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彼女の世界に近づくために
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疲労に構っている暇はなかった。
心ばかりが先走って、体は引きずられるように走っていた。
長い夕暮れの先に見えた星は、降り始めた雨のように小さく僕を見下ろしている。
駒から聞き出した住所には、小さなアパートが人目をはばかるように建っていた。
近所には寂れたコインランドリーがあって、一階の家にだけ庭がある。教えられた部屋番号を探して二階に上がると、紙に手書きで「紫合」と記された粗末な表札があった。叔母の名義で借りた家に住んでいるから、情報に間違いはないらしい。
僕は大きく夏を吸い込んで、どこかの家の蚊取り線香の匂いで満ちた肺をゆっくりと萎ませる。
それからインターホンを押した。間抜けなベルの音がぼんやりとヒグラシの中に響いて、一拍の後《のち》に沈黙へと帰っていく。
「氷雨、いるか?」
返事も、人の気配すらない。
室内に物音はない。二度目のチャイムを押しても状況は変わらなかった。
試しにドアノブに手をかけると、すっとレバーが降りる。鍵が開いている。
「入るぞ」
ゆっくりと扉を開く。
何日も閉じ切っていたのか、薄暗い部屋で停滞していた熱が頬を撫でる。くぐもった蝉時雨が、行き場をなくした夏を哀れんでいるみたいだった。
氷雨の姿はない。
あるものと言えば必要最低限の家具くらいのものだ。
女子高校生の部屋だと言うよりも、ここはモデルルームなのだとでも説明された方が納得がいく。けれど無機質な部屋の中で、一つだけ高校生らしいものがあった。
僕は「整理帳」とだけ書かれたそのノートを手に取る。
一九九七年の三月から始まったそのノートは、氷雨茉宵の人生を整理した日記だった。
彼女は弟と父の三人で生活していた。母親は弟を生んですぐに家を出たらしい。
幸いにも父親は優しかった。しかし二人の幼い子供を一人で育てる苦労で壊れてゆき、次第に酒と暴力に逃避するようになっていった。
普段の父親に優しさがあろうとなかろうと、子供と言う小さな世界の住民にとって、父親は世界を支える根幹だ。氷雨や一つ歳下の弟はその世界から放り出されないよう、必死で父に甘えた。
彼等に反抗や逃走と言った、住む世界を変えるような選択肢はなかったのだ。
「むごいな」
口を突いて出た言葉が、かつての僕にも突き刺さる。
虐待を受ける子供というのは、みんな同じ習性で行動している。温かい所で育った子供たちはそれを異常なことのように捉えがちだが、その実僕らの正常性は彼らのそれと何も変わらない。
暴力のない環境で育った彼らが無償の愛を親に返すのと同じように、僕らもまたそれぞれの親に無償の愛を注いだだけだ。
氷雨がその他の子供にない異常性を発揮したのは、一九九八年の夏のことだった。
《その日から、父は暴力をふるうたびに空咳をするようになった》
それは回を重ねるごとに悪化し、血が混じった咳をするようになり、やがて倒れて入院した。
氷雨とその弟は、肉親がいなくなった世界を恐れるように父を見舞った。
程なくして退院した父は別人になっていた。
一緒に遊園地に出掛け、ソフトクリームを食べ、おもちゃを買い与える。これまでの乱暴を静かに詫びるように、暴力もなく二人の子供を愛した。
氷雨はその時、初めて父を「怖い」と思った。
心ばかりが先走って、体は引きずられるように走っていた。
長い夕暮れの先に見えた星は、降り始めた雨のように小さく僕を見下ろしている。
駒から聞き出した住所には、小さなアパートが人目をはばかるように建っていた。
近所には寂れたコインランドリーがあって、一階の家にだけ庭がある。教えられた部屋番号を探して二階に上がると、紙に手書きで「紫合」と記された粗末な表札があった。叔母の名義で借りた家に住んでいるから、情報に間違いはないらしい。
僕は大きく夏を吸い込んで、どこかの家の蚊取り線香の匂いで満ちた肺をゆっくりと萎ませる。
それからインターホンを押した。間抜けなベルの音がぼんやりとヒグラシの中に響いて、一拍の後《のち》に沈黙へと帰っていく。
「氷雨、いるか?」
返事も、人の気配すらない。
室内に物音はない。二度目のチャイムを押しても状況は変わらなかった。
試しにドアノブに手をかけると、すっとレバーが降りる。鍵が開いている。
「入るぞ」
ゆっくりと扉を開く。
何日も閉じ切っていたのか、薄暗い部屋で停滞していた熱が頬を撫でる。くぐもった蝉時雨が、行き場をなくした夏を哀れんでいるみたいだった。
氷雨の姿はない。
あるものと言えば必要最低限の家具くらいのものだ。
女子高校生の部屋だと言うよりも、ここはモデルルームなのだとでも説明された方が納得がいく。けれど無機質な部屋の中で、一つだけ高校生らしいものがあった。
僕は「整理帳」とだけ書かれたそのノートを手に取る。
一九九七年の三月から始まったそのノートは、氷雨茉宵の人生を整理した日記だった。
彼女は弟と父の三人で生活していた。母親は弟を生んですぐに家を出たらしい。
幸いにも父親は優しかった。しかし二人の幼い子供を一人で育てる苦労で壊れてゆき、次第に酒と暴力に逃避するようになっていった。
普段の父親に優しさがあろうとなかろうと、子供と言う小さな世界の住民にとって、父親は世界を支える根幹だ。氷雨や一つ歳下の弟はその世界から放り出されないよう、必死で父に甘えた。
彼等に反抗や逃走と言った、住む世界を変えるような選択肢はなかったのだ。
「むごいな」
口を突いて出た言葉が、かつての僕にも突き刺さる。
虐待を受ける子供というのは、みんな同じ習性で行動している。温かい所で育った子供たちはそれを異常なことのように捉えがちだが、その実僕らの正常性は彼らのそれと何も変わらない。
暴力のない環境で育った彼らが無償の愛を親に返すのと同じように、僕らもまたそれぞれの親に無償の愛を注いだだけだ。
氷雨がその他の子供にない異常性を発揮したのは、一九九八年の夏のことだった。
《その日から、父は暴力をふるうたびに空咳をするようになった》
それは回を重ねるごとに悪化し、血が混じった咳をするようになり、やがて倒れて入院した。
氷雨とその弟は、肉親がいなくなった世界を恐れるように父を見舞った。
程なくして退院した父は別人になっていた。
一緒に遊園地に出掛け、ソフトクリームを食べ、おもちゃを買い与える。これまでの乱暴を静かに詫びるように、暴力もなく二人の子供を愛した。
氷雨はその時、初めて父を「怖い」と思った。
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