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第二話 命の代償

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 そして、こんなこともあった。あれから二週間くらい経ったときのことだ。授業で江戸時代の三大俳人の知っている句とその意味を発表することがあった。その中で、小林一茶の『雪とけて 村いっぱいの 子どもかな』っていう句が出てきた。確か小学生の頃に習ったんだけど、僕はその頃から疑問に思っていたことを先生に尋ねたんだ。
「この句って春になって村のあちらこちらで子どもたちが外に出て遊ぶようになったっていう意味だって言われてるんですけど、厳しい冬が終わって村の人々が外で楽しそうに仕事をしている表情が、まるで子どもたちのように無邪気に見えるっていうようにも取れませんか?」
すると、先生は困ったような表情をして
「君がどう考えようと自由だが、小林一茶は日常のありのままの感情に重点を置いて庶民的な句を読んだ俳人だから、この句はそのままのとらえかたで良いと思うよ。他のみんなは葉山の意見についてどう思う?」
先生が呼びかけると、クラスのみんなは僕の方をチラッと見てクスクス笑っていた。そんなみんなを見て
「みんなはそう思っていないみたいだな。そんなに深く考え過ぎなくても良いんじゃないか?ありのままとらえれば。」
「でも、たくさんの子どもだけが村にいるって不自然じゃないですか?村の光景をイメージしながら声に出して読んでみてみると、ウキウキしながら畑に向かう大人の姿がある方が自然だと思うんですけど・・・」
「葉山、お前その句は小学三年で習うんだぞ。その時からずっと引っかかったまんまだったのか?本やネットで調べてみろ、春になって子どもが外で遊んでるようすを詠んだってなっているから。そんなにこだわらずに他の句も覚えたらどうだ?さぁ、この話はここまで。次は誰に聞こうかな・・・」
先生もニヤニヤしながら次の発表する人を指した。僕は恥ずかしさで顔がカーッと熱くなるのを感じながら席に座った。そんな僕を見てニヤニヤ笑っているやつもいた。同じ教室にいるんだけど、クラスのみんなとの距離がとっても遠く感じられてしまった。急にみんなが大きく見えて。僕の方を見下ろしながらニヤニヤ笑っているように見えた。
その後の授業は、どんな内容だったか全然覚えていない。
 僕は後で知ったんだけど、その頃の先生たちは僕に発達障害があるんじゃないかって疑っていたらしい。その日の夕方、学校に両親が呼ばれた。先生は授業での様子を伝えて、一度病院で発達検査をしてみたらどうかと言われたそうだ。お父さんもお母さんも先生の意外な提案に戸惑ったそうだ。無理もないよね、自慢だった息子が今度は障がいの疑いをかけられたんだから。
 特にお父さんは悩んだみたいだ。自分も医者だからね。自分の息子が小児神経科に罹るというのはプライドが許さなかったらしい。その夜に塾から帰った僕を待っていて、悩みがあったら言えだの一体どうしちゃったんだ、何が不満なんだって日にちが変わるまで懇々と続いた。僕が何も言わないでいると、お父さんはとうとうあきらめたみたいで、次の日、信頼できる同僚のお医者さんに検査を頼んだんだ。そして、それから僕とお父さんの関係はギクシャクしてしまった。
 検査は一週間後に両親が働いている大学病院の小児神経科で行なわれた。心理士がする発達検査と心理検査を受けた後、血液検査と脳波検査を受けた。お母さんは僕の生まれてからのようすをお医者さんに話していたけど、お医者さんもお母さんも気まずそうだった。
 三日後に検査結果が出たけれど、結果は異常なし。心理検査では心の不安定さがみられたけど、思春期特有のものだろうと言われた。僕への発達障害の疑いはめでたく晴れたんだけど、学校の先生は検査結果を信じてはいないみたいだった。
 本屋で調べてみたけれど、先生たちはたぶん広汎性発達障害(現在の自閉症スペクトラム障害)っていうのを疑っていたんだと思う。俳句の件もそうだったけど、各教科で小学校時代に疑問に思っていたことがこだわりとなって学習のつまずきになっているんじゃないかって言っていたからね。でも、障がいに僕を当てはめてみたって、僕は僕でしかないんだから何も変わらないと思うんだけどね。仮に診断名がついていたらどうなっていたんだろう。担任の先生も僕の成績が落ちたのは学校や担任側の責任とかじゃなくて障がいのせいだってできて、その方が都合が良かったのかもしれない。その頃は特別支援教育っていうのが注目されていて中学校にもコーディネーターの先生がいたから、何か支援を受けることになったのかもしれないね。今考えると、それはそれで面白かったのかもしれないけれど、その時はそんな余裕なんて全然なくって、逆に先生に対しての不振が大きくなっていったんだ。
 それからの僕は、クラスからも両親からも距離ができてしまった。そして苦しい胸の内をいよいよ誰にも打ち明けることができなくなった。みんなの期待を裏切っている自分が許せなかったし、やり場のないモンモンとした気持ちを処理しきれないまま、苛立ちがだんだん強くなっていった。
『死んじゃえ。そうすれば何もかも忘れて楽になれる』
『お前一人この世からいなくなったって誰も困ったりなんてしないさ』
『このまま生きていたって、どうせ周りの人に迷惑をかけてしまうだけなんだから』
心の中に芽生えたそんな言葉が日に日に大きくなってくる。僕はそのささやきを聞くたびに
『違う!違う!』
って心の中で叫びながら否定していたけれど、最後は疲れてきてしまって否定する気力もなくなってしまった。そして、だんだんとその考えに縛られて逃れられなくなっていったんだ。
『もう両親や周りを失望させちゃいけない。生きていたら僕はこの先何をしでかすかわからない。両親に恥ずかしい思いをさせないためにも僕は生きていちゃいけない』
って思うようになっていった。とにかく自分自身が信じられなかった。モンモンとした気持ちを制御できない自分が怖くなった。両親のメッセージを見るたびに辛くて辛くて、情けない自分に涙が出た。
 そして、放課後誰もいない屋上に上って、クラブ活動が終わるのを待った。先生方も帰り始めたのを確認して、僕はフェンスを乗り越えて飛び降りた。
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