運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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鳥籠へお戻り

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 汗と香水と、青臭い何かが入り混じった変な匂いがする。それは情事を終えたお客さまのベッドのお片付けをするときに匂うものと同じ類だった。逃げ出したい。私の腕を掴んで離さないこの冷たい手から。私を睨みつける女性の視線から。


「ご、ごめんなさい。私覗いてた訳じゃなくて……その」

「太刀川さん、なぁにその女。新しい遊び相手?」


 女性が長い髪をかきあげる。豊満な乳房がたゆんと揺れ、扇情的な光景が目に入る。真っ裸の身体を隠そうともしない。枕元においてあった煙草に火をつけ、女性は一服し始めた。恥じらいの無い女性の姿に辟易する。人に裸を見られているというのに、恥ずかしいとは思わないのだろうか。真っ赤な紅が塗られた唇は煙草をくわえ込み、ふーと白い煙を吐く。女性は長いバサバサの睫をパチパチとさせて、私の頭の天辺から足先までじろりと眺める。鼻で笑い、勝ち誇った表情(かお)をした。


「なんなら3Pでもする? 女は趣味じゃないけど、太刀川さんがシたかったらあたしは構わないわよ」


 まだまだヤり足りないし、と厭らしく笑う女性に血の気が引いた。なんて提案をしてくれるんだこのひと。いやだ、そんなことしたくない。

 何も言わない太刀川さんの顔を見上げる。太刀川さんの藍色の瞳はただ私を見下ろしていて、何を考えているのかわからない。でもこの男性ひとが是と言えば、私の様な非力な女が抵抗など出来るはずもない。簡単にひん剥かれてしまうことはわかりきっていた。

 私の腕を掴む大きな手に縋る様に触れ、首を振る。おねがい、いやだ。あの女性の言葉に耳を貸さないで。私は出て行くから、続きをするなら2人でやってよ。邪魔なんて絶対にしないから。太刀川さんは脅える私を見てほくそ笑み、私の頬に手を添え撫ぜた。


「帰れ」


 私の顔を見ながら吐き出された言葉は氷のように冷たかった。なのに藍色の瞳はとても熱い。そのちぐはぐさにぴしりと身体が固まる。女性は満足そうな表情をして再び煙草を吸った。


「聞いた? お嬢ちゃん。太刀川さんとあたしはまだこれから楽しむんだから。いつまでもそんなとこに突っ立ってないで、さっさとここから出てい……」
 
「何勘違いしてやがる」


 太刀川さんは言葉を紡ぎながらも、まるで犬か何かを愛でるように私の目元やら唇や髪に触れて、尚も女性の方を振り向かずに切り捨てる様に言い放った。女性はえ? と素っ頓狂な声を上げる。そして自分に言われたのだとわかると顔を真っ赤にして「なッなんでよ! まだ四回しかしてないじゃない!」 と吠え立てた。十分だろ! と突っ込みたかったが、そんな雰囲気ではない。


「もうお前に用はねぇ。手切れ金なら若い衆に用意させてある。もう二度とここに来るな」 


 それを聞いた女性は今まで余裕綽々だった表情を一変させた。美しい顔が焦りと悲壮に崩れる。まだ火のついた煙草を投げ捨てて、惨めに太刀川さんの足元までやってきて刺青の施された御足に縋りついた。太刀川さんはやっと私から手を離し、足元で泣き叫ぶ女性を見下ろす。私は一歩下がって、ドラマのワンシーンの様な光景をただ黙って見ていることしか出来ない。


「……いっ嫌よ! どうして? あたしもう太刀川さんが居ないと生きていけない。アナタじゃないとイけない! お願い太刀川さん捨てないで! アナタの為になら何でもするわ! アナタしかいらないの! おねがい……愛してるの!  あ、あたし太刀川さんが居ないと死んじゃう……!」


 ひとりの女性が、プライドも何もかもを投げ捨てて全てを太刀川さんに捧げようとしていた。本当に、太刀川さんを愛しているのだろう。その壮絶で必死な表情からわかる。ずっと涙を飛び散らせながら女性はお願いお願いと太刀川さんに縋っている。ひとひとりをここまで恋情に狂わせる太刀川さんを恐ろしく思った。未だ太刀川さんから何のお言葉もかけてもらえていない女性に同情すら覚えたが、女性の言葉を聞いてうっすらと口を開いた太刀川さんが次に発言した言葉に、絶句することとなる。


「じゃあ死んで見せろ」


 じめじめとしていた空間が、一瞬で凍てついた。

 今、このひとはなんと言った? 呆然とした私とそれ以上の衝撃を受けただろう女性は、「え……?」とか細すぎる声を漏らした。太刀川さんは先程まで女性と睦み合っていたお布団を、くい、と顎で刳った。正しくは、お布団の側に置いていた太刀川さんの日本刀に目を向けさせた。


「よく切れる上等の刀だ。オメェに貸してやるよ。それで腹切れや」

「そん、な」

「俺の為に死ねるんだろ? オメェがそう言ったんじゃねぇか」

「あ、あ……」

「介錯ぐらいはしてやるよ」 


 太刀川さんは刀を取りに行き、手慣れた動作で鞘から抜いた。刀身が怪しく光り、己は人を殺す道具であることを主張した。女性は茫然自失として絶望し、涙をだらだらと流した。魚のように口をパクパクとさせている。刀身を見つめた太刀川さんは刀を再び鞘に収め、柄の部分を女性に向けた。自分で抜け、と無言で催促している。あまりにも、あんまりな光景だった。先程まで、体を熱く重ねていた二人とは思えなかった。

 太刀川さんは、本気だ。 藍色の瞳はどこまでも冷たく、そしてどうでもよさげだった。女性は真っ白な顔をして脅えている。女性は言葉にならないうめき声をあげてうずくまった。太刀川さんの為に命を捨てることは出来ないことを物語っていた。興ざめだと言いたげに太刀川さんはため息をついて、刀を持ち直した。


「緩いんだよ。頭も、身体も、何もかも。元から期待なんざしちゃいねぇが、興醒めだな」

「太刀川さん」
 

 太刀川さんがだらりとした動作でこちらに顔を向けた。その手にある刀を、今度はこちらに向けてくるかもしれない。怖いけど、手が震えて仕方ないけど、ぎゅうっと爪の痕が残るんじゃないかという程拳を握りしめ耐える。口を、出さずにはいられなかった。これ以上、この女性の心を抉ることばを聞いていられなかった。哀れで、惨めな女性を見過ごせなかった。何よりも、やることやって、用が済んだら罵って、そんな風に女性を粗雑に扱う太刀川さんが、許せなかった。


「も……もう、やめてください」

「……」

「いくらなんでも……ひどすぎます」


 涙が出てきた。悲しくてやるせなくて。ひとをひととも思わない、平気でひとを傷つける言葉を紡ぐひとは大嫌いだ。軽く吐き捨てた心無い言葉たちが、どれだけ相手を傷つけるか考えもしないひとなんて。簡単に、死ねなんて残酷なことばを吐ける人なんて。

 女性は嗚咽を漏らしながら、散らばった服をかき集め、お座敷をよろよろと出て行った。残されたのは私と太刀川さんの2人だ。お互いに言葉も発さないし、私も立ちすくんだまま動けない。ここは私の知っている離れではない気がした。

 もうどうしようかな。このまま私も出て行っていいかな。背中を向けた途端に斬り捨てられたりするのかな。怖いよ。痛いのはいやだ。でも逃げたい。逃げ出したい。逃げたい、という思いが頭を支配し、片足が一歩下がる。それをきっかけに体全体に力が入る。座敷を出て行こうとした瞬間に太刀川さんがストップをかけてしまった。ピタリと身体が停止する。


「志紀」

「……」

「風呂に行ってくるから待ってろ。……逃げるんじゃねぇぞ」


 そう言って太刀川さんは私の横を通り過ぎ、座敷を出て行った。キシキシという足音が遠くなるのを聞き入れて、その場にへたりこむ。頭をがしがしと掻き乱す。この、悲しいのか憤ってるのか、それとも叫びたいのかよくわからない、どうにもならない感情を誰かにどうにかしてほしかった。ふっと頭に浮かんだ岡崎さんの顔に、声を上げて泣きたくなった。

 このままへたりこんでいても仕方がない。いつまでもこんな不衛生で淫靡な残り香のする空間にも居たくない。乱れたお布団に散らばった情事の痕や塵を見てそう思った。

 気持ちを切り替えるためにも……掃除しよう。母屋はともかく、離れに関してはどこに何があるかは程々にわかる。太刀川さんがお風呂から戻ってくる前に綺麗にして、少しでも落ち着かなければ。こういうときの後処理だけは手慣れている自分に良かったと思えばいいのか悲しめばいいのか、よくわからなくなった。

 お部屋の籠もった匂いを消そうと、寒くはなるが縁側の障子を開ける。シーツを剥がし、お布団を片付け、塵をゴミ箱に捨てていく。そこで気づいたことがある。

 こういう行為においての必需品が見当たらない。変態臭いが、ゴミ箱を覗いてみてもやはり無い。流石に……呆れた……。

 粗方の掃除を済ませる。障子も閉めて暖房器具をつけなおす。締めに、微妙に残っていた性の残り香を打ち消すため、消●力をシュッシュと振りまいた。自分に余裕を持たせるため、なんとなく銃の様に構えてあちこちに勢いよく消臭剤という弾を撃つ。そうして消●力パワーを試していると、やはり私はタイミングが非常に悪い人間の様で。思い切りかっこつけて構えたポージングの最中に、肩にタオルをかけたお風呂上がりの色気マシマシ太刀川さんが障子を開けた。

 お互い、しばしの沈黙が走る。いっそ突っ込んでくれたら気が楽なのに、太刀川さんはポージング中の私を黙って見ている。私は汗をだらだらと流しながら手にしていた消●力を一度シュッとした。




 少し距離を開けて座る私たちの間に言葉はない。斜め前に座る太刀川さんは、ほんの少し開けた障子から見える縁側の庭を眺めている。太刀川さんの横顔をちらりと観る。綺麗なラインを描いた横顔だった。きちんと渇かしていない濡鴉の黒髪からは時折ポタポタと水が滴っている。いつもちゃんと乾かしていないのだろうか。なのにあのサラサラの髪質を保っているだなんて世の中は不公平だ。

 ただただ、時間だけが過ぎていく。気まずいが過ぎる。しかしてあんなことがあって、私から声を発しろなど酷なことを言わないで頂きたい。先程までこの場から逃げ出したいとしか考えていなかった人間にそれは土台無理な話だ。そんな私の気持ちを汲んでなのか、太刀川さんはやっと声を発してくれた。


「オメェは」

「……」

「俺に何か言うことはねぇのか」


 何か、とは何だ。なんて聞くほど鈍感じゃない。先ほどの女性との行為を目撃して、私がなにかしらの文句や苦情を吐露すると考えてのことだろう。そりゃあそうだ。どういう意図があってのことかはわからないが、太刀川さんがわざと積極的に、私にあのねっとりとしたおせっせを見せつけたのだということに気づいている。確かに、多少は、いや、かなり怒っている。なんてものを見せてくれたんだ。ひとに見られるプレイをしたいなら、そういうことを好む輩として下さいと言ってやりたかった。猥褻罪だと主張もしたかった。でも、何よりも私が言いたいのはもっと重要なことで、こんな小娘でもわかっている大事なことなのだ。 


「……太刀川さんって、お子さんは居ないんですか?」

「……認知してる範囲内ではな」


 なんてこった。 誰かが言ってやらないといけない。例えこんなちっぽけな小娘であろうとでも発言権が与えられたのだ。言え、言ってやるんだ。ごくりと、つばを飲み込む。


「……ひ、避妊はちゃんとなさってください」

「……」

「いつも、生意気なことばかり言ってごめんなさい。でもやっぱり、大事なことだと思います。太刀川さんにとっても、相手の女性にとっても。……太刀川さんにはただの遊びの一貫でも、私達はそうはいかないんです。もし、もしも子どもが出来たりしたら、自分とは別の命を女性は背負わないといけないんです」

「……」

「そういう行為をするな、なんて私は言いません。それは太刀川さんの自由ですから。でも最低限のエチケットも守れない人は、……さ、最低だと、思います」


 もしも、先ほどの女性が身ごもっていたらどうするんだと、その可能性を考えただけで肝が冷える。おそらく、太刀川さんにあれほどの言葉をかけられ打ちのめされて、再び太刀川さんに会いにくるだなんてことは余程の勇気が無ければ無理だろう。つまり、太刀川さんの精を受け彼女の中に宿った命は父親を知ることなく生きていくことになる。それどころか、あの女性の考え次第では、生まれることすらも叶わなくなることだってありうるのだ。そんな悲しいことを簡単に引き起こしてはいけない。私はそれを、女将さんから教わった。


「だからその、避妊は必ずしてください。ちゃんと、いちばん大事だってひとを見つけるまでは」

「……」

「……太刀川さん?」


 心なしか眉根を寄せ、沈黙したままの太刀川さんを見て、まずいと思った。たぶん、私の反応は太刀川さんの期待に添えなかった。

 いっぱしの小娘が何をいっちょ前に説教してんだとイライラされたのかも。見るからに不機嫌なオーラを醸し出した太刀川さんに、心臓はバクバクと煩い。不機嫌な太刀川さんは怖いし苦手だ。以前京都に行きたいと言ったときの暴挙を思い出す。あの出来事は今だって忘れられないトラウマだ。本当に怖かった。

 太刀川さんは藍色の瞳を私に向けた。そして、私が太刀川さんに最も話題にしてほしくないことを、私の心を抉ることを遠慮なく話し出してしまうのだ。

 
「聞いたぜ。お前、鏡花を助けるつもりが逆に追い込んだんだってな」

「……」

「オメェも、大人しい顔してなかなか酷いことをするじゃあねぇか。それとも、目障りな奴を消すための策の内だったか」

「な、違います……! そんな言い方、やめてください!」


 脅えながらも弱々しく声を吐き出し否定した私を、太刀川さんは無情にも鼻で笑った。


「せっかくオメェが身を挺したっていうのになぁ。水の泡じゃねぇか」


 とんとん、と己の隣を指で指す太刀川さんの姿を見て恐怖心が増していく。こっちにこい、と言外に命じられている。今の太刀川さんは虫の居所が宜しくない。何をしてくるか本当にわからない。硬直した体が動いてくれない。いつまでたっても動こうとしない私に、痺れを切らした太刀川さんが言うことを聞かない子供を叱るように志紀、と私の名前を呼んだ。カクカクと震えながら、重い身体を太刀川さんの隣まで無理やり引きずった。

 やっとの思いで隣まで辿りつくと、太刀川さんは私のうなじに手をやり、するりと撫でる。くすぐったくて、手が冷たくて、ぎゅっと目を閉じて耐える。


「忘れてねぇだろ?」


 耳元に囁いてくる低音に、熱い吐息が混じり込む。耳の中に入り込むその吐息がこそばゆい。湿り気を帯びた太刀川さんの髪が頬に当たる。


「あと一年だ。あと一年は自由にさせてやるよ」

「……」

「お前が呑んだ条件だ。結果は知ったこっちゃねぇが、俺に対しての義理は通せよ」


 いち、ねん。頭が真っ白になる。覚悟をしなければとは思っていたが、実際に期間を定められるとこんなにも焦りが襲いかかってくる。

 女将さんを会合に呼んで貰う為に出された条件。それは太刀川さんの居る日本家屋、天龍組の本拠地に戻ることだった。


「仕事も辞めろ。もともとお前は働く必要なんざねぇんだ。こっちで大人しくしてりゃあそれでいい」

「でっ、でも、それじゃ、私お世話になってばかりで……っう!」

「へぇ……たがえる気か?」


 後ろ髪を掴まれ、無理矢理上を向かされる。冷たい藍色の目が至近距離で私を見下ろす。ひゅっと息が止まった。怖い。


「志紀、オメェの目の前に居るのは誰だ? どういう立場の男か、もう一度よく考えてみろ」

「ごっ……ごめんなさ」

ヤクザと交わした約束を破るってんなら、それなりの落とし前をつけて貰わなくちゃなるめぇ。どうしても嫌だってんならそうだな……。指一本で許してやるよ。どっちがいい。選ばせてやるよ、志紀」


 指一本。この日本家屋で指が五本揃っていないひとを数名見たことがある。ときには、五本の指が全て無いひとも。

 このひとは、やると言ったらやる。冗談なんかじゃない。ヤクザの世界なんて未だによくわからない。わからないけど、冗談でしょ? と思う脅しを本当にやってのける。それが当たり前の世界で生きてきたひとなんだ。指を切り落とされる私の姿をイメージする。今まで自分の意志で動いていた指が切り落とされ、自分のものでなくなるその瞬間は、喪失感なんてものではないのだろう。痛くて、それどころじゃなくて、恐怖心でいっぱいで、切り落とされた後も、指のない手を見てはそのときの瞬間を思い出して生きていくのだとしたら。……私には耐えられない。

 手で顔を覆い、ごめんなさいとだけ繰り返す私に、太刀川さんはため息をついた。そして、私の頭を抱き寄せる。叱られ、しょげかえった子供を慰める様に撫でた。私は涙混じりに、手で顔を覆ったせいで籠もりがちな鼻声で、なぜなんだと声を漏らした。


「どうしてなんですか……」

「……」

「どうして、私なんかにそこまでするんですか……」


 あなたこそ忘れてないですよね、と鼻をすする。目の前の上等な渋い色の着物を私なんかの体液で汚してはならないと、やんわりと太刀川さんの腕から離れる。


「太刀川さんは、忘れてないですよね……。私が、過去から来た人間だって……」


 私がこの世界にやってきて、自分の生まれた時代ではないと知ったとき、混乱状態で目の前にいた太刀川さんに自分の素性を全てペラペラとぶちまけた。ここはどこですか。今何年ですか。どうしたら帰れますかと、パニックになってまくしたてたのを今でも覚えている。太刀川さんの後ろに控えていた西園寺さんが、ひどく呆れた表情をしていたのも鮮明に思い出せる。余程必死な、惨めでみっともない姿だったのだろう。 あの時点で頭のおかしい女と思われても不思議ではないし、もしかしたら本当に敵の回し者と判断され、即座に斬り殺されていたかもしれない。今でも、あのときの自分の浅はかな行動にゾッとする。

 それでも、今こうして私が心臓を動かし息をしていられるのは、太刀川さんが私のことを匿ってくれているからだ。突然目の前に現れた女に妙なことをまくしたてられ、イカレた女だと、目の前の太刀川さんだって考えたに違いないのに。どうして、どうして。一度出てしまうと、せき止められなくなった言葉たちが次々と生まれてくる。それこそ、自分の正体を明かしたときのように。


「お、おかしいですよ。だって、もうすぐ一年にもなるんですよ。一年もそんな得体の知れない女を置いとくだなんて、ど、どうかしてます」

「……」

「それに、う、嘘かもしれませんよ! だって頭おかしいじゃないですか。タイムスリップだなんて、ドン引きものですよ。普通有り得ないですよ。警察に突き出してもいいくらいですよ。そうだ、私もしかしたら元の世界で死んじゃって、おば、お化けとかになっちゃったのかも……。なのに、なん、なんで太刀川さんは……なんで……!」

「それがなんだ」

「……ぇ……」

「どうでもいいんだよ、そんなこと」


 太刀川さんは私の胸倉をがしりと掴み、顔を近づけた。首が締まる程ではないが、ここまで乱暴な扱いをされたのは初めてだ。太刀川さんの、どうでもいいという発言と粗暴な行動に驚いている私を気にすることなく、太刀川さんは低く重い、はっきりとした、槍の様に鋭い物言いで私を貫いた。


「オメェが過去の人間だろうと化け物だろうと……例え腐った屍だろうが、 俺はオメェを手放す気なんざ微塵もねェんだよ」

「……は……」

「志紀、忘れるな。お前のその身体も、心臓も、感情も、命も、骨の髄まで全て、余すことなく俺の物だ。……誰にも渡しゃしねぇ。もう、二度と」


 甘い言葉に思えるだろう。しかしそこに甘さなんてひとつもない。あるのは支配されることに対する恐怖心だけ。言葉の通り、私の全てを食らいつくそうとするこのひとが、ただ恐ろしいだけ。

 私を押し倒し、頬を撫でてくるこの手も冷たくて。覆い被さって噛みつくように合わせてくる唇も何もかもが獰猛で。舌を絡められて上手く息ができずもがく私を、太刀川さんはずっと、その藍色の瞳で逸らすことなく見つめていた。どんな一瞬の私も逃がさないと言いたげに。

 帰らなきゃ。なんとしてでも。私に残された猶予は少ない。たったの一年しかない。早くなんとかしなきゃ。 さもなければ、一生ここで、太刀川さんに飼い殺しにされてしまう。

 このひとに私の全部、 遠坂志紀という人間が奪われる前に、この男性ひとから逃げなきゃ。
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