の目は猫じゃらしを追って、そろりそろりと短い前足を出して猫じゃらしに近づいた。そして弱々しいねこぱんちを繰り出し始める。い、癒やし……癒やしだ……。ストレスが軽減されていく……。これがアニマルセラピー……!
「ねこちゃんどこからきたの? おなかすいてない?」
通じる訳もないが、可愛い子猫ともう少し一緒に居たいなぁという思いから語りかけてしまう。ねこちゃんはうりうりと猫じゃらしに夢中だ。汚れてはいるが、やせ細ってはいない。誰か餌をあげているのだろう。
驚かせない様にそっと頭を撫でる。ねこちゃんはもっとなでろ! と言わんばかり、私の手にぐりぐり小さな頭を押しつけてくる。うぁああふわふわだぁああがわいいいい。 もう仕草ひとつひとつが可愛くて仕方がない。顎の下も撫でてあげるとゴロゴロと喉を鳴らした。いいなぁ、私どっちかっていうと犬派なんだけど、猫も可愛いなぁ。どっちもかわいい。えへへ。
子猫も私に対する警戒心を解いてくれたのか、にゃーんと鳴きながら膝元にすり寄ってきてくれた。私が子猫を抱き上げようとしたとき、玄関の方から呼び鈴が鳴る。ねこちゃんはその音にびくっと驚いて草木が覆い茂る方にぴょこぴょこと逃げていってしまった。
「行っちゃった……」
また来てくれないかなぁなんて名残惜しい気持ちでいたらもう一度呼び鈴が鳴ったので、はーい! と返事をして玄関まで急ぐ。扉を開けるとそこには昼食お持ちしやした! と、にかっと笑う喜助さんが重箱を抱えて立っていた。
「太刀川さんって……あんまりお食事摂られないんですね」
偏食か何かですかね。お昼ご飯を持ってきてくれた喜助さんに、昼食の重箱と交換に、朝食の入っていた重箱を返しながら尋ねる。重箱のひとつは空で、もうひとつはほとんど手付かずで残されていた。前者は私で、後者は太刀川さんに用意されたもの。一口二口手を付けただけというか、どこ食べたんだこれというレベルだ。お残しは許しまへんでと某忍者アニメの食堂のおばちゃんと同じ考え方を持つ私のおばあちゃんが見たら激怒ものである。
「若頭はいつもこんな感じですよ。むしろ今日は食べてる方ですね」
「えっ、えぇ……? これで? 普段食べてない様なものじゃないですか」
「残ったものは犬猫にやれと言われてましてねぇ。餌になるんで無駄にはならないんですがねぇ」
「ねこ……」
「猫がどうかしやした?」
「い、いえ! なんでも。それにしたって……夜もおつまみばっかりだし、お酒すごく飲むし、ただでさえお忙しいのに栄養源が……」
「まぁ確かに……言われてみりゃあ健康に悪いですねぇ」
慢性的な睡眠不足に加え、栄養不足。なのにお酒だけは毎日欠かさず飲んでるし、私の前で吸うことは無いが煙草の類も嗜んでいる。不摂生のパラダイスだ。体調を崩されないのが不思議で仕方がない。太刀川さんの内臓器官を想像すると恐ろしいったらない。ヤクザって一年に一度の健康診断とかちゃんと受けているのだろうか。専属のお医者様が居るには居る様だが、律儀に診断を受けている様が想像出来ない。検査を受けてる太刀川さんの図がまずシュールだ。
ベテランの板前さんが作っているだろう。こんなに美味しい食事なのに、実は和食はそんなに好きではないとか……? な、なんだか居てもたってもいられなくなってきた……。あのひとの不摂生を少しでも改善しなきゃという考えがぐるぐると頭の中で渦巻く。
「あ、あの喜助さん」
「ん? 何でしょう」
「ごめんなさい、ひとつお願いがあるんですけど……」
喜助さんにお願いの内容をお伝えすると、彼は歯を見せて笑い、「任せてくだせぇ」と頼もしく胸をたたいてくれた。
コトリと目の前に置かれたものを、いつものようにお庭を見ながらお酒を嗜んでいた太刀川さんが何だこれはと見下ろした。
「なんだこれは」
「オムライスです」
「……」
「……お、オムライスです」
なんかこの会話デジャヴだなぁ。だらだら汗を垂らしながら更に太刀川さんの方へオムライスの乗ったお皿をずずいっと押す。
喜助さんにお願いをして持ってきて貰ったのはオムライスに必要な卵やお米、お野菜、お肉、調味料などの材料だった。離れのキッチンの冷蔵庫はすっからかんに近く、お米もなかった為まともなご飯すら作れない。当然だが買い物にも行かせてはもらえないので、てっとり早く作れるバランスのいいご飯って何だろうと思い浮かんだのはオムライスだった。チキンライスだからお肉も食べられるし、卵も入ってるし、サラダも添えれば栄養バランス的には完璧ではなかろうか。
それにしても太刀川さんとオムライスの組み合わせはここまで合わないのか。太刀川さんといえば和のイメージが強いため、異色感が半端ない。膝の上に作った拳をぎゅっと握り、俯いたまま言葉を振り絞る。
「お、おつまみばっかり食べてるのは身体に良くないと思って。ちゃんとバランスを考えたお食事摂った方がいいです。私のお父さんも塩分の取りすぎで血圧高めであれだったんで
……」
「……」
「お酒の飲みすぎも良くないです。 そんなお水みたいに飲むものじゃないし。あと、その、煙草も。嗜む程度が一番だと思います」
「……」
「それに、もうちょっと睡眠も取られた方が……。目のクマは睡眠不足と不摂生の証拠ですよ」
「見誤ったな」
「それと……。へ、あ、はっハイ?」
「どうやら、西園寺よりオメェのほうが小姑だったらしい」
「あ……」
つまり、口うるさいと……? た、確かにひとつ口にすると後から続々とぽんぽんと出てきた気がする。なんてこった。なんだこいつ口喧しいな粛清しようとか思われてないかな大丈夫かな。一気に血の気がサーーッと引いて青ざめた表情をしている私を見て太刀川さんは小さく笑った。その顔を見て思わず息が止まる。いつもの含み笑いなどではなく、その笑みはごく自然なものだった。
驚きで目を丸くしている私をよそに、皿を持ち上げお匙を手にした太刀川さんはいっぱいにオムライスをすくい上げ、豪快に口に含んだ。その光景をぽかんと見つめる。何度か咀嚼を繰り返し飲み込んで、再びお匙にたんと盛って口に含んで噛んで飲み込んだ。
人間として当たり前の食事風景の筈なのに、不思議なことだが、初めて太刀川さんが私と同じ人間なんだと思った。このひとも私と同じ様にご飯を食べて睡眠を取るひとなんだと理解した。太刀川さんはオムライスもサラダも全て残さず平らげた。半分でも食べてくれたらいいな位に思っていた私にとっては予想外の結果だ。
「お前が作ったのか」
「は、はい……。お、お口に合いましたか?」
「あぁ。……ごちそーさん」
太刀川さんはそうしてまた小さく、本当に気づくか気付かないかの差だが、小さく笑みを浮かべた。たぶん、この瞬間から私の中での太刀川さんへの印象に変化が現れた。今まで、このひとに接する度に怖いという恐怖に支配されるばかりだったが、ただ怖いというだけでは無くなった気がする。いや怖いことは怖いんだけど……。実際、この日から私達の関係に確かな変化が現れた。
「眠れない?」
「昔からな。眠るって感覚がまずよくわかんねぇんだよ。俺には」
「それは……重症じゃないですか? 安眠できないってことでしょう? 睡眠障害の類じゃ」
「そんなんじゃねぇよ。癖みてぇなもんだ。常時命狙われてりゃ誰だってそうなる」
「……」
「自分の命守れるのは自分だけだからな」
ある日の晩酌で、私は太刀川さんにきちんと睡眠はとれているのか尋ねてみた。このひとがきちんと寝ている顔を目撃したことはないし、私が寝ている間に太刀川さんも寝ているのかという確認は本人に聞かねばわからなかった。
何とも言い難い不眠の理由に物悲しい気分になる。私は太刀川さんが今までどんな風に生きてきたのか知らないが、今の言い方から察すると、安心して眠りにつける環境に居ることが出来なかったということだろう。
「ただ寝転がってても眠気なんざきやしねぇ。かといって、眠らずに居るわけにもいくめぇ」
「だから毎晩寝る前にお酒を飲むんですか?」
「……ま、そういうことだな。単純に酒が飲みたいってのもある」
しかして毎晩あの酒量は体に悪すぎる。お酒が好きだというのは本当だろうが、あれだけの量を摂取しないと本当に眠れないのかもしれない。
少し考えて、ちょっと待っててくださいねと断ってから立ち上がり、キッチンに向かう。そして目的を済ませ、二つ分のマグを持って太刀川さんの隣に戻り、はい、と湯気の出ているそれを差し出した。太刀川さんは訝しげな顔をしながら私からマグを受け取った。
「はちみつミルクです。私、眠れないときはよく飲むんです。ちっちゃいころ怖い夢とか見たときにおばあちゃんがよく作ってくれて」
「へぇ」
「あったかくてぽかぽかして美味しいんですよ! ……あ、太刀川さん、甘いもの大丈夫ですか? それ結構甘ったるい……」
太刀川さんは湯気が出ているはちみつミルクにふーと一度息を吹いて口を付けた。た、太刀川さんのふうふう、だと……? 今さらりと、とんでもないレアなものを目撃してしまった気がする……。というか甘いもの大丈夫なんだ、意外だ。私もふぅふぅと息を吹きかけホットミルクの熱さを和らげてから口を付けた。
しばらくそうして、太刀川さんとふたり静かにはちみつミルクを飲んでいると、いつか聞いた愛らしい小さな鳴き声が夜のお庭から聞こえてきた。そして暗闇から現れたのはくすんだ白の、あの可愛い子猫だった。にゃーんと鳴きながらこちらに寄ってきたねこちゃんは刺青の施された太刀川さんの足にごろごろと甘えている。太刀川さんは自分に擦りよる子猫を追い払うことはせず好きにさせている。
「また来たのか、お前」
物好きなやつだな、と呟いた太刀川さんに子猫は返事をするようににゃーんと鳴いた。
「太刀川さん、このねこちゃんのこと知ってるんですか?」
「どっからか忍び込んでくるんだよ。俺に飯たかりにな」
「お、おおう……」
曰わく、太刀川さんに飯をたかりにくるというなかなかの大物のねこちゃんは割と頻繁にこの離れにやってくるらしい。太刀川さんがこの離れでこの子猫を初めて見つけたとき、子猫はカラスにいじめられてらしく、追い払ってあげたら懐いたのだとか。太刀川さんの膝に乗り上げ、リラックスした様子でおなかを見せてくつろいでいるところを見ると確かによく懐いている。太刀川さんも慣れた様子で子猫の顎周りなど軽く撫でてあげていた。そして、傍らにあったおつまみの煮干しを手に取り子猫に食べさせた。
「オメェもこいつを見習ってもう少し俺に媚びてみりゃどうだ。俺は多少欲望に素直な女の方が好きなんだがなァ」
太刀川さんは私にそう言って、子猫の首根っこをひっつかんで私に押し付けた。慌てて子猫をちゃんと抱いて膝に乗せてあげる。ねこちゃんはおねむなのか、小さくうずくまり頭をかくんかくんと揺らしている。あ、こ、これ動けなくなるやつだ……。暖かくふわふわの子猫の体はまるで湯たんぽみたいでとても癒される。起こさないようにふわふわの毛並みを撫でると思わず口角が上がる。
「太刀川さん、この子に名前ってつけてあげてるんですか?」
「付けてねぇよ」
「え? じゃあこのねこちゃんのことなんて呼んでるんですか」
「呼ばねぇでも寄ってくるからな」
それはあれですよね。女性もですよねと、ぽんと口から飛び出そうになった言葉を飲み込んだ。口に出したが最後である。
じゃあ、私が命名しちゃってもいいですか? と聞くと好きにしろと許可を頂いたので、ねこちゃんを見つめる。とは言ったものの、私ネーミングセンス無いしなぁ……。しろ。しろいネコ……。頭の中にとあるキャラクターが思い浮かんだ。
「よーし! 君の名前はハロー・●ティにけって」
「シロ起きろ。煮干し余ってるから全部食っちまえ」
にゃーんと素直に返事をし、ねこちゃんは起き上がって私の膝から跳ねて太刀川さんの腕の中へ移動してしまった。あ、あれぇ……?
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