97 / 119
彼女の世界に近づくために
3
しおりを挟む
*
翌日、仮眠から目が覚めた僕は自宅に手駒を呼び出した。
電話越しに「やることがある」と伝えると、彼女は無言で電話を切った。十分ほど待つとインターホンも鳴らさずに彼女が入ってくる。
手駒の少女は僕を見下ろすなり、冷ややかな声を叩き付けてきた。
「で、やることって何。ウチがやること? それともアンタ?」
「両方だ」
掠れた声が出る。声帯のチューニングすらも面倒くさくて、僕はそのままの声で続ける。
話が進むほどに、手駒の眉間に深いしわが刻まれていった。まるで見たこともない数式を前にした時のように。そして理解を諦めた彼女は、感情剥き出しの言葉を僕に投げる。
「それ、本気で言ってるんならそろぼちヤバいよ。頭おかしい」
「いいから、やれ」
財布から抜いた五千円を叩き付けて、出来るだけ威圧的に睨みつける。
手駒はそれを一瞥しただけで、受け取りもせずに鼻を鳴らした。
「……そんなほっといても死にそうな顔した奴に凄まれてもね」
鼻で嗤われて、初めて僕は自分の頬に触れた。
ざらついた肌の感触が返ってくる。
彼女は何も受け取らないまま、部屋を出ていく。
「弟はかわいいだろう?」
僕の口から飛び出すありきたりな言葉は、思いもかけず縋るような音色をしていた。
「そりゃかわいいけど?」
「君はもう少し利口だと思ってたけどね」
咳払いをしても、この口から生まれる言葉の響きはすべて情けなかった。中身のない空っぽの器を弾いたみたいに、ぼんやりとワンルームに響いて消えていく。
駒の少女はもう一度冷たく笑ったあと、僕に中指を立てた。
「アンタが苦しむことなら、金なんてもらわなくても喜んでやるっての」
少女はそのまま部屋を出た。
僕はしばらく呆気にとられてからその背を追う。
数時間ぶりに仰いだ空には入道雲が泳いでいて、その遠くからは暗い雲が滲み出していた。
手駒は常に僕の十メートル以上前を歩き、防犯カメラのある道は別々のルートに別れた。途中で何度も逃げられた場合を想定したけれど、どの対策を考えても最終的には諦めるように思考を放棄した。
どのみち目的の半分はすでに達成しているから、ここで手駒に逃げられてしまっても問題はない。むしろ「狂った化物」とでも思われている方が動きやすいのかもしれない。
けれど彼女は、僕を裏切らなかった。
「すいませんお巡りさ~ん、ここのマンションって、どう行けばいいかわかります~?」
彼女は交番前で仕事をしていた警官に声をかけて、注意を引く。
今のところ、計画は万事順調に進んでいる。僕は何気なく彼女らの前を通り過ぎて、駐輪場に入るスロープのフェンスを登る。そこは交番の裏口に繋がっている。
もちろん僕の行動は、監視カメラがずっと記録していた。
僕は敢えてカメラに映るようにポケットから石を取り出して、それを裏口の窓に叩きつける。日常の割れる音があるとしたら、交番のガラスを割る音なんてのは間違いなくそれに当たるだろう。
砕け散った破片が散らばる音が僕の気を昂らせていく。それは初めて刃物を人に突き付けた時よりも強く、引き返せなくなった甘い絶望を連れてくる。
手駒が少しだけ離れた所に誘導したのか、それとも雑踏に紛れて聞こえなかったのか、警官が飛んでくる様子はない。警報が鳴ることもなかった。
踏み込んではいけない境界を探って、敢えてその一歩先に土足で踏み込む緊張感。首筋を伝った汗の冷たさで鼓動を抑えて、交番内に侵入する。
「これだ」
目当ての物は施錠されていないロッカーにあった。
それはちっぽけで、けれど一度手にしてしまえば、今度こそ引き返すことは出来なくなるような代物だ。
けれど僕は迷わなかった。
盗んだものを服の中に隠して、ガラスを割った裏口から外に出る。すぐに路地裏に入って、遠回りもせずに帰宅した。
翌日、仮眠から目が覚めた僕は自宅に手駒を呼び出した。
電話越しに「やることがある」と伝えると、彼女は無言で電話を切った。十分ほど待つとインターホンも鳴らさずに彼女が入ってくる。
手駒の少女は僕を見下ろすなり、冷ややかな声を叩き付けてきた。
「で、やることって何。ウチがやること? それともアンタ?」
「両方だ」
掠れた声が出る。声帯のチューニングすらも面倒くさくて、僕はそのままの声で続ける。
話が進むほどに、手駒の眉間に深いしわが刻まれていった。まるで見たこともない数式を前にした時のように。そして理解を諦めた彼女は、感情剥き出しの言葉を僕に投げる。
「それ、本気で言ってるんならそろぼちヤバいよ。頭おかしい」
「いいから、やれ」
財布から抜いた五千円を叩き付けて、出来るだけ威圧的に睨みつける。
手駒はそれを一瞥しただけで、受け取りもせずに鼻を鳴らした。
「……そんなほっといても死にそうな顔した奴に凄まれてもね」
鼻で嗤われて、初めて僕は自分の頬に触れた。
ざらついた肌の感触が返ってくる。
彼女は何も受け取らないまま、部屋を出ていく。
「弟はかわいいだろう?」
僕の口から飛び出すありきたりな言葉は、思いもかけず縋るような音色をしていた。
「そりゃかわいいけど?」
「君はもう少し利口だと思ってたけどね」
咳払いをしても、この口から生まれる言葉の響きはすべて情けなかった。中身のない空っぽの器を弾いたみたいに、ぼんやりとワンルームに響いて消えていく。
駒の少女はもう一度冷たく笑ったあと、僕に中指を立てた。
「アンタが苦しむことなら、金なんてもらわなくても喜んでやるっての」
少女はそのまま部屋を出た。
僕はしばらく呆気にとられてからその背を追う。
数時間ぶりに仰いだ空には入道雲が泳いでいて、その遠くからは暗い雲が滲み出していた。
手駒は常に僕の十メートル以上前を歩き、防犯カメラのある道は別々のルートに別れた。途中で何度も逃げられた場合を想定したけれど、どの対策を考えても最終的には諦めるように思考を放棄した。
どのみち目的の半分はすでに達成しているから、ここで手駒に逃げられてしまっても問題はない。むしろ「狂った化物」とでも思われている方が動きやすいのかもしれない。
けれど彼女は、僕を裏切らなかった。
「すいませんお巡りさ~ん、ここのマンションって、どう行けばいいかわかります~?」
彼女は交番前で仕事をしていた警官に声をかけて、注意を引く。
今のところ、計画は万事順調に進んでいる。僕は何気なく彼女らの前を通り過ぎて、駐輪場に入るスロープのフェンスを登る。そこは交番の裏口に繋がっている。
もちろん僕の行動は、監視カメラがずっと記録していた。
僕は敢えてカメラに映るようにポケットから石を取り出して、それを裏口の窓に叩きつける。日常の割れる音があるとしたら、交番のガラスを割る音なんてのは間違いなくそれに当たるだろう。
砕け散った破片が散らばる音が僕の気を昂らせていく。それは初めて刃物を人に突き付けた時よりも強く、引き返せなくなった甘い絶望を連れてくる。
手駒が少しだけ離れた所に誘導したのか、それとも雑踏に紛れて聞こえなかったのか、警官が飛んでくる様子はない。警報が鳴ることもなかった。
踏み込んではいけない境界を探って、敢えてその一歩先に土足で踏み込む緊張感。首筋を伝った汗の冷たさで鼓動を抑えて、交番内に侵入する。
「これだ」
目当ての物は施錠されていないロッカーにあった。
それはちっぽけで、けれど一度手にしてしまえば、今度こそ引き返すことは出来なくなるような代物だ。
けれど僕は迷わなかった。
盗んだものを服の中に隠して、ガラスを割った裏口から外に出る。すぐに路地裏に入って、遠回りもせずに帰宅した。
応援ありがとうございます!
2
お気に入りに追加
15
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる