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第零章 先代編(中編)
白銀の月
しおりを挟む式典から舞踏会と長い一日を終えた深夜。
「忌々しい!」
藍色宮殿のエントランスホールに響いた声と花瓶の割れる音。
怒り心頭の様子で入口に飾られた花瓶をブチ撒けたのは三妃。
すぐにしゃがみ破片を拾う女中を尻目に、舞踏会帰りの衣装のまま乱暴に髪飾りを外し床に叩きつけた。
「ロザリー、リーズ。自分の部屋に行こうね」
「「はーい」」
母親の行動に触れることもなく双子の手を繋ぐフレデリク。
双子も気にすることなく欠伸をして兄と階段を上がった。
「お母さま黒だったね」
「うん。真っ黒だった」
「黒?」
眠そうな双子の会話にフレデリクは首を傾げる。
「お母さまはすぐ黒くなるの」
「すぐなる」
一体なんの話をしているのか。
「すぐ怒るってこと?」
「すぐ黒になる」
「黒なの」
妹たちはなぜか人物に色をつける。
私には青と言っていた。
父上は金らしい。
「いつもみたいに明日にはけろっとしてるよ」
「「うん」」
私たち兄妹には母のあの姿は見慣れたもの。
気に入らないことがあると口汚い言葉をはきながら人や物に八つ当たりをして、翌日には何もなかったかのようにまた良い王妃や良い母を演じる。
私や幼い双子の前では堪えてひっそり解消すると言うなら涙ぐましい努力だけれど、散々な姿を見せておいて良い王妃や良い母を演じ微笑まれても逆にその二面性が気持ち悪い。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。ロザリーとリーズを頼む」
「承知しました。ごゆっくりお休みください」
「ありがとう」
ロザリーとリーズの私室に行き侍女に二人を預ける。
「ロザリー、リーズ、おやすみ。よい夢を」
「「おやすみなさい」」
二人の額にキスをして頭を撫でた。
「お帰りなさいませ。舞踏会は如何でしたか?」
「今回は楽しい舞踏会だったよ。母上以外はね」
フレデリクの私室の前で待っていた従者。
今日は王城での催事のため同行していなかった従者は舞踏会の様子を問いフレデリクはそう答える。
「舞踏会でなにかあったのですか?」
「母上が勝手に思惑が外れて怒ってるだけ。今年は二妃が居ないから自分が目立てると期待して着飾ったのに、シンプルなドレスのお美しい勇者さまの方が注目を浴びてたから」
怒るような何かがあったのは母上一人だけ。
誰も争う気もなければむしろ意識してもいない。
逆に母上の方がグレースと双子が接触するのを白地な嫌な顔で見たり、時間がないのに腹いせで控室を独占するという地味な嫌がらせをして父上から呆れられていた。
「しかも父上が勇者さまをダンスパートナーに選んでご衣装のお色を揃えたものだから、張り切って召し変えたのに誰も自分には注目してくれなくて相当悔しかったんだと思うよ」
「お色を?陛下のご寵妃になられると言うことですか?」
「どうだろう。私としてはそうであれば嬉しいけど」
父上に安らげる相手が出来たならこんなに嬉しいことはない。
しかもそれが勇者とあらば、自分がそうなれば良いのにと思っていたお相手だから。
「そのことがなくても母上の方が目立つことはなかったと思うけどね。勇者さまは気飾らなくともお美しい方だし、ただ居るだけでも存在感が桁違いだから。父上とお似合いだったよ」
そのような方より目立とうと思うのがそもそもの間違い。
思惑が外れて逆恨みするのだから困ったものだ。
「聖女さまはそんなにもお美しい方なのですか」
「聖女さまじゃなくて勇者さま。聖女さまは可愛らしい方」
「勇者さまは男性では。女性だったのですか?」
「私も実のところは分からない。男性かも知れないし、本当は女性だけど事情があって男性のふりをしてるのかも知れない」
男性の衣装を着て男性の礼をして男性のように話す。
父上も男性と言っていたからそうなのだと思っていたけれど、今日一緒に過ごしてみて分からなくなった。
「男装の麗人の可能性もあると」
「もしかしたらね。そのくらい中性的な方なんだ。今日はドレスをお召になってたから女性にしか見えなかったけど」
堅苦しい正礼装を脱ぎながら説明したフレデリクは全て脱いで身軽になるとホッと息をつく。
「まあ母上のことは男妾に任せよう。湯浴みをする」
「承知しました」
母上には二名の寵臣が居る。
寵臣といえば聞こえがいいが、要は男妾。
優秀な彼らが母上の自己顕示欲を満たしてくれるだろう。
「春雪さまと父上綺麗だったね」
「キラキラ綺麗だったぁ」
侍女が静かに部屋を出て行ったあと、眠ったフリをしていたロザリーとリーズはパチリと目を開ける。
「父上、春雪さまと踊って楽しそうだったね」
「うん。いっぱいキラキラだった」
「父上が嬉しいとロザリーも嬉しい」
「リーズも嬉しい」
ベッドの中に潜り話してクスクス笑う二人。
「春雪さまが新しいお母さまになってくれないかなぁ」
「なってくれたら嬉しいなぁ」
「ロザリーとリーズのお母さまは黒っぽい苔だからね」
「全然綺麗じゃない。すぐ真っ黒になる」
そう話して今度は溜息をつく。
「黒の人はイヤ」
「ロザリーもイヤ。真っ黒のお母さまは怖い」
「大丈夫。明日になったらまた黒っぽい苔だから。兄さまも言ってたでしょ?今日は手を繋いで寝よ?」
「うん」
小さな手を繋ぐ双子。
双子にとって母親は黒っぽい苔の人。
真っ黒の時は怖くて近寄りたくない相手。
ぐちゃぐちゃに荒れた三妃の私室。
物を投げて壊してする三妃を執事と侍女は無言で部屋の壁際に立ったまま終わるのを待つ。
気に入らないことがあると暴れるのはいつもこと。
この宮殿に仕える者なら知っている。
演じているだけのハリボテの品位など所詮こんなものだ。
王位継承権を持つ王子や王女に危害がないならばそれでいい。
「「失礼します」」
「ビクトル、カール」
「お帰りなさいませ。王妃殿下」
「お帰りなさいませ」
ノックのあと開いたドアから顔を見せた二人。
三妃の男妾のビクトルとカール。
ビクトルは十四歳、カールは十二歳。
自分の息子より若い男妾を抱える三妃は少年性愛。
尤も権力者で少年を男妾に抱える者は珍しくない。
年がいくほど知恵がつくからだ。
裏切りを避けるためと、閨くらい気楽に行いたいという理由。
「二人を残してあとの者はさがりなさい」
「承知しました」
執事は軽く頭を下げて侍女と出て行った。
「舞踏会でなにかあったのですか?」
「ええ。腹立たしいったらないわ」
ビクトルが聞くと三妃は憎々しい顔でそう答える。
舞踏会であったことをただひたすら語る三妃。
少年二人はその話を相槌を挟みながら聞く。
「初めて見る者だから興味を持っただけでしょう。それも最初だけ。王妃殿下ほど優しくお美しい御方は他におりません」
「王妃殿下は誰よりもお美しいです」
「ああ、二人は本当に可愛いわ」
ビクトルとカールを抱きしめる三妃。
自分の不満に同調し褒め称える言葉を口にする二人に承認欲求が満たされる。
彼らは無理に連れられて来た訳ではない。
ここに居る間は衣食住はもちろん僅かばかりの給金も貰い礼儀作法も学べるうえに、少年性愛の三妃は男妾が成年になれば手切れ金を渡し解任するから役目もたかだか数年のこと。
その数年を我慢すれば本来訓練校に行かなければ得られない知識を学ぶことができて給金や退職金も貰えるのだから、一般国民の彼らにとってはこんなに良い仕事はない。
フレデリクの言うように二人は優秀。
生きる術を知っている強かな少年。
「さあ、私を楽しませて」
「「喜んで」」
ベッドに誘う三妃に二人は笑みで答えた。
・
・
・
「土産を持って来た」
「あ、お酒?」
「ああ。寝酒に少し呑もう」
「うん」
約束していた通り春雪の自室を訪れたミシェル。
互いに入浴も済ませラフな寝衣姿。
「長い一日だった」
「お疲れさま」
酒の入ったロックグラスを軽く持ちあげ乾杯をして口へ運ぶ。
「明日の新年を祝う式典ってどこでやるの?」
「王都地区の大聖堂だ」
「教会でやるんだ?」
「民の前に立つ時は大抵そうなる」
今日は成年を迎えた者を祝う式典。
明日は新年を迎えたことを祝う式典。
予定が満載で国王のミシェルはろくに休む暇もない。
「この世界に来て一年か。月日が経つのは早いね」
「ああ。あっという間だった」
赤い月が昇ったのが昨年の神の月。
それから一年後の神の月も過ぎて新星の月を迎えた。
「去年の今日って何をしてたんだっけな」
「勇者方はこの宿舎に居た。宿舎で何をしていたかという話であれば分からないが」
王家は全員が式典に参加。
召喚されてまだこの世界に慣れていなかった勇者は多くの民が集まる式典には参加させず、宿舎で休みをとって貰った。
「多分独りでこの部屋に篭ってぼーっとしてたと思う」
「来たばかりの頃の春雪は警戒心剥き出しだったからな」
「今でも一部の人以外には気が抜けない。この世界ではもう俺が人工生命なのを知ってる人はシエルとミシオネールさんだけなのに、それが分かってても簡単に癖は抜けない」
四六時中監視されて拐われる危険や命を狙われる危険も絶えずあった地球と比べれば、召喚されたこちらの世界の方が安全。
それは今までの生活で既に分かっていることなのに、一度体に染みついてしまった癖は早々治りはしない。
「無理をして人付き合いをせずとも狭く深くの付き合いで良いだろう。私など友と呼べる者の一人も居ないのだぞ?」
「俺は?友達の分類に入ってないの?」
「……入っていないな」
「え。結構ショック」
そう言われてショックなのはこちらの方だ。
友という感情ではない好いた相手に言われたのだから。
「じゃあシエルにとって俺はどんな分類?勇者?」
「勇者というのは事実なのだから勿論そうだが」
精霊族の宝である勇者なのは間違いない。
けれどそれだけならばこのような感情にはなっていない。
「心許せる者といったところか」
「……友達って言われるより嬉しいかも。俺もシエルと居る時は気が楽だから。国王さま相手に失礼なのは分かってるけど」
はにかむような春雪の表情にミシェルは眉根を押さえる。
春雪の鈍さは今日も残酷だ。
そして伝えない私も臆病で卑怯だ。
せめて十八年前に出会えていたら。
「春雪は一歳か」
「ん?」
「いや、独り言だ」
自分が九つならば春雪は一つ。
仮に出会っていたとて恋もなにもない。
「今夜は月が大きく見える」
酒を飲みながらふと窓の外に目のいった春雪。
「今夜は一年で一番月が大きく見える日だからな」
「え?そうなの?」
「ああ。天気のよい年は大きくハッキリと見える」
「へー。そう言われると見ておかないとって気になる」
ミシェルから聞き椅子から立ち上がった春雪はテラスに繋がる窓を開ける。
「そのような薄着で夜風に当たっては風邪を引く」
「ありがとう」
椅子やベッドに用意されているストールを持ち春雪の肩にかけたミシェルは、自分の肩にも別のストールをかけ月を見る。
白銀に輝くその月は美しい。
「この世界で月は神聖なものだ」
「月が?」
「神の月には月神へ豊穣を感謝し翌年の豊穣を願う」
「あ、召喚された日に行ったお祭りで話してたよね」
「ああ。月神はこの世界の大気と大地を浄化して豊穣を齎し、生命の運命を見通し決める神。この国が信仰するフォルテアル神はその月神の御使いと信じられている大天使だ」
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「春雪」
私が国王でなく春雪が勇者でなければ。
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平凡で普通の生活を二人で過ごせたらどんなに幸せだったか。
「どうかした?」
名を呼び抱きしめたまま黙っているミシェルに戸惑う春雪。
ぎゅっと抱きしめているその腕は力強い。
「シエル?」
少し離れたミシェルと目が合い春雪は首を傾げる。
なにを考えているのか、真剣なその表情は悲しそうにも苦しそうにも見えた。
「春雪」
もう一度名前を呼んだミシェルは春雪の額に口付ける。
家族にするキスと変わらないその額へのキスに自分の臆病さを感じながら。
「春雪?」
「い、いや、分かってる。姫殿下たちが殿下方の頬にキスして皆も返してるのを見たから家族間や親しい人との挨拶だって分かってるけど、そんな文化のない日本人の俺は慣れてない」
一年で一番大きな月の明かりに照らされた春雪の顔は赤い。
その行為にも照れてしまう自分にも恥ずかしいのか、眉を顰めた赤い顔を手で必死に隠している。
慰める目的で平然と人を抱きしめたり平然と人の腕の中で眠ってしまうと言うのに、額へ軽く口付けただけでこんなにも動揺するのかとミシェルにも驚きでしかない。
春雪も言ったように、家族にするのと変わらないとミシェル本人も思いつつの口付けだったのに。
「春雪の居た世界ではしないのか」
「海外には挨拶でチークキスする文化の国もあるけど、日本人は親が自分の子供可愛さにすることはあっても大人同士でキスするのは恋人とか夫婦とかで、そんな関係じゃない人と挨拶感覚で気軽にキスしたりしない」
キス=恋人や夫婦の戯れ。
恋人や夫婦が挨拶でキスすることはあっても、なんの関係もない人へ気軽にキスしたりしない。
日本であればいきなりキスをすれば犯罪に問われる可能性も。
「そうか。では慣れろ。この世界では当たり前の行為だ」
「そんな簡単に言われても」
当たり前を利用して再び口付けるミシェルは狡い。
「指先は感謝や賞賛」
そう説明して春雪の指先に口付けるミシェル。
「手の甲は尊敬や敬愛」
次は手の甲。
騎士が敬愛をこめするのがこの位置へのキス。
「手のひらは懇願や求愛」
教えているだけと分かっていても春雪の顔は熱い。
「髪は思慕、額は友情や祝福、こめかみは慰め」
「待って。そんな覚えられない」
「瞼は憧れ、頬は親愛、鼻は愛玩」
「シエル」
手だけでなく顔にまでするミシェルに春雪は焦る。
この状況で覚えられるほど余裕などない。
「手首は欲望、首は執着、耳は誘惑、喉や鎖骨は欲求」
一箇所ずつ説明して口付けるミシェルの見たことのない顔。
その表情に春雪は緊張で固まる。
「胸は所有、腰は束縛、太腿は支配」
「そ、そこはさすがに無理」
「しない。閨で行うような場所だからな」
慌てて寝衣の裾を掴んだ春雪にミシェルはくすりと笑う。
この反応は未経験か。
「他にも足の甲は隷属、脛は服従、足の裏は忠誠と意味がある。尤も、深い意味もなくする者も居るがな。脱がなければ出来ない場所には何かしらの欲が含まれているだろうが」
「俺には大人の話すぎて」
赤い顔をして逃げないのだから困ったものだ。
だからこちらも調子に乗ってしまう。
「春雪」
「ん?」
後ろにあるテラスの柵に両手を付き顔を近付けると、春雪の顔はまたみるみるうちに真っ赤になる。
「唇は愛情だ」
重ねた唇は夜風に晒されて冷たい。
背に手を回し腕におさめたその体も。
「「…………」」
ゆっくり唇を離して目が合った春雪は唖然としている。
怒るでも恥ずかしがるでもなく、ただただ驚きの表情。
「軽く重ねるだけなら挨拶。ただ、舌を入れる口付けは別だ。その気がないなら逃げろ」
ミシェルの腕を掴んだままその場にしゃがんだ春雪。
いや、今更になって力が抜けたと言うのが正しい。
今のは軽く重なっただけだから挨拶だと言うことなのか。
「「…………」」
またからかわれたのかと見上げるとミシェルと目が合う。
その顔はからかっている表情ではなく苦笑。
どういうつもりでしたのか分からない。
「春雪」
ミシェルはしゃがむと春雪の顔に両手を添える。
不安そうで怯えているようで戸惑っているようにも見える。
それでも逃げもしなければ怒ることも拒むこともしない。
「私が国王だから逃げられないのか?」
「逃げられない?」
「逃げるなとは命じていない」
国王だから逆らえない。
そう思って堪えているのではないか。
「それは考えてなかった」
「ではなぜ逃げない」
「舌は入れられてないし、挨拶ってことだったのかなって」
入れられてからでは遅いだろうに。
挨拶だと思いたかったのかも知れないが。
「あとどういうつもりでしたのか分からなくて。シエルがこんなことすると思わなくて、驚き過ぎて理解が追いつかない」
逃げないでも逃げられないでもなく、混乱してどうしたらいいのか分からないのか。
「私は春雪を大切に思っている。国王としても一人の男としても。怖がらせるつもりも傷つけるつもりもなかったが、本能に勝てなかった。同意なくしたことは詫びる。すまなかった」
どれほど誠実なのか。
いや、許可なくした者に誠実という言葉は当てはまらないかも知れないが、してしまったことに真剣な顔で謝る辺りがミシェルらしい。
「その本能って、キスしたいって思ったってこと?」
ストレートな問いにミシェルもさすがに羞恥心がわく。
そんなに真っ直ぐな目で問うなと。
「……そうだ」
思った。思わなければしていない。
いい歳をして、その気持ちが止められずしてしまった。
「シエルでもそんなこと思うんだ」
「私を何だと思っている」
「必要性のない行為はしない印象」
「どういう意味だ」
「数年前から渡りは行ってないって言ってたから」
言った。たしかに言ったし、それが事実だ。
まだ体の成熟しない九つの頃から世継ぎを遺すための行為を繰り返したのだから、必要がなくなれば行こうとは思わない。
王妃にしてもそれは同じ気持ちだろう。
互いに愛などないのだから。
「世継ぎは国王と王妃の責務だ。果たせば行かない」
「義務でしかしないならそういう欲求がないんじゃないの?」
「責務は強制だ。強制でするそれを役目を果たした後まで続けたいとは思わない。だから国王は王妃の他に寵妃を迎える」
王妃は何より血筋を重んじ国の有識者によって選ばれる。
前国王の父は幸運にも選ばれた者が愛し愛せる者だったが、大抵は国王と王妃という対外的な関係性でしかない。
そこで国王は自分が選んだ相手を寵妃に迎える。
「義務ではしたくないけど、ってことか」
「ああ。私にもまだ肉体的な欲求はある」
八名の子が居てもミシェルはまだ二十七。
枯れるには早過ぎる年齢だ。
「春雪。私は挨拶で口付けたのではない。最初の額も唇に軽く口付けたのも春雪に嫌がられ距離を置かれるのが怖くてそれしかできなかっただけだ。今もこうして胸の内を言葉にするのが怖い。だが一度緩んでしまったら次もと欲が出てしまった」
この感情は墓場まで持って行こうと思っていた。
もし私の愛児でも別の誰かとであっても、春雪が好きになり共に生きることを選んだのであれば祝福しようと。
「すまない。私はそのように器の大きな男ではないようだ」
愛児のことは心から大切に思っている。
けれど祝福する気持ちよりも嫉妬の方が上回ってしまった。
誰を選ぶも選ばないも春雪が決めることであって、私もそこに加わっても良いのではないかと欲が出てしまった。
テラスの柵に押し付けた春雪に再びミシェルは口付ける。
その唇は相も変わらず冷たく、温もりを求め口の中へと深く。
その行動に春雪は驚き一瞬押し返そうと手を動かしたが、普段父や兄のように広い心で自分を受け入れてくれるミシェルの見せた本能に忠実なその行動に手を止めた。
長く続いたそれが終わり唇が離れると二人は息を吐く。
自分を見るミシェルの目が普段と違い優しいだけではないことに春雪の肌は粟立ち、怖さと同時に得も言われぬ感情が湧く。
若き国王として民の前に立つ威厳ある姿を今日まさしく見ただけに、自分に対しそんな顔をするのかと驚きと恥ずかしさで目が合わせられず少し俯いた。
「なぜ俯く。しっかり私を見ろ」
そう言ってミシェルは春雪の顔に両手を添え顔をあげさせ強引に目を合わせる。
「感情を伺うのは得意だろう?私の感情は伝わってるか?」
「……そういうの聞くのは狡い」
「感情を隠し表情を偽る者が狡くないはずがない」
伝わっている。
だからこそ目を合わせるのが怖い。
どうしたらいいのか分からないから、言わないのなら知らないふりをしたい自分も狡い。
「これだけ答えて欲しい。私の感情は不快か?迷惑か?」
不快?迷惑?
問われて初めてそんな感情はないことに気付く。
嫌で迷惑ならば疾うに突き飛ばしていただろう。
突き飛ばして勝てる相手かは別として、嫌だという意思表示くらいはしている。
「不快でも迷惑でもない」
不安そうな表情でそう答えた春雪。
その不安は何を思っての感情なのか。
真実を偽っていることに気づかれないかという不安?
気付かれたら怒るのではないかという不安?
国王の意に反して罰せられるのではという不安?
ミシェルに思い浮かぶのはマイナスの感情ばかり。
要はミシェルも自信がないのだ。
嫌われたのではないかと、今後避けられるのではないかと。
好きすぎるゆえに春雪の言葉を素直に信じられず臆病になっていた。
「何だろう。俺ってこういうの平気なタイプのヤツなのかな」
平気なタイプ?
頬を染め目を逸らしている時点で平気ではなさそうだが。
と、ミシェルは少し首を傾げる。
「不快でも迷惑でもないから困る」
ミシェルのキスが不快とも迷惑とも思わない。
ただそれはドナの時やレオの時も同じで、されると恥ずかしくはなるけれど不快でもなければ迷惑でもない。
だから自分が誰でもいい軽い奴な気がして困る。
自分の感情に疎い春雪。
警戒心が強く、恋や愛どころか心を許したこともない。
肩の力を抜いて話せる相手が出来たのはこの世界に来てから。
どうして不快に思わないのか、どうして迷惑ではないのか、好きなのか、その好きは恋か愛か親愛か、何もかも分からない。
「何を困ることがある。私は春雪がそう思ってくれたことが嬉しいと言うのに。少なくとも拒む対象に入っていなかったと」
不安が伝わる春雪にそう言ってミシェルは口付ける。
ただし今度は軽く。
不安になっているのが愛らしくての口付け。
「シエル」
鳥が啄むような短く軽く口付け。
ミシェルが顔のあらゆる所にするそれが春雪には恥ずかしくて仕方ない。でも嫌ではない。
「月は充分見られたか?」
「誰のせいで見る余裕がないと思ってるんだ」
「私だな」
笑ったミシェルは春雪の腕を引き立ち上がらせ腕におさめる。
これも拒まれない、嫌がられてもいない。
それが嬉しい。
「暖かい」
「部屋に入ろう。新しい年を迎えた早々風邪をひく」
「うん」
拒むことも逃げることもなくミシェルの腕におさまっている春雪はその体温にホッとして体を預ける。
ミシェルもまた、春雪のその行動が愛おしくて提案をしながらも離れることができない。
恋、愛、親愛、友愛、はたまた別の感情か。
一つ確かなことは、ミシェルは春雪が最初に心を許した者。
新星の月一日。
雲一つない夜空を白銀の大きな月が明るく照らしていた。
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