運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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二律背反

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 季節は夏。うだるような暑さが続いている。そろそろ着物での生活がつらい。今まで、洋服でしか夏を過ごしたことのなかった私は暑さとの戦いの日々が続いている。

 蒸れる。汗が着物に染み込んで黄ばみやすくなる。クリーニングに出すにもクリーニングに向かう過程で着ていた着物もダメージを受けて悪循環だ。洋装を買えばいいじゃない、と思うかもしれないが、家にこんもりとある着物のプレゼント達がそうさせてくれない。あれだけ着るものがあるのに新たに服を買うというのも経済的ではない。節約だいじ。何よりお仕事上、着物での出勤が義務づけられているので丁度いいことはいい。休みの日ぐらいは好きな格好をすればいいじゃない、しかしそれも出来ない。私が洋服を買えない、着れないには一番重要な理由があった。

 世間は夏休み。といっても、今回ばかりはそこまで忙しくはない。これが普通の旅館だったらば、家族連れの旅行客で溢れてんやわんやだろう。が、ここは大人の為の旅館である。大人に夏休みなどない。なので、 いつもより少し忙しいかなというレベル。平常運転で皆働いている。

 あつい、と心の中で呟く。頼まれたおつかいをこなすため町のスーパーに向かう。BGMはもっぱら某おつかい番組のどーれみふぁーそらしっどーである。まずい。暑さで頭がおかしくなってきた。

 朝の仕入れチェックで、当番の先輩が発注ミスを起こしてしまい、今晩の、にょ、女体盛りのためのお魚と、お、おっぱいパフェのための生クリームが足りないとのことで、下っ端の私がおつかいに出された。口に出すのも恥ずかしい。食べ物をそんな風に使うな! 食べ物で遊んじゃいけないって学ばなかったのか! などと私が言い出せる筈もない。大人しく「はい」と従うのみだった。私のチキンめ。

 渡されたメモには、足りないと言っていたもの以外にも、入り用のものが記載されている。正直ひとりで持てるかなという量である。

 スーパーに到着して、早速目当てのものを探し当てる前に、ここで会うには意外なひとがぶつぶつと独り言をつぶやいて、買い物かごを手に、パックに包まれた鶏肉とにらめっこしていらっしゃった。


「鶏もも肉428円か……。やっぱり朝は安くなってねぇな。夜に出直すべきか。いやーでもなーめんどくせーなーもういいかなー。俺最近超がんばってるし買っちゃおっかな~……って」 

「……」

「おぉ久しぶりだな、元気してたか七五三。パリコレで転ばなかったか?」

「……どっ、どうしたんですか。その格好!?」

「あぁこれ? 気にすんな気にすんな。たいしたことね……」

「ミッミイラ男!? ハム●プトラ!? ちょ、ハロウィンにはまだ早いですよ!?」

「心配をしろ心配を! 気遣えよ……! 怪我してるって一目でわかんだろーが! 明らかに何かありました状態の再会だろーが! なんで頭が弱いひと扱いしてんだ! 変わってねーな! おまえ前回からなにひとつヒロインとして成長してねーな!?」

「すっすみません」


 全身包帯だらけのミイラ男はお兄さんだった。包帯で隠れてないところも、細かい傷や打撲の痕が見える。ひどく痛々しい。お兄さんの姿が見えてスルーしなければという私と、どうしたんだあの怪我何があったんだあのひと、と心配になった私がぶつかり合いを起こし、ミイラ男がどうのだの妙なことを口走ってしまった。

 ふんすふんすと鼻息荒く、顔中に青筋をたてているミイラ男のお兄さん。ち、ちがうんですよお兄さん。決して心配してない訳じゃなく気が動転してただけなんです。はぁああと重いため息をはいて、お兄さんは先程までにらめっこしていた鶏肉を私の買い物かごに放り投げた。ちょ、買わせる気か。


「……どうしたんですか、その怪我」

「どうもしねーよ。新参のヤクザは誰しも通る道だろ」

「出歩いてて大丈夫なんですか。安静にしといた方がいいんじゃ……」

「家でゴロ寝してーのは山々なんだけどよぉ。久々帰ってみたら冷蔵庫ん中食料なんもなくて。ビールとチー鱈しかねぇの。腹減って死にそうなんだよ」

「お、おう……それは、なかなか……」

「飲兵衛女はまだぐーすかいびきかいて寝てるし。今日の晩飯なんかカチャトーラとフリットミスト作れってんだ。復帰したての怪我人に頼むか普通! ッハー! イライラしてきた! ちょっと、うさぎのぬいぐるみ持ってない? お前持ってない? 」

「私ネ●ちゃんじゃないので常備してないです。というかなんですか? その、カ、カチャ、……カーチャン?」

「ちがう。かーちゃんちがう。カチャトーラ」

「なんですか……。そのなんか召喚出来そうな、呪文みたいな料理名は。お兄さん千●先輩ですか?」

「千●先輩……ということは俺が玉●宏か……。玉●宏みたいにイケメンってことか……。そう言われると悪くねぇな……。よし、晩飯はいっちょ気合い入れるか……」

「そ、そこまで言ってない」

「あん!? ……お前はなに? 魚ばっか……と、生クリーム? な、なに、その材料たちで何作るつもりなのお前……。何を生み出すつもりなんだよ」

「(女体盛りとおっぱいパフェなんて言えない)」


 思わず笑みがこぼれる。不覚にも、楽しいなと思えた。いつもビクビクおどおどと人と話をする私にとってそれは新鮮な感覚で。お兄さんとの会話は楽しい。自ら様々な話題を提供するといった芸当が不得手の私にとって、次から次へと言葉を紡いでいくお兄さんとの話はとても気が楽で、それでいて話しやすい。すんなりとひとの懐に入って、口達者にさりげなく自分のペースに持って行く。きっとお兄さんの才能であり魅力でもあるのだろう。

 しかし、怪我の具合など気になりはするがあまりこの人に深入りしてはいけない。前回そう心に決めた私にとってこの再会も想像だにしないものだった。そそくさと退散するべしだろう。


「あんまり無理して動いちゃダメですよ。それじゃ」


 労いの言葉をかける。先程お兄さんが私の籠に入れた鶏肉をお兄さんの籠に戻し、自分の買い物を再開しようとその場を離れる。しかしなぜかお兄さんは私の進む方向についてくる。私が商品を手に取るために止まればお兄さんも止まるし、私が別のコーナーに進めば隣のお兄さんも動いた。


「あ、あの。私に何か?」

「んー、そういやおめぇの名前聞いてなかったなと思って。俺、岡崎。岡崎徹也。てつや♡って名前で呼んでもいいのよ? ハイ、わっちょあねーむ?」

「……遠坂です」

「いやなんで苗字オンリー? なんでちょっと名乗るの渋ってんの? 下は?」

「……志紀です」


 しき、ね。と呟いたお兄さんを見上げる。心配性の私の心が警報音を鳴らした。どうしよう。名乗って大丈夫だったかな。まずいことしたかもしれない。心配を紛らわす為にサーモンサーモンとお刺身コーナーに目を走らせる。そんな私の緊張はつゆ知らずお兄さん、もとい岡崎さんは私に質問を続けた。


「結婚はしてんの?」

「……け、けっこんンンン!? はぁ!? な、何言ってるんですかあなた! してるわけないでしょ!? まだ14ですよ!?」

「いやお前が何言ってるの? 別におかしくねぇじゃん。まぁちょっと早いかな~って印象あるけど。この国ではまぁ普通だろ。12で嫁ぐやつもいるぐらいだし」

「じゅ、12さい!? そんな……小学生じゃないですか……。義務教育だって終わってない……」

「てゆうかほんとに田舎から出てきたのなお前」

「へ?」

「いちいち反応が新鮮だから。常時おっかなびっくりって感じだし。それにしたって結婚できる年も知らねぇって、餓鬼でも知ってる常識だぞ。どんな田舎から出てきたのよ」


 そりゃそうだ。私にとってこの国は馴染めないことや知らないことが多すぎて、驚かされることばかりなのだから。

 目当てのサーモンを手にとり籠に放り込む。岡崎さんを避ける様にぺこりと礼をしてからすたすたと進むと、やはり岡崎さんはついてきて質問を繰り返してくる。


「ちょ、な、なんですか。なんでついてくんですか」

「ていうかあの黒い紙切れってなんだったの? あいつらそれ見てすげえびびってたけど。お前わらしべ長者じゃなくて水戸黄門? 黄門様だったの? 」

「ちがいます。……どうしたっていうんですか」

「あ? なにが」

「なんだかやけに質問が多くて、その……」


 詮索されてるみたいだと、正直に言うと岡崎さんは一瞬罰の悪い、気まずそうな表情をする。灰色の髪をかいて私から顔を逸らした。何ともいえない空気が流れる。お互いの出方をうかがう、困った雰囲気。バカ正直に言うんじゃなかった。岡崎さんはただの好奇心から私に問いかけをしていただけかもしれないのに。それに答えることが出来ない私にも問題はあるのだけれど。雰囲気を変えようと、少しからかうように声の調子を上げて、珍しく私の方から話題を切り出した。


「そういう岡崎さんこそ、今までどんなことしてたんですか? 私のこと根掘り葉掘り聞くんなら岡崎さんのことも教えてくださ……い」


 しまった。これは駄目な話題だった。今度は本当に困った顔をした岡崎さんに、私はひたすらに墓穴を掘ったと後悔した。奴隷だった岡崎さんに今まで何があったのかなんて、嫌な過去をほじくって傷つけるようなものじゃないか。いいことなんてあった訳ないのに。これだから私はダメなのだ。サーーと血の気が引き、ごめんなさいと謝ると、岡崎さんはなんてこと無いと、けろりとした表情に戻っていた。


「いーよ、別に。上海にいたよ。日本に連れてこられる前は」

「しゃ、上海? 岡崎さんって中国の方なんですか?」

「わかんね」

「わ、わかんね、て」

「俺自分の正確な年もしらねーし。24つったのも、同じぐらいの年頃のやつが24だったから適当にそう答えてるだけなんだよ。もしかしたらもっと下かもしれねーし上かもしれねぇ。名前も、組のおやっさんから最近もらったもんだし。んな調子だから自分のことで話せる話題ってねーんだよなぁ」

「……」

「そんな顔すんなよ。ほんと全然気にしてねーし」

「じゃっじゃあ、好きなものはなんですか?食べ物とか」

「んー好きなものねぇ……酒と女」 

「……」

「そっそんな顔すんなよ! お前が聞いたんだろ!」

「私は旅行が好きですね」

「オイッ。なにスルーしてんだ。なに聞かなかったことにしてんだ。まあいいか……。旅行か。意外だな。私インドアです~って顔してんのに」

「どんな顔ですかそれ。インドア派ですけど……。趣味にするぐらいには好きですよ、ここに来たときも友人と京都に……」

「京都?」

「………いえ、なんでもないです。京都に行きたいね~って話してたんです」

「行けばいいじゃん」

「え?」

「いやだから京都。金ねーの?」

「……いえ……そうですよね。行きます、近いうちに」


 私がにやってきた時に居た場所。私が太刀川さんに拾われた京都。きっと、あのお寺に、私が元の場所に帰るためのヒントがあるはずなのだ。行きたい。けど今はまだ行けない。

 一度ここにやってきたばかりの時期に、太刀川さんに京都のあのお寺に行きたいと震える声でお願いしたことがある。そのときの太刀川さんを思い出すと今でも怖くてたまらない。私のお願いを聞いた太刀川さんはひどく不機嫌になり、傍らに置いていた肘掛けを蹴り飛ばしてしまったのだ。あれから太刀川さんの前では、一切京都という単語を出すのはやめた。行くなら自分でお金を貯めていこう。そう思ってひたすら毎日働いている。働かせてほしいと土下座して頼み込んだ私の意図に、太刀川さんが気づいているのかいないのか。いや気づいているだろう。あの人なら。

 私も岡崎さんもお会計を済ませスーパーを出たところで、私たちの前にすらりとした長く眩しい脚を太陽の下に晒し、仁王立ちしている長身の美女が居た。「お~~か~~ざ~~き~~!」とお姉さんが声を荒げる。隣にいる岡崎さんがげっと声を上げた。次の瞬間、お姉さんの長い脚で電柱に吹っ飛ばされていた。物凄い音と共に岡崎さんの可哀想な悲鳴が路上に響き渡った。


「ごぶばっ!」

「おっおっ岡崎さんんんんん!」


 びっくりした私は白目を向いて泡を吹いている岡崎さんの元へ慌てて駆け寄るも、私よりも先に岡崎さんをぶっ飛ばしたお姉さんが岡崎さんの胸倉を掴んで起きあがらせていた。つ、つよい。


「あんたねぇ……全身打撲に完全骨折、加えて出血多量による失血! 全治2ヶ月絶対安静の重症患者が家抜け出して何やってんのよー!」

「その重症患者を蹴っ飛ばした馬鹿女はどこのどいつですかー!? 殺す気か飲兵衛女! 今の蹴りの方がダメージ重かったぞげふっ! ほら血吐いた! 絶対どっか内臓破裂起こしてるぞどうしてくれんだゴボァッ! 大体な、家に食料もねーくせにおめぇが七面倒くせぇ晩飯要求してくるのがわりーんだろーが!」

「だ、だって、あんたが入院中カップラーメンとかインスタントばっかりで味気なかったんだもの……。だから昨日言ったじゃない! 材料メモしといてくれれば私が調達するからって!」

「鶏のモモっつってんのにムネ肉買ってきたり、レタスを頼んだらキャベツだわその他諸々のベタなミス! しかもわざわざたっかいもんばっかり選んで買ってくる金銭感覚ゼロ女に任せられるか! 出直してきなさい!」

「なによ! モモだろうがキャベツだろうが見た目はそんなに変わりないじゃない! ケツの穴の小さい男ね! それに、どうせなら安いものじゃなくて品質のいいものを食べたいでしょうが!」

「インスタント食品ばっか食ってた女がいっちょ前に品質語ってんじゃねー!」


 ぎゃいぎゃいと公然で始まったお二人の口喧嘩にぽかんとしているのは道行く人だけでなく私も含まれている。通りすがった人は「やだなに夫婦喧嘩?」「激しいわね~」と少々笑いを交えていた。

 未だに言い合いを続けている二人の間に入り込む隙などない。よって私が介入することも出来ない。というか、してはいけない何かがあった。それが何かはわからないが絶対的なものであるのは確かで。今まで岡崎さんと話していたことが嘘のような、本当はあのひとと知り合いでも何でも無かったのではないかという感覚に包まれた。

 きっと、私がこのまま黙って立ち去っても岡崎さんもお姉さんも気付かないだろう。周りの人と同じようにモブE位の私が派手な、でもどこかくすりと笑わせる喧嘩を繰り広げる2人に対して疎外感を抱くなんてことは、おこがましい話なのであって。

 ……帰っちゃおうかな。お魚も早いとこ新鮮なうちに調理場のひとに渡さなくちゃだし。でも挨拶もしないで黙っていくのは失礼かな。……いいやもう、別に、岡崎さんとは友人という訳でもないし、ただの顔見知りだし……。

 お姉さんに車にぎゅむぎゅむと押し込められている岡崎さんを見届ける。二人には見えないだろうが、一礼をした私は買い物袋を抱えて旅館に向けて歩き出す。心に靄の様なものがかかって息が詰まりそうになったが、これでいいのだ。寂しいな、なんて考えてはいけない。そう思っていつものようにうつむき加減で歩く私の名前を呼ぶ声が後ろから聞こえた様な気がしたが気のせいだろう。全く、ちょっと気が沈んだからといって幻聴など甚だしい。


「ま、待てよ! 止まれって、志紀!」

「っえ、」

「あーくそ、あの馬鹿女。はらいてーな……。おめーもさぁ黙って行っちまうなよ。つれねーなぁ」


 取られた腕に、目の前には少し息を荒げた岡崎さん。なんで追っかけてきたんだこのひと。別に良かったじゃないか。私なんてほっとけば。あの美人なお姉さんと帰っていたらよかったのに。でも私の中でどこか喜んでいる自分がいて、苛々した。とりあえずそんな自分にはボディーブローを喰らわせておいた。

 岡崎さんは真っ黒なスマートホンを取り出し「電話番号おしえて」と私の顔を見ずに言った。え、と動転した私は思わずつらつらと、本当に思わず自分の携帯番号を小さく口にするとしばらくして私のスマートホンの着信音が鳴った。取り出すと、知らない番号が画面に表示されている。


「それ、俺の番号だから登録しとけ。メールとか文字打つ系はダメだからなんかあったら電話にしろよ」

「……」

「やっだ。あんたまだアドレス帳の登録方法覚えてないの? あんだけ散々教えたのに」

「ほっとけ。こういう電子機器の扱いは俺ァ苦手なんだよ。だいたい電話するためのモンなんだから、カメラだのメールだのいらねぇだろ。無駄がありすぎんだよ。現代社会の闇が見えんだよ」

「若人の発言とはとても思えないわね」

「あ!? 誰が耄碌したジジイだこら!」

「そこまで言ってないわよ」


 いつの間にやら黒の車を私達の横につけていたお姉さんが、車の窓から岡崎さんをからかう。お姉さんは私を見て少し目を見開いたかと思えば、すぐににっこり笑いかけてくれた。


「あたしが事故ったときに現場に居た子よね。あたしのこと覚えてる?」

「は、はい。えっ、と、柊さん……でしたよね? その節はありがとうございました。……そうだ! あのお金……」

「やだ、お礼なんていいのよ。お金のこともあれは受け取って貰わなくちゃ困るって言ったでショ。あとシラユキって呼んで? ……それにしてもアナタ、わっかいのに今時の子には珍しく礼儀正しいというか、えらく謙虚というか……。岡崎、あんたも見習いなさいよ」

「うっせ」

「お買い物帰りなの? あたしも岡崎も今日は休みだからお家まで送っていきましょうか? エンリョしなくていいわよ」

「い、いえ大丈夫です。お仕事中なので」

「……ふぅん? 何のお仕事してるの?」

「え!? あ、えっと、その……」

「オイもう行くぞ飲兵衛女。アイス買っちまったんだよ。こんな炎天下じゃすぐ溶けちまう」

「ハイハイ。それじゃあまたね、シキティ。機会があったら女同士お茶でも行きまショ」

「は、はい。ぜひ。……しきてぃ?」


 あれ、私、お姉さん……シラユキさんに名乗ったっけ。岡崎さんが教えたのかな……。っていうかシキティってなんだ。

 不思議に思いながらも、シラユキさんの車に乗り込もうとする岡崎さんを見て思わず「あ、あの!」と声をかけ引き止めてしまった。きょとりとした少し目を丸くした顔は相変わらず少年っぽさを感じさせた。


「ほんとうに、無理しないでくださいね。怪我も、それだけひどいならちゃんと治るまでお家でおとなしくしててください」

「俺、結構強いし頑丈だから大丈夫だって。ぶっちゃけ心配される程でもねえよ。周りが大袈裟に騒ぎ立ててるだけ」

「でも」


 続けようとすると頭の上に大きな手を乗せられ、がしがしと乱暴に頭を撫でられた。髪の毛がぐしゃぐしゃなったのも直さず、びっくりした顔で見上げる。岡崎さんは黙って笑っていた。それ以上声に出すことができなくなった私は勢いよくお辞儀をして遠くなっていく車を見送った。

 スマートホンのアドレス帳には香澄ちゃんと、お仕事関係の人たちと、天龍組の関係者の人達数名と、そして太刀川さんの名前が登録されている。ここに岡崎さんを加えてもいいのだろうか。今度は私に形のある繋がりを残していった、あのひとの名前を。


「あ~~もう~~やっぱり真夏に4Pってしんどい……。この時期は3Pが限界ね~~。暑苦しいったらないわ」

「(4P……)お、お疲れ様……。香澄ちゃん今から休憩? 飴ちゃんあるよ。食べる?」

「ん。あと一発相手したら今日は終わり。グレープ味ある? チョーダイ」


 あれから数日後、特に私から岡崎さんに連絡することも、岡崎さんから連絡がくることもなく、いつもと変わらない、せっせと雑用に励む日々が続いていた 。

 夜になって少しばかり涼しいといえど、前述したとおり着物の暑さに慣れず苦しむ私にはあつい、という言葉しか出てこない。

 地下にある洗い場で汗を拭いながら、いろんなもので汚れたシーツの洗濯をしていた私のもとにやってきた香澄ちゃんは、私があげた飴ちゃんをこころと舐めながら「 ……ったく、上も下もズコバコズコバコ好き勝手突っ込みやがって。へたくその粗チン共が……」と愚痴を零してソファでごろごろしている。

 無理もない。こんな時期に何人もの男たちとぐんずほぐれつして汗をかくなど、もはや拷問にも等しいことだろう。実際水分補給を怠って、事の最中に熱中症になってしまい救急車で運ばれる女の子も出ていた。いくらクーラーが効いているからといえどそんなことは関係なく、体調管理はしっかりと行わなければならない。彼女たちにとって大変な季節なのだ。


「そういやあんた、上で女将が探してたわよ。またなんかやらかしたの?」

「え」

「急いで女将んとこ行った方がいんじゃない?」

「そ、そういうことは先に言ってよー!」


 とりあえず洗濯は一旦中断して、急いで上の階に戻る。芯の通った鋭い声色で名前を呼ばれ振り向くと「あんた何処におったん!?」と怖い顔をした女将さんが立っていた。なにかやらかしただろうかと内心ひどく焦りながら地下で洗濯していたことを話す。何かご用でしょうかと返事をすると、さっさとついてこいと言われた。行き先も告げず女将さんはすたすたと、けれど優雅に足早に歩いているのに対して、私は情けなく短い足でどうしても小走りになってしまう。エレベーターに乗り込んだところで、女将さんは鋭い目で私の頭の天辺から足先まで眺めた。


「髪がぐちゃぐちゃに乱れとるやないの。着物も仕事着じゃなくてきちんとしたものにはよ着替え。化粧も直してもらいや」

「あ、あの、どこへ行くんですか」

「咲! どこにおるの、咲!」

「はぁい? なんですかぁ女将さん」

「急ぎで綺麗にしてやって。この子に任せてたらもたもたして時間がかかることは目に見えとります」

「りょーかいです。ほらしきせんぱい、こっちっス。いそぎましょ」

「え、え? お、女将さん!?」
 

 女将さんは私の問いには答えてくれない。上の階に着いた途端にこの旅館で働く、ぽってりとした唇と気だるい口調が特徴の咲ちゃんを呼び出し、私の背中を押した。
 
 咲ちゃんに、無地の、鮮やかな真っ青な着物を着せられる。髪をとかし、着物の色にあった少し濃いめの化粧を施される。鏡を見て驚いた。こどもが大人の化粧をさせられている。旅館一お化粧が上手いと言われている咲ちゃんの手腕をもってなんとか見られる顔にはなっているが、如何せん素材がダメすぎて、ちぐはぐな違和感は隠せない。証拠に私よりも年下のはずの咲ちゃんは大人のお化粧がとても似合っている。「んーこればっかりはしょうがないっスねー。せんぱい童顔だし。ほんとなら化粧しない自然体の方がいいタイプなんすよ。まー遠目からならだいじょぶっしょ」と匙を投げられる始末だ。

 急ぎ足で訳も分からぬままおめかしを終えた私を、咲ちゃんは女将さんに引き渡した。手を取られ再びエレベーターに乗り込む。最上階のボタンを押したのが見えてぎょっとする。最上階は随一の特別客しか入ることが出来ない。従業員も、ベテランの選ばれた数名しか出入りできない秘匿の場所と言われている。勿論私みたいなぺーぺーが入ることを許される訳もない。自ら進んで踏み入ったことも勿論無い。


「志紀はん。ええか、一回しか言わんへんからその頭ん中によう叩き込み」


 最上階にエレベーターが到着する。エレベーターを出たところで神妙な顔をした女将さんは私を鋭く見つめた、というよりも、睨みつけた。


「今からあんたがおもてなしするお客様は4人。まず桜庭会直系風来組組長 、土師はぜしのぶ。風来組は昔っから天龍と同盟組んどって、今んとこは何ら問題はない。大人しゅうて温厚なええ人や。二人目は鹿部天道てんどう。関西を拠点にしとる刀鍛冶。その腕は類い希なもんで素晴らしい刀を打ちはる。天龍が贔屓にしとる鍛治屋や。絶対に失礼のないように。三人目は桜庭会直系東雲組組長、黒川勝景しょうけい、土師はんとは違って黒川はんはなぁに考えてはるかようわからん。けど、基本的に自分の組の利益しか考えとらん、狡猾なお人やってことは間違いない。最後は嶺上リャンシャン会組長、おろち剛造。この人が問題や。穴があればどんな醜女でも、たとえ男でも突っ込む腐れ外道。けども、 嶺上リャンシャンの勢力は上海まで通じとる。その力は強大。故に簡単に馬鹿はできひん。ええか。蠎はんは女とあらばすぐにちょっかい出してくる。何言われても何されても、いちいち慌てふためいたらあきまへん」

「……ちょっとまってください。女将さん。なんで、私にそんな、お、おかしいですよ」

「つべこべ言ってるヒマないんどす。志紀はん。いい加減腹括り」

「むっ、むりです! 私には! どうして! いきなりそんな」

「無理やない! ええ加減ぐちぐち言うのはやめ! 鬱陶しい!」


 突然の怒号にビクリと大きく体が震えた。女将さんは今にも人を射殺す様な、血走った鋭い目で私を貫いている。呆然と、硬直した私は何も言えなくなる。突っ立ったままになってしまう。怒られた。ここに来てから初めて、ものすごく、怒られた。

 少したりとも動くことが出来ず黙りこくってしまった私に対し、はぁあと重いため息をはいた女将さんは私に背を向けた。


「ええか、志紀はん」

「……」

「これから何を見ても、みっともない悲鳴あげんといて。中でウチの従業員が組の方らに真っ裸で奉仕してようが突っ込まれてようが、たとえ強姦されてても殺されててもや。これがわてらの仕事場なんや。ほんまやったら、あんたみたいな女なんかに一歩たりとも踏み込んでもらいとうない」

「……」

「絶対に、みっともない姿は晒さんでおくれやす。この旅館の名を汚す様な真似したら、わてはあんたを一生許さへん。それが出来ひんなら、……いつもみたいに顔俯かせて大人しゅうしといて」


 それだけ言い残し、女将さんはエレベーターに乗って行ってしまった。怒られたというダメージがひどくて、ひとりにしないでと縋ることも出来なかった。じわりと涙が出てきて視界が滲む。

 つんと鼻の奥がいたい。だめだ、泣いちゃだめだ。せっかく咲ちゃんにお化粧してもらったのに取れてしまう。でもこわい、こわいよ。いきたくない。何で突然、毎日雑用しかしてこなかったのに。むり、むりだよ。そんなこわいひとたち、私には相手できないよ。でも、行かなきゃ。へましたら恨むって言われた。行かなかったらもっと恨まれる。行かなきゃ。行かなきゃ。

 指定されていた和室の前に座る。障子を開けるための手が震えて動かない。脳裏にはあの日の光景が蘇る。掴まれた頭、殴られた衝撃、そして血飛沫の舞う頭のない胴体。ごろりと頭の転がる、音。吐き気がして口を押さえる。なにをされるんだろう。もてなすってなにをすればいいんだ。とうとう私も彼女達と同じ様に身体を売らねばならないのだろうか。そもそもなぜそんな、トップクラスとわかる面子の中に私が放り込まれなければならないんだ。
 
 カタカタと震える手を障子に添える。「しつれいします」とあちらに聞こえているのかいないのかか細い声を絞り出す。


「入れ」


 聞き慣れた低い声が聞こえた。まさか、と思いゆっくりと障子を開けまずは頭を下げる。そして顔をおそるおそる上げる。

 女将さんから説明を受けていた、独特の雰囲気を放つ、極道の男たちが居た。いつも天龍組でお会いする若い衆の皆さんとは比べものにならない威圧感、そして迫力があった。品定めするかの様にこちらへ視線を向けてくるのが恐ろししい。けれど、その中に、私が現れるといつも煙管を置く、そんな些細な動作ひとつでも優雅な、人の心を揺さぶるひとが居た。


「よォ、久し振りだな」

「太刀川さん……」


 いつもの挨拶、いつものゆるりとした気怠い態度。青い瞳。 余裕綽々なニヒルな表情。前回あんなことがあったというのに、このときばかりはこのひとがいて良かったと安心して泣き出しそうになった。でも、その安心感と同じくらいに、 私の面倒をみてくれて、色々と気にかけてくれているのに、やっと見慣れ始めていた筈のあなたもこわいだなんて。私はなんて薄情な人間なんだろう。


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