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第零章 先代編(後編)
葛藤
しおりを挟むダフネを連れ化粧を直しに行った春雪。
従者と部屋に残ったドナは水の入ったピッチャーを手にする。
「殿下。私が」
「ああ、頼む」
「お疲れの様子で」
「予定外のことに時間を割くのかと憂鬱でな」
特別室は一日貸し切り型。
昼と夜の食事が用意されるため、一日に何度か行う公演を時に見ながらゆっくり寛ぎ夕食をとってから帰る予定だった。
「聴取は国仕えに任せても良かったのでは」
「国仕えに任せては騒ぎになる。騒ぎになれば劇場の演出だと思い喜んで帰った民を振り回してしまうことになるだろう」
だから自分が歌姫から話を聞くことにしたのは間違いだとは思わないが、今日という日が春雪とじっくり過ごせる貴重な時間だからこそ、他のことに時間を費やすことが憂鬱。
「それともう一つ。春雪さまと歌姫が接触した」
「いつのことですか?」
「演目が佳境に入ってから劇の合間に」
「お呼びくだされば私が対応いたしましたのに」
「呼ぶ以前に接触してしまったのだ。春雪さまが化粧室へ行った際に偶然歌姫と会い私に挨拶に来たことを聞き案内した」
なんと間の悪い。
王家の王子が来ているのだから挨拶に来るのは有り得ることだが、よりによって勇者が部屋を出ている時に来るとは。
精霊族の宝であり英雄でもある勇者を最低限の人物以外と接触させないようフロアごと貸し切ったというのに。
そう思いながら従者はドナの前に水を注いだグラスを置く。
「挨拶に来たのを断るのも外聞が悪いかと謁見を許可したが、今回の騒動はそれが関係しているのではないかと思う」
「謁見がですか?」
以前歌姫と一夜の関係を持ったことを知らない従者に、その晩あったことを話して聞かせるドナ。
歌姫が何を望みドナに近付いたのか、もう以前の出来事ではあるがまだ淡い期待を残していると困るため、可能性がないことを見せる意味でも謁見を許可したことなども。
「それでは殿下は今回の件は悪意があったとお考えですか?」
「いや。魔力を使い過ぎて目眩がしている辺り本人に悪意はなかったように思うが、私に対し腹に据えかねていて普段より多く魔力を放出していることに気付かなかった可能性はある。感情が揺れている時は制御を誤り易いからな」
ドナの言うそれが正解。
気弱で大人しいドナならばと勝手に計画をたて、それが自分の思い通りにならなかったからと腹に据えかねるのは逆ギレでしかないが、その逆ギレこそが今回の騒動に繋がった。
「とはいえ期待を持たせたまま後々になり問題を起こされても困りますので、巻き込まれた結果になった者には申し訳ないですが、今回区切りをつけられて良かったのかも知れません」
一夜の関係で殿下を手中に出来ると思っているのが間違い。
何とか王家と繋がりを持とうと魑魅魍魎のように擦り寄る数多の女性を見ている王家の王子が、色仕掛けなどという単純な策に気付かないはずもない。
思惑通り関係を持った彼女は自分が優位に立っていると思ったのだろうが、残念ながら殿下にとっては過去の存在。
その日その時に目の前に居ただけの一夜の相手。
殿下を利用するつもりが相手にされなかっただけの彼女に同情の余地はない。
「勇者さまはご存知なのですか?歌姫との関係を」
「ああ。先に気付かれて隠し通せなかった」
「鋭いのですね。意外にもと言っては失礼ですが」
「ご自身のことには恐ろしく鈍いのだがな。他者を見抜くそのご慧眼を少しご自身のことにも回してくだされば」
項垂れ大きな溜息をつくドナに従者は笑いを堪える。
天才と言われるドナも本気の色恋沙汰には滅法弱いのだと。
「従者として一つだけお聞かせ願いたいのですが」
「なんだ」
「殿下は勇者さまと添い遂げるお考えでしょうか」
どう見ても殿下は勇者を好いているとしか思えない。
今まで察するだけで聞くことはなかったが。
「私はそうしたい。春雪さまと成婚して子に恵まれることが何よりの希望だ。尤も天地戦に勝利し互いの命があればだが」
やはり勇者は女性だったようだ。
今までは男性と思っていたが、女性の礼儀作法が自然体で出来ているのを見て女性なのではという思いが強くなっていた。
勇者の性別がどちらかなどわざわざ語られてはいない。
なにかお考えがあって普段は男性のフリをしているのだろう。
それならば性別を理由に二人が引き裂かれる心配は不要。
勇者であれば身分も申し分ない。
むしろどんな貴族令嬢よりも王家に入るに相応しい。
殿下の仰るように天地戦が大きな壁ではあるが。
「おかしいだろう?王位継承権の低い第五王子が精霊族の宝である勇者を分不相応にも好いてしまうとは」
そう自嘲するドナ。
自分でもそう思うが恋焦がれることをやめられず、知れば知るほど愛おしくなるばかり。
「王家の王子でも分不相応と言うのならば一体誰が勇者さまのお相手として納得できるのでしょうか。勇者さま以上の身分はもう両国の陛下しかおりませんが?」
英雄にもなった勇者の上の身分は陛下だけ。
それも精霊族の宝という唯一無二に相応しいかどうかで語り出せば、勇者はもう精霊王とでも成婚するしかないだろう。
そんなものは周りが勝手に理想を押し付けているに過ぎない。
「勇者さまの専属召使が申しておりました。あのように楽しそうな勇者さまのお姿は初めて見たと。私も本日の殿下を見て同じことを感じました。何より大切なのは殿下と勇者さまが互いを好いているかどうかではないかと存じます」
殿下は勇者を好いていて、勇者も恐らく殿下を好いている。
間近に迫った天地戦が二人の最大の障害になることは明らかで互いに迷いも悩みもあるのだろうが、ここで分不相応だからとしり込みしてしては万が一の際にしこりを残すことになる。
「珍しくよく喋るな」
「御無礼を」
「いや。無口なリベリオに背中を押される日がくるとは思わなかっただけだ」
普段は無口な従者が長々と話すのは珍しい。
幼い頃に会った時から口数の少ない子供で大人になってもそこは変わっていないのに、今はこうして背中を押されている。
「答えたことは秘密にして欲しい。リベリオだから話した」
「私はドナ殿下の従者です。今後の対応のためお聞きしただけで、主君や勇者の秘密を口外するような愚行はいたしません」
「そうか。ありがとう」
ハッキリ答えた従者にドナはクスクス笑う。
母上が選んだ使用人を入れ替えることになった時に、子供の頃から知っていて口も堅いリベリオを従者に選んで良かった。
それまでの従者とは私的な話などしたことがなかったが、リベリオは性格を知ったうえで自分で選んだだけに信頼度が違う。
「勇者さまがお戻りになりました」
「お通ししろ」
扉のノックと護衛騎士の声で、今まで気を抜いてソファで寛いでいたドナは姿勢をただす。
「ん?お二人で楽しいお話をしていたのですか?」
ダフネと戻った春雪の開口一番のそれにドナは首を傾げる。
「私が部屋を出る前よりお二人の表情が柔らかくなっておりますので。実りのあるよいお話をしていたのですね」
なるほど、鋭い。
ドナとリベリオは少し目を合わせ困ったように笑った。
・
・
・
劇場の護衛が報せに来たのは数十分ほどして。
ドナは春雪とダフネと護衛を一人特別室に残し、リベリオと護衛の一人を連れ特別室とは違う階にある部屋に案内された。
中に居たのは支配人と歌姫の二人。
「座ったままで構わない。体調が優れないと聞いた」
「お心遣い感謝申し上げます」
椅子から立ち上がろうとしたビビアナを止めたドナ。
国仕えに任せるならば体調の戻った後日の聴取で良かったが、国仕えを呼んで騒動になるよりは歌姫としてもマシだろう。
「早速本題に入るが、今日の騒動に悪意はあったのか?」
「滅相もございません」
「では何故あのようなことが起きた」
「私にも何故なのか」
歌姫が座っている前の椅子に座ったドナは、リベリオが後ろに立つとすぐ本題に入って事情を聞く。
「自分の魔力で観客がああなったことは理解しているか?」
「支配人に言われましたが自覚はありませんでした。魔力量の数値を確認して普段より減っていることには気付きましたが」
やはり悪意がなかったことは真実のようだ。
自分が無自覚に魔力を多く放出していたことを支配人から聞き、目眩と数値を見て初めて自分だったと納得したのだろう。
「理由が分からないまま舞台に立たせることはできない」
「それは困ります。今後も公演の予定が入っているのです」
「また同じことが起きる可能性があるだろう」
「それは……」
理由が分かっていれば対策できるが、理由が分からないままではまた同じことが起きるかも知れない。
観客に被害が及ぶ可能性があることを許可できないとドナが言うのは至極当然のことだった。
「あれは魔力の暴走ではなかった。だとするなら他に理由があったはずだが、自身で何か思いあたることはないのか?」
魔力の暴走は制御に不慣れな子供に起き、命の危険も伴う。
ただ大人になってからも起こす者が居ない訳ではない。
しかし今回のあれは魔力の暴走ではなかった。
その証拠に歌姫には傷一つない。
「歌いながら何を考えていた」
「それはどういう」
「他のことに気をとられていたのではないか?それで自分が魔力を制御できていないことに気付けなかったのではないか?」
そう言われて初めて思いあたるビビアナ。
謁見の後から歌に集中していなかったことは間違いない。
「たしかに少し違うことを考えはしましたが、今までその程度のことで制御できなかったことはありませんでした。もう何百回と歌い続けてきたのです。体が覚えております」
何百回と歌っていれば時に気が逸れてしまうこともある。
それでも今回のようなことが起きたことは一度もなかった。
「それが負の感情を抱えていたのであればどうだ?」
頬杖をついて問うドナ。
まるで何を考えていたのかを知っているかのような冷たい目で見るドナに、ビビアナは背筋がヒヤリとする。
「君がどこまで私について知っているのか分からないが、私は術者の精神状態が魔法に及ぼす影響も研究している。あらゆる精神状態の中でも、強い怒りや憎しみといった負の感情を抱えた術者は魔力の制御が不安定になることがわかっている」
思いあたるビビアナは内心焦る。
あの時は思い通りにならないドナを腹立たしく思っていた。
ただそれを表に出すことはできない。
「図星だったようだな」
「いいえ?そのような覚えがございません」
「手をピクリとさせ瞬きも増えた」
「そのようなことは」
「体の位置を変えるのも何か隠している者がよくやる」
焦りは行動に出る。
目を泳がせる者もいれば、どこかに触れる者も。
無意識にも体の位置を変えたことを指摘されたビビアナはぐっと口を結ぶ。
「君が何百と歌ってきたのならば私は何千と人を見てきた。ある者は王家との繋がりが欲しくて。ある者は地位や権力が欲しくて。妃なりたさに幼い私に色仕掛けで迫る者も居た。そんな欲望まみれの者を幼い頃から見てきた私を君は舐めすぎだ」
ニヤリと口許を歪ませるドナ。
気弱で大人しくて目立たない王子などとんでもない。
気弱なフリをしているだけ。
大人しいフリをしているだけ。
本性を隠して目立たないよう振舞っていただけ。
「私が晩餐会の日の一夜を忘れられず君に会うため劇場へ来たと思ったのだろう?それで自分から会いに行ってやろうと特別室まで足を運んだのに、私が贈ったと分かる揃いの衣装を身につけた美しい令嬢と一緒だった。嘸かし腹が立ったことだろうな。簡単に落とせる自信があった王子が自分に全く興味を示していなかったことを知って。残念だが慣れているんだ。肉体関係をもてば落とせると思っている浅はかな女性との房事は」
膝の上に置いた手をキツく握るビビアナ。
あの一夜で自分の存在を植え付けられたと思っていた。
あの夜のことを忘れられず会いに来るだろうと思っていた。
房事に関してはそのくらいの自信があった。
それなのにドナは一切興味を持っていなかった。
数居る浅はかな女性の一人と言うだけの認識だった。
「ビビアナ……君は殿下になんという不敬を。歌姫になれる者はひと握りだと言うのに何故剥奪されるような愚かなまねを」
そう口を開いたのは支配人。
王家の王子になんたる不敬。
歌姫の職を剥奪されてもおかしくない。
しかもそれが王家や貴族の集まる晩餐会でのことだと言うなら、引き受けて送り出した劇場も責任を問われる。
「勘違いしないで欲しいが私は彼女から歌姫の名誉を奪うつもりはない。王家の王子に色仕掛けをかけ一夜を共にした程度のことで罰していては処刑台は長蛇の列になっている。まして私は継承権五位。兄たちほど期待されておらず、兄たちほど警備の目も厳しくなく接触し易い。ちょうどいいのだ。欲にまみれた者にとって、王家の血を持ちながらも扱い易い私は」
苦笑するドナに胸の痛む支配人。
傍から見れば華やかに見える王家に生まれたことを羨む国民も少なくないが、実際は王家の方が国民より遥かに忙しく働き、制限も多く自分の意思での恋さえままならないことを、以前は国仕えをしていた支配人は知っていた。
「煽ってすまなかったが、この話をしたのは魔力の制御を誤った理由を明らかにして彼女自身に自分の能力の危険性を自覚させるためだ。理由さえ分かれば対策をたてられるだろう。歌姫本人が当日の精神状態に注意するのはもちろんだが、劇場側も万が一を考え、公演中は一定の魔力以上を抑える魔導具を歌姫に付けて貰うことを義務付けてはどうだろうか」
ドナは歌姫や劇場を罰するために聴取したのではない。
理由を明らかにして対策をして貰いたかっただけ。
歌姫が過去にしたことを話したのも、それが理由なのではないかと予想がついていたから煽ることで確認しただけ。
自分から『王子に苛立っていた』とは口が裂けても言わないだろうから。
「私が話しておきたかったのはそれだけだ。劇場は民の貴重な娯楽施設の一つ。今後も歌姫たちや劇場員の公演を楽しみに多くの民が足を運ぶことだろう。そんな民の期待を裏切ることのないよう歌姫も劇場も改めて対策してくれるよう願う」
この世界に民が楽しめる娯楽は少ない。
だからこそ民に危険がないよう充分な対策をして今後も続けてくれることが願い。
「慈悲深いご裁断感謝申し上げます。劇場側は此度の件を重く受け止め早急に魔力制御装備を準備し安全性の向上に努め、改めまして歌姫とも場を設け二度と此度のような事態が起きないよう対策を話し合いたいと思います」
ドナへ深く頭を下げた支配人。
結果としてドナが今回の件にくだした判断は不問。
悪意の有無問わず王家や勇者を危険にさらせば刑に処されても已む無しだと言うのに、ドナは王家の一員として民を第一に考え懐の深さを見せたと言うことになる。
「ビビアナ嬢。個人的に一つ聞いておきたいのだが良いか?」
「はい」
俯いているビビアナに声をかけたドナ。
「リベリオと支配人には席を外して欲しい」
「恐れながらその命に従うことはできません」
「数分だ。聞きたいことがあるだけですぐに終わる。それともこの機会に私が歌姫と懇ろになろうとしてるとでも?」
「それは思いませんが」
色仕掛けをかけるような相手と殿下を二人きりにはできない。
リベリオのそれは従者として尤もな意見だったが、苦笑して言ったドナに小さく溜息をつく。
「数分です。それ以上お傍を離れることはできません」
「承知した」
数分だけの約束で支配人と部屋を出るリベリオにドナはくすりと笑った。
「今この場でする会話で侮辱や不敬は問わない。第五王子ではなく私個人との会話とする。互いに腹を割って話そう」
王子ではなくドナ個人として。
そうビビアナに言ったドナは足を組む。
「あの時は聞かなかったが、ビビアナ嬢が王家に近付こうとしたのは貴族になりたかったからで間違いないか?」
聞きたかったのはそれ。
歌姫になれる者はひと握りだと言うのに、その歌姫の名誉を剥奪される危険を犯してまで何故王家に近付いたのか。
「……そうです。私は貴族階級になるために近付きました」
「なぜだ?君ほど人気の高い歌姫であれば、貴族などならなくとも充分な生活は出来ているだろう?」
一番人気の彼女であれば懐も充分潤っているはず。
下手な貴族よりも遊んで暮らせるほどに。
「たしかに生活は充分にできております。ただ」
「……ただ?」
「ただ、どんなに豊かな生活をしても所詮は平民なのです」
そう話してビビアナはスカートをギュッと握る。
「私は歌唱士の頃に娼館で働いておりました。歌姫になりたいという夢を叶えるために自分の身を売ることで生活費を稼ぎ、後の時間はずっと歌うことに費やしてきたのです」
今まで貴族で歌姫になった者はいない。
親からの支援が期待できない一般国民の彼女たちは、歌姫になる夢と生活を両立させるため身を売る者も少なくないと聞く。
「夢が叶い人々に喜んで貰えて生活も豊かになりました。でも貴族にとっては歌姫もただの平民なのです。どんなに華やかな舞踏会に呼ばれ歌っても、慰みに呼ばれた娼婦と変わらない扱いを受けるのです。私にも歌姫の意地がありますので慰みものになりに来たのではないと言っても、所詮下賎の者だろうと」
華やかな舞踏会の裏でそんなことが。
ドナはビビアナの話を聞き眉根を押さえる。
「娼館で働いていたことは、夢を叶えるためには必要なことと自分の意思で働いておりましたので後悔はございません。自分もかつてそうだったのですから娼婦を侮辱する気持ちもございません。ですが、私はいま娼婦ではなく歌姫です。歌うことが私の役目で慰みものになることではないのです」
国民から人気があろうとも貴族には関係ない。
人前で歌わせ裏では慰みものにしてお金を握らせる。
一般国民だから貴族に逆らえば無事ではいられない。
慰みものにされた後どれほど悔しく情けない気分になるのかなど、憎らしい貴族たちは知りもしないだろう。
「それで貴族の地位が欲しかったと」
「はい。貴族であれば慰みものにはできないでしょうから」
納得の理由。
貴族という身分なのを良いことに、容姿も美しく民にも人気のある歌姫を平民だからと容易く慰みものに出来るのだから、腐敗した貴族にとって彼女は都合のいい存在だろう。
「誰がそんなことをした?参考に聞かせて貰えるか?」
「話せば私は無事ではいられません」
「君に聞いている私は誰だ?これでも大公だが」
大公より身分が高い貴族など存在しない。
王位継承権の低い第五王子であっても貴族以上の存在。
「心配要らない。君はただ独り言を口にしただけで、私も部屋を出たら全て忘れてしまうだろう。例えその独り言の中の何者かを調べた上で不正が露見し多少の不幸が起きようともただの偶然に過ぎない。偶然調べた者が偶然不正をしていて、偶然にも君の独り言の中に居た人物だった。そうだろう?」
にこりと口許を歪ませるドナ。
この人は一番扱いやすいどころか、むしろ尤も敵に回してはいけない人物だったとビビアナは生唾を飲む。
「……ただの独り言ですので」
「ああ」
自分を慰みものにした貴族の名を連ねるビビアナ。
誰に聞かせるでもないただの独り言。
その者たちに何があろうともビビアナは無関係。
「話は済んだ。私はこれで失礼する」
ビビアナの独り言を聞いた後ドナは椅子から立ち上がる。
「ドナ殿下。一つだけお聞かせください」
「なんだ」
「観客を正気に戻したあの歌と光の粒はどなたが」
劇場に舞い散る黄金の光の粒と、温かく包むような歌声。
沢山の曲を聞き歌ってきたビビアナでも知らない曲だった。
「あれは戦の女神だ」
ドナは笑みでそう答える。
「民のため、延いては君のため。民の心を癒し愛される君の素晴らしい才能があのような出来事で奪われてしまうことがないよう、慈悲深い戦の女神が歌ってくださったのだろう」
黄金を纏う戦の女神。
それを聞きビビアナは察する。
「では救われた私は戦の女神の奇跡に感謝して今後も歌い続けましょう。どうぞお美しい戦の女神にお礼をお伝えください」
「承知した。祈りの時間にお伝えしておこう」
ドナの返しにビビアナは晴れ晴れとした表情で笑った。
・
・
・
リベリオや護衛と特別室に戻ったドナは、部屋の前で立っていたダフネから話を聞き防音魔法をかけ室内に入る。
「ぐっすりだな」
広く柔らかいソファの背を倒した上でクッションを抱え眠っている春雪。
「起こしますか?」
「いや、先程のあれで魔力が減っているのだから眠るのは良いことだ。このまま食事の時間まで寝かせておこう。ドレスは後でリフレッシュをかければいい」
ドレスのまま眠っている春雪を愛おしそうに撫でるドナ。
先程のあれで魔力を使って疲れたのだろう。
「私も休む。二人も部屋で休んでくれ」
「では食事の時間近くなりましたら起こしに参ります」
「頼む」
寛げるようリベリオと話しながら軍服の上を脱いだドナはシャツ姿になり、春雪が眠っているソファの対面にあるソファへ疲れを滲ませつつ座った。
「ではお時間までごゆっくりお休みください」
「ああ。ご苦労だった」
リベリオとダフネが出て行ったあと一息ついたドナは、再び春雪の眠るソファに座り直し愛おしそうに頭を撫でる。
「春雪さま。あの時言ったことは私の本音です」
歌姫の能力で感情が強く表に出てきただけで、思ってもいないことを口にして迫ったのでは無い。
そのことに春雪さまは気付いているのだろうか。
好きになって欲しい、愛して欲しい、春雪さまが欲しい。
あれは全て私が普段から思っていること。
強引に返事を求め嫌がられないよう、強引に迫って怖がられないよう堪えているだけで、本当はいつもそう思っている。
「天地戦が迫っているからこそ気持ちが知りたい。私も戦に出るからこそ聞いておきたいのです。私にそんな身勝手な感情や焦りがある所為で、あのように迫ってすみませんでした」
防音魔法をかけてあるドナの声は届かない。
いや、届けるつもりがない。
ただの独り言だ。
「春雪さま、お慕いしております」
白い首筋にそっと口付けるドナ。
肌の少しヒヤリとした温度が唇に伝わる。
もしあのまま私の感情が昂ったままであればどうしただろう。
春雪さまなら頬の一つでも叩いて正気に戻されたのだろうか。
有り得そうで自然に口許が緩み笑い声が洩れる。
「ん」
首筋に触れている唇が擽ったいのかモゾっと動いた春雪。
慌てて体を起こしたドナの心臓はバクバクしている。
「……危なかった」
改めて眠っているのを確認したドナは胸を撫で下ろす。
眠っていることを幸いと首筋に口付けていたことを知られてはそれこそ嫌われてしまいそうだ。
もうやめよう。
そう思いもう一度春雪の寝顔を見る。
嫌われることが怖い癖に口付けたい欲求がまたむくむくと。
ドナも十七歳の健全な男児。
好きな人が無防備に眠っている姿に何も思わない訳ではない。
「愛らし過ぎるだろう。私の前でそんな無防備になられては誘われてると勘違いしてしまうではないですか」
春雪はただぐっすり眠っているだけ。
一緒に来たドナも聴取で居らず公演も休憩時間に入っていたから何もやることがなく、あまりに暇過ぎて寝てしまっただけ。
ドナが勝手に一人で欲求を擽られているだけ。
「……もう少しだけ」
再び春雪の白い首筋に口付けたドナ。
目覚めていないことを確認して今度は鎖骨に口付ける。
それでも春雪は目覚めない。
目覚めないと分かればもう少しとなるもの。
起こさないようそっと。
春雪への愛しさを口付けで表す。
「いや、駄目だろう。仮にも王家の王子が」
夢中で口付けてハッとしたドナ。
熱が入り過ぎてドレスの裾に手を忍ばせるところだった。
さすがにこれ以上は本人の意思も聞かずにできない。
口付けの時点で充分どうかと自分でも思うが。
ドナのそんなひとり遊びなど露知らず春雪はぐっすり。
起きなくて良かったような、起きて欲しかったような。
苦笑したドナは春雪の隣へ横になる。
「逢瀬の続きは目が覚めてから」
そう言って頬に口付け瞼を閉じた。
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