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彼女の世界に近づくために
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溺れるように寝床を探して辿り着いたのは、もう使われなくなったバス停だった。
ぼったりと白いペンキが塗られた木材とトタンで作られた古臭い屋根の下で、僕はタバコに火を点ける。
数日ぶりに深く吸った空気はべらぼうに旨く、厚塗りのペンキが剥げた背もたれに頭を預けると、すぐに睡魔に襲われた。
「今頃は」
意識を保つための言葉は、蝉時雨の奥で聞こえた気がした。
今頃、警官たちは血眼になって僕を探しているだろう。氷雨を捜索する余裕すらないほどに。
僕がしたことは、桜田門に泥を塗る行為だ。
手駒に対応した親切な警官には気の毒だけれど、僕もまた氷雨以外のことを気に掛ける余裕はない。
少しだけ体を休めたら、僕は氷雨の捜索を再開しなければならない。
もちろん僕らは犯罪者になっているのだから、再会は容易なことではないだろう。けれどわざわざ本物の犯罪者になったのだ。ここで全てを投げ出すには、賭けた対価が大きすぎる。
仮に氷雨が愛結晶を打ち明けたが故に姿を消したのだとしても、僕は地の果てまでも追い詰めて、引導を渡してやるつもりだ。
*
薄暗い山の滅多に車も通らない道には、夕暮れとヒグラシが落ちていた。
セミはその死の寸前に、空を見ることは出来ないのだと言う。それならせめて、最後に見た空が青ければいい。
僕はぼやけた意識を感傷に浸しながら、夜の降りつつある夏を眺めていた。
やがて陽が完全に沈んだ瞬間を見届けて、僕は持参した水筒の水を被る。軽く水を払ってから頬を叩く。
そうして夜の闇に紛れて、氷雨を探した。
駅前で、街頭で、学校付近で。どこに張り込んでも、それらしい人影ばかりが幻影みたいに視界を横切って、そのたびに僕は抉られるような胸の痛みに顔をしかめる。
動く気力はもうなかった。けれど、今捕まるわけにもいかない。
出来るだけ警官の少ない河川敷に逃げて、湿った草原の上に腰を下ろす。川面には夏の長い夕暮れが漂っている。
少し離れたところでは一人の男の子がサッカーボールを蹴っていて、壁に跳ね返ったボールが時々僕の近くまで飛んでくる。彼はそのたびに素早くボールに回り込んで、僕にボールが当たらないようにしていた。
けれど何度目かのあとに、ボールは僕を通りを越して川の中へと飛んでいってしまった。
少年はグッと唇を噛み締めてから、踵を返して帰ろうとする。僕はその背を呼び止めていた。
「まだ帰らなくてもいいよ」
少年が振り返る。彼の返事を待たずに、僕は川面を足で踏み破る。
ズボンのシミも泥濘も気にせず、冷たい水をかき分ける。膝の上まで浸かったところで、ようやくボールを掴んだ。
水流とヘドロに足を取られないように重心を落として、岸に戻る。
「お兄さん、ありがとう」
彼はボールを飛ばした時よりもずっと子供っぽい、屈託のない笑顔でボールを受け取った。
僕はその時、初めて氷雨が他人に手を差し伸べられる理由を知った気がした。
つまり彼女は、助けた人々から気力をもらっていたのだ。笑顔や感謝の言葉は、辛い現実に取り残されたちっぽけな自分が、その一瞬だけは誰かにとって必要とされたのだと気付かせてくれる。
僕はその脆く健気な欲望を、否定することができないでいる。
次の日も僕は、困っている誰かに手を差し伸べた。道に迷った外国人と一緒に目的地まで歩き、駅の階段で疲れて止まってしまった老婆を背負って階段を上がった。
僕は別に、自分を肯定したいからそうしたわけじゃない。
氷雨と同じ方法で優しい世界を作ろうとしたら、少しでも彼女に近づけるのではないかと思っただけだ。
どちらも淡い希望であることには変わりないのだけれど、それでも何もせずに山中を放浪するよりはずっといい。
氷雨とは違って、あるいは内面での氷雨もそうだったのかもしれないが、現実の不完全な自分と他者から見た自分とのギャップに吐き気がした。
そしてその次の日から町の警官の数が増えて、いよいよ僕は山から出られなくなった。
ぼったりと白いペンキが塗られた木材とトタンで作られた古臭い屋根の下で、僕はタバコに火を点ける。
数日ぶりに深く吸った空気はべらぼうに旨く、厚塗りのペンキが剥げた背もたれに頭を預けると、すぐに睡魔に襲われた。
「今頃は」
意識を保つための言葉は、蝉時雨の奥で聞こえた気がした。
今頃、警官たちは血眼になって僕を探しているだろう。氷雨を捜索する余裕すらないほどに。
僕がしたことは、桜田門に泥を塗る行為だ。
手駒に対応した親切な警官には気の毒だけれど、僕もまた氷雨以外のことを気に掛ける余裕はない。
少しだけ体を休めたら、僕は氷雨の捜索を再開しなければならない。
もちろん僕らは犯罪者になっているのだから、再会は容易なことではないだろう。けれどわざわざ本物の犯罪者になったのだ。ここで全てを投げ出すには、賭けた対価が大きすぎる。
仮に氷雨が愛結晶を打ち明けたが故に姿を消したのだとしても、僕は地の果てまでも追い詰めて、引導を渡してやるつもりだ。
*
薄暗い山の滅多に車も通らない道には、夕暮れとヒグラシが落ちていた。
セミはその死の寸前に、空を見ることは出来ないのだと言う。それならせめて、最後に見た空が青ければいい。
僕はぼやけた意識を感傷に浸しながら、夜の降りつつある夏を眺めていた。
やがて陽が完全に沈んだ瞬間を見届けて、僕は持参した水筒の水を被る。軽く水を払ってから頬を叩く。
そうして夜の闇に紛れて、氷雨を探した。
駅前で、街頭で、学校付近で。どこに張り込んでも、それらしい人影ばかりが幻影みたいに視界を横切って、そのたびに僕は抉られるような胸の痛みに顔をしかめる。
動く気力はもうなかった。けれど、今捕まるわけにもいかない。
出来るだけ警官の少ない河川敷に逃げて、湿った草原の上に腰を下ろす。川面には夏の長い夕暮れが漂っている。
少し離れたところでは一人の男の子がサッカーボールを蹴っていて、壁に跳ね返ったボールが時々僕の近くまで飛んでくる。彼はそのたびに素早くボールに回り込んで、僕にボールが当たらないようにしていた。
けれど何度目かのあとに、ボールは僕を通りを越して川の中へと飛んでいってしまった。
少年はグッと唇を噛み締めてから、踵を返して帰ろうとする。僕はその背を呼び止めていた。
「まだ帰らなくてもいいよ」
少年が振り返る。彼の返事を待たずに、僕は川面を足で踏み破る。
ズボンのシミも泥濘も気にせず、冷たい水をかき分ける。膝の上まで浸かったところで、ようやくボールを掴んだ。
水流とヘドロに足を取られないように重心を落として、岸に戻る。
「お兄さん、ありがとう」
彼はボールを飛ばした時よりもずっと子供っぽい、屈託のない笑顔でボールを受け取った。
僕はその時、初めて氷雨が他人に手を差し伸べられる理由を知った気がした。
つまり彼女は、助けた人々から気力をもらっていたのだ。笑顔や感謝の言葉は、辛い現実に取り残されたちっぽけな自分が、その一瞬だけは誰かにとって必要とされたのだと気付かせてくれる。
僕はその脆く健気な欲望を、否定することができないでいる。
次の日も僕は、困っている誰かに手を差し伸べた。道に迷った外国人と一緒に目的地まで歩き、駅の階段で疲れて止まってしまった老婆を背負って階段を上がった。
僕は別に、自分を肯定したいからそうしたわけじゃない。
氷雨と同じ方法で優しい世界を作ろうとしたら、少しでも彼女に近づけるのではないかと思っただけだ。
どちらも淡い希望であることには変わりないのだけれど、それでも何もせずに山中を放浪するよりはずっといい。
氷雨とは違って、あるいは内面での氷雨もそうだったのかもしれないが、現実の不完全な自分と他者から見た自分とのギャップに吐き気がした。
そしてその次の日から町の警官の数が増えて、いよいよ僕は山から出られなくなった。
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