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彼女の世界に近づくために

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 翌日、仮眠から目が覚めた僕は自宅に手駒を呼び出した。
 電話越しに「やることがある」と伝えると、彼女は無言で電話を切った。十分ほど待つとインターホンも鳴らさずに彼女が入ってくる。
 手駒の少女は僕を見下ろすなり、冷ややかな声を叩き付けてきた。

「で、やることって何。ウチがやること? それともアンタ?」
「両方だ」

 掠れた声が出る。声帯のチューニングすらも面倒くさくて、僕はそのままの声で続ける。
 話が進むほどに、手駒の眉間に深いしわが刻まれていった。まるで見たこともない数式を前にした時のように。そして理解を諦めた彼女は、感情剥き出しの言葉を僕に投げる。

「それ、本気で言ってるんならそろぼちヤバいよ。頭おかしい」
「いいから、やれ」

 財布から抜いた五千円を叩き付けて、出来るだけ威圧的に睨みつける。
 手駒はそれを一瞥しただけで、受け取りもせずに鼻を鳴らした。

「……そんなほっといても死にそうな顔した奴に凄まれてもね」

 鼻で嗤われて、初めて僕は自分の頬に触れた。
 ざらついた肌の感触が返ってくる。
 彼女は何も受け取らないまま、部屋を出ていく。

「弟はかわいいだろう?」

 僕の口から飛び出すありきたりな言葉は、思いもかけず縋るような音色をしていた。

「そりゃかわいいけど?」
「君はもう少し利口だと思ってたけどね」

 咳払いをしても、この口から生まれる言葉の響きはすべて情けなかった。中身のない空っぽの器を弾いたみたいに、ぼんやりとワンルームに響いて消えていく。
 駒の少女はもう一度冷たく笑ったあと、僕に中指を立てた。

「アンタが苦しむことなら、金なんてもらわなくても喜んでやるっての」

 少女はそのまま部屋を出た。
 僕はしばらく呆気にとられてからその背を追う。
 数時間ぶりに仰いだ空には入道雲が泳いでいて、その遠くからは暗い雲が滲み出していた。
 手駒は常に僕の十メートル以上前を歩き、防犯カメラのある道は別々のルートに別れた。途中で何度も逃げられた場合を想定したけれど、どの対策を考えても最終的には諦めるように思考を放棄した。
 どのみちの半分はすでに達成しているから、ここで手駒に逃げられてしまっても問題はない。むしろ「狂った化物」とでも思われている方が動きやすいのかもしれない。
 けれど彼女は、僕を裏切らなかった。

「すいませんお巡りさ~ん、ここのマンションって、どう行けばいいかわかります~?」

 彼女は交番前で仕事をしていた警官に声をかけて、注意を引く。
 今のところ、計画は万事順調に進んでいる。僕は何気なく彼女らの前を通り過ぎて、駐輪場に入るスロープのフェンスを登る。そこは交番の裏口に繋がっている。
 もちろん僕の行動は、監視カメラがずっと記録していた。
 僕は敢えてカメラに映るようにポケットから石を取り出して、それを裏口の窓に叩きつける。日常の割れる音があるとしたら、交番のガラスを割る音なんてのは間違いなくそれに当たるだろう。
 砕け散った破片が散らばる音が僕の気を昂らせていく。それは初めて刃物を人に突き付けた時よりも強く、引き返せなくなった甘い絶望を連れてくる。
 手駒が少しだけ離れた所に誘導したのか、それとも雑踏に紛れて聞こえなかったのか、警官が飛んでくる様子はない。警報が鳴ることもなかった。
 踏み込んではいけない境界を探って、敢えてその一歩先に土足で踏み込む緊張感。首筋を伝った汗の冷たさで鼓動を抑えて、交番内に侵入する。

「これだ」

 目当ての物は施錠されていないロッカーにあった。
 それはちっぽけで、けれど一度手にしてしまえば、今度こそ引き返すことは出来なくなるような代物だ。
 けれど僕は迷わなかった。
 盗んだものを服の中に隠して、ガラスを割った裏口から外に出る。すぐに路地裏に入って、遠回りもせずに帰宅した。
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