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10話 おぬう様の襲来

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 とんとんとんとん……

 オリヴィアは厨房で昼食を作っていた。今日のメニューは野菜たっぷりのミネストローネ。数日アシュレイに食事を作ってわかったのだが、彼は野菜が嫌いだ。特に生野菜。彼女は子供みたいなことを言う賢者のために、野菜克服メニューを色々試している。トマトは好きだということが判明したので、トマトの酸味と甘味で他の野菜の青臭さを消した、じっくり煮込んだミネストローネを作ろうと思っている。

 とんとんとんとん……

 軽快なリズムで野菜を小さく切る間、オリヴィアは考え事をしていた。というより、彼女にとって料理は片手間にできるほど慣れたものなので、つい暇になった頭が余計なことを考えるのだ。……最近のアシュレイは魔導人形の修理に勤しんでいる。専門外のことなので、少し時間がかかっているようだ。魔導人形が復活すれば、護衛の自分は不要になるだろうか……

 とんとんとん、ざくっ!

 誤って野菜と一緒に切ってしまった左手の人差し指から血が垂れる。こんな初歩的なミスをするなんて……。ネガティブなことを考えるからだわ、とオリヴィアは反省した。一旦包丁を置いて、手を洗う。思いの外深く切ってしまったようで、傷口からどくどくと血が流れている。彼女は人差し指に右手をそっと添えて、治癒魔法の呪文を唱えた。もちろん、発動することはない。

「馬鹿みたいね」

 彼女はくす、と乾いた笑いを漏らし、救急箱を取り出した。厨房が一番怪我をしやすい場所なので、皿を収納している棚の端に予め用意していたのだ。真新しい綿布を取り出し、ぎゅっと傷口を押さえる。アシュレイに貰った薬を使えば瞬時に治るのだろうが、勿体なくて彼女は使えていなかった。
 しばらく傷口を押さえたまま、オリヴィアはまたぼーっと考え事をしていた。先日からどうも、消極的になりすぎだ。先日……アシュレイに自分が魔法を使えないことを話してしまってから。今までの職場も、魔法が使えないと周囲にバレてから上手くいかなくなった。変に距離を取られてしまうのだ。アシュレイも、距離を取るのだろうか……
 そこまで考えて、彼女はぶんぶんと頭を振った。自分らしくない。その時はその時だ。こんな高給の仕事をみすみす手放すわけにはいかない。相手から暇を出されない限りは……。それに、落ち込むのは性に合わない。

「明るく! 元気に! パワー!!」

 オリヴィアは両手を振り上げて、己を鼓舞した。うん、もう大丈夫。

「なんだ、その間抜けなスローガンは……」

 びくっ、とオリヴィアは肩を跳ねさせて、そろりと振り返った。厨房の入り口にアシュレイが立っている。気配に気づかないなんて、油断しすぎてしまった、と彼女はまた反省した。

「なんでもございませんわ! アシュレイ様、昼食の準備にはもう少し時間がかかりますの。お腹が空いていらっしゃるのなら、先にパンだけでも召し上がられますか?」
「いや、言うことがあって来ただけだから……って、あんた。その手どうした」

 オリヴィアはさっと左手を隠した。うっかり綿布を巻きつけたままだった。

「こ、これはですね、えっと……。左手の人差し指が疼くのですわ! 封印された……えっとぉ、なんとかが……」
「うろ覚えで思春期初期特有の病を発動させなくていい」

 そう言いながら、アシュレイはオリヴィアに近づいた。

「どうせ怪我でもしたんだろ? 前やった薬はどうした。持ってないのか?」
「えっとぉ……」
「持ってないんなら、新しいの作ってくる」
「持ってます! 持ってますわ! 肌身離さず!!」

 オリヴィアはエプロンのポケットを探って、以前アシュレイに貰った小瓶を取り出した。それをアシュレイはひったくるようにして取り、オリヴィアの肩を押して近くの椅子に座らせた。

「持ってんなら使え、アホ。ほら、手ぇ出せ」
「じ、自分で塗れますわ!」
「勿体ねえとか言ってちょびっとしか使わねえのは目に見えてんだ。おら、大人しく従いやがれ」
「うう……」

 不服だったが図星だったため、渋々オリヴィアは左手を差し出した。アシュレイはその手を掴み、指先にたっぷりと薬を塗り込む。

「あのな、薬にも消費期限ってのがあるんだ。使える内に使わねえと、それこそ勿体ねえだろ」
「だ、だって……」
「だってもヘチマもあるか」
「いたっ!」

 アシュレイはオリヴィアの額にデコピンをした。そして、その額にも薬を塗り込む。

「わあ! 全然痛くないのに! 蚊に刺されるほどのダメージもなかったのに! 勿体ないですわ!」
「僕は蚊以下か。くそ、むかつくからデコ全体に塗ってやる」

 アシュレイはオリヴィアの前髪をかきあげ、額にぬりゅぬりゅと薬を塗り込み始めた。彼はすごく楽しそうだ。オリヴィアは半泣きだが。

「いやーー!! 無駄遣い反対!」
「ニキビの予防にもなるから、無駄じゃねえ」
「レディにニキビの話をしないでくださいまし! デリカシーなし! 非モテ! 陰キャ!」
「そうかそうか。そんなにお望みなら、顔全体に塗ってやろう」
「いやーーーー!!!!」
「何イチャイチャしてんの、あんたたち」
「……!?」

 突然第三者に声をかけられ、オリヴィアとアシュレイは一斉に声がした方向へ顔を向けた。厨房の入り口に、先ほどのアシュレイと同じように知らない人物が立っている。黒髪のウェーブがかった胸までの長さのロングヘア。端正な顔立ち。フリルがたっぷりついたシャツに細身のスラックス。男装の麗人とも言えるし、中世的な男性とも言える。いや、先ほどの言葉遣いから女性だろう、とオリヴィアは確信した。

「お早いお着きですね、兄上……」
「あにっ……!?」

 アシュレイの言葉によって、その確信は一瞬で打ち砕かれたが。

「可愛い弟のお願いだもの。飛んできちゃったわ」

 ぱちり、とアシュレイの兄はウインクをした。その顔はミュルズ侯爵とそっくりだわ、とオリヴィアは呆然と見る。ミュルズ家の人間には違いないのはわかった。それでも、まだこの人が男性だと信じ切れない。

「この子が噂のオリヴィア嬢? かっわいい~! あたしはロザージュ・ミュルズ。よろしくね」
「本名はロンド・ミュルズな」
「もう! アシュったらバラさないでちょうだい! ロンドなんで可愛くない名前、やーよ」

 ぷりぷりとロンド……いや、ロザージュは頬を膨らませて怒っている。余計にオリヴィアの頭の中は混乱した。結局、彼なのか、彼女なのか……

「気軽にロザージュって呼んでね。あなたのことは、オリヴィアちゃんって呼んでもいいかしら?」

 ふわり、とロザージュは微笑んだ。圧倒的美人。これはもう、性別なんて関係ない。お兄様かお姉様かと聞かれたら、間の様だ。性別、イコール、ロザージュだ。美しいは正義。オリヴィアは心の中で謎にガッツポーズをした。

「もちろん! よろこんで……!」
「ふふ、可愛いわあ。持って帰っちゃいたいくらい」

 ロザージュがそう言った途端、アシュレイがオリヴィアを庇うように立ち塞がった。

「オリヴィア、油断するなよ。兄上はこんな見た目だが、中身は雄の中の雄だ。女でも男でも可愛ければ見境ない。あんたなんかすぐに丸呑みにされるぞ」
「ふぇ?」
「ちょっと。警戒させるようなこと言わないでくれるぅ?」

 アシュレイとロザージュがばちばちと目線だけで戦っていたが、オリヴィアには一切目に入っていなかった。先ほどのアシュレイの言葉を脳内で繰り返す。意味を取り違えていなければ、彼は自分のことを可愛いと言わなかったか……と。

「はぎゃあああっ!!」
「うおっ! どうした? 発作か? ハーブティー飲むか?」
「お、おねが、お願いいたします……っ!」

 オリヴィアは顔を真っ赤にして狼狽える。アシュレイは平気そうな顔をしているのに、自分だけ浮かれている恥ずかしさもあった。あんな彼でも高位貴族の一員だ。社交辞令なんてお手のものだろうに。

「ちょっと待ってろ。すぐ用意するから」

 アシュレイが厨房の奥の食材倉庫に消えたことを横目で見送って、オリヴィアは二、三度深呼吸をした。心頭滅却。邪心根絶。悪霊退散。悪霊退散?
 俯いてぐるぐると思考を巡らすオリヴィアの前に、ロザージュがしゃがみ込んで彼女の顔を覗き込んだ。

「オリヴィアちゃん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……?」

 オリヴィアは目線だけ上げてロザージュを見た。目が合うとロザージュはにこっと笑い、オリヴィアの手に塗り薬の小瓶を手渡す。

「この薬、アシュからもらった物でしょ? 肌身離さず持ってるのに、使わなかったのは何故?」
「そ、それは……その、だから……勿体ないから……」
「それは建前よね。本音は?」

 笑みを深めてロザージュがオリヴィアに詰め寄る。美人が笑顔で詰めてくること以上に耐え難い尋問も拷問もない……そんな気にさせる完全無比な笑顔だ、とオリヴィアは追い詰められた頭で思った。そして、気がついたら本音が口から滑り出ていた。

「は、初めてなんです……。家族以外から、贈り物をいただいたのが……」

 オリヴィアはぎゅう、と両手で小瓶を包み込んだ。仮に中身が使えなくなったとしても、一生持っておこうと思うくらいには、彼女には嬉しいことだった。

「あ……ごめんなさい。アシュから貰ったから大事にしてるのかなって、ちょっと揶揄いたかっただけなの」

 ロザージュはわたわたと両手を振って慌てている。慌てても美人は美人だな、とオリヴィアは思っていた。ロザージュが慌てる必要なんてないのに、とも。くす、とオリヴィアは小さく笑う。

「いいえ。私のような人には滅多にお目にかかれないでしょうから。ふふっ。レアキャラ、というやつですわ」
「オリヴィアちゃん……」
「おいこら兄上。なにオリヴィア虐めてやがるんですか」

 どかっとアシュレイがロザージュを蹴飛ばした。いつの間に戻ってきていたのだろう。手には湯気の立つティーカップを持っている。

「虐めてなんか……いえ。今は暴力も甘んじて受けるわ。全然痛くないし」
「劇薬ぶっかけんぞ……。ほら、オリヴィア」
「ありがとうございます」

 オリヴィアはアシュレイからティーカップを受け取った。澄んだ黄緑色のハーブティー。すん、と香りを楽しんでから、一口含む。美味しい。彼女はほう、と息を吐き出して、もう一度カップに口をつけた。恥ずかしさも、消極的な感情も、全て洗い流されるような気がした。
 穏やかにお茶を楽しむオリヴィアの頭を、アシュレイがくしゃり、と一度撫でた。彼女が何か反応をする前に、彼は離れて行く。

「兄上。いつまでも寝転んでないで魔導人形を直しやがってください」
「まあ! お兄様に向かってなんて口ぶりかしら。……まあいいわ。どこにあるの? 案内してちょうだい」

 揃って厨房を出て行くミュルズ兄弟の背を、オリヴィアは茫然と見送る。ハーブティーを飲んでいるはずなのに、落ち着かない気分を不思議に思いながら。
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