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君の手を握る時に想うこと
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その夢の終わりで、僕は高いところに立っていた。
隣には氷雨がいる。足元には大きなグラウンドと、それを避けるようにして舗装路が伸びていた。視線の高さに微かな違和感があって、それでやっと僕は「誰かの視点を介して氷雨の過去を見ている」と直感する。
「あの世で会おうね」
と僕の視点となっている人物は言った。氷雨は困ったように微笑むだけで、何も返さなかった。
その瞬間、僕の胸をまともに立っていられないほどの痛みが握りつぶす。憐憫だった。それは優しくない僕が、成長の過程で落っことしてきたものだ。
海底や宇宙の果てよりも遠くにある知らない感情は、きっと氷雨の前で死んだ男の優しさだったのだろう。
僕は夢の光景を介して、僕よりも先に死んでいった男と感情を共有していた。
『それで、俺、一人で死んだんです』
冷めた気持ちで夢を眺めていると、頭内に声が響いた。
視点人物の声なのだろう。氷雨にかけた声とは違う響き方で、彼が僕に語りかけたのだとわかった。
『茉宵は、君に憎まれてると思ってるらしい』
言葉を返す僕の声も、高いはずの空に反響して聞こえた。まるで僕らの立つビルの屋上だけが、狭く透明なドームで覆われているかのように。彼は不気味なほどに感情のない、概念的な声で続ける。
『違う。逆です』
『逆?』
『氷雨さんに憎まれることをしたのは、彼女の目の前で死んだ、俺の方なんです』
まったくだ、と僕がうなずく前に、彼はビルから飛び降りてみせた。
途端、果てしない重力とそれに反するような浮遊感が全身を包む。嫌味なほどに長い時間に僕らは落ちていく。
気が狂いそうになるほどの恐怖の奥底から、それを上回るほどの後悔が滲み出してくる。
『どうして、長いんだ。こんなにも』
悲鳴を噛み締めた歯の隙間から、僕は言葉を引きずり出す。
自殺を試みたことはないけれど、それでも実際の落下よりも長く浮遊していることはわかる。
『嫌味か。君よりも長く茉宵と一緒にいる、僕に』
『とんでもない。俺、もう死んでるんで。多分ここに残ってるのは記憶だけだから、誰かを傷付ける意思は存在しません』
かつて抱いていたはずの感情は、微塵もその声に籠もっていない。
『じゃあ、どうしたいんだ。こんな気分を味わわせて』
『お願いがしたいんです』
『頼むにしちゃあ脅迫的な展開だね』
精一杯強がって見せる。
地面が近くなっていた。この夢の終わりが近いのだと気付いてからも、氷雨と目があっていた。
彼女は大切にしていたおもちゃを川に落としてしまったような顔で、僕らに手を差し伸べている。
『氷雨さんは、先立たれる悲しさと痛みを知っています。自分だけが生き残ってしまう怖さを知っています』
きっと、そうなのだろう。
あの必殺技も使えないヒーローは、自分自身を傷つけるほどの優しさを持っている。そして誰の傷も忘れることができない、聡明さを持たされて生まれてきた。
名前も知らない自殺者は、不可解にも僕の名前を呼ぶ。
『だから夜霧先輩は、彼女より先に死なないであげてください』
直後、視線が急激に地面を捉える。
凄まじい勢いでコンクリートが迫ってくる。
目を閉じる暇も、断末魔を上げる余裕もない。
激しい衝撃を感じた後、前後左右の区別がつかなくなって、浮遊感がもう一度全身を包んだ。それでも気が狂いそうなほどの激痛は収まらなかった。痛み以外の感覚はほぼ遮断されていた。
耳鳴りよりも遠いところで、誰かの子守唄が聞こえる。
『時間です』
あんまりにも感情の抜け落ちた、機械のような声が聞こえた。
それはたった今、二度目の死を遂げたはずの少年の声だった。
その夢の終わりで、僕は高いところに立っていた。
隣には氷雨がいる。足元には大きなグラウンドと、それを避けるようにして舗装路が伸びていた。視線の高さに微かな違和感があって、それでやっと僕は「誰かの視点を介して氷雨の過去を見ている」と直感する。
「あの世で会おうね」
と僕の視点となっている人物は言った。氷雨は困ったように微笑むだけで、何も返さなかった。
その瞬間、僕の胸をまともに立っていられないほどの痛みが握りつぶす。憐憫だった。それは優しくない僕が、成長の過程で落っことしてきたものだ。
海底や宇宙の果てよりも遠くにある知らない感情は、きっと氷雨の前で死んだ男の優しさだったのだろう。
僕は夢の光景を介して、僕よりも先に死んでいった男と感情を共有していた。
『それで、俺、一人で死んだんです』
冷めた気持ちで夢を眺めていると、頭内に声が響いた。
視点人物の声なのだろう。氷雨にかけた声とは違う響き方で、彼が僕に語りかけたのだとわかった。
『茉宵は、君に憎まれてると思ってるらしい』
言葉を返す僕の声も、高いはずの空に反響して聞こえた。まるで僕らの立つビルの屋上だけが、狭く透明なドームで覆われているかのように。彼は不気味なほどに感情のない、概念的な声で続ける。
『違う。逆です』
『逆?』
『氷雨さんに憎まれることをしたのは、彼女の目の前で死んだ、俺の方なんです』
まったくだ、と僕がうなずく前に、彼はビルから飛び降りてみせた。
途端、果てしない重力とそれに反するような浮遊感が全身を包む。嫌味なほどに長い時間に僕らは落ちていく。
気が狂いそうになるほどの恐怖の奥底から、それを上回るほどの後悔が滲み出してくる。
『どうして、長いんだ。こんなにも』
悲鳴を噛み締めた歯の隙間から、僕は言葉を引きずり出す。
自殺を試みたことはないけれど、それでも実際の落下よりも長く浮遊していることはわかる。
『嫌味か。君よりも長く茉宵と一緒にいる、僕に』
『とんでもない。俺、もう死んでるんで。多分ここに残ってるのは記憶だけだから、誰かを傷付ける意思は存在しません』
かつて抱いていたはずの感情は、微塵もその声に籠もっていない。
『じゃあ、どうしたいんだ。こんな気分を味わわせて』
『お願いがしたいんです』
『頼むにしちゃあ脅迫的な展開だね』
精一杯強がって見せる。
地面が近くなっていた。この夢の終わりが近いのだと気付いてからも、氷雨と目があっていた。
彼女は大切にしていたおもちゃを川に落としてしまったような顔で、僕らに手を差し伸べている。
『氷雨さんは、先立たれる悲しさと痛みを知っています。自分だけが生き残ってしまう怖さを知っています』
きっと、そうなのだろう。
あの必殺技も使えないヒーローは、自分自身を傷つけるほどの優しさを持っている。そして誰の傷も忘れることができない、聡明さを持たされて生まれてきた。
名前も知らない自殺者は、不可解にも僕の名前を呼ぶ。
『だから夜霧先輩は、彼女より先に死なないであげてください』
直後、視線が急激に地面を捉える。
凄まじい勢いでコンクリートが迫ってくる。
目を閉じる暇も、断末魔を上げる余裕もない。
激しい衝撃を感じた後、前後左右の区別がつかなくなって、浮遊感がもう一度全身を包んだ。それでも気が狂いそうなほどの激痛は収まらなかった。痛み以外の感覚はほぼ遮断されていた。
耳鳴りよりも遠いところで、誰かの子守唄が聞こえる。
『時間です』
あんまりにも感情の抜け落ちた、機械のような声が聞こえた。
それはたった今、二度目の死を遂げたはずの少年の声だった。
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