運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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あなたの隣を歩くことが、こんなにも

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 がやがやと賑やかな声があちこちから聞こえてくる。皆、仕事からの解放感でいっぱいになり、それぞれ飲んで食べ騒いでと、溜め込んでいたストレスを発散している様だった。そして、この女性ひとも。


「どぅわーーから言ってやったのよ! 卵かけご飯にかけるのは醤油だって! それ以外は邪道だって! やたらと小洒落たモンは不要だって! ぬぁのに岡崎のやつ! 卵かけご飯はめんつゆ半分醤油半分かけたのが一番うまいーなんつって、アタシの卵かけご飯にもかけやがったのよ! 邪道よ! あいつは卵かけご飯の敵よ! 美味しかったけども!」

「(玉ねぎポンズ派なんて言えない……)」

「大雑把かと思いきや意外とネチネチネチネチ細かいし、アタシの部屋には入るなっつーのに勝手に掃除されてるし、隠してた名酒も飲まれるし置いといた秋限定まろんプリンは食われるし、あんにゃろー! 思い出したらますますムカついてきたー! 店長! 熱燗とビール追加ァ!」

「あいよー」

「……あ、あのシラユキさん」

「ん? あぁそうか。もうからね! 店長! この子には林檎ジュースしくよろ!」

「あいよー」


 ビール瓶をひっつかんでグラスにも注がず、ぐびぐびと勢いよく飲み干し「ブッハァー!」と満足そうに声を上げる目の前の人は誰だ。お、おかしいな。私シラユキさんにお茶に誘われた筈なんだけど……。

 テーブルの上に並べられた焼き鳥とおつまみの数々。そして今し方運ばれてきた追加のビール瓶と熱燗を眺める。お茶なぞどこにもなかった。

 シラユキさんに連れて来て貰ったのはお洒落な喫茶店でもレストランでもバーでもなく、お仕事を終えたサラリーマンのおじさん達がたくさんいる、賑やかな居酒屋だった。畏まった場所ではないとは言っていたけれど、まさかシラユキさんがこういったお店に出入りしているとは思わなんだ。林檎ジュースを一口飲んで、気を落ち着かせる。他人と同居する上での不満と鬱憤はシラユキさんの中で散り積もっていた様で、愚痴が出るわ出るわで止まらない。こういうときは黙って聞いてあげて、うんうんと頷いておくのが一番だろう。

 ある程度落ち着いてきたのか、シラユキさんは日本酒を口に含み、赤らんだ顔で熱い息を吐いた。ぺろりと唇を舐める動作が艶やかでどきりとする。こちらを流し目で見て、顔にかかった髪を耳にかけ、「そ~れ~に~し~て~も~」とニマニマとした顔で向かいの席から私の隣に移動してきたシラユキさんにどきまぎする。いいにおいがした。近距離に慌てていると、つんつんと頬をマニキュアの施された爪で優しくつつかれる。


「いいわねぇ~。若いって素晴らしいわね~。お肌なんか滑らかでシミひとつないし、もっちもちのぴっちぴちじゃない。 羨ましいの極みだわ」

「しっしらゆきさんの方が十分お綺麗じゃないですか」

「何言ってるの! 26ともなるとお肌のケアばっっかりよ! スキンケアは欠かせないのよ……。油断してるとすぐにお肌に出る年頃なのよ……! ちゃんと対策しておかないとって自覚する時期なのよ……!」

「は、はぁ」

「シキティも今はわからないかもしれないけどねぇ、ちゃんとこのもちもちのつるつるお肌をキープしたければ、めんどくさくてもちゃんと日焼け止めとかスキンケアとか食生活も気を使わなきゃだめよ! あとでやっときゃよかったって後悔したときにゃ遅いんだからね!」

「は、はひ」

「……こっちはどうかしら。ちょいと失礼」

「ひゃぁあう!!?」


 後ろから抱きかかえられ、え? と戸惑う間もなく着物の上から両胸を鷲掴みにされる。突然のオーバーな接触に頭の上に!?がぽんぽんと浮かび上がる。硬直する私をよそに、シラユキさんは眉を寄せながら手に強弱を入れて恐らくは揉もうと……揉むほどあるのかはノーコメントとして、揉もうととしている。


「ん~~やっぱり着物の上からはよくわかんないわね~。でもわかる……アタシにはわかるわよ……」

「なっなにが、なにがですかー! は、は、は、離してくださいい!」

「オッパイはまだまだ可愛らしいサイズとみた! ダイジョーブよこれからよ! アタシもシキティ位の年からバーーン! と膨らんできたから!」

「ば、ばーーん……?」

「それにオッパイは大きさじゃなくて形よ! どんだけ巨乳だろうが爆乳だろうが、見た目が悪けりゃそれはただの肉団子でしかないのよ! 加えてでかいと将来垂れて大変なんだから!」

「全国の胸が大きい人たちの特定数を敵に回しましたよシラユキさん……」

「あとはそうね~。好きな男ができたら揉んでもらって大きくして貰えばいいのよ」

「ブッ……!」


 とんでもない発言が飛び出し、いや、今の今までもとんでもなかったけど、林檎ジュースを盛大に吹きだしそうになったのをなんとか耐えた私を誰か誉めていただきたい。それでも口周りは汚れてしまったので拭う。焼き鳥をかじりながらシラユキさんは私にもたれかかって合コンの様な質問をしてきた。


「シキティって今カレシはいるの? それこそ、そのちっぱい揉んでおっきくしてくれる様な」

「(ちっぱい……ちっぱい……)い、いま……」

「お?」

「……」


 ちがうよね。いませんでいいんだよね。私、彼氏居ないよね。太刀川さんの顔が脳裏にばっと浮かんだ自分の頭をしばき倒したい。シュババババとイメージを掻き消して考える。彼氏とは恋人のことだ。囲いのことを恋人とは言わない。太刀川さんには私の他に侍らせている女性がたくさん居ると聞くし、その中の一人に過ぎない私が、男女対等な関係、お互いの存在を尊重しあう恋人という位置に座している訳がないのだ。


「……いません」

「えぇほんとぉ? ちょっとあやしーぃ」

「ほっほんとです。お付き合いしてる方は居ません」

「じゃあ好きな人は?」

「えっ」

「好きな人。気になってる人でもいいわよ」


 すきなひと。気になってるひと。そう聞かれて脳裏に、灰色の髪に赤い目をした、鼻にティッシュを突っ込み、人を小馬鹿にした表情の男性だんせいが出てきて思わず「ハァ!!!?」と声に出してしまう。シラユキさんがおおう!? と驚いているが、私は自分の脳裏に今も浮かぶイメージを抹消しようと必死だ。ちがうちがうちがうおかしいこれはおかしい。そうだ、気になってるひとだ。決して前者の意味であのひとが出てきたんじゃない! いろんな意味で気になってるひと。そうだ、あのひとにはそれが正しい!


「いません。好きな人はいません」

「でも今……」

「いません! 違います絶対違いますから!」

「えっな、何が? おめめ血走ってるけどダイジョブ? え~つまんないわね~。シキティの年頃は、アタシなんかばんばん恋愛という青春を謳歌してたわよ」

「……シラユキさんは今お付き合いしてる方、いらっしゃるんですか?」
 
「いるわよ。最近ちょっとギスギスしてて、上手くはいってないけどね」

「えっ」

「アタシがやんごとなき事情で岡崎と同居してるってこと、シキティは知ってるわよね。アタシは仕事だって割り切って暮らしてるんだけど、向こうはそうはいかないみたいでね~。やっぱり男と女がひとつ屋根の下ってところがネックなんでしょう」

「……」

「まぁわからないでもないけどね。逆の立場ならって考えると、疑惑とか不信感は出てきちゃうものよ」


 でもそろそろ時間の問題かしらね~と焼酎をごくごくと飲むシラユキさんに、なんの時間とは聞けなかった。 寂しそうに笑うシラユキさんにそれを追求するのはよくない。シラユキさんは空になった私のグラスに林檎ジュースを注ぎながら続けた。


「それでもねぇ、恋は良いわよ~! 綺麗になれるし、辛いこともイライラすることもあるけど楽しいんだから。シキティもたっくさん恋愛しなさい、たくさん経験していいひと見つけなさい。人生いちどきりなんだから!」

「は、……はい」

「あと、岡崎の名前が出たついでに聞きたいんたけど……シキティ、あいつと喧嘩した?」

「……けんか、ですか?」


 何かあったかと聞かれれば、ありましたと答えることはできる。しかし、あれを喧嘩と言っていいのだろうか。私にしてみれば「絶縁」したという表現の方が近い認識でいるのだけれど。そう考えるとツキリと心が痛んだ。もう岡崎さんと私の間にあった、ただでさえ細い、綱渡りの様な縁は切れてしまって、結ばれることはないのだなと思い知ってしまう。俯いてしまった私の横で、カランとグラス中の氷が鳴る音がした。
 

「あいつね、一度飲んだくれて酔っ払って帰ってきたことがあったの。珍しいことなのよ? あいつ酒は好きだけど、自分を見失うまで飲むことはしないから」

「……」

「どこかの誰かさんに渡したはずの、見覚えのあるお金も、そんときいきなり押しつけられてね。その日は帰ってくるなりお風呂にも入らないで布団に潜りやがったから追求出来なかったんだけど。その日から暫く夕飯のメニューが缶詰め続きになっちゃったからよく覚えてんのよ。いや辛かったわマジで」

「……何かお仕事でいやなことがあったんじゃないですか」

「そうかもね。ここに居る社会人のおじさん達みたいに発散したいこととか、忘れたいことがあって飲んだくれたのかもしれない。でもね、シキティ。帰ってきたときのあいつの表情かお、悩みが解消されましたってモンじゃなかったのよ」
  
「……」

「あいつ、最近いやにぼーっとしてるからなんかあったなと思って。今のシキティみたいに」

「私……」

「そーよぉ? 今のあなた達、雰囲気がそっくり。どんよりしてて、しょぼくれた感じ」


 しょぼくれた岡崎さん、というのがなかなか想像出来ない。シラユキさんは岡崎さんがそうなった要因は私にあると確信しているようだけれど本当にそうなのだろうか。私なんかのために、そこまで思い悩んでくれる人なのだろうか、あのひとは。でももし、本当に私のことで、そんなことになっているのだとしたら。


「よくわからないんです」

「ほう。というと?」

「喧嘩するほど、親しい訳でもなくて……。たまに偶然お会いして、お話して、それだけで」

「友達じゃないの?」

「……違うと思います。岡崎さんと私ってどういう関係なのか、私にはわからなくて、知り合いって言ってしまえば簡単なんです。簡単なんですけど」


 あんな風に、私のために怒ってくれたひとを、知り合いの一言で済ませても良いのだろうか。それは岡崎さんに対して失礼な気がしてならなかった。じゃあ友達? それも違う。例えば、私の世界に居たお友達や、香澄ちゃんと同じ様な感覚で岡崎さんと接しているだろうか。答えはノーだ。特別なようで、特別じゃない。一番遠くて、でも近くに感じるひと。


「岡崎は、あなたのこと恩人って言ってたけど」

「え?」

「初めて出会った日に助けられたって」

「……そんな、私何も」


 何もしていない。恩人などと言われる様なことは決してしていない。したくても、出来なかった。私の弱さ故に果たされなかった。岡崎さんの考えていることがわからない。あのひとはあの日、私の何に感謝したというのだ。何を以て、私を恩人だとシラユキさんに言ったんだ。シラユキさんは頭をぐるぐる悩ませている私を見てくすりと笑い、焼き鳥を差し出した。受け取り、甘いたれの乗ったモモを一口食べる。


「ひとの気持ちや考えてることなんて、そう簡単にわからないものよ。あなたも気づいていない、ちょっとした些細なことが岡崎にとっては重要なことだったんじゃないかしら」

「……」

「ほら。人の価値観はそれぞれでしょう? ある人にとってはしょうもないものでも、ある人にはとても大事な宝物だとか。そういうことなんじゃないかしら」


 こんなちっぽけな私でも? 岡崎さんの中の何かを、助けることが出来たということ? 私がしたことは、しようとしたことは、無駄ではなかったと思っていいのだろうか。

 そのあとも色んな話をして、いい時間になったところでお開きとなった。シラユキさんはお酒を飲んでいるので代行を呼んだ。外で代行が到着するのを酔い冷ましがてら二人で待つ。外は寒いので中で待っていたらいいとシラユキさんは言ってくれたが、未成年なのでお酒は勿論飲んでいないものの私も居酒屋の雰囲気に酔ったのでとご一緒させてもらっている。

 息を吐くと白い靄が現れる。そろそろマフラーと手袋も引っ張り出してこないとな、と考えているとシキティと名前を呼ばれる。横を向くとシラユキさんが口元に笑みを浮かべつつもどうしようかな、という表情をしたあと、まぁいっかと肩の力を抜いて私に真実を告げた。


「ほんとはね、偶然じゃないの」

「?」

「シキティがあのあたりよく歩いてるの実は知ってて声かけたのよ。今日ここに誘ったのも意図的。騙してごめんなさいね」

「え、な、なんでですか?」


 色々と、なんでですか、だ。なんであの辺を私がよく歩いているのを知っているんだとか、何故偶然を装い私をご飯に誘ったのかだとか。最悪のパターンが思い浮かぶ。まさか、私がヤクザと関わりがあるとバレて……、とまで考えていたがそれは杞憂だった。


「岡崎に頼まれてね」

「……岡崎さん?」

「そ。シキティが悩み事のせいで色々無理しすぎてるみたいだから、話聞いてやってくれって」

「……え……」

「驚いた? アタシはね、心配なら自分が聞いてあげたらいいじゃないって言ってやったの。そしたらアイツね、男の自分より同じ女の方が話しやすいかもしれない、何より俺には関わってほしくないみたいだから~なんて拗ねちゃってね。面白いのよ~。わざわざアタシに借りを作るほど物凄く心配してるのよ、あなたのこと。まぁシキティが何に悩んでるのかアタシでも聞き出せはしなかったけど……」  

「……」
 

「……仲直り、してあげてくれないかしら。しみったれた顔で家の中居られるとその内キノコが生えそうなのよ~。あいつ図太いけど、そういうことに関しては意外とメンタル弱……くはないか。まぁ気にしいなとこあるから」


 ……って、このことは絶対にシキティには言うなーって念押されてたんだけど。内緒よ? と舌を出しておどけてみせるシラユキさんに、私は驚きを隠せずにいた。

 どうして、と今すぐにあのひとに会いたくなった。会って、どうして私なんかをそこまで気にかけてくれるんですかと問い詰めたかった。でないと、この胸のズキズキが治まってくれない。そんな優しいひとに八つ当たりしてしまった自分をボコボコにしたくてたまらない。瞼が熱い。油断したら、またこぼれ落ちてしまいそうなものをぎゅっと目を閉じてせき止める。そんな私の様子を見て、シラユキさんは空を見上げながら、「……あんまり長くなると色々拗らせちゃうからね」と声を掛けた。ただ私は「はい」と鼻を詰まらせながら答えることしか出来なかった。

 代行のひとたちがやってきた。シラユキさんに、家まで送ると言ってもらえたが、タクシーで帰るから大丈夫と伝えた。私のタクシー代をお財布から出そうとしていたのを慌てて制止し、丁重にお断りした。ご飯までご馳走になってしまったので、そこまでお世話にはなれない。シラユキさんが車に乗り込む寸前に、「あぁ、そうだ」と私の名前を呼んだ。そして私が手に持っていたドラッグストアの袋を指差した。


「シキティ。忙しくてもちゃんとご飯は食べなさい? ビタミン剤ばっか飲んでちゃあダメよ? 一日の活力は米粒ひとつから! いいわね!」

「はっはい!」

「次はまた買い物とかいきましょ。 シキティに似合う化粧品とか一緒に探してあげる」

「ぜひ。シラユキさんパンケーキ食べたいって言ってましたよね。今度は私にご馳走させてください」

「そうね! 楽しみね~。アタシ、妹とか欲しかったのよ~」

「妹!? いえいえそんな畏れ多いですから!」

「ふふ。じゃあねシキティ。またね」


 シラユキさんを乗せた車が走り去るのを、姿が見えなくなるまで見送る。美しくて、強くって、陽気な女性。シラユキさんはまさに私の理想の大人の女性で、憧れとする存在となった。シラユキさんみたいになりたいなと考えが浮かぶものの、私には到底無理だなと落胆する。それでも、沈み込むことはなかった。

 自分を見直さなきゃ。香澄ちゃんの言うとおり、いつまでもくよくよしてちゃだめだ。甘ったれてちゃだめなんだ。人のことを気にする前にまず、自分のことを何とかして余裕を持たせないと。不器用なんだから、あれやこれやと一気に解決できるなんて思っちゃだめだ。バシッと自分の両頬を叩き気合いを入れる。香澄ちゃんと岡崎さんに謝るのはそれからだ。

 季節はついに冬を迎えた。雪も降ることが多くなり、より一層冬らしい寒さが増した。私のお仕事事情は徐々に、亀並ではあるが改善の一歩を辿っていた。仲居さんに、私の仕事の配分についておどおどしながらも直談判したが全く取り合ってもらえなかったため、ならばと自分でお仕事の優先順位などを考え始めた。

 まず定時には帰れなくても、残業は必ず一時間までと決めた。地下室での寝泊まりも止めた。無理してでも、お家に帰って休むことにした。 今日しなくてはいけないことをまず済ませ、時間内に終わらせることが出来なかったお仕事で、今日でなくとも明日出来ることは明日に回すといった風に、頭の中でお仕事の割り振りや効率を考える様にした。お仕事中にもやもや余計なことを考えちゃうからミスしたりするんだ。お仕事中はちゃんとお仕事に集中しなきゃ。

 そうしているうちに、休憩時間が少しずつ確保出来る様になった。お昼ご飯を食べることも出来た。そこでわかったことがひとつ。ご飯の力は偉大だ。食べたと食べていないとでは後半のお仕事への活力が全く違ってくる。シラユキさんの、 『一日の活力は米粒ひとつから』が証明されたのだった。

 勿論、最初からうまくいくわけは無かった。逆に要領が悪くなってしまって、失敗に失敗を重ねることも多々あった。そのたびに周りから嫌みも言われもしたけれど、諦めはしなかった。試行錯誤を繰り返し、少しでも自分に余裕を持たせることに全力投球した。そうじゃないと私は次に進めない。いつまでたっても、私のことを思いやってくれる人たちに謝ることさえ出来ないんだと、いつの間にかそれが活力になっていた。

 ちゃんととご飯も作り、睡眠もとるようにまでなると、お仕事と私生活のメリハリがつくようになった。女将さんのことや、徐々に自分がこの世界に馴染んできてしまっているのではないかという焦燥感にも襲われることもあった。しかし今は考えるなとご飯をかきこむ。私はあれもこれもと処理できる人間ではない。一つずつ、まずは目の前のことに集中しろと自分に言い聞かせた。
 

「……」

「……おっおしごと、お疲れ様。香澄ちゃん」


 私の姿を視界に入れた途端に眉を寄せた香澄ちゃんは、分かりやすい程に不機嫌になった。香澄ちゃんは明らかに私を避けている。今日こそはと全力マッハでお仕事を終わらせて、香澄ちゃんが更衣室から出てくるところを待ち伏せた。なんかストーカーみたいだなと自分に引いているところに、オレンジ色の可愛い着物を着こなした香澄ちゃんが出てきた。そして更衣室前に座り込んでいる私を一目見て素通りしようとしたので、慌てて私は香澄ちゃんの行く手を阻んだ。壁ドンという、私には大胆な方法で。進行方向が私の腕によって阻まれた香澄ちゃんはこちらを見ないままため息をついた。


「……なによ。用があんならさっさと言いなさいよ弱虫。ウザイ」


 ウザイ、と言われてたじろいだが、ごめんなさいよりも私の口から言うべきことがある。手と口が震える。言えよ、言えって。言うんだ、言ってやれ馬鹿志紀! 


「香澄ちゃん……。排水溝はねパイプ●ニッシュ使うと詰まりの通りが良くなるんだよ」

「……はっ?」

「髪の毛とかは別に手を突っ込まなくても、いらなくなった歯ブラシでちょちょちょいっと取ればいいし」

「……ちょ……」

「あと、浴室の床の滑り。ただお湯でブラシするだけじゃ汚れは落ちにくいから、道具棚に入ってる洗浄剤使えば簡単に落ちるよ」

「……」

「あと、あとは……アイダっ!?」


 なかなか勢いのあるでこぴんをおでこに食らう。突然の振動にくらくらしつつも、おでこを抑え、でこぴんをしてきた人物を見つめる。香澄ちゃんはいかにも怒ってます! という、腰に手を当てたポーズで私を睨みつけた。


「チョーシのんな。メンヘラ女」

「め、めんへら……」

「何よ、なんか文句あんの」

「いえそうでござります……仰るとおりでござります……私(わたくし)は陰気で弱虫で暗いメンヘラ女でござります……」

「自覚してんならいいのよ。…… もうあんな汚いとこ掃除するのはごめんよ」

「うん……」

「だから……あ、あんたがやんなさいよ。あたしがお風呂入れないじゃない」

「うん。……香澄ちゃん」

「何よ」

「ごめんね。……心配してくれて、あ、あ、ありがとう」

「……まーた泣く。……今日あんたんちにゲームしにいくわ。コンビニでありったけのデザート奢んなさいよ」

「うっうえっうえええがずみちゃあああん」

「あんた、ほんっと馬鹿ね」


 涙と鼻水を抑えきれなかった私に、香澄ちゃんは再度でこぴんした。いつも通り馬鹿と呼ばれても、愛のある罵倒だなと思った。香澄ちゃんに抱きつく。くっつきむしになった私を馬鹿、アホ、メンヘラ、泣き虫、ウザイなどと罵り続けても、香澄ちゃんの耳が真っ赤になっているのが見える。照れ隠しなんだなとわかると、ますます離れがたくなったのだった。倦怠期を迎えた夫婦が喧嘩して仲直りしたときってこんな感じなのかなと呟くと「あんたと結婚なんて面倒極まりないから絶対イヤ」とまで言われた。反論はしなかった。

 世間はクリスマスだなんだと騒がしい。世のお父さんお母さんが愛する子供たちへのプレゼントを選んでいる中、私は詫びの品を吟味している。でも何がいいのか全くわからず悶々とし続けもう1時間が経つ。 

 ひとつだけ、これじゃ駄目かなとキープし続けているものがある。でも、またこれ? ってなるかな。なるよね。でも、私にはこれ以外しっくりくるものがなかった。悩みに悩んだ末、購入した詫びの品を手にし、目的の人物を宛の無いまま探し続ける。岡崎さんの出没箇所なんてさっぱりわからない。あのひとはいつも突然現れてすっと去っていく嵐のひとだ。こちらから会いたいと思って探したことなど一度もなかった。

 雪がぱらぱらと降ってきて、空を見上げる。少し悩んだが、岡崎さんへの詫びの品を開封することにした。一カ所だけ、岡崎さんが居るかもしれないと思った場所に雪が降る中向かう。香澄ちゃんの勘はよく当たるけれど、私の勘など今まで当たったことは無かった。しかしこの時ばかりは、意外と私の勘も捨てたもんじゃないかも、と思った。


「かぜひきますよ」

「……」

「岡崎さん」


 私と岡崎さんが初めて出会った桜の木の下。灰色の髪に雪を積もらせている岡崎さんが、傘も差さずに立っている。これ以上積もると灰色の髪に真っ白な雪が溶け込んでご老人に見えかねないので青い傘をかざした。岡崎さんは少し驚いた表情で目を丸くして振り向いた。緊張する。


「何でここにいんの、お前」

「岡崎さんを探してて……思い当たるところがここしかなかったんです」

「……俺?」

「はい。岡崎さんこそ、ここで何してるんですか? 桜はもう咲いてませんよ」

「別に。お前にゃ関係ねーだろ」
 

 つんとした顔でそれを言われるとウッと言葉に詰まる。岡崎さんもこんな気持ちになったのだろうか。近づこうとしたら問答無用に拒否される、この苦さを味わったのだろうか。きゅ、と唇をかんだ。

 
「エ●カ様……じゃない、岡崎さん」

「……」

「あのときは本当にごめんなさい。……私色々あって、不安定で、岡崎さんに八つ当たりしてしまったんです」

「……」

「……すみませんでした」


 頭を下げる。岡崎さんに傘を翳したまま腰を曲げた為、こつんと傘に何か引っかかっている気がしたがこの際気にしてはいけない。


「ったく……」


 傘の引っかかりがなくなる。疑問符を浮かべていると、その場にしゃがみこんだ岡崎さんが頭を下げた私を下から見上げている。その膝に頬杖をつき、特徴の赤い目は責める様な雰囲気を惜しげもなく醸し出していた。


「ちょっと仲良いと思ってた相手によぉ、お前にゃ関係ねぇとか言われた俺の純真な心がどれだけズタズタに引き裂かれたかわかんのか」

「……誠に申し訳ない」

「友達だと思って接してた相手に『え? 友達じゃないよ?』ってしれっと言われたときの気持ちだぞ。両思いだと思ったら片思いだぞ。一方通行だぞ。想像してみろや」

「それなんですが……私たちって、その、……友達なんですか?」

「……ん~~なんか、……違うな。かといって知り合いで収めんのもしっくりこねぇか」

「……」

「まぁ細けぇことはいいじゃねえか。志紀、面を上げぃ」

「え、あ、はい」

「ほい」

「……へ、ちょ、ギャアアアア! つめ、つめた、つめたいいいい!」

「どーだ、思い知ったか。これが俺が受けた心の傷だ。とくと味わえ」

「な、なにすんだこのォオオ!」

「へぶばっ!」


 岡崎さんが立ち上がり、顔を上げろ言われたので上げた瞬間、着物の襟を少しばかり引っ張られ、背中に雪を入れられた。素肌に雪が触れ、背中がその冷たさに悲鳴を上げる。のけぞる私に対し、ニヤニヤとしてやったりな顔をする岡崎さんにイラッとした。仕返しに、つかみあげた雪を思い切り顔に押しつけてやった。霜焼けみたいに顔が真っ赤になった岡崎さんは青筋をひとつふたつ浮かべ、新たな雪の塊をその手に生成しシュバッと野球選手が如くこちらに投げてきた。それを私は傘を広げてガードすると岡崎さんから非難の声が上がる。


「あ!? テメェずりぃぞ! 道具使いやがって! 雪合戦にそんなもの卑怯極まりねーぞ! 正々堂々と勝負しやがれ!」

「何が勝負ですか! 不意打ちで背中に雪突っ込んできたひとに正々堂々とか言われたかないんですよ! やることが小学生すぎる!」

「うっせぇ! 数年前までランドセル背負ってた奴に言われたかねーんだよ!」

「数年前でしょ!」

「だいたいなぁ! 何でお前俺の電話無視してんの!? 何回も何回も掛けてやってんのに! 挙げ句の果てには着信拒否にまで設定しただろ! わかってんだからな! それで謝罪なんざ説得力の欠片もねーんだよ!」

「うっうわ! え? でっでんわ!? 来てませんよそんなの! 知りません!」

「しらばっくれるつもりか貴様……!」

「……え、ま、待って。もしかして、下四桁××××の番号ですか?」

「そうだけど。教えたじゃねぇか」

「……」

「……お前、さては」

「……」

「何目ェ逸らしてんだゴラァア! 登録してなかったな!? してなかったんやな! しとけよバカァア! 俺の勇気返せ! 返してェ!」

「ごごごごごめんなさい! 流石にそれはごめんなさい! 知らない番号には出ないことにしててそれで」

「言い訳無用! くらえ!」

「ぎゃ、ギャー!」


 雪景色のなか、雪玉の投げ合いを繰り広げる私たちの姿は第三者から見たら滑稽なことだろう。それでも、言いたいことを言い合って、思い切り体を動かして。少なくとも私は充足感に包まれていた。

 そっか、たまに来ていた謎の電話は岡崎さんだったのか。時折掛けてくる理由は何だったんだろう。勇気って何の勇気だろう。それを本人に聞くのは野暮な気がする。私の考えが当たっていればの話だけれど。でも岡崎さんも私と同じことを考えていてくれていたならいいなと思う。

 お互いにぜぇぜぇと息を荒くして、座り込む。しかし、岡崎さんはすぐに息を整えて、私の頭の上に積もった雪をその大きな手で払い落としてくれた。私はその手を取り、雪を素手で触った為に冷たくなってしまった手が少しでも暖かくなるように包み込む。私の手も冷たいけれど、少しでも和らげばいいと思った。ふりほどかれることはなかった。


「シラユキさんから聞きました」

「……何をだよ」

「私の相談に乗ってくれって、お願いしてくれたんですね」

「……あ、あの女、言うなっつったのに……」

「ありがとうございます」

「……」

「私のこと心配してくれて、気にかけてくれて、ありがとうございます」


 素直にお礼を言う。頬を少し赤く染めた岡崎さんは口を一文字にして、ぷいと顔を背けてしまった。耳が真っ赤だ。香澄ちゃんと少し似ているな、と小さく笑うと何笑ってんだと頬を摘ままれた。すると、包んでいた手をゆるりと解かれ、逆に私の手が岡崎さんの大きな手に包まれ、先程の私と同じ様に少しでも暖かくなるようにさすられる。な、なんだか私まで恥ずかしくなってきた。こんな風に男の人と触れ合ったことなどない。がっちりとした、ごつごつとした大人の手は私のちっさな手を包み込んで離さなかった。


「今度は無視すんなよ、電話」

「はい」

「あと、何かあったらヒス起こす前に落ち着いて相談しろ。別に暗いこと言われたからって突き放したりしねーよ」

「……は、……はい」

「オイなんだその間は」

「う、……だって……私嫌なとこたくさん、あるんです。自分でも自分が嫌になるぐらい……」

「だからなんだよ」

「だっだから……そんな、何でもかんでもそういうとこ見せてたら鬱陶しいじゃないですか」

「でもお前そういうとこしかねーじゃん」

「……」

「それでもいいっつってんの。俺様の器の広さなめんなよ。人間の薄汚ねーとこだって腐る程見てきてんだよこっちは。経験の差を侮るなよ小娘」


 きっと、私は、このひとに同族意識を持っていた。友達でも知り合いでもない。どうにもならないことに巻き込まれて苛まれて、抗うことも出来なくて、それでもがむしゃらに生きていくしかなくて。一種の同士に近かった。でも、そう思っているのは私だけだ。このひとは、こんなにも強くて、優しい。私とはまるで違う。同じだなんておこがましかった。

 だから縋りたくなってしまう。このひとなら、私が抱えてるものを受け止めてくれるんじゃないかって。でもそれは、だめだ。踏み越えてはいけないラインは今もやはり存在している。

 でもこれくらいは許してほしい。私の密かな拠り所を作ることを、許してほしい。

 放り投げてしまった詫びの品を岡崎さんに差し出す。差し出されたものをきょとりと見つめる岡崎さんはいつか見た表情と同じものだった。


「今回のお詫びです。受け取ってくれませんか」

「……もう少しひねりがあってもよかったんじゃね。見覚えがありすぎて見飽きたレベルだわ」

「なんかそれがしっくり来ちゃって。……やっぱり食べ物とかの方が良かったですか」

「いんや。上等だよ。これで」


 岡崎さんは青い傘を開いて、くるくる回した。傘についていた雪があちこちに舞ってこちらまでかかってきたので着物でガードする。


「というかこれ思いっきり今の今まで使ってたやつじゃねぇか。普通使用済みの傘詫びにするか?」

「傘なんだから雪が降ったら使って然りじゃないですか」

「それもそうだな。有り難く貰っとくわ。おら、帰るぞ。送ってやっから入れ」

「ええ? どうせ雪でびしょびしょだし気にしなくていいですから。恥ずかしいんですよ。相合い傘するの」

「お? なに、俺のこと意識しちゃってる感じ? ほんと俺も罪な男」

「さっさと行きましょう。風邪引く前にお風呂入らなきゃ。さ、私の方にもちゃんと傘傾けてくださいね」
 
「……お前ってときどき潔く容赦ないよね」


 さくさくと雪を踏みしめながら2人並んで帰路に就く。ちらりと後ろを向くと二人分の足跡が続いていて、なんとも言えない気持ちになった。


「もうひとつ、お前に言いたいことあったんだよな。聞いてくれる?」

「……何ですか」

「上下揃ってないのは予想通りとして、流石にうさぎの柄ぱんつはねーだろ。 幼稚園児じゃあるまいし。萎えるわ。色気ねーんだから下着ぐらい気を使ってぶべっ!」


 まだまだ、こなさないといけない宿題はたくさんある。私の世界に戻ることはもちろん、女将さんが復帰してきたらのことや……太刀川さんのことも。でも今すべきことは、岡崎さんにデリカシーという言葉を覚えて貰うことなんだろうと思った。


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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

結構な性欲で

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青春
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甘い誘惑

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