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それはなんて惨めな独占欲
しおりを挟む街中で、見覚えのある灰色の頭を見つけた。身長も高く、くわえてあの派手な色合いだ。とても目立つ。
年末ぶりだ。新年のあいさつをしておこう。声をかけようと岡崎さんの方に足を向けようとしたが、よく見たら複数のひとたちに囲まれている。楽しそうに笑い声を交えながら、和気あいあいと歩いている。岡崎さんは若い子に手を引かれ、壮年の男性に何か言われたのか、照れた顔をして言い返している。満たされている顔をしていた。
岡崎さんがそこに居ることに気づいているのに、彼は私がここに居ることに気づかないことに距離を感じた。私なんかがあそこに踏み込んではいけない、彼が今まで張り詰めて生きてきた分、のびのびと過ごせている場所に、私の様な異分子が水を差してはいけないと疎外感を持ってしまった。
私は、岡崎さんに似ている様で似ていない。世界のはみ出しものという点で同士だと思っていたけれど違った。自分と違い、元々岡崎さんはたくさんの人に囲まれて生きていけるひとだ。性格はひん曲がっているが、それでも惹きつけられる何かが確かに存在する。私と同じだなんて、おこがましい考えにも程があった。
そういえば、小学生の時似たようなことがあった。小さい頃友達を作ることが特に下手だった。当時は体も弱かったため、教室にぽつんとしていることが多かった私だが、私と同じ人付き合いが不得手のタイプの女の子がひとり居て、一緒にいることが多かった。
物静かな女の子だったが、彼女との会話はとても楽しかった。彼女の発言する言葉ひとつひとつに、センスとユーモアがあった。頭の良い子だった。私しかこの子の隠された魅力を知らないんだなと、勿体ないという気持ちと歪んだ優越感が私の中に存在していた。しかし、それも長くは続かなかった。
きっかけは何だったか。その女の子の面白さに気付いた子が、自分がよく集まるグループに招き入れる様になったのだ。最初は女の子も私と過ごしてくれていたが、徐々に私に接してくる機会はなくなった。ついには、しきちゃんと名前を呼ばれることもなくなり、他人行儀に遠坂さんと彼女は呼ぶようになった。お前はもういいや、と言われた気がした。
そりゃあ、そうだろう。たいして面白い話もしない。可愛くもない。おしゃれでもない。外にも遊びに行けない。人間として面白みに欠ける私と居るよりも、和気藹々と年頃の女の子たちとおしゃべりしたり、外でスポーツを楽しむ方が有意義に決まっている。こんな自分が悪いのだ。欠陥だらけの自分が。だから置いてかれてしまう。連れて行く価値もない。お荷物でしかないから。それでも一緒にいてほしかったと、小さい自分は泣いていた。そしてきっと、今も。
声をかけることも出来ず、いろんな人に囲まれた岡崎さんの大きな背中はどんどん遠ざかっていく。手を伸ばしても、いつか届かなくなるんだろうななんて、そんなこと考えたって仕方ないのに。
「志紀ちゃん最近精が出るねぇ」
「そっそうですか?」
障子の張り替えをしていた私に、フネさんが休憩のお昼ご飯にとおにぎりを持ってきてくれた。フネさんも今から休憩時間らしく、私の分のお茶まで湯呑みに入れてくれた。時間を見ると私の休憩時間はとっくに過ぎていた。余程集中していたらしい。作業の手を止める。フネさんにお礼を言い、お昼をご一緒させてもらう。程よくお塩がふられたおにぎりを頬張り、気になっていたことを尋ねる。
「あの、フネさん。京都に行く方法で一番お安いのってやっぱり電車なんですかね。ここからだと何時間かかるんでしょうか」
「京都? う~ん、そうね~。電車が一番お安いでしょうけど、なかなかしんどいと思うわよ~。志紀ちゃん旅行にでも行くの?」
「は、はい。ちょっと考えてて……お休みも消化しないとなって」
「いいことじゃないのぉ~。普段志紀ちゃんお仕事頑張ってるから、そういう息抜きは大事よぉ~。楽しんでらっしゃいな。いつ行く予定なの? 紅葉が綺麗な秋?」
「ええっと、とりあえずお金が貯まり次第……」
「電車は安いけど半日かかる上、 飛行機じゃなきゃ日帰りは厳しいわよ」
「香澄ちゃん! ってそれ私のおにぎり……」
手にしていたおにぎりを後ろからひょいと奪われる。香澄ちゃんが食べかけのそれをばくりと豪快に食べた。もぐもぐと口を動かす香澄ちゃんに、フネさんがあらあらと湯呑みを差し出す。香澄ちゃんはぺこりと頭を下げ、お茶を受け取りごくごくと飲み込んだ。熱くないのかな……。
「あんた、飛行機ならともかく電車で京都なんて絶対泊まりになるわよ。太刀川に外泊許可もらってんの?」
「う……」
許可を貰うもなにもない。元の世界に帰るために京都へ行きたいですなんて言ったら……どうなるかわからない。雁字搦めに縛り付けてくる太刀川さんの言葉は、まるで錘の様に私に巻き付いてくる。じわじわと、首を絞められているみたいだ。香澄ちゃんが訝しげな表情で私を見ているその横で、あぁそうだぁとフネさんは明るい声を発した。
「なら志紀ちゃん、その太刀川さんにおねだりしたらいいじゃないのぉ。一緒に京都に行きたいですって。デートに行きたいって甘えちゃえばいいのよぉ」
「それは、ちょっと………」
問題がありすぎる上に難易度が高すぎる。想像できない……。キャピキャピと私が太刀川さんにおねだりするというのがまず想像できない……。そしてそれを太刀川さんが受け入れてくれるとも思えない……。足蹴にされる。
「志紀、今日あんたん家行くわ」
「え? それはいいけど……香澄ちゃん明日もお仕事じゃ」
「久々に泊まらせてもらう。聞きたいこともたくさんあるし。事情聴取よ、事情聴取。覚悟なさい」
「じ、事情聴取て」
「ほんとうに仲が良いのね~二人とも~」
ほわほわとした笑顔で私たちを眺めるフネさんは「こうして見ると姉妹みたいねぇ」と呟いた。
あ。また負けた、と画面の中で打ちひしがれているキャラクターを見てごろりと寝転がる。格闘ゲームは苦手だ。コマンドも覚えられないし、攻撃も避けられないし、すぐにコンボを決められてしまう。初代らへんのバーチャ●ァイターはもう少し操作がシンプルだったからなぁ……。ふふんと鼻を鳴らす香澄ちゃんは連勝にご満悦なご様子だ。少し休憩を取ろうと珈琲とクッキーを持ってくると、マグを受け取りながら香澄ちゃんが切り出した。
「で? あんたにしちゃ旅行資金なんて贅沢な悩みしてるなと思ったけど、女将の次は何に悩んでんの」
「えっ……」
「ほんっと、いつ来ても女とは思えない殺風景な部屋だわ。ケチりにケチって最低限の家具と、あと服と……。娯楽って言えば本と、あたしが置いてるこのゲームぐらいしかないし。ぬいぐるみの1つ置く位の可愛げ見せなさいよ。だからモテないのよあんた」
「……」
「可愛いってデレデレする癖にぬいぐるみひとつ買わないで、散々節約節約うるさいあんたがいきなり京都に旅行だなんて、そんな大金はたく太っ腹なこと言い出すなんて、なんかあったに決まってんでしょ」
白状しろとこちらに可愛い顔を近づけてくる香澄ちゃんの追求から逃れられた試しなど無い。
ぽつりぽつりと新年の挨拶に出向いたときのことを話し出す。勿論私が時を越えて云々の下りは黙っておいた。香澄ちゃんはこの世界で生き抜くための支えなのだ。見捨てられるということはないだろうが、至極当然に頭の病院に連れて行かれる。ただでさえだめだめな子として認識されているのに頭おかしい痛い子としてこれから接せられるのは流石に泣く。泣いてしまう。
「太刀川と距離を置きたい、ねぇ? だから京都って話も飛躍しすぎてる感は否めないけどまあいいわ」
「う……」
「今も距離置いてるっちゃ置いてんじゃん。旅館に来る前は天龍の本家で太刀川と暮らしてたんでしょ? 現状ベッキョじゃんベッキョ」
「別居ちがう……」
「つかさ、今まで聞いたこと無かったけど、なんであんたここで働いてんの」
「……」
「太刀川にも新年のとき言われたんでしょ。養ってやるって。お前は黙って花嫁修行してろって」
「あの香澄ちゃん? なんか絶妙に違うんだけど。そんなプロポーズみたいなこと言われてないんだけど。全然おめでたくなかったんだけど」
「意味は一緒じゃん」
「ちちちちがうったらちがうもん! 余計なことしないで大人しくしとけって言われたの! 他人様に迷惑かけるぐらいならニートしてろって言われたの!」
「おめーもマイナス思考にぶっ飛んだ解釈しとるやんけ。……脱線したわね。で、なんで?」
「……本家にはこわいひとがたくさんいて……全然慣れなくって、私が精神的に疲れて、その、倒れちゃって……」
「あー……」
なるほどね、と香澄ちゃん納得してクッキーをかじった。
天龍組の本拠地である日本家屋に身を置いていた頃、かつて無いほどの男性ばかりの環境で毎日毎日、あちこちから怒鳴り声や、時には悲鳴が聞こえておっかないことがたくさんあった。すれ違う人は皆何だこの子どもはと睨んでくるし、時には不法侵入扱いされて殴りかかられそうになったこともある。たまたま近くを歩いていたらしい西園寺さんに助けて貰ったので怪我こそはしなかったが、今まで平穏な国でぬくぬくと過ごしてきた私にとっては衝撃的なことばかりだった。眠る度に太刀川さんが首をはねた男の最期が夢に出て眠るのが怖かったし、訳の分からない現状にはやく家に帰りたいと毎日泣いてばかりの日々だった。
何よりも毎晩毎晩、何を考えてるかわからない太刀川さんに呼ばれて、特に何をするでもなく二人きりの空間で過ごすことが何よりも怖かった。だって、あのひとは人を殺すことの出来る人間なのだ。怖くないわけがない。今考えても、人生で一番地獄の様な日々だったと思う。
そして一ヶ月が経って、とうとう心身ともに限界を迎え倒れてしまったのだ。そこで太刀川さんが、今私が住んでいる別宅を用意してくれたという経緯になる。
もう元の世界に帰りたくて帰りたくて仕方がなくて、京都に行きたいと漏らすと太刀川さんに怒られたので、自分で自分の食い扶持も旅費も稼ごうと心に決めた。どこかしらで働かせてほしいと頭を下げると、天龍の傘下にある旅館で、戸籍が無くても働ける様に手配してくれたのだ。 どこまでも至れり尽くせりでとても感謝はしているし、いずれ恩は返さねば……とは思うのだが、その親切心が怖いと思わずにはいられなかった。
「あんたさ、太刀川とはほんとに面識ないの?」
「……ない」
「ほんとのほんと? あんた馬鹿だし、忘れてるだけじゃないの?」
「な、ないよ! 絶対ない。もし会ってたら、あんなに濃い色気周囲にぶちかますひと忘れる訳ないよ!」
「あんた太刀川のこと歩く18禁かなんかと思ってない?」
「そっそれに、私もんっっっっのすごい遠い田舎育ちだから、太刀川さんと会う機会なんて皆無だよ! ない。絶対ありえない!」
「それはわかんないでしょ」
「……えっ?」
「あんたが知らないだけで、太刀川は行ったことあるかもしんないじゃん。それこそあんたが覚えてないぐらいちっさいときかもしれないし。そこであんたのこと見初めたって可能性も捨てきれないでしょ」
もしそうなら流石に太刀川の性癖疑うけどねと香澄ちゃんは苦い顔をした。
太刀川さんが私の世界、つまり過去に来たことがある? そんなこと考えも思いつきもしなかった。でもまさか、そんなことありえるだろうか。思わぬところから出てきた可能性に内心動揺する私を知る由もなく、香澄ちゃんはちなみにさぁと事情聴取を続ける。
「どう思ったの」
「な、何が?」
「太刀川が他の女とセックスしてるの見て、嫉妬しなかったの?」
嫉妬って、なんだ。あまり思い出したくはないが、押入の中で隠れていたときの気持ちを振り返る。あのときはとにかく早く終わらないかなというのと、嫌悪感でいっぱいで、嫉妬なんてする余裕もなかったし、そういう感情を私が太刀川さんの女性関係に抱くのは、違和感があった。単刀直入に言ってしまうのなら……。
「……なんとも、思わなかった」
「……」
「お楽しみのところお邪魔してスイマセンっていう申し訳無さと、早く終わらないかなって、そればっかり考えてたし……」
それを聞いた香澄ちゃんはせっかく可愛いのに女の子として少しアレな表情をして「……ここまでくると流石に太刀川が不憫になってきたわ……」と呟いた。そしてクッキーをもうひとつ手に取り口に入れようとする寸前、香澄ちゃんは難しい顔をして動きを止めた。
「じゃあ……この前の男……岡崎だっけ? あいつが他の女とセックスしてたら、あんたどう思う?」
「……なんでそこで岡崎さんが出てくるの?」
「いいから! ちゃんと答えなさいよ」
「……別に、何も。前に岡崎さんがおっぱいパブから出てくるの見たことあるけど、特になんとも思わなかったし」
「なんかちょっと違うけどまぁいいわ。……ならいいのよ」
ほっとした表情をした香澄ちゃんが珈琲をズルズルと啜っているのを見つめる。香澄ちゃんが珈琲を飲み干したのを見て、空になったマグを受け取る。おかわりはいるか聞くと欲しいとのことだったので、キッチンに行って珈琲を淹れ直す。
嫉妬と似た感情なら、岡崎さんに抱いたことはある。しかしあれは香澄ちゃんが言う様な恋情における嫉妬ではないだろう。岡崎さんが私の知らない人たちと連れ立って歩いているのを見て感じたアレはきっと、惨めな子供の悲しい独占欲だ。親しい友達が取られたという、取り残されてしまった感覚。あれ? でもおかしいな、岡崎さんは友達ではないのに。
突然ピンポーンとインターホンが鳴った。宅配かな、と手を拭いてもたついているとピンポンピンポンとけたたましく連打された。な、なんだ? 悪戯か? と警戒している間にもピンポンピンポンピンポーンとインターホンが押された。流石の香澄ちゃんも不快な表情をして「うるさっ!」と立ち上がり、玄関に向かおうとした私の腕をとって引き止めた。
「ちょ、待ちなさいって。近所の悪餓鬼の悪戯かもしんないでしょ。あんた舐められてるし。それかほんとにヤバい奴かもしんないし出ない方がいいって」
「そ、そうかな」
「居留守でいいわよ居留守で。そのうち諦めて帰るでしょ。あんたもむやみやたらに出ようとすんな馬鹿」
そう言ってしばし、香澄ちゃんと玄関の様子を見守る。しまいにはドンドンと扉まで殴り始めた。こ、これは警察を呼んだ方がいいのかもしれない……。しかし、聞き覚えのある叫び声が聞こえてきて、 玄関の向こうの人物が誰なのか確信する。私は香澄ちゃんの制止を振り切って玄関へと向かう。
「志紀! 志紀ちゃん、志紀さーん! 遠坂さーん! し、シキティー!? ……え、うそ、ま、マジ? 居ないの? まだこっち帰ってきてないの? ……志紀ィイイ! お願い開けてぇえええたすけてェエエエ死んじゃう寒すぎて俺死ぬうう! ちょ、頼むわマジでえええ!」
「おっ岡崎さん!? ……っ、シ、しーっしーっ! 大声出さないでください! ご近所さんに借金取りかなにかと思われちゃうじゃないですか! 」
「あっ……て、てめえやっぱり居留守ぶっこいてやがったな! ま、まぁいいわ。ちょ、ほんとマジ中入れて。死ぬ。凍え死ぬ。暖めて! 俺を暖めて!」
「えっあ、……ってあなたなんて格好してんですか!? コートも着ないで……って裸足!? なっなに考えてんですか! 今真冬ですよ! 雪降ってますよ!」
「いっ色々あったんだよ! う~さみぃさみぃ、 凍傷になるわ。マジで死ぬかと思った……。ちょっと風呂貸してくんない風呂……!」
ズカズカと遠慮なく押し入ってくる岡崎さんを止めることなど出来るはずもない。ガクガクと震えながらリビングへ突き進んでいく岡崎さんを待ち受けていたのは驚愕の表情を浮かべている香澄ちゃんだった。香澄ちゃんは岡崎さんの姿を目にすると「ハァ!?」と声を上げる。
「なっなんであんたが此処にいるのよ! ……まさかっ……志紀! あんたこの男家にあげてんの!?」
「えっあ、うん。たまに……」
「たったまにって……ハァアア!?」
「あり? お前確か志紀の友達じゃん。やぁ~うちの志紀がお世話になっちゃって~……って言ってる場合じゃねぇ! 今は風呂だ風呂! 志紀、タオル貸りるぞ」
「あっはい、どうぞ。でも着替えは?」
「あー……いいわ。今着てるこれしかねーし。これ着とくわ」
「それじゃあ暖めた意味ないじゃないですか。ドライヤーでいいならお風呂入ってる間に乾かしとくんで、下着以外は脱衣所のわかりやすいところに置いといて下さい」
りょーかい、と珍しく素直に返事をした岡崎さんは余程はやくお風呂に入って暖まりたいのだろう。岡崎さんがお風呂に駆け込み、シャワー音が聞こえてきたのを確認して脱衣所に入る。いかにも急いで脱ぎ捨てましたと言わんばかりに乱雑に置かれ、湿り気を帯びた衣服とドライヤーを回収する。リビングに戻ると未だ驚愕の表情をしたままの香澄ちゃんが私に駆けよる。勢いよく両肩をがしりと掴んで思いきり前後に揺さぶった。あまりの力に首ががくんがくんと揺らされ、ちぎれる! 首ちぎれちゃううと悲鳴を上げるも、香澄ちゃんは気にせず私にその場に正座させ、尋問した。
「あんた何考えてんの!? こんなこと天龍……っていうか太刀川に知れたらどうなるか!」
「えっな、なんかまずい?」
「まずいに決まってんでしょーが! バカ! あんたほんとバカ!」
「べっ別に岡崎さんとは変な関係じゃないよ? たまに一緒にご飯食べたりするぐらいで」
「……あんたそれ本気で言ってんの」
「……やっぱりまずいかな」
「ハァアア……ほんっとあんたって子は……世間知らずというか警戒心がないというかなんて言えばいいのか……。どうせ異性として意識してないから大丈夫とか、パッパラパーな考えしてたんでしょうけど……」
「……」
「あのねぇ、どんだけレベルが低くてもあんたは女! そんであいつは男! あんたは突っ込まれるまんこついてて、奴はそれに突っ込むちんこついてんの! ホイホイ簡単に男家あげて犯されたって文句言えないのよ! わかってんの!?」
「おかっ……!? ってちょ、香澄ちゃんおち、落ち着いて……! ちょっと表現が生々しすぎるから」
「なにこんぐらいで顔真っ赤にしてんの? そういうことされる危険があるってことをもっと理解しろこの馬鹿!」
「うっ!? いっいひゃいいひゃい!」
両頬をびょーんと引っ張られ、頬がちぎれるんじゃないかと言うほど伸びに伸ばされる。解放されたころには頬は真っ赤に染まりじんじんと痛かった。
フンと香澄ちゃんは苛立ちを隠さないままソファにどかりと座り、再びゲームを起動させた。こうなった香澄ちゃんは下手に刺激しない方がいい。そそそ、と香澄ちゃんの前にあるテーブルに先程淹れた珈琲を置く。私はドライヤーで岡崎さんの服を乾かし始めた。ブォオオンとドライヤーが音を立てて、湿った衣服を乾燥させていくのを見ながら考えていた。
香澄ちゃんが私のことを心配してガツンと私に言ってくれたことは全て正しい。世話になっている囲いの分際で、男性を招き入れて何をしているんだと見られるのは当然だろう。どれだけ真実であろうともそこにやましいことなどなにひとつありませんだなんて、浮気や不倫の疑惑に拍車をかける常套文句だ。
しかし、香澄ちゃんは、このことが太刀川さんに知れたらとんでもないことになると豪語していたが果たして本当にそうだろうか。 太刀川さんとセックスしていたプロポーションのいい、おっぱいの大きい裸の女性を思い出す。太刀川さんの周りにはあんなに美人でスタイルのいい女性がたくさんいるのだ。その中の一人にすぎない、女としてちんけな私に、ただご飯を一緒に食べる間柄の岡崎さんとの仲を太刀川さんが勘ぐって、香澄ちゃんの言うとんでもないとになるのだろうか。
「オイオイ、女が恥じらいなくちんこまんこ口に出すもんじゃねーぞ。あーあーイヤだね。最近の若者は恥じらいってもんをどこに置いてきちまったんだ。 風呂から出てくるのめっちゃ気まずかったじゃん」
「っ岡崎さん」
「風呂サンキュ。あと服も。新年早々助かったわ」
「いいですから服を着てください服を! っていうか私が服持ってくまで待っててくださいよ! なんで腰にタオル巻いただけで出てくるんですか! 湯冷めしますよ!」
「おーおー顔真っ赤にしちゃってぇ。男の裸見ただけでこれだもんな。このご時世に可愛らしい反応じゃねーの。なぁ?」
ぐいぐいと意地悪な顔でこちらに迫ってくる岡崎さんに顔が熱くなる。ガチガチに鍛えられた身体はしっかりと筋肉が詰まっていてなかなか見応えがある。しかし、あちこちに古傷や生新しい傷跡が見えて痛々しさもあった。腰にタオルは巻いているものの、男性の裸体を近くで見ることにそこまでの耐性はないため、目を手で覆い見ないようにする。しかし岡崎さんはますます面白がって、じわりじわりと私を壁にまで追いつめてくる。その様子を眉を寄せて見ていた香澄ちゃんがちょっとそこの露出狂! と岡崎さんに声をかけた。
「誰が露出狂だ誰が。ちゃんと大事なトコは隠してんだろーが。それともなに? 俺のビッグマグナム見たいの? しゃーねぇ、そこまで言うなら見せてやらんでも……」
「うっさい! そのマグナム暴発させたろか!」
「もうなんなのこのねーちゃん。なんでこんなに俺に当たりつえーの? てゆうか俺の周りの気の強い女、俺に基本厳しくね。もしかして俺のこと好きなの? 愛情の裏返し?」
「志紀。ちょうどよかったわね。初心なあんたに、男のイチモツがどうなってるか学ぶ機会が出来たわよ。すぐにサンプルもぎ取るから待ってなさい」
香澄ちゃんが顔に青筋をたてて岡崎さんの前に腕を組んで立ちふさがる。岡崎さんはそんな香澄ちゃんを、何を考えているか読めない表情をして見下ろしている。ふぅと岡崎さんは息をつき、私の腕の中にあった衣服を取ってその場で堂々と着替え始めた。いや、だから人目のないところで……脱衣所とかで着替えてほしいんだけど……。岡崎さんが腰に巻いたタオルに手をつけたので慌てて後ろを向く。しかし香澄ちゃんは特に動じることなく岡崎さんとの会話を続けた。流石である。
「岡崎ってったわね。あんた志紀に手ェ出そうとか考えてないでしょうね」
「はぁ?」
「ちょっ、かっ香澄ちゃん!? だから岡崎さんとはそういうんじゃないって」
「志紀は黙ってな。いい? 軽い気持ちでその子にちょっかいかけてるってんなら、今すぐ手を引いて志紀の周りをうろちょろしないことね。じゃなきゃ、そのぶらさがってる玉どころか、タマとられるわよ」
「タマタマタマタマほんっと恥じらいのねー女だな。そんなにタマタマ好きならポ●モンのタマタマ乱獲してなさい」
「ちゃんと聞けや! 志紀はもう売約済みなのよ。ちょっとしたことですぐ揺らいじゃう面倒くさい女なんだから。あんたみたいな軽い男が余計な手出しすんじゃないわよ」
「……売約済?」
訝しげな表情をして呟いた岡崎さんに、まずい、ととっさに思った。慌てて二人の間に入り込んで、何か食べたいものはあるかと尋ねる。不自然にも程があるが、岡崎さんに自分が誰かに囲われているという事実をどうしても知られたくなかった。
「あ、あの、香澄ちゃん! もう晩ご飯時だし何が食べたい!? 今から作るからっ。ねっ! 岡崎さんも食べて行かれるでしょ! ねっ! ねっ!?」
「馬鹿志紀。そこどきなさい。あたしはこの軟派野郎と話を」
「俺あったけぇもん食いたい。そうだなー、シチューとか」
「シチューですね! 了解です! ほ、ほら! 香澄ちゃん! ゲームの途中だったでしょ。岡崎さんと対戦でもして待ってて、ね!」
あまりにも必死な形相で訴えてくる私に少しばかり引いている香澄ちゃんは重いため息をついて私にデコピンをし、ソファに戻っていった。ほっと安堵の息をつき、ひりひりとするおでこをさする。キッチンに向かう私を、岡崎さんがずっと見つめていたなんて私が知るはずもなかった。
シチューに必要な材料を切っていると、そこそこ盛り上がってる岡崎さんと香澄ちゃんの声が聞こえてきた。決して穏やかなものではないが、なんやかんやで格闘ゲームにお互い奮闘しているらしい。度々どちらかから勝利の咆哮と苦渋の呻き声が上がる。
しかしながら気のせいだろうか。岡崎さんに関してはなにか、無理に盛り上げている、というかわざとテンションを上げている。いやにそわそわしていた。何度かスマホを確認もしたりして落ち着きがない。
具も炒めスープをつくり、あとはシチューを煮込むだけという段階になる。いつのまにこちらまで来ていたのか、背後からが岡崎さんが鍋をのぞき込んでいた。
「なんかいいな、こういうの」
「……? 何がですか」
「いんや。志紀は将来いい嫁さんになるだろうなって」
「……は……」
え、とぽかんとした顔を限界まで赤らめ明らかに動揺している私に対し、当の発言者の岡崎さんは特に意識はしていなかった様で、何ともなさげな顔をしてシチューに入っているお肉が少ないことにちまちま文句を言っていた。しかしてこれを聞き逃すことのなかった香澄ちゃんが、またも怒りマークをいくつも顔にはこびらせ、岡崎さんを強く睨みつけた。
「そういうこと言って無駄にその子惑わすなっつってんの! 話聞いてた!?」
「あーもう、ひとつ言えば50返ってくるな! なに? 俺に四六時中黙ってろってか? 無理よ。俺から口取ったらイケメンしか残らねーじゃねぇか。世の女共が黙っちゃいねーよ」
「この……っぴーちくぱーちく鈴虫みたいに囀りやがって! こんの××××! ×××××!」
「かっ香澄ちゃん。ほんとにだめ。それ以上は。女の子、あなた女の子だから……!」
フーッフーッと鼻息荒く岡崎さんに今にも殴りかかりそうな香澄ちゃんを、ガスを止めて慌ててどうどうと羽交い締めにする。ここまで香澄ちゃんを荒ぶらせるということは、余程岡崎さんと香澄ちゃんの相性は悪いのだろうか。エスとエスがぶつかりあうと反発するというし。結構気の合いそうな二人だと思っていたが、そうでもないらしい。ぷすぷすと怒っている香澄ちゃんを見て、岡崎さんは面倒くさそうな表情をする。安心しろよと落ち着いた声を発した。
「志紀に手ェ出そうなんてんなこと微塵も考えちゃいねぇよ。考えたこともねーや。だって俺のタイプから程遠いし? もっと色気のあるボンキュボンの積極的なねーちゃんが好みだし。真逆だし。まぁそいつがそういう風に成長するってんならわかんねーけど、望み薄であろうことはわかりきってるし。ていうか俺ロリコンじゃねーし」
ただ危なっかしくてほっとけねぇってだけだし、と灰色の頭をかきながら、ほんとうに意識してないという顔をしていた。何ともなしに呟かれた言葉に、ドス、と心臓をナイフで刺されたかの様な感覚に陥ったのは私だった。刺された部分からじわりじわりと血が広がる様に負の感情が広がっていく。……なにこれ。なんでこんな気持ちになってるの。なんで、なんで。
香澄ちゃんもあまりにもあっけらかんとした岡崎さんの態度に何か思うところがあったのか、香澄ちゃんの身体を羽交い締めにしていた、殆ど力の入らなくなった私の腕をほどく。これで収まるかと思っていたらそうではなかった。
「それにしたって、お前やけに牽制してくんな。いくら友達だからってそこまで威嚇してくるか? ひとの色恋沙汰に他人が茶々入れるのは野暮っても……」
は、と岡崎さんが何かに気付いたのか目をぱちくりとさせて香澄ちゃんをじろじろと見つめる……というよりは観察する。あまりにも不躾な視線に香澄ちゃんがたじろぐ。
「もしかしてお前……」
「……なによ」
「あー、うん、なるほどな。俺ァそっちは逆だと思ってたんだけど。そうかそうか。そりゃあ警戒するわな。まあ、うん」
「っ何よ! まどろっこしいわね! 言いたいことがあるならさっさと言いなさいよ! 男でしょ!」
「言ってもいいなら聞くけど……対象は女なの?」
パン、と乾いた音が響いた。空気が一気に冷え込む。目の前で起こった光景に呆然とする私。平手打ちされた方向に顔を向けたままの岡崎さん。そして平手打ちをした、真っ青な顔色で無表情の香澄ちゃん。誰も声を発さない。ピリピリとした重すぎる静寂が流れた。
少ししてから香澄ちゃんに志紀と呼ばれ、反射的に、はひ! と上擦った声で返事をする。
「ゴメン。あたし今日は帰るわ」
「え? あ、でも泊まるって……」
「用事思い出したから。ご飯作って貰ってからで悪いけど」
「あ、ううん……それは、別に……」
ほんとごめんと、コートを着始めた香澄ちゃんになんと声をかけてよいのかわからない。荷物を手にした香澄ちゃんは一切岡崎さんの顔を見ずに、玄関へ行きそのまま出て行ってしまった。
残された私と岡崎さんの間に再び訪れたのは気まずい沈黙。しかして私も友達があんな風になって黙っている訳にもいかない。岡崎さんはぶたれて赤くなった頬を隠すことなく、いつものように無気力な感じで首の後ろをぽりぽりとかいていた。
「……香澄ちゃんに何言ったんですか? 対象って、どういう意味だったんですか」
「別になんも?」
「なんも、な訳ないでしょう? 私あんなに動揺した香澄ちゃん見たの初めてです」
「……」
「香澄ちゃんは、性格はちょっと厳しいところもありますけど、何の理由もなしに人を叩いたりするような子じゃないんです」
「……」
「岡崎さん」
「あーもう、わーってるよ! ……ちょっとほじくっちまった。今回は俺に非がある。俺が言ったこと、お前は深く考えじゃねーぞ。あのねーちゃんも、これ以上突っ込まれたくねーだろうし。お前もビンタされるぞビンタ」
「……」
「お前は気にすんな。今度あのねーちゃんに会ったとき、自分で詫び入れとくから」
いちち、と頬をさすり、岡崎さんはつけっぱなしだったゲームの電源を落とす。私もスッキリとしないもやもやを抱えつつ、ガスをつけてシチューを温め直し始めた。
なんとなく沈黙が続く。コントローラーなどを全て片づけ終えた岡崎さんが、なぁ、と私に声をかけた。
「質問があんだけど、ちょっと聞いていい?」
「なんですか?」
「お前、あのねーちゃんと付き合いなげーの?」
「仲良くなってもうすぐ一年ぐらいです。お仕事が同じで、よく助けて貰ってるんです」
「へぇ。 よく泊まりにくんの?」
「次の日がお休みで予定が合ったときは……。変則勤務なので、ほんとうにたまにですけど」
「ふーん」
私の方が香澄ちゃんとの付き合いが長いにも関わらず、二回会っただけの岡崎さんは私の知らない香澄ちゃんの何かに気付いた様だった。……私の知らない香澄ちゃんか……。よくよく考えたらたら私、香澄ちゃんのこと何にも知らない。好きなもの嫌いなもの、趣味はゲームだとか、プロフィールなどに書かれていそうなことは知っているけれど、どこの生まれだとか、どうしてこの仕事をしているんだとか、香澄ちゃんの根本的なことは知らない。会って間もないとき、同い年か少し上かなと年を聞いたことはあるがはぐらかされてしまい、香澄ちゃんの実年齢だって未だに知らない。
あの旅館で働くひと達は、私も含めて訳ありの人が多い。あんまり追及しちゃ駄目かな、と香澄ちゃんに対して踏み込んだことを聞いたことはなかった。少し寂しい気もするが、私だって香澄ちゃんに隠し事をしている。それでも、いつもぎゃいぎゃい言いながらも親身になって私の話をいつも聞いてくれる香澄ちゃんだが、香澄ちゃんが私に何か相談をしたことは一度もない。いつも大丈夫とだけ返されるのだ。私では香澄ちゃんの助けにはなれないのかな。自分の頼りなさがいやで仕方なかった。
「……で、岡崎さんは何があったんですか。あんな格好で……。下手すりゃ死んでましたよ」
「あの飲兵衛女に追い出されたんだよ」
「えっ……。し、シラユキさんに何したんですかあなた!」
「チョットマッテー! なんで俺が先になんかしてる前提なの。お前、俺の凍え震える様見てたよね。なんかしでかしたってよりなんかされた方だよね俺」
「……なんで追い出されたんですか」
「あいつの男がえらい剣幕で家にいきなり来て、俺の姿見るなりギャーギャーギャーギャー赤ん坊かお前はってぐらいに暴れるわで喚いてんだよ。修羅場だ修羅場」
「え、えぇ……」
「で、あいつが彼氏と話つけるから暫く出てろって、上着も靴も履く間もねぇ内に外に出されたんだよ。金も家だから、どっか入ろうにも入れねーし。皆不審者を見る目でこっち見るし」
「お、おう……」
「あの彼氏も人の話全く聞かねぇタイプだし。飲兵衛女はプッツンして銃取り出してぶっ放そうとするし。悲惨の悲惨」
「ふぁっ!? じゅ、じゅー!? ちょ、そ、それヤバいじゃないですか! と、止めなきゃ、いや、け、警察……!?」
「大丈夫だって。カタギに発砲するほどあの女馬鹿じゃねぇだろ。……たぶん」
「たぶん!?」
「……俺が原因なんだから俺から説明するっつってんのに、余計なことすんなとかキレやがって……」
一瞬、息が止まる。顔を背けてぽつりと呟いた岡崎さんの横顔はとても寂しげで、そして真剣なものだった。……始めて見る岡崎さんの表情だった。
「シラユキさん、大丈夫かな……」
「ま、まぁ、あいつも銃持ってるし。大事になる前に始末はつけてんだろ。いい大人だしな」
「……」
「……あいつにも色々あんだよ」
なんて言いつつも、出来上がったシチューを食べてる最中も岡崎さんは落ち着きがない。そわそわと時計を確認したり、スマホを数分おきに見たり、部屋の中をあっちこっちへ行ったり来たりしていた。なんか落ち着き無いですよトイレですかと聞くとちげーよと言いながらもトイレに入ったりもした。 気にしている。 明らかに気にしている。なんでこのひとは素直になれないのだろうか。本当はシラユキさんが心配で心配でたまらなくて、今すぐにでも家に戻りたいだろうに。
「岡崎さん。お願いがあるんですけど」
「は、はん!? な、なに!?」
「シラユキさんを助けてくれませんか」
「……」
「私が心配なんです。何かあってからじゃ遅いし、シラユキさんも女性だから……。私からのお願いです。だから岡崎さん」
私があなたの背中を一押しするから。あなたがシラユキさんのところへ戻る理由に、私がなってあげるから。あなたはあなたがしたいことを、正しいと思うことを選んでほしい。岡崎さんは呆気にとられた顔をしたけれど、すぐにいつものなんてことない表情に戻った。
「……そこまで言われちゃあ仕方ねぇな。めんどくせぇけど介入してくるか~。めんどくせぇけど。頗る面倒くせぇけど」
「はい。お願いします。岡崎さんにしか頼めませんから」
「そうだな。ま、俺にも一因はあるわけだし。ついでに死にかけたこと文句言ってやらぁ。コート借りていい? 着れなくても上からかければ寒さは凌げるだろ。あと裸足はきちーからサンダルも」
「サンダル? 靴じゃなくて? ……あぁそうか、私のサイズじゃ入らないか」
「裸足よりはマシだからな」
「靴下ぐらい履いてくださいよ」
「俺靴下嫌いなんだよ。なんかに足包まれんの窮屈じゃん」
「足冷やすとよくないですよ」
さみーさみーと言いながら、比較的大きめのコートを上から掛け、サンダルを履く岡崎さんを玄関まで見送る。ドアノブに手をつけた岡崎さんが一度私の方に振り返り、私の目元にそっと触れた。どきり、と胸が鳴ったことに気づきたくなかった。
「お前、またやつれ始めてんぞ」
「そ、そうですか? 気のせいですよ」
「まーた仕事でなんかあったのか。なんなの? 前回もだけどお前ブラック企業で働いてんの?」
「黒くないです。前のアレは……私の不手際が原因だったんです。気になさらないでください。今も少し疲れてるだけですから」
「ふうん? ……なんかあったらすぐ電話しろよ」
「……はい」
「……志紀」
「……」
「ありがとな」
バタンとドアが閉まるなり、岡崎さんが走り去る音が扉の向こうから聞こえてきた。思わず小さく吹き出す。そして、虚しくなった。
岡崎さんは、自分の身近で困っている人が居たらなんやかんやと言いつつもほっとけないのだろう。岡崎さんは誰にでも平等だ。誰にでも厳しく、誰にでも優しい。
あの日、桜の木の下で出会ったのが私でなくても、岡崎さんはきっと今の私と同じように接した。私でなくても、それは変わらないのだろう。きっと、私じゃなくても、良かった。
よたよたと部屋に戻り、棚にある現金を確認しにいく。戸籍がないので貯金通帳はつくれず、お給料は全て現金で貰っている。やっと慣れてきたこの時代のお金の計算をし、私の世界に帰るための京都への交通手段の経費にはまだまだかかるなと息をついた。
私のいた時代とはべらぼうに、今はものすごい交通費がかかる。貧富の差が激しく、旅行などそうそう簡単にいけるものではない。予定金額までまだ程遠いが年内には間に合うはず。あとは現地に行って、私が帰れるかどうか、帰るためのヒントを探すだけ。京都に行ったはいいとして、何の成果も得られなかったらどうしよう。 実際、あと一年では片道分の金額にやっと到達する位で、行ってしまえばもうこちらに戻ってくる手段はない。 最悪、宿無しになる可能性だって……。
ふるふると頭を振る。大丈夫、大丈夫だから、と言い聞かせる。少しでも希望を持たないと気力が持たない。帰りたい。私はとにかく一刻でも早く私の家に帰りたかった。
この世界で過ごす上で心の支えになっている香澄ちゃんに『だいじょうぶ? 岡崎さんが言い過ぎたって反省してた。今度会ったときに謝りたいって言ってたよ。無理しないで何かあったら言ってね』とメールを送っておいた。返事はすぐにやってきて開いてみると、予想通りの一文が、そこには入力されていた。
返ってきた返事はやはり『大丈夫』だった。
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