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第一話 この世の垢落とし

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 吾輩は『たま』である。だけど、子猫の頃に去勢されたので、タマはもうない。
 なんて、すごい文学作品の真似をしてみたけれど、僕には『たま』っていう名前があるし、同居人が変わってもこの名前は引き継がれているから、僕は一生『たま』なんだと思う。それに僕は吾輩というガラでもないし、哲学的な猫でもない。アレコレ難しく考えるよりも、目の前の出来事をあるがままに受け止める方が僕の性に合っているし、何より気楽で良い。
 生まれは確か現在住んでいる家の近くだったと思うけれど、もう、ずいぶん昔の話なのであまりよく憶えていない。十年以上も他の地域で生活していたから、懐かしい気持ちはあるけれど、その時と比べると車の通る量が多くなっているし、スピードも速い。それに、野良猫も多くなっているので、争いごとがめったになく、平和な農村生活の長かった身としては、ちょっと恐怖心を覚えるし、疲れる。しかし、そうは言っても、猫の習性とは悲しいもので、前の家では家の中に猫用のトイレがなかったから、オシッコやウンチは外で土に穴を掘ってするのが普通だった。自由に家の中と外を行き来できる生活を長らくしていたこともあって、草や木や土が恋しくて、扉が開いているとついつい外に出てしまう。
 現在の同居人夫婦は、そんな僕を心配してか、玄関フードから外を眺められるように玄関のドアを開けっ放しにしてくれている。ただ、家の作りが猫仕様ではないし、居間の暖かさが廊下に逃げてしまわないようにするため、居間から玄関に行く扉は暑い季節以外の時は閉められている。だから玄関に出たい時や入りたい時は
「にゃあ」
と声をかけなければならない。
 これはこれで、人間を動かす面白さがあるけれど、気付いてもらえるまで声を出し続けなければならない辛さもあるから、まぁ、オアイコといえるだろう。でも、冬の玄関はとっても寒いので、居間に戻りたい時に、長く待たされることは勘弁してほしいものだ。
 玄関フードからの眺めは、取り立てて素晴らしいと言うほどのものではないけれど、表の道路までに少しの距離があり、その間に松の木が数本植えられている庭があるため、季節を感じるにはちょっと趣がある。夜なんかは、車のライトが効果的に行き交い、幻想的でもあるため、僕のお気に入りの場所のひとつだ。
 そんな僕が、この家に来て三ヵ月が過ぎた。この頃は、初夏の気配が少しずつ感じられるようになった。夜になっても暖かい日が多くなってきたこともあって、玄関と居間を隔てる扉が常に開放されるようになった。
 この日も、外の景色を眺めながら風流な気分に浸ろうと、僕は玄関フードに敷かれたマットの上で体勢を整えながら、いつものように腰を下ろした。ちょうど新月が近い頃だったので、辺りは暗い闇に包まれていたけれど、猫の目は夜目が利くのでそんなに苦にもならない。僕は道路の方をじっと見つめながら車が通るのを待った。
 こんな真っ暗な夜は、色々な電飾を付けたトラックが良い。青や赤、黄色や緑など色とりどりの光が混ざり合いながら目の前を横切って行くのが何とも言えず美しい。トラックのスピードで揺れる庭の木々のダンスもオツである。
 どんな車が通るのかと近づいてくる音に耳を澄ませながらワクワクと胸を躍らせていた時、チリン・・・、チリン・・・と小さな鈴の音が、規則正しい間隔で鳴りながら近づいて来た。
「こんな夜に鈴の音って・・・?」
僕は、いったい何が近づいて来ているのか、ちょっと興味が湧いてきたので、音のする方に耳を傾けながらフードの外を見つめていた。すると、間もなくして町の方から白い着物を着たお婆さんが、鈴の付いた杖をつきながらゆっくりゆっくり歩いて来た。背中を丸めながら、うつむき加減で黙々と前に進んで行く。
「夜更けにどこに行くのかな・・・」
興味しんしんで眺めていると、そのお婆さんは僕の方を向いてニッコリと微笑んだ。
「猫ちゃん、猫ちゃんは私が見えるんだね」
「見えるって?だって、普通に歩いているんだから、見えて当たり前じゃない」
「動物には見えるっていうの、本当だったんだねぇ」
そう言うと、お婆さんは僕の方に近づいてきて、玄関フードの前で立ち止まった。
「おや、この家はきちんと神仏に手を合わせているんだねぇ。結界が張ってあるから、私はこの家には入らない方が良いだろうねぇ。別に悪霊じゃないから、この家の害にはならないだろうけどね、ご先祖様たちを騒がせちゃあ悪いもんね」
別に怖かったわけじゃないけれど、お婆さんの透き通るような声に、ちょっと寒気がした。
 お婆さんは、
「よいしょ」
と言って、玄関の段差に腰を下ろした。
「猫ちゃんは幽霊を見るのは初めてかい?」
「お婆さんは幽霊なの?だから僕の言葉がわかるの?」
「そうみたいだね。なりたてのホヤホヤだけどね」
と笑った。
 僕も幽霊を見たのは初めてじゃなかったけど、だいたいは道端で血を流していたり、線路に何回も飛び込んだりを繰り返す者たちがほとんどだ。歩いている人の肩にしがみついている者もいた。そういえば、お婆さんも何となく薄っすらと向こう側が見えるような気がする。でも、こんなに生きている人っぽい幽霊は初めてだ。
「私はねぇ、つい一時間程前に死んだんだよ。だから、まだ人間っぽいのかもしれないね」
「お婆さんは悲しくないの?痛くないの?僕が知っている幽霊は、みんな悲しんでいたり、悔しがっていたり、痛いと言って車や汽車に飛び込んでいたけど」
お婆さんは上品に笑い声を上げた。
「私は死にたかったからねぇ。だから、死んだ時、やっと死ねたって思ったんだよ。背負ってる物をようやく下ろすことができて、やれやれって感じで、心が軽くなったよ」
そう言って、僕を見た。とっても優しい笑顔だった。
「抱っこしてあげられないのが残念だねぇ。あんた、名前は何て言うんだい?」
「たまって言います」
「たまちゃんかい。可愛い名前だね。私の名前は石倉小夜と言ってね、隣の町内に住んでいたんだよ」
小夜さんは遠くの方を見つめた。その仕草が、僕たち猫が周りの匂いを嗅いで安全を確認する仕草に似ていてちょっとおかしかった。そして、僕に優しい微笑を向けた。
「あの世からのお迎えはまだ来ないようだし、せっかくだから、私が何で死にたかったのか、身の上話を聞いてくれないかい?ちょうど誰かに聞いてもらいたいって思っていたけど、誰とも身の上話をするほど親しくしていた人がいなかったんでね」
「良いけど、初めて会った僕に、そんな大事な話をしても大丈夫なんですか?」
「ここでたまちゃんと会ったのも、何かの縁ってやつだろうからねぇ」
そう言うと、お婆さんは寂しそうな微笑を浮かべて、ポツポツと思い出を噛みしめるように話し始めた。
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