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第三話 対の魂

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 吾輩は『たま』である。だけど、子猫の頃に去勢されたので、タマはもうない。
 気に入っているフレーズではあるけれど、さすがに三回目になるとどうもマンネリ感が漂ってきてしまう。
 季節は秋も深まってきて、暗くなるのが早くなってきた。夏は午後七時を過ぎても明るかったのに、最近は四時くらいでも薄暗い。そろそろ初雪が降る頃だろう。雪虫が出窓の向こうではかなげに飛び回っている。
 出窓も朝の掃除の時以外は締め切ったままの日が多くなったので、海老蔵と話すのはどうしても玄関フードになってしまう。僕は寒さには強い方ではない。この家に来る前に住んでいた家で千恵子さんが突然居間で動かなくなった時のこと。すぐ目の前がお兄さんの家だったけれど、普段から千恵子さんの家は人の出入りが少ない。次の日の夕方に警察の人が来て動かなくなった千恵子さんを連れて行ったし、千恵子さんが通っていた作業所っていうところの人達もいっぱい来たけれど、誰も僕のことには気づいてくれなかった。僕もあまり人には慣れていない方だし大人数ははっきり言って苦手だから物陰にじっと隠れてようすを見ていたから見つけられなかったのも無理はないかもしれないけど、結局火の気のない冬の部屋の寒さの中に食べる物もないまま三日間も忘れられて、その時にこじらせてしまった猫風邪がいまだに尾を引いている。昨日も大嫌いな動物病院に連れて行かされて予防接種されたので、お尻のあたりが何となくウズウズしている。人間の世界ではこれを違和感というらしい。同居している夫婦はよく
「違和感って何や?」
って、有名なプロ野球の元監督さんの言葉を言って笑い合っている。僕の気も知らないで平和なものだ。
 海老蔵は海老蔵で、ケンカで前足を傷めて三本足で歩いているところを二人に見つかってしまい、ケージに入れられて僕の行っている(本意ではなく強制的に)動物病院に連れて行かれて、抗生物質を注射されたらしい。それ以来ケージか同居の男の人を見かけると距離を置いて接するようになった。
「怪我や病気じゃない時は連れて行かないって」
と彼は笑いながら弁解の声をかけているけど、海老蔵はよっぽどだったんだろう。彼の言葉を信じきれてはいないようで、ご飯を待っている時なんかもいつでも逃げる準備をしている。その反面、他の野良猫仲間には
「野良猫で動物病院の診察カードを持っているのは俺様ぐらいなモンだろうよ。俺は人間に野良猫の存在を認めさせた世界一の野良猫様だぞ」
と威張っている。薬も効いているようで数日で最強の海老蔵に戻ってしまった。
 あれからはそんなこともあり、僕と海老蔵は以前より解り合えることが増えて、より一層仲が深まっている。ただし、これは玄関フードを挟んでの内と外での関係でだ。ひとたび僕が外へ出るとこの関係は崩れ、海老蔵は牙を向いて追い駆けてくる。
「シマのヤツらの手前、お前を追い駆けない訳にはいかねぇんだ。お前のシマは家の中、俺のシマは外だからよ。たとえお前の家の前でもここは俺のシマなんだ。俺の立場もわかってくれ」
と彼は言うけれど、本当にそれだけだろうか。その割には手加減なく追い駆けてくる。とにかく、たとえ玄関フードが開いていても海老蔵は中に入って来ない。そこに彼なりのルールがあるのかもしれない。僕にとってはこの境界が命綱でもある。
 そんなことを考えながら、僕は玄関フードに同居人が敷いてくれたマットの上で外を見ながらウツラウツラしている。海老蔵は、これも同居人が用意した屋根付きの段ボール箱(使い捨てカイロや毛布まで用意されている)の中に入って暖を取りながら眠っている。外にはいるけれど、お腹をまる出しにして寝ている姿なんかはまるで飼い猫のようだ。
「なぁ兄弟」
僕は海老蔵とは兄弟ではないけれど、逆らうと面倒くさいので無言のまま頭を上げる。海老蔵も段ボール箱から出ずに話している。
「何で最近は浮幽霊がいないんだ?」
「みんなお通夜の席で亡くなった人の人柄や生きていた時の思い出を話してこの世の垢落しをしているんじゃないの?」
「それにしても少なすぎやしないか?」
「僕はココに来る前もっと田舎にいたからわからないや」
 僕と海老蔵は、中学生の魂を元の身体に送った後、交通事故に遭って亡くなってこの世を彷徨っていた夫婦の霊や生前に仕事一筋で社会の第一線で働いていた女の人の霊の話を聞いて、それぞれあの世に送っている。
 交通事故で亡くなった夫婦は、生き残った小学校三年生と一年生の女の子の成長を心配して成仏できないでいた。二人の出会いから妊娠・出産、その頃の二人の喜びや成長を見守る親の気持ちを聞いて、二人がどんなに子供たちを愛しているか、子供たちの親でいることがどんなに幸せだったかを知ることができた。
 事故の相手は飲酒運転で信号を無視して家族が乗る車に時速八十キロで突っ込んできた。相手の運転主は二十五歳の会社員だったらしい。夫婦は即死、二人の子供は足の骨を折る重傷だったけど、命に別状はなかった。夫婦の死後は夫の親に育ててもらっているけれど、子供たちの将来が心配で心配でたまらない。
 それからの二人は、学校の行き帰りは一緒に寄り添い、仏壇に手をあわせる子供たちを後ろから抱きしめ、ベッドで寝る時は枕元で子守唄を歌ってあげる毎日を繰り返している。でも、その声や微笑は子供たちには届かない。時々ハッとした表情で周りをキョロキョロして何かを探すような仕草をした時には、
「ここにいるよ!」
と二人を強く抱きしめてあげようとしても、両腕が、胸が子供たちをすり抜けてしまう。愛しいと思う気持ちが強くなるほど、やりきれなさや虚しさが未練となって胸を締め付ける。中学・高校・大学・社会人と成長していく子供たちの人生の節目に立ち会えない。喜びや悲しみを共有してあげられない辛さが夫婦を苦しめていた。事故の相手に対しての恨みはないけれど、子供たちを残して死んでしまった自分たちへの怒りが魂を焦がしていた。
 涙を流しながら、繰り返し繰り返し自分たちの気持ちを話していくうちに、幸せだった頃の気持ちが二人に芽生えてきた。そして、どちらからともなく、自分達の子供だから信じても大丈夫、両親も自分達の分も愛情を持って育ててくれているから幸せに育たない訳がないという気持ちになった時に、お迎えの光を見つけることができた。二人の子供を残して亡くなった未練と両親を亡くした子供の悲しみが共鳴して進む道を見失っていたらしい。お迎えに来た奥さんのお父さんが、夫婦の気持ちが幸せな気持ちを思い出した時に子供たちの悲しみも癒えたから、将来は大丈夫と話していた。

 生前仕事一筋だった女の人は四十六歳で亡くなったけど、その後数年彷徨っていた。死んでしまうと自殺を図った中学生もそうだったけど、時間の感覚があいまいになるようだ。女の人も何年経ったかはっきりとしないと話していた。
 彼女は地域で一番の進学高校を卒業してから国立大学の建築学部を卒業し、大手の建設会社に就職した。見た目は勿論だが、勝気な性格と頭のキレを武器に仕事に没頭していき、社内で女性初の幹部役員にまで上り詰めた。当時は社会的にも業界的にも物珍しさから『女性初の』というフレーズが話題になるたびに何度も取り上げられたけれど、女性だからとか男性だからとかではなく『私』という人間の働きぶりや仕事に対する姿勢が幹部役員としての資質があると評価され、認めてもらえたということが何よりも嬉しかった。
 もちろん『女性だから』という陰口や妬みなどのバッシングは聞こえてきたけれど、そんなものに構っている暇はないので当然無視していると、それも次第に消えていった。彼女の働きぶりが言う隙を与えなかったのかもしれない。
彼女にとって建築の仕事はまさに天職だった。人々の生活を支える基盤となる家やビルを作ることは街や国を作るのにも等しく、生涯を賭けても惜しくない歓びを毎日感じて暮らしていた。それが彼女にとっての魅力のひとつになっていたんだと思う。だから四十歳を過ぎても(見た目には三十代にしか見えないけど)結婚を申し込む男性が絶えなかった。中には将来を共に歩んでも良いかなと思う男性もいたけれど、結婚生活には全然興味がないばかりか、子供ができて産休や育休をとることで同僚たちや社会に遅れをとることへの不安の方が強くて踏み出すことができなかった。
 『家族』という概念が重すぎたこともあり、付き合う相手は家庭を持っている男性ばかりだった。『結婚を前提』という重さがなく、その人の人生を背負うこともない。彼女にとっては都合の良い交際方法だったけれど、男性にとっても結婚や家庭を望まない女性は都合の良い相手だったろう。
 それでも彼女の中では、大好きな仕事に集中できることの喜びが大きかったので割り切った生活ができていたけれど、四十六歳の誕生日を迎える一週間前に受けた人間ドックで乳癌が発見された。半年位前から右胸に何となく違和感が続いていたけれど、気にする程のことではないだろうと忙しさにかまけてそのまま放置していた。しかし、見つかったときには各部に転移している状態だった。
 余命宣告を受けた時、目の前が真っ暗になり、彼女は初めて自分の人生を後悔した。
「何やってきたんだろう。私・・・」
すべてを仕事になげうってきたけれど、果たして自分はこの世に何を残せたのだろうかと。『もっと世界の街を見て、歴史的な建築物を見て巡りたかった』『好きな人と一緒の人生を歩んでみたかった』もっと、もっと・・・。
仕事に夢中になって、それが天職と思って進んできたけれど、病気と向き合った時に心の中に閉じ込めていた自分が堰を切ったようにあふれてきた。泣いても後悔しても遅い。私が選択してきた道だ。彼女は翌日会社に辞表を出し、マンションを引き払い、両親の待つ故郷へと戻ってきた。
 二十七年振りの故郷は、彼女にとってとても温かかく、両親や実家の周りの人たちも年を重ねていたけれど、彼女に十八歳の頃の気持ちを甦らせてくれた。同級生はほとんど他の街に出ていたので、同世代の中では異邦人状態だったのは否めなかったが、それでも故郷の空気は彼女を穏やかにさせてくれた。
 実家に戻ってからも、会社の元同僚や部下たちからは毎日のように相談の電話やメールがきていた。長年勤めていた会社だ。辞めたとはいっても内情は手に取るように解る。彼女がアドバイスしたことやアイデアは、所詮彼らの意見として取り入れられることは百も承知していたが、電話やメールがくるたびに会社での自分の存在の大きさが実感でき、彼女は自分のキャリアに対してのプライドを保つことができた。その時は、辞めたことへの後悔や喪失感よりも充実感や満足感に身も心も包まれて至福を思う存分味わうことができていた。
 しかし、病魔に蝕まれた身体は日に日にやつれていった。そして、両親に看取られて三ヵ月後に息をひきとった。
死後、魂が身体から離れると天井の付近から自分の最後を見ているという話は本当だった。生前、神仏にすがるのは弱い人間のすることと思っていたし、宗教は何となく胡散臭いと信じてこなかった。線香の匂いも好きになれなかったので、神仏に手を合わせるよりも元気に働いている姿を見せることが先祖供養にもなると思って生きてきた。死亡時刻を告げる医師。泣き崩れる両親。まるで現実感のない風景だった。ただ、魂だけになった身体は痛みも苦しさもなくなったせいもあって、思いの外落ち着いて死を受け入れることができた。でも、『私はこの世に何を残してきたんだろう』という問いは心から消えることはなかった。
 葬儀はこじんまりとしていた。長い間都会で暮らしていたこともあって、そんなものだろうとは思っていたけれど、あんなに魂を込めて、生活の全てをなげうって働いてきた会社からは花輪が送られてきただけで、仲の良かった同僚や会社の役員たちの出席がなかったことが少し悲しかった。唯一無二の存在だったつもりでいたが、所詮歯車のひとつに過ぎなかったのだと痛感させられた。もちろん交際していた男性は姿を現すはずがなかった。
「私はこの世に何を残せたんだろうか」
その言葉を残し、彼女は生前の自分が残した足跡を探すためにこの世を彷徨い続けることになった。ズタズタになってしまったプライドを引きずりながら・・・。
 ぽつりぽつりと話す彼女が涙を流すたび、滴が地面に溜まって映像が映し出された。仏壇に向かって手を合わせる両親の姿だ。両親にとって彼女がどんなに可愛かったか、どんなに大切だったか、自分たちよりも先に送り出すことがどんなに辛かったか。親の愛情が、彼女だけでなく僕や海老蔵(珍しくこの時は起きて話を一緒に聞いていた)にもひしひしと伝わってくる。
「私は、ずっと強い人間だから誰にも迷惑をかけずに一人で生きていけると思って生きてきたの。でも、強くても弱くてもひとりで生きていくことなんてできないんだよね。どんな人も親に愛されたり、周りに支えられたりして生きているんだものね。生きていた時の私は傲慢だった。生きていた証を探すなんて、死んでからも傲慢だったんだね」
彼女が呟いた時、涙に映っていた仏壇の中にある仏像がだんだんと大きくなって浮き上がってきたかと思うと、僕たちの目の前に等身大の観音様が姿を現した。彼女に向かって差し出された両腕が彼女を優しく包み込む。幸せそうな表情の彼女の魂は輝きだして光の玉になった。魂本来の姿に戻ったんだと思う。観音様は僕と海老蔵にも優しく微笑んでくれた。そして彼女の魂を大事そうに抱えて天に昇っていった。

 最近は海老蔵とのイキもだいぶ合ってきたんだと思う。人間の話を聴くということは思った以上に体力を消耗する。海老蔵はそんなことはお構いなしに連れて来ているんだろうけど、彼と話していると力が湧いてくる気がするから不思議だ。チームとして機能している証拠だと思う。
「このままじゃ俺の計画が全然進まないうちにジジイになっちまう」
「計画?」
「そうよ。あの後俺は考えたんだ。もっともっとニャン格を上げるとこの次は人間に生まれ変われるんじゃないかってな」
「はぁ?・・・」
「人間にだよ。きっとそうなるって。俺ぁ決めたんだ。生きているうちはこのシマをニャン格で仕切った後、人間に生まれ変わって人間のボスになって、人間のシマを仕切ろうってな。そして野良猫たちを追っ払ったりいじめたりする人間たちや飯をやらない人間たちを懲らしめてやるんだ。どうだい?良い考えだろう?」
僕が無言でいると、
「そうと決まれば、こうして寝ていられねぇ。ちょっくら浮幽霊を探してくらぁ」
と縄張りのパトロールに出かけて行った。海老蔵の夢に付き合うつもりはないけれど、命を賭けて守りたいと思える相手がいるっていうことをちょっぴり羨ましいと思っている僕がいることも事実だった。
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