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捜査編
初歩的な考察
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7月15日 午後1時40分
アリアと彩夢の二人は泉川邸の南側に面した庭から、塀と建物の壁に挟まれた狭い路地に入り、そのまま邸宅の北側を目指す。もっとも、並んで走っていたのは最初だけですぐにアリアの足は遅れだした。
中学校の水泳大会で何度も地区大会に出場しているという彩夢の脚は長く引き締まっており、まるでイルカの尾ビレのようだ。そこから繰り出される大きく力強いストライドは勝手口の前の石畳を一息に飛び越え、奥の曲がり角へと消える。
「――ちょっ!? 速すぎ! 帰宅部、ナメんな……! はぁ、はぁっ……はやっ……!」
お気に入りのベレー帽が飛ばされないよう、両手で押さえながら小走りに駆けるアリアが遅れて角を曲がると、彩夢は格子の付いた窓の下で屈んでいた。
肩で息をしながらアリアが近づくと、息一つ乱れていない彩夢が頭上の窓を指さし、そのまま人差し指を口元に持っていく。
「違いますよ! 私は無関係です!」
どうやら窓が開いているらしく、そこから中の声が漏れているようだ。二人が格子の隙間からこっそり中を覗くと、そこは浴室だった。豪邸にふさわしく、人工大理石を使った浴槽はゆったりとした広さがあり、アリアぐらいの背丈ならば足を伸ばしてもまだ余裕がありそうだ。
更によく観察すると、浴室のドアが半開きになっており、背の高いスーツ姿の男性が携帯電話を片手に誰かと話しているのが見えた。
「あれは……」
「被害者の担当編集の人ですね」
「そうそう! 確か名前は……谷町純平って言ってたかな?」
反射的に頷いたものの、彩夢は一瞬考えた後、まじまじとアリアの横顔を見た。
「――ちょっと待って! アタシ、探偵さんにまだみんなのこと話してないよね?」
にもかかわらず、アリアが当然のように事件関係者を把握していたことが不思議でならない。一方、アリアも彩夢が何故そんな初歩的な事を訊くのか分からず首をかしげた。
「スマホを持ってない方の手をよく見てください。赤いペンの痕がついてますよね?」
アリアに言われて彩夢が目を凝らすと、確かに男性の右の手の平には赤い斑点が点々と付いていた。
「赤ペンだけをまめに使うなんて、先生か競売好きのおじさん、あるいは上がってきた原稿をチェックする編集者くらいじゃないですか? なにより玄関に靴があったし……」
「靴?」
アリアがこの泉川邸に着いた時、玄関には事件関係者や捜査員の靴が溢れていた。有名アスリートモデルのスニーカーもあれば、汚れたつっかけサンダルや年季の入った革靴もあり、文字通り足の踏み場が無かったのを覚えている。その中にはアリアが履いている学校指定のローファーより一回りも二回りも大きな革靴もあり、玄関の隅にきっちり揃えて置いてあった。
「身長から見て、あの靴の持ち主は目の前の男性だと思いませんか?」
「いや、だから革靴なんて大人の男の人なら誰でも持ってるでしょ? ウチの父さんだっていつも履いてるし。何であの大きな靴を履いてたら編集者だって分かるわけ?」
まるで要領を得ないアリアの説明に今度は彩夢が首をかしげる番だ。
「よく思い出してください。玄関にあった革靴の中で、ソールが革のままだったのはあの大きな靴一足だけで、他は全て靴底にゴム製のソールが貼られていましたよね?」
もちろん、サラリーマンの中にもラバーソールを使う人も居るが、営業マンや編集者のように外部の人間とやり取りする立場の人は見た目を重要視する傾向がある。一方、警察は足で情報を集めるのが基本だ。そのため、足に負担のかからないラバーソールを使用しているというのを以前、アリアは推理作家の姉に訊いたことがあった。
「さらに言えば、作家やイラストレーターがスーツを着るのは稀で、革の風合いが出るほど履き込む可能性は限りなくゼロです。そうなると、残っているこの家の関係者で革靴を履きそうな人物は出版社の編集者だけです」
「へぇ~~! 靴底なんて、よくそんな細かいことまで覚えてるね?」
彩夢は驚きとも呆れともつかない表情でこの自分とほとんど年の変わらない少女を見つめる。だがアリアのプロファイリングはまだ終わっていない。
「今朝、内鍵が掛かっていたという地下室のドアを破ったのはあの人ですね? 昔、柔道とか相撲とか、何かの格闘技をやってたんじゃないですか?」
「ちょっと待ってよ! なんでそんな事まで分かるの、探偵さん!?」
おもわず目を丸くした彩夢の表情がアリアの推理が真実である事を告げていた。
「よく見てください。普段、赤ペンを持っている利き手じゃない方でスマホを握ってますよね? つまり、何らかの理由で右手に負担をかけたくないってことです」
例えば、ドアに向かって右肩からおもいっきりタックルして負傷した等の理由だ。
実際、先ほど見た地下室の扉は外側から無理やり押し破られた形跡があった。ドラマ等とは違い、日本の警察はガサ入れの時でもそんな手荒で粗雑なことはしない。明らかに素人の仕業、しかも体格と筋肉に恵まれた人間によるものだ。
「でも、何で格闘技だって分かるの? ラグビーとかアメフトとか、他のスポーツかもしれないじゃん」
右手をかばっていることには納得しつつも反論する彩夢に対し、アリアは面倒くさそうに補足した。
「それは玄関の靴がきちんと揃えて脱いであったので……」
几帳面な性格とも考えられるが、こういうのは幼少期に体に染み付いたクセということが多い。そこから礼節に厳しく、靴を脱いでやる何らかのスポーツをやっていたと推測するのは難しい話ではない。
そして今も空いた右手を無意識にベルトに引っ掛けている姿は、帯や廻しを手持ち無沙汰に掴む格闘技経験者のシルエットにぴたりと当てはまる。
「……と、まぁ、よく考えれば誰でも気付く単純な話ですよ」
そう締めくくったアリアを見る彩夢の目は驚きから、もはや珍獣か何かを見るような視線に変わっていた。以前、兄が巻き込まれた事件をアリアが解決したことで一定の信頼を置いていたものの、改めてその推理力を見せつけられ、驚きを隠せない。
小さな事柄も見逃さず、そこから豊富な知識に裏付けされた推理を組み上げる様はまさに推理小説に出てくる〝名探偵〟のようだ。
アリアならこの不可解な密室殺人の謎を解くことができるかもしれない。
そんな期待を新たにしながら彩夢は昨日の夜の出来事を話し始めた。
アリアと彩夢の二人は泉川邸の南側に面した庭から、塀と建物の壁に挟まれた狭い路地に入り、そのまま邸宅の北側を目指す。もっとも、並んで走っていたのは最初だけですぐにアリアの足は遅れだした。
中学校の水泳大会で何度も地区大会に出場しているという彩夢の脚は長く引き締まっており、まるでイルカの尾ビレのようだ。そこから繰り出される大きく力強いストライドは勝手口の前の石畳を一息に飛び越え、奥の曲がり角へと消える。
「――ちょっ!? 速すぎ! 帰宅部、ナメんな……! はぁ、はぁっ……はやっ……!」
お気に入りのベレー帽が飛ばされないよう、両手で押さえながら小走りに駆けるアリアが遅れて角を曲がると、彩夢は格子の付いた窓の下で屈んでいた。
肩で息をしながらアリアが近づくと、息一つ乱れていない彩夢が頭上の窓を指さし、そのまま人差し指を口元に持っていく。
「違いますよ! 私は無関係です!」
どうやら窓が開いているらしく、そこから中の声が漏れているようだ。二人が格子の隙間からこっそり中を覗くと、そこは浴室だった。豪邸にふさわしく、人工大理石を使った浴槽はゆったりとした広さがあり、アリアぐらいの背丈ならば足を伸ばしてもまだ余裕がありそうだ。
更によく観察すると、浴室のドアが半開きになっており、背の高いスーツ姿の男性が携帯電話を片手に誰かと話しているのが見えた。
「あれは……」
「被害者の担当編集の人ですね」
「そうそう! 確か名前は……谷町純平って言ってたかな?」
反射的に頷いたものの、彩夢は一瞬考えた後、まじまじとアリアの横顔を見た。
「――ちょっと待って! アタシ、探偵さんにまだみんなのこと話してないよね?」
にもかかわらず、アリアが当然のように事件関係者を把握していたことが不思議でならない。一方、アリアも彩夢が何故そんな初歩的な事を訊くのか分からず首をかしげた。
「スマホを持ってない方の手をよく見てください。赤いペンの痕がついてますよね?」
アリアに言われて彩夢が目を凝らすと、確かに男性の右の手の平には赤い斑点が点々と付いていた。
「赤ペンだけをまめに使うなんて、先生か競売好きのおじさん、あるいは上がってきた原稿をチェックする編集者くらいじゃないですか? なにより玄関に靴があったし……」
「靴?」
アリアがこの泉川邸に着いた時、玄関には事件関係者や捜査員の靴が溢れていた。有名アスリートモデルのスニーカーもあれば、汚れたつっかけサンダルや年季の入った革靴もあり、文字通り足の踏み場が無かったのを覚えている。その中にはアリアが履いている学校指定のローファーより一回りも二回りも大きな革靴もあり、玄関の隅にきっちり揃えて置いてあった。
「身長から見て、あの靴の持ち主は目の前の男性だと思いませんか?」
「いや、だから革靴なんて大人の男の人なら誰でも持ってるでしょ? ウチの父さんだっていつも履いてるし。何であの大きな靴を履いてたら編集者だって分かるわけ?」
まるで要領を得ないアリアの説明に今度は彩夢が首をかしげる番だ。
「よく思い出してください。玄関にあった革靴の中で、ソールが革のままだったのはあの大きな靴一足だけで、他は全て靴底にゴム製のソールが貼られていましたよね?」
もちろん、サラリーマンの中にもラバーソールを使う人も居るが、営業マンや編集者のように外部の人間とやり取りする立場の人は見た目を重要視する傾向がある。一方、警察は足で情報を集めるのが基本だ。そのため、足に負担のかからないラバーソールを使用しているというのを以前、アリアは推理作家の姉に訊いたことがあった。
「さらに言えば、作家やイラストレーターがスーツを着るのは稀で、革の風合いが出るほど履き込む可能性は限りなくゼロです。そうなると、残っているこの家の関係者で革靴を履きそうな人物は出版社の編集者だけです」
「へぇ~~! 靴底なんて、よくそんな細かいことまで覚えてるね?」
彩夢は驚きとも呆れともつかない表情でこの自分とほとんど年の変わらない少女を見つめる。だがアリアのプロファイリングはまだ終わっていない。
「今朝、内鍵が掛かっていたという地下室のドアを破ったのはあの人ですね? 昔、柔道とか相撲とか、何かの格闘技をやってたんじゃないですか?」
「ちょっと待ってよ! なんでそんな事まで分かるの、探偵さん!?」
おもわず目を丸くした彩夢の表情がアリアの推理が真実である事を告げていた。
「よく見てください。普段、赤ペンを持っている利き手じゃない方でスマホを握ってますよね? つまり、何らかの理由で右手に負担をかけたくないってことです」
例えば、ドアに向かって右肩からおもいっきりタックルして負傷した等の理由だ。
実際、先ほど見た地下室の扉は外側から無理やり押し破られた形跡があった。ドラマ等とは違い、日本の警察はガサ入れの時でもそんな手荒で粗雑なことはしない。明らかに素人の仕業、しかも体格と筋肉に恵まれた人間によるものだ。
「でも、何で格闘技だって分かるの? ラグビーとかアメフトとか、他のスポーツかもしれないじゃん」
右手をかばっていることには納得しつつも反論する彩夢に対し、アリアは面倒くさそうに補足した。
「それは玄関の靴がきちんと揃えて脱いであったので……」
几帳面な性格とも考えられるが、こういうのは幼少期に体に染み付いたクセということが多い。そこから礼節に厳しく、靴を脱いでやる何らかのスポーツをやっていたと推測するのは難しい話ではない。
そして今も空いた右手を無意識にベルトに引っ掛けている姿は、帯や廻しを手持ち無沙汰に掴む格闘技経験者のシルエットにぴたりと当てはまる。
「……と、まぁ、よく考えれば誰でも気付く単純な話ですよ」
そう締めくくったアリアを見る彩夢の目は驚きから、もはや珍獣か何かを見るような視線に変わっていた。以前、兄が巻き込まれた事件をアリアが解決したことで一定の信頼を置いていたものの、改めてその推理力を見せつけられ、驚きを隠せない。
小さな事柄も見逃さず、そこから豊富な知識に裏付けされた推理を組み上げる様はまさに推理小説に出てくる〝名探偵〟のようだ。
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