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第零章 先代編(前編)
帰還
しおりを挟むこれが勇者。
男の喉がゴクリと鳴る。
混戦している隙に便乗し逃げてしまおうと隠れながら庭園を進むと大樹の裏で無防備に眠っている美女を見つけた。
それが勇者だと気付いたのは髪の色。
地上でもっとも美しい宝石と言われる黒曜石で表現されるその黒い髪は、たしかに艶やかで美しい。
けれどそれよりも美しいのは顔貌。
あまりの美しさについ連れてきてしまった。
勇者を拐ったと聞いたが誤って聖女を拐ったのだろうか。
聖女がこれほどに美しい娘ならば、本来の目的だった男勇者でなくともアルメル妃は満足しそうだが。
白く細い首に同じく白く細い手首。
異界では裕福な家の令嬢だったのか手荒れのない美しい手。
ほんのりピンク色に染まった頬も、少し苦しそうな呼吸も、僅かに開いた形のよい唇も、どれも唆られる。
顔を近づければ香るこの花の香りは最近アルメル妃が房事の際に使うようになった催淫香の香りだろう。
あのような場所で眠っていたのも催淫香が原因に違いない。
あの香は体に合わない者もいて、気絶する者や効果が切れた後に熱を出して寝込む者もいる。
この聖女も恐らく合わなかったのだろう。
それでこのような時に無防備な姿を晒すことになった。
誰か一人傍に付いていてやればよかったものを。
連れてきてしまった私が言うことではないが。
僅かに開いた唇に触れると甘い声が洩れる。
唇に軽く触れただけでこれとは効果が強く出ているようだ。
可哀想に、相当量の催淫香を吸わされたのだろう。
指を入れた口内は熱い。
やはり熱が出ているようだ。
浄化魔法を使い体内に蓄積した催淫香の効果を弱めれば早くに熱も下がるが、私には上級魔法は使えない。
既に聖女もアルメル妃に荒らされてしまったのだろうか。
あの方は私たち寵臣に無茶ばかりさせる。
女同士や男同士でさせたり、自ら張形を使って乱暴に動いてみたりとやりたい放題し、そのせいで使い物にならなくなった者は暇という体の良い言葉で捨てる。
侯爵令嬢の時からやりたい放題だったアルメル妃が国母にと聞いた時は、王家の王子や王女の婚約者を選別する有識者たちは正気かと耳を疑ったけれど案の定。
高い身分になりますます権力を持ったアルメル妃はもう誰にも止められない。
王位継承権第二位のセルジュ王子には申し訳ないが、アレが王太后になってしまうのならば王位を辞退して欲しい。
そんな理由で国内の多くの貴族たちは王太子派だ。
熱い口内を撫で回したあと辺りを見渡す。
屋敷に近い深い茂みのため激しい攻防戦の音は絶えず聞こえているが、だからこそ物音や声などを気にせずに済む。
それに攻防戦を見学にくる馬鹿などいない。
どうせもうアルメル妃のお手つきになった者。
今更私が手を出したところで変わらない。
存分に楽しませて貰おう。
そう思い布を剥ぎ手が止まる。
乳房がない。
まさかと下も剥ぎ取ると男性の証明がそこに。
これは詐欺だ。
顔は女性にしか見えないのに男性だとは。
既にその気になっていたのに騙された気分で勇者を見る。
「…………」
いや、存外これはこれで在りだ。
女性でなかったことは残念ではあるが、むしろここまで中性を極めた体もまた神秘的で美しい。
体を堪能していてふと気付き飛び退く。
男性のシンボルの下にあるそれに。
勇者の正体は魔王なのか?
教典に出てくる両性の魔王。
それと同じく男女の生殖器がある。
いや、待て、落ち着こう。
勇者が魔王であるなら国がわからないはずがない。
ステータス画面に種族も出るのだから。
魔族や魔王と書かれていたら国が勇者として扱うはずもない。
勇者は異界人。
この世界の者とは生活も違えば能力も違う。
恐らく異界には両性の者もいると言うだけだろう。
それが勇者の特殊恩恵を持つ者であるなら男性でも女性でも両性でも天地戦には関係ないのだから。
冷静になってもう一度両性であることを確認する。
不思議なものだ。
上の男性のシンボルを隠してしまえば女性そのもの。
いや、むしろ両方揃っている方が唆られる。
試しに触れれば洩れる甘い声。
その声も男性にしては高く、女性にしては低い。
普通の人の生殖器との違いを探してみるがどちらも正常。
両方が正常に形をなして機能もしているとは凄い。
「そのように乱暴に触っては傷ついてしまうだろう?」
背後から耳元で囁かれた声。
足音は疎か気配すら感じなかったのに誰かがいる。
「慣れていないのか?それとも下手なのか?」
じわりと滲む汗。
耳元で話しているのに顔が見えない。
「優しく触らなくては駄目だろう?このように」
勝手に動く腕。
いや、私の手に誰かの手が重なっていることはわかる。
けれどその手は見えない。
「いいか?相手が男性でも女性でも行為の際には相手への気遣いを忘れるな。それが性交の礼儀だろう?」
バサリと落とされた首。
声一つあげられぬまま男の血が茂みに飛び散る。
「来世で活かせ」
スーッと姿を現したレオは剣を振り血をピッと飛ばした。
「ん」
「ラング。それは餌ではない。おい、聞け」
黒蛇の舌で喘ぐ春雪。
本人が知れば卒倒しそうだとレオは眉根を押さえる。
レオの持つ血継能力は〝言霊〟。
竜人族に魔法は使えないがその代わりに〝言ノ葉〟を使う。
その言ノ葉でもっとも強いのが言霊。
ラングはその言霊によって生まれた邪龍。
言霊で解呪されることで能力を発揮する。
レオもまた、ラングと同化することで真の力が発揮できる。
言わばラングとレオは一心同体。
言霊でラングを生みだしたレオが性に特化した雄性夢魔だったため、ラングも性を糧にしている。
「そんなに気に入ったのか。穴には潜るなよ?初物だ」
夢中で性を貪るラング。
ただ舐めているだけだから害はないが、今のこの醜態は本人には黙っておいた方がよさそうだ。
ラングが満足して舌をチロチロする頃には春雪はぐったり。
まあ溜めておくより発散した方が本人のためにもよいだろう。
発散させたのが黒蛇の舌という事実さえ知らなければ。
「さあ、どうするか」
ぐったりしている春雪の体を再びシーツで包みまだ続いている攻防の音に耳を澄ませる。
「あの二人、やるではないか」
救出に来たのは二名。
対して屋敷を護るのは数十名。
たった二名で手練の者たちと戦っているのだから実力は本物。
ただ既に攻防が始まり一時間ほどになる。
アルメル妃側の魔法士数名が障壁を使用するため、一人は剣で戦い、もう一人は障壁の破壊へと回らなくてはならない。
魔法を扱う王子の方はかなりの魔力量の持ち主のようだが、手を止める暇もない戦いではそろそろ底をつくだろう。
屋敷に捕らえられていた者たちは裏口から逃がした。
見目麗しいとだけで捕らえられていた者に罪はない。
逃げた後の責任までは取れないが、何も分からないまま死ぬよりはマシだろう。
「もう私はここにいる理由もないのだが」
呟いたレオはチラリと春雪を見る。
ラングを取り戻しさえすれば地上に用はないが、ここに春雪を独り置いて去るのもまた拐われそうで気が引ける。
今は辛うじて間に合ったが、今度こそ貞操を奪われそうだ。
「キューィ」
「どうした?」
春雪の顔を舐め鳴くラング。
しゃがんで春雪の顔を見たレオは首を傾げる。
「どこか痛いのか?」
春雪の目尻から伝っている涙。
眉根を深く顰め口を開いた呼吸をしている。
「熱があるのか」
襲おうとしていた男の返り血を浴びさせてしまって気付かなかったが、顔を拭いてみれば興奮状態の頬の赤みではない。
「……冷たい」
頬に手の甲を当てると春雪はゆっくりと瞼をあげる。
「熱があるようだ」
「冷たくて気持ちいい」
レオの種である邪龍種は体温の調節ができる。
あまり下げすぎると動きが鈍くなるため普段はやらないが春雪が熱があることに気付き体温を下げて触れると、春雪はレオの手にスリと頬ずりした。
「やはり唾液では気付けにしかならなかったか」
「唾液?」
「私の体液には催淫の効果があるが、反対に他のものを用いた催淫の効果を薄める効果もある。それで正気に戻った」
レオの体液は媚薬でもあり催淫効果を薄める薬でもある。
正しくはレオの体液の催淫効果が強すぎるために他の催淫効果が負けてしまうのだが、春雪が正気に戻ったのも催淫香の効果がレオの体液の効果に負け薄まったから。
「体液」
「摂取しただろう?口で」
正気に戻った時を思い出し春雪はレオの手に隠れ悶絶する。
言うほど隠れていないが。
「解呪する前もそれ以上悪化しないよう幾度か唾液を摂取させたが、解呪した後でも唾液では正気に戻すので限界らしい」
王妃の前で幾度も口付けていた理由はそれ。
ラングを捕獲されていたあの時のレオには現状維持の対応しかできなかった。
「精神的ダメージが極大。初めてなのに覚えてないとか」
「やはり口付けもしたことがなかったのか」
「ない。誰とも付き合ったことがないのにあるはずない」
「これだけ美しいのに勿体ない」
「この両性の体でどうやって人と付き合えるって言うんだ」
付き合えばいつかそういう行為をする流れになる。
けれど両性の春雪は自然生命の普通には当てはまらない。
同じ人口生命が居れば互いにそうだから気にならなかっただろうが、春雪が初の成功例のため地球に一人しかいない。
「両性など珍しくないだろう」
「え?人族には居ないって聞いたけど」
「人族にはだろう?この世界に居るのは人族だけではない」
「竜人族?だっけ?その種族には両性も居るってこと?」
「ああ」
魔族は両性の者も珍しくない。
精霊族のように交合で子を成すのではないというのも関係しているのだろうが、両性の魔族はどの種にも居る。
「そうなんだ」
初めて見せたホッとした表情。
それほど両性であることを気にしていたのか。
つい今しがた人族の男から襲われそうになっていたのだから、本人が気にするほど周りの者は気にしないように思うが。
「気になるのなら私と番になるか?」
「レオと?」
春雪が疑問符をあげたと同時に背後から爆発音が響く。
「な、なに?……あれ?ここどこ?」
「屋敷で何かが爆発したようだ」
急いでレオは春雪を抱き上げると屋敷に戻る。
「……え」
屋敷を見て小さな声を洩らした春雪。
大きな屋敷の一部が火に包まれ黒い煙があがっている。
それでも戦っている人たちは手を止めていない。
「なんで戦うのを辞めないんだ」
「刃を向ける者を前に戦う手を止めては死ぬからだ」
どちらかが手を止めないと戦いは終わらない。
けれど先に手を止めることは死に繋がる。
「みんな生きるために必死なのか」
「中には自らの命より主君への忠誠を重んじて戦っている者も居るだろう。屋敷の中に居た者も逃げる意思のある者や魔物は裏手から逃がしたが、望んで残った者も居る」
「俺にはわからない」
生きたい春雪にはその人たちの気持ちがわからない。
他人や名誉のために命を投げ出す覚悟が。
生きてこそだと思うから。
「もう誰にも死んで欲しくない」
「では自らの手で救え」
呟いた春雪をレオはその場へ降ろす。
「どうやって?」
「武器があるだろう?天蓋を撃ち抜いた飛び道具が。あの後ベッドを見たがなかった。あれが春雪の能力なのだろう?」
銃はもうあまり力が入らなくなって手放した時に消した。
シエルやミシオネールさんには人前で創造魔法は使わないよう言われているし約束もしたけれど、自分の身に危険が迫った時に使わないなら能力の意味がない。
「この屋敷の上には三ヶ所に貯水タンクがある。あの威力では何発か撃ち抜く必要はあるが、上手く行けば屋敷の火を消せるだろう。本当に助けたいのなら力を使え」
レオが指さし教えたのは大きなタンク。
屋敷の手前に二ヶ所、奥側に一ヶ所。
「あの銃じゃこの距離は無理だ」
拳銃ではとても届く距離ではない。
長距離も狙えるライフルでないと。
力の入り難い体で座った春雪は手のひらに魔力を集める。
春雪のいた時代の日本も銃の必要な世界になっていて研究所であらゆる銃器の訓練をしたが、まさか異世界でその知識が役立つことになるとは思いもしなかった。
「作れた」
スコープつきのライフル銃。
これで当たれば撃ち抜くことができる。
ただ、狙いを定められるほど今の春雪には力がない。
震える手で撃つのは難しい。
黙って見ていたレオは春雪の背後に周り背に体を重ねる。
「あ、駄目。触ったら消える」
「消える?」
「俺以外の人が触ると消えるんだ」
春雪にしか扱えない武器と言うことか。
武器を作れるとは恐ろしい能力だ。
「私は支えることしかしない。自分で撃つんだ」
背に重なった体と力の入り難い腕を支える手。
「春雪もいつか戦う時がくる。今回のように物ではなく生きている者へと向ける事にもなるだろう。刃を向ける者と対峙した時は躊躇なく撃て。それがこの世界で生きると言うことだ」
支えられスコープを覗き照準を合わせる。
「生きたいのならば自らの手で撃ち抜け」
荒い呼吸を止め照準を合わせた手前右側のタンクに連続で数発撃ち込むと、破裂して流れ出した水が屋敷を濡らす。
手前左側のタンクにも同様に。
「ここが最後だ」
屋敷の奥にある一番大きなタンク。
しっかり支えてくれる体や腕に頼もしさを感じながら残っていた弾を全弾撃ち込むと、タンクから溢れた水は滝のような勢いで屋敷を燃やす火にかかる。
しっかり水がかかっているのを見て安心したら力が抜けた。
「よくやった」
「ありがとうレオ。支えてくれて」
背に重なった体も頬を緩く撫でる手も冷たい。
熱をもった体には心地よく、安心して瞼を閉じた。
・
・
・
突然破壊された貯水槽。
三ヶ所あるそれが爆発を起こし一気に回った火の手を消す。
突然の出来事で気の逸れた相手を倒し音のした方に走って来てみれば、シーツに包まれた黒髪の勇者が地面に倒れていた。
「屋敷から自力で出てきたのか」
セルジュは黒髪で勇者と判断して安全な場所へ移動させようと春雪の体を仰向けにする。
「…………」
ハラリと肩を滑ったシーツから白い体が露になる。
これは晩餐で見た勇者と同じ人物か?
女性のようなその顔貌や白い肌に誰しもが思うことをセルジュも例に漏れず思う。
「美しい」
血まみれになっているに関わらず、まるで童話に出てくる戦の女神のように。
「いや、それより」
シーツを少しずらし乳房で男性であることを確認してから体に怪我がないかを確認する。
「返り血か」
上半身や腕や脚を確認してみたが怪我はない。
擦り傷一つない綺麗な体をしている。
辛うじてあの女が手を出す前に間に合ったようだ。
仮に手を出されていればこのように傷一つない体では居られないだろう。
「解熱剤を飲ませなくては」
確認中触れた肌は熱く発熱しているとわかる。
異世界から来てまだこちらの生活に慣れる前に療養することになり、療養中の王太子宮殿から何者かに拐われ、このように衣装を脱がすような淫婦が自分を召喚した国の王妃。
体の不調だけでなく心の傷も大きいだろう。
ふわっと漂ってきた花の香り。
まさかと春雪に顔を寄せてその香りを確認したセルジュは深く眉根を顰める。
あの淫婦が。
この香りの強さは尋常ではない。
催淫香の香りがこれほど体に染み付いていると言うことは長時間香の煙を浴び続けたのだろう。
「馬鹿が。勇者を殺す気か」
勇者を抱き上げ場を任せて来たドナの元へ走る。
「ブークリエ国王位継承第二位セルジュ・ヴェルデの名において命ずる!みなのもの今すぐ剣をおさめよ!おさめぬ者は国に歯向かう国家反逆者として血族一同公開処刑に処す!」
王家の名を出しての命令。
それに歯向かうことは国王に歯向かうことと同じ。
命令を聞き剣を捨て投降する者も居れば、王妃に忠誠を誓っている者はまだ剣や魔法で攻撃する。
「ドナ!勇者に浄化魔法を!このままでは勇者が死ぬ!」
まだ戦っていた者もそれを聞いて手を止める。
勇者が死ぬ?まさかそんな。
「その腕の人物は勇者なのですか!?」
「催淫香を吸いすぎていて意識がない!早くするんだ!」
走って行き少し乱暴ながら勇者を投げるように渡して交代。
ドナは逆に戦いから離脱して屋敷に背を向け走って行く。
「貴様らが犯した勇者への蛮行、決して許されると思うな!精霊王に愛されし勇者が居なくなればもう誰も魔王は倒せない!貴様らの愚かな行動で地上の精霊族は滅ぶと心得よ!」
戦っていた者たちもこの世界に生きる者。
まさか勇者の命が尽きる事態になるなど思っていなかった。
魔王を倒せるのは勇者だけだと子供でも知っていること。
勇者が居なければ国どころか全ての精霊族が滅ぶ。
「何をしてるの!戦いなさい!私が殺されても良いの!?」
髪を振り乱した王妃。
今まで戦いを辞めなかった者も醜い姿の王妃と地上を救う勇者を天秤にかけて剣を捨てる。
「いつまでその安全な場所から愚かな命令をするつもりだ!全精霊族を救う勇者と比べれば害にしかならぬ貴様の命など小虫以下だ!塵以下だ!己の愚かさを恥じろ!下劣な淫婦め!」
キーと地団駄を踏む王妃。
王子の使う言葉としては下品極まりないが、剣を捨てた者たちにとってはそれよりも勇者の方が気がかりだった。
「はやく!戦うのよ!私に逆らう者はみんな殺しなさい!」
障壁の向こうからヒステリックな声で命令する王妃の方は誰も目をやらず、少し離れた場所に寝かされドナから浄化魔法をかけられている勇者の無事を祈る。
勇者を殺せと命じられた時にも誰一人剣を向けなかった。
それほどこの世界の多くの者にとって勇者や勇者一行は代わりのいない尊い存在なのだ。
「ブークリエ国第二王妃アルメル・ヴェルデ。精霊族勇者保護法に従い、ブークリエ国王位継承第二位王子セルジュ・ヴェルデの名において貴殿を拘束する」
剣と魔法を使って王妃を護る頑丈な障壁を砕いたセルジュ。
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「焦らすとは酷い人だ。ますます貴方に惹かれてしまう。私のなけなしの魔力で貴方を救いましょう」
聖属性の上級魔法である浄化魔法。
普段であれば何ということもないそれも今まで戦い続けていたドナにとっては命を削る行為。
「兄さん、勇者は頼みますよ。私は暫く眠ります」
どこまでもドナはドナ。
国のためでも精霊族のためでも勇者のためでもない。
研究したい自分の欲のために残されたありったけの魔力を使って春雪に浄化魔法をかけ意識を失った。
・
・
・
春雪が目覚めたのは二日後。
品のある高価な調度品の揃う部屋で目覚めた。
「春雪」
部屋に居たのはミシェルとイヴ。
ゆっくりと瞼をあげた春雪は目だけを動かす。
「王城にある原始の間だ。ここには私たちしか居ない」
そう話しながらミシェルは春雪の頭をそっと撫でる。
「体はどうだ?痛いところはないか?」
パクリと口を開けた春雪。
そのすぐあと一度は閉じた口をまた開く。
それを見てミシェルとイヴは眉根を顰めた。
「……声が出ないのか?」
春雪も本人も驚いていて何度も首を縦に振る。
「すぐに魔法検査を」
「検査はつい先程したばかりではないですか」
魔法検査は春雪が目覚める前にしたばかり。
その検査に喉や声帯に関係する病名は出ていなかった。
「香の影響か心の傷か。今時点ではそれしか申せません」
強い精神的苦痛を経験すると声を失う者も居る。
外戦が起こった後にも数多くの事例があった。
誘拐され人の死を見た春雪はまさにそれにあてはまる。
「すまない。守ってやると約束したのに」
ミシェルが春雪が誘拐された事を知ったのは全て終わって。
セルジュから早馬が届き辿り着いた先で見たのは無惨に焼け焦げた屋敷とその前に転がる骸、傷を負ったセルジュと拘束されている第二妃、そして魔力が枯渇して気を失っているドナとシーツに包まれ返り血を浴びた春雪の姿だった。
「王家裁判の準備をしろ」
「なりません。裁判に立てぬ者を裁くことはできません」
「添え木に括り付けてでも立たせろ」
「陛下、冷静なご判断を」
怒りをあらわにするミシェルを宥めるイヴ。
今の二妃は王家裁判を行える状態ではない。
それを括り付けてでもと言うのはあまりにも愚策。
普段のミシェルならば絶対に口にしないこと。
トントンとミシェルの腕を叩いたのは春雪。
あまり状況は理解はできていないものの、ミシェルが怒っていることと出来ないことをしようとしていることは分かってまたミシェルに口動かす。
「……駄目だと言っているのか?」
やはり声は出ず指でバツを作って見せた春雪は頷く。
少し考えるような仕草を見せた春雪は創造魔法でペンとノートを作ると『落ち着いて』と書いて見せる。
「だが怖い思いをしただろう?」
『あまり』
ミシェルの問いに春雪はそう答える。
たしかに人が死ぬところを見るのは怖かった。
だから声が出ない原因がそれだと言われると納得できる。
ただ、怖かったのはそれだけ。
誘拐された時はこれから殺されるのかと思いはしたものの恐怖心はなく、正気を失っていた間のことも覚えていない。
『それよりも今どういうことなってるのかを教えて欲しい。王妃のこととか、助けに来てくれた王子たちのこととか』
二日眠り続けて目覚めたばかりの春雪は現状がわからない。
何よりも先に何が起きているのかが知りたかった。
「陛下。春雪殿の望みはそれのようです」
「分かった。春雪がそう望むなら」
当事者でありながら冷静な春雪に救われイヴは安堵する。
王家裁判が行われないとなれば恐らくミシェル本人の手で王妃を粛清しただろう。
それはそれで面倒なことになっていた。
「首謀者の二妃は罪を犯した者を拘束する贖罪の塔に幽閉している。本来であればすぐにでも王家の者を裁く裁判を行うところだが、精神に異常をきたしていて裁判が起こせない。幻覚が見えているようで何かに怯え狂乱している」
たしかに春雪が最後に見た王妃の姿もヒステリックに髪を掻き乱した無様な姿ではあったものの、その後にそのような精神状態になっているとは露にも思わず首を傾げる。
般若のような顔でレオや勇者を殺せと命じていた人に精神に異常をきたすような心の弱さがあったとは。
最期まで高笑いしていそうな人なのに、と。
「救出に向かったセルジュとドナは謹慎させている」
『どうして二人を?』
「報告の義務を怠ったからだ。自分たちの母だけに、大事になる前に愚行を止め春雪を連れ帰るつもりだったようだが」
親が犯した罪を大事にしたくない気持ちは分からなくない。
それが良いか悪いかではなく庇いたくなるものなんだろう。
『二人のことはどうにかならない?二人が助けに来てくれたから俺も生きて帰れたんだし』
来た理由は母親を止めるためでも俺もそれで助かった。
あの二人が来たから騒ぎに便乗してレオの黒蛇も無事に救出できたし、俺もレオから連れ出して貰えた。
もしあの二人が先に報告をして軍を動かしてと大事になっていたら、二人が来ただけで『生きて出したら自分が殺される』と逆ギレしていた王妃が俺をどうしたのかは想像に難くない。
「二人については案ずるな。謹慎を解くことは出来ないが、勇者を無事保護したことは事実。セルジュも最後は血縁の情に囚われず自らの手で母を捕え、ドナも魔力を枯渇させてでも春雪の命を救ったのだから、謹慎以上の処罰は行わない」
それを聞いてホッとした春雪。
助けてくれた人が罪に問われるのは気が塞ぐ。
『ドナ王子は大丈夫?』
魔力が枯渇すると気を失うと魔学で習った。
それに加え精神力が高い人は気を失わず耐えて魔力を使ってしまって魔腐食という状態になり命を失うこともあると。
「心配は要らない。体はまだ痛むようだが既に目覚めて休んでいる。今は全身が筋肉痛のような状態と言えばわかるか?」
『わかる。謹慎があけたら二人にお礼を言わせて欲しい』
「分かった。三人で話せるよう気軽な茶会でも開こう」
『ありがとう』
手記ながらミシェルと会話を交わした春雪は微笑む。
そんな春雪を見てミシェルとイヴは少し首を傾げたものの、余計なことを思い出させるような問いはしなかった。
『王太子はどうしてる?居なくなったから驚かせたんじゃ』
「マクシムも謹慎している」
え?なんで?
王太子は全く今回のことと関係ないのに。
驚く春雪にミシェルはくすりと笑う。
「マクシムは自主的な謹慎だ。宮殿から勇者を拐われたことに責任を感じているらしい。どのように勇者の情報が外部に漏れたのかまだ判明していないが、今後王太子宮殿の警備を強化し使用人の再教育を行い、自分の失態を懺悔室で反省すると」
そんなことはしなくて良いと手を横に振る。
姿を消すことのできるレオだから警備の厳しい宮殿でも容易に入れただけで、王太子や使用人が警備を怠った訳ではない。
「自分がすると言っているのだ。好きにさせてやって欲しい。私も春雪を守れなかったことを反省しよう。すまなかった」
気にしなくていいのに。
この世界の王家の人たちは真面目すぎる。
ありがたいことではあるけれど。
レオのことは黙っていると決めただけに、王家の者たちの誠実な対応に戸惑う春雪だった。
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まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
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